格闘群雄伝〈40〉新妻聡 ── 肉体言語を貫いた野武士[後編]堀田春樹

堀田春樹

◆日本ランカー時代

新妻聡は自らパフォーマンスはやらないが、滑稽な言動で周囲を賑わす事態は幾度か起こしていた。

注目されだしたのは、タイへ衛星中継があった1990年(平成2年)12月15日、この日は前座だったが、ビッグイベント興行だけに舞い上がってしまい、入場の際、ロープ飛び越えたら滑って尻餅付いてしまった。それが凄く恥ずかしくて、逃げて帰りたい想いで対戦者の飯塚健を早く倒そうと我武者羅に向かって、第2ラウンドでノックアウト勝利した後、すぐリングを下りて逃げるように帰ったという。なんとナイーブな(良い意味で)。恥ずかしさが新たなエネルギーとなった試合だった。

これで日本ライト級1位に上昇し、後にライト級転級狙っていた日本フェザー級チャンピオンの山崎通明(東金)と対戦したが、山崎のヒジ打ちで鼻曲げられTKO負け。レフェリーに向かって「俺の鼻は元から曲がってんだ!」と叫んだが、続行を訴えた主張は通らなかった。

新妻聡が語る印象深い試合に寺田ヒロミ(太田)との2戦があった。寺田(=格闘群雄伝第18回)が後に末期癌で入院中、新妻聡が見舞いに行った際、寺田ヒロミが「新妻さんと後楽園ホールを盛り上げた2戦は自慢だったんですよ!」と言っていたいう。

それはいずれも目黒ジム主催興行で1991年11月15日、寺田はキャラクター的に派手で腕を振り回したり、アゴを突き出して「打って来いよ!」と挑発して来る始末。しかしそれが新妻聡の闘志に火を点け、最終第5ラウンドにコンビネションブローで寺田をノックアウト。最終ラウンドに倒されたのが悔しかったか、再戦を求めて来た寺田と翌年11月13日、再びグローブを交えた。

新妻聡は「お前の手の内は分かっているぜ!」と挑発に乗らず冷静に戦い、第3ラウンドでまたもノックアウト勝利したが、寺田はウェルター級だけにパワーあってパンチ受けてクラクラしたという中でのジワジワ盛り返す新妻聡の底力が見られた2試合でもあった。

寺田ヒロミと対峙。後楽園ホールを盛り上げた両者(1992.11.13)
寺田との第2戦は冷静に戦いKO勝利した新妻聡(1992.11.13)

◆国際戦で飛躍

日本ライト級1位を長く維持する主力選手として、1993年4月24日、タイの伝説のチャンピオン、サーマート・パヤックアルン(ルンピニー系4階級制覇、国際式元・WBC世界スーパーバンタム級Champ)との対戦が実現。

計量時に「こいつカッコいいな!」と思ったという。「サーマートは脹脛が異様に太かったですね。こいつは強いはずだと思った。練習嫌いとは言われていたけど、若い頃は凄い練習やったんだろうと見える痕跡だった!」という。

試合は第1ラウンドにサーマートのバランスいい蹴りの連係から右ストレートでノックダウン取られて何が起こったか分からなかったという。これでは勝てない、行くしかないと確信。第2ラウンドも右ストレートでノックダウン奪われるも、第3ラウンド目で逆に新妻聡の右ストレートがガツンと当たるとサーマートのマウスピースが吹っ飛んだ。これでサーマートの失速が始まり、逃げられた流れで仕留めるには至らず判定負け。

サーマート戦、番狂わせも在り得た戦いだったが、サーマートは天才だった(1993.4.24)

前編でも述べたました、1994年7月16日、日本ライト級王座をハンマー松井(花澤)と争い、判定勝利で初戴冠となった後、チャンピオンとしての戦いは世界的強豪との戦いに移っていった。

同年11月、タイ国ラジャダムナン系ライト級前チャンピオン、ゲントーン・ギャットモンテープには攻勢的に判定勝ちも圧倒できない苛立ち、ムエタイ式に戦ったゲントーンは負けた気は無いだろうという一般的見方も、ムエタイのトップクラスに通用する実力を着実に身に付けていた。

日本ライト級王座は翌1995年1月にハンマー松井を再度、判定で下し初防衛後、同年10月15日、今井武士(治政館)をノックダウン奪って判定勝利で2度目の防衛。いずれも下位から上がって来たしぶといファイターだったが、経験の大きさで退けた。

国際戦ではこの年の6月2日にはオランダのKO率80%を越えるハードパンチャー、ノエル・バンデン・ファウベルに終始圧倒されながら、ラストラウンド終盤に右ストレートでグラつかせる大健闘。

ノエル・バンデン・ファウベルは強かったが、一発のヒットで逆転も在り得た(1995.6.2)

「ノエルはパンチで来ると思っていたところがローキックばかりだった!」という中の“この野郎”と言わんばかりの強打ヒット。そこで倒し切ればドラマチックだったが判定に逃げられた。しかし敗れてもただでは終らせぬ見せ場をつくる姿は、まさに野武士魂であった。

同年12月9日は飛鳥信也の引退興行でのメインイベント。強打者ダニー・スティール(米国)に手こずり仕留めるに至らぬもパンチと組み合う圧力で優って判定勝利。

◆運命の悪戯

しかし1996年2月、最も充実した頃に思わぬ分裂騒動が起こった。選手側にとっては衝撃的な事態である。当時のマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟から幾つかのジムが脱退する知らせが入った。当時も三団体には分かれていたが、現在ほどの多団体乱立、多イベントタイトル増産ではなかった。

新妻聡は新天地、日本キックボクシング協会復興の興行でエース格として、過去に先輩の飛鳥信也を二度退けているヘクター・ペーナ(米国)に挑むWKBA世界スーパーライト級タイトルマッチを迎えた。

復興記念イベント的な盛り上がりの中で、一進一退の攻防の中、ヒザ蹴りがやや低かったがヘクター・ペーナのボディーヒットもヘクター・ペーナの誤魔化し抗議で股間ファウルブロー扱い。ノックダウンだったらテンカウント聞かせていたかもしれないダメージ。

回復に時間を充分取ったペーナは巧妙な戦法で、新妻聡は最後には倒されてしまった。経験浅いレフェリー起用が悪いと主催の野口プロモーションに抗議も、「もう一回やればいいじゃないか!」と再戦を提示されたが、「簡単に言うんじゃねえよ。時間返してくれ!」という想い。パンチは強く、蹴りもよく出るヘクターペーナとは再戦しても簡単に攻略出来る相手ではなかっただろう。

