私の内なるタイとムエタイ〈22〉タイで三日坊主!Part.14 友達何人できるかな

◆比丘となって2日目!

初の托鉢から帰って束の間、儀式用黄衣の纏い(ホム・ドーン)が出来なければ朝食が食べられません。昨日ちょっと習っただけではまだ下手糞。そんな焦る私を助けるように藤川さんがやって来て教えてくれました。ジグザグの蛇腹風に折り畳んだ黄衣を持って、「端を持って肩幅まで引っ張って、束になった方を左肩に乗せて……。アカンなあ、もう時間無い、やったるわ!」グチグチ言いながらまた幼子に着せるようにやってくれました。

ホー・チャンペーンでの食事は5僧ほどが輪を囲ったグループが5つあって、合掌して食べ始めます。食べ終わると座ったまま2列が向かい合うように並び、アヌモータナーウィティーという経文の序章部分を誰かが率先して先導し、朗読のような読経から副住職に繋がれ、続いて全員で1分程度の短い読経に入ります。

3月に来た時、藤川さんが「この経文だけは覚えておいて、お前が初日から先導して唱えてみい、みんな驚くぞ!」とは言われていたものの、やっぱり未熟者が初日から率先することは出来ませんでしたが、やっておけば先制クリーンヒットのような、どよめきがあったかもしれません。

◆相変わらずの不器用な纏い!

午前中は纏いの練習。また昼食時に儀式用纏いにしなければと悪戦苦闘していると、コップと言う名の比丘が何か察したか、部屋にやって来て「昼食時はこれじゃないよ、普通のホム・ロッライだよ」と教えてくれました。このコップくんは私の得度式で黄衣に着替えさせてくれた奴。ムエタイボクサーのような筋骨隆々で読経も上手く、勘が冴えてる奴でした。

午後はまた藤川さんと外出しなければいけません。また外出用(ホム・マンコン)に纏うものの、なかなか上手くいかない。20分も掛けて纏っていると、昼間の暑い部屋では汗だくで黄衣に汗が染み渡ります。そんな時に外のクティ下のベンチで若い比丘らが屯(たむろ)しており、私の部屋の窓に向かって「おーいハルキ、外で一緒に喋ろうよ!」なんて声掛けてくれる奴が居て、「誰だ、俺の名前を覚えたいい奴は!」と思いながら「いや、外出しなけりゃならない、ゴメン!」と謝りつつ外に出たついでに、纏った黄衣を「ちょっと見てくれ!」と彼らに見せ、藤川さんを待たせたまま応急処置的に強く巻き付けて貰い、「コップンカップ!」とタイ語で御礼を言って出発。ちょっと首周りがキツイがしっかり巻かれていることが心地良い。

◆街を歩く!

街を歩いて俗人の時と違うのは、比丘である私に敬いを感じる周囲の目線。おこがましいがそう感じ、それは“私”が敬われているのではなく、仏陀の弟子である比丘が敬われていること。行きかう人々は、至近距離に比丘が居ては、特に女性は一歩身を引く気遣いが見られます。そんな立場である私は、女性に接触しないよう気をつけ、女性をイヤラシイ目で見ないよう気をつけ、見たとしても周囲に気付かれないよう気をつけ、黄衣が解けないよう気をつけていると、もう挙動不審な歩き方でしたが、その辺をウロつく野良犬だけが私を見ても無視して行きました。

街に出た用事は、雑貨屋へ行って比丘手帳買って、写真屋に行って証明写真を撮ること。私はこの必要性をまだ分かっていませんでしたが、何でも早めに行動を起こす藤川さんに促されて行ったまででした。この撮影は藤川さんが先に、その纏った黄衣のまま撮影。しかし私は纏いが下手な為、黄衣を脱がされ、亀の甲羅のような、撮影用の黄衣を模った甲羅を付けて椅子とともに縛り付けられ、どこかの風俗店にいるような姿。ちょっと無理ある合成写真のような仕上がりになること想像付きました。

若い比丘たちのリーダー格存在のケーオさん

撮り終わると困ったのは黄衣をすぐには纏えないこと。纏いに20分掛かるのに写真屋さんで手間取っている訳にもいかない。意地悪いことに藤川さんは「早よせいよ!」と言って先に外に出てしまいます。「こんな時に助けろよ!」と日本語で口走ると、状況で察して助けてくれたのは撮影した写真屋の兄ちゃん。「得度したことありますか?」と聞くと、「あります!」と応えられ、さすが上手く速く、纏い付けてくれました。比丘として御礼は言えないので、「ありがとう!」と日本語で御礼を言って店を出ました。

寺に帰って、比丘手帳に必要事項を書いて貰う為、隣の部屋のケーオさんに頼みましたが、「3ヶ月経ったら書いてやるよ!」と言われて、普通は1パンサー(安居期)超えて一人前になってからということとは分かりつつも、「ビザの延長に入国管理局に行かないといけないから!」とパスポートを添えてお願いし、了承して頂きました。

◆仲間と打ち解け始める!

慌しい用も済んだところで次は洗濯。黄衣ではなく、これまで着ていた下着やズボンなどの衣類。本来、得度式を終えると、それまでの衣類は親族が持って帰るか、寺が預かるもの。しかしこの寺はかなり大雑把。白衣になってからは部屋に置きっぱなしでした。比丘の身分で洗ってもいいのか分からず、クティ下の洗い場で、先に黄衣を洗濯していた先程のコップくんに聞くと「大丈夫だよ、問題無い!」と場所を共有させてくれました。彼は元々、便所を作るような土建業の仕事をやっている職人の22歳。このパンサー入り前に出家したという話でした。

中央がコップ、勘が良く、読経が上手く、大工仕事も上手い奴

夕方以降、部屋に居ると若い比丘が2人、得体の知れない私に興味津々でやって来ました。カメラ(NikonFM2モータードライブ付き)を見て「これ幾らするの? 覗いていい?」という流れはムエタイジムでもあった話。メガネを掛けてニコニコした人懐っこいブンくんは、元々は学生だった様子でパンサー前に出家したコップくんと同じ一時出家者の22歳。「葬儀用の纏いは何て言うの? 托鉢に出る場合は? 寺に居る時の肩出す纏いは? タイ語できれいに書いてくれたら読めるから!」と聞いてメモ帳に書いて貰うと、他にも聞いたこといっぱい書いてくれる親切丁寧な奴でした。

もう一人のスパープくんは藤川さんの隣の部屋の奴。藤川さんの蚊取り線香の凄い煙を避けて、隣の部屋に集まる蚊の犠牲になっているのがこのスパープくん。と言うのは大袈裟な話として、スパープくんはムエタイジムにも居るような田舎者で、村社会で育った習慣から、自分の家も隣の家も自由に出入りして勝手に何でも使い、それが普通の環境で育った奴。私のカメラバッグを弄りだし、油断ならないところがあるが、決して悪気は無い。藤川さんの話では、彼は結構真面目にお経を覚える努力している奴で、他の奴より1年早く出家している23歳。こうして仲間が増えていくのは、何も分からない私を支えてくれるので心強くなれました。

物珍しさにやって来たメガネのブン(左)とスパープ(右)

◆藤川さん無視!

