『紙の爆弾』2023年7月号に寄せて 『紙の爆弾』編集長 中川志大

サーロー節子氏が「失敗」「原爆犠牲者を冒涜している」と批判した5月のG7サミット。広島の地と市民を存分に政治利用し、さらにゼレンスキー来日効果もあって岸田文雄政権の支持率を押し上げました。その直後の岸田長男・翔太郎氏の「官邸忘年会」スキャンダルで支持率上昇は帳消しとなったとはいえ、被爆地・広島で行なわれたG7をマスコミが「成功」と報じ、多くの国民がそれを鵜呑みにすることが、岸田軍拡を大きく後押しすることになります。同時に、中国の脅威も煽り、米国の核を日本に配備する下準備もさらに進むことに。自衛隊の敵基地攻撃能力保有に加え、同志国軍事支援「OSA」が紛争の可能性をさらに高めてもいます。

 
6月7日発売! 月刊『紙の爆弾』2023年7月号

まず、その状況を正確に伝える報道が皆無であることが問題で、そうである限り、この流れをどう食い止めるかといったことは、論じようがありません。そんな現状にあって、今月号では憲法について、小西洋之参院議員にインタビューを行ないました。小西氏は3月2日に、安倍晋三内閣が、放送法が規定する「政治的公平」の解釈改変を試みていたことを示す総務省の内部文書=安倍政権の言論統制の証拠を公表するも、衆議院の憲法審査会について「毎週開催はサルのやること」との発言が問題視され、参院憲法審の筆頭幹事を更迭。総務省が認めた文書を「ねつ造発言」と言い放った自民党・高市早苗元総務相は経済安保相として政権に居座っています。そんな小西氏が、改憲派による壊憲戦略である、憲法審の「毎週開催」の問題を具体的に解説しつつ、その策動を止める戦略を明かしています。また、これもマスコミは大きく報じませんでしたが、3月17日に総務省は高市氏らの放送法解釈改変を全面撤回しています。ならば安倍解釈改憲も撤回させることは可能。そもそも解釈改憲が、嘘と曲解によってなされたものであり、撤回しなければならないものだということを、本誌で明かしています。

とはいえ、「騙され改憲」が現実化する可能性は否定できず、政治における闘いがすべてと言えないのもまた現状です。6月号で電通の洗脳利用を採り上げたAIやChat GPTを挙げるまでもなく、自分の意思や思考に基づき生きることが、意識しなければ難しくなっているような気もしています。5月30日には研究団体「Center for AI Safety(CAIS)」が、AIによる人類絶滅のリスクに対する声明を発表、当のAI関連企業CEOをはじめ数百人に及ぶ専門家らが署名するなか、日本の能天気なAI信奉ぶりは、まるで日本国内がAI実験場にされているように見えます。さらにアップルの「AirTag」をはじめ、スマホを自動的に相互監視させる仕組みも、すでに社会に投入されています。警察庁に「サイバー特別捜査隊」が発足して1年以上経過したなか、警察と自衛隊を動員した国家による「ネット監視体制」についても7月号で解説しています。

ほか、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)「合同結婚式」現地ルポ、企業の「マスク・ハラスメント」など、7月号も盛りだくさんの内容です。『紙の爆弾』は全国書店で発売中です。ご一読をよろしくお願いいたします。

『紙の爆弾』編集長 中川志大

最新刊! 月刊『紙の爆弾』2023年7月号

LGBTのダークサイドを語る〈1〉トランス女性は女性ですか?[上]森 奈津子

LGBTがらみの人権問題に関心がある方なら、一度は「トランス女性は女性です」というフレーズをネットでご覧になったことがあるだろう。実際、ツイッターでは、現在確認できるかぎりでは2018年末から「#トランス女性は女性です」というハッシュタグが盛んに使われている。

 
2023年6月現在で確認できる、ハッシュタグ「#トランス女性は女性です」を使った最古のツイートは、2018年12月30日のもの

これは文字通り、「トランス女性は女性なので、女性として扱いましょう」という意味だ。ところで、今さらではあるが、「トランス女性(トランスジェンダー女性)」とは一体、どんな女性を指すのだろうか?

いまだに多くの人が、トランス女性を「男性として生まれたが、自分の身体の性別に耐えがたい違和感をいだきつづけ、性同一性障害と診断された後に性別適合手術を受け、体も戸籍上も女性になった人」と解釈しているように見受けられる。しかし、それは、LGBT活動家とその支持者が誘導する事実誤認に見事にはめられた結果だ。

事実は、以下の通り。

①性同一性障害の診断を受けていなくてもトランス女性
②性別適合手術どころか女性ホルモン投与すら受けていなくてもトランス女性
③戸籍上は男性でもトランス女性

そもそも、「トランスジェンダー」とはアンブレラターム(傘言葉)に分類される表現だ。聞き慣れない言葉だが、アンブレラタームとは、「ある共通点が存在するいくつもの言葉を傘のようにおおう表現」と説明される。

ゆえに、上記①②③の状態のような方々でも、「私の性自認は女性」と主張すれば、トランス女性になれる。なにしろ、「私の性自認は女性」と自己申告すること自体が、男性から女性へのトランスなのだから。

トランスジェンダー女性というアンブレラタームには、「私の性自認は女性」と自己申告しただけの身体男性から、性別適合手術を受けて戸籍も女性に変更した方までが含まれる。

ネットで「トランスジェンダー アンブレラターム」で画像検索すると、秀逸な傘の絵がいくつかヒットするが、ここでは、自作の図を「ご自由にお使いください」と公開してくださっている、千石杏香氏作のものをご紹介したい。

 
「トランスジェンダー」はアンブレラターム(図作成・千石杏香)

「トランスジェンダー」という傘の下には、「女装家」「男装家」や「女っぽい男」「男っぽい女」まで含まれている。そのような方々はホルモン投与や手術を受けてはいないどころか、性同一性障害との診断も出てはいないし、そのような自認もない。

「MtF(男から女)」「FtM(女から男)」は一般的に性同一性障害(トランスセクシュアル)を指すが、ぶっちゃけ、「私の心は女」と自称する身体男性、あるいは反対に「私の心は男」と自称する身体女性でも、そのカテゴリーに入る。自称なので、それが真実なのか偽りなのかは、第三者にはわからない。

「Xジェンダー」は女でもなく男でもないという性自認。実は、私は厳密にはこれに相当し、幼い頃から自分は女ではないという感覚が強かったが、とりわけ声高に宣言する必要は感じてはいない。

「性分化疾患(俗に言う『両性具有』)」に関しては、「トランスジェンダーの範囲に入れるな。私たちは男か女、どちらかである」と主張する当事者も多く、「両性具有」という表現も拒絶する人が多数だ。

「第三の性」は性分化疾患を表現する言葉ではあったが、今では身体の性だけではなく性自認(心の性)も含む。

以上のことから、筋肉ムキムキの大柄なヒゲ男であっても、「私の性自認は女」と主張するだけで、トランス女性になれるということが、おわかりいただけたかと思う。

実際、海外では、性別適合手術も女性ホルモン投与もせず、ヒゲ面に派手な化粧をした「トランス女性」が大勢いる。

主に欧米では、体は男性でも「私の性自認は女性」と主張すれば、法的に女性になれる(この制度を『セルフID制』という)国々がいくつもあるし、そんな彼らを「男」と呼ぶのは差別だ。下手すると、ヘイトスピーチで逮捕されたり、社会的に抹殺されたりもする。

ここで、実際のヒゲあり男性器ありのトランス女性の画像をご紹介しよう。

[左]イギリスのトランス女性活動家アレックス・ドラモンド。ヒゲあり。[右]こちらもヒゲのトランス女性。胸毛もペニスもある
[左]TikTokで自分語りをするヒゲのトランス女性。こんなビジュアルの方でも「おっさん」と呼ぶのはトランス女性差別とされる。[右]ブライダル雑誌のモデルにもなったインドのトランス女性活動家。体毛もヒゲもご立派

……ヒゲがない分、懐かしのドリフターズの女装のほうが女らしいと言えはしないか?