ヘクター・ペーナはパンチが強かったが、新妻聡は勝てた試合を不運にも勝利を逃がした(1996.6.30)

それでも同年12月1日、名古屋で因縁のヘクター・ペーナに再挑戦。今度は誤魔化しも許さぬタイ人レフェリーが務めた。前回もヒザ蹴りが効果的だったが、今度もヒザ蹴りで勝利を導き、ノックアウトでWKBA世界スーパーライト級王座奪取した。

[左]怒涛のヒザ蹴りでヘクター・ペーナをノックアウト、WKBA世界王座奪取(1996.12.1)/[右]WKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなった新妻聡、勝負はこれからだったが(1996.12.1)

◆完全燃焼! 貫いた肉体言語

この復興した日本キックボクシング協会に移り、ヘクター・ペーナと決着戦を終えてから、団体エース格として最も注目、活躍すべき時期にWKBA世界王座の防衛戦も組まれず、いつの間にか剥奪。協会側の複雑な事情もあったが、新妻聡の激闘は見られなくなっていった。元々のMA日本キックボクシング連盟で多くのライバルと死闘を繰り返し、世界レベルと戦っていた頃が最も充実していた時期だっただろう。

試合間隔が空き気味になる中、1999年7月24日にはかつて下した今井武士に大差判定負け。次第に気力も衰えていった頃かもしれない。

試合間隔も遠ざかった頃に今井志武士に巻き返されてしまった(1999.7.24)

「強い奴としかやりたくない!」といった意向から、最強の相手とラストファイトを行なうことになった2000年7月29日、現役ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオン、ノッパデーソン・チューワタナとの対戦が組まれ、新妻聡は完全燃焼の試合に向け、半年前から走り込み調整に入っていた。

ノッパデーソンはスピード速く柔軟性ある蹴りを上下自由自在に蹴って来る。襤褸切れのように蹴られ続けた大差判定負けも倒れることなく踏ん張り、なおも向かっていく姿は最後まで肉体言語を貫いた完全燃焼だった。願わくばもっと充実したマッチメイクと名勝負をファンに観て貰いたかった現役晩年だった。

完全燃焼のノッパデーソン戦。ボロボロに蹴られても向かって行ったラストファイト(2000.7.29)

戦績 37戦22勝(11KO)13敗2分

現役引退後は文京区白山で新妻格闘塾開始したが、ビジネスの兼ね合いもあって後に撤退。

2022年には、身体が動く今だからと、キックボクシングの指導やろうとジム形態ではないが、いろいろなスポーツ施設を借りて「新妻聡キックボクシングクラブ」を始めた。

しかし2023年5月に咽頭癌を患って休止。

「指導していて腕は上がらなくなるし、仕事辞めて時間あったから検査に行ったら癌が見つかりました!」という結果、早期発見で6月に摘出し、1年間の通院。その後の経過検査も問題無かったが、病み上がりというところで現在キックボクシング指導は休業中。

今後はその再開と、将来計画される目黒一門会が開催された際には参加が期待されるだろう。

新妻格闘塾時代。撮影の為の指導を少々でしたが熱のこもる指導が伝わって来た(2006.1.12)

《格闘群雄伝》バックナンバー https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

私の故郷熊本が集中豪雨に襲われました

鹿砦社代表 松岡利康

先ごろ私の故郷熊本が集中豪雨に襲われました。テレビでも報じられているように市内の中心部を直撃しました。私の先祖代々のお寺も所在していますが、幸い無事でした。熊本地震では江戸時代からの本堂や山門など全壊する被害を受けましたが、今回は大丈夫でした。

……っと、NHKのニュースをよく観ると、知人の星原克也君の店が映っていました。星原君は地元・熊日新聞の記者でしたが、彼なりの事情で辞め数年前から熊本産の焼酎を集めた小さな店を始めました。店を開くときに、熊本に数多くの焼酎が存在することを知って驚きました。帰郷するたびに立ち寄っています。結構有名人も、その存在を知り尋ねるほどの名店になりつつありました。店が地下にあるため大被害を受けたようです。さっそく現金書留を持って郵便局に走ったのは言うまでもありません。

彼とはもう10数年前、高校の同級生の東濱弘憲君(故人)がライフワークとして始めた島唄野外イベント『琉球の風』の記録本を作る過程で知り合い、その本に名前が出てくることでピンと来た、中学の同級生・有田正博君が、若い頃一時期東濱君が開いたブティックで働いていたことを知り引き合わせてもらいました。有田君と会うのは中学を卒業(1967年)以来40年ぶりでした。有田君は、今や世界的ブランド「Paul Smith」を日本に初めて持ってきたことで知られ、一時は熊本市内で3つのビルを持つほど大儲けしました。Paul Smithさんが若くて無名の頃、アメリカの見本市で出会ったということです。本年初め、惜しまれながら店を閉じました。私の先祖代々の墓が近くに在ったことから、その後、帰郷するたびに立ち寄って会っていました。

星原君は今、不屈の根性(肥後もっこす)を持って、さっそく再開に向けて立ち上がりました。以下は最近のFBの記述です。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆

ホシハラ カツヤ
36分
·
数日に渡りテレビジョンに登場したため、多くの人に69spiritsの濡れ鼠っぷりが知れ渡りました。

https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250813-00000011

常連さん、同級生、先輩後輩、遠方からご来店いただくお客さま方。先ほどは先隣にお住まいの方からもお見舞いいただきました。いただく激励のメールや電話、励みになります。開き直ってお願いした69spirits AIDにもたくさんのご賛同いただき感謝感激です。
ありがとうございます。

復旧に向けて全力を尽くしています(休み休みですが)。盆明けに清掃の見積もり、被害総額の確定などやることは盛りだくさんなのですが、皆さまのお心遣いを糧に、来月中の再開店をめざしています。

今日も夕方から被災焼酎の頒布を行います。まったり一人でうだうだしてますので、冷やかしにどうぞ。エアコンは動いてますが、冷蔵庫や冷凍庫は水損で稼働していません。手ぶらでどうぞ。

すべての作業を終え、無事に69spiritsが再開したときに…
ありがとうございました
と、笑顔で言えるように。

(松岡利康)

梓加依・著『広島の追憶』(鹿砦社 2023年)

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈3〉ある無名教師の記録

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫、竹内護画)

祈り(龍一郎 揮毫)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。3年前に亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。

護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。

「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」

こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。

1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。

「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」

「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」

「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」

そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。

長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。

父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。

収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。

祖国への逃避行

収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」

「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」

そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」

一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。

「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」

そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。

物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」

「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」

「地獄に仏」ということでしょうか。──

収容所にて

そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。

時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。

引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。

「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」

ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。

「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」

そうして、

「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」

その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、

「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」

正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。

私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。

なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。

(松岡利康)

※本稿は昨年同月同日付けの原稿に一部加筆、修正したものです。

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

リベラシオン社・岩田吾郎さんの死を悼みます!