その反面、キツイこと言うだけの藤川さんは、昨夜から私には必要事項以外、無視状態となり、その距離は私の出家前とずいぶん掛け離れ、立嶋アッシーや春原さんと笑って話していた、あの朗らかさはどこへ行ってしまったのか。不安と怒りが次第に増してきた夜でした。

托鉢と写真屋しか行っていないのに目まぐるしい一日でしたが、私はこれまでの人生での三日坊主の怠け癖が出て、「黄衣纏いの練習は明日の朝でいいや」と思って夜10時頃寝ます。静けさの中でもクティの中はまだ蛍光灯は点いていて、どこかで誰かがまだざわついている様子は伺えるいつもの寺でした。

剃髪前と剃髪後と23年後にツーショット撮ったのはメーオだけ

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

三島由紀夫 ――『命売ります』の死生観・浮かびあがる決起の真相

 
ドラマ「命売ります」

テレビドラマになった『命売ります』は、三島由紀夫没後45年(2015年)に筑摩文庫編集部がポップをつけたことから、1ヵ月に7万部が重版された。そのまま売れつづけ、2年にわたってベストセラーになった。

ドラマのほうはBS放送(日本テレビ系)ということもあって、いまひとつの反響のようだが、現代風にアレンジされた展開はなかなか面白い。今後、原作にある某国のスパイがどう絡んでくるのか、楽しみにさせてくれる。

ところで三島由紀夫の大衆小説で、なおかつ死をあつかったものが売れている現象をどう考えればよいのだろうか。そもそも三島はこの作品で何を描こうとしたのだろうか。

周知のとおり、三島はこの作品を書いた68年には祖国防衛隊を盾の会に改名し、全共闘運動と三派全学連の騒擾をまのあたりにしていた。前年には『葉隠入門』を発表し、死をかたわらに置く行動の人となってもいた。しかし、この作品の主人公羽仁男は、けっして行動的な人物ではない。三島の語るところでは、
「小説の主人公といふものは、ものすごい意志の強烈な人間のはうがいいか、万事スイスイ、成行まかせの任意の人間のはうがいいか、については、むかしから議論があります。前者にこだはると物語の流れが限定され、後者に失すると骨無し小説になります。しかし、今度私の書かうと思つてゐるのは、後者のはうです」(作者の言葉「週刊プレイボーイ」)ということだ。羽仁男が成りゆきまかせ、偶然の連続で生きながらえるのは、作家の意図によるものだ。

三島がこの作品に仮託したものがあるとすれば、おそらく死を前にした人間がどんな心境で、どう行動するのか。あるいは死の覚悟というものが、どれほど強靭なものなのかを試したものと思われる。死の決意は、すでに胸のうちにあったはずだ。この年の夏に、三島は埴谷雄高との対談(『批評』68年夏季号)で、八代目市川団蔵の死について、こう語っている。

「名優は自分が死なないで、死の演技をやる。それで芸術の最高潮に達するわけですね。しかし、武士社会で、なぜ河原乞食と卑しめられるかというと、あれはほんとうに死なないではないか、それだけですよ」

 
映画『憂国』

埴谷雄高は「僕は暗示者は死ぬ必要はないと思う」と返しているが、三島は即座に「いや、僕は死ぬ必要があると思う」と反駁する。すでに三島にとって70年11月25日の死は、予定のうちに入っていたことになる。自分の死後を案じて、川端康成に子供たちのことを託すのは、翌年(69年)8月の手紙である。

65年から69年にかけて、三島は3本の映画「からっ風野郎」「憂国」「人斬り」に出ている。いずれも死ぬ役で「憂国」は自作自演で切腹心中、「人斬り」も切腹する田中新兵衛(薩摩藩士で、岡田似蔵らとともに幕末四大人斬り)役である。三島が切腹同好会に出入りしていたことも、つとに知られるところだ。やはり『命売ります』は、作家が死をかたわらに描いた作品なのだ。生と死の線上に人間ドラマをみつめ、そしておびただしい死を描きながら自分の死のありかたを俯瞰する。

フラメンコダンサーにして三島研究家の板坂剛によれば、三島由紀夫は「宮中で天皇を殺して腹を切りたい」のが本音だったという。この発言はじっさいに、文芸評論家の磯田光一が三島から聞いたものだ。天皇に忠義を奉じて死ぬはずの三島が、天皇を斬るというのだ。板坂は『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(鹿砦社新書)のなかで、けっして右翼には理解できないフレーズを枕言葉に、三島由紀夫の精神の闇に踏み込んでいく。いや、精神などという言葉は三島が嫌悪した西洋の教養主義であって、肉体と知性の謎というべきかもしれない。

 
映画『憂国』

天皇を殺して、自分も切腹する。この一見して支離滅裂な筋書きはしかし、ディープな三島ファンにはそれほど愕くようなものではない。2・26事件の霊魂が昭和天皇を呪詛した『英霊の殸』は、失われた国体の挽歌である。皇族の婚約者と禁忌を犯す『春の雪』の松枝清顕も死ぬ。美の象徴である金閣寺を焼くことで、その美を永遠のものとした『金閣寺』の主人公。そして死ぬ大義をもとめて、財界の大物を刺殺したのちに割腹した『奔馬』の飯沼勲。三島にとって死の大義は、70年安保闘争における全学連の内乱に乗じて、治安出動する自衛隊とともに戦い、そこで斬り死にすることだった。

だが、その全学連の安保闘争が不発に終わり、刀の出番がなくなったとき、自衛隊の国軍化のための決起という意味不明の市谷決起が行なわれたのである。死にたいが死ねない『命売ります』の主人公・羽仁男はやがて、秘密警察とまちがわれて殺されそうになるなかで、ひたすら生きたいと思うようになる。そこを突き詰めれば、読者(視聴者)の視点は「目的のある死」の裏返しとしての「生きる目的」ということになるはずだ。そこではすでに、生と死が同義である。明らかにそこで三島は、死の舞台設定を考えていたのである。理由のない偶然の死ではなく、必然性に満ちた死。すなわち大義による永遠の生を――。

 

いっぽうで三島由紀夫の死は、政治的な行為でありながら芸術の完成でもあった。なぜならば『天人五衰』の結末で、すべてが唯心諭(阿頼耶識)が支配する「空(くう)」を明らかにしているからだ。俺がつくってきた芸術はすべて「空」であって何もなかったのだと、言ってしまえば「夢オチ」で締めくくったのである。市ヶ谷自決の陳腐な檄文よりも、ヒロイン聡子に過去をすべて否定され、「何もないところにきてしまった」本多繁邦(『豊饒の海』の主人公)の感慨こそ、じつは三島が読者に味わって欲しかったものに違いない。三島の周到な仕掛けによって、われわれは置き去りにされたのである。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。

 
鬼才・板坂剛最新作『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』

キックボクシングや格闘技関係者の資格は国家的ライセンスにすべきか?

トレーナーとしてセコンドとして後輩を育てる鴇稔之氏(2017.4.16)

先日、元・日本バンタム級チャンピオンの鴇稔之(とき・としゆき)さんがフェイスブックに於いて、キックボクシングの免許制度案について想いを述べられていました。その文面を引用させて頂く形で、過去記事と重複する箇所はありますが、改めてこの事案を取り上げてみたいと思います。キックボクシングが誕生して50年あまり、もっと早く、みんなが真剣に考え実現に動かなければならなかった課題です。

日本ではキックボクシング業界がまとまって共通のライセンス制度を取り入れたい意見は古くからある中、現在はどの団体もプロ選手に関してプロ・テストはやっていますが、内容に関してばらつきがあり、一定のプロ・レベルに達していないプロ・テストもあるのかもしれません。

日本バンタム級チャンピオンとして4度防衛した鴇稔之氏(1992.11.13)

◆命を守る国家的ライセンスの威力!

