発生から10年、何かと社会を騒がせた奈良高1少年自宅放火殺人事件の「今」

奈良県田原本町で、名門私立高校の1年生だった16歳の少年が自宅に放火して全焼させ、父の再婚相手である継母と異母弟妹の計3人を焼死させる事件が起きたのは2006年6月20日のこと。この衝撃的な事件は、医師である父親の少年に対するスパルタ教育が背景にあり、少年は父親を殺害するために火を放ったということがセンセーショナルに報道されていた。あれから10年、現場を訪ねて「事件の今」を追った。

現場の跡地は事件後、少年の父が買い取ったそうだ

◆現場跡地は少年の父が買い取り

現場は近鉄橿原線の田原本町駅から徒歩で約10分程度の閑静な住宅街。事件発生当時にマスコミ報道で見かけた、無残に焼け落ちた家屋の姿はもうなく、現場は雑草が生い茂る空き地になっていた。立入禁止のロープが張られているのが唯一、過去に何か事件があったことをしのばせる。

「あの当時、このへんの家は取材がいっぱい来て、大変だったみたいですね」と話を聞かせてくれたのは、たまたま通りかかった近所の男性だ。現場の土地は事件後、火災発生時は自宅に不在で難を逃れた少年の父が買い取ったのだという。

「この家の人たちは事件の数年前に移り住んできて、この家を借りて住んではったんです。でも、ああいう事件があったんで、家主さんはこの家のお父さんに土地を買い取ってくれるように求めたんです。こんな事件があった土地、もう借り手も買い手も見つからんやろうからね。ほんで、この土地は今、事件のあった家の人らの持ち物ですわ」

これまで報道されてきた情報では、少年の父は、少年を自分と同じように医師にすべく、長年に渡って暴力も交えた虐待のようなスパルタ教育を行っていたとされる。だが、男性によると、少年の家族は「どこにでもいそうな普通の人たち」だったという。

「勉強のことで子供に厳しくするのは、普通はお母さんでしょ。あの家の場合、それがお父さんやったみたいですが、普通の家族と違っていたのはそれだけじゃないですかね。そんなに交流があったわけじゃないけど、亡くなったお母さんは道ですれ違ったら普通に挨拶してますし、本当に普通の人やった。火をつけた子も普通の賢い、しつけの行き届いた坊ちゃんいう感じでしたよ」

そんな少年に対し、地元では事件が起きた当初から同情が集まり、自治会の人たちは少年の刑を軽くすることを求める署名を集めて回ったのだという。

◆地元の人はネットの噂を否定

インターネットでは、少年の父が事件後、医師を辞めたかのような噂が飛び交った。だが、男性はこの噂を否定した。

「お父さんは、今も普通に医者として働いているように聞きますよ。事件の頃に勤めてはった病院とは、別の病院に勤め先が変わってるみたいですけどね」

男性によると、少年の父が事件のころに勤めていたのは、自宅から60キロ近く離れた三重県の病院だったという。「お父さんは今もこのへんで暮らしてはるそうです」とのことだが、通勤時間にゆとりのある病院に勤務先を変えたのではないかとふと思った。

父の虐待による広汎性発達障害と診断された少年は、奈良家裁で刑事処分より保護処分が適切だと判断され、中等少年院に送致されている。しかしその後、少年に対する精神鑑定を実施した医師が女性ジャーナリストに鑑定資料を漏えいさせ、秘密漏示罪で逮捕、起訴されるという騒ぎも起き、事件は再び社会の耳目を集めた(結果、医師は有罪判決を受けたが、女性ジャーナリストは不起訴)。男性は「事件だけでも大変なのに、ああいうつまらんことが起きて、家の人らはなおさら大変だったでしょう」と振り返り、しみじみとこう語った

「あの子はもう出てきてるでしょう。今はどこで何をしとるんか知らんけど、あの子やったら、ちゃんとやってるんやないかな。それこそ医者になっとるかもしれんと思いますよ」

現場は今、年に2回ほど、シルバー人材センターから派遣されてきた人たちが草刈りをしているという。このエピソードからも、少年の父らが責任感のある誠実な人たちであることが窺える。少年は今、26歳。彼が起こした不幸な事件はなかったことにはできないが、きっと堅実に更生の道を歩んでいるのだろうと筆者にも思えた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
『NO NUKES voice』08号【特集】分断される福島──権利のための闘争
「世に倦む日日」主宰者による衝撃の書!田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

夢と希望に満ちたジム入門の前に《後編》──理想のジムと出会うために

◆一般的なジムの選び方

ジムに入門する場合の一般的なジムの選び方は、まず家から近いこと、職場仲間といっしょにやれること、練習費が安いこと、更には有名選手が所属している、元・有名選手が経営している、女性用設備が充実している、タイ人トレーナーが常在している、などでしょう。

日本で最初のジム。藤本ジムに名は変わったが、目黒ジムを引き継いで盟友が集う。目黒藤本ジム落成懇親会(2005.4.17)

もう一歩、踏み込んで考えるならば、多少家から遠くても、練習費が少しだけ高くても、引越の際に賃貸物件を幾つか見て回るように、ジム見学を幾つかしてみた方がよく、また斉藤京二氏の例のような、団体が乱立していることを知らない少年たち、業界の組織図のようなものを理解してから、どこのジムに行けば目指す方向が近いのか、自分との相性も含め、何か感じ取れれば、後の後悔があっても小さくて済むかもしれません。ただし、プロデビューを目指すなら、どこのジムも厳しい練習があることだけは変わりません。

同・落成懇親会。元・東洋ウェルター級チャンピオン.斉藤元助、伊原信一現・協会代表、元・日本ヘビー級チャンピオン.池野興信。創生期の荒くれたジムを知る名チャンピオンたち(2005.4.17)

練習生としてジム入会諸々の手続きを経て練習開始し、基礎体力、基礎技術習得しプロライセンス制度が有る団体では取得後プロデビュー、そのジム所属としてプロ選手生活が始まります。大雑把に言えば、伸び悩んで方向転換する(引退、転向など)といった選手が多い中、チャンピオンやランカーなど、地道に勝ち上がっても、その地位を維持するだけで必死の努力で、入門者数のほんの一握りになっていきます。