鹿砦社代表 松岡利康

ブント系を中心とした新左翼学生運動の資料収集のサイトで有名な「リベラシオン社」主宰・岩田吾郎さんが急逝されました。社会運動の研究者にも有名な膨大なサイトです。まだサイトはそのままになっていますので、ご関心のある方は一部でもコピーされたらいいでしょう。趣味の山歩きの途上での事故死ということですが、詳しい情報はまだ入ってきていません。岩田さんがボランティアで手伝っていた『人民新聞』の追悼記事をアップさせていただきましたので、ご一読ください。

『人民新聞』の追悼記事(2025年8月5日付)

岩田さんとは、20年余り前、『田原芳論文集プロレタリア独裁への道』を編纂・出版したいと、先輩Hさん(故人)を介して知り合い手伝いました。完成直前で私が「名誉毀損」容疑で逮捕―勾留され中断しましたが、岩田さんを中心に周囲の方が作業を継続され勾留中に完成しました。手元にある当該書には神戸拘置所の「閲読許可証」が貼られています。保釈後、出版記念会が開催され発言させられた記憶があります。この本はⅡ巻も刊行され、60年安保闘争以来全国に名を馳せた同志社の学生運動を育てた理論家・田原芳さんの貴重な記録となっています。

また、岩田さんは、勾留中の神戸拘置所まで面会に来られ、さらには公判にも毎回傍聴に来られました。その後も細く長い付き合いが続いていました。私が最初に逮捕された72年2・1学費決戦50周年の集いにもお越しいただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌

(松岡利康)

広島県知事・湯崎英彦さんは被爆80年の素晴らしい挨拶を花道にご勇退を!

さとうしゅういち

湯崎英彦広島県知事に対して2025年11月30日限りで勇退するよう勧告する署名運動

広島瀬戸内新聞は2025年7月31日、オンラインで広島県の湯崎英彦知事に対して2025年11月30日限りで勇退するよう勧告する署名運動を開始しました。右のQRコードから署名ができます。

湯崎さんが進退を決めるのが9月という説もあることからとりあえず、8月いっぱいを署名運動期間とします。

また、この署名運動に関連して、8月21日(木)11時から広島県庁県政記者クラブで筆者が記者会見を行います。ご注目ください。

「4期16年お疲れ様でした!広島県知事・湯崎英彦さんは勇退し、後進に道を譲ってください!」の署名運動の趣旨は以下です。 

広島県知事の湯崎英彦さんは2025年11月9日執行の広島県知事選挙に立候補せずに御勇退ください。

◆県外著名人も含め被爆80年の湯崎さんの8・6挨拶絶賛のいまこそご勇退の時!

さて、湯崎さんは2025年8月6日の被爆80年の平和記念式典で、素晴らしい挨拶をされました。

だからこそ、これを花道にご勇退を!と申し上げたいのです。タレントの荻野目洋子さんら、県外の著名人も湯崎さんの挨拶をほめておられます。

荻野目さんは「広島記念式典中継を見て。湯崎県知事の言葉に強い言霊があった。社会学者で、原爆についての調査をされていた父、湯崎稔さんから受け継いだ想いが含まれているのだと察する、重みあるメッセージ」と絶賛しています。

この他、「湯崎英彦広島県知事の内外で高まる「核抑止論」への全面批判のあいさつは、何よりもその内容と、時折参列者に目を上げる語り方も素晴らしかった」(県外の日本共産党支持者)など、湯崎さんを絶賛する声が広がっています。

筆者はだからこそ、湯崎さんには御勇退を!と申し上げたい。これ以上、知事を続投された場合、「本業」の県政で「ボロ」が続出し、せっかくの湯崎さんの平和メッセージの価値も損なってしまう、と危惧します。

◆当初はわくわくさせた湯崎さん

広島県知事の湯崎英彦さんは、2025年11月30日で4期16年の任期満了を迎えます。

2009年11月、湯崎さんが広島県知事に初めて当選した際、『「演説がうまいとか、プレゼンがうまいとかそういうことではない。子育てをしているお母さん、農業のおじいちゃんおばあちゃん、漁師さん……一人一人の広島県民の声を聞くことが出来る、そういう知事が求められている。」という彼の訴えに共感し、当時、中山間地や島しょ部の医療・福祉担当の広島県庁職員でもあった私(呼びかけ人)は彼に投票しました。

就任当初、湯崎さんは部下である私たち広島県庁職員に対し、『現場スタッフを局長が支え局長を知事が支える』とのお言葉を述べられ、私は胸をわくわくさせて期待していました。

当初は、湯崎さん自ら育休を取り、「共育て」へ向け、一石を投じました。私の故郷でもある福山市の鞆の浦埋め立て架橋問題では、市民との対話を通じて積年の課題に解決の道筋をつけた姿に、感銘を受けました。

◆県民・現場無視の「産廃」「病院」対応で失望へ

汚染水流出が繰り返される三原本郷産廃処分場

しかし、私はそれ以降の彼の県政運営には失望しています。

湯崎さんが知事に在任された16年間で広島県は多くの課題に直面しています。問題は、そうした中で、最近の湯崎さんがすっかり県民の声を軽視している点です。

特に三原本郷産廃処分場問題では、汚染水流出が繰り返される中、米農家を含む地元住民の声を無視しながら、問題がある産廃業者との一体化を疑わせるような行動を取っています。地裁判決を控訴し、汚染水被害を訴える住民に対して対抗する姿勢を見せました。これによって、県民と知事の間の信頼関係が大きく損なわれています。

また、県立広島病院問題における湯崎さんのアプローチも批判の的となっています。湯崎さんは同病院の独立行政法人化を進め、JR広島病院や中電病院との統合を進める巨大病院建設を推進し、「トップレベルの医療」や「断らない救急」を実現するなどと、大言壮語されています。しかし、財源確保の課題は解決されていません。周辺住民の反対の声、議会の懸念の声にも耳を傾けていません。

この県病院問題では「県立広島病院の職員の大部分は移転に断固反対しています。しかし関係者が内部から声を上げることは難しく」との公益通報を関係者からいただきました。湯崎さんが当初唱えていた「現場主義」はどこへいったのでしょうか?