一般社会では、各種免許には国家試験が実施されますが、そこには人の命に係わる事由があり、知識と技術が要求される為、自動車免許にしても医師免許にしてもフグの調理師免許にしても、素人がそれらをやる事によって、人が死に至ることも有り得る事柄に関しては、国の免許制度が導入されている訳です。

スポーツに於いては、プロボクシングはJBCによるプロテストの下、各種ライセンスが能力に応じて与えられている基盤がしっかりした競技であり、キックボクシングに於いては、どこも任意団体で、制度が整備されなければならない危険度高い運営環境にあります。

キックボクシングはボクシングに比べれば死に至るケースは少ないものの、怪我をする確率はボクシングより遥かに上回ります。試合においての骨折はよく起こることで、それは競技性の内容にもよりますが、キック各団体やレフェリー団体、指導のされ方によっては適切な処置が出来ないレフェリーが居ることにも原因のひとつがあり、ジャッジにも不適切なジャッジメントのせいで選手が引退してしまったり、会場で見受けられる客同士のトラブルや、関係者の士気をさげるような言動など、興行的にも選手や関係者の意識の低さで、あってはならない事態も度々起こり、なかなかメジャースポーツの仲間入りが出来ません。

また、「ジムの会長は業界育ちではなくても資金があればジムを開設出来る」というのが現状で、キックボクシングが好きでお金があるというだけでジムをやっている会長も居るのも事実です。そこは経営者たるもの、格闘技の知識や一般常識を持ち合わせなくてはいけません。例えば他のスポーツで、野球やサッカーで選手経験の無い人が監督を務めることはありません。

選手の命を守ること第一に、興行のトラブルを未然に防ぐ為にもキックボクシング業界は選手、オーナー、セコンド(トレーナー)、役員に、団体ごとではない業界統一レベルでライセンス制度を取り入れたい現状で、こういうところにも国家的ライセンスの威力がないと整備できない現状があります。

キックボクシングは決してつまらないスポーツではなく、かつてのテレビ放映が長く続いた昭和の時代や、後の「K-1」、現在の「KNOCK OUT」もテレビ番組の反響を見ればその素晴らしさは誰もが理解出来るでしょう。人気だけが先行して組織の基盤は軟弱なのが、キックボクシングと新興格闘技の現状です。

◆タイ国ボクシング法

タイ国では、政府に観光・スポーツ省があり、傘下にあるボクシング・スポーツ委員会は、公務としてコミッションに相当する役割を果たしています。この管轄下にあるのがタイ国ムエスポーツ協会で、プロボクシングを含みます。

1999年に制定されたタイ国ボクシング法では、規定のムエタイレフェリー公式講習に合格すると国家資格として、タイ国観光・スポーツ省が認定する正式なムエタイレフェリーとしてライセンスを交付されます。こういう構築した国家的ライセンスはは魅力的存在でしょう。

願わくば、日本もタイ国のようにスポーツ庁が定めてくれるのが望ましいところですが、それはまた利害が絡む別次元の複雑な問題があり、プロ競技に係わってくることは、おそらく10年以内では難しいところ、全ての団体が集まって統一ルールの下、将来的に国から認可されやすい環境を作っていくことを最優先に整備することが望ましいところです。

ムエタイレフェリー講習で指導するブンソン・クッドマニー陸軍大佐、タイの国家的業務です(2017.9)
終了証を得た新人レフェリー達、タイの国家的ライセンスです(2017.9)

◆理想のスタジアム建設

数年前、ライセンス制度の話をキックボクシング生みの親、野口修会長と語り合った鴇稔之氏は、「キックボクシング専用のスタジアムがあれば、タイのラジャダムナンスタジアムやルンピニースタジアムのように各団体をプロモーターに見立ててランキングを統一出来るようになります。」という前例を語り、それでスタジアム建設の話が盛り上がって来たところで、野口修会長が2016年3月に亡くなってしまったので、立消えてしまったということでした。

ラジャダムナンスタジアム館内、世界に知れ渡った殿堂です(2017.5.25)
数々の代表の立場で語った野口修氏、もうひとつ大きな仕事を残していましたが(2014.3.9)

鴇氏は「今後、何とか話を再燃したいです。それは私でなくても、やれる人がやればいいのです。」と語り、団体乱立が長く続いたキックボクシング界では、「今後も誰かが強力な団体を立ち上げてもあまり意味が無く、設立者が亡くなられたり、資金が尽きれば消滅や弱体化し、また分裂に至ります。」とも語られています(私の過去記事と同意見)。

スタジアム制の場合、支配人の交代があっても立退かない限りはスタジアム自体が無くなることはなく、タイの二大殿堂のように、ここに集まる観衆が群集の力となって支持が働けば自然と最高峰と成る可能性を持っています。

都心に極力近い地域にキックボクシング・スタジアムが建設されれば、国内統一と世界から注目される格闘技殿堂は実現できるかもしれない、そんな莫大な資金が掛かる建設計画も一度は可能性ある話が進んでいたことに関心が持たれる今、ぜひ実現に向かって欲しいと願う昭和のキック同志達であります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

おかげさまで150号!最新『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

飯塚事件・確定死刑判決のウソを見抜く

1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人がわいせつ行為をされたうえに殺害され、2008年に無実を訴える男性・久間三千年氏(享年70)が死刑執行された「飯塚事件」で、福岡高裁(岡田信裁判長)は6日、久間氏の遺族が求める再審を認めない決定を出した。

そんな飯塚事件については、これまでDNA型鑑定の杜撰さをはじめ、様々な事実に基づいて冤罪の疑いが指摘されてきたが、実をいうと確定死刑判決(一審の福岡地裁判決)には、事件の事実関係を何も知らない人間が見ても、間違いだとわかる点も散見される――。

飯塚事件の再審を認めなかった福岡高裁

◆存在しない〈一般的な経験則〉により久間氏を犯人に

実際に確定死刑判決から引用すると、次の部分がそうだ。

〈幼女の陰部にいたずらをして、殺害した死体を山中に投棄するという本件事案の陰湿さに照らしてみると、一般的な経験則からいって犯人は一人(それも男)である可能性が高い〉

確定死刑判決がこのような言及をしたのは、単独犯であることを前提にしないと久間氏をこの事件の犯人と認定できないからだ。というのも、科警研のDNA型鑑定では、被害女児2人の膣内容物から検出されたDNA型と久間氏のDNA型が一致したとされている。仮にこのDNA型鑑定の結果が信じられるとしても、犯人が複数なら、「被害女児2人の陰部にいたずらし、膣内にDNAを残した人物」と「被害女児2人を殺害した人物」が別々に存在する可能性も残ってしまうのだ。

それゆえに確定死刑判決は、〈一般的な経験則〉なるものを持ち出し、この事件は単独犯によるものだということにしたのだが、そもそも〈一般的な経験則〉とは何だろうか。

小さな女の子が性的ないたずらをされ、ひいては殺害されて死体を遺棄される事件は数多く存在するが、この飯塚事件のように「2人の小さな女の子が同時に被害に遭っている」ケースはきわめて特殊だ。私は新聞データベースなどで同様の例を探したが、まったく見当たらなかった。そもそも事件自体がきわめて特殊なのに、〈犯人は一人(それも男)〉などという一般的な経験則など存在するわけがない。

◆久間氏が犯人だという思い込みに基づいた事実認定

飯塚事件の主な経過(2018年2月7日付西日本新聞より)

また、次の部分も確定判決からの引用だが、これも事実関係を何も知らない人間が見てもおかしさがわかる認定だ。

〈付近住民の生活道路ともいえるような場所で、午前八時三〇分ころという比較的早い時間帯に右犯行が行われていること(さらに、八丁峠で手嶋が目撃したのが犯人車であるとすると、犯人は被害児童を略取又は誘拐してから約二時間三〇分後には遺留品発見現場及び死体遺棄現場である八丁峠に到着していることになるが、潤野小学校から八丁峠の死体遺棄現場まで自動車で行くだけで前記のとおり三五分ないし五三分かかること)にかんがみると、犯人は右各現場付近に土地勘があり、しかも、これら現場の近隣に居住する人物であると認めるのが相当である〉

