〈特別寄稿〉こんな官僚的対応をしていて、新聞社として取材活動ができるのか ── 大学院生リンチ事件・鹿砦社名誉毀損事件をめぐる朝日新聞の対応について 山口正紀(ジャーナリスト、元読売新聞記者)

2月20日付「デジタル鹿砦社通信」を読んで、朝日新聞社の不誠実極まりない官僚的対応にあきれ果てた。

◆幹事社として鹿砦社に対応した朝日記者には、明らかに「説明責任」がある

問題の第一は、鹿砦社が李信恵氏を名誉毀損で提訴した際、記者クラブ幹事社として記者会見の要請を拒否したこと。「加盟全社に諮ったうえ」とのことらしいが、少なくともあの凄惨なリンチ事件の当事者が、それを告発した鹿砦社を「クソ」呼ばわりした、しかもその当事者は李信恵という社会的に名の知られたライターであり、自身の訴訟では度々記者会見を開き、記者クラブ加盟各社もその会見を記事にしてきた、半ば公人である。

これは、司法記者クラブという半ば公的な存在であるメディア機関が、このリンチ事件に関しては「中立・公正」の建前を捨て、それを市民・読者・視聴者に伝えるメディアとしての役割を放棄し、リンチ加害者を擁護したことになる。

これについて、幹事社として鹿砦社に対応した朝日記者には、明らかに「説明責任」がある。朝日新聞は、安倍政権のモリカケ疑惑などで、関係機関・個人の「説明責任」を求めてきたが、自身がそれを求められた場合、当事者である記者が、電話にも応じないというのは、実に不可解な態度であり、明らかな二重基準だ。

◆3人の朝日記者がとった対応は、ジャーナリストとしての基本を踏み外した責任放棄対応だ

問題の第二は、関与した記者たちが、鹿砦社の電話取材から逃げ回り、記者個人・ジャーナリストとしての矜持も捨てて、「会社」にすべてをゆだねてしまう情けなさだ。

この3人の記者は、自分の取材対象が取材途中で「詳しいことは会社が対応します。広報を通じて取材して下さい」と言ってきたら、はいそうですか、とすんなり応じるのだろうか。そんなことはあるまい。「あなたには、問題の当事者として取材に答える義務がある」とその当事者を追及するのではないだろうか。

もし、これが朝日新聞の「取材への基本的対応」であるとしたら、もうこれから、だれも朝日の取材には応じなくなるだろうし、応じる必要もなくなるだろう。3人の記者がとった対応は、それほどにジャーナリストとしての基本を踏み外した、「会社人間」の責任放棄対応だ。

◆本社広報部部長代理の対応は国税局長に出世した佐川氏と同レベルだ

問題の第三は、対応を委ねられた本社広報部部長代理の尊大極まりない電話対応だ。

個々の記者には「本社広報部が窓口」と言わせておきながら、窓口としての役割を果たそうとせず、鹿砦社の取材を「非常識・迷惑」と非難する不誠実な電話対応に終始した。

少なくとも、「広報が対応する」というのなら、記者個々人に代わって、広報部としてきちんと質問に答えなくてはならない。そうでなければ、「広報部」とは言えない。それを、この河野部長代理は、問題の経過、事実関係もろくに把握せず、「記者に連絡を取るのは止めてくれ」「細かい大阪のことは知らない」という無責任で不当・不誠実な対応を繰り返した。

河野氏は元新聞記者なのだろうか。もしそうであれば、取材対象が「広報部」に連絡してくれと言って、広報部に連絡すると「個人への取材は止めてくれ」と言われ、はいそうですか、と引き下がるような軟弱な取材しかしてこなかったのだろう。

記者個人に「広報部を通じて」と言わせたのなら、せめて、広報部として、相手の質問に誠実に答えるのが「新聞社の広報部」ではないのか。これではまるで、「何も知りません」「資料は破棄しました」答弁を繰り返して国税局長に出世した佐川氏と同レベルだ。

今回の鹿砦社に対する対応で、朝日新聞社は、自分たちが取材対象になった場合は、こんな官僚的対応を取る会社であり、「取材の自由」や「報道の自由」を平気で踏みにじるメディアであること、ジャーナリズムとは程遠い存在であることを、天下にさらけ出したというほかない。

▼山口正紀(やまぐち まさのり)
ジャーナリスト。元読売新聞記者。記者時代から「人権と報道・連絡会」メンバーとして、「報道による人権侵害」を自身の存在に関わる問題と考え、報道被害者の支援、メディア改革に取り組んでいる。

◎[関連参照記事]鹿砦社特別取材班「朝日新聞本社広報部・河野修一部長代理が鹿砦社に答えた一問一答の衝撃」(2018年2月20日付デジタル鹿砦社通信)

◎今回の朝日の対応は多くの方々に衝撃を与えました。今後、メディア関係者の論評を暫時掲載いたします。また、皆様方のご意見もお寄せください。

最新刊『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD
『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)
『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)
『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

上野千鶴子とは何者だったのか?〈2〉生き延びるための東大移籍

 
『多型倒錯―つるつる対談』(1985年創元社)

縁は不思議なものである。会社勤めに嫌気がさして、京都の小さな私立大学の事務職員に転職したわたしは、そこで上野先生と再会をはたすことになる。上野先生に講義を2回だけうけてから10年弱で同じ職場に勤務することになった。上野先生は多忙なので、個人でアシスタントを雇っていた。きびきびした感じの良いわたしと同年齢の女性だった。

学内に上野先生がいないときはその方が連絡役や、郵便物の整理を担当していた。ある時上野先生から「研究室に設置してあるFAXの調子がおかしいので、見に来てくれないか」と事務室に電話があった。わたしは着任してから何度か上野先生と言葉を交わしていたが、学生時代に上野先生の講義で質問したことがある(第1回参照)ことは、話していなかった。

◆「ところで先生、もうお忘れですよね」

具合の悪いFAXの調子をみながら「ところで先生、わたしは学生時代に先生の講義で質問したことがあるんですけど、もうお忘れですよね」と声をかけると「え、そうだったの?どこの大学?」、「関西大学ですよ。大教室の講義で質問させていただきました」、「ああ、そんなことあったっけ…」。どうやら上野先生の記憶の中にわたしの質問は残っていなかったようだ。同じ職場で働くうえではその方が具合は良い。「クソ生意気な職員」と教員から思われて得することなど一つもないのだから。

 
『スカートの下の劇場 ― ひとはどうしてパンティにこだわるのか』(1989年初版=河出書房新社/1992年河出文庫)

ところが、それからわずか数年後にわたしや同僚は、上野先生に対して逆鱗せねばならない事態に直面させられる。当時上野先生が所属していた学部には、大学院がなく、大学全体の価値を高める上でも大学院の設置が決定し、教員と職員数名による「大学院設置準備委員会」(正式名称はちょっと違うかもしれない)が発足し、上野先生は教員として、わたしは職員の一人としてその「委員会」に所属していた。新設大学院はどのような修了生輩出を目指すのか、カリキュラム内容はどのようなものにするのか。大学院設置に関して、その方向性から実務までのすべてが「委員会」で議論された。

大学が新しい学部や、大学院を設置するときは、同一もしくは類似分野で先行して学部や大学院を開設している大学を訪問し、先行大学の経験やカリキュラムについて教えてもらう。企業の世界ではあまり一般的ではないけれども、そういった調査・準備活動が大学業界では珍しくなかった。わたしも教務部長とともに幾つもの大学にお邪魔し、薫陶を賜った。「委員」各位の努力の甲斐あって、文部省(現在の文科省)に大学院設置に関する書類を提出する準備も整い、順調に作業は進んでいた。

◆「どうして東大に移られたのですか?」

ところがある日、衝撃的な情報が学内を駆け巡った。次年度から上野先生が東京大学に移るというのだ。上野先生は前述のとおり「大学院設置準備委員会」のメンバーで「委員会」の際も積極的に発言をしていた。順調に行けば次年度から開設される大学院の教員リストの中には、当然上野先生の名前があった。それが開設を控えた時期になっていきなり来年から「東大にいく」と言い出したのだ。

 
『家父長制と資本制 ― マルクス主義フェミニズムの地平』(1990年初版=岩波書店/2009年岩波現代文庫)

「売れっ子」は、より待遇の良い場所で仕事をしたがるのはわかる。だから大学院設置の話が出たとき、わたしは親しい教員に「上野先生、逃げることないでしょうね?」と聞いたところ「大丈夫。その心配はないよ」と言われていた。わたしはその教員の返答に、要らぬ心配はすまいと、それ以上上野先生の「流出懸念」は忘れていた。でも結局大学にとっては一番困るタイミングで「東大移籍」が行われることになった。

困る理由の一つは「売れっ子」が居なくなることだが、当時最大の問題はそれではなかった。大学院の設置には文部省(現文科省)による教員の資格審査がある。
大学院で論文指導を行うことができる教員を「〇合」(まるごう)、論文指導はできないけれども、論文指導補助と講義は担当できる教員を「合」(ごう)、論文指導は担当できないが講義は担当できる「可」(か)と、学歴(学位)、過去の業績や教歴により、担当教員として申請した教員全員が文部省により、ふるい分けられるのだ。