県立広島病院

◆教育長問題に公益通報握りつぶし……身内びいきの弊害噴出

湯崎さんが肝いりで2018年に任命した平川理恵前教育長を巡る問題も解決していません。平川さんが進めた高校入試の「自己表現」導入は現場に混乱を招きました。また平川さんの下で起きた官製談合事件は明らかに平川さんなくして起きえない事件にも関わらず、部下の職員だけが刑事責任をかぶり、平川さんはのうのうと、東京に戻って広島での「改革」の成果を豪語されています。こうした中で教職員のモラル低下はとまらず、不祥事が相次いでいます。

西部建設局呉支所での公文書偽造事件では、本庁人事課長が、職員からの公益通報を「該当する事実はない」などと握りつぶしていました。これは公益通報者保護法違反ではないでしょうか?

「これはちょっとまずいのでは?」と声を上げた職員の意見が軽んじられる。そして、知事らが気に入った人物や県外の企業ばかりを重用する。処分すべき事案もうやむやにする。こんな体制は、県政の腐敗を象徴しています。

◆「湯崎五選」なら県政のヘドロが化石に!

湯崎さんの4期16年の長期政権のもとで、広島県政にはかくのごとく、ヘドロが溜まっています。もし、湯崎さんが5期20年在任されれば、ヘドロが今度は化石のようにこびりつき、広島は取り返しのつかないことになるのではないでしょうか?

湯崎さんの長期政権期間中に人口流出が続き、4年連続全国ワーストワンを記録し、本年6月には総人口が270万人を割ってしまいました。硬直した状態の県政をこれ以上続けて大丈夫なのか?

◆初心を忘れた湯崎さん、後進に道を!

広島県の未来を考える上で、初心をお忘れになった湯崎さんは知事職を後進に譲るべきです。広島県は新しいリーダーシップを迎え、県民の声を真正面から受け止め、県民ひとりひとりのための県政を進める必要があります。

湯崎さんには「4期16年間、お疲れさまでした」と申し上げます。その上で、湯崎さんには、新たな風を広島県にもたらすための一歩を踏み出していただきたいと願います。

署名を通じて、以下のことへの広島県民、また広島県を愛するすべての皆様のご賛同をお願いします。

・湯崎英彦さんは2025年11月9日執行予定の広島県知事選挙に立候補せず、御勇退されること。

・湯崎英彦さんをこれまで推薦・支持してこられた県内各政党におかれては、今回の県知事選挙における湯崎さんへの推薦・支持を見送ること。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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小粒ながら多彩なカードで挑んだ真夏の新日本キックMAGNUM.62!

堀田春樹

エース格の木下竜輔は欠場。トリのジョニー・オリベイラは引分けに終わる。
他、期待の新人戦とNJKF発祥の女子ミネルヴァ、アマチュア登竜門。
多彩だったが、観衆少ない寂しい興行だった。

◎MAGNUM.62 / 7月27日(日)後楽園ホール17:15~20:47
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

前日計量は26日14時より伊原ジムにて行われ、出場者全員が1回でパス。

◆第16試合 ライト級3回戦

ジョニー・オリベイラ(トーエル/ブラジル出身47歳/ 61.05kg)66戦16勝(1KO)31敗19分
       VS
NJKFライト級2位.岩橋伸太郎(エス/神奈川県出身38歳/ 60.85kg)27戦9勝14敗4分
引分け 三者三様
主審:少白竜
副審:椎名30-28. 宮沢28-30. 勝本29-29

ジョニー・オリベイラは3月2日に木下竜輔にKO負け。日本スーパーフェザー級王座陥落して以来の、ライト級に戻しての初戦。

岩橋伸太郎は4月20日にTAKUYA(K-CRONY)にノックダウンを奪って判定勝利して以来の試合。

ジョニー・オリベイラが前蹴りで岩橋伸太郎の突進をブロック

蹴りとパンチの攻防は、アグレッシブに攻める闘志は衰えない両者だが、打ち合いをしぶとく凌ぎ、どちらが優勢かという見極めは難しい展開。

岩橋伸太郎の右ミドルキックがボディーにヒットも頑丈なジョニーは怯まない

第3ラウンド半ばになると縺れ合い、組み付くパターンが多くなる消化不良の展開の末、セミファイナルに続き、ジャッジも見解が分かれる引分けとなった。

判定は見極めも分かれる三者三様の引分け

◆第15試合 女子ミネルヴァ・ペーパー級3回戦(2分制)

ペーパー級2位.AIKO(AX/埼玉県出身38歳/ 42.7kg)20戦9勝10敗1分
      VS
同級3位.Uver∞miyU(T-KIX/静岡県出身25歳/ 42.9kg)19戦6勝12敗1分
勝者:Uver∞miyU / 判定1-2
主審:中山宏美
副審:少白竜29-30. 宮沢29-30. 勝本30-27

初回、両者は蹴りの牽制。接近すれば首相撲になる展開。どちらもアグレッシブに攻めるも的確なヒットは無い。採点も分かれる見極めの難しい採点となった。

両者の手数やヒットがほぼ互角。わずかに優ったか、ウーバーの連打

◆第14試合 スーパーフェザー級3回戦

山本龍平(拳粋会宮越道場/埼玉県出身19歳/ 58.45kg)4戦2勝(1KO)2敗
      VS
翔吾(DANGER/茨城県出身28歳/ 58.7kg)4戦1勝2敗1NC
勝者:山本龍平 / KO 1ラウンド 1分41秒 /
主審:勝本剛司

パンチと蹴りのアグレッシブな攻防は山本龍平のクリーンヒットが優っていき、飛びヒザ蹴りも繰り出した。更に山本龍平の左ハイキックと翔吾の左ストレート相打ちも山本龍平のハイキックが優ってノックダウンを奪った。

立ち上がったところも左ストレートから左ハイキックで2度目のノックダウンを奪い、飛びヒザ蹴りを出したところでダメージを見たレフェリーが試合をストップ、3ノックダウンとなる展開で山本龍平がKO勝利した。

ヒットは翔吾が一瞬速かったか、でも蹴りの重さで山本龍平のヒットが優った

◆第13試合 62.0kg契約3回戦

平田康輔(平田/広島県出身18歳/ 60.2kg)3戦2勝1敗
     VS
光基(DANGER/茨城県出身23歳/ 61.6kg)2戦1勝1敗
勝者:平田康輔 / 判定3-0 (30-29. 30-29. 29-27)

パンチとローキック中心の攻防が続く中、第2ラウンド、偶然のバッティングで光基が右頬骨をカット。攻勢を掛けた平田康輔がやや攻勢を維持。ジャッジ三者が揃ったのは第2ラウンドだけで、大きな展開は無いまま終了。