こんな人たちが堂々と女子トイレを使い、時には女湯に入り(米国の『Wi Spa事件』が有名)、出ていってくれと抗議の声をあげた女性たちを「トランス女性差別」認定して、オラついているのだから、大問題だ。

そして、日本でも、以前よりこの問題はちらほら浮上しているのである。

Wi Spa事件(No!セルフID  女性の人権と安全を求める会)

(つづく)

▼森 奈津子(もり・なつこ)
作家。1966年東京生。立教大学法学部卒。1990年代よりバイセクシュアルであることを公言し、同性愛をテーマにSFや官能小説、ファンタジー、ホラー等を執筆。
ツイッターアカウント:@MORI_Natsuko

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』 最寄りの書店でお買い求めください

森奈津子編『人権と利権 「多様性」と排他性』
amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5GCZM7G/

ジャニー喜多川による未成年性虐待問題に蠢く人たち ── 20年遅れで報じて恥じないマスメディアのご都合主義と、大学院生リンチ事件加害者側人脈の政治利用主義 鹿砦社代表 松岡利康

『ジャニーズ帝国崩壊』とは四半世紀も前に鹿砦社が出版した書籍のタイトルである(本多圭・著、1997年)。本年3月に放映された英国BBC放送が制作したドキュメント『PREDATOR』以降、まさに堰を切ったかのように、ジャニー喜多川による性加害の証言、批判、そしてジャニーが創設し、今やわが国屈指の芸能プロダクション・ジャニーズ事務所に対する批判が溢れ返っている。ここ半世紀余り権勢を誇ったジャニーズ帝国が、今まさに「崩壊」するかのようである。

 
在りし日のジャニー喜多川

わが鹿砦社は1995年、『SMAP大研究』出版差し止め以降、対抗上、告発系、スキャンダル系の出版物を陸続と世に送ってきた。『週刊文春』がジュニアの告白を中心にキャンペーンを張る以前からであるが、私たち以前にも北公次・著『光るGENJIへ』はじめジャニー喜多川未成年性加害について多数の告発本を出した「データハウス」を嚆矢としつつも、同社はしばらくしてジャニー告発系の出版をやめている(これは同社の名誉のために付言しておくが、決してジャニーズ事務所などからの圧力や懐柔があったからではない)。ここでも何冊かの企画・製作に関わったとする人物らが、『SMAP大研究』出版差し止めに対し裁判闘争に打って出た鹿砦社に企画を持ち込んできた。

以降鹿砦社は、平本純也『ジャニーズのすべて』(全3巻)、原吾一『二丁目のジャニーズ』(全3巻)、本多圭『ジャニーズ帝国崩壊』、豊川誕『ひとりぼっちの旅立ち』、鹿砦社編集部『ジャニーズの欲望──アイドル資本主義の戦略と構造』『ジャニーズの憂鬱──アイドル帝国の危機』『ジャニーズの躓き──壊れ始めた少年愛ビジネス』、伊藤彩子『ジャニーズ・プロファイリング──犯罪心理捜査』などが文春のキャンペーンまでに出版し、ささやかながら世に警鐘を鳴らし続けた。

この間に、社会的に大きな話題となった、いわゆる「おっかけマップ」シリーズがあり、このシリーズのうち『ジャニーズ・ゴールドマップ』(事前差し止めのため未刊)、『ジャニーズおっかけマップ・スペシャル』が出版差し止めとなり、最高裁まで争われた。むしろ、こちらのほうは大きく報じられたが、告発系の書籍のほうは、私たちの広報力不足のため、残念ながら、さほど話題にはならなかった。

そうして、対ジャニーズ訴訟がほぼ収束するのを前後して文春のキャンペーンと訴訟が始まったのである。

今、これらの書籍を、あらためて紐解くと、当時の、そして今に至る私たちの“奇妙な情熱”が想起される。その後も細々ながら告発系、スキャンダル系の出版を続けてきた。いまだ集計していないが、数十点にものぼる。その中の一つ『ジャニーズの憂鬱』では関連会社まで調査していて、現ジャニーズ事務所代表取締役・藤島ジュリー景子は、98年の時点で、このうち4社で取締役に就き、「ジャニーズ・エンタテイメント」では代表取締役を務めていることが、あらためて判った。

文春告発以前の鹿砦社のジャニーズ告発本の一部。左から平本純也『ジャニーズのすべて』(1996年)、本多圭『ジャニーズ帝国崩壊』(1997年)、伊藤彩子『ジャニーズ・プロファイリング ── 犯罪心理捜査』(1999年)
若き日の藤島ジュリー景子(右)と、古参の幹部ながら藤島メリー泰子から放逐された飯島三智(みち)

そうした調査、取材、編集、出版の経験により、メディアの中心・東京から遠く離れ、現在のマスメディアの狂騒状態を冷静かつ客観的に見てくると、今では違和感を覚えるし、マスメディアのご都合主義には呆れ果てる。当時は一切といっていいほど(『噂の眞相』や、その後告発に踏み切った文春など一部を除いて)全く無視した。それでいて、今頃になって「猫も杓子も」状態である。私たちの警鐘を無視し、未成年性的虐待を放置してきた大手メディアの責任は重大であり、取材・編集・製作に関わった記者・スタッフらの矜持こそが、まずもって強く問われるのではないだろうか?

ところで、ジュリー社長の動画での「謝罪」の翌々日の朝日新聞は社説で「ジャニーズ謝罪 これで幕引き許されぬ」と激しく批判している。いわく、
「多くの未成年が長期にわたって重大な人権侵害にさらされていた可能性のある深刻な事態である。広く大衆を相手に影響力の大きい事業を手がけてきたジャニーズ事務所には、ひときわ重い社会的責任が課せられていることを改めて自覚すべきだ。」

同 5月16日掲載「社説」

うむうむ、なるほど。文春の告発キャンペーンと訴訟、それに至る私たち、データハウス、『噂の眞相』などの相次ぐスキャンダル暴露や告発──朝日(及びマスメディア)は、これらに真摯に耳を傾けて来たのか!? 「ひときわ重い社会的責任が課せられていることを改めて自覚すべき」なのは、20年も放置してきた朝日新聞(及びマスメディア)だ。文春裁判でジャニー喜多川による未成年性加害が明らかにされながら(文春や小なりと雖も鹿砦社らわずかなメディア以外に)放置していた間にも性加害がなされていたことへの「ひときわ重い社会的責任が課せられていることを改めて自覚すべきだ」。今になって、あたかも知りませんでした、初めて知りましたなどというような姿勢こそ、まずは改めるべきだ。「これで幕引き許されぬ」!? この言葉は、ジャニーズ事務所と共に朝日新聞(及びマスメディア)に鋭く問われている。

◆「PENLIGHTジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」なる団体の正体と政治利用主義を断罪する!