一定数の「〇合」教員がいないと大学院自体の認可申請がおりない。先に述べたように先行大学を訪問し、開設の際の文部省との折衝を伺うと、新たな大学院設置に関しては、教員の資格審査が、最大の懸念事項になるであろうことは「委員会」の共通認識だった。

本論とはそれるが、一度「〇合」と文科省から認定されると、その分野では評価が下がることはない。だから安定志向で新たな大学院設置を行う大学は、既に「〇合」と認定されている教員(主として国公立大学の定年後、もしくはそれに近い教員)を呼んできて開設するケースも多い。そうすれば教員審査によって大学院の開設が不許可になることはないからだ。

私たちは新たな教員の採用なしに、当時の保有スタッフでの大学院開設を目指していた。しかし、当時の教員スタッフの中には博士号保持者はおろか、修士号保持者も少なかった。訪問先の大学で「おたくの教員、学卒(学部卒業)が多いねー。これは厳しいなー」とコメントされたこともあった。社会的には著名で、実績はあるけれども文部省が「〇合」と認定してくれる確証を持てる人数は少なく、その中に修士号を取得していた上野先生は当然入っていたのだ。「大学院設置準備委員会」メンバーで私たちが「〇合」確定とカウントしていた上野先生が抜ける!急遽補充をしなければ認可を得ることが難しい状況となった。

その後大学執行部や学部の努力により、上野先生に変わる教員の採用を急遽決定し、大学院は開設することができた。しかし私は以下のコメントを忘れない。東大に移った上野先生が新聞のインタビューに答えていた。

「どうして東大に移られたのですか?」
「きまってるじゃない。私立大学の仕事の多さに嫌気がさしたからです」

朝日新聞だったのではないかと記憶するが、このコメントはわたしの神経を逆なでした。前述の上野先生の「東大移籍」劇がその理由ではない。実は上野先生はわたしの勤務していた大学で1991年から1年間ドイツへ公費で研究に出ておられた。著名な先生なので、それは分からないことではない。学外での研究が学生の教育へ還元される効果も期待できる。ところが上野先生は1年間学生への講義を行わず、ドイツで研究に従事していたにもかかわらず、3年もおかず、今度は「メキシコから招聘されているので、1年メキシコに行きたい」と言い出したのだ。その時期と「大学院設置準備委員会」に上野先生が参加していた時期が同じだった。教員には「サバティカル」と呼ばれる1年間の国内外研究期間が与えられる制度があったが、その間、当然講義はできないから、不文律ながら当該学部の希望教員が順番に「サバティカル」を取るのが慣例だった。

上野先生は着任数年で1年のドイツ行きが認められただけでは満足せず、3年とおかずに「メキシコに行きたい」と駄々をこねだしたのだ。古くから在籍している教員や、私たち職員も「やっぱり『売れっ子』はわがままだなぁ」と感じた。

 
『上野千鶴子 東京大学退職記念特別講演 生き延びるための思想』(2011年講談社DVDブック)

◆人情派の教務部長は泣きながら吼えまくった

「東大移籍」が発覚したとき、当時の教務部長は事務室で、私と飲みながら怒りを隠さなかった。「なにが東大や!ワシらはたしかに小さな田舎大学や。でもこんなに素敵な大学があるか?ワシは心からこの大学を愛しとる。お前もそうやろ?」やや酒癖の悪いけども人情派の教務部長は泣きながらわたしに吼えまくった。「あたりまえや!なにが東大じゃ!所詮最後は権威主義の『東大』で上がりたかった言うことやろ!勝手にせえや!なあ○○さん。ワシはこんなことされたら気が済まん。絶対にこの大学を世界一にしようや。日本一なんてくだらん。世界一や!」○○さんの逆鱗は数時間収まらなかった。「委員会」の末席を汚していたわたしも同様だ。

「どうして東大に移られたのですか?」
「きまってるじゃない。私立大学の仕事の多さに嫌気がさしたからです」

よく言えたものだなぁと呆れた。ただ、怒りの一方、いちまつの寂しさもあった。それは上野先生が学生からの評判が良く、けっして難関大学ではない、田舎のちいさな大学で(大学へはかなり横柄ではあったけれども)、学生の面倒見は感心するほど繊細だったからだ。当時、わたしは教員が評価した学生の成績をコンピューターに入力し、学生に伝える部署に配属されていた。通常、学生の評価(成績)は遅くとも2月中旬には教員から事務室に伝えてもらうことになっていたが、上野先生だけでなく、研究や休暇で海外へ出かける教員が多いのもこの時期だ。

しかし、4年生は3月の卒業を控え、3年生以下も次年度の履修計画に影響するので、教員から成績をもらえないことには学生に伝えることができず、その結果学生に不利益をもたらす懸念を成績担当の事務職員は常に持っていた。いまのように電子メールが普及してない時代にあっては、手紙かFAX,あるいは国際電話でしか、確認が取れないこともあるからだ。

どの国か忘れたけれども上野先生が、海外にお出かけの際に、学生の評価(成績)について国際電話で確認したことがある。履修者数の少ない講義ではあったが、上野先生はすべての学生の到達度と熱心さを把握しており、電話越しにわたしが投げつける質問に、すべて即答してくださった。学生の教育には本当に熱心な方だと感銘を受けた記憶は忘れられない。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書、2月26日発売!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

上野千鶴子とは何者だったのか?〈1〉80年代の売れっ子学者

 
『女は世界を救えるか』(1986年勁草書房)

この人と最初に言葉を交わしたのは、まだ大学生の頃だからもうかなり昔の話だ。

平安女学院短期大学(当時)の教員だった上野千鶴子先生はすでに売れっ子で、わたしの通う大学にも集中講義のような形で教えに来ていた。科目名は記憶にないが、大教室で行われる売れっ子上野先生は講義でどんなお話をされるのか。興味半分にその科目を履修登録はしていなかったけども、数人の友人と聴講に行った。

◆「キミ、質問が複雑そうだから前に来てここで話してくれる?」

わたしたちが参加した講義は、既に数回の講義を経たあとだったようで、「家族」についての各論を上野先生は、細かく語っていた。滑らかな弁舌は自信に満ち、滞ることなく黒板にキーワードを書きながら、はっきりと聞き取りやすい語り口でその日の講義は終了し、質問を受け付ける時間となった。300人ほど入る半円形の教室の中で挙手したのは、わたし一人だった。質問をはじめると上野先生は「キミ、質問が複雑そうだから前に来てここで話してくれる?」とわたしは教壇の上で質問を続けることを要求された。

講義では、「世代や国境を超えて男性に資産が引き継がれてゆく仕組みが、男性優位社会を形作っている」との解説があった。わたしの質問は「世界は広い。文化も多様だと思うが、世界中でどうして同一形態の男系資産相続が発生したのか。世界の男性どもは、どのようにその謀議を図ったのか」だった。世界各国に当時(現在も)母権主義(女系相続)社会があることを念頭に、その質問を上野先生にうかがった。

 
『女遊び』(1988年学陽書房)

◆「時間があったら研究室に遊びにおいでよ」

上野先生からは「なかなかいい着眼点ですね。なにかの本を読んだのかな?」と逆質問されたが「いいえ、お話をうかがって直感的に疑問に感じました」とわたしは答えた。講義終了時間が迫っていたからだろうか、上野先生は「この質問は議論が深まるので、来週の講義はこの問題から始めます。キミ、来週も来てくれるよね?」と出席を求められたのでわたしは「はい、参ります」と答え講義時間が終わった。

講義終了後「キミ、何の専攻なの?」、「平女(平安女学位短期大学)はバイクで山越えたらすぐだからさ、時間があったら研究室に遊びにおいでよ」と上野先生からのお心配りの言葉もいただいたが、わたしは別に上野先生のファンではなかった。むしろ彼女の発信にはいつも、どこかに曰く言い難い「ズレ」を感じていた。所詮は学部学生のわたしが、上野先生を「論破しよう」などと無茶なことは考えていなかった。彼女との直接のやり取りの中で自分が感じる「ズレ」の本質がなんであるのかを確認したいとは思っていた。

◆「意地悪だね、キミ」

翌週の講義開始時、わたしは教壇に再度呼ばれ、質問内容をもう一度詳しく語るように求められた。5分ほどかけて質問の主旨と、母権主義(女系相続)社会の存在をどう考えるかを聞いた。

 
wikipediaより

そのあと上野先生はわたしの質問に対して、誠実に解説をしてくださった。そう努力してくださったことは間違いない。しかし回答は、私の疑問を解く内容とはなっていない。立て板に水で、ときに難解な単語も織り交ぜながらの論説は、大枠で私の質問を包摂しながら総論を述べているようで、実は核心部分に触れるものではなかった。

わたしは、「お話しいただいた内容は理解しますが、わたしの疑問への直接の回答とはなっていないように理解します。もう少しわかりやすく教えて頂けないでしょうか」と再質問すると「意地悪だね、キミ」と冗談交じりに教室の笑いを誘い、「この問題も重要だけどまだ、話さないといけないことがたくさんあるから、もっと議論したかったら、平女に来てください」と、これまたちょっと笑顔を浮かべてわたしの質問への回答は打ち切られた。