◆稀に移籍トラブルが発生

そして稀に移籍トラブルが発生します。ジム会長と選手間で、主にはファイトマネーが絡む問題。またはその他の待遇に関するもの、進む方向に関わるもの、練習環境の問題などありますが、転勤や家族の事情で遠地に移る場合を除き、移籍はそう簡単なものではありません。送り出す側のジムと受入れる側のジムが対話で円満に解決してくれればいいですが、有力選手になると、そうはいかない場合もあり、行き場を無くし引退を余儀なくされる場合もあるようです。

藤本勲会長。ジム前でポーズ。日本で放映されたキックボクシングの最初の人(2006.1.5)

「移籍金100万円払ったのに、1戦しただけで姿消された」という話も昔聞いたことがありますが、円満に移籍してもその先で挫折する、過去にそんなパターンもありました。

円満に移籍できなかった場合、密かに海外、タイなどで試合するという例はあるようです。選手とのトラブルがあってもすべての所属選手が会長を嫌っていることは少なく、そこは個人間の相性でしょうか。国内では聞いたことはありませんが、本気で所属選手全員に嫌われては、そのジムは試合出場が無くなり閉鎖に追い込まれるかもしれません。タイでは、あるジムから選手全員夜逃げの撤退が起こったことがありました。その後、新しい選手が入ってもジムに活気無く閉鎖に繋がりました。

◆心温かい名古屋の大和ジム

斉藤京二氏の例は決して失敗例ではなく、逆にその目白ジム(後の黒崎道場)は昭和50年代のキック低迷期であっても比較的試合出場に恵まれて、そこで頑張った先には、日本人初のムエタイチャンピオン、同門の先輩・藤原敏男にKO勝利する驚きの結果を導いたスターとなって、その後怪我もありましたが、期待どおりMA日本ライト級チャンピオンに就き、復興した全日本キック連盟に移っても引退までエース格を務めました。

チームワークが良いジムメイト、大和ジムの守永光義会長、大和大地。右は連盟代表理事・斉藤京二氏

心温かいジムと言えば、名古屋の大和ジムでは会長と選手のコミュニケーションがしっかりとれているジムと言われます。守永光義会長が選手誘って一緒に呑んでバカなこと言って溶け込んでお互いをしっかり知る、そんなところから選手を見て育てる方針には理解出来る部分があります。昭和の市原ジム(玉村哲勇会長)では、練習後、選手みんなでジム近くの焼き鳥屋で食事し、時には会長宅に押し掛け大宴会をやるといった、玉村会長自身が自由奔放な指導者だった為、日々みんなが計画せずも自然と集まる輪がありました。

石井宏樹引退セレモニーで挨拶、デビューから19年の想いを語る。ここまで来れたのは、すべて周りへの感謝

温かみあるジムはそれぞれの個性を持って他にもいろいろあると思いますが、移籍問題に発展するトラブルは少ないでしょう。
選手が引退式の中でのスピーチで、会長やトレーナー、選手仲間など周囲への感謝を述べていく挨拶があります。引退式に向けて話す内容を前もって考えてくることで、綺麗ごとを並べている部分もあるかもしれませんが、周囲への感謝は本音でしょう。周囲の協力が無ければ練習も充実せず、マッチメイクも決まらないことに繋がっていきます。

ミット持ったり持って貰ったり、スパーリングパートナーになったりなってもらったり、また先輩の試合も後輩の試合も、控室で身体にタイオイルを塗るマッサージや準備、試合中のセコンドでフォローすることなどのチームワークも学び、コミュニケーション能力が増していきます。

そんな触れ合いから教わった想い出が感謝と涙に変わるのは自然なことで、1戦でもプロ公式戦を経験させて貰えたならば、どれだけの人たちがフォローに周ってくれたかを自覚し感謝していくことは他の職場では味わえない大切な人生経験となるでしょう。どこのジムへ入っても、最後は感謝の気持ちを持って引退できる環境で戦って欲しいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!
「世に倦む日日」主宰者による衝撃の書!田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

夢と希望に満ちたジム入門の前に《前編》──キックボクシングジム今昔物語

ジム選びは慎重に決めないと入門後、後悔する場合が稀にあります。赤い糸で結ばれていたかのような理想のジムと出逢うことも理想的ながら難しい出逢いです。

路地で練習していた頃、お巡りさんに「近所から苦情が来ている」と中止させられ、物件を探し、雑居ビルにジムを構えた頃の西川ジム。練習生も入らず、閑散としていた時代(1983.1.6)

—「目黒ジムの次に強いジムはどこだ?」
・・・「目白ジムです!」
—「よし、そこに決めた!!」

◆2団体制を知らずに対抗団体に行った斉藤京二氏

沢村忠(目黒)と対戦したくて最初のジム選び、上京して入門。ところが沢村忠が所属する目黒ジムは日本系、目白ジムは全日本系で団体が違い、通常対戦の機会は無いと、後になって知ったのは後の全日本ライト級チャンピオン、現NJKF代表理事の斉藤京二氏でした。

同様に閑散としていた頃の市原ジム。トタン屋根の板張りの床、男の汗臭い昔ながらのジム。一般の女性では絶対入ろうとしない空間(1983.6.11)

日本でキックボクシングが発祥した最初のジムは目黒ジムで最初はここひとつのみ。藤本勲vs木下尊義の、キックボクシング放映最初の試合は同門対決からの始まりでしたが、ジムはここしかないので同門ばかり、入門は目黒ジムに溢れるほどでした。

やがて目黒ジムに対抗する、あらゆる個性や方針のあるジムが誕生していき、キックボクサーに憧れ、「俺の方が強いぞ」「俺もチャンピオンになりたい」「有名になって稼ぎたい」「沢村忠と対戦して勝ちたい」「目黒ジムに負けるな、追い付き追い越せ」創生期はそんな目標が多かったかと思います。

市原ジムにて、長浜勇のミット蹴り。プレハブ小屋のこんな風情あるジムは今や少ない

ジムは殺伐としたもので、サンドバッグの取り合いなど、何か些細なことでも先を争う事態があれば喧嘩になるのは日常茶飯事。どこのジムもそんな感じだったと言われます。ちょっと気の弱い少年だったら見学もできない、そんな近寄り難い存在だったでしょう。

◆低迷期の80年代からジムの雰囲気が様変わり

大きく風向きが変わったのはキックボクシングが一旦衰退し、低迷期を彷徨った頃の、1980年代から、業界も変わり世代も変わり、殺伐とした雰囲気が無くなった頃でしょう。どこのジムも閑散として誰もいないことも珍しくなく、時代も変わって「いじめに勝ちたくて」そんな目標を持ってヒョロッとした喧嘩に弱そうな中学生が勇気を出して入門してきたという、そんな光景も方々のジムで結構あったのではと思います。