一進一退の攻防。平田康輔がわずかに攻勢点を掴んだ中でのローキックヒット

◆第12試合 フライ級3回戦

トマト・バーテックス(VERTEX/徳島県出身24歳/ 50.3kg)6戦4敗2分
     VS
RIKIYA T-KIX(T-KIX/静岡県出身28歳/ 50.65kg)1戦1分
引分け 0-0 (29-29. 29-29. 29-29)

主導権を奪いに行く攻防はRIYIKAがやや攻勢も、徐々にトマト・バーテックスが巻き返した流れも決め手に欠ける展開で、引分けに終わった。ここから勝ち上がらないとランキングには入れない試練は続く。

前半はRIKIYAがやや優勢。徐々に盛り返したトマトも引分けに終わる

◆第11試合 ヘビー級2回戦

翁長リバウンドマン将健(真樹ジム糸満/沖縄県出身21歳/ 96.25kg)9戦4勝4敗1NC
       VS
直也(横須賀太賀/神奈川県出身28歳/ 119.3kg)2戦2敗
勝者:翁長リバウンドマン将健 / TKO 2ラウンド 1分29秒 /

接近戦のパンチ中心から巨漢で圧力掛ける直也に、翁長将健がフェイント掛けながら直也と距離を取り、第2ラウンドにはヒジかパンチか、直也の左瞼をカットもそのまま続行。更にパンチ連打でノックダウンを奪うと、カウント中にレフェリーストップとなった。

体格差はあったが、小刻みに動き、瞬発力で優った翁長将健が連打で勝利

◆第10試合 ウェルター級2回戦

大智(横須賀太賀/神奈川県出身24歳/ 64.45kg)1戦1敗
       VS
琉聖(平田/広島県出身18歳/ 65.4kg)1戦1勝(1KO)
勝者:琉聖 / TKO 2ラウンド 1分9秒 /

ガード無防備な大智に琉聖が攻勢を掛け、大智も躱しては向かっていく勢いはあるが、琉聖のパンチを受けると背を向けてしまう為、スタンディングダウンを奪われてしまう。なおも攻勢を掛ける琉聖で、初回は10-7を付けるジャッジも居たほど。
第2ラウンドも琉聖が圧倒し、右ストレートでスタンディングダウンを奪い、更にパンチ連打で、戦意乏しい大智は試合を止められてしまった。

ガード不完全な大智を仕留めるには時間が掛かったが、最後は連打で圧倒した琉聖

◆第9試合 女子ミネルヴァ・スーパーフライ級3回戦(2分制)

シンティア・モルティージョ(イタリア出身23歳/ 54.95kg)7戦4勝3敗
      VS      
SHIORIN(GRATINESS/愛知県出身28歳/ 54.55kg)9戦6勝1敗2分
勝者:SHIORIN / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:椎名26-30. 宮沢26-30. 勝本26-30

初回に右ストレートでノックダウン奪ったSHIORIN。その後も右ストレートヒットを見せ、前蹴りやボディブローも効果的にヒット。シンティアも蹴りとパンチで攻め返す頑張りを見せたが、SHIORINが終始優った攻勢で大差判定勝利。

シンティア(左)に右ストレートヒットしてノックダウンを奪ったSHIORIN(右)

◆第8試合 女子ミネルヴァ・スーパーフライ級3回戦(2分制)

紗耶香(格闘技スタジオBLOOM/静岡県出身/ 52.1kg)19戦7勝(1KO)11敗1分
         VS
森田実幸(K-LIFE/鹿児島県出身20歳/ 51.55kg)3戦1勝1敗1分
勝者:紗耶香 / 判定3-0
主審:少白竜
副審:勝本30-28. 宮沢30-28. 中山30-27

紗耶香が首相撲に持ち込んでのヒザ蹴りで主導権を奪った展開。離れても蹴りで優った紗耶香。森田実幸は自分の距離に持ち込めないまま終了。

◆第7試合 女子ミネルヴァ・スーパーフライ級3回戦(2分制)

松藤麻衣(クロスポイント吉祥寺/長野県出身39歳/ 51.65kg)8戦3勝5敗
     VS
MIKU(K-CRONY/茨城県出身32歳/ 51.85kg)8戦3勝4敗1分
勝者:MIKU / 判定0-3 (28-30. 28-30. 28-30)

MIKUの先手の攻撃力が優っていく。前蹴りも松藤麻衣の前進を効果的に止めた。松藤麻衣も圧されながら蹴り返す力はあり、ジャッジ三者が揃うラウンドは無かったが、MIKUが攻勢を維持して判定勝利。

◆第6試合 女子ミネルヴァ 54.0kg契約3回戦(2分制)

MIO LaReyna(TEAM REY DE REYES/千葉県出身/18歳/ 54.0kg)8戦1勝6敗1分
      VS
ゼイナ・クランティッチ(ボスニア・ヘルツェゴビナ出身36歳/ 53.35kg)2戦1勝1分    
勝者:ゼイナ・クランティッチ / 判定0-3 (28-29. 28-30. 28-29)

5月11日に引分けた試合の再戦。パンチでも蹴りでも我武者羅な攻防の中、ゼイナのパンチヒットが優った。首相撲ではヒザ蹴りの攻防、崩し転ばす技もゼイナが優り、攻勢を印象付け判定勝利。

◆第5試合よりプロ 女子ミネルヴァ・アトム級3回戦(2分制)

鈴木萌(クロスポイント吉祥寺/東京都出身21歳/ 45.65kg)3戦2勝1分
       VS
夢結華(=山本夢結華/猛者連八幡支部/京都府出身18歳/ 45.0kg)2戦1勝1敗
勝者:鈴木萌 / 判定3-0 (30-28. 30-28. 30-28)

積極的な両者、蹴られても蹴り返し、打ち合いも怯まない中、中盤から的確差でやや優っていった鈴木萌が判定勝利。

◆第4試合 アマチュア女子 42.0kg契約2回戦(2分制)

瀬川柚子心(小野道場/14歳/ 39.75kg)vs西田永愛(伊原越谷/14歳/ 41.7kg)
勝者:瀬川柚子心 / 判定2-1 (19-20. 20-19. 20-19)

◆第3試合 アマチュア 52.0kg契約2回戦(2分制)

三浦龍之介(伊原越谷/14歳/ 51.7kg)vs渡部翔太(KING/14歳/ 50.05kg)
勝者:渡部翔太 / 判定0-3 (18-20. 19-20. 19-20)

◆第2試合 アマチュア 女子 51.0kg契約2回戦(2分制)

三橋暖愛(士道館ひばりが丘/12歳/ 49.55kg)vs武井梨子(RE-SPAWN/16歳/ 50.2kg)
勝者:武井梨子 / 判定0-3 (19-20. 18-20. 19-20)