なるほど売れっ子は「かわし方がうまいな」と感じた。一度だけ野次馬根性で覗いてみた上野先生の講義に、2度出ることになったが、「売れっ子見物」以上の興味を持っていなかったわたしにとって、それ以降彼女の名前に興味をもつことはなかった。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書、2月26日発売!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

冤罪・名古屋の小学校教師「強制わいせつ」事件の裁判が年度内に決着へ

去る1月5日、当欄で「2018年の注目冤罪裁判」として紹介した名古屋地裁で進行中の小学校教師「強制わいせつ」事件の裁判が佳境を迎えている。去る2月7日には、「被害者」の女児の供述を分析した認知心理学者が証人出廷し、女児の供述の信頼性に疑問を投げかけた。裁判の行方については予断を許さないが、そもそも「強制わいせつ事件」自体が虚構のものであることが心理学的にも裏づけられた格好だ。

2月7日の公判後、支援者に報告する喜邑さん、塚田聡子弁護士、中谷弁護士(左から)

◆女児が訴える被害は“偽りの記憶”か

この事件の被告人で、小学校教師だった名古屋市の男性・喜邑(きむら)拓也さん(37)は2016年11月、勤務していた小学校の1年生女児に対する強制わいせつの容疑で逮捕され、2017年1月に起訴された。しかし喜邑さんは一貫して無実を訴え、名古屋地裁で進行中の裁判では、無実を信じる支援者たちが毎回多数傍聴に駆けつける異例の事態になっている。

その理由は、喜邑さんが元々、生徒に人気があり、父兄からの信頼も厚かった教師だったこともある。しかし何より、この事件が冤罪であることを示す事情が散見されることが支援の活発化につながっているのだと思う。

というのも、検察の主張では、喜邑さんは掃除の時間中、教室で「被害者」の女児の服の中に手を入れ、胸を触ったとされているのだが、教室にはその時、約20人の生徒がいながら「喜邑さんの犯行」を目撃した生徒が1人もいないのだ。そもそも、そんな大勢の生徒がいる教室で、教師が女生徒の服の中に手を入れ、胸を触るという犯行に及んだというのも不自然だろう。

そして2月7日、認知心理学者の北神慎司名古屋大学准教授に対する証人尋問が行われたのだが、これにより、そもそも「強制わいせつ事件」は存在しなかったという弁護側の主張が心理学的にも裏づけられることになった。

北神准教授によると、女児の証言には「最初は右の胸を触られたと言っていたのに、2カ月も経ってから触られたのは左胸だったと言い出すなどの不自然な変遷がある」とのこと。喜邑さんのことを「犯人」だという“確証バイアス”を持った母親らが女児に繰り返し質問したことにより、女児が“偽りの記憶”を形成した可能性があるというのだ。

◆判決は3月28日

裁判は今後、2月28日に喜邑さんに対する被告人質問、3月14日に検察官の論告求刑と弁護人の最終弁論などが行われて結審し、3月28日に判決が宣告される予定。担当の安福幸江裁判官が新年度に他の裁判所に異動になる可能性が高いため、年度内に判決が宣告できるように調整し、このような駆け足の日程になった。弁護人の中谷雄二弁護士は、裁判の行方については慎重な見方を示しながらも、「新しい裁判官が被告人質問も聞かずに判決を書くよりは良かった」と語ったが、私もそれは同感だ。

公正な結果が出て欲しいものである。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!衝撃の『紙の爆弾』3月号!
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

朝日新聞本社広報部・河野修一部長代理が鹿砦社に答えた一問一答の衝撃

昨年末『カウンターと暴力の病理』を関係者に送付したあとに、年を挟んで1月25日鹿砦社代表・松岡利康名で、この本について約50名に「質問書」を送り、2月5日を期限に回答を待った。回答者は前回本通信でご報告したとおりだったが、「不回答者」の一部に対し2月19日、鹿砦社本社から電話取材をおこなった。

数名には電話が通じ、回答がない理由の聞き取りが行えたが、取材班は驚くべき事態に直面することになった。この日は主としてマスメディア関係者に電話で事情を聞こうと試みたが、“事件”はそこで生じた。

まず登場人物を確認しておこう。

いずれも朝日新聞で大阪社会部の大貫聡子記者、同じく采澤嘉高(うねざわよしたか)記者。この2人は現在大阪司法記者クラブに在籍している。阿久沢悦子記者は現在静岡総局勤務だ。この3名には、前述の「質問状」を送付してある。そして予期せぬ大物登場者は、朝日新聞東京本社広報部・河野修一部長代理だ。

◆「広報で対応する」一辺倒の大貫聡子記者

大貫記者は、李信恵が対保守速報裁判で勝訴した、11月17日の大阪司法記者クラブでの記者会見の際に、取材班の記者室への入室を拒否した人物だ。またこの裁判についての署名記事も書いている。この記事は明白な事実誤認がある問題記事だ。大貫記者に電話をかけると「この事案については会社の広報で対応しますので答えられません」と一方的に電話をガチャ切りされた。違う電話番号から再度大貫記者に電話をかけるも、やはり同様に「広報で担当しますので答えられません」と再度ガチャ切りされた。

鹿砦社は、ツイッターに「鹿砦社はクソ」などと何度も書き込んだ李信恵を、名誉毀損による損害賠償請求で訴えた際、2017年11月1日大阪司法記者クラブへ、松岡社長みずからが赴き、記者会見開催を要請した。ところが当時幹事社だった朝日新聞の采澤記者は「加盟社全社にはかったうえ」とし、記者会見を開かない旨の回答を、要請から実質的に2時間ほどで返してきた(松岡の携帯電話に着信があったのが要請から2時間後、その時松岡は会合中で実際にはその数時間後に釆澤記者へ松岡から電話をかけ「記者会見拒否」を知ることとなる)。納得のいかない松岡は翌日采澤記者に電話で再度「どうして会見が拒否されたのか」を質問した。

その際の回答は納得のできるものではなかったが、一応の「応答」は成立していた。しかし、19日大貫記者は質問をする前から会話を遮断し、「広報で対応する」とまったくラチが明かない。新聞記者は情報を得るために、取材対象を追い、時にプライバシーにまで踏み込んだ取材に及ぶことも珍しくない(職務上仕方のない面もあろう)。しかし自身が「質問」を受けたり、取材対象となると「広報で対応します」と逃げ出す態度は、報道人としてはズルいのではないか。鹿砦社や取材班が不法行為を行ったり、不当な要求をしているのであれば話は別だが、朝日新聞とは「天と地」ほどの規模の違いはあれ、鹿砦社及び取材班は、「事実」を追い、「真実」を突き止めようと情報収集活動を行っているのだ。都合が悪くなったら「広報で」とはあまりに身勝手にもほどがある。

逮捕と同時に 大々的な実名報道を行うのが大新聞だ(近いところでは元オウム真理教の女性信者を大々的に、あたかも有罪確定かのように報じたが、元信者は無罪が確定している)。あの報道を見れば、多くの人が元信者の女性は「有罪」と思わされたことだろう。大新聞はかように大変な影響力と権力を持っている存在であることは述べるまでもない。その大新聞に署名記事を書いている記者に質問をすることは、「不当な行為」なのだろうか。

◆阿久沢悦子記者も「この案件は本社の広報が一括して窓口になるので……」

取材班は仕方なく采澤記者に電話をかけて、大貫記者に「回答をするように促す」との言質を得た。しかし釆澤記者は言葉巧みに取材班の要請を交わしながら、腹の中では別のことを考えていた。電話で取材にあたった担当者も采澤記者が大貫記者に回答を「促す」ことなどないだろう、と感じていたという。

静岡総局に勤務する阿久沢悦子記者は、前任の勤務地が阪神支局で、李信恵らによる「大学院生M君リンチ事件」後、比較的早い時期からM君に接触し、一時はM君に同情的な言動を見せていた人物である(またM君を裏切った趙博をM君に紹介したのは阿久沢記者である)。取材班が阿久沢記者に電話をかけたところ、仰天するような言葉を耳にする。「この案件は本社の広報が一括して窓口になるので、私からは何もお答えできません」というのだ。

阿久沢記者は「その連絡は先ほど私にあった」とも語っていた。ということは、19日の大貫記者、釆澤記者への取材班の電話に対して、両名(もしくはどちらかが)が本社、もしくは上司に「相談」を持ちかけたと推測するのが自然だろう。釆澤記者の「大貫記者へ回答するように促す」との言葉は、やはりまったくの出まかせであったことが阿久沢記者の回答から明らかになった。取材班は「では、担当はどちらの部署か」と尋ねると、待ち受けたように阿久沢記者は「本社の広報部河野修一部長代理です」と電話番号を教えてくれた。

◆朝日新聞東京本社広報部河野修一部長代理との一問一答

おいおい、「天下の朝日新聞」よ、取材に対して拒否だけでなく、本社の広報部部長代理が応対するって? 仕方あるまい。取材班は本社広報部に電話をかけた。以下は取材班と河野氏の一問一答だ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

