私たちはアベノミクスと共に滅びたいのか? 安倍三選が導く国民経済破綻

「成長戦略」の基本的な考え方(首相官邸HPより)

◆インフレターゲットが実現できずリフレ政策は破綻
 
選挙では経済政策の効果を謳って賛成票を獲得し、じっさいの政策では「安保法制」による戦争外交への踏みこみ、過労死法案の強行採決、軍事費の増加と憲法改悪と、相反する政策で政権を維持してきた安倍晋三。その屋台骨が揺らぎはじめている。政権維持の核心ともいえるリフレ政策においてである。

7月31日、日銀は金融政策決定会合を開き、現行の大規模な金融緩和策の一部修正を決めた。住宅ローン金利などの目安となる長期金利の上昇を容認するほか、株価を下支えするため買い入れている上場投資信託(ETF)の購入配分を見直し、マイナス金利の適用対象も縮小するというものだ。

修正は2016年(平成28年)9月いらいのことであって、大規模緩和の長期化を前提にしながらも、膨らむ「副作用」を軽減するのが狙いだ。その「副作用」とは、金融機関の収益の悪化にほかならない。なにしろマイナス金利で、金融機関が保有する紙幣・貨幣が目減りする政策を採ってきたのだ。

これが金融制度を崩壊させないわけがない。貯蓄を増やすごとに保有する貨幣が目減りし、銀行は危険な融資に走らざるをえないのである。無理やりにもバブル経済をつくり出そうとした結果、銀行は疲弊してしまったのだ。おカネを動かすために、マイナス金利にしてみたところ、逆におカネが動かなくなった。

アベノミクス「3本の矢」(首相官邸HPより)

◆古すぎる経済モデル

じつに笑えない顛末だが、そもそも無理があった。実体経済をテコ入れできないまま、リフレ論者の言う金利政策と財政出動に終始してきたのが、アベノミクスの現実なのである。

そもそも安倍が頼みにしたリフレ政策とは、インフレを作り出すために「お札を刷る」ということだ。ゆるやかなインフレーションが経済を活性化(おカネの動きが良くなる)し、産業分野(生産過程)で成長がうながされる。つまり、生産の拡大と消費の際限ない拡大を期待した経済成長モデル(戦後経済復興)を、この時代に再現しようとしたのだ。

人々が新しい商品をもとめ、そのさきにある幸福を期待して、消費のために働く? しかし、いっこうに賃金は上がらないではないか。期待した幸福は、この先に本当にあるのか? 安倍さんの周囲にいる人たち(お友だち)は、なるほど幸福かもしれないが、われわれのところにまで及ぶのか?? これで消費が上がるはずはない。

アベノミクス「3本の矢」(首相官邸HPより)
国債発行残高の推移(日銀)

このうえ、さらに国債を買うだって?

このようなお寒い消費と金利動向のなかでも、日銀は短期金利をマイナス0.1%とし、長期金利を0%程度に抑える全体の枠組みは維持した。会合後の声明文では、長期金利について「経済・物価情勢に応じて上下にある程度変動しうる」と明記したが、そのいっぽうで黒田東彦総裁は記者会見で、これまで事実上許容していた水準の倍に当たる0.2%程度まで金利上昇を認める考えを示したのだ。金利誘導のため、年に80兆円をめどに実施している国債買い入れについても「弾力的に実施する」と減額を示唆し、金融機関の収益力悪化や市場機能の低下といった副作用の軽減を図るとした。

つまり泣きたくなるほど、国民の借金が膨らむということなのだ。併せて公表した「経済・物価情勢の展望リポート」では、物価上昇率の予想値を30年度は従来の1.3%から1.1%に、31、32年度も1.8%から、それぞれ1.5%と1.6%に下方修正した。ようするに、インフレターゲットの2.0%はとうてい望めないというのである。もはやリフレ政策は明らかに限界をしめしている。そもそも、新自由主義政策のもとに規制緩和を行ない、岩盤規制と戦いながら、インフレ政策が成立するはずがないのだ。唯一の積極策は観光立国だが、安倍政権はアジア外交に消極的すぎる。

◆ハイパーインフレの危機

問題なのは、どこまで国の借金は可能なのか、である。旧民主党(野田政権)とのあいだで交わした、消費税10%は見送られたままである。富裕層への累進課税(所得累進・付加価値税)も行なわれないままだ。

このままいけば、国債(円)の信用が失われて「ハイパーインフレ」が到来しかねない。ある日、突然、紙幣は紙切れになってしまう。コンビニエンスストアで「お支払いはコインでお願いいたします」などという事態も起きかねないのである。なぜならば、刷りすぎた紙幣を担保する金銀を日本国は持ち合わせていない。信用はまたたく間に崩壊するだろう。金本位制・銀本位制は過去の話だからだ。もはやニッケル硬貨、銅の10円玉、アルミの一円玉を大切にするべきかもしれない。安倍政権がつづくかぎり、恐怖のシナリオはすぐ目の前にある。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す
横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

滋賀医科大学附属病院泌尿器科の背信行為 「小線源患者の会」が損害賠償請求

もし、あなたが、いずれかのがんと診断されていて、その部位の「がん治療に抜群の実績を上げている先生がいる」と聞いたら、どうなさるであろうか。「一度診てもらおう」と考えるのは、ごく自然だろう。だが、遠路はるばるその病院を訪ねたのに、肝心の担当医や術法が、事前に期待していたものと違ったと「あとになって」知ったらあなたはどう感じるだろうか。

8月1日、4名の患者及びその遺族が、滋賀医大附属病院泌尿器科の河内明宏科長と成田充弘医師を相手取り、440万円の支払いを求める損害賠償請求を大津地裁に起こした(事件番号平成30わ第381号)。13時に予定されていた提訴前には大津地裁付近に一部原告や支援者65名と弁護団が集まり、猛暑の中大津地裁玄関前まで井戸謙一弁護団長を先頭に“怒りの行進”を敢行した。

8月1日、猛暑の中大津地裁玄関前まで井戸謙一弁護団長を先頭に“怒りの行進”

◆前立腺がんの治療法「岡本メソッド」

ことの発端は滋賀医大附属病院の岡本圭生医師らが開発した「岡本メソッド」とも呼ばれる、前立腺がん治療に極めて効果の高い「小線源治療」に起因する。前立腺がんの治療法には、前立腺全摘出、放射線外照療法、放射線組織内照射療法、ホルモン療法などがある。岡本医師は低線量のヨウ素125を前立腺に埋め込み留置する永久挿入密封小線源療法を確立し、多数の患者に施術してきた。

これまでの実施件数は1000件を超えているが、注目を浴びるのは、がんで最も恐れられる再発の割合が卓越して低いことだ。前立腺がんは「低リスク」、「中間リスク」、「高リスク」と分類されるが、岡本メソッドの治療を受けた患者の5年後のPSA非再発率(がんが再発しない確率は、「低リスク」で98.3%、「中間リスク」で96.9%、「高リスク」でも96,3%と、極めて優れた結果を残している。素人感覚で言えば「ほとんど再発しない」と安心できる数字と言えよう。

評判は評判をよび、岡本医師のもとには全国から救いの手を求めて患者が殺到したのも頷ける。原告ならびにその遺族は、いずれも2015年に前立腺がんの罹患が判明し、滋賀医大附属病院泌尿器科を受診した方々だ。それぞれ事情は異なるものの、いずれの方々も岡本医師の治療を期待して、滋賀医大附属病院に足を運んだが、診察に当たったのは岡本医師ではなく、成田医師であった。

◆患者たちは「モルモット」だったのか?

