◆立嶋篤史の側近

小林利典(1967年3月、千葉県船橋市出身)は、目立った戦歴は無いが、スロースターターで、圧倒的に押されながら巻き返し、粘り強さで逆転KOに導いた試合もある、長丁場で実力を発揮するタイプのフライ級からバンタム級で戦ったキックボクサーだった。

立嶋篤史のセコンドに着く小林利典(右)(1991年10月26日)

また立嶋篤史のセコンドとして静かな注目を浴び、引退後はレフェリーを長く務めている。

習志野ジムで小林利典の後輩だった立嶋篤史は1990年代のカリスマで、余暇と試合に向けたトレーニングに入った時のメリハリが強く、部外者が接することはなかなか難しい空気が漂った。控室などは特にそんな空気が凍り付く場である。そこに常に居たのが小林利典やタイから来たトレーナーのアルンサック達だった。

ビザ期限が迫った際のアルンサックからは「俺が居ないときはお前がアツシを支えろよ!」と言われていたという小林利典はプレッシャーもあっただろう。

しかしその反面、立嶋篤史が、「セコンドの小林さんの方がモテて、ファンレターとか来るんですよ!」と言うようなホッコリする話題も多い。

◆目立たぬ新人時代

小林利典は1983年(昭和58年)秋、習志野ジム入門。閑散とした選手層の薄い時代に、このジムに居たのはベテランの弾正勝、葛城昇。他、記憶に残るほどの練習生は居なかったという。

デビュー戦は早く1984年3月31日、千葉公園体育館で村田史郎(千葉)に判定負け。

同年8月19日には、全日本マーシャルアーツ連盟興行でのプロ空手ルールで佐伯一馬(AKI)に判定負け。現在の活気ある時代とは事情が違うが、ややルールの違う競技に赴いてでも試合の機会を増やしたい時代であった。

閑散とした時代のデビュー戦同士は判定負け(1984年3月31日)

やがてキックボクシング界は最低迷期を脱し、定期興行が安定する時代に移ったが、それでも試合出場チャンスは少なく、先輩のチャンピオン、葛城昇氏から「タイは若いうちに行け!」と言われたことは、多くの選手が言われた“本場修行の勧め”であった。

1989年(平成元年)4月、初のタイ修行に向かった先は、日本と馴染み深いチャイバダンジム。日本人にとって比較的過ごし易いジムだが、日本では味わえない雑魚寝の宿舎では度々争いごとにも遭遇。でも競技人口多いタイでは試合はすぐに組まれ、日々の練習と共に不便な環境でも充実した経験に繋がっていた。

タイで最初の試合はランシットスタジアムで判定負け(1989年4月 提供:小林利典)

◆大抜擢は貴重な経験

周囲から見て小林利典の戦歴で印象的なのは1994年10月18日、東北部のメコン河に近いノンカイで行われた国際的ビッグマッチ。日本からは伊達秀騎(格闘群雄伝No.11)と、小林利典が出場。前夜にバンコクからバスでノンカイに向かい、朝9時に到着したホテルのレストランでは隣のテーブルに対戦相手のソムデート・M16が居た。小林は小声で「殺さないでね!」とは冗談で笑わせていたが、内心は本音でもあっただろう。

この経緯は、我々と馴染み深いゲオサムリットジムのアナン会長が試合10日程前に、当時はジッティージムで練習していた小林利典を訪ね、ビッグマッチ出場を依頼。日本vsタイ戦として予定していた日本選手が出られなくなり、どうしても日本人が必要で、断り切れずに受けて立った小林利典。後々アナン氏のジムに居たソムチャーイ高津(格闘群雄伝No.7)から、相手がソムデートだと知ることになる。

当時、ルンピニースタジアム・フライ級2位で、倒しに掛かる強さだけでなく、派手なパフォーマンスで賑わせていた人気者だった。実質、日本の3回戦vsムエタイランカーの試合。

小林利典が対戦相手を知ったことを察したアナン氏は「逃げないでね!」と念を押すが、小林は“やってやろう”という特攻精神が強く働き、置かれた日本代表の立場から逃げる気など全く無かった。

ソムデートに終始攻められたが、貴重な経験となった(1994年10月18日)

国歌斉唱は選手二人で歌った異例の事態(1994年10月18日)