広報部 はい朝日新聞社広報部です。
鹿砦社 お邪魔します。株式会社鹿砦社と申します。
広報部 どうもお世話になってます。
鹿砦社 いつもお世話になっております。河野(修一)広報部長代理はいらっしゃいますでしょうか?
広報部 はい、少しお待ちください。
河野  替わりました。河野です。
鹿砦社 突然お電話を差し上げまして恐縮です。株式会社鹿砦社と申します。
河野  はい、承知しています。
鹿砦社 お手を煩わせて恐縮なのですが、先ほど来、おそらく采澤さん(嘉高・大阪司法記者クラブ)とか、いろいろな方からご連絡が入って。
河野  ちょっとやめていただきたいんですよね。
鹿砦社 やめていただきたい?
河野  はい。ええ、まず記者の個々人に連絡を取るのはやめてください!
鹿砦社 ちょっとお待ちくださいね。いまおっしゃった「記者の個々人に連絡を取るのは止めてください!」と。
河野  はい、大変迷惑しておりますので。
鹿砦社 迷惑をしている?
河野  はい、そうなんですよ。で、今後連絡一切は私にお願いします。
鹿砦社 あの、ちょっとお待ちくださいね。
河野  はい。
鹿砦社 「連絡を取るのを止め。迷惑をしている」と、署名記事を書かれている記事についての質問状を送るのが、いけないんですか?
河野  質問状もこちらに送ってください。対外的な窓口はこちらなので。それはそのように、いろんなウチに対する申し入れでもそうしているんですよ、ええ。なので個々の記者への接触は厳に謹んでいただきたいと思います。
鹿砦社 「個々の記者への接触は厳に謹んでいただきたい」と。それは要請ですか? あるいは指示ですか?
河野  指示する権利は、こちらはないですのでものね。
鹿砦社 先ほど「迷惑している」というお言葉にちょっと驚愕しているのですけれども。
河野  はい、はい、はい、はい、非常に個々の記者たちは迷惑しています。報告はぜんぶ来ているんですけども。
鹿砦社 具体的にどういったことで、ご迷惑をおかけしているというふうに認識していらっしゃいますか?
河野  はい、そういったことにはお答えいたしませんが。
鹿砦社 いや(驚)?
河野  あの電話切ってよろしいですか!
鹿砦社 電話を切る?
河野  どういう要件ですか?
鹿砦社 ですから、ええといま私は静岡総局の阿久沢(悦子)様にお電話を差し上げて…。
河野  はい、阿久沢は大変迷惑していますので。
鹿砦社 阿久沢は大変迷惑をしている?
河野  それはそうでしょう。会社対応のスマフォとかに電話をかけられたら。
鹿砦社 会社対応のスマフォ?
河野  はい。
鹿砦社 「会社対応のスマフォ」ってどういう意味ですか?
河野  あの携帯に電話をかけているんでしょう。
鹿砦社 ああ、そうですよ。だって携帯電話の番号が入っている名刺を配ってらっしゃるんですから。
河野  いや、だけど迷惑なんですよ!
鹿砦社 ええ!! 名刺に電話番号を入れておいて、その書いてある電話番号にかかってくるのが迷惑というのは、世間では通じませんよ、そんなの。
河野  いや通じますよ。あなたたちのほうが、もうぜんぜんに非常識ですから。
鹿砦社 私たちのどこが非常識とおっしゃって。具体的に誤りがあれば訂正いたしますので。具体的にちょっと教えていただけますか。
河野  本をいきなり送ってきて、で、「その本を読んだか感想を言え」と。
鹿砦社 はい。
河野  その本が読みたくない本だったら迷惑ではありませんか。
鹿砦社 あの「読んでください」ということで、もちろんお送りしていますよ。ただし、送り付け商法ではありませんが、「お金を払え!」とかいうようなことは一切しておりませんよ。
河野  だったら本を送るだけにしてもらえませんか。その後のお便りいりません。
鹿砦社 本を送らせていただくのは、事実関係を理解していただく補助的な資料としてお送りしているのであって。
河野  ええ。
鹿砦社 質問状を送らせていただくにあたっては、こういう背景事実があるんだけども、「どうお考えになるか?」とお尋ねするのが、非常識な行為でしょうか?
河野  はい。
鹿砦社 非常識な行為なんですか?
河野  はい、あの~迷惑です。こちらからなにか読んで言いたいんであれば、連絡することもあるかもしれませんが。ええと、そういう気がまったくございませんので。
鹿砦社 署名記事で書かれていることに、署名記事で書かれるということはありますよねえ。一般的な社会面であっても、地方面であっても書名記事で記事を書くということはありますよねえ。もしもし? もしもし?〈不可思議な間(ま)が続く〉
河野  いや、どうぞ続けてください。
鹿砦社 署名記事を朝日新聞に掲載されることはありますよね。で、署名記事は書かれた方のお名前が分かりますので、それについての意見とか、ご質問とかは読者の方から沸いてこようかと思うんですが、それをお尋ねするというのもいけない行為なんですか?
河野  それは、尋ねたいことがあれば広報に今後お願いしますと。そういうことです。
鹿砦社 それはふつうの読者であってもそうなんですか? 一般読者であっても?
河野  一般読者の場合もお客様専用の、ええと問い合わせ窓口を作っていますんで、そこにかかってきますねえ。記者に直接来ることは、まあ直接取材を受けた方からということはあるでしょうけども。
鹿砦社 署名記事というのは、一定程度その方は、もちろん会社の意向の中で、社論の中で誰々さんが書いたことを明らかにするために、署名にするためじゃないのでしょうか。という理解は間違いでしょうか、私の? それは違っていますか?
━長い沈黙━
鹿砦社 私がお尋ねしている意味がお分かりいただけますでしょうか?
河野  いやーぜんぜん分からないので、返事のしようがない。
鹿砦社 お分かりにならない?
河野  はい。
鹿砦社 え!! 署名記事というは署名のない記事とはちょっと違って、その記事に関して一定の文責、文章を書いた責任を書いた記者の方が明らかにするという性質のものではないでしょう?という質問なんですけども。
河野  う~ん、ぜんぶの署名記事がそうなのかどうなのかというのは、ちょっと分からないですねえ。
鹿砦社 いや、一から百までの責任を個人に個に帰すというのではなくて、誰がどういうふうに書いたか分からないのではなくて、この記者さんはこう書いたものだよと。広い意味で、読者に分かりやすく提示するというので、署名記事というのがあるという理解は間違いでしょうか?
河野  いや、知らないんですけど。それと今回の送り付け行為となんの関係があるんですか?
鹿砦社 「送り付け行為」。
河野  はい。
鹿砦社 ええと恐れ入りますが、河野様ですね。
河野  河野です。
鹿砦社 河野様は、私どもの書籍を送らせていただいたことにはご存知だと思うのですが。
河野  はい、文面もすべて読んでいます。
鹿砦社 はい、その前にですね、私どもが「大阪司法記者クラブに入ることを拒否された」という前段があることは、ご存知でいらっしゃいますか?
河野  それは本にお書きになっているようですねえ。
鹿砦社 いや、事実関係は聞いてらっしゃいますか、記者の方から?
河野  すいません。こちからのお願いは一つで、個々への記者へのそういう……。
鹿砦社 違います! いま私がお尋ねしたのは、「河野さんはその事実をご存知ですか?」とお尋ねしているのです。
河野  あのーこっちは東京の広報なので、細かい大阪のことは知りません。
鹿砦社 だからあなたはご存知ではないわけですよ。なぜ私どもが質問を投げかけなければいけなくなったか、というそもそも発端を。
河野  もうやめてください。こちらとしても、ちょっと迷惑が過ぎるようだったら、ちょっといろんなところに相談しなくちゃいけませんし。
鹿砦社 迷惑?
河野  はい。ええと……。
鹿砦社 ちょっと端的に申し上げますよ。
河野  はい。
鹿砦社 大阪司法記者クラブという、大阪地方高等裁判所の中に記者クラブがあります。東京の裁判所にもあります。
河野  そういう話はいいので、とりあえず……。
鹿砦社 こちらが受けた被害は聴いてくださらないのですか?
河野  はい、なんで聴かなきゃいけないんですか!
鹿砦社 いや、「こちらが受けた被害は聴いてくださらないんですか?」と言っているんです。
河野  被害があるんであれば……。
鹿砦社 いまその話をしているんです。
河野  いいです。被害があるんであれば弊社を訴えるなり、なんなりしてくれればけっこうです。
鹿砦社 訴えるような話じゃなくて、「なんで(記者会見に)「入れていただけないのですか?」ということをお聴きしているのです。
河野  あの、とにかく、ずっと個々への記者へのこれ以上の接触は、この件についてはやめてください。
鹿砦社 いや、ですからその前提事実を、まず顕著な前提事実をご存知ないようですので、その確認を含めてお尋ねしたいと思って。その一つお伺いしたいと思うんです。あの大阪記者クラブ……。
河野  電話切っていいですか?
鹿砦社 あ、聴いていただけないわけですか? こちらは被害申告ですよ。
河野  じゃあいいですよ、別に。あれば書面で私宛てに送ってください。
鹿砦社 被害申告を聞かないわけですか?
河野  はいはい。だから、どうぞ書面で「中央区築地、朝日新聞」で届きますので、あの、どうぞどうぞ被害申告があるというなら。
鹿砦社 さっき「電話で受ける」とおっしゃったんですけれども、電話では受けていただけないんですか?
河野  はい。こちらから、とりあえず個々への記者への接触はやめてほしいということです。
鹿砦社 こちらは一方的に被害を受け続けろと?
河野  だから、そういう被害があるんでしたら改善されなければいけないのでしょうから。
鹿砦社 ですけど、いまお話しようと思うけど、「文書で出せ」というふうに。
河野  被害があれば、どうぞ! それはウチに出すべきものかは分かりませんが。
鹿砦社 じゃあ繰り返しますが、朝日新聞社様は、「非常に迷惑をしている」という認識なんですね。
河野  はい、そうです。
鹿砦社 間違いありませんね。
河野  はい。
鹿砦社 はい、ありがとうございました。失礼いたします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆朝日新聞よ! あなた方は「報道の自由」をどのように考えるのだ?