しかしながら成田医師も岡本医師の指導のもと「小線源治療」の実績のある医師であろう、あるいは、岡本医師の指示を仰いでいるであろうと考え通院を続けていた患者たちは、のちにあっけにとられることになる。

岡本医師による「小線源療法」は2015年1月に放射線医薬品会社「日本メジフィジックス」(NMP社)の寄付(年間2000万円)を受けて、「小線源治療学講座」が開設されており、岡本医師の治療を受けるためには「小線源療学講座外来」が窓口であり、泌尿器外来では「小線源療法」を受診することはできなくなっていたのだ。しかしそのような内情を一般外来患者が知る由もない。

社会通念に照らせば、岡本医師の受診を希望する、もしくは「小線源療法」を希望する患者は「小線源療学講座外来」に案内されるべきであるが、そうではない事例が複数発生した。

23名の患者は泌尿器科で成田医師の治療を受診し続けたが、のちに

① 成田医師は「小線源療法」の未経験者であり、「小線源療法」についての特別な訓練を受けたこともないこと、

② 滋賀医大附属病院では2015年春ころから、「小線源療学講座法」とは別に泌尿器科でも「小線源療法」を実施する計画をたてて、同病院に「小線源療法」を希望して来院した患者のうち、紹介状に「小線源治療学講座」や岡本医師の特定記載がなかったものを「小線源治療学講座」に回さないで、泌尿器外来で診察。それ以外にも「小線源療法」が適切であると判断した患者も「小線源治療学講座」に回さず、同年末までに原告を含み23名の患者について、泌尿器科において成田医師が、「小線源療法」を実施する具体的計画を立てたこと、

③ ところが成田医師は外科手術、特にロボット手術が専門であり、「小線源療法」は未経験であったこと、

④ その計画をしった岡本医師が滋賀医大学長に直訴し、その結果2016年1月、病院長の指示で23名の主治医が成田医師から岡本医師に変更されたこと、

が判明する。

ここへきて患者たちは自分たちが「モルモット」にされようとしていた現実を知ることになる。成田医師も「小線源療法」の専門家か、もしくは岡本医師の指導を受けているかと思い込んでいたら、まったくそうではなく、無謀にも成田医師は経験のない「小線源療法」を実施しようと計画。それを知った岡本医師が危険性に気づき学長に直訴した結果、無謀な施術だけは回避されたが、患者たちが失った回復の機会や、不要な治療による副作用そしてなによりも同病院泌尿器科への不信感は現在も患者たちを苦しめている。

◆「小線源療法」ではなく「ホルモン療法」だった

記者会見に臨んだ原告のひとりは、「私が望んだのは『小線源療法』だったが、私が受けたのはホルモン療法だった。1年に渡るホルモン療法のために不眠や、体に力が入らないなど様々な副作用に苦しみ、今後心筋梗塞や脳血栓の可能性が高まったと言われている。成田医師からは彼が『小線源療法』の経験がないことを聞いたことがなかった。『この施術は未経験です』と言われて『はいそうですか』という患者はいないだろう。河内医師は泌尿器科には『小線源療法』の経験がないのに23名の患者を囲い込みを行った。患者は『自分の病気を治してほしい』と思って病院にいく。にもかかわらずその施術では素人同然の医師にされかけていたと知って驚愕した。肉体的精神的に大きなダメージを受けた。患者が医師を信頼することなしに医療は成立しないだろう。真っ当な関係が成立するように訴えたい」と語った。

思いを語る原告男性の胸には“PATIENTS FIRST”。滋賀医科大学小線源治療患者会の缶バッチが

弁護団長の井戸弁護士は、この提訴の意義について「23名の怒りと憤りを強く感じている。背景には医療界の『古い体質』があるのではないか。どう考えても『患者第一』に考えているとは思えない事件だ。医療界の『古い体質』を放置せず、日本の医療界があるべき方向に向かうきっかけになれば」と語った。

患者会代表幹事の奥野謙一郎さん(左)と井戸謙一弁護団長(右)

7月30日付けの朝日新聞でこの問題が掲載された。すると滋賀医大附属病院はHP

 
 

と全面対抗の姿勢を打ち出している。すくなくとも訴状をよみ、関係者の話を聞いた限りでは塩田浩平学長のコメントは、開き直りにしか聞こえない。滋賀医大附属病院全体が問題だらけの病院であると原告は指弾しているわけではない。あくまでも泌尿器科の不誠実かつ患者に対する背信行為を問題にしているのだ。

滋賀医大附属病院泌尿器科受付前に掲げられている担当表

この問題では6月に「滋賀医大小線源患者の会」が発足し、わずか1月余りで会員数は600名を超えている。それほどに岡本医師の功績や彼への信頼が厚い証拠であろう。ところが滋賀医大附属病院は2019年に現在特任教授である岡本医師の首切りまで画策している。前述の通り「小線源療法」は前立腺内にヨウ素125を埋め込むので、当然経過観察が必要だ。しかし、安心・信頼して経過観察を任すことのできる医師の存在まで滋賀医大附属病院は患者から奪ってしまおうと画策しているのだ。
患者の怒りと不安は至極当然であろう。

引き続きこの問題は注視してゆく。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

私の内なるタイとムエタイ〈36〉タイで三日坊主!Part.28 ラオス国境を渡る

ワット・チェンウェー和尚さんとデックワット最年少の男の子と
お世話になったノンカイのワット・ミーチャイ・トゥンの比丘達とはしばらくのお別れ

◆ノンカイとしばしのお別れ

ノンカイの寺、2日目の托鉢を終える頃、最後の“痛~い砂利道”だけはダメだった。昨日は3歩でくじけたが、今日は6歩ほど歩いて、「アッ、イタタタタタッ、痛ッ!」。

また歩を休めながら何とか辿り着く。ホンマに恥ずかしい。修行が足りないことが心に響く。今度来た時は必ず歩ききろうと誓う。ちょっと痛いだけだ、頑張ろう。

今日はラオスに入る日。朝食後は使わせてもらったクティの範囲を掃除しながら出発準備に掛かります。

「早よせい!」とイライラしながら急がせる藤川さんが慌ててコップ割っていやがる。

人に文句言っておいて自分が出来ないこと多い人だ、全く。まだまだあるが今度書こう。

わずかな間だったが、ペッブリーの我が寺より品の良さに癒され楽しかった。リーダー格の兄さんやコーヒー入れてくれた兄さんらと写真撮ってお別れ。と言ってもまたノンカイに戻って来るのだ。次は河沿いの寺に行くかもしれないけれど。

◆タイ・ラオス友好橋で想う

デックワットが用意してくれた籠の膳

拾ったトゥクトゥクは、藤川さんがしっかり行き先を伝えず、タイ・ラオス友好橋まで行くまでの途中で降ろされる不愉快さはあったが、後から来た親娘が乗ったトゥクトゥクに拾われるタンブンとなった。これも徳の積み方なんだなと思う。

タイ出国手続きエリアでは比丘の立場が効力を発揮し、係員が特別早くしてくれて簡単に済み、国境橋通行バスに乗って橋を渡ります。これが近いようで結構離れている河幅で、ゆっくり走ってはいたが、出発から到着まで5分ほど掛かっていました。

このタイ・ラオス友好橋を渡るのは2回目である。ラオスに入る為の出入国審査を受けるのはこの日が初めてである。矛盾したことを言っているが、この2ヶ月前、ノンカイでムエタイの試合がありました。この試合を取材してから出家した私でした。このノンカイでの試合は日本人では伊達秀騎と小林利典、そしてこの小林選手と対戦した、日本でも有名なソムデート・M16も居ました。

この興行御一行はプロモーターとその友人の入国管理局のお偉いさんの計らいで、ラオス・ビエンチャンの半日ほどの旅をノービザ、未入国扱いで観光させて頂いているのである。なので、ビエンチャンへはある程度は街並みと治安が分かり、オドオドするほど不安ではなかった。2ヶ月前の風景が蘇る。楽しかったなあ、前回は自由で。

◆ラオスに入って最初の緊張

ラオス入国審査も難なく通過出来たところ、待ち構えていたのは客引きタクシー運ちゃんの群集だった。これから向かう、プラマート和尚が書いてくれたワット・チェンウェーの住所を藤川さんがあっさり運ちゃんらに見せている。

こんな怪しい奴らに何で簡単に着いて行こうとするのか。

ボロイ車にもう一人若い男性客を助手席に乗せてたタクシーの運ちゃん。

私はこのタクシーはやめようと思った。何年か前のバンコクで起きた日本人新婚夫婦が白タク強盗殺人に巻き込まれた事件を思い出したのだ。

「ヤバイですよ、藤川さん!」と言っても「ほんならどないするんやぁ!」と語気強く返してくる。他のタクシーにしてみても同じかあ。ここで立ち往生はできない。もう行くだけ行って見るしかなかった。

比丘であろうとボッタくってくる運ちゃんとは150バーツで交渉成立。どれだけ高いのかは分からない。それより安全かどうかの問題。サングラス掛けた運ちゃんは怪しい風貌。この助手席の客もグルだったらどうなるのか。だんだん田舎道に入り、どんどん人の気配が少なくなって心細くなる。

