大阪司法記者クラブ(と加盟社)、そして全マスコミ人に訴える! 報道人である前に人間であれ! 

11月1日、大阪司法記者クラブに鹿砦社代表として記者会見申し込みに訪れた松岡が、申し込みから実質2時間程度で”拒否”された事情は本コラム11月2日でお伝えした。松岡はこの経緯に納得できなかったので、11月2日再度同記者クラブの幹事社である朝日新聞の采澤嘉高(うねざわ・よしたか)記者に電話で尋ねた。

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松岡 鹿砦社松岡と申します。昨夜は失礼しました。昨夜電話いただいた時に打ち合わせ中で聞き取りにくかったこともありまして……。すみません、会見の件なのですけど、聞き違いかもしれませんが「全社一致でやらない」ということになったのですか?
采澤 そうです。
松岡 「全社一致」は加盟社が「全社一致」ということですか。
采澤 そういうことですね。
松岡 加盟社は20数社ほどありますね。
采澤 クラブにいるのは13社なんです。
松岡 13社の方が集まられて、采澤さんが説明されて「やらない」ということになったわけですね。
采澤 そうですね。どの申し入れについてもそうですね。やり方は同じです。
松岡 13社全社集まられた?
采澤 そうですね。たまにいないところもありますけど。いることになっている時間帯に呼び掛けていますので。
松岡 ある社に聞いたのですか、采澤さんが話されて質疑などはなかった。それで資料は詳しくは見ていないとおっしゃっていたのですが。
采澤 それはその方が見ていないだけであって、資料はクラブ内のホワイトボードのところにありますので、見ようと思えば誰でも見られるようになっています。もしその場で資料など見なかったにしても、あとで資料を見て、やはり会見をお願いしたいなということであれば、社によっては言ってくることもありますし、そういう流れですね。
松岡 会見しないことにするのは采澤さんの判断でなされた?
采澤 いえいえ、皆さんで集まってそういうことにしようと。私一人で判断できることではありませんので。
松岡 皆さんのご判断ですね。私としても自分の問題ですのでショックでした。しっかり調べて決めていただきたかったという気持ちはありますね。
采澤 そう思いになるのでしたら各社に個別にアプローチしかないですね。私が幹事社としてできることはもう終わってしまいましたので。どうしても希望されるのであれば各社に聞いていただくしかないとは思いますね。いただいた情報は全部提供してありますし、本も見られる状態にしてありますので。
松岡 ちなみに采澤さんご本人はこれはあまり大したことはないというご認識なんでしょうか?
采澤 いえ、大した問題か大した問題ではないかではなくて。事件1つ1つご本人にとっては大事な問題ですので、大事で大切な問題だと思っていますが「報道するような内容ではない」なと思っただけです。
松岡 例えば本をめくると最初に大学院生がリンチされた写真が出ていると思いますが。
采澤 ありますね。
松岡 あれでも「大したことはない」と。
采澤 「大したことはない」などと私は一言もお話していませんよ。そこははっきりさせておきますけど。「報道する内容ではない」と思ったということです。
松岡 それはどういう意味ですか。僕はあの写真を見て凄くショックだったので、それからこれは助けてやらなければ、思ったんだけど。M君の写真を見て(リンチの場面の録音書き起こしも一部本に収録してありますが)、あれは「報道するほどの問題ではない」というのは理解できないですね。
采澤 だから本を出しているんですね。
松岡 李信恵さんたち。他の裁判をやっている人たちがリンチにも関わっている。李信恵さんは記者会見をやられて、われわれは「報道するほどの問題ではない」と言われると、いかがなものかと思いますね。
采澤 「報道するほどの問題ではない」というか程度を低く見ているのでは一切なくて、「報道するような内容ではない」と思っているだけです。情報として重要とか重要じゃないではなくて、もう「報道するような内容ではない」と思っただけですね。
松岡 そうですか。それは残念なことですね。
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さすが天下の朝日新聞記者である。立て板に水の受け答えは頭脳明晰、瞬時の判断に長けている才を窺わせるが、騙されてはならない。