ジャニー喜多川による未成年性虐待と事務所追及がメディアで沸騰しつつあるさなか、「PENLIGHTジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」なる正体不明の団体が突如現われ署名活動を開始した。記者会見に登場した「ジャニオタ」と称する2人、単なる素人のジャニーズファンではできそうにもない手際の良さ、賛同人に名を連ねた“いつもの人たち”などから、純然たるファンによる団体ではなく、なんらかの政治的目的、つまり政治利用主義に基づくものである匂いがする。記者会見に出た2人については、すでに氏素性が判明しジャニーズファンでないことも明らかになっている。


◎[参考動画]ジャニーズファン記者会見"ファンやめずに…"/1.6万人抗議署名に事務所が返答(2023年5月12日)

賛同人に名を連ねた人たち、仁藤夢乃、北原みのり、李信恵、辛淑玉らの名を見るだけでも、なんらかの政治的目的があることが判る。

仁藤夢乃は、この問題に関わるより前にColabo問題(つまりいまだにすっきりしない公金の使途についてもっときちんとすべきだ)に真摯に向き合うべきだし、北原みのりは草津温泉の冤罪事件や大学院生リンチ事件などに謝罪、釈明すべきだろう。李信恵は大学院生リンチ事件の大阪高裁判決で判示された、リンチに連座した「道義的責任」について責を果たすべきだし、この姉貴分の辛淑玉も大学院生リンチ事件に対して血の通った人間としての誠実な対応が待たれる。こうしたことなくして、いくら死んだ人間の責任や事務所の対応を批判してもダメである。

「PENLIGHTジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」の賛同人

それから、素朴な疑問として、仁藤夢乃のグループがこぞって、「PENLIGHT」に名を連ね関わっているのはなぜだろうか? 彼女ら4人が、これまでジャニーズ問題について言及したか? なにかしら邪な目論見を感じざるをえない。例えば、彼女らの要求の一つに「第三者委員会の設置」があるが、あわよくば自分らがその委員に収まろうとでもしているのか、といった邪推さえ浮かんでくる。

私たちは上記したように四半世紀に渡りジャニー喜多川の未成年性虐待、ジャニーズ事務所の諸問題などについて、一冊一冊は小さな部数だが、こつこつと多くの書籍、雑誌で言及、批判してきた。この誇りぐらいはある。バカはバカなりに四半世紀も続けてくれば、それなりに得る所はあろうというものだ。(松岡利康)

【追記】
5月26日、ジャニーズ事務所は再犯防止のために社外取締役を任命すると共に「心のケア相談窓口」の設置を発表した。後者のメンバーに林眞琴弁護士(元検事総長)がいる。この林弁護士は、Colabo理事でもある奥田知志牧師が理事長を務めるNPO法人「抱樸(ほうぼく)」が運営する「希望のまちプロジェクト」の「応援団」に名を連ねている。繋がっている!

PENLIGHTが第三者委員会に入り込もうとしているのではないかとの話もあながち馬鹿にできないようだ。なにやら信憑性が出てきたような感がある。注視していく必要がありそうだ。

◎[関連記事]

《急報!》明日3・7、英BBCが、ジャニー喜多川の性的児童虐待問題を放映! 鹿砦社が先鞭を切って暴露したジャニーズ・スキャンダルが遂に全世界に発信!
 
ジャニー喜多川未成年性虐待問題はどうなっておるのか?

20年遅れのジャニー喜多川未成年性虐待報道に違和感あり!

月刊『紙の爆弾』2023年6月号

わかりやすい!科学の最前線〈09〉大気中の生物デブリ捕集装置を用いた病害微生物の検出 安江 博

これまで、クマなど、哺乳類由来の大気中の生物デブリについて述べてきました。そして、クマのデブリの解析では、空気中のデブリの量を数値化できるようにしたこともお伝えしました。この結果を応用して、空気中の病害微生物の量も捕捉可能ではないかと考えました。そこで、今、問題となっている鳥インフルエンザについて考察してみたいと思います。

◆鳥インフルエンザウィルスの捕捉

鳥インフルエンザは、現在、我が国のみならず世界の鶏舎で猛威を振るっています。鳥インフルエンザは、鳥インフルエンザウィルスによって引き起こされる鳥の感染症です。農林水産省のサイト(サイト1)に、「鳥インフルエンザは、A型インフルエンザウイルスが引き起こす鳥の病気です。鳥に感染するA型インフルエンザウイルスをまとめて鳥インフルエンザウイルスといいます。これを、家畜伝染病予防法では、家きん(ニワトリ、七面鳥等)に対する病原性やウイルスの型によって、「高病原性鳥インフルエンザ」、「低病原性鳥インフルエンザ」などに分類しています。家きんで高病原性鳥インフルエンザが発生すると、その多くが死んでしまいます。一方、低病原性鳥インフルエンザの発生では、「症状が出ない場合もあれば、咳や粗い呼吸などの軽い呼吸器症状が出たり産卵率が下がったりする場合もあります。」と記載されています。そのため、鳥インフルエンザが発生した養鶏場では、感染拡大を阻止するため、そこで飼育されているニワトリすべてを殺処分します。2022/23年シーズンは、10月末に岡山県倉敷市、北海道厚真町で確認されて以降、23県で57事例が発生。1シーズンの殺処分数としては過去最多だった2020年度の987万羽を超え、1月10日時点で1008万羽となっています(サイト2)。

その結果、物価の優等生と言われてきた鶏卵も価格高止まり状態が続いており、我々の家計には大きな負担となっています。

そのうえ、1997年香港において、当時、生きた鳥を売買している市場で流行していた高病原性の鳥インフルエンザA(H5N1)ウイルスが、ヒトに伝播し感染者が18人確認され、そのうち6人が死亡した (サイト3)例があり、今年2023年にもカンボジアで少女が死亡、その父親も感染しました。

このように、人間に対する病原性にも注意が必要です[図6.1]。

[図6.1]

インフルエンザウイルスはエンベロープ(外套膜)(直径80-120nm)に覆われた球形のウイルスで、粒子内部には直接メッセンジャーRNA(mRNA)とはならない8 分節したRNA、及びA、B、Cの型を担う核タンパク(NP)、並びに膜タンパク(M1)などを持っています[図6.2](サイト3)。RNAは、8個の分節からなっており、その全体の長さは約13キロ塩基です(サイト4)。感染経路は、感染した渡り鳥の糞、体液が大気中に拡散し、浮遊物となって、鶏舎等に侵入し、鶏舎内のニワトリに感染が広がると思われます。

[図6.2]

もし、我々が使っている大気中の生物デブリ捕集システムを使って、ウイルスの存在・量を解析すると仮定したなら、先ず、集めた大気中の生物デブリからRNAを抽出します。この場合、抽出したRNAをすぐに鋳型として解析することはできないので、コロナウイルスの場合と同様に、一旦RNAリバーストランスクリプテースと呼ばれる酵素を用いて、DNAに変換しその後、PCR法で解析することになります。以前は2ステップ法、つまり試験管操作が二回必要でしたが、2006年に一回の試験管操作で、ウイルスRNAをDNAに変換し、そのままPCRを進めて、その解析結果の取得まで行える方法が開発されました。

これにより、サンプル以外のRNA、DNA(例えば操作をするヒト由来とか)などの混入 (コンタミネーション)が起こる可能性も低く抑えることが出来ました。この時同時に、この解析に必要なプイラマーセットも作製されました(論文1)。

ワンステップ逆転写 (RT)-PCR システム と 高病原性の鳥インフルエンザA(H5N1)ウイルス特異的プライマー (フォワードプライマー:5′-ACTATGAAGAATTGAAACACCT-3′ および逆プライマー:5′-GCAATGAAATTTCCATTACTCTC-3’)を用いて解析する方法です。この方法では、高病原性の鳥インフルエンザA(H5N1)ウイルスが特異的に検出されています[図6.3]。

[図6.3]

現在、我々は、実際に解析したデータは持ち合わせていませんが、近い将来、捕集した大気中の生物デブリを用いて、高病原性の鳥インフルエンザA(H5N1)ウイルスの検出にトライしてみる予定です。トライした結果が出ましたら、改めてご報告したいと思います。

野外からの鳥インフルエンザウィルス感染阻止の対策として、現在私が考える方法は、コロナウイルス感染防止で医療者が使用しているマスクのN95フィルター、或いはさらに、目の細かい、我々が生物デブリの捕集に使用しているHEPAフィルターを使って、鶏舎に入る外気をろ過して清浄化し、かつ、出入りや隙間を防ぐ目的で鶏舎内を陽圧に保つことです。しかし、それにかかる費用は高いと思われ、畜産農業生産に見合うかどうかは難しいところです。