藤川さんはこんな旅は慣れたものなのか平然としている。そんなところで助手席の客が降りる。俺らはもっとひどいところに連れて行かれるのか。そんなこと考えるうち、しばらく行ったところで運ちゃんが何やら言って指で示す。門のアルファベットの綴りはちょっと正しくないが、「ワット・チェンウェー」の文字が見えた。ああ助かった。ちゃんと送り届けてくれた普通の運ちゃんだった。去り際、ニコッと笑ってくれる。運ちゃんが天使に見えてしまう。私は警戒し過ぎなのだろうか。150バーツは高くなかった。ちょっとボッタくられただけで済んだのだ。

正面玄関となる講堂
ワット・チェンウェー本堂

◆無事に着いたワット・チェンウェー

門入ってすぐ、黄衣をホム・ロッライに纏い直す。そこに居たデックワットであろう少年に案内して貰い、荷物持ったまま正面の講堂らしき建物へ入る。年輩の和尚さんらしき比丘が仏壇の前に座っている。

すぐ目が合って三拝してノンカイのプラマート和尚からの紹介状を見せると、このチェンウェー寺の小太り和尚さんが「ジンディートーンラップ!」と応えてくれました。

若い比丘達のクティ

藤川さんは私に「何て言うたんや?」
私、「“歓迎します(welcome)”です!」
またすぐ平伏す我々。時間は11時を回っていました。

小太り和尚さんの「ターンカーオ・ル・ヤン?(食事は摂りましたか)」
「ヤン!!」と“頼むでぇ”と言わんばかりの笑顔で応える藤川さん。
すぐ弟子たちに命じて食事の準備をしてくれる小太り和尚さん。

ここの寺も昼食時に入るところだったのだ。若い比丘とネーンたちが和尚さんと皆の分と我々の分が籠の膳に載せられ出されます。こんな突然の訪問者の食事まですぐ出せるというのは、知らない仲なのに不思議な迎え入れだ。まあデックワットの分が我々に回ってくることは想像できたが、ノンカイ同様、食材に貧相な印象は無い。とにかく御飯に有りつけたのは有難い。結構食えたし美味かった。食事後は少々の読経を経て終了。

釘と金槌を貸してくれたおじいさん比丘

◆クティに入る!

小太り和尚さんに、我々がタイのペッブリーから来て、タイ国滞在ビザを取得してタイに戻ることを伝えた後、クティに案内してくれました。先程食事させて頂いた、正面の鉄筋コンクリート造りの綺麗な建物は講堂とも言える広々した読経の場だったが、我々が誘われたのはこの隣の木造高床式小屋の2階の“ワンルーム”。暗いし暑いし蚊は入るし、けど寝られる場が与えられて有難かった。そこには痩せた病気がちに見えるおじいさん比丘が片隅で寝ており、若い比丘一人も居る部屋だった。

藤川さんはすぐ「蚊帳吊れ!」と言う。旅立ち前、貰っていた紐と釘を出して、何をどうするのか迷っていると、「今やらんと夜になってからじゃ暗くて出来んぞ!」と語気強く、外で拾った大きめの石を持って来て壁に釘打ち出した藤川さん。
“ガンガンガン!”と小屋全体が振動するほど響く。おじいさん比丘も何事かと振り返る。

「ちょっとちょっと、突然人の家に来て、いきなり壁に釘打ち出すなんて非常識ですよ!」と言っても、「しょうがないやろが!」と言う藤川さんの後ろに、寝ていたおじいさん比丘が立ち上がって寄って来た。「ヤバッ、怒られる!」と思った途端、おじいさんはニコ~ッと笑って「これ使えや!」と言わんばかりの、釘と金槌貸してくれたのである。この拍子抜けする吉本新喜劇のような展開。

とにかく不器用な私が子供の頃見た、器用な親父が家でやってた日曜大工を思い出し、壁に釘をしっかり打ち込み、紐を傘の先端の輪に通して吊るし、傘に蚊帳を掛け、寝られる準備を終えました。

やれやれこれで今日はゆっくり寝られる準備が終わった。しかし、これからラオスに来た最大の目的を果たしに行かねばならない。書類を持ってビエンチャンのタイ領事館へ向かいます。

我々が泊まったクティは左の方

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』8月号!
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

開港から40年の三里塚(成田)空港〈17〉肉体派と知性派 人間は頭で生きるのか、それとも身体で生きているのか?

 
『戦旗派コレクション』より

わたしは理論誌とも思想誌ともいわれる雑誌の編集をやっていますが、理論や思想が世の中を変えるなどと思ったことは、じつはあまりない。人を動かすのは感情であり、魅力のある物事だと思うからです。その物事の原因や拠って立つ構造を解明することにこそ、理論や思想はあるのではないでしょうか。

とはいえ「理論派」「知性派」と呼ばれることに人は憧れ、その対極にある、やや侮蔑的な評価が「肉体派」ではないか。学生時代には、よく「君たちは肉体派だな」と言われたものです。この「君たち」とは、わたしの出身大学(けっこう受験生に人気はありまずが、一流とは言えますまい)の意味であって、わたしたちを評したのは、東京大学から「指導」に来ていた理論派の学生でした。どうせ俺たちは肉体派だという自虐が顕れるのは、三里塚現地で肉体労働に従事するときでしたね。団結小屋の改修や風車をつくるための穴掘り、要塞建設などなど。とにかくあてにされる。

ところがいちど、内ゲバで他党派と揉み合いになったとき、かの東大生は言ったものでした。「いいよな、君たちみたいに身長のある人は。相手に掴まれても、パッと突き放せるだろ」。このときに判ったものです。ああ、この人が「君たちは肉体派」と言うときには、背が低いことへのコンプレックスがあったんだな、と。

学生活動家というのは、大きな人か小さな人の両極端がなぜか多くて、昨年亡くなられた塩見孝也さんなどは巨漢系。塩見さんに早稲田でオルグされた故荒岱介さんも180センチの身長でした。いっぽう塩見さんと袂を分かつ赤軍派の指導者・高原浩之さんは小柄な方です。意外なことに、小柄な人のほうが頼りになると、よく言われたものです。

ヤクザも同じで、大柄な人と小柄な人がなぜか多くて、中肉中背という親分はあまりいない。たとえば工藤會の三代目・溝下秀男さん、山口組の五代目・渡辺芳則さん、太田興業の太田守正さんなど、小柄だが胸や腕は筋肉隆々という方が多かった。たぶん小柄だと、そのハンディを乗りこえるために鍛えるんでしょうね。大きい人だなと思ったのは、広島挟道会のM氏くらいのものだった。ヤクザは知性派とか理論派と呼ばれるのは評価が低い証しで、もっぱら「武闘派」が名誉ある親分ということになる。

◆「肉体派」という呼称に違和感がなくなった40代

わたしが「肉体派」という呼称に違和感がなくなったのは、40歳をこえるあたりからでしょうか。左翼活動家にしろヤクザの親分衆にしろ、付き合っている方々がひと回り年上なものですから、その中にいると話題が健康と病気の話ばかりだと気づいた。まだロードバイクはやっていませんでしたが、けっきょく左翼もヤクザも健康のことばかりになってしまうんだなと。だったら、今後は健康と環境問題が人類のテーマだと。

そこできっぱり、煙草をやめました。親父が肺ガンで死んだというのもありましたが、喫煙癖は病気だと思うと、意外に簡単にやめられたものです。いったんやめて、それでも家内が吸っていたので、もらい煙草をしているうちに「やっぱり、これって病気なのかな」と。そのうちに家内が怪我(浴衣で外出したときに、下駄を滑らせて脚の指を骨折)をして、じゃあ一緒に煙草をやめようとなったわけです。いらい、運動はもっぱらサイクリング、楽しみはお酒だけという生活です。さて、肉体派というテーマにもどりましょう。

 
『戦旗派コレクション』より

本格的にロードバイクに乗りようになってからは、肉体派という実感がむしろ誇らしく感じられたものです。もう50歳台になっていましたが、隆々たる大腿筋に盛り上ったハムストリングス。腕も硬く太くなっていきます。もうひとつ「肉体派」といえば肉体美をもって「演技派」に対置されるわけですが、肉体美という意味ではもう完全に、知性派とか理論派なんかというものを打ち負かす魅力があります(女優じゃないけど)。2008年の洞爺湖サミットにさいして、自転車ツーリングを呼びかけて「肉体派は集まれ!」というキャッチを同行するグループに提案したところ「せめて知的肉体派」にして欲しいと異論があった。単なる「肉体派」はダメらしい(苦笑)。

三里塚の横堀要塞にろう城が決まったとき、鉄の入った安全靴やぶ厚い作業着、フルフェイスのヘルメットに身を固めながら思ったものです。もっとスマートな都市ゲリラのほうが性にあってると。しかし逮捕されて3畳一間の独房にいると、三里塚の大地に身を躍らせたいと、そればかり考えていました。

