◆高津くんの出家

高津くんはチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンで9日間の出家だった。彼はタイで初めてのムエタイ修行したフェアテックスジムに居る師匠で、パイブーンというかつての名選手(元・ルンピニースタジアムランカー)の出身地にあるお寺に導かれての出家だった。因みにパイブーン氏をフェアテックスジムに紹介したのが私の黄衣を預かってくれたチャンリットさん。古く遡れば遠い親戚のような縁が繋がっていく因果があるものだ。

後々の写真を見せて貰うと、高津くんは元々髪が短く、剃髪してもさほど変わらぬ顔つきのようだ。体調を壊し若干の入院生活があったようだが、日々唱えるお経もしっかり覚え、毎晩の懺悔の儀式もこなしたという。黄衣の纏いもしっかりしていて、パイブーンさんも在家信者としてしっかり付き添ってくれたようだ。

高津くんは「僕はたった9日間だから!」と謙遜するが、チャランポランで写真撮っていた私とは真剣さが違った。長い戦歴とムエタイ修行の厳しさが物言う習得力と思う。

チャイヤプーム県で出家した高津広行、10年パンサー級の風格

出家前のネイトさん。その後、どんな人生を送っただろうか 1994.12

◆ネイトさんの悟り

それからネイトさんは、藤川さんとカンボジアへ巡礼の旅から帰ってから、また更に当初から藤川さんが計画していた軍事政権下のミャンマーへの困難な旅をこなし、その後も彼は一人でもタイ国内の寺を巡る旅をして、托鉢中に犬に噛まれたり、デング熱病に罹りながらもノンカイに戻り、還俗する前に藤川さんにもう一度会いに来て言っていたらしい。

「これで普通の生活に戻っても、仏陀の弟子として、生涯仏教の教えを道標として、理想の人間に近づくよう生きていく自信が付きました」と。

そしてほぼ半年の出家生活を終え、一旦はアメリカに帰ったらしく、その後の様子は分からないが、出家した経験は収穫大きい人生の分岐点となったことだろう。またどこかで会うことが出来るだろうか。藤川さんと出会った人物には、この他にもいろいろな影響受けた人が居たのだった。

◆タイ再訪への導き

諸々の出来事を絡みながらも、徐々に変化する藤川さんの比丘生活を聴きながら、私も藤川さんが移籍したお寺を訪問するチャンスが訪れたのは2000年12月。格闘技の取材中心だったこの頃、12月3日に新日本キックボクシング協会が企画するタイ国ラジャダムナンスタジアム興行が予定されていたところ、組まれたツアーの取材陣枠に、いつもコンビを組んでいた記者と参加することになった。旅費は記事掲載する出版社持ち。ならばこのチャンスを逃がすまい。5年ぶりのムエタイとお寺であった。

小笠原仁を祝福するアンモープロモーター、伊原信一代表、ラジャダムナンコミッション役員 2000.12.3

ウィラポンのV5を祝福する役員たち 2000.12.5

侍姿の楠本勝也を祝福するNJKF藤田真理事長 2000.12.5

このムエタイに絡むツアーの様子に触れると、日程は12月2日から6日の5日間。3日のラジャダムナンスタジアムには日本チャンピオン6人が出場した日本vsタイ対抗戦は2勝4敗(深津飛成がKO勝利)。

小笠原仁(伊原)は王座決定戦で1ラウンドKO勝利し、同スタジアム・ジュニアミドル級王座獲得。藤原敏男以来、22年ぶり日本人二人目の快挙だった。

12月5日には王宮前広場で国王生誕記念日興行が開催され、ここまでの取材態勢を組んで臨んだ日程となった。ここでは過去、辰吉丈一郎からWBC世界バンタム級王座奪取したウィラポン・ナコンルアンプロモーションの5度目の防衛戦があり、同じ王宮前広場の隣のリングではタイvs外国勢の豪華なムエタイ興行で、ニュージャパンキックボクシング連盟が協賛し、NJKFバンタム級チャンピオン(第2代)楠本勝也(東京北星)が1ラウンドKO勝利で最終試合を飾った。

このイベントは深夜に及び、疲れた身体で翌朝の早い便で帰国の途に付いた取材陣一行たち。一人残った私はそこから自由の身。ムエタイから仏教へ思考を変え、藤川さんのお寺を目指した。

◆タイのお寺で藤川さんと再会!