◆第1試合 アマチュア 35.0kg契約2回戦(2分制)

渋谷剛(伊原越谷/12歳/ 34.3kg)vs小屋松晴空(BURNING/11歳/ 34.3kg)
引分け 0-1 (19-20. 19-19. 19-19)

※プロ新人戦 フライ級2回戦 中止
手塚瑠唯(VERTEX/19歳/ 50.7 kg)vs渡邊匠成(伊原/19歳)
渡邊の負傷欠場により中止。手塚は計量パスにより勝者扱いとなる模様。

《取材戦記》

当初、メインイベント出場予定の木下竜輔(伊原)は体調不良による欠場。代打となったNJKFの山浦俊一(新興ムエタイ)は本業の勤務中の事故で欠場。対戦予定だった選手は、在日の元・ラジャダムナン系フェザー級5位、ガン・エスジムで、中止に大きな影響は無いが、本来のメインイベントが消えた興行となった。

“セミファイナル格”の女子ミネルヴァ、AIKOvs Uver∞miyUは女子の最軽量級だけに一発で倒す強打も無く終わったが、両者の必死で向かう形相は、勝ちに行く姿勢が見られた好戦だった。

“メインイベント格”のジョニー・オリベイラvs岩橋伸太郎戦は決定打が少ない展開からラストラウンド、組み付く消極的攻防が増えると、レフェリーから「プロだろ打ち合え!」と檄を飛ばされた、もどかしい展開は役不足が顕著に表れた最終試合となった。

今回はスターの居ないかなり寂しい興行だった。フリー選手の起用やNJKFとの連立政権とは語弊があるが、DUELに近いカードで梃入れした興行が続いています。

そして10月26日興行TITANS NEOS.37へ向けて、ジョニー・オリベイラは試合への意欲旺盛で、連続出場の可能性高いだろう。エース格・木下竜輔は絶対必要。次の欠場は許されない。更にはまだまだ活かせる人材や、新しい興行の戦略をもって再び隆盛への道を歩んで欲しい老舗を継承する新日本キックボクシング協会である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈2〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

ここ甲子園では、今年も夏の高校野球が始まりました。私は毎日甲子園球場の周りを散歩していますが、日本中から多くの人たちが駆け付け賑わっています。ウクライナやガザでは日々人々が亡くなり悲惨な状況だというのに、地球の遙か遠くの戦火がまるで嘘のような平和な風景です。

一昨年、古くからの知人で児童文学・子どもの生活文化研究家の梓加依さんの著書『広島の追憶 ―― 原爆投下後、子どもたちのそれからの物語』を出版いたしました。梓さんとは不思議な因縁で1992年、『豊かさの扉の向こう側』(長崎青海名義)を出版して以来、一時期娘さんが当社で働いたり、細く長い付き合いです。1992年と言いますから、実に30年余り経っていますが、これもまた何かの縁です。

先の『豊かさの扉の向こう側』を偶然に教育委員会の方が読まれ県下の図書館に置きたいということであるだけ持って行ったり、また、ある国立大学の非常勤講師の話があったりし、もともと勤勉な方で、近畿大学の夜間課程に入学、さらには神戸大学の大学院修士を修了されました。

梓さんは終戦前年の長崎生まれ、その後広島に移住、高校を卒業するまで住まわれていました。戦後の長崎、広島の悲惨な風景に日々接していたはずです。

そうしたことを自著の中で述べてこられました。当社が昨年出した『広島の追憶』は、その体験に基づいたノンフィクション・ノベルで、ぜひご一読いただきたい一冊です。

そして梓さんは、この最後に、
「……そして、戦後八十年に届く日が過ぎた。でも、地球から核の脅威はなくならない。戦争もなくならない。風よ、届けてほしい。被爆地ヒロシマから世界中の子どもたちへ。この八十年の物語が、子どもたちの未来、いいえ、近い将来の物語にならないように……。」
と書き記しておられます。

一見平和な今の甲子園周辺の風景 ―― これはいつまで続くのか? いまや年老いた多くの先達たちが、時に血を流し闘いながら守って来た〈平和〉、ここで挫けることがあってはなりません。改憲の蠢動は断固粉砕しなくてはなりません。

8月6日に続き、再び〈反戦歌〉2曲、加筆し再掲載させていただきます。これらに表現された平和への想いを感じ取って欲しい。

◆ザ・フォーク・クルセダーズ『戦争は知らない』

よく『戦争を知らない子供たち』と間違えられますが、違います。『戦争は知らない』は、それよりも先にベトナム戦争真っ盛りの1967年にシングルカットされ、発売されています。作詞は、演劇の世界に新たな境地を開拓した劇団『天井桟敷』主宰の寺山修司、歌は『たそがれの御堂筋』で有名な坂本スミ子。意外な組み合わせです。

寺山修司は、いわゆるアングラ演劇の教祖ともされる人物ですが、彼がこのように純な歌詞を書いたのも意外ですし、また坂本スミ子に歌わせたのも意外、歌謡曲として売り出そうとしたのでしょうか。

その後、ザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)が歌いますが、こちらがポピュラーです。いわば「反戦フォーク」として知られています。私は坂本スミ子が歌ったのを知りませんでしたが、フォークルのメンバーだった端田宣彦(はしだのりひこ。故人)さんに生前インタビューする機会があり(かつて私が編集した『この人に聞きたい青春時代〈2〉』)この際に端田さんから直接お聞きしました。

誰にも口ずさめる歌ですので、みなで歌うことがあれば、ぜひ歌ってください。私たちも先日、コロナの感染で長らくイベントを休んでいましたが、20年余り全国の刑務所・少年院を回り獄内ライブ(プリズン・コンサート)を行っている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のライブを行いました。そこでもみなで歌いましたPaix2のPaixとはフランス語で「平和」という意味で、これが2人なのでPaix2ということです。

だったら、今こそ、この曲を歌って欲しいという願いからでした。

◎[参考動画]ザ・フォーク・クルセダーズ 戦争は知らない (1968年11月10日発売/東芝Capitol CP-1035)作詞:寺山修司/作曲:加藤ヒロシ/編曲:青木望

♪野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない 

だけど私に 父はいない

父を想えば あゝ荒野に 

赤い夕陽が 夕陽が沈む

戦さで死んだ 悲しい父さん 

私は あなたの娘です

20年後の この故郷で 

明日お嫁に お嫁に行くの

見ていてください 遙かな父さん 

いわし雲飛ぶ 空の下 

戦さ知らずに 20歳になって 

嫁いで母に 母になるの

野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

◆ネーネーズ『平和の流歌』

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、この記事を書いた年が沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみました。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や、戦後も続くアメリカ支配は歴然で、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録していますが、当時は知りませんでした)。