もう還暦をこえたいまは、ひたすら健康のために自転車に乗り、健康な食材と美味しい料理が生きがいです。それと、やっぱりお酒なのですね。もう完全な肉体派。いまちょうど、五木寛之先生と廣松渉先生の対談本の復刻(抄録)を編集していますが、60歳で身まかられた大哲学者よりも、86歳にならんとする国民的作家のほうが肉体派だったということになります。肉体派万歳! (この連載は随時掲載します)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)

著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)
『NO NUKES voice Vol.16』総力特集 明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す

「オウム真理教」死刑囚処刑を是認支持する「国家真理教」の信者たち

7月26日オウム真理教の元幹部6人に対する死刑が執行された。 林泰男氏、豊田亨氏、広瀬健一氏、岡崎一明氏、横山真人氏、端本悟氏である。これで13人いたオウム真理教関連の死刑囚は全員が処刑された。


◎[参考動画]オウム13人全員の死刑執行(ANNnewsCH 2018年7月26日放送)

「死刑に対するわたしの考え」は、以前本通信で述べたので繰り返さない。別の観点からあの時代を振り返り、オウム真理教とはなんだったのか、簡単に答えが出るものではないけれども少し考えてみたい。YOUTUBEには当時のテレビ映像がいくつもアップロードされている(法的には違法だそうだが、その問題は横に置く)。その中に「朝まで生テレビ」で4時間にわたりオウム真理教と幸福の科学が出演している映像があった。オウム真理教からは麻原彰晃氏、上祐史浩氏ら幹部が、幸福の科学は景山民夫氏ほか幹部数人が出演している。その他の出演者は、西部邁氏、大月隆寛氏、島田裕巳氏、石川好氏などである。

まず、印象深いのは番組の冒頭で司会者が「モノとお金が溢れるこの豊かな時代に」とのフレーズを何度も繰り返していることだ。収録は1991年だからいまから27年前だ。今日、2018年に同様な番組が製作されたら「モノとお金が溢れるこの豊かな時代」と時代を描写する表現が用いられることはないであろう。四半世紀のあいだに日本は実感としても「モノとお金が溢れる豊かな時代」ではなくなったことは大きな変化だ。そしてオウム真理教だけではなく、「宗教ブーム」とよばれるほど、若者が精神世界や非物質的世界に興味を示し、かつ行動(入信)する現象は、「モノとお金が溢れる豊かな時代」だったからこそ生じたのではないかと感じる。


◎[参考動画]テレビ朝日1991年9月28日放送 朝まで生テレビ「激論!宗教と若者」

「朝まで生テレビ」をはじめ、いくつか麻原彰晃氏や上祐史浩氏が出演する番組を見た。意外な発見があった。オウム真理教の教義や、修行の様子は、素人目にもかなりインチキ臭く、怪しさに溢れているけれども、彼らが他の出演者と交わす会話は、実に理路整然としており、とくに上祐史浩氏の弁舌は筑紫哲也氏や、有田芳生氏、江川紹子氏などを凌駕している。また刺殺された村井秀夫氏の語り口も同様にわかりやすい。ヨガを出発点にしたオウム真理教は、麻原彰晃氏の個性と彼の実に巧みな組織拡大戦略が、功を奏して短期間で1万人以上の信者を抱える宗教に成長した。その脇には、凡庸なテレビ出演者などとの議論では、一歩も引けを取らない「ディベート技術(能力)」を備えた極めて優秀な幹部の存在を無視することはできないであろう。

それに対して「朝まで生テレビ」で西部邁のダラダラぶり、大月隆寛の的の外し方が逆に際立っている。のちにこの二人は「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーとなり、その主張が、今日の「幸福の科学」と、うり二つに変遷していったのは、偶然ではあろうが、まったくオウム真理教の本質に肉薄できていない(西部は露骨にオウム真理教に興味を抱いている姿も印象的である)。

その点で91年当時「幸福の科学」幹部が語る自らの正当性は、実に薄っぺらであり、我田引水が多く、聞いていて頷かされる場面はない。景山民夫氏の語る「善行を行うのがためらわれる時代への問題意識」にしても、なにも「幸福の科学」でなければ解決できない課題ではない。議論全体に根拠が薄く、みずからの「思い込みを断定的に語っている」印象を強く受ける。大川隆法氏にしても、語りが上手であるとは言い難い。神であろうが仏であろうが、歴代の有名人の霊を下ろしてきて話をさせる手法の出版物は、相変わらず上々の売れ行きであるようだが、あまりに節操がなく、少なくともわたしにたいしては、まったく説得力がない。

わたしにとっては、繰り返すがオウム真理教の教義や修行の姿(映像で見る限り)は、滑稽の極みであり、何の魅力も感心もわかない。しかし約30年前には多くの高学歴の若者が大挙して出家信者として入信し、果ては国家転覆までを企図するに至った力の終結の源はなんだったのか。北野武が喜んで麻原彰晃氏と笑談している映像もある。


◎[参考動画]北野武×麻原彰晃 対談映像「たけしの死生観、麻原の仏教観」

「朝まで生テレビ」におけるオウム真理教と幸福の科学の対比は、オウム真理教は「確信に満ちた運命共同体」であるのに対し幸福の科学は、あくまでも世俗の宗教の域にとどまっていることであろう。今日、幸福の科学は極めて反動的で、自民党も喜びそうな政治的メッセージを多く発している。「幸福実現党」の選挙における成績は、まったく芳しくないが、地方都市のあちらこちらに創価学会のように立派な建物が出来上がっている。沖縄では綺麗な海沿いに幸福の科学の建物があり、リゾートホテルかと見間違うほどだ。

つまり、幸福の科学はその名の通りいくぶん「科学」的な時代のマーケッティングに、長けており、一見特異、過激な主張をしているようでも、既成の法体系、国家の枠から逸脱することが勘定には合わないことを理解している集団であろう。対するオウム真理教は出発当初には仏教に基本を置き、ヨガの修行などを中心としていたが、麻原彰晃がどうしたことか「ハルマゲドン」などと言い出したので、もとより現生(現世)利益を捨て、物質拝金文明を嫌っていた信者は、急激に精鋭化した。象の帽子をかぶり女性信者が踊っていた選挙戦は、どう見ても当選が見込まれるものではなかったが、あの選挙で麻原彰晃氏は「勝てる」と本気で考えていたようだ。既にその時点で大いなる錯誤が発生しているのと同時に、彼らは「国家を敵」だと認識し始めたことだろう。


◎[参考動画]オウム真理教 潜入!第4サティアン

主義主張の如何を問わず「国家は敵」である意識は、集団を精鋭化し、構成員が信者ではなく、「兵士」に変わりうる可能性を持つ。仮にではあるが、麻原彰晃氏の解くイデオロギーや現状認識が、あれほどに荒唐無稽ではなく、一定数の一般人にも受けいれられる理論であれば、彼らの企てた「国家転覆」や「無差別テロ」は「革命」という名に取って代わられていたかもしれない。しかしオウム真理教はハード面での武装の進展とは逆に教義はますます混乱を極めてゆく。行く先は圧倒的な弾圧しかないと悟ったとき、彼らが破滅覚悟で敢行したのが「地下鉄サリン事件」だったのだろう。

では、いまオウム真理教の残党である「アレフ」は危険であろうか。わたしはそうは思わない。オウム真理教には麻原彰晃氏の教示が不可欠であり、麻原彰晃氏なきオウム真理教は力を持たない。


◎[参考動画]オウム真理教はいま 教団元最高幹部が語る 上祐会見(2018年5月23日公開)


◎[参考動画]オウム 秘蔵!初対決 江川氏VS上祐氏 衝撃の瞬間

それよりも、わたしたちは重要な見落としをしていないだろうか。麻原彰晃氏に比しても、荒唐無稽さでは引けを取らない人間が長く最高権力者の座に居座ってはいまいか。法治国家では最高法規の憲法を「解釈改憲」などとクーデター的に実質無化する輩が君臨してはいまいか。軍事費を毎年増額し、軍事国家化を着々と進める予算に直面してはいないか。国会における与野党の議席構成はどうだ? 与党と明確に非和解な政党は存在するか。若者はなにに熱中しているのだろうか。あるいはもう若者は「熱中」することを忘れたか。そこに「HINOMARU」などという曲をひっさげた人気バンドが登場して、コンサートで浮かれてはいまいか。破綻が確実な国家財政を度外視して、目先の利益確保を11万人の「タダ働き」(ボランティアというらしい)でアウブヘーベン(止揚)を試みる五輪という大儲けのショーを東京の殺人的暑さの下で行おうとはしていないか。原発4機爆発事故を経験しても、あらかた忘れてしまってはいないか。

わたしたちは、気が付かないうちに「国家真理教」に入信させられてはいないだろうか。


◎[参考動画]村井秀夫が語った阪神人工地震(TBS 筑紫哲也のNEWS23)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

M君リンチ事件の真相究明!!