サイト1 https://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/tori/know.html
サイト2 https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01560/
サイト3 https://www.cas.go.jp/jp/influenza/backnumber/kako_11.html
サイト4 https://www.ncbi.nlm.nih.gov/data-hub/taxonomy/11320/
論文1 Specific detection of H5N1 avian influenza A virus in field specimens by a one-step RT-PCR assay. Lisa FP Ng, Ian Barr, Tung Nguyen, Suriani Mohd Noor, Rosemary Sok-Pin Tan, Lora V Agathe, Sanjay Gupta, Hassuzana Khalil, Thanh Long To, Sharifah Syed Hassan and Ee-Chee Ren. BMC Infectious Diseases2006, 6:40

◎安江 博 わかりやすい!科学の最前線
〈01〉生き物の根幹にある核酸
〈02〉ヒトのゲノム解析分析の進歩
〈03〉DNAがもたらす光と影[1]
〈04〉DNAがもたらす光と影[2]
〈05〉生物種の生存圏
〈06〉大気中の生物デブリ捕集装置を用いたアルゼンチンアリの生存圏の解析 静岡市にはまだアルゼンチンアリが生息していた!
〈07〉大気中の生物デブリ捕集装置を用いた、ドブネズミ(ラット属)の生存圏の解析 この環境にドブネズミはいるのか、いないのか?
〈08〉大気中の生物デブリ捕集装置を用いた、クマ(クマ科)の生存圏の解析
〈09〉大気中の生物デブリ捕集装置を用いた病害微生物の検出

▼安江 博(やすえ・ひろし)
1949年、大阪生まれ。大阪大学理学研究科博士課程修了(理学博士)。農林水産省・厚生労働省に技官として勤務、愛知県がんセンター主任研究員、農業生物資源研究所、成育医療センターへ出向。フランス(パリINRA)米国(ミネソタ州立大)駐在。筑波大学(農林学系)助教授、同大学(医療系一消化器外科)非常勤講師等を経て、現在(株)つくば遺伝子研究所所長。著書に『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』(鹿砦社)等

安江博『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846314359/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000686
四六判/カバー装 本文128ページ/オールカラー/定価1,650円(税込)

格闘群雄伝〈31〉酒寄晃 ── 繊細な心と拳で頂点に君臨した強面レジェンド! 堀田春樹

◆渡邊ジム初のチャンピオン

酒寄晃は1953年(昭和28年)4月、茨城県出身。第4代、第8代全日本バンタム級チャンピオン、第7代全日本フェザー級チャンピオン。現在も続く名門・渡邉ジム最初のチャンピオンとして、キックボクシング界黄金期から斜陽化時代に、強面でパワフルにKOを狙う負けん気の強さでチャンピオンの座に長く君臨した。

1972年(昭和47年)4月、19歳でデビューした酒寄晃は、元々プロボクシングの経験があったが、芽が出ずキックボクシングに転向してきた経緯があった。新人時代は伸び悩んだりジムから遠ざかったりと周囲から期待も小さかったが、それまでの下積みが基盤となって徐々に実力開花していった。

1974年11月6日に茨城県水戸市での全日本バンタム級王座挑戦では、所属する渡邊ジムが一丸となって酒寄晃をバックアップ。ジム設立5年目にして初のチャンピオン誕生を目指していた。そして俊善村正(烏山)をパンチで4ラウンドKOして王座獲得。当時の全日本・協同プロモーション系は日本テレビ系で放送されていた時代。現在と違い希少価値あるチャンピオンの名は全国に轟く効果があった。そんな全盛期、毎月の試合も志願した酒寄晃だったが、誰もが通る試練もやって来た。

◆スランプから開花

1975年7月7日、茨城県笠間市で俊善村正との再戦に薄氷の引分け初防衛したが、1976年4月24日、茨城県下館市で渡辺己吉(弘栄)に4ラウンドKO負けで王座陥落。

1977年6月17日、日本武道館で渡辺己吉と再び王座決定戦を争うが、判定負けで返り咲き成らずも、渡辺己吉の引退で1978年2月10日、酒寄晃は王座決定戦で隼壮史(栄光)に2ラウンドKO勝利して王座返り咲き(以後・後楽園ホール)。減量苦もあったが、スランプを脱したその勢いで同年7月22日、全日本フェザー級王座決定戦で、花井岩(雷電)に判定勝利して二階級制覇。第7代全日本フェザー級チャンピオンとなる。バンタム級王座は返上。

酒寄晃が更に自信を深めたのは1979年9月、タイの二大殿堂ジュニアライト級元・チャンピオンで、長江国政や藤原敏男も下している上位ランカーだったビラチャート・ソンデンをパンチでKOしたことだった。

渡邉信久会長も後に、「酒寄はごく普通の入門生で、気は強そうだったがムラッ気があって成長に時間が掛かったが、こんなに強くなるとは思わなかった。」と語るほどだった。

とにかくブン殴れば倒れない相手はいないと自信を深め、KOを狙う試合が増えていった。

翼五郎(東洋パブリック)、金沢竜司(金沢)、佐藤正広(早川)、少白竜(萩原)、甲斐栄二(仙台青葉)らを退けた中、1981年元日の挑戦者だった、当時まだ18歳の現・レフェリーの少白竜氏は、

「50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの酒寄さんはとにかく強かった。パンチ躱すのが速く、違うところから素早く蹴られ、重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」と恐怖?体験を語る。全日本フェザー級王座は5度防衛に達したが、当時はキックボクシング界が低迷期に入り、1981年は業界分裂・新団体設立が始まった年だった。

◆頂上決戦

1982年1月4日、日本プロキック・フェザー級王座決定戦で、玉城荒次郎(横須賀中央)に4ラウンドKO勝利で新王座獲得。

1982年7月、日本ナックモエ・フェザー級王座決定戦で、佐藤正広(早川)に判定勝利して新王座獲得。

細分化していく業界だったが、酒寄晃は分裂の度に王座決定戦を制し、常に頂点に君臨。現在のような、戦わずにチャンピオン認定など行わない正当な制度だった。
その実力を証明する1983年3月の1000万円争奪オープントーナメント56kg級決勝7回戦は事実上の日本フェザー級頂上決戦の構図となり、年齢もデビュー時期も近く、同時代を生きつつも戦うことは難しかった日本系(旧TBS系)で成長して来た松本聖(目黒)と拳を交えた。

初回、酒寄が先にフラッシュダウンはするものの、逆にパンチで三度のノックダウンを奪いながら、第2ラウンド以降、松本のパンチとローキックで酒寄はリズムを徐々に崩し、セコンドからの「お前の方がパンチ強えんだからパンチで行け!」という声も、解っているけど当たらない、もどかしい表情で松本に向かうが、歴史に残る名勝負となる激戦を残しながら5ラウンド逆転KO負けを喫した。松本よりパンチも蹴りも、打たれ強さも兼ね備えていながら敗れたのは、「慢心から来るものだった」と深く反省したという。

強いパンチと蹴りで松本聖を苦しめたがKOには繋げず(1983.3.19)
松本聖のローキックに苦しめられたのは酒寄晃(1983.3.19)
酒寄晃のパンチは重かった。第1Rには圧倒したが……(1983.3.19)
気が強い酒寄晃、心機一転、甲斐栄二戦に臨む(1983.9.10)
本領発揮、右ハイキックで甲斐栄二を苦しめる(1983.9.10)
強打者同士、鼻血を流したのは甲斐栄二(1983.9.10)
まだまだ全盛期、引退の陰りは無かったが……(1983.9.10)