これはつまり、犯人が事件の各現場に土地勘があるらしきことを根拠に、犯人は〈現場の近隣に居住する人物〉だと認定しているわけである。この確定死刑判決の見解が正しければ、久間氏はまさに〈現場の近隣に居住する人物〉だから、犯人像に合致することになる。

しかし、事件の各現場に土地勘がある程度のことを根拠に、犯人は〈現場の近隣に居住する人物である認めるのが相当である〉というのは、論理の飛躍も著しい。普通に考えれば、〈現場の近隣に過去に居住したことがある人物〉や〈現場の近隣に友人、知人、親戚が住んでいる人物〉なども現場に土地勘はあるからだ。さらに言えば、現場に縁もゆかりもない人物でも事前に現場を下見したうえで犯行を実行した可能性だってある。確定判決はそんな簡単なことさえわかっていないのだ。

要するに確定死刑判決を書いた裁判官たちは、〈現場の近隣に居住する人物〉である久間氏が犯人だという思い込みに基づいて事実認定をしたのだろう。だからこそ、このような事実関係を何も知らずとも、間違いだとわかる点が判決中に散見されるのだ。

この酷い確定死刑判決により久間氏の生命を奪った裁判官は、陶山博生氏(裁判長)、重富朗氏、柴田寿宏氏の3人。柴田氏は今も現役の裁判官だが、陶山氏は弁護士に、重富氏は公証人に転じている。3人の動向は今後も注視したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!最新『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

《殺人現場探訪14》近く再審可否決定の恵庭OL事件 現場で感じた素朴な疑問

冤罪が疑われている様々な事件で、今年は相次いで判決や決定が出る見通しだ。札幌刑務支所で服役している大越美和子さんが第2次再審請求中の恵庭OL殺害事件もその1つで、近く再審可否の決定が出る見通しだ。裁判の第一審の頃から冤罪を疑う声が多かったこの事件。私は4年半ほど前に現地を訪ねて取材し、関係現場を車で走って回ったことがある。

◆決め手となる証拠は無いに等しい状態だった

北海道恵庭市郊外の農道脇で女性の真っ黒げの焼死体が見つかったのは2000年3月中旬の朝だった。女性はほどなく千歳市の運送会社で働くAさん(当時24)と判明。同年5月、殺人などの容疑で逮捕されたのがAさんと同じ会社で働いていた大越さんだった。

大越さんが服役している札幌刑務支所

大越さんが疑われたのは、以前交際していた会社の同僚男性がAさんと交際を始めていたことによる。警察は男女関係のもつれが殺人事件に発展したとみたわけだ。だが、大越さんは一貫して容疑を否認。そして裁判では、大越さんの犯行を否定する様々な事実が浮上した。

たとえば、現場では数々の足跡やタイヤ痕が見つかっていたが、大越さんのものは1つも見つかっていなかった。また、検察側は大越さんが自分の車の中でAさんの首を絞めて殺害したと主張したが、大越さんの車の中からAさんの指紋やDNA型、尿痕は一切採取されていなかった。決め手となる証拠が無いに等しい状態だったのだ。

しかし2002年3月、札幌地裁は大越さんに対し、懲役16年を宣告。その後も大越さんは無実を訴え続けたが、控訴、上告も退けられ、2006年に有罪が確定。2012年に申し立てた再審請求も実らず、現在も札幌刑務支所で服役を強いられている。

◆1時間ですべての犯行が行えるかというと……

私がそんな事件の現場を訪ねたのは、2013年の夏だった。私がこの時、関係現場を車で走ってみて感じたのは、大越さんを犯人だと考えるには「犯行に使える時間が少なすぎるのではないか」ということだった。

被害女性Aさんの焼死体が見つかった恵庭市郊外の農道

まず、大越さんとAさんは事件当日、午後9時30分ごろに一緒に会社を後にしている。その後、大越さんは夜11時30分頃に会社からそう遠くないガソリンスタンドに車で来店しているのが確認され、そのまま帰宅している。つまり、大越さんが犯人ならば、犯行をこの約2時間の間に終えたことになる。

しかし、会社から遺体発見現場までは約20キロの距離があり、地元の人間でないとわからないような場所のため、到着するまでに30分かそこらはかかった。遺体発見現場からガソリンスタンドまでも同様だ。とすると、仮に大越さんが犯人ならば、被害者を殺害したり、遺体を燃やしたりする犯行に使える時間は長くて1時間。一見、十分可能に思えなくもない時間だ。しかし、それ以前に人を殺したことがあるわけでもない20代の女性がそんなに手際よく、同僚の女性に対する殺害行為や死体損壊行為を完遂できるかと言うと、私は疑問を感じずにはいられなかった。

ガソリンスタンドに着いた時、大越さんの様子が何かおかしかったなどという話はない。さらにその後、大越さんは自宅近くのコンビニで買い物をしているが、その時の様子もごく普通だったようだ。大越さんは裁判で「あの日は退社後、恵庭市内の書店に行き、立ち読みなどをしていた。それからガソリンスタンドに行った」と主張しているが、その主張通りに行動したと考えたほうがしっくりくるように思われた。

◆現在は再審請求に追い風

現在札幌地裁で行われている第2次再審請求審では、弁護側が新たに示した東京医科大学の吉田謙一教授(法医学)の鑑定書により、Aさんが薬物中毒で亡くなった可能性が浮上。さらに主任弁護人の伊東秀子弁護士によると、弘前大学の伊藤昭彦教授(燃焼学)の鑑定により、Aさんの遺体が最初はうつ伏せの状態で燃やされ、鎮火後にひっくり返されて陰部も燃やされていたと判明し、これにより大越さんのアリバイが裏付けられたという。

「遺体をうつぶせで燃やせば、鎮火するまで遺体をひっくり返せませんが、鎮火までには20分以上かかります。大越さんは事件後、ガソリンスタンドに車で赴いていますが、遺体を燃やすのにそんな時間をかければ、ガソリンスタンドに入店した時間に間に合わないのです」

昨年10月には、日本弁護士連合会が大越さんの再審請求を支援する決定を出しており、現在は大越さんに追い風が吹いている状態だ。公正な判断を期待したい。

大越さんの第2次再審請求が行われている札幌地裁

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

おかげさまで150号!最新刊『紙の爆弾』3月号! 安倍晋三を待ち受ける「壁」
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

名護市長選挙のその先へ ── 沖縄が「本当の花」を咲かせるために

2月4日投開票が行われた沖縄県名護市長選挙で、現職の稲嶺進候補を新人の渡具知武豊氏が破り、自公政権(プラス維新)が後押しする市長が誕生した。稲嶺陣営は「オール沖縄」ら翁長知事らが支援し三選にのぞんだが、3400票ほどの差で落選した。私は公明党が渡具知氏支援を明確にして以来、稲嶺氏の再選が厳しいのではないか、と予想していたが、その通りの選挙結果となった。

 
2018年2月5日付沖縄タイムス社説

今回の選挙結果と、それに通じる構造は沖縄タイムス2月5日社説が述べているように、〈菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている〉と私も感じる。