女性の入門生も多くなった近代的設備が充実した現代風のジム(2011.4.11)

その後の時代は徐々に進化し、2000年代には、ムエタイ修行受入れ態勢のタイ側のジムが進化したように、冷暖房完備、リング、サンドバッグ、ウェイトトレーニング機器、タイ人トレーナーの常在。入門というと厳しさ漂う修行寺のような感覚ですが、女性がボクササイズ感覚で“入会”し、ダイエットなど、また目標も大きく変わった時代でした。

藤原敏男を破った斉藤京二。その後5年掛かったが、MA日本ライト級チャンピオンになった頃(1987.1.25)

男女とも周囲の影響を受けて、アマチュアからプロ転向まで志次第で進む選手も多いと思います。実際に女性の入門生増加の影響で、プロデビューに至る女子選手が増え、女性用シャワールーム、女子更衣室が用意されるのは大半のジムになり、定期興行を打つジムの数も首都圏においてはプロボクシングのその数に迫るほど増えたかもしれません。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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なぜ、高橋さんは犯人にされたのか? 1988年の鶴見区金融業者夫婦殺人事件

年末になると、テレビ、新聞が一斉に事件の現状を報道する世田谷区一家殺害事件をはじめ、重大な未解決事件は毎年訪れる「事件から×年」の節目の日にマスコミで取り上げられるのが恒例だ。

高橋さんが綴った手記

そんな中、重大な未解決事件でありながら、一切そういう報道が行われていないのが、1988年6月20日に起きた横浜市鶴見区の金融業者夫婦殺害事件だ。

というのも、この事件では、発生からまもなく、現場の金融会社に出入りしていた小さな電気工事会社の経営者で、高橋和利さんという当時54歳の男性が強盗殺人の容疑で逮捕されている。高橋さんは裁判で無実を訴えたが、1995年9月に横浜地裁で死刑判決を受け、控訴、上告も実らずに2006年に死刑が確定。現在も無実を訴えて再審請求しているが、なかなか裁判所に無実の訴えを認められない状況だ。

つまり、この事件が未解決事件として報道されない理由は、「高橋和利という犯人が捕まっている」という幕引きが公式になされているからだ。それに対し、筆者がこの事件を未解決事件と呼ぶのは、犯人とされている高橋和利さんは冤罪で、無実だと思っているからである。

◆「真実ではない」と裁判所も認めた自白で死刑に

では、そもそもなぜ、高橋さんはこの事件の犯人とされたのか。

元をただせば、警察が高橋さんを犯人だと誤認したのは、仕方ない面もある。事件の日、被害者夫婦が営む小さな金融会社に顔を出した高橋さんは、夫婦が頭から血を流して倒れており、何者かに殺害されているのを目撃しながら、警察に通報しなかった。その場に残されていた紙袋の大金(1200万円分の札束)に目がくらみ、持ち去ってしまったからだ。高橋さんは当時、義弟(妹の夫)の借金を肩代わりしたことから金策に追われ、冷静な判断ができない状態だったのだ。

警察は事件直後、現場の金融会社に出入りしていた高橋さんがあちこちに借金を返済している情報をつかんだ。そして高橋さんを連行し、容疑を追及。高橋さんは金を持ち逃げした弱みもあり、ほどなく強盗殺人の犯行を自白したのだった。ここまでの経緯をみると、高橋さんにも自業自得の面はあったろう。

だが、裁判では、事実上唯一の有罪証拠である自白には、様々な問題が散見された。まず、高橋さんの自白では、被害者らをバールで殴ったり、ドライバーで刺して殺害したことになっていた。しかし、「犯行後、凶器はゴミ集積場に捨てた」と高橋さんが自白しているにも関わらず、この2つの凶器は見つかっていない。さらに公判段階になり、弁護側の請求によって裁判所が職権で遺体の状況に関する再鑑定を行ったところ、鑑定医は、捜査段階に解剖医が示した「凶器はバールとプラスドライバーと推定される」との見解を「牽強付会だ」と否定した。こうして高橋さんの自白を裏づける決定的な証拠は何もない状態になったのだ。

そもそも凶器をめぐっては、高橋さんの自白は、「まず、被害者のうち夫のほうをバールで首やあごを殴って殺害し、次に妻を殺害した際には、まずバールで頭部を殴り、それから凶器をプラスドライバーに持ち替えて背中や胸を多数回刺し、その後に再び凶器をバールに持ち替えて頭部を殴打して殺害した」という大変不自然な内容になっていた。

被害者2人の遺体に複数の凶器を使われたとみられる傷跡があるなら、本来、犯人は複数だと考えたほうが自然ではないか。実際、弁護人の大河内秀明弁護士によると、警察も当初は複数犯だとみていたという。

「警察は高橋さんを任意同行した際、高橋さんと一緒に仕事をしていた配管工の男性も共犯者と疑って任意同行しています。しかし、この男性にアリバイがあることがわかり、犯人が高橋さん一人に絞られた。また、担当検事は高橋さんを起訴後も拘置所に何度も会いに来て、しつこく共犯者の名前を聞き出そうとしていたのです」

高橋さんの無実の訴えを退けた第一審判決、控訴審判決共に「被告人の自白には、真実ではないものが含まれている」と認めざるをえなかった。それでいながら、そんな信用性の乏しい自白をもとに無実を訴える被告人に死刑を宣告しているのだから、空恐ろしくなってくる。

高橋さんが今も拘禁されている東京拘置所

◆別の犯人が存在することを示す事実

この事件には、高橋さん以外の犯人が存在することを示す事実も散見される。というのも、被害者夫婦が殺害された後、事件現場から無くなっていたのは、高橋さんが持ち去った大金入りの紙袋だけではなかったのだ。

現場の金融会社は事件の4カ月前にも窃盗に入られ、融資の借用証や不動産の権利証などの重要書類を盗まれていた。それ以後、被害者の夫は会社の重要書類を布袋に入れて持ち歩いていたのだが、その布袋が事件後、見当たらなくなっていた。また、高橋さんが持ち去った紙袋の1200万円の札束について、被害者の夫は銀行から持ち帰る際に黒いカバンに入れていたのだが、このカバンも現場から消えていた。高橋さんが現場に顔を出す前に別の人物(たち)が被害者夫婦を殺害し、これらの物を持ち去ったとみても何もおかしくないだろう。