私の内なるタイとムエタイ〈35〉タイで三日坊主!Part.27ノンカイの寺務め

駅側のワット・ミーチャイ・トゥン和尚さんと藤川さん

◆一列縦隊の托鉢!

ノンカイのワット・ミーチャイ。トゥンに泊まった翌朝、5時に起きる。顔洗いにだけ洗面所へ行き、黄衣を私だけホム・マンコンに纏うと6時少し前、外で待つと辺りはまだ暗く、そして寒い。寒気のタイ東北部となると当たり前。裸足で立っていると土の地面がかなり冷たい。

6時過ぎてようやく他の比丘も出て来て、その比丘らに続いてノンカイ駅最先端の行き止まり付近に向かい、和尚さんを待ちます。持つのはバーツだけで頭陀袋は必要無い様子。

そして和尚さんを先頭に縦一列に並び、歩き出しました。手招きされるまま私は藤川さんの後ろで3番目。よそ者の我々が和尚さんの真後ろに並ぶ形。

少し進むと河沿い側のワット・ミーチャイ・ターの比丘たちが合流し、若いプラマート和尚はトゥン寺和尚の後ろ、更に年配比丘が続き、私は5番目となりました。

他にもかなりのベテラン比丘が居るのに、皆若いせいか我々の後ろに回っています。そして先頭を歩くトゥン寺和尚の速いこと。各集落毎に2~3人の信者さんがサイバーツ(お鉢に食物を入れる寄進)を待ち構えています。そこを立ち止まったと思ったら信者さんがすかさず一握りのカオニィアオ(もち米)を入れ、次の信者さんへ回り、終わるとまた前へ進みます。これは速い。新世界紀行で見たような、ゆっくり歩いてワイ(合掌)する信者さんを見届けて歩き出すといったものではない。前との距離が開かないように着いていくのがやっと。

50件ぐらい回ったろうか、突然振り返って帰る方向へ向かいだすトゥン寺和尚さん。バーツ(お鉢)に入るのはカオニィアオがほとんど。たまに果物、お菓子、ジュースが入れられました。帰りは列が乱れ、ゆっくりお喋りしながら歩く者もいる。一列托鉢はそれでも30分ぐらい歩いたような感覚。そして一握りのカオニィアオばかりだったが、更に信者さんがお寺に惣菜を運んだり、托鉢帰りの比丘に食材が入った御重のような重ね容器を渡している姿がありました。何らかの習慣化したシステムがあるのでしょう。

托鉢の朝。ノンカイ駅最先端で和尚さんを待ちます

帰りの近道に入った路地では石が尖って細かく、痛くて歩けない。足ツボ踏みに使う突起ある石の上を歩くみたいな格好。それを藤川さんら集団は平然と歩いて行く。
「どないしたんや、痛いんか?痛いのは誰でも一緒や、はよ歩かんかい!」と以前のような冷たい言い方。それはいいとして、後からやって来たトゥン寺和尚さんに、下手な踊りのように歩く私を見られてしまった。「大丈夫か?」と気を遣われて恥ずかしい。

朝食では、昨日同様に惣菜とカオスワイ(普通の白米)とカオニィアオ(もち米)もあり、托鉢で寄進された以上の食材が並びます。国境の街だから物資が流通し易いにしても、「これは我々が教わって来たことと何か違うぞ」という想いは次第に増していくところでした。

バーツ(お鉢)はこの寺のデックワットが持って行き、中身を出して洗って返してくれる気の利きよう。

托鉢帰り、田舎道って良いものです
托鉢帰りの一面、朝日が眩しそう。朝日を浴びる托鉢

◆癒されるコーヒーと女の子!

朝食後も自由に居られる雰囲気だが、藤川さんが「掃除しよう」と言い、それは確かに居候の身になっている我々は泊めて貰っているクティの範囲はやるべきだと思う。箒と雑巾を借りて来て部屋から廊下、階段、我々が入れる範囲はすべて拭き終わると、昨日、コーヒーを入れてくれた比丘が今日も招いてくれ寛がせてくれました。

タイ人が淹れるコーヒーは砂糖タップリで、「砂糖は入れないで」と言っても入れてくれる。「こんな苦いもの飲める訳がない」という発想だろう。でも私は砂糖タップリ派なので美味しくて癒される時間でした。

そして、今日は午後から葬儀があるという。これは参加しない訳にはいかないなあと藤川さんと目線を合わせて合意。旅先の葬儀というものも見ておきたいところ。

昼食後に、「リポビタン買うて来て!」と藤川さんに言われて、素直に駅方向へおつかいに出ました。小間使いになっているが、一人になりたかったせいもあります。

ノンカイに着いてから歩いて来た道。お店は駅前にあり、20歳ぐらい可愛いの女の子がお店番している様子で、片言のタイ語を喋る私が日本人であることを知ると、驚いたり喜んだり。ニコニコ笑って対応してくれて惚れそうになる。男世界の仏門と、旅先ずっと藤川さんがそばに居る中、女の子と二人っきりになれた、かなり癒された、わずかな時間でした。ここは商店なので問題ないが、比丘は女性と密室で二人っきりになることは許されません。寺に女性が訪ねて来て部屋に招く際は、部屋の扉は開けておかねばなりません。

寺への近道に入り、このすぐ先の砂利は凄く痛い、それを知らずまだ写真撮ってる私
トゥン寺和尚さんのクティ、この二階に泊めて貰いました

◆お葬式に参列!

午後になって境内が騒がしくなってきました。外では葬儀が始まる様子。
藤川さんが「サンカティ持って行くぞ」と言う。

ここは我々の寺のようなホム・ドーン(儀式用の纏い)は無い様子。普通のホム・ロッライ(肩出し)にサンカティ(重衣・肩掛け帯)を肩に掛けるだけの簡単なもの。

その姿でテント張った椅子があるところで他の比丘達と座っていると、そのままそこで読経が始まる何とも大雑把な葬儀。信者さんと比丘は離れて居たが、個々の比丘が順番に棺桶の方に呼ばれて短い読経して席に戻る時、一人の比丘に呼ばれました。

「どこから来たの? この先どこへ行くの? ラオス行って戻って来るの?」と言った語り。

葬儀も終わりに近づき、どこに座っても問題無い様子。そこから雑談の輪に加わって来たオバちゃんたちにタイ・ラオス国境の橋の渡り方を教えてくれました。

「日本から来たの?橋渡るのに15バーツ、土日は25バーツだよ!」とか気さくに話しかけてくれた地元のオバちゃんたち。どこへ行ってもこの田舎らしい人懐っこさは心地良い。

葬儀が終わると火葬されることは聞いていたが、どこで火葬されるのか、その辺りの比丘に聞くと、「もうやってるよ!」と招かれ、火葬している場所を教えてくれました。

焼却炉のようなものではない、広場で花壇のような中で、焚き火のように大きい炎に包まれた火葬。熱くて近づけたものではない。「やっぱり誰もが最後はこんな姿になるんだ」という想い。

火葬される遺体が中央に、ほぼ見えませんが
比丘達のクティ、こちらは味ある木造建て

◆藤川さんの気まぐれ話と渋井巨匠!

今日のワット・ミーチャイ・ターへの移動は中止。夕暮れとなり、長い葬儀と皆が後片付けしている中、「今日はあっちの寺に行きます」と言う訳にもいかないと改めて思うところ。

そんな慌てることもない夜は、また藤川さんと一緒に居るといろいろなお話になります。

「来年の今頃、カンボジア行こう。お前一ヶ月ほど来い。渋井さんにも会いたいし」

漠然と夢を語りだすこと多い藤川さん。突然話を振られると戸惑うが、安易にも行けるものなら行ってみたいと思う。

渋井さんとは、藤川さんが出家に導かれた最初の切っ掛けとなった比丘。そして私が出家に導かれる一つとなった、新世界紀行のタイからベトナムを旅する番組で、若者がバンコクのワット・パクナムの渋井修さんを尋ね、出家したのが由井太さんと加山至さん。遠い縁で結ばれた我々日本人比丘の巨匠。この頃はカンボジアの寺で社会貢献活動する渋井修さんでした。

◆明日は国境越え!