ヘイトスピーチと称される「言葉」により傷ついた被害者の皆さんは気の毒だ。その点李信恵が複数の提訴に踏み切った判断に取材班は、それ自体には異議もない。であるから「言葉」により傷ついた者が「報道」の目玉になるのであれば、「言葉」に加え複数人による長時間の〈暴力〉にさらされた被害者はより一層心身に傷を負っていることは当然であろう。

けれども、朝日新聞采澤記者はその被害を「報道する内容ではない」と直感し、司法記者クラブに同席する他社の記者も同意している。この判断こそマスコミが”腐った塊”に他ならないことを議論の余地なく示す。松岡が「重大ではないととらえているのか」のかと聞くと「重大ではないなどとは言っていない。重大だろう。だけれども報道する内容ではない」とサラリと言ってのける脊髄反射。ここに修復不可避な致命的論理矛盾があるのだ。

世には「マスコミ論」や「マスコミ批評」といったジャンルの学問分野や雑誌を中心とした「マスコミ・ジャーナリズム」を研究・評論・批判する人々がいる。取材班も折に触れ大手マスコミ批判に言及する。しかし、原則的に考えれば日本では「マスコミ論」、「マスコミ・ジャーナリズム」批評などは所詮そのすべてが意味のないものであることが上記のやり取りの中で凝縮的に明示されている。

マスコミは常に腐っていて、愚民観を内在しながらそれ以上の愚を無自覚に犯し続ける。「権力監視機能」などは幻想であり、一般市民よりも高度な情報や判断力を個々の記者や集合体としての新聞社、テレビ局などが常時蓄えて、それが市民に提供されるなどと考えていたら大いなる誤解だ。

マスコミは口にするのも憚られるような形容詞でしか表現できない”低俗”な娯楽(愚民化に最適な兵器)を主に、「ニュース」や「情報番組」と命名した「断片的で真実には迫らない、誤解を誘導する」情報の散布に熱を上げる。稀に真実に迫るドキュメンタリーなどを放送するが、それは視聴者に対するアリバイ作りと、組織ジャーナリズムの中にごく僅か生息する”普通”の感覚を保持している番組制作者に対する、いっときの「ガス抜き」を与えているにすぎない。優れたドキュメンタリーは、四六時中垂れ流している「娯楽」公害で「愚民化」に余念のない連中の免罪符的意味しか持たない。

われわれはマスメディア研究に重層な歴史的蓄積があることを知っている。知っていて敢えて断ずる。「今日、日本においては、いかなるマスメディア批評も批判も無効である」と。マスメディアは”腐った塊”に他ならず、”腐った塊”は、論を立て、表現を変えあれこれ論評したところで所詮は”腐った塊”でしかないのであり、詩的なノスタルジーや、実現可能性のない「期待」を抱くことなどに寸分の意味もない。

われわれ自身が「無効」と断じている「マスコミ批判」は書きたくないが、やはり言及せざるを得まい。「記者クラブ」は「Tsunami」(津波)、「Karōshi」(過労死)、同様「Kisha club」として国際的に用いられている、日本発の特異文化である。「Kisha club」についての他国研究者の研究論文は多数あるが卑近な例でいえはWikipediaに下記の記述がある

〈Institutions with a kisha club limit their press conferences to the journalists of that club, and membership rules for kisha clubs are restrictive. This limits access by domestic magazines and the foreign media, as well as freelance reporters, to the press conferences.

While similar arrangements exist in all countries, the Japanese form of this type of organization has characteristics unique to Japan, and hence the Japanese term is used in other languages.〉

(取材班訳:記者クラブは所属社以外へは固く門戸を閉ざしている。雑誌、外国メディア、フリーランスは入ることができない。同様の同意事項は他国にもあるが、日本の形態は特異であるので日本語のまま他国でもこの言葉が用いられる)

