筆者は、原発擁護の説にも、耳を傾けるように気を配っている。反対者の声を聞くことは、自らの言葉を正確にし、強さを得ることになるから、物を書く者としては当然のことだ。それだけでなく、あれだけの災厄を目の当たりにしての原発擁護には、「いい根性してるな」と尊敬の念さえ湧く。

経済学者・池田信夫氏の12月15日のブログ「活断層はなぜ今ごろ『発見』されたのか」には、仰天した。
福井県の敦賀原発2号機の下にあるのは活断層だ、とした原子力規制委員会の見解を批判する内容である、

活断層の定義が変更された、ということを、池田氏は指摘する。1978年にできた最初の耐震審査指針では、過去5万年以内に活動した断層と定義していた。2006年の指針では、過去12~3万年以内とされ、厳しくなった。
1982年に設置許可が降りた敦賀2号機は、旧指針にもとづいて設計されている。

それを新指針を遡及適用して再稼働を禁止し、廃炉に追い込もう、というのは「事後法」であり、法治国家では許されない、というのだ。
こういうメチャクチャなことは、むしろ学者だから言えるのか、と感心してしまう。
安全性を高めた基準に変わったのだから、現在の原発の稼働の是非は、それに基づいて判断すべきだ、というのが常識的な考え方だろう。

もちろん世の中には尊敬に値する学者も少なくないが、学校的な物の考え方でエリートになった人々の多くは、このように「事後法」というひとつの物の考え方をパズルのように当てはめてしまうクセがあるのではないか。

「事後法」とは、何か?
例えば今、シートベルトを締めずに車を運転すると、違反だということで減点される。
だが、この法改正前にシートベルトを締めずに車を運転していたことが分かったとしても、取り締まることはできない。これが、法の不遡及の原則である。
だが、法改正前に造られた車なので、シートベルトがない。これをシートベルトを締めずに運転して減点されたら、「事後法」による取り締まり、ということになるのだろうか。
なるわけがない。実際にシートベルトを締めずに運転しているのは、改正後の現在なのだから。
その車で、どうしても公道を走りたかったら、シートベルトが締められるように改造するしかない。

池田氏が言っているのは、法改正前に造られたシートベルトのない車は、シートベルトを締めずに運転していい、というのと同じ論理だ。
「事後法」そのものを理解していない、と疑わざるを得ない、貧弱な論理だ。
原発擁護論者も、こちらを鍛えるような、もっと強力な論を打ち出してほしいものだ。

池田氏もそうだが、原発擁護論者がよく言うのが、メリット・デメリット論だ。交通事故でも、飛行機事故でも人は死ぬ。文明の発達には、デメリットが伴う、という主張だ。
いくつかの街が消滅し、次世代にもどんな影響を与えるかも分からない、福島原発事故の災厄を見て、よくもそんなことが言えるものだ。

確率の違いはあるだろうが、ロイヤルファミリーの一員でも、大統領や大資本家でも、自動車事故や飛行機事故で亡くなる可能性もある。
だが原発は、リスクを過疎の町に押しつけ、最底辺の労働者が被曝することによって、成り立っている。

広瀬隆氏が20年以上前から言っているように、安全だというなら、原発は東京に造るべきなのだ。
「そんなことは初めから考えなかったし、問題外だが、東京に造らなくてよかった」
原子力マフィアの住人たちは、そう思っているだろう。
東京湾岸で、福島第一原発と同じ規模の事故が起きたら、首都機能のあるところは、すべて立ち入り禁止なっていたはずだ。

原発擁護論者の主張は、どうしても都会に住む住人のエゴイズムと取れてならない。
そうではない、と言うのなら、もっと説得力のある主張をしてほしいものだ。

(FY)