筆者はこの春、編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)を上梓したが、現在82歳の高橋さんもこの本に書き下ろしの手記を寄稿してくれている。

〈私をこの歳まで生き永らえさせているものは、足の先から頭の天辺にまで詰まり凝り固まっている司法権力への失望と満腔の怒りだ〉

そんな書き出しで始まる高橋さんの手記は、無実の罪で死刑囚へと貶められ、30年近くも牢獄に留め置かれていることへの憤りが連綿と綴られ、なんとも言い難い迫力がある。事件発生から今年の6月20日で28年になった。高橋さんが生きているうちに雪冤がなされ、一日も早く2人の生命を奪った真犯人が捕まって欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』!
「世に倦む日日」主宰者による衝撃の書!田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

「闘う科学者」木原壯林さんが教えてくれた〈原発全廃〉のために立ち返るべき地点

2016年5月15日(日)、水道橋のたんぽぽ舎にて〈若狭の原発の特徴と反原発運動〉と題された学習会が催された。講師は〈若狭の原発を考える会〉代表の木原壯林氏。5月10日に琵琶湖一周デモを終えたばかりということで、しっかりと日焼けした姿で登壇した。タイトルの通り、若狭湾に集まる原子力発電所の特徴と、反原発運動の実践について講演されたのだが、ここでは特に前者について再構成を試みる。

〈若狭の原発を考える会〉代表の木原壯林氏

◆若狭の原子力発電所とプルサーマル運転

福井から京都にかけての日本海沿岸は、日本海岸には珍しい大規模なリアス式海岸となっており、若狭湾と呼ばれている。ここには、〈もんじゅ〉を含む14基の原子力発電所が建てられており、人口密集地である大阪に近いことなどから原発事故時の被害が大きくなるだろうと予想されている。

2016年5月現在、14基のうち運転している発電所は無い。しかし定期点検中のものについては再稼働の可能性があり、また、2017年7月と翌2018年7月に敦賀3号機と敦賀4号機がそれぞれ建設される計画があるため、引き続きその危険性や在り方について考える必要がある。

若狭の原発については、高浜3号機と高浜4号機が〈プルサーマル〉運転を行っていたというのも特徴のひとつだ。〈プルサーマル〉とは、原子力発電所で使い終わった燃料のなかに残っているプルトニウムを取り出して新しい燃料(MOX燃料)を作り、再度原発で使用するというものである。だが、国内に既存の原発はウラン燃料を用いることを前提に設計されており、プルトニウムを燃やすことに対する技術的な課題(ヘリウムの放出が多いため燃料棒内の圧力が高くなる、などといったこと)が多く残されているということに注意したい。

◆高浜原発運転差止め裁判

2016年3月9日、大津地方裁判所(山本善彦裁判長)は、高浜原発3、4号機の運転を差止めする仮処分決定をした。若狭の原発が重大事故を起こした場合に深刻な被害を受ける可能性がある滋賀県民の申し立てを全面的に認めたものだ。司法が稼働中の原発の停止を求めたのは世界でも初めてのこと。福島の原発事故の被害が広範囲に及び、現在も解決していないという現実を踏まえた勇気ある画期的な決定だ。

仮処分決定は、速やかに行動しなければ取り返しがつかない事態が生じかねない案件のみに出されるもので、決定されれば即座に効力を発する。したがって、関西電力は10日の午後8時過ぎに稼働中の3号機を停止した。関西電力による、決定取り消しを求める保全異議や、仮処分の効力を一時的に無効とする執行停止の請求が認められない限り、高浜原発3、4号機の運転差止めの法的効力は継続する。

これに対し、福岡高等裁判所宮崎支部(西川知一郎裁判長)は2016年4月6日、川内原発1、2号機の運転差止めを求める仮処分の申し立てを却下した。この決定は、福岡高等裁判所が再稼働ありきの立場で九州電力と原子力規制委員会の主張に沿って審理して導いた不当な結論だと言える。

◆電力会社の立証責任について

電力会社の立証責任について、両裁判所の見解を見てみよう。大津地裁は「新規制基準に合格したから安全だ」とする関西電力に対して「福島の事故後、どう安全を強化したのか」を立証するよう厳しく求めたが、関西電力は、外部電源の詳細、基準地震動設定の根拠などを証明せず、資料の提出も不十分であった。このため大津地裁は「関西電力による立証は不十分である」とした。対する福岡高裁宮崎支部は、「九州電力は、耐震安全性、火山影響について立証を尽くした」とした。

原発裁判のような高度の専門的知識を要する裁判では、一般人が議論の全てに関する資料や根拠を調べ、提出することは困難だ。したがって、1992年の伊方原発裁判において最高裁判所は「原発稼働を進めるにあたって、被告である政府や電力会社の側が、依拠した具体的審査基準や調査審議および判断の過程等の全てを示し、政府や電力会社の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づいて主張、立証する必要がある」としている。また「政府や電力会社が主張、立証を尽くさない場合には、彼らの判断に不合理な点があることが事実上認められたとすべきである」とも述べている。

関西電力や九州電力は、伊方原発裁判において最高裁判所が要求するこのような立証責任を果たしていない。よってこの度の裁判においても、主張、立証を尽くしていない行政庁の判断に不合理な点があることが事実上認められたとすべきである。

◆福島事故への反省と新規制基準について

大津地裁は「福島原発事故の原因を徹底的に究明できたとは言えないので、新規制基準はただちに安全性の根拠とはならない」とし、新規制基準は「公共の安寧の基礎にはならない」と断じた。これに対して福岡高裁宮崎支部は「絶対的な安全性を求めることは社会通念になっていない」として、これまでの原発訴訟と同様に、新規制基準に適合しているかどうかを争点とした。新規制基準については「安全性確保の面で高度の合理性を有する」とした。

原発で重大事故が起これば、時間的、空間的に他の事故とは比較にならない惨事となるので、万一にも事故を起こしてはならない。したがって絶対安全性が求められるが、現代科学技術の水準、人為ミスの可能性、人の事故対応能力の限界などを考え合わせると、絶対安全性を確保することは不可能であるから、原発は全廃すべきである。

福岡高裁宮崎支部は、最新の科学的技術的知見を踏まえていることを安全性の根拠としているが、最新の科学的技術的知見は完璧からは程遠いものであり、それだからこそ想定外の事故が多発するのだということを認識すべきである。

