週刊誌の仕事の表から裏まで教えてくれた、大先輩が逝ってしまった

過日、『週刊特報』でお世話になった種義則編集長(宝島社)が亡くなったという知らせが入った。2002年夏の創刊から2004年の夏、休刊するまで、まる2年、デスクとしてお世話になっていたが、さまざまな出来事を思い出す。僕が担当するのはニュースであり、とりわけスクープが求められていた。

僕は週刊文春で仕事した経験があるフリーの記者たちを集めた。彼らが情報網を駆使して集めたネタは、政治、経済、事件、警察のウラ、総会屋など実に多岐にわたっていた。書き上げてきたデータを、週刊誌らしいフォームにリライトする作業に、時間は大きく費やされた。また、グラビアも担当した、膨大なヌード写真のポジがある。それをどう組み立ててページにするのか、一から種氏は手取り足取りで教えてくれた。

週刊誌の記事を作るといっても、作り方も人脈もない僕は、同僚といっしょに光文社の『フラッシュ』編集長のところや『サンデー毎日』のデスク氏に赴き「週刊誌の記事はどうやって作るのですか?」とあけすけに聞いたりもした。
フラッシュ編集長が「どんな記事でも3人で手がけるようにしている。そうでないと記事に厚みが出ない」と印象的なアドバイスをくれたのが、印象に残っている。また「会議ではネタなんか出ない。情報源や記者と雑談しているほうがよっぽどネタが出る」とも。今考えれば2つとも大きく僕にのしかかってきた。

事件などの発生ものは、ひとりで書くには確かにしんどい。ウラとりも骨が折れる。
ちょうど、メディア訴訟の賠償金が高騰化してきていた。確か名誉毀損は、「賠償金300万円」が基準になろうとしていた。僕たちは、集まってきた情報が正しいかどうか、確認する術が少なかった。

それで僕は、しかたなく自力で警察や探偵会社や、テレビ局などに情報ルートを作り、独自の情報網を作り上げた。今、考えれば編集部の金で動いていたので金銭的な負荷はなかった。たいへんありがたい話である。フリーで自前で人脈を作るのは至難の技だ。この人脈は今もライターとして生きている。

週刊誌の記者はとにかくトッポい。企画が通らなくて怒鳴りこまれ、深夜に話し合いに行ったことも二度や三度ではない。種編集長は『週刊宝島』でもファッション雑誌でも編集長を務めたやり手であるが、「まじめに記事を作るだけでなく、読者にインパクトを与えるのが重要だ。それが君には欠けている」と指摘されたのが、今も鮮明に覚えている。だが仕事ができなくて文句ばかり言う僕のネタを最後まで誌面に取り上げてくれた。種編集長、来世も一緒に雑誌を作ろうではありませんか。もちろん、あなたが僕をスタッフとしてハイヤーしてくれればの話だが。

(小林俊之)

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