◆昭和のレジェンド

その後、日本統一王座を決する計画が進められ、松本聖との再戦が浮上したが、組織の細分化は再集結には難しい不運な時期だったこともあり、統一戦は実現に至らず、1984年夏、長年のライバルの佐藤正広(早川)にKO勝利した試合をラストファイトとして引退を決意。

同年の1984年11月、業界が急好転し期待された4団体統合の日本キックボクシング連盟設立で、酒寄晃の再度の活躍が期待されたが、すでに31歳。長年の激戦からくる故障もあってモチベーションを高めるには至らなかったようだ。同門の新鋭・渡辺明がタイトルを争うまでに成長して来た影響もあっただろう。

そして翌年の6月7日、盛大に引退式を行ないリングを去った。

[写真左]引退セレモニーでの御挨拶、風貌に似合わず優しい口調で感謝の言葉を述べられた(1985.6.7)/[右]テンカウントゴングに送られる酒寄晃、13年の現役生活だった(1985.6.7)
 
引退興行の当日プログラムはポスターとともにインパクトがあった(1985.6.7)

強面顔の酒寄晃は、近寄り難いタイプながら仲間内では明るく振る舞うムードメーカー的だったとも言われ、渡邉会長の厳しい指導もあっただろうが、「性格は繊細でジムでも練習道具は整理整頓し、試合で使用するバンテージも鮮やかなほどキレイに巻いていた。」と言われるほど几帳面だった。

引退後は若い職人を従えての内装建築業を営み、その繊細な心で事業を展開していた様子。

「引退当時はジムによく来ていたよ。」という渡邊会長も、事業が忙しくなった様子で後には姿は現さなくなったという。「今は何しているのかなあ!」という古い時代の渡辺ジム関係者達である。

全日本系列では歴史上、藤原敏男、大沢昇、島三雄、岡尾国光、長江国政、猪狩元秀といった名チャンピオンが名を連ねる中、後に分裂で道は分かれたものの、酒寄晃は昭和の名チャンピオンに並ぶレジェンドだったと言えるだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

「冤罪被害者」袴田巌さんの無実の訴えを退けた存命の裁判官たちに公開質問〈02〉2018年に再審を取り消した東京高裁の裁判官・菊池則明氏(現在は新潟家裁所長) 片岡 健

国民の大多数から「無実なのに死刑囚にされた冤罪被害者」と認識されている袴田巌さんの再審がついに行われることになった。袴田さんは1966年の逮捕から現在まで57年にわたり、殺人犯の汚名を着せられてきたが、無事に再審が行われれば、無罪判決を受けることは確実だとみられている。

このような状況の中、過去に袴田さんに対し、無実の訴えを退ける判決や決定を下した裁判官たちはどのような思いで、どのように過ごしているのだろうか。当連載では、該当する裁判官たちの中から存命であることが確認できた人たちに対し、公開質問を行っていく。

2人目は菊池則明氏。2018年6月11日、その4年前に静岡地裁(村山浩昭裁判長、大村陽一裁判官、満田智彦裁判官)が認めた袴田さんの再審を取り消す決定を出した東京高裁(裁判長は大島隆明氏)の裁判官の一人だ。

現在は新潟家裁の所長をしている菊池則明氏(裁判所のwebサイトより)

◆「菊池氏の略歴」と「菊池氏への質問」

菊池氏は1959年5月13日生まれ、茨城県出身。大島裁判長らと共に袴田さんの再審を取り消す決定を出した約10か月後の2019年4月1日に千葉家裁に異動し、2021年9月20日から新潟家裁の所長を務めている。

なお、裁判所のウェブサイト上の新潟家裁のページでは、菊池氏が同家裁の所長として以下のような挨拶をしている。

家庭裁判所は、令和元年に70周年を迎えました。発足から現在までの間に社会経済状況は著しく変化し、家族形態の変容、個人の権利意識の高揚、少子高齢化の進行等を背景に家族内紛争の様相も大きく変わっています。また、件数こそ減少傾向にあるとはいうものの、少年の非行問題は複雑化し、より困難な事例も後を絶ちません。このような諸問題に取り組み、家庭内の紛争や悩みを解決し、未来を担う少年の健全育成をはかるという家庭裁判所の役割に対する国民の皆さんのご期待はますます高まっているといえましょう。

新潟家庭裁判所が、このような皆さまのご期待に十分応えることで信頼を寄せていただけるような存在になりますよう、所長として精一杯力を尽くしていきたいと考えています。よろしくお願い申し上げます。

そんな菊池氏に対しては、以下のような質問を書面にまとめ、郵便切手84円分を貼付した返信用の封筒を同封のうえ、新潟家裁に特定記録郵便で郵送し、取材を申し込んだ。回答が届けば、紹介したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【質問1】

袴田巌さんは再審が決まり、無罪判決を受けることが確実な状況となりました。菊池様はこの状況をどのように受け止めておられますか?

【質問2】

裁判所のwebサイト上の新潟家裁のページでは、菊池様が同家裁の所長として以下のような挨拶をされています。

〈家庭裁判所は、令和元年に70周年を迎えました。発足から現在までの間に社会経済状況は著しく変化し、家族形態の変容、個人の権利意識の高揚、少子高齢化の進行等を背景に家族内紛争の様相も大きく変わっています。また、件数こそ減少傾向にあるとはいうものの、少年の非行問題は複雑化し、より困難な事例も後を絶ちません。このような諸問題に取り組み、家庭内の紛争や悩みを解決し、未来を担う少年の健全育成をはかるという家庭裁判所の役割に対する国民の皆さんのご期待はますます高まっているといえましょう。

新潟家庭裁判所が、このような皆さまのご期待に十分応えることで信頼を寄せていただけるような存在になりますよう、所長として精一杯力を尽くしていきたいと考えています。よろしくお願い申し上げます。〉

菊池様は、袴田さんの再審を取り消した決定について、国民の期待に十分応える決定だと思われますか? また、東京高裁がこの決定により国民から信頼を寄せられる存在になったと思われますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※菊池氏の生年月日と出身地、異動履歴は『司法大観 平成十九年版』と『新日本法規WEBサイト』の情報を参考にした。

《6月20日追記》

6月20日午前9時26分頃、新潟家庭裁判所事務局総務課の課長補佐・信田英樹氏から筆者のスマートフォンに電話があり、以下のような回答を伝えられた。

「先日文書でご依頼のあった当所・菊池所長への取材には、応じられません。同封頂いた返信用の封筒については、後日、郵便でお返し致します」

筆者は新潟家裁ではなく、菊池氏に取材を申し込んだのだが、信田氏によると、この回答は「新潟家裁としての回答になります」とのこと。そのため、信田氏に対し、「菊池氏には確認していないということか」「そもそも、菊池氏は筆者の取材依頼の文書を見たのか」などと質したが、信田氏の回答は「これ以上の詳細についてはお答えできません」だった。

そこで、「これ以上の詳細を答えられない理由については説明できないか」とも聞いてみたが、信田氏は「そちらについてもお答えはできません」と回答した。

菊池氏については、追加取材をすることを検討している。(片岡 健)

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

《6月のことば》人生 旅の途中 夢の中 鹿砦社代表 松岡利康

《6月のことば》人生 旅の途中 夢の中(鹿砦社カレンダー2023より。龍一郎揮毫)

6月になりました。── 時の経つのは速いです。今年も5カ月が過ぎました。GWが明けてからも、あっというまに6月になりました。

短期間でもこの調子ですが、物心がついて1960年代、70年代、80年代、90年代……あっというまでした。

齢70を過ぎ、私の人生も黄昏期に入ったと感じていましたが、龍一郎が言うように、まだまだ「人生旅の途中」の気持ちで、初発の「夢」を求め果たして行きたいと思います。

まずはコロナ禍でガタガタになった会社を建て直し(かなり回復基調)、まだまだ果たせていない仕事をやり切りたい。

コロナ禍で2年遅れましたが、当面は2年後の『紙の爆弾』創刊─出版弾圧20周年を一里塚として目指し失地回復に努めます。

「人生」という「旅の途中」にはこれまでいろいろなことがありました。これからもひと山、ふた山、み山あるかと思いますが、「夢」を求め続けて行きたいと思う昨今です。

(松岡利康)