前回の市長選と大きな違いは、公明党が自主投票から、今回は明確な国政与党候補の支持に回ったことだ。全国的には公明党の組織票は国政選挙ごとに得票を減らしているが、沖縄ではむしろ支持者を増している、という話を現地では耳にする。とりわけ、沖縄以外からの沖縄への移住者が生活になじめず、困惑の色をみせていると、すかさずオルグ(勧誘)にやってきて勢力を広げているらしい。この話はご自身が東京から沖縄に転居され、創価学会に入信したご本人の体験談として聞いたので間違いないだろう。

◆選挙結果と市民の態度

即座には思い出せないほど、米軍のヘリコプターやその部品落下が相次ぎ、米兵や軍属の犯罪が引き起こす犯罪の報道は、関西に住んでいても新聞紙上でしばしば目にする。

短絡的に名護市長選挙の結果を、「沖縄県民が辺野古基地建設を含め、米軍の駐留に肯定的に意見が変わった」と決めつけるのは大いなる間違いだ。たとえば名護市長選を前に、琉球新報社などが実施した電話世論調査から市民の態度は明白だ。

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画について、53.0%が「反対」、13.0%が「どちらかといえば反対」を選択し、66%を占めた。一方で「賛成」は10.5%、「どちらかといえば賛成」が17.8%と3割に満たない。

何度も、何度も選挙で「反対」の意思表示をしても、県議会で決議をしても、知事が東京に出向き、米国まで出向いても、いっこうに変化のない状況に、地元の人びとは疲れ切っているのが正直なところだろう。

2018年2月5日付琉球新報社説

そして、基地反対運動に熱心ではない、庶民の多くは基地問題について多くを語りたがらない。「もう疲れた。勘弁してくれ」と顔に書いてある。人口が6万人ほどの名護市がもっぱら、辺野古基地建設で注目を浴びるが、人々には日々の生活があり、沖縄の住民が、名護市の住民が他の地域の住民に比べて、政治にばかり頭を悩ませ、翻弄させられていなければならない状態自体が、惨いというべきだ。辺野古基地建設計画がなければ、名護市はこれほど注目されることもなかったろうし、市民の分断や苦悩も生じはしなかった。辺野古基地建設の罪はこのことに尽きるともいえる。

◆太田元知事時代への国権ネガティブキャンペーン

前述の通り、太田元知事は知事就任前に研究者だったこともあり、理詰めでなおかつ、行動的に米軍基地撤去に取り組んでいたが、その姿勢を自民党や政権中枢は「基地問題ばかりで、経済政策に無能」と決めつけキャンペーンをはった。

事実は逆だ。20世紀後半から沖縄は観光がけん引役となり毎年目覚ましく経済成長している。ここ4年間は毎年過去最高の観光客数を記録し、2016年度の入域観光客数は876万9,200人で、対前年度比で83万2,900 人、率にして10.5%の増加となり、4年連続で国内客・外国客ともに過去最高を更新した。外国客においては初の200万人台を記録した(沖縄県の集計)

こと「経済」にかんしては、沖縄は成長の真っただ中で、観光を中心に、まだ発展の余地がある(それが良いことがどうかは簡単には判断できないけれども)。

2016年度 沖縄県入域観光客統計概況(文化観光スポーツ部観光政策課2017年4月発表)

米軍基地の問題は大前提として揺るぎないが、沖縄を訪れるたびに、どんどん日本の巨大資本が侵入していく様が目について仕方ない。また自分も観光客だから、こんなことを言えた義理ではないのだけれども、沖縄の観光客急増は確実に環境への悪影響をもたらしている。沖縄島(本島)を南北に走る国道58号線は、那覇市内ではしょっちゅう渋滞している。車のナンバーを見ると「わ」や「ね」(レンタカー)がやたら多く、交通事故を毎日のように見かける。海水浴場では日焼け止めを塗りたくった観光客が綺麗な海を汚す。

沖縄の人びとが潤うのは好ましいけれども、やみくもな経済成長で人の心を失い、人の住めないような街を溢れさせてしまった日本の過ちをおかさないで欲しい。言わずもがな「命どぅ宝」精神が沖縄にはあるが、それが「経済成長神話」に揺すられてはいないだろうか。基地存続派はかつて「経済基地依存論」を、それが破綻すると「経済テコ入れ支援策」を持って東京からやってくる。でも沖縄では、経済成長と反比例して平均年齢が下がっているじゃないか。

◆本当の花を咲かせる ── ネーネーズの「黄金の花」

毎年「琉球の風」に登場する「ネーネーズ」に「黄金(こがね)の花」という曲がある。作詞岡本おさみ、作曲知名定男の名曲だ。


◎[参考動画]黄金の花/NENES with DIG(2015年6月27日ライブハウス島唄にて)

黄金の花が咲くという
噂で夢を描いたの
家族を故郷 故郷に
置いて泣き泣き 出てきたの

素朴で純情な人達よ
きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで
黄金の花はいつか散る

楽しく仕事をしてますか
寿司や納豆食べてますか
病気のお金はありますか
悪い人には気をつけて

素朴で純情な人達よ
ことばの違う人たちよ
黄金で心を汚さないで
黄金の花はいつか散る

あなたの生まれたその国に
どんな花が咲きますか
神が与えた宝物
それはお金じゃないはずよ

素朴で純情な人達よ
本当の花を咲かせてね
黄金で心を捨てないで
黄金の花はいつか散る

黄金で心を捨てないで
本当の花を咲かせてね

命や心を大切にすれば、優先させるべき順列は、おのずから明らかではないか。戦争を前提とした米軍基地の存在など論外だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

2018年もタブーなし!7日発売『紙の爆弾』3月号
『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点

本日再審可否決定の飯塚事件 「冤罪」久間氏の命を奪った責任者たちの天下り先

1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人が殺害された「飯塚事件」では、2008年に死刑執行された久間三千年氏(享年70)に冤罪の疑いが長く指摘されてきた。その飯塚事件の再審請求即時抗告審で、福岡高裁(岡田信裁判長)がきょう2月6日の午前10時、再審可否の決定を出す。

当欄で繰り返し紹介してきた通り、久間さんが無実であることは間違いないが、その生命を奪った責任者たちは今、どこで何をしているのか。実名で報告する。

◆警察トップはあの東証1部上場企業の会長に

村井温氏(綜合警備保障のHPより)

まず、捜査段階の責任者から見ていこう。

久間氏は1994年9月、福岡県警にこの事件の容疑で逮捕された。当時、県警本部長を務めていたのが村井温氏だ。その後、村井氏は1997年に実父が創業した大手警備会社「綜合警備保障」に転じて社長を務め、同社を東証一部に上場させた。現在は代表取締役会長だが、ホームページ上で「当面、売上1兆円、その次は業界ナンバー1を目指します」と豪語しており、かなり羽振りが良さそうだ。

私は以前、編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ』を制作した際、村井氏に取材を申し込んだが、村井氏は秘書を通じ、「警察時代の職務については、取材を受けないようにしている」と断ってきた。しかし調べたところ、村井氏はそれ以前、「賢者グローバル」という無料動画配信サイトの取材に応じ、福岡県警本部長時代に「1万何千人」もいた部下をいかにマネージしたか、当時の経験が今の会社でいかに役立っているかを笑顔で語っており、誠実さに欠ける人物だと思わざるをえなかった。

村山弘義氏(青陵法律事務所のHPより)

一方、久間氏を起訴した福岡地検の村山弘義検事正はその後、法務・検察の世界では検事総長に次ぐナンバー2のポストである東京高検検事長まで出世した。1999年に弁護士に転身後は三菱電機やJTに監査役として迎えられ、外部理事を務めた日本相撲協会では2010年の大相撲野球賭博騒動の際に理事長代行も務めた。