ワット・ポムケーウの内側から見た門

改めてゆっくりバンコクの街を歩くと、5年前には無かった高架鉄道が走るまでになっていた。もう市内バスの路線番号も忘れてしまい、車掌に行き先が上手く言えないとエアコンバスに乗るのも難しくなった(エアコン無いボロバスは4バーツほどの一律料金)。

でも何とか乗り継ぎ、サイタイマイバスターミナルに再び立った。私が黄衣纏って歩いた想い出の地でもある。青いリムジンバスに乗り、サムットソンクラーム県のメークローンへ向かった。

バンコクから70キロメートルあまり。ペッブリーより近く1時間で到着。メークローンはそれなりに栄えている地方都市で交通量が多かった。

藤川さんが在籍するワット・ポムケーウはバスターミナルから「すぐ目の前!」と言われていたが、歩いて50メートルぐらい。そこに“ワット・ポムケーウ”の門があった。

境内で犬に餌をやっていた中年の比丘に「プラ・キヨヒロ・ユーマイカップ(キヨヒロさん居ますか)?」と尋ねると「ローサックルーナ!(ちょっと待ってて)」と言ってクティらしき方向へ入って行った。

ワット・ポムケーウで藤川さんと再会

2分ほどして出てきた藤川さん。いつもの姿だが顔艶の良く元気そうな第一印象だった。

「“日本人が来た”って言うから誰かと思うたら、何やお前か!」とガッカリしたような素振り。せっかく日本からわざわざ会いに来たのに“何やお前か”は無いだろう(ムエタイ取材のついでだけど)。

来るに至った経緯は手紙で知らせてあったので驚くこともアテが外れるということもないだろうが、タイのお寺で会うのは5年ぶりである。荷物が嵩張る旅だったから御土産は薬類だけだが、それでも喜んで貰えた。

そして、「試合は日本人が勝ったんか?」と言うから「日本人2人目のムエタイチャンピオンが誕生しました!」と言うと、「その話はここの連中の前ではするなよ!」と言う藤川さん。移籍前の寺の時からその事情は聞いていた。

懺悔の儀式も日課、先輩僧に向かう

日本vsタイの試合がある時はなるべく寺に居たくないのだという。辰吉丈一郎がタイ人(シリモンコン戦=1997年)とやった世界戦の時はバンコクへ逃げたと言う(大袈裟な言い方)。

日本人が勝てば、「八百長だろう。幾らか払ったんだろう?」と言い出すタイ人。タイ選手が勝てば「どうだ、タイ人は強いだろう!幼い頃からムエタイやっているからな、日本人なんかに負けないんだよ!」。どこかの国みたいな洗脳教育がされているのかと思うほどだという。

日本の水着タレントのグラビア見て「幾らだ?」と言い出すムエタイ選手だったり、一概には言えないが、彼らは決して威圧的に主張してくるのではなく、学歴低い田舎者の自慢話程度のこと。藤川さんの長話しよりマシだろうし、彼らはテレビで観れる範疇のボクシングがストレス発散の“娯楽”だから聞いてあげていいだろうと思う。

◆泊まりは野宿!?

クティは和尚さんが「部外者をあまり中に入れるなよ!」と言われているらしく、誘ってはくれなかった。

私を泊めてくれたのは外にある物置小屋の縁側。そこもクティの一部で、30歳ぐらいの比丘(仮称=ソムサック)が使っている部屋があり、その扉の前にある縁側に蚊帳と毛布を持って来てくれた藤川さん。

するとソムサックさんが廊下を掃除してくれて蚊帳を吊るのを手伝ってくれた親切な比丘だった(このソムサックさん、後々また会うことになる)。それでも金鳥の蚊取り線香は焚く私の念の入れよう。蚊帳吊るのはラオス以来だな。

翌朝は巣鴨以来の、藤川さんの托鉢に着いて行くことになっていた。

クティの廊下を掃除してくれた若いお坊さん

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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