老いまで、ロックにしちまったのか、あんたらは。
転がされる石のように暮らす日々の中で手に取った、写真集『2014ローリング・ストーンズ in 東京』を開いてそう思った。
2014年の東京公演。ステージ上の、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、チャーリー・ワッツを捉えた鮮明な写真。
転がる石であり続けた証のように、顔の深い皺までが、ビートを刻んでいる。

熱狂的なファンでなくとも、この世に抗って生きようとする者なら、ローリング・ストーンズの曲は、心の底でいつも響いていたのではないだろうか。

編著者として、写真集の案内人となっているのが、『三島由紀夫と全共闘の時代』(鹿砦社)の編著者でもある、板坂剛。
日大芸術学部で全共闘運動を闘い、その後は、反文壇プロパガンダを展開したり、皇室ポルノ事件を勃発させ、現在はラジカルなフラメンコダンサーとして生きている、板坂剛はそれにふさわしい。

板坂剛は、ストーンズをこんなふうに語る。

1960年代には、われわれは実に容易に彼らの姿に感情移入することが出来た。
彼等のように存在すれば、生き延びることが出来るような気がした。
それからずっと、彼等はわれわれの前を走り続けていた。
だからわれわれはここまで生きてこられたのかもしれない。
彼等を追いかけて行けば、何かを見つけることが出来るはずだという確信を抱くことが出来た。
何でもいい。それが世の中から見棄てられた、つまらない、何の役にも立たない、電車の中に置き忘れられた、一本のビニール傘のようなものであったとしても、それはそれでいいのだと、思い切ることが出来た。
どうせ人生なんてそんなものだ。
だけど走るしかないんだ。
止まってしまったら、そこが終点になってしまうんだから。
壊れかけたビニール傘になるのはまだ早い。
だったらもう少し走り続けてみようか。もう少しだけ……。
そんなふうに自分を追い立ててここまで来た。

板坂剛の言葉に照らされて、ミックの、キースの、ロンの、ウッドの姿が、己の心を映す鏡になる。

(深笛義也)