明日はタイ・ラオス友好橋を渡ってラオスに入国します。やや不安は募るも、そこには藤川さんが伴うのと、もうひとつ理由があって少しは落ち着いて居られました。タイ・ラオス友好橋、実は渡るのは2回目(1往復済)なのでした。

河沿いのワット・ミーチャイ・ター和尚のプラマートさんと藤川さん

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』8月号!
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

M君リンチ事件裁判控訴審、1回の審理で結審! 判決は10月19日! これまでの経過を振り返る  鹿砦社代表・松岡利康

注目のM君リンチ事件控訴審ですが、去る7月23日(月)午後2時30分から大阪高裁にて開かれ、1回の審理で結審となりました。この間、わずか10分ほど。えっ、これで十分な審理ができるの!? 日本の裁判制度が、一部を除いて〝事実上の一審制〟といわれる所以です。判決は10月19日午後2時です。

こちらが結審したことで、M君もしばらくは、先般不起訴不当の審理を申し立てた検察審査会への準備に着手します。私たちも、これまで同様、全力で支援します。

◆リンチ事件裁判、控訴審結審に際して――

ところで、控訴審結審まで来て、私は法廷で、ひとつの感慨にひたりました。一昨年(2016年)の初めに、このリンチ事件の存在を聞いて以来、私(たち)は素朴、単純に酷いと感じ、失礼な言い方かもしれませんが、社会的にはほとんど力のない一部少数の人たち以外にリンチ被害者M君の味方はおらず、事件から1年以上も経ち、報道されることもなく(マスコミは社会の木鐸ではなかったのか!?)、このままでは世の人々に知られずに隠蔽されて終わりそうでした。「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」(鹿砦社元社員の藤井正美のツイート)にも意地があります。私なりに義憤を覚えました。実は私は今年67歳、65歳で引退し後進に道を譲るつもりでしたが、延期し最後の仕事として本件に関わることにしました。この判断は、今でも間違いなかったと思っています。爾来、私たちは社内外の有志で「特別取材班」を、そして民事訴訟の準備が整ったところで「M君の裁判を支援する会」を結成し、被害者救済と真相究明の途に就きました。

この少し前、脱原雑誌『NO NUKES voice』を創刊し、その中で1年間に300万円余りの経済的支援をしつつも(少しは感謝しろ!)、加害者らと人脈的に繋がりのある「反原連」(首都圏反原発連合)から一方的に絶縁され、さらに鹿砦社社内に潜り込んでいたカウンターの中心メンバー・藤井正美が業務時間内に業務と無関係(つまりカウンター関係)のツイッターに勤しみ私のことを「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」などと揶揄していたり、いつ仕事をしているかわからないほどの量のツイートが出てきて、やむなく解雇に至りました。反原連絶縁については『NO NUKES voice』に長文の反論を掲載し、また藤井解雇についても、膿を出しせいせいしていたところで、この時点では後腐れもありませんでした。こうしたことへの「意趣返し」(安田浩一氏の言)で、私たちが本件に関わり始めたわけではありません。運動を「分断」させるというような意図もありませんでした。

 
『カウンターと暴力の病理』グラビアより

リンチ被害者M君が提供した主だった資料、特にリンチ直後の顔写真とリンチの最中の音声データは衝撃的でした。こんな凄惨なリンチ事件を、発生から1年以上も知りませんでした。あとで判ったことですが、元社員の藤井正美の会社所有のパソコンから事件直後からの情報がたくさん出てきて、カウンター内部では大騒ぎだったようでした。にもかかわらず、お人好しの私は、藤井が会社のために真面目に働いていたと誤認していました。

「反差別」を金看板にした「カウンター」といわれる社会運動について、さほどの知識もなく徒手空拳で取材・調査を始めました。M君の話を聞き、彼が持ってきた資料などで、事件の概要が見えてきました。取材からしばらくして、私たちはM君の述べることを大方信じ、M君の支援を開始することにしました。

私たちが2010年9月から隔月ペースで始めていた、いわゆる「西宮ゼミ」にちょくちょく来ていた「ヲ茶会」(ハンドルネーム)さんが本件の話を持ってきたのは2016年2月28日のことでした。当初は「今の社会でこんな暴力沙汰があるのか」と半信半疑でした。それもマスメディアに「反差別」運動の旗手のように持ち上げられる李信恵さんがリンチの現場に居て関わっていることを知り、驚くと共に愕然としました。しかも深夜に日本酒に換算して一升ほどの酒を飲んで呼び出し5人でリンチをやったということにも驚きました。マスメディアで、いわば現代の英雄のような扱いを受ける者が、裏ではこんなことをやっていたのか!? 世の中には、こうした輩が少なくありませんが、差別と闘うとは、本来なら崇高な営為なのに、その旗手のような者が、こんなことに関わっていたのかと思うとやりきれない気持ちになりました。


◎[参考音声]M君リンチ事件の音声記録(『カウンターと暴力の病理』付録音声記録CDより)

◆リンチ事件の隠蔽に加担する著名人、常識とかけ離れた人々に驚きました

ところで、このリンチ事件の被害者救済と真相究明に関わっていく過程で感じたことに、著名な知識人やジャーナリストらが隠蔽に積極的に加担していることでした。取材や確認をしようと電話してもシラを切ったり、電話にさえ出ない者も少なからずいました。思い出すだに名を出せば、中沢けい、香山リカ、西岡研介、安田浩一、有田芳生、辛淑玉、鈴木邦男、佐高信、津田大介、佐藤圭、中川敬、岸政彦……の各氏。今まで何を学んできたのか!? 

特に鈴木邦男氏は、私と30数年来の関係があり、それも決して浅くはありません。隔月ペースで著名なゲストを招いて行った「西宮ゼミ」も3年間やりました。鈴木氏は、かつて組織内でリンチ殺人、死体遺棄事件が発生し、これを機に対話路線に転じました。その頃からの付き合いでした。他の方々とは違い、暴力の問題には一家言があるはずで、こういう時にこそ鈴木氏の出番だと思っていましたが、とんだ思い違いでした。残念ながら、このリンチ事件への対応で30数年に及ぶ関係を義絶しました。

また、世間の常識とかけ離れた変な人も少なくありませんでした。一日中ツイッターなどSNSに狂っていると、感性も狂ってしまうようです。

世間の常識とはかけ離れていると言えば、李信恵さんら加害者がM君に出した「謝罪文」と、この撤回、辛淑玉さんが出した、いわゆる「辛淑玉文書」とのちの転向文書、あたかも味方のように近づいて資料やM君周囲の情報を入手し、突如掌を返した趙博氏(私たちは直接裏切られたので趙氏をスパイと断じます)等々。本当に常識外れの掌返しや寝返りが多いです。言葉も共通して汚いです。

最近表に出た「師岡康子メール」なども非常識の極みで、著名な弁護士がリンチの被害者に対して、刑事告訴をして、もしヘイトスピーチ規正法がおじゃんになれば、あろうことか被害者のほうが「反レイシズム運動の破壊者」として「重い十字架を背負う」とまで常識では考えられない倒錯したことを言っています(詳しくは6月7日付け本通信参照)。

◆「反差別」運動の一大汚点に私たちなりに全力で取り組みました!

一昨年2月28日以来、私たちは私たちなりに、「反差別」運動、いや日本の社会運動の一大汚点といえる、このリンチ事件について、取材と調査に邁進してきました。多くの資料や情報が発掘できました。多くの関係者に話を聞くこともできました。

これまでこのリンチ事件については5冊の本を出版してきましたが、これらに収録してきました。控訴審の結果がどうあれ、私たちは持てる力を尽くしM君リンチ事件について被害者救済と真相究明に関わってきました。毎回〝目玉〟記事もあり、事件関係者周辺にインパクトを与えてきたことは事実でしょう。「デマ本」「クソ記事」などと言うだけで反論らしい反論もありませんので、私たちは事実だと考えています。「デマ本」「クソ記事」と言うのなら、どこがどう「デマ」なのかを指摘し反論本の1冊でも出版してみたらどうですか!? 

◆ジャーナリスト・山口正紀さんの声を聴け!