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

それは以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という島歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前出の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

この曲は、在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。

【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 

この国が平和だとだれが決めたの

人の涙も渇かぬうちに

アメリカの傘の下 

夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

蒼いお月様が泣いております

忘れられないこともあります

愛を植えましょう この島へ

傷の癒えない人々へ

語り継がれていくために

二 

この国が平和だと誰が決めたの

汚れ我が身の罪ほろぼしに

人として生きるのを何故にこばむの

隣り合わせの軍人さんよ

蒼いお月様が泣いております

未だ終わらぬ過去があります

愛を植えましょう この島へ

歌を忘れぬ人々へ

いつか花咲くその日まで

三 

御月前たり泣ちや呉みそな

やがて笑ゆる節んあいびさ

情け知らさな この島の

歌やこの島の暮らしさみ

いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

(松岡利康)

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315258/

2025年8月4日付け神戸新聞

日本で唯一の脱(反)原発情報誌『季節』2025夏・秋合併号が8月8日発売です! 

鹿砦社代表 松岡利康

すでにご報告させていただいている通り、本誌反(脱)原発情報誌『季節』創刊10周年/月刊『紙の爆弾』創刊20周年にあたり、4・5東京、7・12関西と二つの「鹿砦社反転攻勢の集い」は、お陰様で盛況裡に終了いたしました。

新型コロナによって厳しい経営環境の下での集いでしたが、当社の出版活動を支持される多くの皆様のご参加、ご支援にて次のステージへ再出発することができました。皆様方のご参加、ご支援、本当にありがとうございました。皆様方のご支援に応え、必ず復活いたします。この件につきましては、すでにご報告させていただいていますので、これに留めます。

そして、明日8月8日にお届けする『季節』夏・秋合併号ですが、合併号ということもありかなり増ページとなりました。とりわけ今号では、5月7日に衆議院第一議員会館にて行われた、われわれの世代のカリスマ、元東大全共闘代表で物理学者の山本義隆さんの長大な講演録が入りました。必読です!

また、本誌創刊10周年記念出版とし昨秋刊行予定だった、季節編集委員会・編『3.11の彼方から──「季節」(NO NUKES voice)セレクション集』ですが、前回お知らせしましたように、ようやく完成の目途が立ち、9月初め発売予定で急ピッチで編集作業を進めています。大幅に遅れての刊行となったことをお詫びいたします。

ところで、これも前回申し述べましたが、実際に編集作業に入ってみると、当初想定した以上にページ数が嵩み、一冊では収まり切れなくなりました。そこで3分冊に分けて出版することにしました。今回は、前身の『NO NUKES voice』創刊号から14号までから選りすぐり収録いたしました。ご予約よろしくお願い申し上げます ! 

なお、ページ数の大幅増により定価アップとなりますが、以前にご注文された方は、当時予告した金額のままで結構です。

(松岡利康)

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0FJXW1RPD/

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戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈1〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

八月の空は悲しい(龍一郎 揮毫)

今年も8月6日がやって来ました。── ここ甲子園では平和の象徴ともいえる夏の高校野球が始まりました。

今年は、ウクライナでの戦火に加えパレスチナでもイスラエルによる無慈悲な攻撃により戦火は収まるどころか拡大しています。日本にあっても、もはや‟対岸の火事”ではありません。解決の糸口はあるのでしょうか、絶望的になります。ほとんどの日本人にとっては今に至るも?対岸の火事”のように感じられます。果たしてこれでいいのでしょうか?

かつて1960年代後半から70年代にかけて(75年のベトナム戦争終結まで)全世界にベトナム反戦運動が拡がりました。これが和平への後押しになったことはいうまでもありません。今はどうか?

8月1日付けの本通信でも記しましたが、戦後79年、日本が曲りなりとも平和を維持できたのは、先の戦争の反省から、歴史の曲がり角にあった60年、70年の〈二つの安保闘争〉を中心として、これ以後も地道な抵抗運動があったからだと考えています。8月15日付けの本通信にて採り上げますが、私の従兄は異国で終戦を迎え必死で故郷熊本に戻り、その後大学生時代に60年安保闘争に参加しています。三里塚闘争はいまだに続いています。

異論もあろうかと思いますが、半世紀余り、時にみずから血を流し闘い、半世紀余り自分なりに社会の動向、反戦運動や社会運動の推移を見てきた上での感慨です。決して机上での平和談議ではありません。日本は、曲がりなりにも民主主義社会です(この規定にも異論はあるでしょうが、少なくとも独裁国家や専制国家ではありません)。まだ声は挙げれます。

大学に入った1970年、帰省の途中で広島に立ち寄りました。これまで長崎には何度か行っていましたが広島を訪れたのは初めてでした。8月6日に毎年広島で行われる抗議活動に参加し、その日は広島大学の寮に泊めていただきました。翌日は京都からやって来たべ平連の人たちと岩国の基地反対運動にも参加し右翼からの攻撃に広島大学の学生(中核派やね)らと一緒に対峙したことが、ついきのうのことのように蘇ります。もう55年かあ。この半世紀余りの間、日本の、そして世界の、言葉の真の意味での平和は維持されたのでしょうか ── もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

翌年1971年の8・6は歴代首相で初めて当時の佐藤栄作首相が広島の慰霊祭に出席するということで荒れました。いまだに記憶に残るのは、ある女子大生が体当たりで佐藤首相に抗議したことです。これは報道写真でも残っています。この年の夏は三里塚闘争で仲間が逮捕されたり9月に予定されている第二次強制収容阻止闘争や沖縄返還協定批准阻止闘争の準備などで広島には行けませんでしたが、報道で観て非常に感銘を受けました。

1971年8月6日の広島平和公園に来た佐藤栄作首相(当時)に抗議の体当たりをする女子学生

今回は、3年前にウクライナ危機に触発されて、若き日に接した反戦歌について書き記した文章に加筆し、この3年間、状況がまったく変わらず、それどころかますます泥沼化し悲劇が拡大している中で、あらためて加筆、再掲載してみました。ぜひお読みいただければ幸いです。

◆矢沢永吉 『FLASH IN JAPAN』

私はこの曲を聴いて大変ショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『FLASH IN JAPAN』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