記者クラブは取材される対象と記者を癒着させ、緊張関係を奪ってしまう機能を果たす。総理官邸で行われる記者会見の様子を読者もご覧になったことがあるだろう。大勢の記者はひたすらパソコンに発言を打ち込む”速度競争”のために両手をキーボードの上で躍らせるだけで、核心を突く質問など出ない。記者クラブは”報道カルテル”と言い換えてもよく、”情報の談合”が行われる場所でもあり、所属すると必然的に記者としての素養が〈堕落〉してゆく役割も担う。末端で堕落した(させられた)記者が動き回る社のトップは定期的に安倍と会食を共にする。マスメディアに「腐るな」というほうが無理なのだ。

そうでない、との反論があるのであれば11月1日、2日に鹿砦社が直面した〈排除〉について整合性を持ち弁明してもらわなければならない。采沢記者の「報道する内容ではない」との即断とそれに全く議論の起こらない大阪司法記者クラブ。不条理ではあるが異常ではない。これが記者クラブマスメディアの真髄、そこに居る記者の誰ひとりとして不条理とは感じない。

そのような人間が集め、加工した情報だけがマスメディアから流布される。賢明な読者諸氏はもうお気づきであろう。ことの深刻さはM君や鹿砦社排除にとどまらない。われわれの日常すべてが、恣意的に加工された情報ばかりに囲まれている。「そんなもんでしょう」と、習い性である異常を微塵も感じず開き直る報道現場の人間たちの弁明には磨きがかかる。彼らが無意識に”愚民観”を隠し味に加え流布する情報に日々低線量被曝のように洗脳される人々。その終着駅にはどんな光景が広がっているだろうか。誰が喜ぶ社会だろうか。右も左もなく「しばき隊」などは情報商品としてつとに消費され尽くし、ごみ箱の中にすら記憶としても残滓はないであろう。

ヘイトスピーチも同様だ。何度繰り返すがわれわれは差別には絶対に反対する。表出する差別は当然反対だが、差別は心の中にも宿る。表出する差別を無理やり抑えれば、より一層陰湿な差別が形を変え弱者を痛めつけのではないか。無責任なマスコミはもう暫くすればヘイトスピーチなどなかったかのように、全く報道しなくなるに違いない。

われわれは「M君リンチ事件」や「鹿砦社排除」を極めて強く注視する。同時にその視線の先には誰しもが無縁ではありえない規格外の破綻が待ち受けていることを予感する。「しばき隊」諸君も含めて。

われわれは、M君のリンチ直後の顔写真を見て、それが「差別」に反対し「人権」を守ると嘯く者ら(李信恵被告ら)によってなされたという冷厳な〈事実〉に対し、人間の感覚を失くし無感覚になった大阪司法記者クラブ(と加盟社)、と共に全マスコミ人に訴えたい! 報道人である前に人間であれ! と。

(鹿砦社特別取材班)

『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)
『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)
『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

《殺人事件秘話05》会津美里町夫婦殺害 裁判員が告発した死刑評議の杜撰

福島県郡山市で暮らす元介護施設職員の60代の女性が、強盗殺人事件の裁判員を務めて急性ストレス障害に陥ったなどとして、国に慰謝料200万円を求める訴訟を福島地裁に起こしたのは2013年5月のこと。この国家賠償請求訴訟は2016年10月に最高裁で女性の敗訴が決まったが、女性がこの訴訟の中で訴えていた重大な事実はほとんど報道されないままだった。

それは、「死刑」という結論を出した裁判員裁判の杜撰な評議の内幕だ。

◆血だらけの首の肉の部分を思い出し……

問題の裁判員裁判は2013年3月、福島地裁郡山支部で行われた。強盗殺人などの罪に問われた被告人の髙橋明彦(48)は、2012年7月に会津美里町の民家に侵入して住人夫婦を殺害し、現金やキャッシュカードを盗んだとして死刑を宣告された。その後、2016年に最高裁で死刑確定している。

国賠訴訟における女性の訴えによると、その裁判員裁判の審理では、血の海に横たわる被害者らの遺体を見せられたり、ナイフで刺された妻が消防署に電話で助けを求める声が再生されたりした。そのせいで女性は急性ストレス障害に陥ったという。