私は前掲書を制作した際、村山氏にも取材を申し込んだが、やはり断られた。電話で取材を断る理由を尋ねたところ、「理由なんか申し上げることはありません。色々考えて、お断りしたということでございます」とのこと。飯塚事件について何か語るべきことがないのかと尋ねても「そんなことを申し上げることもありません」、冤罪だと思っていないということかと確認しても「はいはい、すみません」という感じで、とりつく島がなかった。

◆確定死刑判決を出した裁判長は頑なに取材拒否

久間氏は捜査段階から一貫して無実を訴えていたが、裁判では福岡地裁の1審で陶山博生裁判長から死刑判決を受けた。その後、久間氏は福岡高裁の2審、最高裁の上告審でも無実の訴えを退けられ、死刑囚となった。

確定死刑判決を宣告した陶山氏は2013年3月、福岡高裁の部総括判事を最後に依願退職し、現在は福岡市を拠点に弁護士をしている。

私は以前、飯塚事件に関する取材を陶山氏に申し入れたことがあり、電話で断られたため、氏が所属する羽田野総合法律事務所の入ったビルの前まで訪ねて再度取材依頼したことがある。しかし、陶山氏は「全然お話するつもりはありません」「黙秘です」「急ぎますので」などと頑なに拒否した。陶山氏にとって、飯塚事件のことは触れられたくない過去であるようだった。

◆執行を決裁の法務省幹部2人は検事総長に上り詰め、複数の大企業に天下り

死刑は、法務大臣の命令により執行される。しかし、その前に死刑執行の可否を検討するのが法務省の官僚たちだ。

私が行政文書開示請求などによって調べたところ、久間さんの死刑執行を決裁した法務官僚11人が特定できた。その名前を挙げると、尾﨑道明矯正局長、大塲亮太郎矯正局総務課長、富山聡矯正局成人矯正課長、坂井文雄保護局長、柿澤正夫保護局総務課長、大矢裕保護局総務課恩赦管理官、小津博司事務次官、稲田伸夫官房長、中川清明秘書課長、大野恒太郎刑事局長、甲斐行夫刑事局総務課長――の11人だ。

小津博司氏(トヨタ自動車のHPより)

このうち、とくに中心的な役割を果たしたとみられるのが、小津博司事務次官大野恒太郎刑事局長だ。2人はいずれも検察官で、久間さんを処刑台に送った後、法務・検察の最高位である検事総長まで上り詰めている。そして退官後も揃って複数の大企業に天下りするなどし、悠々自適で暮らしているようだ。

まず、小津氏は2014年に退官後、弁護士に。確認できただけでも現在はトヨタ自動車、三井物産、資生堂の3社で監査役のポストを得て、清水建設が設立した一般財団法人清水育英会で代表理事に就いている。

大野恒太郎氏(伊藤忠商事のHPより)

一方、小津氏の後を受けて検事総長となった大野氏も2016年に退官後、弁護士に。四大法律事務所の1つである森・濱田松本法律事務所に客員弁護士として迎えられ、伊藤忠商事、コマツで監査役、イオンで社外取締役を務めている。

私は前掲書を制作した際、この2人に対しても、久間さんに関する思いなどを聞くために手紙で取材を申し入れたが、当然のごとく断られている。

小津氏は手紙で返事をくれたが、〈6月16日付のお手紙拝受いたしました。小生に対する取材のお申し込みですが、退官後、このような取材は全くお受けしておりません。この度のお申し出もお受けすることはできませんので、悪しからずご了解いただき、今後の連絡もお控えいただきますよう、お願いいたします。用件のみにて失礼いたします〉と取材を断ることを一方的に告げてきただけで、取材を断る理由すら示さなかった。

一方、大野氏は私が取材を申し込んだ時はまだ現役の検事総長だったが、最高検企画調査課の検察事務官から電話がかかってきて、「今回の取材申し入れに関しては、大変恐縮なんですが、お断りさせて頂きたいということです」と告げられた。大野氏はいかなる理由で取材を断るのかと尋ねると、「とくに賜っておりません」とのことだった。

以上、村井温氏、村山弘義氏、陶山博生氏、小津博司氏、大野恒太郎氏という久間氏の生命を奪った5人の責任者たちの「今」を紹介したが、彼らは飯塚事件の再審可否決定が出る今日をどんな思いで迎えたのだろうか。そして決定をどんな思いで受け止めるのだろうか。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

天才中学生・藤井聡太五段と立憲民主・辻元清美議員を繋ぐ「名古屋大附属」

〈将棋の史上最年少棋士・中学3年生の藤井聡太四段(15)が1日、東京都渋谷区の将棋会館で行われた順位戦C級2組9回戦で梶浦宏孝四段(22)に勝ち、9戦全勝としてC級1組への昇級を決めた。同時に、昇段規定を満たして同日付で史上初の「中学生五段」となった。17日に羽生善治竜王(47)と準決勝で直接対決する朝日杯将棋オープン戦で優勝を果たせば、一気に六段まで昇段する。〉(2018年2月1日付スポーツ報知)

◆藤井聡太五段の快挙で思い出した「名大附」受験

 
藤井聡太五段(日本将棋連盟HPより)

天才はやはり本当に居るものだと、藤井聡太君には感心させられる。15歳でも言葉の選び方は、知性を備えた大人のそれだし、人間的な落ち着き振りは、傑出した才能を伺わせるのに充分な重厚性を持っている。藤井君は現在名古屋大学教育学部附属中学校に在籍しているが、実は中学校ではないものの、私は名古屋大学教育学部附属高等学校を受験して、見事に不合格になったことがある。

地元では「名大附(めいだいふ)」と通称される、名古屋大学教育学部附属高等学校の入試は、ややユニークだった。1次試験は「抽選」だ。私の通っていた中学校から数10名が「抽選」を受けた(抽選はたしか郵送で願書を出して、高校側から本試験へ「当選」したか「ハズレ」たか連絡を受けるシステムだったと記憶する)。

 
名古屋大学教育学部附属中・高等学校(同校フェイスブックより)

私は幸運にも本試験受験を許可される「当選」の連絡があり、名古屋市内の同校で筆記試験を受験した。同校は名古屋大学教育学部附属ということで、偏差値的にはかなり優秀なのだけれども、「必ずしも成績優秀者だけが合格するのではなく、合格者は成績順ではなく選抜する」と言われていた。

私の学力では到底合格は難しいレベルの学校だが「成績上位者からだけではない合格」に可能性をかけた。筆記試験の出来は芳しくなかった。とてもではないが合格域に入れるような成績ではなかったろう。そして自分の敗戦感覚通り、不合格となった。

◆「名大附」出身・もう一人の猛者、辻元清美

これで名古屋大学附属高等学校との縁は切れるのだが、大学を卒業して企業に勤めてから、奇異な縁に引き戻される。当時私は某大企業のエリート新入社員だった(いまでは嘘のようだけれども事実だ)。その仕事で立ち寄り先に「ピースボート」のポスターが貼られたお宅にお邪魔することになった。ピースボートはどんな商法をしているのか知らないが、いまでは都会だけでなく、田舎でもあちこちにポスターを見かけるようになり、「経営」も安定しているように伺える(正直、少々やりすぎの感も否めないが)。でも当時はまだそれほどに目立った存在ではなかったが、チャンスがあれば乗ってみたい、と学生時代に関心を持っていた。

 
辻元清美衆議院議員(公式HPより)