◆立ち返るべき地点──シンプルで飛躍のない原発全廃論

ここまで、木原壯林氏の講義のなかで特に重要と思われる点を照らし出してみた。「原発で重大事故が起これば他の事故とは比較にならない惨事となるので、万一にも事故を起こしてはならない。したがって絶対安全性が求められるが、現在の科学技術では絶対安全性を確保することは不可能である。よって原発は全廃すべきである」というシンプルだが飛躍のない論は、極めて重要かつ実際的なものであり、情緒的に反原発を唱え勝ちな状況にあって、今一度立ち返るべき地点ではないだろうか。

柔らかい口調で、短絡なく合理的に論を展開する木原氏の姿勢に惹かれたものだが、ここではそれを伝えることが難しい。添えた写真からその人柄を感じ取り、ここに示した木原氏の論に人の重みを付け加えていただきたい。

[撮影・文]大宮浩平


◎[参考動画]老朽美浜原発3号機の 再稼働を許さず、原発のない町づくりを進めよう /木原壯林・京都工芸繊維大学名誉教授(2016年6月11日福井県美浜町)

▼大宮浩平(写真家)
1986年東京生まれ。
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『NO NUKES voice』衝撃の08号【特集】分断される福島──権利のための闘争
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冤罪処刑「責任者」たちの品格──重大局面を迎えた飯塚事件再審請求即時抗告審

1992年2月に福岡県飯塚市で小1の女の子2人が何者かに殺害された「飯塚事件」。一貫して無実を訴えながら死刑判決を受け、08年に死刑執行された久間三千年さん(享年70)には、冤罪の疑いが根強く指摘されている。その死後、遺族が起こした再審請求は14年に福岡地裁で退けられたが、現在福岡高裁で進行中の即時抗告審が重大局面を迎えた。

5月30日に福岡市内で会見した弁護団によると、福岡高裁(林秀文裁判長)はこの日、弁護人が求めていた警察庁科警研の笠井賢太郎技官に対する尋問を実施すると決めた。この事件では、10年に再審無罪判決が出た足利事件同様に科警研がMCT118型検査という手法で行った黎明期の稚拙なDNA型鑑定が有罪の決め手だったことは有名だが、笠井技官は坂井活子技官、佐藤元技官と共にこのDNA型鑑定を行った人物だ。が、今回の尋問はDNA型鑑定ではなく、血液型鑑定に関して行われるものだという。

5月30日、福岡県弁護士会館で会見した飯塚事件再審請求弁護団

◆血液型鑑定実施の科警研技官の尋問が決定

弁護団の説明では、笠井技官は捜査段階に被害者の遺体から検出された試料について、血液型鑑定も行い、犯人が久間氏と同じB型だと結論していた。しかし、福岡地裁の再審請求審で行われた筑波大学の本田克也教授の尋問で、笠井技官が血液型鑑定の際に行うべき「裏試験」などを行っていなかったことが明らかに。即時抗告後に本田教授が行った血液型鑑定に関する実験の結果も踏まえ、福岡高裁は笠井技官の尋問を決定したという。

犯人の血液型を「AB型」だと主張している弁護団の徳田靖之弁護士は、「これで、犯人の血液型が(久間氏と同じ)B型であるという認定は崩れ、犯人は“AB型”か、“A型もしくはB型”というところまで後退するだろう。証拠構造の2つの柱のうち、MCT118型検査はすでに崩れているが、これでもう1つの柱も崩れることになる」と説明。笠井技官の尋問は、早ければ10月中に行われる見通しだが、この即時抗告審の分岐点になりそうだ。

◆また不正捜査の痕跡が明るみに

また、弁護団によると、有罪の大きな根拠とされた遺留品発見現場での目撃証言に関する重大事実も明らかになったという。というのも、再審を認めなかった福岡地裁の原決定では、事件が起きた13日後の92年3月4日、目撃証人が県警の捜査員に「紺色、後輪ダブルタイヤの車を遺留品発見現場で目撃した」と供述したとする捜査報告書が存在することを根拠に、この目撃証人が捜査員の誘導を受ける可能性のない時期から久間氏の車と特徴が同じ車を遺留品遺棄現場で目撃したように供述していたと認定されている。しかし弁護団が記録を検証したところ、実際には、その日以前に県警が犯人の車を久間氏の所有するマツダステーションワゴン・ウエストコーストに絞り込んでいたことを示す捜査報告書が存在したという。

つまり、県警は目撃証言をもとに久間氏の車を犯人の車だと特定したのではなく、久間氏の車を目撃したような証言になるように目撃証人を誘導したことを示す事実が見つかったということだ。この目撃証言はそもそも異様に詳細で、捜査員に誘導された疑いが根強く指摘されてきたが、その疑いがますます強まったと言っていい。

筆者はこの事件の再審請求の動向をずっと取材してきたが、この間、冤罪を疑わせる数々の事実と共に目の当たりにしてきたのが、こうした不正捜査の痕跡だった。それゆえに思い出さずにいられないのが、久間氏の死刑に関与した「責任者」たちを取材した時のことである。

◆取材に応じずに逃げた「責任者」たち

筆者は今年2月に上梓した編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)で、久間氏が死刑執行直前に再審無罪への思いを綴っていた遺筆や、久間氏に対する死刑執行の全過程が記録された法務省の内部文書を紹介した。それと共に、捜査や裁判、死刑執行の各段階に「責任者」として関与した警察幹部、検察幹部、裁判官、法務省幹部、法務大臣らへの直撃取材を試み、その結果をレポートした。

ただし、大半の者は適当な言い訳をして、取材に応じずに逃げるだけ。そんな中、久間氏に対する死刑執行の過程で手続きに必要な文書の名義人となっていた福岡高検の検事長経験者2人が取材に応じたが、2人は「単なる事務手続き」「昔のことなんで忘れちゃったなあ」などとあっけらかんと言った(※なお、同書では、取材対象者を全員、実名で表記している)。要するに久間氏は、不正な捜査により死刑囚へと貶められ、ろくに死刑執行の可否を検証されないままに処刑されたのだ。死刑台に上がり、首に縄をかけられた時、一体どんな思いだったろうか。

奪われた久間氏の生命はもう戻らない。しかしせめて、殺人犯の汚名を着せられた久間氏の名誉回復くらいはなされて欲しいと願わずにはいられない。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
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第6回前田日明ゼミは受刑者のアイドル、Paix2(ペペ)をゲストに迎え大盛況!