月刊『紙の爆弾』2023年6月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2023年春号(NO NUKES voice改題)

ロックと革命 in 京都 1964-1970〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」 若林盛亮

◆ウェスカー‘68

菫(すみれ)ちゃんとの再会は、偶然とはいえ五里霧中にあった「革命家の卵」にはとても幸運な出会いになった。

「Bちゃんはアホやなあ」! と“True Colors” 「あなたの本当の色は美しい」を歌ってくれる「俳優の卵」菫ちゃん。

彼女と過ごす時間、それは互いの志や夢が凍(こご)えないよう「卵」を温め合う孵化促進の時間、「卵同士」のとても大切な恋時間になった。

「アホやなぁ」に背中を押され、また1968年という熱い政治の季節が秋頃にはさらに熱気を加える幸運もあって、「戦後日本の革命」に向かって私は前に進むことができた。

 
“ウェスカー‘68”のポスター

その年の10・21国際反戦デー闘争は、東京では社学同による防衛庁突入闘争や騒乱罪の適用された新宿駅一帯の群衆を巻き込んだ学生、市民一体の大衆的暴動として、関西では大規模な御堂筋デモとしてますます闘いの火に油を注ぐものになっていった。もちろん私は御堂筋デモの中にいた。

この頃になると「しゃんくれ」で知り合った立命社学同系学生ら政治の話ができる仲間ができた。でもいかんせん彼らは他大学の学生、私は組織のない根無し草に変わりはなかった。

東大、日大全共闘の闘いは全学バリケード封鎖に向かい「バリケード封鎖維持か解除か」を巡り日大では刃物や凶器を持った体育会系右翼学生との暴力的衝突、東大では組織をあげての共産党系民青解除派との闘いを同伴しながら闘争は激烈化していた。学生たち自身の創造物である東大、日大闘争の行方は他人事とは思えなかった。私は居ても起ってもおれない気持ちで推移を見守っていた。でも当事者でもない私は傍観するしかなく、ましてやまだ「革命家の卵」の私にはどうしようもなかった。

「卵からの孵化」は菫ちゃんのほうが早かった。

「スミレの花咲く頃」は多くの少女達がスターを夢見る宝塚歌劇団の歌だが、「菫ちゃんの花」は晩秋の演劇イヴェント“ウェスカー‘68”で大きく花咲いた。この舞台で「いい役に抜擢されるのが目標」と言っていた菫ちゃん、彼女は見事に目標達成、大役を射止めた。

それは東大、日大闘争も天王山を迎えた時期、彼女にとっては演劇人生の天王山、10月下旬から11月中旬にかけての頃のお話し。

“ウェスカー‘68”-それは労働者階級出身という英国劇作家、アーノルド・ウェスカーを招いて日本の主要都市で行われたウェスカー作品の演劇と作家を交えたシンポジウムが同時に行われる演劇イヴェント、東京では新宿紀伊国屋ホールでやるというビッグイヴェントだった。そんな晴れ舞台に菫ちゃんは立つことになった。

菫ちゃんからチケットをもらった、「観に来てね、きっとだよ」!-「ゼッタイ行くよ」! 

まるで自分が出演するみたいにはやる胸を押さえながら私は彼女の舞台を観にいった。四条通りをちょっと入った所、たしか大丸百貨店関連のけっこう大きな劇場だった。演劇もウェスカーという劇作家もよくわからない私は、へえ~、こんな大舞台に菫ちゃんが出るんやと正直、驚いた。

 
スミレの花咲く頃

演目はA.ウェスカーの左翼色の強い代表作「大麦入りのチキンスープ」、そして題名は忘れたが併演のもう一本。彼女は「大麦入りの……」では端役、でも併演の舞台で主人公の恋人役に抜擢された。

併演のその作品は、ドイツの若い兵士が軍を脱走し恋人と森に逃げ込むという反戦劇だった。

脱走兵士と森の逃避行を共にする恋人役を演じる菫ちゃん、舞台の彼女はまるで別人だった。

軍規を破って脱走という国家反逆行為に及んだ恋人とあえて行動を共にする、そんな恋する強いドイツ娘になりきる菫ちゃん、私は劇の進行よりもそのドイツ娘だけを見ていた。

兵営脱走に伴う苛酷な運命を恋人と共にするドイツ娘、苦境の恋人を愛おしむ切ない感情や恋人の決断を支える強い意志、また葛藤、それらをセリフの言いまわしとちょっとした身の仕草など自然体で表現する、その菫ちゃんの演技はまるで波乱の純愛渦中のドイツ娘が目の前にいるよう、舞台のドイツ娘に愛おしささえ覚えた。

「ゼッタイ舞台女優になる」! と言っていた菫ちゃん、なるほどこういうことだったのかと少しわかった気がした。

演劇後のシンポジウムでは菫ちゃんはマイクを持って会場の声を拾う大任もこなした。これにも私は驚かされた。劇団は彼女にシンポジウムでも重要な役割を与えたのだ。晴れの舞台を終え、生き生きと会場からの様々な意見を拾っていくスーツ姿の菫ちゃんはほんとうに輝いていた。演劇論のよくわからない私だったけれど、それがとてもカッコよくて我が事のように晴れがましかった……スゴイよ、菫ちゃん!

「卵からの孵化」では私より一歩前に出た菫ちゃん。「あなたの色はきっと輝く」、それを実際の形で私に見せてくれたのだ。そんな彼女に私はちょっと嫉妬した。

この日から彼女は私の「よきライバル」になった。菫ちゃんには負けられない! そう思った。

◆東大安田講堂籠城を求められて

「よきライバル」に刺激をもらった“ウェスカー‘68”からほどなくして私は、11月22-23日にかけて東大安田講堂前での日大、東大闘争勝利全国学生総決起集会に誘われたわけでもないのに同志社赤ヘル学生らと共に上京、参加した。どうしても自分の身を東大、日大の闘いの現場に置きたかった、身体がうずいて仕方なかった。それまでのデモ参加とは違う、自分でも抑えられない衝動に突き動かされた。

名目は集会だったが実質的にはバリ解除派の民青系学生らとの対決示威だった。私もそれを意識した。対する相手も黄色のヘルメットにゲバ棒で武装した実力部隊が結集、でも小競り合いはあったけれど全面的衝突には至らなかった。

しかしながら安田講堂前で開かれた総決起集会、日本全国から結集した赤、白、青、緑のヘルメット学生が党派を超えて一堂に会し講堂前広場を埋め尽くすその光景は壮観だった。これだけの学生が全国で闘っているのだ、自分たちがこの日本を変える! そんな熱い志の大きな塊みたいなものを実感した。その中に自分がいることが誇らしかった。

私はといえばいまだに誰からも誘われない一志願兵だったが、そんなことは問題じゃない。京都から常に行動を共にした同志社の赤ヘル学生たち、特に文連サークル系の学生の中には顔馴染みもできた。彼らは観光研、広告研といった文化サークルの学生、プロ活動家ではないが一応は学友会傘下組織の一員だ。個人で来ている私を向こうは変な長髪4回生だなと思ったかもしれない。でもそんなことはかまわない。みんなで闘うこと、勝利することが重要、その中に自分がいればそれでいい。