まるで常習クレーマーを相手にするかのような口調と、文字には表れないが、「揚げ足をとってやろう」と明らかに企図した不可思議な「間(ま)」。よくぞここまで「悪者扱い」してくれたものぞと、かえってすっきりするくらいの「馬鹿にした」態度だ。

朝日新聞よ! あなた方は「報道の自由」をどのように考えるのだ? 鹿砦社は1987年、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」を受けて、先日NHKテレビ『赤報隊事件』の主人公、植田毅記者、辰濃哲郎記者らの取材に協力し、この事件の深刻さを編纂した『テロリズムとメディアの危機』を刊行し、「日本図書館協会選定図書」「全国学校図書館協議会選定図書」に選定された。鹿砦社は朝日新聞に「貸し」はあっても「借り」はないはずだ。

また2005年の「名誉毀損」に名を借りた松岡逮捕劇の際にも、検察の意を受けて松岡を騙し関係資料を入手し「スクープ」を手にしたのは朝日新聞の平賀拓哉記者だった。にもかかわらず、「迷惑」、「個人の記者への接触をしないでくれ」、「しかるべき措置を考えなければならない」などという河野部長代理の言葉は、赤報隊が朝日新聞阪神支局で小尻知博記者の命を奪った散弾銃のように取材班メンバーの心に“銃弾”を打ち込むほどの衝撃だった。ことは人ひとりをリンチし半殺しにした事件だ。昨日(2・19)に対応した記者たちに〈人間〉の心はないのか? 朝日新聞に「ジャーナリズム」を期待するのは無理なのか?

追伸:夕刻、毎日新聞の後藤由耶記者に電話が繋がった。後藤記者は「この件は社長室広報担当になりました。東京本社の代表番号から広報に電話をお願いします」と毎日新聞でも『報道管制』が敷かれた模様だ。取材班はこの通信にしては、長い文章を書きながらこみあげてくる(悲しい)笑いを抑えられない。この程度なのか? 日本の新聞は? 新聞記者は? 自分の行動に責任をもてないのかと。

※[お詫びと訂正]取材過程で、河野氏の表記を誤りました。お詫びして訂正いたします。(2月22日)

(鹿砦社特別取材班)

最新刊『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD
『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)
『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)
『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

五輪外交でミスリードし続ける安倍「制裁」政権に戦争を語る資格はあるか?

 
PyeongChang 2018

1月9日、板門店で「南北会談」が行われると決まったときに、「南北会談」の実施じたいに、この島国の政治家やマスメディアは冷淡だった。あの時期に朝鮮が五輪に参加すると予想した人はどれくらいいただろうか。

◆オリンピックは政治そのものである

参加どころか開会式では合同で入場し、女子アイスホッケーでは合同チームが結成された。「スポーツの政治利用」、「北朝鮮ペースに乗せられている」との批判が繰り返されたが、開会式の後半では韓国の有名な歌手たちがジョンレノンの「イマジン」を歌い、聖火点火者のキムヨナへ手渡されることになる聖火は、韓国と朝鮮の選手が二人携えて、長い階段を駆け上がった。

開会式ではIOCのバッハ会長が式辞でしきりに「平和」を口にした。会場の外では、韓国でも保守的な人たちの抗議行動も行われているが、マスメディアもさすがに、開会式で「演出」される「平和」を表立って貶す(けな)すことはできなかった。「オリンピックは政治の道具」どころではなく「オリンピックは政治そのもの」だと認識するわたしは、この光景が準備された演出にしても、非難の対象にあたるとは考えられない。どうせ政治ならマシな政治利用でいいじゃないか。

 
統一旗のバリエーション(wikipediaより)

◆非凡な無能ぶりを発揮する安倍「制裁」外交

なぜならば、その裏で平和とは正反対に、まっしぐらの「北朝鮮制裁主義者」たる安倍をはじめとした、この島国の政権はひたすら「北朝鮮包囲連携が崩れる懸念(=韓国と朝鮮の融和)」、を叫ぶのみで、毎度外交に非凡な無能ぶりを発揮するこの島国の真骨頂ともいえるような的外れな態度に、相も変わらず終始しているからだ。朝鮮から金正恩の妹、金与正と金永南・最高人民会議常任委員長という、朝鮮の政権中枢にいる人物が韓国を訪問することだけでも(それがオリンピックを介在しての訪問にせよ)過去の歴史にはなかった、画期的な出来事であり、そこで文在寅大統領の朝鮮訪問が話題になったことは「朝鮮半島の緊張」を強める方向に向かう提案だろうか。

〈ペンス米副大統領は11日付の米紙ワシントン・ポストのインタビューで、北朝鮮との外交的な関与を拡大することで米韓が合意したと述べた。まず韓国が北朝鮮と対話した後、前提条件なしで米朝対話が行われる可能性があるとした。

ペンス副大統領は韓国で9日に開催された平昌冬季五輪の開会式に出席。米国に帰国する際の専用機内でインタビューに応じ、米政府が北朝鮮に対する「最大限の圧力」は維持する一方、対話の可能性にはオープンだとした。〉
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180213-00000000-reut-kr

と、韓国だけでなく、ついに米国も朝鮮との対話について検討を始めた。いつまでも「制裁!制裁!」と繰り言を続けているのは、安倍を中心とする、この島国の無能外交関係者やマスメディア及びそれに扇動された、不幸な庶民たちだけではないのか。

◆「大量破壊兵器保持疑惑」でイラクを爆撃した米国の過ち

外交の表裏には、必ず地下水脈のような通常人が知り得ない導線がある。ある日突然起きたように思われる事件や、政変にも必ず複合的な力学と打算、妥協が交錯する。最終的には「自国がどう有利な立場をとるか」が指標であっても、通常外交は「一定の理性」があるかのように見せかけないと、「沽券(こけん)」や「体面」を重視する権力者には格好が悪い。それが一定の見識ともいえる。

第二次湾岸戦争でイラク攻撃に対して、欧州では賛否が分かれていた。フランスは米国を中心とする「イラク攻撃推進派」に批判的で、2003年2月14日国連安保理事会でドミニク・ド・ピルパン外相が演説を行った。長い演説の中でピルパンは、

〈戦争という選択肢は、直感的に最も速そうに見えるかも知れない。しかし、戦争に勝った後、平和を構築しなければならないということを忘れないようにしよう。この点について、勘違いしないようにしよう。これは長く、困難なものとなるだろう。というのも、武力侵攻の苛酷な影響を受けた地域や国において、持続的な方法でイラクの統一を維持し、安定を回復する必要があるだろうから。

そういう見通しの上で、効率的で平和的なイラクの軍縮に向けて日々前進している査察という選択肢があるのだ。結局、戦争というあの選択肢は、最も確実というわけではなく、最も迅速というわけでもないのではなかろうか?〉

と述べ米国が戦争を急ぐ姿勢に疑問を投げかける。結局「歴史的」とも評されたこの演説に耳を貸すことなく、米国を中心とした「多国籍軍」(その中には後方支援を担った自衛隊も含まれる)は「大量破壊兵器保持疑惑」でイラクを爆撃し、サダムフセインを殺した。

しかし、のちに明らかになったのは「イラクには大量破壊兵器はなかった」という事実だ。ピルパン外相は同演説の中で、繰り返し査察の成果を述べており、その事実は「イラクが大量破壊兵器を保持していない」ことを示しており、その時点で「多国籍軍」のイラク攻撃は根拠のないものだった。散々わがままを言いたい放題並べ、イラクの人びとを殺戮した、ジョージ・ブッシュは、そのご「われわれはミスを犯した」と発言したが、一方的な多国籍軍の殺戮行為を、「ミス」で済ませられたら、被害者はたまったものではない。

〈戦争という選択肢は、直感的に最も速そうに見えるかも知れない。しかし、戦争に勝った後、平和を構築しなければならないということを忘れないようにしよう。この点について、勘違いしないようにしよう。これは長く、困難なものとなるだろう。というのも、武力侵攻の苛酷な影響を受けた地域や国において、持続的な方法でイラクの統一を維持し、安定を回復する必要があるだろうから〉

は正鵠を射ていた。イラクの政情不安・治安の不安定はイスラム国の登場などで、今日に至るも、解決の糸口すら見えていない。

◆覚悟のない者が「戦争」を話題にする資格はない

朝鮮をめぐる情勢は、いま五輪中だからだろうか、いくぶん流動化してきたかのように見える。わたしは安倍と正反対に、朝鮮と韓国・米国・日本が対話によりすべての問題解決をはかることを希望する。いかなる理由によっても「戦争」の選択肢をすべての国は排除すべきだ。

戦後補償・賠償すら行っていない日本(日本ではほとんど報じられないが、世界の少なくない国々は日朝関係の基礎をそう見ている)、要らぬ軍事費の重みから解き放たれたい韓国、「経済制裁」を含む世界の包囲網から脱出したい朝鮮、赤字財政続きで、政府機関閉鎖の相次ぐ米国。どの国も「平和」を希求する充分な理由は(それと逆方向に進もうとする理由と同等に)保持しているではないか。理性が(私たち一人一人のなかに)あれば最悪の事態は回避できる。

もし回避できなければ、「日本も戦争に巻き込まれる」。あらゆる言説はその現実を前提に発されるべきだ。その覚悟のない者が「戦争」を話題にする資格はない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

おかげさまで150号!衝撃の『紙の爆弾』3月号!
総理大臣研究会『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』

私の内なるタイとムエタイ〈23〉タイで三日坊主!Part.15 慣れぬ寺の生活

外出する為、黄衣を纏うブンくんたち。面倒そうだが、3分も掛からず纏い上げる

托鉢の苦戦、寺の様子、更に試練が襲ってきます。

◆六日坊主?!