ちなみに私たちの世代にはカリスマ的存在である秋田明大(日大全共闘代表)さんも被爆二世で、毎年8月6日に開かれる抗議集会には必ず実行委員に名を務められたり参加されています。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛。藤井敦子補訳)。私も時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
 治せるのか
 俺たちは皆あの光を見たのか
 雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
 稜線を照らし 視界を消し去った
 戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
 人々の群れが塔をなぎ倒し
 敵がどこに隠れているのか知っている
 兄妹たちは炎の中をはいつくばったが
 出口に届くことはなかった
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 彼らに何と言えばよいのか
 子供たちよ聞いてくれ
 俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
 君たちは再出発してくれ
 朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
 いくつか変わったこともある
 いつも忘れないでいてほしい
 戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか

◆忌野清志郎『花はどこへ行った』/ PP&M『Where Have All the Flowers Gone?』

当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ戦争が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう3年半も続き、解決の糸口は見つからず、さらに長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争のように──。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから意訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発され加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

つい先日(2024年7月8日)、京都のキエフ(登紀子さんの実家経営)で、私がいた大学の学生運動、および寮の大先輩・藤本敏夫さんの23回忌が開かれました。私とは世代が全く異なり直接の面識はなかったので迷ったのですが、先輩に勧められ、資料コピー係(この世代の常として紙の資料が多いんです)を務め出席させていただきました。

その際、登紀子さんに「今はなぜ『牢獄の炎』を歌わないのですか?」と尋ねましたところ、「あなた、なぜこの曲を知っているの?」と驚かれました。「大学に入ってすぐに先輩に勧められ買いました。私に言わせれば『百万本のバラ』もいいが、『牢獄の炎』や、さらには『美しき五月のパリ』も復活させていただきたく熱望します。

ちなみに藤本敏夫さんは、ここ甲子園の出身です(甲子園三番町。鹿砦社は八番町)。

さて、『花はどこへ行った』は、日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツ』や、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナやパレスチナに見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ戦争のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナやパレスチナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われなくなることを心より祈ります。


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

青山透子氏インタビュー「日航123便墜落」真相究明に政治の言論封殺(紙の爆弾2025年7月号掲載)

 1985年8月12日に起きた「日本航空123便墜落」の再検証を求める世論が、ここ数年、あらためて盛り上がりを見せている。一方で4月10日、真相究明をリードしてきた元日航国際線客室乗務員の青山透子氏の著作に対し、自民党の佐藤正久参院議員が国会で「フェイク情報」であり「全国学校図書館協議会の推薦図書に選ばれているのはおかしい」などと発言。即座に青山氏と遺族の吉備素子さんが言論弾圧であるとして抗議声明を発表するも、その内容を伝えるメディアはほとんどない。そこで今回、7月に『日航123便墜落事件 40年の真実』(河出書房新社)を上梓する青山氏にインタビューした。(聞き手・文責/本誌編集部)

◆現場が物語る「真実」

──佐藤氏は参院外交委員会の質疑で、自衛隊が123便墜落に関与した可能性について、「防衛省・自衛隊の名誉」を問題にしていますが、青山さんは著書の中で、「(当初)私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた」と書かれています。調査を始めた経緯について、まず教えてください。

青山 1985年の年末までに、当時の客室乗務員有志が作成し、関係者だけに配布した追悼文集(『悼歌』タイトル部写真)があります。ここに追悼文を掲載された客室乗務員12名、そして非番で乗り合わせた2名は、私がともにフライトをしてきた同僚たちです。
 私も先輩たちへの思いを込め、墜落から25年が経った2010年に出版したのが、最初の『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド)でした。
 この本を書くにあたって新聞報道をくまなく読み込みました。すると、当時は単なる元客室乗務員だった私にとっても疑問に思うことが山ほど出てきて、それを時系列でまとめました。
 奇しくもこの本を出した10年に、日航が倒産。日航はずさんな管理体制の下で、軽微なものを含め様々な事故を起こしてきました。その中で最悪のケースが123便墜落であり、単独機で世界最大となる、乗員の殉職を含めて520名の死者を出しました。学校が1つなくなるほどの方々が亡くなられたのです。その精算をしないまま国内3位のJASと合併したら、今後も同じことを繰り返すことになる。あらためて123便をリマインドし、航空会社にいる人間として、その無責任な体制に警鐘を鳴らすべきだと思って、『天空の星たちへ』を書いたのです。
 同書では、第二次世界大戦中は零戦のパイロットであり、墜落時を含めて現場となった群馬県上野村村長を2005年まで40年つとめられた黒沢丈夫さんに取材し、帯文も書いていただきました。黒沢さんは墜落当日の夜、すぐに現場は上野村だとわかり、村民に情報提供を呼びかけ、県や政府関係者、NHKにも電話で連絡したにもかかわらずテレビでは「不明」で、隣の長野県など偽の情報が流され続けたと怒っておられました。その事実を書く人がいないとおっしゃったので、私の本にインタビューを加えたんです。
 また、上野村消防団や、猟友会の地元の皆さんも、真夜中から翌朝まで一晩中捜索しています。生存者である当時12歳の川上慶子さんらを発見したのは、報道されているような自衛隊員ではなく、地元の人たちです。しかし、担架を作り生存者を山頂へ運ぶも、最初に自衛隊のヘリが来てから2時間以上も真夏の山頂に放置状態にされたといいます。そうした方々に取材すると、彼らからも疑問をぶつけられたのです。
 私の問題意識は、こうして事実を集める中で生まれたものです。なにより、私にアナウンスを教えてくれた先輩の対馬祐三子さんが、アナウンスのメモを遺書として残して亡くなられました。そこに込められた同僚たちの意思を尊重するためにも、絶対に真相を突き止めなければなりません。

──墜落をめぐる「謎」の代表的なものとして、「遺体の完全炭化およびガソリンとタールの臭い」「航空自衛隊ファントム2機の数々の目撃情報」「墜落直前の機体周辺にみられたオレンジや赤の物体」が挙げられます。ほかにも疑問点は数え切れず、読者にもそれぞれの詳細を7冊の著書で読んでいただきたいですが、調査を進めた結果として、自衛隊や米軍の関与の可能性を指摘されました。

青山 慶子さんを発見した上野村消防団の話を聞くと、現場はガソリンとタールの臭いで充満していたといいます。ガソリンは危険物で飛行機には搭載できませんから、ジェット燃料はガソリンでもなければタールでもありません。それより引火点が高いケロシンという灯油の一種を使用します。引火点が常温より高いので、常温では引火せず、しかも、飛行時間にして2時間分の量しかないにもかかわらず、翌朝まで燃えていたというのです。
 ほかにも、隣県・長野の信濃毎日新聞が8月12日付の号外で「上野村」だと報道しています。黒沢村長も現場の人も正しかったのに、中央メディアが無視したということです。

※記事全文は↓
https://note.com/famous_ruff900/n/nf4f70999fc3f