知る人は知っているがピースボートを始めたのは辻元清美を中心とする若者たちだった。いまではもう50歳を超えて、議員歴も長くなった辻元清美とともに、ピースボートを立ち上げた人が、私の訪問先の居住者だった。仕事の話もそこそこにして、初対面なのに、私からはピースボートについてあれこれ質問し、その後その方とはしばらく情報を交換することになる。そして当時から「辻元清美はいずれ社会党の全国区から選挙に出る予定」と教えてくれたのもその方だった。

その情報通りに、後年辻元は社会党が改名した社民党から国会議員に当選し、逮捕されるなど波乱に満ちた経験をへながらもしぶとく議員の椅子を確保し続けている。その辻元は名古屋大学教育学部附属高等学校の卒業生でもあるのだ。関西弁でまくしたてる話し方を聞いていると、関西生れの関西育ちのように勘違いしがちだが、辻元は高校時代を名古屋で過ごしていたのだ(辻元は、その気になれば名古屋弁をしゃべることができるのか、ちょっと興味のあるところではある)。

◆辻元清美はどんな高校生だったのだろうか

入学試験の際に一度しか訪れたことはないけれども、歴史を感じさせる校舎からは、自由な校風の香りがした。もし仮に私が同校に合格していたら、確実にその後の人生は変わったものになっていただろう(それは大学入試にも言えることだが)。そんな学校に通う天才棋士の藤井聡太君は史上最速で五段に達したという。元気はつらつ、スポーツに打ち込む若者を見ていていると気持ち良いけども、知性に溢れ、控えめな態度の若者には、また別の可能性や期待感を感じる。同じ学校に通っていた辻元はどんな高校生だったのだろうか。ちょっと興味がわく。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点
2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

私の内なるタイとムエタイ〈21〉タイで三日坊主!Part.13 初めての托鉢

◆三日坊主生活の始まり!

今、纏っているのは黄色い僧衣。俗人の時に身に着けていたものは一切無い。パンツも穿いていない。外に出る時はサンダル履き。頭を触ればやっぱり髪は無い。本当にお坊さんになったよ、どうしよう。

泣きそうにアナンさんらを見送った直後、そんな呑気に我が身を観察している時間は無く、一刻も早く黄衣の纏いを覚えなければならない時。

◆黄衣の纏いを覚える!

午後は葬儀が続く中、藤川さんの黄衣纏いの指導が始まりました。托鉢に行く場合の纏い、普段寺に居る場合の纏い、葬式用の纏いを教えてくれますが、とにかく難しいし、文句言いっぱなしの藤川さん。「よう見とけ!まず端と端持って巻いていくんや、アホ、強う締めんかい、解けてくるぞ!」語気強く、ひたすら貶すばかり。そんなこと言ってる間に葬儀が再開、「もう行かなあかん、葬儀用に戻すぞ、早よせい、あかんなあ違うやろ!」ほとんど父親に服を着せて貰っている幼児状態で式典用(ホム・サンカティ)に纏い、葬儀に向かいます。

新米の私は比丘の列席の後方に座り、ワイ(合掌)をして読経など全く出来ないまま。周囲はこの年のパンサー(安居期)に出家した比丘ばかり。しかし皆、見事に声に出して読経している姿に圧倒され、これから日々、使う経文だけは覚えなくてはいけないと思うところでした。

葬儀の一区切りで、クティ下のベンチでタバコを吸ってくつろいでいる比丘、自家用トラックの荷台に乗って外に向かう数名の比丘がいると思っていたら、サーラーからまた読経が聞こえてくる。油断していると立ち遅れる私。皆当てられた役割があるので、私以外誰も迷ってはいません。

黄衣を纏う練習は続く(1994.10.30 セルフタイマー撮影)

やがて藤川さんがやって来て「折り目合わせて畳んどけよ!」と言って出て行かれ、私の出番は終わりと悟り、何とか慌しい行事の1日は終わりました。しかし夕方以降は黄衣の纏い練習をしなくてはなりません。

その夜も藤川さんがやって来て教えてくれるも、昼間までと違って口数少なく、今迄なら京都弁でグチグチ言いそうなところが何も言わない。それは何か冷たく、「こんなことすぐ覚えんとあの若い奴らにバカにされるんとちゃうけ?」と言うことは言うが語気は静か。

黄衣を頭から被り、生地を引っ張ると頭が引っ張られて持って行かれる状態。剃った頭はツルツル滑るものではなく、ザラザラで生地が纏わりついてしまうのでした。傍から見れば笑えるような光景にも私は苛立ち、藤川さんは無視し、全く笑いが起きない。私の不器用さに呆れたのでしょうか。
「これだけは覚えんと明日からのビンタバーツ(托鉢)に行けんのとちゃうか? 明日の朝までに出来るようにしとけ!」と言って出て行った藤川さん。

時間は夜9時過ぎた頃。その後11時頃まで練習。ホム・マンコン(注釈:ホム・クルムとは型が違う)と言われる門外用の仕上がる形だけ分かるものの、その纏いは上手く出来ない。足下は雑、首周りも雑、全体はダブダブして締まりが無い。やり方だけは覚えたが、イライラするばかりでは集中力も落ちている。やめた、もう寝よう。

◆初めての托鉢!

カメラのさくらやで買った小さな目覚まし時計が、午前3時50分。“ピピピピッ”を連続繰り返される音で目が覚める。藤川さんの部屋をノックするのは5時25分。それまで練習するのだ。昨日、一回纏うまでに20分以上掛かっていた。今日はどうだろう。その為の早起き。コツが掴めぬまま何度も繰り返し、格好悪いが形だけは出来た。解けずに帰って来れるか不安ながら、もう時間だ、これで行こう。

藤川さんの部屋をノックする。中に入ると、「やり直せ」と言うかと思うも、「今日はその場凌ぎに、脇の下に輪ゴムで止めとけ、最悪でも全部バラけることは無いやろう」と言って黄衣を巻き寿司のように巻きつけて捻った部分を脇の下で輪ゴムで止めてくれました。

20分かけて何とか完成、格好悪いが2つある型のひとつ、ホム・マンコン。我が寺ではこれに決まっています(1994.10.30 セルフターマー撮影)

そうして私の初めての托鉢は出発。夜明け前の寺の鉄扉を開け玄関を出て、裸足で藤川さんを先頭にして歩き出します。足の裏が冷たいジャリ道の地面に触れると直接的に肌触りがわかる土や石ころの感触。やがてコンクリートの道に入るとまた違った硬い感触。小石を踏むと若干痛い。ガラスや尖った金属片が落ちていないかと前かがみに歩き、見た目は格好悪いことは分かる。

寺から大通りに出るまでに、一軒のサイバーツ(鉢に入れる寄進)を待つオジさんを発見。藤川さんが立ち止まりサイバーツを受けています。その次に私の番。バーツの蓋を開け、しゃもじで掬った炊いたばかりと分かる湯気が立つ御飯が入れられました。そしてビニールに入った惣菜を頭陀袋に入れられ、藤川さんは振り返って私のその姿を見届けてから歩き出しました。
「ワシらは信者さんの徳を積む機会を与えとるんやで、物を貰って居るのではないぞ!」と、そんな教えを以前から受けているので間違った振舞いはしないが、やっぱり真の仏教の下で育った訳ではない私は、貰っている感覚で頭を下げそうになってしまいます。

藤川さんの後ろを歩けばこんな感じ(イメージ画像)
藤川さんのサイバーツを後ろから見る(イメージ画像)
後ろで待つとこんな感じ(イメージ画像)

大通りを出て、例の銀座がある方向へ歩きます。藤川さんの歩くスピードが速く、ついていくのがやっとの思い。足下に気をつけ、信者さんを見落とさないよう気をつけ、黄衣が解けないよう気を付けていると、どこを歩いているのか分からなくなる道。3月に来た時も歩いた路地にも入ると、やたら痛いデコボコ石があり「痛テテ、痛テテ、この路地やめようや!」と言いたくなる痛さで前を全く見れない状態。

ところで何軒受けたろうか。寺に入る路地まで戻って来て、やっと寺が近い見たことある風景を把握する。寺に入って溜め水で足を洗って部屋に戻り、藤川さんはいつものコースを短縮などせず、約1時間経っていたことに、結構長く歩いたんだなと我ながら感心。

「ヤクルトとかオレンジジュースとか手元に残して他、全部ホー・チャンペーンの受け皿に空けろ」と藤川さんに言われて全て出し、バーツの御飯はタライに空け、洗面台でバーツを洗い、部屋に戻って中を拭いて壁に吊るします。これでビンタバーツ一通りが終了。後はデックワットが朝食準備に掛かります。

ビンタバーツは、信者さんにもお得意さんの比丘が居るのも自然な成り行きで、「あのお坊さんが来るのを待っている」といった信者さんも居ます。そんな中では、この日、信者さん皆普通に私にもサイバーツしてくれたことに安堵するところでした。

◆次なる試練!

