本来ならば開港から40年目とするべきところですが、三里塚闘争の歴史に思いをはせながら、表題を「開港阻止闘争から40年目」にしてみました。というのも、当時わたし自身が開港阻止闘争をたたかい、逮捕されて拘留一年を体験した現役学生だったからです。いまだに鮮明な記憶をまじえながら、成田空港・三里塚・芝山の地の過去と現在を、連載でお伝えしよう。多くの犠牲のうえに造られた空港であれば、犠牲者への鎮魂の記となる。

 

成田空港第三滑走路=C滑走路(3500メートル)の建設計画レイアウト(※2010年時計画図ではC滑走路は3200メートルと記されている)

◆40年ぶりに新たな空港拡張計画

つい先日のことである。開港から40年目の3月13日に、成田空港は第三滑走路(C滑走路・3500メートル)の建設が「空港機能強化策」として決定された。国土交通省(国)・千葉県・NAA(成田国際空港会社)・地元九市町村の4者の合意によるものだ。わたしと同じ世代なら、運輸省や空港公団と言い換えたほうがピンとくるのではないだろうか。計画は何度も見直されてきたが、今後10年をかけて年間発着回数が30万回から50万回に増加する計画だという。空港の拡張によって移転を余儀なくされるのは、150戸におよぶとされている。往時のような激しい反対運動はないものの、完成までは困難な道が予想される。そして農民・住民の苦悩はつづいている。

 

3.25集会ネット応援団が主催する「三里塚管制塔占拠闘争40年 今こそ新たな世直しを!3.25集会」は3月25日午前11時より連合会館にて開催

三里塚芝山連合空港反対同盟(旧北原派)、三里塚芝山連合空港反対同盟・大地共有化委員会Ⅱ(柳川秀夫代表)も空港反対の旗を降ろしたわけではない。三里塚闘争は伝説ではなく、いまも継続しているのだ。反対同盟員の土地収用(借地の耕作権)をめぐる訴訟を中心に、法廷闘争が繰り広げられている。きたる3月25日には東京の連合会館で開港阻止闘争40周年のイベント(柳川派)も企画されているが、ここでは三里塚を知らない若い人たちのために、あるいは往時を知っている人たちの懐旧を満たすように、闘争の歴史を振り返ってゆこう。

 

1966年6月23日付毎日新聞(wikipedia「三里塚闘争」項より)

 

成田国際空港周辺の地区(wikipedia「三里塚闘争」項より)

◆闘争の黎明期

三里塚(成田)に空港建設が決まったのは、1966年のことである。国際化時代に相応して、羽田にかわる国際空港を検討していた政府運輸省は、いくつかの案(浦安・霞ヶ浦・木更津沖など)が立ち消えたあとに、冨里・八街(成田よりも千葉市・東京近い)にターゲットをしぼったが、地元農民の圧倒的な反対に遭う。そこで運輸省は皇室の御料牧場があり、大半が戦後の開拓農である三里塚・芝山を空港建設地に選んだのである。

だが、ここ三里塚・芝山でも農民の反対運動が沸騰し、66年8月には三里塚芝山連合空港反対同盟(1200戸・1500人)が結成された。なおかつ67年には共産党に代わって三派全学連が支援に参加することで、空港反対運動は先鋭化した。翌年にはベトナム反戦、全共闘運動がピークを迎え、青年学生層は三里塚闘争に参加することにより、学園や街頭での戦術を過激化させていった。いわば学生運動・反戦運動の過激化は、三里塚での戦術の高度化がもたらしたものだと、取り締まり当局を悩ませたものだった。のちに赤軍派や爆弾闘争に参加する学生の多くが、三里塚闘争で戦争なみの「野戦」を体験している。ちなみに、いまは穏健な物腰の某出版社の社長も、同志社に入って間もなく三里塚に足を運んでいる(『遥かなる一九七〇年代京都』鹿砦社刊)。かつて三里塚こそ「過激派」学生の源泉であり、反体制運動の聖地だったのだ。

 

当初の新東京国際空港計画案(運輸省『昭和39年度運輸白書』より)