東大闘争は年末から年始にかけ「入試実施か中止か」を巡って大紛糾の末、明けて‘69年1月14日「入試実施のため機動隊導入も辞さず」と加藤総長代行が言明、これに対抗し1月15日には“全国労農学総決起集会”が安田講堂前で持たれ、17日に加藤代行はついに「機動隊出動を要請」、18-19日にかけての安田講堂バリケード死守戦へと事態は進む。

私は前年11月の時のように当然のごとく“全国労農学総決起集会”参加のため同志社赤ヘル部隊と一緒に上京した。

総決起集会後の事態の展開は、バリ封鎖解除に導入される機動隊との激突、攻防戦になることはわかっていたが、地方からの支援学生は集会参加だけでまさか安田講堂に立てこもることになるとは考えもしなかった。しかし17日夜になって地方からの支援学生にも安田講堂死守戦参加を求められた。それは逮捕が前提の籠城戦、しかも騒乱罪適用の10・21闘争の弾圧ぶりから起訴、長期拘留が予想されると説明を受けた。

各自の決心が問われた。政治に転進して以来、私の志が最も試された時だった。

誰からも指図を受ける立場にない私だったが、私には籠城戦参加以外の選択肢はなかった。もちろん躊躇がなかったといえば嘘になる、でも逮捕、投獄の不安よりも東大のバリケード死守の闘いに身を置くことの方が私にはもっと大切なことだった。

そしてたぶん、「菫ちゃんに負けてたまるか」魂も作用したと思う。“True Colors”を歌ってくれる恩人を裏切るような真似はしたくない! そんな気持ちもあったのは確かだ。

一夜明けるとやはり人数は減っていた。でも同志社からの学生は10人ほどが残った。それも観光研、広告研など政治と無縁の文化サークル所属の学生が多かった。「上等じゃないか」! と思った。

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)

◆自己犠牲という花は美しい

安田講堂籠城戦のことを書くと単なる武勇伝になりかねないのでそれは控える。ただ私の心に響いた一場面だけには触れたいと思う。

我々の世代の歴史を語ること、正しく伝える必要があると思うからだ。

我々は全共闘世代と一括りに言われるが、多くは過激派、極左、暴力分子など否定的な評価、それには「連合赤軍事件」や「内ゲバ殺人」による印象の悪さもあるが、私たちの闘いの未熟さ不十分さにも要因があるのは事実だ。「愛することと信じることはちがう」と水谷が歌ったのもその辺のことを言ったのだろう。だから当事者の多くは語れない、語ろうとしない。

でも全国であれだけの学生、無名の若者が立ち上がったこと、青春の熱気、正義感に満ちていたこと、それも事実なのだ。逮捕起訴、長期拘留覚悟の安田講堂籠城戦にあれだけ多くの若者が残ったのも「大義に殉じる志」があったからだ。そんな同世代の良心を私は信じたい。だから、その一端だけでも当事者として語っておきたいと思う。

 
東大安田講堂死守戦

当時の安田講堂籠城戦で胸を熱くした体験が一つある。

私たち同志社の学生は講堂ホールに昇る階段を受け持った。機動隊が階段を上ってきたら劇薬を投げ、鉄球状の小さな球ころを階段に撒く役目だったが一日目は何もすることがなかった。そこで二日目、私は勝手に持ち場を離れ、バルコニーに出て闘う東京の赤ヘル学生達の持ち場に行ってみた。そこは「激しい戦場」だった。

地上からの高圧放水をベニヤ板で防ぎながらレンガ、コンクリート片や火炎瓶を投げる、頭上のヘリコプターからは催涙液がバルコニーに向かって散布される。みんなはずぶ濡れだ。そんな中でまだ高校生のような童顔の学生が機動隊に向かって叫んでいた。

「お前らは金のためにやってるんだろ! 俺たちは違うぞっ」

私はエライ単純な論理やな~と思ったが、なぜか心に響いた。それがあの時の私たちの心情を単純明快に表現してくれてる言葉だったからだ。

あのバルコニーでの闘いは、まさにそれだった。

1月の冬の身を切るような寒風にさらされながら放水を浴びれば全身ずぶぬれ、ふだんなら誰もそんな目には遭いたくはない。交代時には部屋に小さな石油ストーブがあって束の間の暖をとれた。みんなぶるぶる震えている。口がガチガチ震えて声も出せない。でも服が乾く間もなくリーダーの「次ぎっ」という指示でバルコニーに飛び出る。私も経験したが、いったん暖をとったらお終いだ。また水を浴びに寒風の外に出るというのはかなりの決心がいる。登山で疲れて重たいリュックを降ろし座り込めば、もう立ち上がれなくなる、あれと同じだ。ジャンパーからまだ湯気が立っている状態で放水の待つ外に出ていくのは簡単じゃない。あの時、誰かがリーダーに「もうイヤだ、アンタが行けばいいだろ!」と言ったら誰も立ち上がれなかったかもしれない。

でも誰もそんなことは言わなかった。「次ぎっ」の指示に黙々と従って、躊躇なくバルコニーに出ていった。些細なことかもしれないが、あれは間違いもなく「大義に殉じる自己犠牲」だった。それが誰の心にもあったのだと思う。

大義に殉じる自己犠牲、「自己犠牲という花は美しい」! 私はそのことをあの現場で体験し、実感できた。個々人は豪傑でも英雄でもないひ弱な人間かもしれない、でも個々の志が一つの塊になったとき、皆が英雄になる、美しい花になる!

私が今日までこの道を続けて来られたのもこの時の体験は決して小さくない、そう思っている。同世代のために、このことだけは語っておきたい。(つづく)

東大安田講堂死守戦(1969年1月24日付け『戦旗』より)


〈08〉“ウェスカー‘68”「スミレの花咲く頃」→東大安田講堂死守戦「自己犠牲という花は美しい」

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

故・後河内麻季先生の労災認定を却下! 広島地裁「権力忖度」判決の常習犯 吉岡茂之裁判長の不当判決 さとうしゅういち

◆裁判長遅刻の挙句の不当判決

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」

5月16日(火)13時12分頃、吉岡茂之裁判長による不当判決の代読をした男性裁判長の声が広島地裁201号法廷に響き渡り、傍聴に来ていた筆者らは茫然としました。

判決は本来13時10分から言い渡しの予定でしたが、所定の時間になっても裁判長は現れず、筆者らがじらされていると、書記官が慌てて、裁判長席の後ろのドアを開けて裁判長らを呼びに行きました。そして、遅れて現れた挙句に不当判決。余計にがっくりきました。

 

◆軽く扱われた非正規労働者の命

広島の私立の高校・広島国際学院高校の英語科非常勤教師だった後河内麻季先生は、精神疾患を発症して自死に至りました。

採用されてからは任期3年間という有期雇用契約でした。しかし、いつまでも非正規というわけではなく、それ以上契約を延長する場合は、いわゆる正規雇用(期間の定めのない雇用)にすることが期待される状況でした。そして、3年の期限がくる前年の秋には「来年もよろしく」と声がかかっていました。しかし、期限が来ても非正規のままで、しかも自分よりも後輩が先に正規になるという有様でした。仕事ぶりもご両親から見ても大変熱心でした。

しかし、正規教員になかなかなれない、また、周囲の先生方からのパワハラなどもあって、自死に追い込まれました。

また、後河内先生が亡くなられた翌日、同僚の先生が花束を後河内先生の机に手向けたら、校長がすごい剣幕で激怒したそうです。

「次に来る人が困るじゃないか」

というのです。亡くなってすぐに、次の人が来るはずもありませんから、周囲の先生方も「校長はおかしくなったか?!」と思ったそうです。

非正規労働者を弔うのがご法度。そういう異常な雰囲気だったのです。

もちろん、ご両親などの遺族が、労働災害の認定を求めました。しかし、国は、学校経営者側の主張を丸呑みする形で精神疾患と業務との関連性を認めず、認定を却下。ご両親がその却下処分の取り消し=労災認定を求めて国を提訴していました。