「血だらけの首の肉の部分を思い出し、吐き気がするため、スーパーでは肉売り場を避けて通ります」

「今もフラッシュバックは続き、血の海で家族が首に包丁を突き立てて横たわり死んでいる夢を見ます」

「音楽を聴いていると、音楽の代わりに被害者の断末魔の声がお坊さんの読経と一緒に聞こえてきます」

このように女性が国賠訴訟で訴えた被害は悲惨極まりない。それに加えて女性が訴えていたのが、死刑が選択された裁判員裁判の評議の杜撰な内幕だった。

事件の現場となった会津美里町の集落

◆死刑という結論は最初から決まっていた

「死刑判決を下したことに間違いはなかったのか、反省と後悔と自責の念に押しつぶされそうです」

女性は国賠訴訟に提出した陳述書で、そう訴えた。この陳述書では、たとえば次のような唖然とする話が明かされている。

「評議の多くの時間は、永山基準に沿って行われましたが、永山基準に関する具体的な説明はありませんでした」

永山基準は、最高裁が1983年に永山則夫元死刑囚(1997年に死刑執行。享年48)に対する判決で示した死刑適用の判断基準。動機や犯行態様、殺害被害者数などの9項目を考慮し、やむをえない場合に死刑の選択が許されるとする内容だ。

しかし、普段裁判に関心のない人がそんなことは知らないだろう。本当に永山基準に関する具体的説明もないまま、永山基準に沿って評議がされたのなら、話についていけない裁判員もいたかもしれない。

また、陳述書によると、評議の際に裁判員に渡された用紙に、「1―犯罪の性質」から「9―犯行後の情状」まで永山基準の9項目がプリントされていた。女性はこのうち、「前科」という項目に疑問を抱き、裁判長にこんな質問をしたという。

「被告人には前科がありませんが、削除すべきではないですか」

しかし裁判長は、「前科の有無に関係なく、これだけ残虐なことをしたのだから」と言ったという。女性は陳述書で、この時の気持ちをこう振り返っている。

「裁判長の回答を聞き、この事件の結論は最初から決まっていて、『死刑判決』という軌道の上を裁判員が脱線しないよう誘導しているだけの裁判なのだと確信しました」

それ以降、女性は質問しても無駄と悟り、疑問があっても一切、裁判長に質問しなかったという。

「今考えると、自分の考えは(死刑判決の)どこに反映されたかわからない」

女性は陳述書でそう吐露している。急性ストレス障害と診断した医師からは「殺人現場や遺体に関する記憶は時間が経てば薄れるが、死刑判決を下した自責の念は一生消えない」と告げられたという。

髙橋明彦死刑囚が収容されている仙台拘置所。ここで死刑執行される可能性がある

◆マスメディアは知りながら報道しなかった

さて、この女性が起こした国賠訴訟はテレビや新聞で大きく報道されている。しかし、報道では、女性が被害者の遺体や殺人現場を見せられて急性ストレス障害に陥ったと伝えられた一方で、この国賠訴訟の中で女性が評議の杜撰な内幕をここまで詳細に告発していたことは伝えられてこなかった。それゆえにこの女性の告発を知る人は少ないはずだ。

かくいう私もこの女性の告発を知ったのは、すでに控訴審も終わっていた時期、仙台高裁で訴訟記録を閲覧したことによる。この時に驚いたのは、記録の末尾に綴じられた閲覧の申請書を見ると、テレビや新聞の記者たちがこぞってこの記録を閲覧していたことである。

つまり、テレビや新聞の記者たちは、女性が裁判員裁判で死刑判決が出るまでの杜撰な評議の内幕を告発していることを知りながら、報道を見合わせていたのである。

それはもしかすると、評議の内幕に関しては裁判員に守秘義務があることへの配慮なのかもしれない。しかし、裁判員経験者が評議の内幕を告発した国賠訴訟の記録が裁判所で「閲覧可能」の状態になっているということは、他ならぬ司法当局が裁判員裁判の評議の内幕を公開しているわけである。それを報道して悪いわけがない。

死刑判決が出た裁判員裁判において、評議がこれほど杜撰なものだったということは、むしろ報道しないほうが問題だと私は思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