朝4時に起きる日が続き、黄衣の纏いは練習はするものの、相変わらずコツが掴めず、下手なまま3日目の托鉢に出発。黄衣は何とか解けずに帰れた2日目と違い、この日はどうも調子が悪い。肩に掛けても掛けても緩くて落ちてくる纏い。寺に帰る最後の路地で、前を歩く藤川さんが遅い私を待ち構えるように立っていて、纏いが崩れた姿を見て、凄い怖い顔で何も言わず緩んだ纏いを引っ張り上げ肩に掛けてくれるも、寺の門を潜った途端、「こんなの見たこと無いわぃ!」と吐き捨てるように言われてしまいました。

昨日は、読んだままの、どこが表紙かわからないグチャグチャに畳んだバンコク週報(日本人紙)を、何も言わずに私の部屋にポンと投げ入れ、与えるというよりゴミを捨てていくような行為は2度目。前回の白衣とは意味合いは違うが、無視する藤川さんに怒りすら覚えていた私。去って行く後ろ姿を飛び前蹴り食らわそうかと、キレそうになるところを我慢するも、翌朝のこの纏いが乱れた托鉢では、もうそんな気持ちが萎えてしまいました。

托鉢4日日はワンプラで、かなりサイバーツ(寄進)が多かった托鉢で、重くなって傾くバーツを直そうと肩に手を回したところで、バーツの蓋を落としてしまいました。“バシャーン”、ステンレス製の蓋がコンクリートの地面に落ちたらどれだけ響くことか。藤川さんが驚いて振り向き、近くに居た信者さんも驚き、恥ずかしいやら情けないやら怖いやら。

寺へ帰ると「バーツの蓋落とすなんて聞いたことないぞ!」とまたキツく言われる始末。

更なる5日目、路地のデコボコ石で足の裏は痛くて仕方ない。藤川さんとの距離が開き、足下を見ながら追い付こうと前に進むと、軒先でサイバーツしようと待ち構えるオバサンを見逃してしまいました。通り過ぎてから気が付き、「まあ仕方ない、先を急ごう」と歩き始めると、その姿を藤川さんが見ていて、「一軒飛ばしたやろ、無視したことになるから、あのオバサンに対して凄い失礼なことしたんや、そう思わへん?」と言われ、認めるしかありませんでした。「あんた、歩くの速いんだよ!」と少し頭を過ぎるが、足下が気になって下ばかり見て歩いているから不注意だった。本当に心から反省でした。連日続く失態。托鉢5日目で「もう辞めたい」と涙が浮かぶ。ここで辞めれば六日坊主。ここで頑張ると言うより、ただ耐えるだけでした。

◆寺の作業!

「ここでの生活は、自分の意志次第で、自分でしたいことを自由にやればいいのです。和尚様から“あれをせよ”とか、“こうしなさい”とか言われることはありません。戒律に触れる事をしなければ本当に自由です。勉強がしたければすれば良いし、瞑想がしたければすれば良いし、外の寺に行って学びたければ行けば良いし、ただ自分が何のために得度したのかを忘れなければそれで良いのだと思います。自力本願で誰も何も教えてくれません。」

これは私がまだタイに渡る前に藤川さんからの手紙に書いてあった一部です。しかし、私が感じた寺での生活は、まだ慣れていないにせよ、なかなか気が休まるものではありませんでした。

比丘となって托鉢2日目の朝、路地に出る前、藤川さんから「何かやらんと“あいつは怠け者だ”と言ってたぞ、タイ人は見ていないようで見てるぞ!」と苦言をされていました。しかし、何をやればいいのか分からないのです。

職人技発揮のコップくん、読経も完璧で天才肌

この日の朝食後、比丘たちの様子を見ていると、それぞれが自分の持ち場があるかのように幾つか散らばっていく姿が見受けられました。寺のクティ脇に公衆トイレを建設する職人さんが来ていて、その手伝いに加わるのがコップくんら元々職人だった比丘が作業。ケーオさんは得意の機械イジリで和尚さんの車のメンテナンス。アムヌアイさんは寺で放し飼いしている牛の糞運びなど。副住職のヨーンさんは葬儀場の整理。他に、仏塔建設が行なわれている場では資材運びを手伝っているメーオくんらのグループ。藤川さんはいつもの日課。

ブンくんら数名は本堂の木陰のベンチでお喋りをする比丘ら数名。私はいちばん気が合うブンくんらの不器用な面々の輪に加わりお喋りに徹しました。
「みんな普段何しているの? 何すればいいの?」と聞くと、「俺らはお喋りか昼寝だろうな!」と言う呑気な回答。

そんな時に和尚さんに呼ばれて、広い境内の空地のゴミ拾いを命ぜられました。特に技術の無い我々は、そんな雑用になる自然な成り行きでした。

葬儀と朝昼の食事以外、日々の読経など全く無く、何で比丘が肉体労働やってんだか。もっと仏門らしさがあるはずだったのに、私の“修行”の解釈が間違っているのでしょうか。

比丘の食事の輪に入ればこんな風景
ゴミ拾いや牛の糞しまつなど、率先してやるアムヌアイさん、私もアムヌアイさんに付いて動くことも多かった

◆パンサー明けの転換期!

「来月、5日過ぎたら還俗者が増えて部屋が空く」と藤川さん言っていたのは、私の寺入り初日のこと。

その11月5日はカティン祭があります。一時出家者が7月半ばのパンサー入り(三宝節記念日の翌日)前に出家し、この最も厳しくて重要な修行期間に入ると、パンサー明けまで還俗は認められず、パンサー明けの10月半ば(満月の日)を過ぎると徐々に還俗者が出てきます。私の寺入り前に、すでに還俗した者も居て、カティン祭を待って還俗する者のほうが多いのも事実のようです。

カティン祭とは、その年のパンサーが無事に終わったことを祝い、信者さんが比丘に黄衣や日用品を包んだ黄色い供え物を捧げるお祭りで、実際にはお寺の寄付金集めの行事らしく、クリスマスツリーのように飾り木にお金(紙幣)を吊るし、楽器の演奏者を先頭に寄進者一同が行列を作り、踊りながらお寺に寄進にやって来る、信者さんの徳を積む機会となります。

そのカティン祭でいつもの葬儀より高額のお布施を貰うと、これが最後のボーナスかのように還俗者が増えるというのが、当初の藤川さんの言葉の意味なのです。
そのカティン祭の為、前々日からクティ内が小学校の学芸会でもあるような飾り付けがされていきます。比丘が脚立に上って高いところへ飾り付ける。これも器用な奴が率先してやるので、皆が競い合ってやることはなく、井戸端会議のような集まりになっていました。それはそれで楽しいもの。藤川さんも笑いながら若い比丘と冗談言っているものの、私に対しては無関心状態が続いていました。

◆ビザ問題浮上!

その翌朝の托鉢の、寺を出たところでまた藤川さんが珍しく話しかけて来ました。

藤川さん「お前の今のビザは観光ビザか?」
   「そうです」
藤川さん「いつ入国したんや?」
   「10月15日です」
藤川さん「ビザ期限は12月半ばやな」
   「そうですが、バンコクの入国管理局へビザ延長に行く予定なので、30日延長出来て期限は1月半ばになります」
藤川さん「タイ法務省の宗教局に電話で聞いたら、“坊主は修行者で、明らかに観光ではないから延長は出来ん”と言われたぞ、どうするんや」
「えっ、本当ですか? どうしましょう」
藤川さん「そんなもん自分で考えんかい!」

さあ困った。托鉢中にビザ問題が頭を過ぎる。迂闊だった観光ビザの認識。でも早く教えてくれてよかった。私に気を掛けて宗教局へ電話してくれていたことには感謝でした。さて対策を考えなければなりません。藤川さんは助けてくれるでしょうか。

出家して4日ほど経った頃、いずれこの写真見て懐かしく思えるだろうかと思って撮った洗濯して干した黄衣

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

プロボクシング、伝統の年間表彰式はメジャー競技の象徴!