他の比丘も帰って来る中、気が付けばお腹が空いている状態。午後食事を摂ってはならない戒律の下、昨日のお昼以来の食事が待っていました。しかし、ここから次の難問が待ち構えています。朝の読経も短いながらこなさなければいけません。朝食の時も葬儀用同様の黄衣の纏い方があり、これをこなしてから朝食に向かうことになります。修行が始まっていることをようやく実感する最初の朝でした。

※注01=托鉢撮影は出家前の3月にタイに渡った際の撮影です。比丘となっては托鉢中は撮れません。(筆者)

※注02=23年も経って、当時の記憶や日記の記録、今の時代の文明の利器、インターネットで調べるなどで、改めて理解することもあり、黄衣の纏いの種類と呼び方に細かく違いがあるようでした。主には3種類の纏い方があり、またその中でも纏い方の呼び方が違う部分があります。今後の「タイで三日坊主」の中では、分かる範囲でなるべく正しい表記で書かせて頂きます。(筆者)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

「岡口裁判官半裸写真投稿問題」続報 隠ぺい疑惑の東京高裁が嘘の上塗りか

私は昨年11月13日付けの当欄で、〈司法当局は今なお隠ぺい中 岡口基一裁判官「半裸写真投稿問題」の関係文書〉と題する記事を寄稿した。この記事で伝えた問題について、私はその後も司法当局への追及を続けていたのだが、東京高裁が嘘の上塗りをするかのような対応をしてきたので、報告したい。

◆同内容の文書の開示請求を「異なる理由」で退けた東京高裁

この問題の発端は、「ブリーフ判事」の異名で知られる東京高裁の岡口基一裁判官が2016年6月、ツイッターで自らの半裸写真を投稿したことについて、同高裁の戸倉三郎長官から口頭で厳重注意を受けたことだった。この件は各マスコミで報道され、世間の注目を集めた。

この報道をうけ、いち早く動いたのが、大阪弁護士会の山中理司弁護士だった。山中弁護士は2016年6月29日付けで東京高裁に対し、「東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書」の開示を請求したのだ。しかし、山中弁護士がツイッターで明かしたところでは、東京高裁は同年8月2日付けの文書で〈(該当する文書は)作成又は取得していない〉として請求を退けることを伝えてきたという。

ところが、それから3ケ月近く経った9月22日、岡口裁判官がツイッターで再び物議を醸す投稿を行った。それは次のような内容だ。

〈俺の処分の時に作られた膨大な資料は廃棄されずに保存されているだろうか・。ダビデエプロン画像の拡大コピーなど〉

東京高裁が山中弁護士に対し、〈作成又は取得していない〉と回答した文書が実際には存在していたことが、他ならぬ岡口裁判官により公にされたのだ。

私は当時、山中弁護士が上記のような開示請求をしていたことを知らなかったが、この岡口裁判官のこのツイートを見て、その「膨大な資料」をぜひ見てみたいと思った。そこで同27日付けで東京高裁に対し、開示請求を行った。その対象とした文書は、「岡口基一裁判官がツイッターに縄で縛られた上半身裸の写真などを投稿した件に関し、貴裁判所が作成した全文書」だ。表現こそ違うが、山中弁護士と実質的に同じ文書を開示請求したわけだ。

すると、東京高裁は同年12月12日付けの文書で「開示しない」と回答してきたのだが、ここで問題は「開示しないこととした理由」である。それは次のように綴られていた。

〈文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。〉

繰り返しになるが、山中弁護士と私が東京高裁に開示請求したのは実質的に同じ文書だ。それにも関わらず、東京高裁はなぜ、山中弁護士に〈作成又は取得していない〉と伝えた文書について、私には存在することを認めつつ、開示請求を退けたのだろうか。

答えは明白だ。山中弁護士が開示を請求した時点では、岡口裁判官は口頭注意処分を受けた際に作られた「膨大な資料」が東京高裁に存在することをまだツイートしていなかった。そのため、東京高裁は山中弁護士の開示請求については、そのような文書は〈作成又は取得していない〉と回答した。しかし、岡口裁判官のツイートにより、そのような文書が存在するのが判明したあとで開示請求した私に対しては、文書の存在を認めざるをえなかったのだ。

換言すると、東京高裁は山中弁護士に対し、本当は存在する文書が存在しないという嘘を告げ、開示請求を退けていた疑いが浮上したわけだ。

◆新たな開示請求に対し、東京高裁が苦し紛れのおかしな回答

その後、私が最高裁に対して行った苦情の申出は、「苦情申出期間を徒過している」として退けられた。そこで私は2017年11月30日付けで東京高裁に対し、新たな開示請求を行った。その対象とした文書は、以下の2点だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)岡口基一裁判官がツイッターに縄で縛られた上半身裸の写真などを投稿した件に関し、貴裁判所が作成した全文書

(2)東京高裁が平成28年6月21日付で岡口基一裁判官を口頭注意処分した際に作成した文書

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

言うまでもなく、(1)は、私が2016年9月27日付けで開示請求し、東京高裁が存在することを認めながら開示しなかった文書で、(2)は、山中弁護士が2016年6月29日付けで開示請求したが、東京高裁が〈作成又は取得していない〉として開示しなかった文書だ。これらの実質的に同じ2つの文書について、異なる理由を示して開示しなかった東京高裁が今度はどのような対応をするかを見極めるため、2つの文書を同時に開示請求したわけだ。

すると、2カ月近く経った今年1月下旬、東京高裁から文書(作成日付は今年1月25日)で、(1)と(2)のいずれも開示しないという回答があった。そしてこの文書には、「開示しないこととした理由」がこう続けられていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)の文書中には、特定の個人を識別することができることとなる情報及び公にすると今後の人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれがある情報が記載されており、これらの情報は、行政機関情報公開法第5条第1号及び同条第6号ニに定める不開示情報に相当することから、その全部を不開示とした。

(2)の文書は、作成又は取得していない

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東京高裁の苦し紛れの回答(※画像は一部修正しています)

つまり、(1)と(2)のいずれについても、「開示しないこととした理由」は前回と同じにしたわけだ。(1)と(2)は、実質的に同じ内容の文書だから、(1)だけが存在して、(2)が存在しないというのは明らかにおかしい。しかし、東京高裁は以前ついた嘘を嘘だと認めるわけにはいかないから、苦し紛れでこのようなおかしな回答をせざるをえなかったのだと思われる。

私は今後もこの問題について、司法当局への追及を続けるので、事態に進展があれば、その都度報告したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)