 
 
 
 
 
 

6月18日「都ホテルニューアルカイック尼崎」で第6回「前田日明ゼミ」が約90名の聴衆を集め開催された。この日の演題は「受刑者のアイドルという生き方 プリズンコンサート400回への道」でゲストはPaix2(ペペ)だ。

ゼミ開始に先立ち松岡社長挨拶に立ち「2010年9月から始めた『西宮ゼミは今回で30回を迎え、一区切り休みに入ります』と西宮ゼミが一応の休止に入る事を宣言した。続いて前田日明氏が、「『受刑者』『プリズン』と聞くと自分に近く感じる。若いころから周りに元気のある人間が多かったので『アイツはもうすぐ出て来る』とか『ヤツは今入っている』という話をしょっちょう耳にしていた。最近は罪を犯した人の出所後の人生が気になっている。昔は出所後の人を受け入れる経営者も多数いたが、今の社会では『コンプライアンス』が声高に語られ、そういう経営者は減っているのではないか」との問題意識を明らかにした。

そしてゲストPaix2が登場し「逢えたらいいな」など6曲を約1時間にわたって披露した。

休憩をはさんで前田氏とPaix2お二人の対談が始まった。個人的には前田氏のズケズケとした質問が際立っていて大変面白かった。「ストーカーみたいなのにはあったことはありませんか?」、「こんな事聞いていいのか解らないけど、お金どうやっているんですか?」、「デビュー前に仕事なさってたんですね、と言う事は活動が16年だからお年は……」など、やらせ一切なしを証明する「アイドルには聞いてはいけない」質問に会場が湧いた。

しかし対談では前田氏とPaix2お二人の経験から、どうして犯罪を起こしてしまうのか、現代社会に見られる犯罪者を生み出してしまう構造の問題点などが真剣に議論された。熱を帯びた対談はまだまだ続きそうだったが、会場の都合上16時30分で散会となった。

ゼミ終了後は場所を移しての懇親会が行われ、約70名が参加した。常連の参加者のみならず、「格闘家」前田氏のファンの姿も多く、恒例となったサインを求める長蛇の列が今回も見られた。

2010年に鈴木邦男氏をホストとして始まった「西宮ゼミ」シリーズは、足掛け7年、30回の開催で一区切りとなる。常連の参加者からは「いつも楽しみにしていたのでこれからも続けてほしい」、「東京や大阪ではなく、西宮や尼崎で知識人の討論を聞くことが出来る貴重な機会だった。再開を強く求めます」、「なんで止めるの? まだやってよ」など継続を求める声が多数聞かれた。松岡社法への「直訴」も相当な数にのぼった。この熱烈「継続希望」を受けて、今後果たしてどのような展開をみせるであろうか。
 
ともあれ一段落である。ここで過去ゲストとして登場頂いた方々を振り返ってみよう。

鈴木邦男ゼミ(第1期):飛松五男(元警察官、現コメンテーター)さん、水谷洋一(西宮冷蔵社長)さん、浅野健一(当時・同志社大学教授)さん、 Paix2(ぺぺ。歌手)さん、野田正彰(精神科医。当時・関西学院大学教授)さん、山田悦子(甲山事件冤罪被害者)さん。

鈴木邦男ゼミ(第2期):本山美彦(経済学者。当時・京都大学名誉教授、大阪産業大学学長)さん、寺脇研(元・文部次官。京都造形芸術大学教授)さん、北村肇(『週刊金曜日』発行人)さん / Paix 2(ぺぺ。歌手)さん、重信メイ(国際ジャーナリスト)さん、田原総一朗(ジャーナリスト)さん、池田香代子(翻訳家、作家)さん

鈴木邦男ゼミ(第3期):上祐史浩(宗教家)さん、神田香織(講談師、ふくしま支援・人と文化ネットワーク代表)さん、湯浅誠(反貧困社会運動家。元・内閣参与)さん、前田日明(格闘家、思想家)さん、青木理(ジャーナリスト)さん、内田樹(思想家、武闘家。当時・神戸女学院大学名誉教授)さん。

浅野健一ゼミ:山田悦子(甲山事件冤罪被害者)さん、河野義行(松本サリン事件冤罪被害者)さん、北村肇(『週刊金曜日』発行人)さん、安田浩一(ジャーナリスト)さん、安田好弘(弁護士)さん、矢谷暢一郎(ニューヨーク州立大学教授)さん。

前田日明ゼミ:鈴木邦男(思想家、社会運動家)さん、孫崎享(国際ジャーナリスト)さん、田原総一朗(ジャーナリスト)さん、山口二郎(政治学者、法政大学教授)さん、木村草太(憲法学者、首都大学東京教授)さん、 Paix 2(歌手、保護司)さん

単に著名人が多く登場しているだけでなく、ホストとゲストの関係で語られるテーマがリレーのように繋がれてきていたのも、今から振り返れば「西宮ゼミ」の特徴と言えよう。一応の区切りに多数寄せられた「継続」を求める参加者の声に鹿砦社はどのように応えるか、注目が集まる所ではある。しかし「西宮ゼミ」開催にあたっては、参加者の増加に伴い、本社社員が全員休日総出で当って来られた事情もある。暫くは一息ついて休憩をして頂き、また鹿砦社らしい企画が再登場することを期待したい。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

Paix2『逢えたらいいな―プリズン・コンサート300回達成への道のり』(鹿砦社2012年)
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「世に倦む日日」田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

投げても打ってもモンスター! 日本ハム大谷翔平選手の人智を超える二刀流野球

 

6月5日、デーゲームのプロ野球、巨人VS日本ハムを見た。はっきりいって目的は大谷翔平(日本ハム)の剛速球が見たいのと、14試合連続安打をマークしているその打撃だ。

1000円の立ち見席は、午後2時開始というのに、12時30分にはもうスペースが埋まっており、「モンスター・大谷」を見たさに多くの人がひしめいて、もはや芋あらい状態だ。立ち見には7列にできていては、野球なんか見れるわけない。

それでも、人と人の間から見る大谷が投げるボールは、あたかも重力に逆らっているようだ。ストレートはまるで地面に落ちる気配がなくビーンと延びていく。この日、4回1死満塁でクルーズを迎えたピンチでは、なんと163キロの急速をマークし、自己最高記録を更新した。

 

「それでも、大谷は急速に10キロほど体重を増やして、その体躯を使い切っていないように見えます。上から手投げだし、変化球でなんとかかわした印象です」(スポーツライター)