◆原告の訴えに正面から答えず、国の主張なぞるだけの薄っぺらな判決文

この日の判決の判決文は、弁護人の佐藤真奈美先生によると20ページと、この手の裁判では異例の薄さだったそうです。要は、原告の主張には正面から応答せず、国の主張をなぞるだけ、というものだったのです。

この日、ご両親は勝つつもりで麻季先生の遺影を持ち込まれていました。ご両親は今後ともご支援をお願いしたいと頭を下げられました。

裁判後の交流会でも、筆者も含めて、今後ともご両親を支援していくことを申し合わせました。

筆者からは、筆者がかつて大阪府内で非正規の行政関係の労働者の雇止め裁判を支援した経験をご紹介・地裁では不当判決だったが、2007年ごろから人格権侵害が認められるようになる流れが勃興し、人格権侵害の主張により、2010年の高裁では逆転勝訴、2011年最高裁で勝訴確定しており、あきらめずに支えていきたいという思いを申し上げました。

◆原発、産廃……「権力忖度」の常習犯 吉岡茂之裁判長

今回の裁判を担当した吉岡茂之裁判長は、実は、「行政に忖度した」判決や決定が目立つ裁判官です。

2017年3月31日、筆者ら「伊方原発広島裁判」の原告が四国電力伊方原発3号機の運転差し止めを求めた仮処分申請を吉岡茂之裁判長は却下しました。原告が高裁に抗告すると、高裁は、阿曾山大噴火により伊方原発に危険が及ぶ可能性があるなどとして、運転差し止めをいったんは認めたのです。

その後、被告・四国電力側から異議が申し立てられてしまいました。そうした中で、原告側も再度仮処分申請を申し立てました。しかし、2021年11月4日、またまた、吉岡茂之裁判長により、阻まれてしまいました。この決定は、被告の四国電力に十分な安全性の立証を求めずに、住民側に、伊方原発の地盤特性などを比較するよう求めるものでした。戦後最悪ともいえる不当決定でした。(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=41158

そして、三原の産廃処分場問題でも吉岡茂之裁判長が登場します。2022年6月30日に広島地裁は、いったん認められていた産廃処分場差止の仮処分への業者による異議申し立てを認めてしまったのです。この時の裁判長が吉岡茂之さんです。「住民が利用する井戸まで有害物質が含まれる水が到達する可能性があると認めるに足りる資料がない」という理屈でした。環境問題におけるいわゆる予防原則を無視する暴論でした。

◆重要な論点含む訴訟、引き続き支援したい

ただ、逆に言えば、吉岡裁判長の決定は、高裁によって覆った例もあります。あきらめてはいけません。

この裁判が問うている精神疾患の労災認定はあまりにも労働者に厳しい運用のままです。かつては、心臓脳血管疾患についても厳しい運用でしたが、労働者側の運動で改善させています。引き続き、取り組んでいきたい。

また、日本・広島の学校現場が公立・私立問わず、あまりにも労働者、ことに非正規労働者である先生方を使い捨てる状態が続いています。最近では文科省もようやく重い腰を挙げつつありますが、実効性は上がっていません。人を育てる学校こそ人を大事にしてほしい。そうした声も粘り強く上げ続けたいものです。

この判決があった5月16日は、この判決の直後、河井案里さんの腹心だった県議・渡辺典子被告人の公選法違反(被買収)事件の裁判の初公判もありました。

金権腐敗政治を糺す市民団体(写真)の皆様も裁判所にお見えになっていました。筆者からも、後河内先生の裁判があることをお知らせし、市民団体の皆様にも一緒に連帯して傍聴いただきました。

広島県民の皆様にもぜひともこの裁判にご注目いただき、ともに声を上げていただきたく伏してお願い申し上げる次第です。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
◎Twitter @hiroseto https://twitter.com/hiroseto?s=20
◎facebook https://www.facebook.com/satoh.shuichi
◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

月刊『紙の爆弾』2023年6月号
『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

横浜副流煙事件「反訴」、平田晃史裁判官に対する忌避申立で中断 黒薮哲哉

横浜副流煙事件が、原告による忌避(きひ)申立で中断している。忌避申立とは、裁判官が公平中立に裁判を進行させない場合、裁判官の交代を求める法手続きである。

既報してきたように横浜副流煙事件は、煙草の副流煙による健康被害をめぐり、同じマンションに住む住民同士が、横浜地裁を舞台に繰り広げている事件である。発端は2017年11月。Aさん一家(夫、妻、娘)は、下階に住む藤井将登さんに対して、副流煙で健康被害を受けたとして4518万円の支払いを求める裁判を起こした。警察もこの住民トラブルに介入した。

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

しかし、横浜地裁はAさん一家の訴えを棄却した。Aさん一家の体調不良の原因が、将登さんの煙草の煙に因果するという証拠がないのが棄却理由である。Aさんは東京高裁に控訴したが、高裁も訴えを棄却した。

将登さんと妻の藤井敦子さんは、勝訴が確定した後、Aさん一家と裁判に積極的に関与した日本禁煙学会の作田学理事長に対して、不当な裁判提起により経済的・精神的な苦痛を受けたとして、約1000万円の支払を求める裁判を起こした。俗に言う反スラップ訴訟で、現在、横浜地裁で審理が続いている。

ちなみに将登さんが煙草を吸っていた場所は、自宅の音楽室である。ベランダで煙草を吸っていたわけではない。音楽室は防音のために二重窓になっており、煙は外部へはもれない。しかも、1日の喫煙量は、2、3本程度である。

◆尋問に耐えうる客観的な証拠

この裁判を担当しているのは、平田晃史裁判官である。裁判は順調に進み、2023年2月には、作田医師と藤井敦子さんに対する尋問が行われた。当初、平田裁判官は、A夫も尋問の対象にする予定だった。ところがA夫の代理人である山田義雄弁護士が、A夫の体調不良を理由に尋問の免除を申し出た。

これに対して平田裁判官は、A夫の出廷が困難であることを立証する診断書を提出するように命じた。しかし、山田弁護士は診断書を提出しなかった。その理由を、「車椅子で生活している」とか、「家の中で這うように生活している」などと説明した。医療機関を受診できる状態ではないという。山田弁護士が提出したのは障害者手帳だった。平田裁判官は、事情を理解してA夫を尋問の対象から外した。

そこで藤井敦子さんは、山田弁護士の説明の信ぴょう性を確かめるために、「張込み」を行った。自家用車の中に身を潜めて、A夫を待った。そしてビデオカメラにA夫が歩いている場面を撮影したのである。

古川弁護しは、敦子さんが撮影した動画を平田裁判官に提出して、A夫の尋問を行うように求めた。しかし、平田裁判長は、尋問を実施しなかった。

忌避申立の理由は、平田裁判長がA夫の尋問を行わないという判断をするにあたり、A夫に対して客観的な証拠の提出をあくまでも求め続けなかったことである。尋問を実施しなかったことではない。

忌避申立の理由は次の通りである。

忌避申立書(本画像をクリックすると全文のPDFにリンクします)

しかし、横浜地裁は5月22日に、忌避申立を棄却した。これを受けて、藤井さんは、異議を申し立てる。裁判は中断して、現時点では再開の目途は立っていない。

◆裁判の公平性の欠落

ちなみに前訴の中で、A夫に約25年の喫煙歴があったことが判明している。それを知っていながら、隣人の副流煙で健康被害を受けたとして、藤井将登さんに対して4518万円を請求したのである。つまりA夫は、能動喫煙で体調を崩した可能性が高いことを知りながら、その責任を将登さんに押し付けたのである。

A夫に対する尋問を免除するのは、著しく公平性に欠ける。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)
黒薮哲哉『新聞と公権力の暗部 「押し紙」問題とメディアコントロール』