7日発売『紙の爆弾』12月号 選挙制度・原発被災者救済・米軍基地問題…総選挙で抜け落ちた重要な論点
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

鹿砦社の記者会見申し込みを大阪司法記者クラブが全社一致で拒否

李信恵によるツイッター上での度重なる、誹謗中傷を受け、鹿砦社はやむなく大阪地裁に李信恵を相手取り、名誉毀損損害賠償の提訴を行った(第13民事部合議2係、事件番号=平成29年(ワ)第9470号)。

そして11月1日午後、大阪司法記者クラブ(大阪高等裁判所の代表番号06-6363-1281から内線でつながる)に同訴訟の第一回期日である11月9日閉廷後に記者会見を行いたい旨申し入れるため、社長松岡が以下の「会見申込書」を持参し同記者クラブへ赴いた。

(取材班注:文章中の空欄はM君の本名)

松岡は持参した「会見申込書」のほか、記者の参考にしてもらうため、これまで出版した関連書籍や訴状、李信恵の書き込みなどの資料を持参した。裁判所の記者クラブ室に入ると、入り口近くに女性が座っていた。

松岡 「記者会見の申し込みをしたいのです」
女性 「失礼ですがどちら様でいらっしゃいますか」
松岡 「鹿砦社と申します」
女性 「少しお待ちください。幹事社の朝日新聞を呼んでまいります」

その後に現れたのが幹事社、朝日新聞の采澤嘉高(うねざわよしたか)記者であった。

松岡 「申し入れ書を書いてきました」
采澤 「どんな内容なんですか?」
松岡 「私が裁判を起こしました。来週9日が第一回の弁論です」
采澤 「あ、あーはい、はい、はい、はい李信恵さんに対して」
松岡 「あまりにも罵詈雑言がひどいもので訴訟を起こしたので、第一回の弁論のあとで記者会見を開かせていただきたいと思っているんです」
采澤 「わかりました」
松岡 「一通り訴状や資料を揃えてきましたので、参考にしていただいて、是非とも前向きにご検討いただきたいと思います」
采澤 結構大量ですか、それ、資料は?
松岡 大量と言えば大量です
采澤 「書籍があるわけですね」
松岡 「書籍が3冊と訴状などですね」
采澤 「本はどうすればいいんですか?」
松岡 「本は差し上げます。提訴に至るまでの『デジタル鹿砦社通信』という毎日ネットで更新している記事ですが、これも読んでいただければだいたいお分かりいただけると思います」
采澤 「ちょっと一瞬これ読んでいいですか?」
松岡 「どうぞどうぞ」
采澤 「基本的には全社に諮って会見をお願するか否かを決めるという形になります。その結果をお伝えしますので」
松岡 「そうですね。公平に判断して頂ければと思います。資料に目を通していただければ内容はおわかりになると思います」
采澤 「これは提訴されて第一回が9日と。原告は松岡さんご本人ですか?」
松岡 「株式会社鹿砦社です」
采澤 「会社としてですね」
采澤 「内容としては李信恵さんが……名誉毀損ですか?」
松岡 「はい、そうですね」
采澤 「請求原因としてはどの部分なんですか?ツイッター上ですか?」
松岡 「ツイッター上ですね」
采澤 「『クソですね』と発言した部分ですね。そもそも何に対してこの発言だったんですか?」
松岡 「知りませんねそれは。それはご本人に聞いてください」
采澤 「どういう書籍を出されているんですか?『反暴力と暴力の連鎖』ほー」
松岡 「このリンチ事件に関しては3冊出していますね」
采澤 「わかりました。じゃあこちらの携帯にお電話すればいいですか?」
松岡 「そうですね携帯にお願いします」
采澤 「会見する場合はお越しになるのは松岡さんお一人?」
松岡 「この日だったら弁護士も来ると思います」
采澤 「わかりました。じゃあ返事するようにいたしますのでよろしくお願いいたします」