そうすると、5番に阿部慎之助帰ってきて交流戦負けなしだった巨人が2点しかとれない巨人の打線とはなんなのだろう.未完成の二刀流の大谷に手も足も出ない。

大谷は、スイングスピードもすさまじく、肉眼でその軌道を捉えるのは難しい。なにしろメジャーのスカウトたちも注目を始めており、「二刀流なら、打者が打席に立つナショナルリーグで」という声も上がりはじめた。
というわけで、初夏に最高のゲームを見た。

もちろん4万6239人と「立ち見を詰め込みすぎ」という運営はちょういとまずいと思うのだが、あいかわらず「12球団一、美人を集めている」といわれる東京ドームのビール売り子ガールに免じて許すとしよう。

▼小林俊之(こばやし・としゆき)
裏社会、事件、政治に精通。大本営発表のマスコミに背を向けて生きる。自称「ペンのテロリストの末席」にして自称「松岡イズム最後の後継者」。師匠は「自分以外すべて」で座右の銘は「肉を斬らせて骨を断つ」。

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波乱万丈の人生を送った異色の名脇役、弾正勝物語

「早くからキック中心に修行していれば名チャンピオンになれた」と言われるほど惜しい存在だった昭和のキックボクサー、弾正勝(だんじょう・まさる)──。立嶋篤史選手が兄貴と慕うジムの先輩で、幼い頃から選手になっても続いた苦労と天性の才能には「弾正さんの人生を本にしてくださいよ」と言われたこともありました。

この弾正勝氏を記事として取り上げることにしたのは、先日、電話が掛かってきて、「今度、東京方面に行く用があるので、久々に逢いましょう」と誘われてのことでした。以前、ある出版物でのコラムで紹介した内容の再録の部分もありますが、更に細かく紹介したいと思います。

島津昇吾戦のリング上へ 1986.9.20

◆本業は左官工、実戦で力を培う一流選手

元・日本ウェルター級1位選手、弾正勝の生い立ちは、幼いまだ記憶にも残らぬ頃、両親が離婚。そして5歳の時、母親を交通事故で亡くし、母方の親戚に預けられて育った弾正勝は、貧乏な生活環境から中学卒業の翌日には左官工見習いとして働き出しました。

1973年に20歳でデビューしたのも、大金を稼ぐためでした。しかし次第に業界の在り方を知り、キックボクシングではチャンピオンになっても思うような大金は稼げないことを知ってからは、キックに集中することは無くなりました。生活を支える左官業に重点を置いて地道に稼ぎ、キックは副業と位置付けつつも、一旦キックに魅せらたら辞めることはできませんでした。

ロッキー武蔵戦での勝利のファイティングポーズ 1985.3.16

日々、左官の仕事がある中、試合日以外は休みなく毎日働き、試合中ダウンした時でさえ「明日の仕事に響く」という思いが頭を過ると、そのままテンカウントを聞いてしまうこともあったといいます。

弾正勝のデビュー戦は1973年(昭和48年)、ベンケイ藤倉ジムに所属し、後の全日本ライト級チャンピオンの大貫忍(相武)戦で判定負け。その当日は育ての親だった親戚の叔母さんが病気で亡くなり、告別式を終えての試合でした。

1977年には挙式と転居と共に高葉ジムに移籍。更に1981年には習志野ジムに移籍しました。本業と家庭の事情で通算5年のブランクを作りつつ、5回戦キックボクサーとしての実力は実戦で培っていく勝負勘を持つ一流選手でした。

◆30歳過ぎて強くなる異色の存在

転機となったのは1982年に葛城昇(後の日本フェザー級チャンピオン/MA日本キック連盟認定)が西川ジムから習志野ジムに移籍して来た時でした。それまでは他に練習生もいないキック低迷期で練習はいつもひとり。ほどほどにサンドバッグを蹴って帰ることが多かったところ、元々“鬼の黒崎道場”で鍛えられた葛城が来てそうはいかなくなりました。試合が近いにもかかわらず、仕事を終え自宅でビールを飲んでくつろいでいると、葛城がやって来て「試合近いのに何やってんですか!」と怒鳴られジムに引っ張り出されました。

千葉昌要戦でセコンドを務める鬼の継承者・葛城昇と

葛城がロードワークを兼ねて弾正宅に乗り込むのは、試合が決まってる時期はほぼ毎日。年齢もデビューも5年以上も後輩の葛城に引っ叩かれることもありました。酒の臭いをさせながらも「弾正さんにミット蹴らせると重い蹴り出すんだよ~!」とは葛城の弁。後々の試合で勝利を重ね、30歳過ぎて強くなる異色の存在の裏には葛城選手の存在があったことは運命の導きだったかもしれません。

◆極真出身の竹山晴友に立ちはだかる弾正勝

1986年4月に竹山晴友(大沢)が極真空手の実績を引提げキックデビューし、9戦9勝(9KO)の連勝を続ける中、1987年4月、弾正勝は竹山に立ちはだかる存在としての対戦。一部には竹山を “潰してやろう”精神が密かに浸透していたのも事実。

千葉昌要(目黒)戦

黙々と前に出て来る竹山から左ストレートで初のダウンを奪ったのは弾正勝でした。竹山は立ち上がろうとするも足にきていて、すぐには立ち上がれず、完全に効いた印象の悪いダウン。しかし竹山は立ち上がり、また黙々と前に出る。弾正勝の欠点は練習不足からくるスタミナ不足。竹山は毎月試合が組まれる看板選手で、黙々と練習をこなすスタミナ抜群の選手。次第に形勢逆転し、ボディブローに倒されたのは弾正勝でした。

同年6月、更に日本ウェルター級王座決定戦に起用された弾正勝は、こちらも竹山に対抗する看板選手だった鈴木秀男(花澤)と対戦。ムエタイスタイルが浸透し始めたこの時代、タイボクサーのようなしなる蹴りを持ち、パンチもあった鈴木秀男に倒され王座奪取は成らず。

ロッキー武蔵(千葉八戸)戦 1985.3.16

後に全日本系に移った弾正勝の所属する習志野ジムは、1989年1月、全日本ウェルター級チャンピオン.船木鷹虎(仙台青葉)に挑戦。しかしここでも肋骨を折られるKO負け。これがラストファイトとなりました。

ここに至る以前のトップクラスと当たった試合では1983年に1000万円オープントーナメント62kg級準々決勝で元・ラジャダムナン系ライト級チャンピオン.藤原敏男(黒崎)と対戦した試合がありました。デビュー以来、試合が“怖い”と思ったことは無かったという弾正勝が、唯一怖いと思った試合がこの藤原戦だったと言います。キックに対する向き合い方の違いに委縮したか、蹴り足を掴まれ、押し倒されること十数回。4R・TKO負けとなりながらも精一杯蹴り合った試合でした。