日本プロボクシング協会、渡辺均会長の御挨拶

2017年度年間表彰式が、2月9日、日本ボクシングコミッション、日本プロボクシング協会主宰で、東京ドームホテルで行なわれました。一堂に会するチャンピオン達の顔触れに、夢の祭典という印象を受ける表彰式でした。また反面、来場者に古くからある顔触れも見られると、子供の頃、テレビで観た頃の懐かしさがありました。

《各受賞選手》

◎最優秀選手賞 WBA世界ミドル級チャンピオン.村田諒太(帝拳)初

◎技能賞 WBO世界スーパーフライ級チャンピオン.井上尚弥(大橋)2年連続2回目

◎殊勲賞(2名) WBA・IBF世界ライトフライ級チャンピオン.田口良一(ワタナベ)初
        WBO世界フライ級チャンピオン.木村翔(青木)初

三賞受賞選手。左から田口良一(殊勲賞)、村田諒太(最優秀選手賞)、井上尚弥(技能賞)、木村翔(殊勲賞)
謝辞を述べる村田諒太(最優秀選手賞獲得)

◎努力賞及び敢闘賞 東洋太平洋ヘビー級&WBOアジア・パシフィック・ヘビー級チャンピオン.藤本京太郎(角海老宝石)初

◎KO賞 WBC世界フライ級チャンピオン.比嘉大吾(白井・具志堅S)初

比嘉大吾(KO賞)と具志堅用高会長の師弟コンビ

◎新鋭賞 WBC世界ライトフライ級チャンピオン.拳 四朗(BMB) 初

◎年間最高試合賞 WBA・IBF世界ライトフライ級王座統一戦(12月31日・大田区総合体育館)田口良一vsミラン・メリンド(フィリピン)

◎年間最高試合賞(世界戦以外)=WBC世界スーパーフェザー級挑戦者決定戦(1月28日・カリフォルニア)三浦隆司vsミゲール・ローマン(メキシコ)

ライトフライ級の対立チャンピオン、WBC拳 四朗、WBA・IBF田口良一

◎優秀選手賞(全15名、上位受賞者含む)
WBA世界ミドル級チャンピオン.村田諒太(帝拳)
WBO世界スーパーフライ級チャンピオン.井上尚弥(大橋)
WBA・IBF世界ライトフライ級チャンピオン.田口良一(ワタナベ)
WBO世界フライ級チャンピオン.木村翔(青木)
WBC世界フライ級チャンピオン.比嘉大吾(白井・具志堅S)
WBC世界ライトフライ級チャンピオン.拳 四朗(BMB)
IBF世界ミニマム級チャンピオン.京口紘人(ワタナベ)
WBO世界ミニマム級チャンピオン.山中竜也(真正)
IBF世界スーパーバンタム級チャンピオン.岩佐亮佑(セレス)
前WBA世界スーパーバンタム級チャンピオン.久保隼(真正)
前WBO世界ミニマム級チャンピオン.福原辰弥(本田フィットネス)
他、欠席4選手=山中慎介(帝拳)、井岡一翔(井岡)、ホルヘ・リナレス(帝拳)、田中恒成(畑中)

京口紘人と岩佐亮佑のIBFベルトコンビ

◎女子最優秀選手賞
WBA女子世界フライ級チャンピオン.藤岡奈穂子(竹原&畑山)3年連続5回目

◎女子年間最高試合賞
WBC女子世界ミニ・フライ級タイトルマッチ(12月17日・福岡)
黒木優子(YuKOフィットネス)vs小関桃(青木)

女子の受賞者、藤岡奈穂子選手(女子最優秀選手賞)と小関桃選手(女子年間最高試合賞)

◎特別功労賞 内山高志

◎特別賞 三浦隆司、下田昭文

引退組となった特別功労賞受賞の内山高志、特別賞受賞の三浦隆司と下田昭文

◎トレーナー賞 有吉将之、野木丈司

◎社会貢献賞(ダイヤモンドフィスト賞) 坂本博之SRSジム会長

◎WOWOW検定賞 三井賢徳

◎日本プロボクシング協会功労賞 山中勇、関谷西生、高橋美徳、原田実雄、中村尚秀

◎協会より感謝状 森田健レフェリー

表彰選手全員集合
全国の児童養護施設訪問で尽力された功績を称えられた坂本博之氏
レフェリーとして功績大きい森田健さん

受賞者を代表して謝辞を述べた村田諒太選手、帝拳ジム関係者や周囲の応援があっての受賞に至った感謝を述べた後、「個人的な話をさせて頂きますと」と、恐縮気味に進めたお話では「今日は高校の恩師にあたります武元先生の命日に当たります。そういう日にこういう賞を頂けるのも高校の恩師が未だに見守っていてくれているんだなと、つくづく感じております。思えばデビュー戦も8月25日の先生の誕生日でした。」と恩師(武元前川氏)の導きに感謝し、今後の飛躍を誓っていました。
数年前と比べ、若い顔触れに流れが変わった壇上のチャンピオン達、ベルトの数も増えていました。主要4団体という過去に無い王座の多さは賑やかさがある反面、世間から見ればどう映るのか懸念も残ります。

上昇気流に乗るチャンピオン達に対し、引退していく選手もいます。特別功労賞を獲得した内山高志選手、世界戦以外の年間最高試合賞と特別賞を獲得した三浦隆司選手、もう一人特別賞を獲得した下田昭文選手の引退組も、選手としてのこの表彰の場では最後の勇志という感じでした。

社会貢献賞として別名ダイヤモンドフィスト賞と呼ばれた賞にはSRSジム会長の坂本博之氏が受賞。“平成のKOキング”と言われたかつてのKOパンチが想い起こされる懐かしい顔が壇上に見られました。

日本プロボクシング協会より感謝状を受取られたのは、長年の審判員を務められた森田健氏。具志堅用高氏の世界戦のレフェリーを務められたこともある森田氏、それよりもっと古くから世界戦を裁いていらっしゃるので、古い者から見れば無くてはならない印象に残る存在でしょう。永年、レフェリーとして国際的にもボクシング界に貢献した功績を称えられる感謝状でした。

村田諒太選手は、ミドル級統一制覇するには避けて通れないのがWBA世界ミドル級スーパーチャンピオンでWBCとIBF王座も持つゲンナディ・ゴロフキン(カザフスタン)がいます。
「まずは4月の初防衛戦に勝つことが第一で、そのあとにゴロフキンやサウル・カネロ・アルバレス、WBOチャンピオンのビリー・ジョー・サンダースへ進んでいけるように、しっかり頑張っていきたいと思います」と本人が語るとおり、これらのスーパースター級に勝利すれば、日本ではかつてない偉業を果たすことになります。そのトップレベルに挑める可能性がある現在だけでも偉大なもの。1年後の表彰式でどんな立場で現れるか楽しみなところです。

今年は1階級上のバンタム級に上げ、ライトフライ級、スーパーフライ級王座に続いて三階級制覇を目指す井上直弥選手は村田諒太に続く世界の偉業に挑む注目を浴びる立場。
「上の階級に向けた体作りに取り組んでいる」と言います。村田諒太と井上直弥は本場アメリカ、ラスベガスなどでのビッグマッチ、世界的に名声が轟く定着も視野にあり、これらが今後の日本のボクサーが目指すステータスとなるでしょう。

サインを求めるファンの列がいちばん長かった井上直弥
拳 四朗選手は人懐っこい笑顔が素敵だったという評判

この日、JBC役員の方に、ある些細なことをお尋ねしました。それはリングネームについて、ルールは変更されていないことを確認出来ました。それは以前から思っていたとおりでしたが、後楽園ホール5階の正面入口には世界チャンピオン達のパネルが並んでおり、“拳 四朗”のパネル写真もあります。リングネームは“姓名”を揃える、そこに漢字・カタカナ・平仮名で外来語も含む別名に替えることも許されています。拳四朗の呼び名は「けん・しろう」で姓名として分けているという強引な解釈ながら、これで認められているということでした。そういう意味で、“拳”と“四朗”の間が開いていることは想定したとおり。「他・格闘技で見られる個人名のみのリングネームの影響が、ここまで来ているんだな」と古い考え方では違和感があるも、これが時代の流れなのでしょう。拳四朗の本名は、寺地拳四朗で、元・東洋太平洋ライトヘビー級チャンピオンの寺地永氏の次男となります。

年間表彰式、来年はまたここに新しい顔が入ったり、外れる顔があったり、また年間最優秀選手(MVP)という一人しか選ばれない枠に誰が入るかという興味。王座乱立の中でも、MVPだけは乱立しない価値があります。選考審査はこの日以前に、東京・関西運動記者クラブ、ボクシング分科会によって決まることですが、当日の壇上にはまた違った緊張感に包まれる、1949年から続く伝統の年間表彰式はメジャー競技の象徴として今後も続いていくことでしょう。

乾杯音頭直後のチャンピオン達

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

おかげさまで150号!『紙の爆弾』3月号 安倍晋三を待ち受ける「壁」
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