◆ひそかに手に入れていた設計図

ところで当時の学生たちが三里塚で学んだ最大のものは、単なる過激化ではなく緻密な戦術ではなかっただろうか。反対同盟の農民たちは大雑把なようで、じつに緻密で巧みだった。戦術の工夫は先で触れるが、理念が先行する学生にはない現実性、具体性があった。負けても何かしら思想的な成果が残せればいいなどという、革命的敗北主義ではないのだ。たとえば68年に空港公団に押しかけたさいに、公団の分室事務所に忍び込んで空港の設計図を手に入れている。この設計図がのちに、管制塔占拠につながるのだから、偶然とはいえ結果からみると、農民たちの戦術は周到というほかない。

機動隊を前面に立てた外郭測量からはじまり、二度の土地収用阻止闘争(71年)は苛烈なものになった。農民たちが耕している土地はおろか、住居まで取り壊す土地収用である。もっとも、土地の接収は大金をチラつかせての切り崩しであり、買収である。土地の買収に応じた農民は、大黒柱を切り倒して家屋を倒壊させるのが習わしだった。条件派に転じた農家、ある日突然いなくなる農民たち。三里塚闘争の諸相は、そのほとんどが買収との闘いだったといえよう。それら農民の生活設計について、支援の学生・労働者ができるのも援農という物質的なものだった。思想や理念だけで運動ができる、学園や街頭での闘いは、そこでは何の保証も展望なかった。いっぽうで、反対同盟の農民を援農漬けにすることで、支援党派は三里塚闘争のイニシアティブを握ろうとする側面があったのも事実だ。それはそれで、のちに禍根を残すことになる。

◆熾烈な闘争で犠牲者も

第二次代執行(土地収用)が行なわれた71年9月16日、東峰十字路で警備の機動隊(神奈川県警)が襲撃され、警官3名が死亡、80名以上が重軽傷を負った。孤立した大隊編成(270名ほど)の機動隊に対して、700人ほどの反対派・支援学生が襲い掛かったものだ。襲撃したのは反対同盟の青年行動隊を中心に、社青同解放派、日中友好協会(正統)、共産同叛旗派、情況派、黒ヘルノンセクトなど、反中核派の支援党派、あるいは反荒(戦旗派)派のブント系だった。すでに三派全学連は分裂し、ブント(共産主義者同盟)も四分五裂の状態で、現地での行動もおのずとそれに規定されたものだった。

1972年になると、反対同盟はA滑走路の南端に岩山大鉄塔(60.6メートル)を建設し、空港公団の飛行検査を中止に追いやった。以降、鉄塔の共有化や戸村一作委員長の参院選挙出馬で運動の全国化をはかる。この時期、学園では内ゲバが死者を出す惨事をくり返していたが、三里塚闘争は全国住民運動の総本山という権威をもって、数多くの支援党派を統制していた(反対同盟を批判して、共闘関係を断たれた革マル派は除く)。こうして、70年代中盤までは膠着状態のまま推移していった。

成田空港「空と大地の歴史館」に展示されているヘルメット(wikipedia「三里塚闘争」項より)

◆岩山大鉄塔の撤去と火炎瓶

事態が動いたのは、福田内閣が「年内開港」を宣言してからだった。反対同盟は4月17日に大集会を準備し、2月、3月と段階的に決戦の準備を盛り上げていった。はたして、4月17日には1万7000人(警察発表9000人)を動員した。その矢先だった。5月の連休を前に、空港公団は航空法49条違反として、岩山大鉄塔を大型クレーンで撤去したのである。この年のゴールデンウィークの三里塚は戦場と化した。千代田農協周辺で機動隊と支援学生・労働者が激突し、火炎瓶取締罰則が施行(72年)されてから初めて公然集会で投げられた(ゲリラ的には何度も投げられているが、ソ連大使館に投げたマル青同が懲役3年の実刑を受けた)。

そしてこの過程で、臨時野戦病院を警備していた東山薫がガス弾の直撃を受けて死亡した。翌日、芝山町町長宅を警備していた機動隊が襲撃され、警官1名が死亡している。火炎瓶による襲撃だった。空港による犠牲者は、東峰十字路の警察官3名、その翌月に「この地に空港を持ってきた者を憎む」という遺言を残して自殺した三ノ宮文男(青年行動隊)をふくめて、6人目となった。合掌……。大鉄塔がなくなったことで、航空各社の完熟飛行が行なわれるようになる。開港阻止にむけた反対同盟は闘争の拠点として、横堀地区に鉄筋コンクリート造りの要塞を建設する。場所は自殺した三ノ宮文男の畑であった。(つづく)


◎[参考動画]三里塚 成田闘争 岩山大鉄塔強制撤去 – 1977

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

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〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか 『NO NUKES voice』15号