藤原敏男(黒崎)戦 1983.1.7

◆アルンサックにKO勝ちした唯一の日本人選手

弾正勝はチャンピオンには縁がなかったですが、ひとつだけ知られていないエピソードがありました。“日本”では 8戦負け知らずで、日本ミドル級チャンピオンの竹山晴友を子供扱いした、アルンサック・チャイバダン(タイ)にKO勝ちしている“日本人”は弾正勝氏だけでした。

アルンサックがまだ来日前の1982年に香港で対戦。技術的には優ったアルンサックが、ナメてかかってきたところを接近戦で弾正勝が蹴りとパンチの連打でKO勝利してしまいました。

1977年に子連れ結婚という形で所帯を持ち、その子供が1985年に結婚し、孫が生まれたことにより、おじいちゃんキックボクサーとしても話題になっていました。活力はそこにあり、当時「まだ辞めないよ」と控室で笑いながらグローブをはめる弾正勝の表情は生き生きしていました。その結婚式には、幼い頃に別れた父親とも再会していました。不憫な思いをさせたことを父親は謝りましたが、弾正は親を恨んではおらず、育ての親だった叔母さんに躾けられたのは、親が居たから自分が存在するという命を与えてくれたことへの感謝の気持ちを持つことと“明るか貧乏”で、その人格は弾正を立派に育てられていました。しかしそのお父さんまでもその2ヶ月後に病気で亡くなられる運命を辿ってしまいました。

現在の弾正勝氏 本名・内田康夫

現役選手を続けつつ、本業は社長として内田工業(株)を経営し、引退後は現在も左官業を経営。現役時代は当時あまりいない刺青を腕にしていて強面で、一見近付き難い存在でしたが、後輩に引っ叩かれても穏やかにこなしたジムワーク。最近も逢って話せば穏やかな口調は現役時代と変わらず、歳も取ってより優しくなった印象があります。

そして出てくる話は昔のキック。「日本系・全日本系の2団体時代は交流戦があって盛り上がったね。今もそうなればいいのに」とは昔の選手共通の願い。

後輩の立嶋篤史に「タイには若いうちに行った方がいい」と助言したのも弾正勝氏でした。キックにあまり力を注がず、タイにも修行に行けなかった後悔を立嶋篤史にはさせたくなかった想いがありました。懐かしい昔話はそれだけで楽しい時間が経ってしまいます。

昔懐かしい選手との再会をまた話題を変えつつ触れて行こうと思います。昭和のキックボクサーと年齢的に、お互いがそう長くない人生となっていくことを考えると、後悔しないようまた記事にすること目標にしていきたいものです。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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福山雅治・吹石一恵夫妻宅侵入事件で地に堕ちたマンションコンシェルジュの信用

元一流ホテルマンや、年輩の元マンション管理士など、「紳士じゃなくては勤まらない」とされてきた高級マンションの「コンシェルジュ」(案内人)という仕事の信用は地に堕ちた。

福山雅治『想 new love new world』(UNIVERSAL J 2008年10月22日)

5月6日夜8時ごろ、福山雅治と吹石一恵夫妻が暮らす東京・渋谷区内のマンションに不審な女が侵入した事件で、このマンションのコンシェルジュの女が逮捕された。マンションは元オセロの中島知子がひきこもったことでも有名だが、宅杯便のスタッフを装って浸入を狙う記者や、ピザ屋を装う雑誌カメラマンを追い返すほど「セキュリティの高さ」で信頼を集め、芸能人のみならずセレブたちも安心して暮らしていた。

福山の事件では、「いったい何を信用すればいいのか」「これでは、芸能人を住民として受け入れることは難しい」とコンシェルジュを使うマンションのオーナーが頭を抱えている。

「そもそも、コンシェルジュは客に届く荷物の管理や住民の服のクリーニングの手配、提携している飲食店からの出前の手配、住民が倒れたときの救急車の手配や看護など仕事は多岐にわたり、気遣いがないとできない仕事。ですが仕事が多岐にわたる割に資格がとくに必要ないので、マンションのオーナーの知人がコネでつとめていたりもします」(不動産者)

案外、コンシェルジュには「悪いやつら」が多い。芸能人が多く住むマンションのコンシェルジュは、情報を記者に流して儲けていたケースもある。
「目黒で、コロッケも住んでいるマンションでは、コンシェルジュがスポーツ紙や週刊誌記者に、誰が誰をマンションに連れ込んでいたか逐一リークしていました。月に情報料だけでも相当、貯め込んでいたのではないか」(芸能ライター)というそら恐ろしいケースもある。

また、原宿の高級マンションでは 住民から「コンシェルジュが部屋に入るなんて考えられない。芸能関係者はマンションから出してほしい」と住民から要請があったようだ。

合い鍵でほいほいと部屋に入られては、一般人とて安眠できない。今後、マンションのオーナーや不動産会社が、コンシェルジュについて相当緻密な「身体検査」や身元確認 をしないとならない状況になってくるはずだ。

マンションを複数所有、管理している作家の影野臣直氏は語る。
「身体検査や履歴チェックなどコンシェルジュにそこまで金をかけていたら、オーナーとしては赤字になるのでは? 一方で秘密を守ってくれるから客はコンシェルジュ代も含めて高い家賃を払っているので、マンション運営側に対しては裏切り行為には断固として抗議したほうがいい。なんでしたら賠償金要求されたら、慰謝料を払うケースも出てくるかも」

大手芸能事務所のスタッフは「まさか秘密がマンション運営サイドから漏れるとは。そうしたら、タレントはもうホテル住まいさせるしかなくなる」と嘆く。
「芸能人を秘密裏に囲い込むことを条件に、値段をつり上げる不動産もあるが、今後はそうしたビジネスも成り立たないだろう」という声も。

だが、いまどき「性善説」にもとづいて高級マンションのセキュリティの高さを盲目的に信頼する福山サイドのほうにも脇の甘さがあったようだ。福山の事務所に「マンションに賠償金を請求するか」と聞いたが、『担当者は不在』とした。

今後、芸能人が「ひとつ屋根の下」に住むにはなかなか難儀しそうな雲行きとなりそうだ。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)?テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論! 蹴論!」のアソシエイト・スタッフ。

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