滋賀患者死亡事件 西山美香さんを冤罪に貶めた滋賀県警・山本誠刑事の余罪

昨年12月、元看護助手の女性・西山美香さん(38)が大阪高裁で再審開始決定を受けた滋賀県の患者死亡事件。この冤罪が生まれた原因は、2004年の逮捕当時は24歳だった西山さんが滋賀県警の男性刑事に好意を寄せ、虚偽の自白をしてしまったことであるように報道されてきた。

しかし、実はその山本誠刑事は、西山さんの気持ちにつけこんだ悪質な取り調べをしていた疑いがあるばかりか、他の冤罪被害者に対しても暴力をふるうなどの「余罪」があったことが判明している――。

◆初公判の3日前に面会して“自供書”を書かせる

西山さんは、看護助手をしていた2003年、勤務先の病院で男性入院患者の人工呼吸器のチューブを外し、窒息死させたとされて懲役12年の判決を受け、昨年8月に満期出所するまで服役生活を強いられた。しかし再審請求後、弁護団が医師3人に男性の死因を再検証してもらったところ、「致死性不整脈による自然死の可能性がきわめて高い」との意見が示された。これが決め手となり、事実上唯一の証拠だった捜査段階の自白の信用性が否定され、西山さんは再審開始の決定を受けたのだ。

その後、検察が最高裁に特別抗告したが、西山さんが再審無罪に向けて一歩を踏み出した事実に変わりはない。

では、そんな西山さんの気持ちにつけこんだ山本誠刑事の悪質な取り調べの疑いとはどんなものだったのか。

裁判で西山さんが訴えたところでは、西山さんが否認に転じようとすると、山本刑事は「逃げるな」ときつい口調で迫ってきて、時には突き飛ばされたりもした。一方で山本刑事は「ワシに全部任せておいたら大丈夫や」「殺人でも死刑から無罪まである。執行猶予がつくこともあるし、保釈がきくこともある」などと“優しい言葉”もかけてくれたという。

また、弁護士は連日接見に来てくれたが、山本刑事に「起訴前に毎日接見にくるなんておかしい。そんな弁護士は信用できない」などと“助言”され、西山さんはどちらを信用していいか迷ってしまった。そして、多数の自供書を書かされるうちに「否認しても無駄だ」と思うに至ったのだという。

これに対し、裁判の第1審に証人出廷した山本刑事は「自分は過去に一度も裁判で自白の任意性、信用性が争われたことがない」と断言した上、西山さんが訴えるような脅迫や偽計を取り調べで用いたことを否定したのだが――。

実は裁判では、山本刑事が西山さんの初公判の3日前にも不審な行動をしていたことが明らかになっている。勾留先の滋賀刑務所まで面会に訪ね、西山さんに「検事さんへ」という書き出しで始まる次のような“自供書”を書かせていたのだ。

〈もしも罪状認否で否認しても、それは本当の私の気持ちではありません。こういうことのないよう強い気持ちを持ちますので、よろしくお願いします〉

こんなものを書かされたため、西山さんは動揺し、初公判で罪状認否ができない状態にまでなっている。このようなことをする刑事ならば、取り調べで西山さんが訴えるような脅迫や偽計などいくらでも使うと考えたほうが自然ではないだろうか。

山本誠刑事が冤罪被害者に暴行した際に滋賀県警が作成した懲戒処分者名簿
滋賀県警察本部

◆無実の男性を誤認逮捕して暴行も……

さらに西山さんの裁判に証人出廷してから1ヶ月半経った2005年7月中旬、山本刑事には重大な不祥事が発覚している。窃盗の容疑で逮捕した男性を取り調べる際、胸ぐらをつかみ、足を2回蹴るなどの暴行を加えていたというのだ。

しかも、このような暴力取り調べを行ったあとで、実はこの男性は事件と無関係だったことが判明している。つまり、山本刑事は無実の男性を冤罪に貶める捜査に関与したばかりか、暴力までふるっていたのだ。

付言すると、山本刑事がこの無実の男性に暴行したのは、西山さんの裁判で「自分は過去に一度も裁判で自白の任意性、信用性が争われたことがない」と断言した3日後のことだった。こうなると、西山さんの裁判における山本刑事の証言を素直に信じるのは難しい。

ちなみに山本刑事はこの時、特別公務員暴行陵虐容疑で大津地検に書類送検されたものの、起訴猶予処分となっている。一方、滋賀県警はこの件で山本刑事を減給100分の10(1カ月)の懲戒処分にしているが、犯した罪の重大性からすると、甘すぎる処分である感は否めない。西山さんの再審が晴れて始まれば、山本刑事が犯した罪は再審の法廷で改めて裁かれなければならないと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

やっぱりオリンピックは政治ショーだった

マイナス15℃越えのうえに強風、危険な状態のなかでの競技続行による転倒者続出(スノーボード)。あるいはアメリカのテレビ局の要請で、フィギュアスケートは異例の午前中開催。スキージャンプはヨーロッパ向けに極寒の真夜中開催など、ピョンチャンオリンピックは散々な評判だが、まずは開催されたことに関係者は胸をなで下ろしていることだろう。昨年のいまごろは、開催そのものが危ぶまれていたのだから。

 
2018年2月9日付サンケイスポーツより

それにしても、今回のオリンピックはオリンピックと政治の別ちがたい関係をあらためて浮き彫りにした。開会式に先立つ南北会談、南北合同チーム(女子アイスホッケー)の結成、そして北朝鮮美女軍団の訪韓。かたや、アメリカの先制攻撃を避けて核ミサイル開発の時間をかせぐ北朝鮮の思惑、オリンピック成功の保障のさきに南北対話・緊張緩和をのぞむ韓国文政権の思惑が手をむすばせた、この大会の序幕は政治ショー以外の何ものでもなかった。

何ごとも政治化するトラブルもあった。スキー男子モーグルの西伸幸がかぶっていた帽子が、旭日旗を思わせるデザインだと現地で批判されて、西はただちに謝罪した。

 
統一旗のバリエーション(wikipediaより)

いっぽう北朝鮮の応援団の統一旗に独島(竹島)があるのは遺憾などと、日本政府(菅官房長官)も政治を持ち込んでいる。ちなみに、旭日旗に似た朝日新聞の社旗は韓国で問題にされたことはないし、統一旗の島の位置は鬱陵(ウルルン)島と竹嶼(チュクト)に見なすことも可能ではないか。どちらも政治的な視野で見るから、目くじらを立てたくなるのだ。

いっぽう、国策的なドーピングで国としての参加を認められなかったロシア選手団は、Olympic Athletes from Russia(OAR)として個人参加している。ドーピング問題とスポーツ界の事情は『紙の爆弾』3月号の片岡亮の記事に詳しいが、その背景にあるのは商業主義にほかならない。オリンピックが後援する企業にとっても競技者にとっても、商売であることを痛いほど思い知らされる。それというのもオリンピックが他の競技大会とはちがって、国策であるからだ。

もともと近代オリンピックは、ロンドンで開かれた第4回で国ごとの参加になるまでは、個人・チーム参加のスポーツ大会だった。開催地は資金難にくるしみ、第2回のパリ大会と第3回のセントルイス大会は、万国博覧会の付属大会にすぎなかった。国(都市)とナショナルオリンピック委員会が主催者になることで、一転して政治的な事業となり、スポーツ大会の頂点をきわめたのである。

1924年のパリ大会を舞台にした映画『炎のランナー』には、競技日をめぐって英仏の駆け引きが行なわれるシーンが登場する。あるいは、有名なフレーズ「参加することに意義がある」と語ったのは、国別となった第4回大会でのことだった。アメリカとイギリスの目にあまる対立を危惧したエチュルバート・タルボット主教が、選手団を前に「勝利よりも参加することが重要だ」と説諭したものだ。

しかし勝利至上主義、国威発揚はとどまるところを知らず、1936年のベルリン大会は文字どおりナチスの躍進、ドイツの国力を世界にしめす大会となった。戦後もそれは変わらず、1964年の東京大会は日本の復興を世界に知らしめるためのものだった。ソ連のアフガン侵攻にたいする制裁としての、モスクワ大会のボイコット。そしてその報復としてのロサンゼルス大会のボイコット。まさにオリンピックの歴史は政治史である。スポーツが戦争の代償行為であると、スポーツ社会学者は説くことがある。なるほどオリンピックは、軍事をもちいない政治なのであろう。

けれども政治の側の意図が顕わになり、その思惑がくつがえることで、結果的に新鮮なこともあった。フィギュアスケート団体戦で世界最高得点を出したエフゲニア・メドベージェワの演技は、ロシア選手という色眼鏡をとって鑑賞すれば、すばらしく新鮮な感じだった。それは彼女の実力によるものだと思われるが、氷上にくり広げられた3分間の演技が一瞬のように感じられるほど見事なものだった。それはしかし個人参加だからこそ、ロシア選手団の一員と見なさないからこそ感じられたのかもしれない。国旗や国家のないオリンピックを観たくなった瞬間である。デジタル鹿砦社通信をご愛読の諸賢におかれては、いかが観戦されていますか?


◎[参考動画]Evgenia Medvedeva establece record mundial en Juegos Olimpicos Pyeongchang 2018

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。

おかげさまで150号!衝撃の『紙の爆弾』3月号!