しかし、戦ってみれば全く格の違いを見せつけられた展開。ソムデートはアグレッシブな態勢で蹴り合えばスピードも違った。脇を広げ、ワザと蹴らせる余裕も見せたソムデート。インターバルでは「オーレー・オレオレオレ~♪」と観客に向かって歌い出す余裕のパフォーマンス。

完全に翻弄され続けるも、アナン氏は心折れない小林を、第3ラウンドも「よし行け!」と尻を叩いて行かせた。結果はパンチで防戦一方となったところでレフェリーストップ。惨敗ではあったが持つ技全て出し切り勇敢に戦い、多くの観衆が小林を拍手で称えていた。

「ソムデートはローキックが重く、絶対的な差を感じました。試合で怖いと思ったことはなかったですが、ソムデート戦は初めて怖いと思いました!」という感想。
この試合はタイ全土に生中継された一つで、IMF世界タイトルマッチだったが、それを知らされないままノンカイに向かう途中のバスの中で、日本国歌独唱を命ぜられてしまい、伊達秀騎と二人で斉唱となった。「小林さんの歌の上手さに驚きました!」という伊達秀騎。

小林は「高校の頃、校訓に“国を愛し、郷土を愛し、親を敬う”とあった為、国歌と校歌はしっかり歌わされてたので緊張はなかったです!」と、ソムデート戦を前に群衆の前で歌うことなど全く苦ではなかっただろう。

翌日のビエンチャン観光、ソムデートとツーショット(1994年10月19日)

タイでの試合も風格が増してきた小林利典(1995年3月24日)

◆キックからは離れられない人生

小林利典はタイでは10戦程経験し、1995年5月18日、タイ・ローイエット県での試合をしぶとさ発揮で判定勝利し現役引退したが、その後トレーナーとなることはなかった。

性格的に優しく、強い言葉で檄を飛ばすタイプではないが、選手に掛けるアドバイスは情熱が厚い。そこに信頼関係が生まれることは他のジムの選手に対しても多かっただろう。

日本では他所のジム同士であっても、タイではチームとなって行動することが多かった国際戦シリーズ。

「一緒に出場した戦友のような感じ、小林さんは漢気ある人です!」と言う伊達秀騎。

同時期にタイでも活躍した、ソムチャーイ高津にとっては小林さんによって選手生命を延ばしてくれた恩人だという。

自身がヒジ打ちを貰い大流血した試合で、同じ箇所に肘打ちを貰ったら命が危ないと直感し棄権TKO負け。セコンドに着いて貰った小林さんに、引退することを話したところが、

「俺はまだまだ、高津くんの試合を観たいと思ってるよ。まだまだこれからの選手だから高津くんは成長すると思うよ!」と励まされ、「この言葉を掛けられなければ、タイで勝つことも、この先の充実した現役生活も無かったと思う!」と語る。

バイヨークタワー脇の路地での興行だが、プロモーターは金持ちです(1995年3月24日)

ローキックで仕留めた、タイでの鮮やかKO勝利(1995年3月24日)

引退した翌年、MA日本キックボクシング連盟で審判員が人手不足となり、小林は先輩方に依頼されて、ジャッジ担当で一度だけの協力をしたつもりが、毎度声を掛けられてしまう。そして断り切れずに続けるうち経験値が増してベテラン域に達した。レフェリーとして25年経過。これまでの多くの経験値から、消え去るのは勿体無いと、キックボクシング界に携わるよう導びかれたような因果応報である。

プロボクシングではレフェリーは立場上、ジム関係者と親密になれない厳しさが常識的だが、コミッションの無いキックボクシング界は、昔から緩やかな傾向がある。それでも試合裁定に影響がないようにジム側と接触を避ける必要も生じ、自然と疎遠となる関係者も居たという。ソムチャーイ高津もその一人で、引退後OGUNIジムのトレーナーとなったが、現在はトレーナー業を離れて長い年月を経た高津氏。現在は小林氏とは度々親しく飲み会に誘うとか。

私(堀田)もタイで高熱を出して入院した時もたまたま小林氏が近くに居て、大阪から来た選手がタイの田舎でデビュー戦を行なう時もセコンドを買って出て、小林氏の声が耳に残るほど何かと手助けを受けたり、他の選手へのその姿を見る縁は深い。良い腐れ縁が続くのもこの業界の傾向。多くの古き関係者も、小林利典氏とは現役時代を語ること多き晩年となるだろう。

ベテランレフェリーとなって試合を裁く小林利典(2016年7月23日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』11月号!