私たちの5冊の本が、どれだけ多くの方々の目に触れたかわかりませんが、少ないながらも心ある方々には伝わっていると思います。この通信でも採り上げている前田朗東京造詣大学教授、ジャーナリストの黒藪哲哉さん……。

とりわけ、私たちの本でこのリンチ事件を知られた、元読売新聞記者で良心的ジャーナリストの山口正紀さんは控訴審に意見書まで書いてくださいました。長文ですが、本人の了解を得て全文を公開いたします。全面的に賛同いたします。これがまともな感覚を持った人の意見だと思います。ぜひともご一読ください。

ジャーナリスト、山口正紀さんによる意見書(01P/全11P)
02P
03P
04P
05P
06P
07P
08P
09P
10P
11P
M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

核弾頭4000発分のプルトニウム保有大国が若狭湾に巡視船を配備する未来の懸念

 
2018年7月22日付け福井新聞より

7月22日の京都新聞は1面トップで〈「原発テロ備え大型巡視船 海保、来年度から福井に2隻配備〉の大見出しで、以下のように報じている。〈原発のテロ対策を目的に、海上保安庁が2019年度から順次、15基の原発が集中立地する福井県に大型巡視船2隻を配備することが21日、関係者への取材で分かった。東京電力柏崎刈羽(新潟県)、中国電力島根(島根県)といった原発での有事にも対応可能で、日本海側の要にする。今後、同規模の巡視船を全国に展開してゆく方針。〉だそうである。(注:太文字は筆者)

◆国際的には笑いものになりかねない頓珍漢

こういう政策を日本語で「愚策」または「頓珍漢」という。まず巡視船が「原発での有事にも対応可能」ではないことは、柏崎刈羽原発の事故や、言わずと知れた福島第一原発事故で明らかだ。原発での有事=事故が起これば、海上保安庁の巡視船など、一切役には立たない。原子炉に直結しない部分で火災が起きたときも、海上保安庁ましてや、大型巡視船はなんの役にもたたない。そもそも「原発テロ」と、問題を設定しているけれども人間の意志とは無関係に、機械の故障や、地震、津波などで大災害が起こることをわたしたちは経験しているだろうが。2011年3月11日福島県沖に大型巡視船が、待機していたらあの事故は防げたのか? 防げずとも少しは被害の程度をマシにできたというのか?

 
海上保安庁のPL型巡視船艇。PL型(Patrol Vessel Large)とは700トン型以上の大型巡視船。ヘリ甲板を設けた巡視船が増えつつある(海上保安庁HP)

大型巡視船を若狭湾に浮かべて、誰(なに)から原発を「守る」つもりなのだろうか。韓国か、朝鮮か、中国か? あるいは遠い国から船に乗ってくるどこかの「国際テロ」集団からか。いくら猛暑日が続いていて、正常な思考が難しくなっているからと言って、冗談や、寝言は家の中だけにしておいてもらわないと困る。こういう間抜けなことをしていると必ず国際的には笑いものになるだろう。その前に海上保安庁は税金で活動しているのだから、納税者は「いいかげんにしろ」と責任追及をしなければならない。

◆若狭湾にICBMが飛んで来たら、海保の巡視船は「迎撃」できるというのか?

原発事故のシナリオは無数に想定ができる。その中に「意図的な人為破壊」もないわけではない。遠くの国から原発をターゲットにミサイルを撃ち込まれたら、瞬時に原発は破壊され、大惨事になるだろう。仮にそのようなことが起こった場合に、若狭湾に展開する大型巡視船は、何かの役にたつのだろうか? たとえば、ロシアから、あるいは米国からICBMが飛んで来たら、海保の巡視船は「迎撃」できるというのであろうか。

「米国からICBMがとんでくるはずがない」といぶかられる方がいるに違いないから、その可能性がゼロではないことを示しておこう。日本と米国が「日米原子力協定」を締結しており、7月17日に自動延長された。1988年に発効したこの協定は米国が日本の原子力(核)開発を黙認する代わりに、監視する役目を担っている。自動延長はしたものの、今後は半年まえのいずれかからの申し出により、同協定は破棄することが可能となった。そして自動延長に際して、米国は日本が保有するプルトニウムについて、憂慮の念を表明している。

日本がいま貯めこんでいるプルトニウムの量はどれくらいであろうか。核兵器弾頭換算で約4000発の弾頭を作ることができる、と言われる47トンである。日本には人工衛星打ち上げに見せかけた「ミサイル」技術が確立されている。プルトニウムさえあれば、それを「核兵器化」する技術は専門家によると、さほど高度なものではないという。

◆「日本の核武装が危ない」という発想が国際社会で生まれる可能性

トランプ大統領は保護主義に走り、日本からの自動車輸入に25%の関税をかけるという。自動車産業や、これに繋がる関連企業にとっては一大事である。TPPにも入らないし、こんな話は「想定外」だったに違いない。また別の想定外だって私たちは目にしたばかりだ。双方絶対に譲れない「天敵」の如く反発を続けてきた朝鮮と米国の首脳会談がシンガポールで実現したのは、つい先月のことだ。昨年の今頃だれが「米朝首脳会談」を予想できただろうか。

米国は明確に日本が保有するプルトニウムに懸念を示している。朝鮮との首脳会談を実現させたトランプの脳の中で、「日本の核武装が危ない」との発想が生まれない保証がどこにあるだろうか。

諸悪の根源は、事故を起こせば人間の手には負えないし、事故を起こさなくとも運転すれば無毒化に10万年以上かかる、膨大な放射性汚染物質を生みださざるを得ない原発の存在そのものだ。「若狭湾に大型巡視船を2隻浮かべたら安全ですよ」といわれて、「ああそうか」と納得するような国民性では、早晩この国は破滅するだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

『NO NUKES voice Vol.16』明治一五〇年と東京五輪が〈福島〉を殺す
大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

純利益2.4兆円企業トヨタでホンモノの「働き方改革」を進める2人

閉幕した国会で強行成立させられた「働き方改革関連法案」は、長時間労働が合法化されるため「過労死推進法」とも呼ばれる。まさに経団連にとって都合のいい「働かせ方改革」だ。

そうではなく、労働者の立場から本当の「働き方改革」を現場で実行している2人を紹介する。

その2人とは、今年3月期に日本企業として過去最高の2.4兆円の純利益(アメリカ会計基準)をあげたトヨタ自動車の元社員と現役社員である。

◆トヨタ内に闘う組合「全トヨタ労働組合」(ATU)を結成した若月忠夫氏

 
「全トヨタ労働組合」(全ト・ユニオン=ATU)を結成した若月忠夫氏

1人は、すでに退職している若月忠夫氏(72歳)。

彼は1965年に入社してから、トヨタ自動車元町工場で働き続けてきた。若いころから御用組合の姿勢を変えようと積極的に発言してきたが、ある事件をきっかけに、労働者のための新しい労働組合「全トヨタ労働組合」(全ト・ユニオン=ATU)を創立した。

全ト・ユニオンは、非正規社員、期間従業員、下請け、孫請けなど一切関係なく1人でも加入できる組合だ。07年に定年で退職するまで、若月氏は社内で「働き方改革」を進めてきた。現在も執行委員長として活動している。

トヨタ自動車労働組合は、困っている労働者を救うというより、会社の第二労務部的な役割を果たしてきたと言わざるを得ない。そんなことを改めて痛感したのは、深刻な悩みをかかえたある社員が若月氏に相談してきたときのことだ。

「いまの連続2交代の勤務体制では、妻の健康状態もよくなく面倒を見なければならないので、とてもじゃないが勤められない。オール昼勤務だけの場所に配置換えをしてほしい。なんとかしてくれないか」(相談にきた社員)

そのとき若月氏は、もちろんトヨタ自動車労働組合の組合員であり、しかるべき部署と相談した。にもかかわらず改善されず、相談してきた彼は自宅で首吊り自殺をしてしまった。

「まだ40代の若さでした。彼の命を救ってやれなかったという痛恨の悔やみがあります。しかも、彼の上司は労働組合の役員経験者だった。そういう役員経験者がなぜ彼を救ってやれなかったのか」

当時を振り返って若月氏はこう語った。無念さを抱え、心ある人たちだけで労働者のための新しい組合をつくるしかないと、2006年1月に全ト・ユニオンを結成したのである。

 
現役社員の染谷大介氏

◆自身の労災事故を隠され、目覚めた染谷大介氏

もう1人は、現役社員の染谷大介氏(39歳)だ。この7月に、初めて顔出しで名乗り出た。

25歳で期間従業員として入社し、試験を受けて正社員になり、同社堤工場で働いている。

入社から約10年の2014年8月、作業中にビキッという痛みが右ヒザに走り、作業ができなくなった。部品を乗せた台車を7台も連結して移動させていた最中の出来事だった。

