携帯電話を初めて肉眼で見たのは、1986年に父親が肩からラジカセのようなマシンをぶら下げて、仕事で重そうに使っていた時だ。もの珍しそうに見ていると、父親から「通信料金が高いから少しだけにしろ」と言われて、ためしに友人にかけてみたが、途切れ途切れでまったく会話にならない。
携帯電話には今「出なくてはならない」という、暗黙のルールがあるような気がしてならない。とくに私のようなフリーの立場となると「電話に出ない」ということは、「クライアントがつぎに電話をかけて出る人に仕事が行く」ということだ。
あらゆるフリーランスは「携帯に出ない」という場合、仕事を失う可能性が広がると考えたほうがいい。

ここ数年、マスコミ上やインターネット上で「検察神話」とか「特捜神話」なるものが崩壊したという話をしている人をよく見かけるようになった。なんでも、「巨悪を退治する正義の味方」という検察全般、もしくは検察特捜部に対する従来のイメージは、実はマスコミが作り上げた虚像だったという。そして、その虚像が大阪地検特捜部のフロッピーディスク改竄事件や陸山会事件での虚偽捜査報告書作成問題をはじめとする相次ぐ検察不祥事により崩壊してしまったのだとか。
『タブーなき原発事故調書~超A級戦犯完全リスト』(鹿砦社)を、取次各社がほぼ新刊委託配本拒否を通告してきたという事実は、ネットを中心に波紋を広げている。
冤罪事件を取材していると、家族の愛情が安易に過大評価されているように感じる判決に出会うことがたまにある。