その日は脚を使わない作業をし、翌日病院に行って診断書をもらった。工場内で仕事の作業で負傷したのだから当然、労災保険適用のはずだが、上司は健康保険を使うように指示したのである。

それまで、会社のやることに正面から反対したり労働運動に積極的にかかわることもなかった染谷氏。だが、会社が異常なほどまでに労災適用をさせないようにする行動を見て、徐々に目が覚めていった。

有給休暇を取得して自宅で休養している最中にも、メールや電話で労災をやめて健保を使うようにと、ガンガンと連絡してくる会社。

工場内の詰所に染谷氏を呼んで上司2人が、トヨタのルールに従えと労災保険使用を止めさせようとしたり、別な日には5人の上司が彼を取り囲んで健保使用を強要した。

全ト・ユニオンの若月委員長もこの問題を取り上げて会社にも働きかけ、染谷氏自身も堂々と正論を主張して、労基署にも申告した結果、事故発生から1年あまり経過して染谷氏は労災を勝ち取った。

自分自身で体験した会社の労災隠しを体験し、染谷氏は変わっていったのだ。

 
 

◆雇止め・労災隠し・有給休暇取得阻止

しかし、労災隠しがまた発覚し、昨年4月に労基署から行政指導される事態にいたった。労災隠しは犯罪である。

それからわずか2カ月、昨年6月16日に染谷氏が働く堤工場で、期間従業員が作業中に左クスリ指を複雑骨折する事故が起きた。明らかな労災なのに、寮でケガしたことにし健康保険を使うように上司は指示したと言う。

この情報を受けて、染谷氏は工場内でケガをした当事者に事情を聴いた。

それを受けて全ト・ユニオンが労基署に告発し、会社に対しても詳しい調査を要求。染谷氏も会社に対して詳しい調査と適切な対応をとるように働きかけ、2人は連携していく。

 こうした活動を受け、トヨタも労災を認めざるをえず、8月10日付の「災害情報」という社内資料に、この労災事故の顛末を記録せざるをえなくなったのである。

 染谷氏は現役で働いているだけに様々な情報が入る。有給休暇希望者がホワイトボードに名前を記入するのだが、ボードにあらかじめ斜線を引かれて記入できないようになっていた。これを労基署に申告し、結果的に有給をとれるようになり、同僚たちにも喜ばれたという。

 また、雇用期間を延長を希望していた期間従業員の離職票に、本人が期間延長を望んでいないと虚偽記載した件もとりあげた。雇止めされた本人も動き、離職理由を「自己都合」から「会社都合」に変えさせた。

これにより、雇用保険の給付が90日分から240日分に増えたのだ。

2人のように、大組織の中で名前を名乗り、顔も出して具体的な行動を起こしてきた果、あきらかに事態が好転している。一歩動かなければ、いま紹介した事例は闇から闇へ葬られるはずだった。

改革は、1人、2人の具体的な行動から実現に向かうのだ。そんなことを2人の行動からあらためて考えさせられた。

▼林 克明(はやし・まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

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「小選挙区制」を廃止し、「中選挙区制」復活で始まる日本の選挙制度改革

ようやく気が付き始めた人びとの間で、「小選挙区制」の弊害が語られはじめた。議論の段階からうさん臭さは、充満していた。いわく「政権交代できる2大政党制を実現すべき」だの「中選挙区制では金がかかる」という主張が中心だったと思う。7月16日の京都新聞は元自民党の職員伊藤惇夫氏(69)に取材し、「小選挙区制」導入に至る、流れを振り返らせている。伊藤氏は1989年に後藤田正晴党政治改革委員会委員長(当時)から「諸悪の根源中選挙区制を抜本的に改めなければならない」と事務担当スタッフに命じられたそうだ。

 
上脇博之『ここまできた 小選挙区制の弊害』(あけび書房2018年2月)

「政治とカネ」の問題は選挙制度とは無関係なのに、どうしてこうも短絡的な思考で「小選挙区制」導入に猛進するのか。「小選挙区制」が導入され、「主張に大差ない2大政党」が実現したらどうなるか。日本では「大政翼賛会」という団体が成立していた歴史がそれほど昔ではないことを、当時わたしは強く意識した。そしてその懸念は現実のものになっている。投票行動と選挙結果の祖語については、大政翼賛会時代よりも酷いかもしれない。

『ここまできた 小選挙区制の弊害』(上脇博之著 あけび書房)では、様々な観点から小選挙区制の問題が指摘されているが、最大にして最悪の原因は「死票」が多数生まれること、言い換えると得票率に応じた議席が獲得されない、非常に深刻な欠陥を持った制度であると繰り返し批判されている。

近いところでは2017年衆議院選挙の例が挙げられており、得票数が47.8%の自民党が74.4%の議席を獲得し、得票率が20.6%であった「希望の党」(そういえば、一瞬そんな政党もあった!!)が6.2%の議席しか得られていないなど多くの「不平等」事例が列挙されている。さらに極めつけは「小選挙区制」のイギリスでは、1951年と1974年に得票率と議席数が逆転する現象まで起こっている事例を引き合いにだしている。

◆「小選挙区制」導入に加担した個人・マスコミの責任

議論段階から「嘘くささ」と「危険性」をいやがうえにも感じさせられていたが、わたしがまったく知らなかった事実があった。「政治改革なんて『無精卵』みたいなもの。いくら温めても何も生まれない。そんなものには賛成できない」と発言していた人物がいたという。社会党かどこか野党の議員かと思いきや小泉純一郎元首相であったというから、驚いた。なんと安倍現首相も反対であったという。しかし、このお二人とも、「小選挙区制」のおかげで長期政権に腰掛けることができている。皮肉なものだ。

では、推進側にはどのような顔ぶれが居たのだろうか。前述の後藤田(故人)、小沢一郎自由党共同代表、羽田孜元首相(故人)、細川元首相、河野洋平元自民党総裁、海部俊樹元首相ら自民党実力者の名前には「なるほど」と頷けるが、一方で、実質的に「小選挙区制」を推進した、首相の諮問機関である選挙制度審議会(その第8次委員)にはすべての全国紙(朝日・毎日・読売・日経・産経)幹部の名前がある。つまりマスコミもこぞって小選挙区制導入に肩入れをしていたわけだ。テレビでは田原総一郎氏が事あるごとに「小選挙区制」導入反対者に「対案を示せ」と詰め寄っていたし、「改革」と言葉がつけば、なにかしら「新しく優れたもの」が生まれ出てくるような誤解が、広く国民に蔓延していた(推進論者が蔓延させていた)。

伊藤惇夫氏を特集した記事の見出しは「単色に変わった議員」で、伊藤氏も現在は「小選挙制導入」を悔いているようだ。しかし、悔いてもらうだけでは困る。自民党であろうが、旧民主党であろうが、得票率をはるかに上回る、途方もない議席数が得られる選挙制度は、多様な選択肢を排除する致命的欠陥を持つことはいまや明らかである。何よりも「投票行動が正当に評価されない」ことは、選挙の正当性自体を担保できない重大問題だ。2017年の例で挙げた今は無き「希望の党」にもう少し追い風が吹いていれば、政策すら明らかではない政党が7割、8割の議席を獲得しかねなかったのが「小選挙区制」なのだ。

既に故人となった方は仕方ないにしても、当時「小選挙区制」導入に加担した個人や全国紙は、この不公正な選挙制度をよりましなものに作り変える責任がある。

◆最も合理的な選挙制度改革は従前の「中選挙区制」に完全にもどすことだ

ではどうすればよいのか?

旧来の「中選挙区制度」に戻せばいい。新しい何かを作る必要はまったくない。そんな無駄な面倒くさい作業など一切不要であるから、従前の「中選挙区制」に完全にもどすことが、制度面でもコスト面でも、政治の多様性を確保するうえでも最も手っ取り早く、有効な手段だ。「中選挙区制は金がかかる」の本質を田原総一朗氏に尋ねたら「自民党が公認を出すのに調整で金がかかった」と答えてくれた。「中選挙区制は『自民党にとって』金がかかる」が正しい理由だったのだ。いわゆる「党利党略」という奴だ。古いものはなんでも価値がなく、新しいものは必ず優れている、と誤解しがちな人がいる。それは間違っている。

定数を6人増やすだの、枝葉末節な「ごまかし」ではなく、重大問題である「小選挙区制」を廃止し「中選挙区制」に戻すことこそを、議会制民主主義を支持している人々は、強く主張すべきである。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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