采澤記者は「なるほど、なるほど、ツイッターで誹謗中傷されたんですね? 原告は松岡さんで?」などと一見真摯に受け止めるような態度を示したが、M君も同様に申し込み時には前向きそうな応酬を行いながら、4回も蹴飛ばされているのだ。全く楽観はしなかった。采澤記者は松岡の「携帯に連絡します」といい、申し入れは終了したが、持参した資料は初めて目にする人であれば数時間は要する分量だった。

松岡が大阪司法記者クラブを訪問したのは15時10分前後だ。それから2時間ほど17時過ぎに松岡の携帯電話に采澤記者からの着信記録があった。その時間松岡は仕事の打ち合わせのため、大阪市内において会議中で携帯電話を鞄に入れたままでいたが、19時過ぎに再び采澤記者から松岡の携帯電話に連絡が入る。

「全社一致で記者会見は開かないことになりました」と采澤記者は言い放った。「社会的に(被害者として)注目を浴びている人が加害者になっている事件は報道の対象にならないのですか?」と問うた松岡に、采澤記者は「記者会見を開かない理由は言えません」と答えた。

おかしい。

松岡が大阪司法記者クラブを訪れたのは前述の通り15時10分頃で、『ヘイトと暴力の連鎖』、『反差別と暴力の正体』、『人権と暴力の深層』のほかに資料も持参している。采澤記者が「結構大量ですか?」と聞いた通り1、2時間で読破できる量ではない。

「全社一致で」と采澤記者は告げてきたが、大阪司法記者クラブのある大阪地裁・高裁では連日17時まで公判が行われている。記者クラブに所属している報道機関の全記者が2時間ほどのあいだに持参した書籍や、資料すべてに目を通すことはありえない。否ほとんどの記者は一瞥しただけで資料に目など通してはいないのだろう。

「M君リンチ事件」あるいは「鹿砦社」の名前だけを理由に「記者会見拒否」を「全社一致」で決定したとしか考えるほかない。記者クラブ詰めの記者たちは、誰一人として松岡が持参した資料の詳細を読むことなく「全社一致」で「会見拒否」を決定した。

11月16日、M君が野間を訴えた名誉毀損、損害賠償請求訴訟の高裁判決が言い渡される。偶然にも同日同日李信恵が「保守速報」を提訴した地裁判決も言い渡される。M君は既に「記者会見拒否」を大阪司法記者クラブから言い渡されている。

李信恵の扱いはどうするのであろうか。

万が一M君と鹿砦社を「排除」して、李信恵の記者会見が開かれれば、取材班は大阪司法記者クラブにも照準を合わせねばならない。極めて恣意的な不平等=差別を取材班は座視することはできないからだ。これまでM君に応対してきた記者の中には「事件には社会的関心が薄い」と発言した者がいたが、マスコミが報道しないから社会的関心が喚起されないのではないか!

大阪司法記者クラブ所属各社の記者諸君に伝える。本日鹿砦社は「全社一致」での「記者会見拒否」を言い渡された。間違いはないであろうか?もし「意に反して」の「「全社一致」であれば鹿砦社まで内々にご連絡頂きたい。情報の秘匿は確約する。

そうでなければ、われわれは新たな「言論戦」を大阪司法記者クラブに対しても正面から展開せざるを得まい。

(鹿砦社特別取材班)

『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)
『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)
『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)

《殺人現場探訪13》光市母子殺害事件 空地となった社宅跡地と事件の風化

どんな大事件も時が過ぎれば、人々の記憶から消え去っていく。ここで取り上げる光市母子殺害事件も例外ではない。私が2015年に事件現場を訪ねたところ、被害者一家と加害者が暮らしていた社宅アパートは取り壊され、跡地は広大な空き地となっていた。周辺の住民たちに話を聞いても、事件は着々と風化している様子がうかがえた。

◆ 現場の社宅があった場所は広大な空き地に

事件が起きたのは、今から18年以上前に遡る。1999年4月のある日、山口県光市にある新日鉄(現在は新日鉄住金)の社宅アパートの本村洋さん宅で、妻の弥生さん(当時23)と生後11カ月の長女・夕夏ちゃんが殺害されているのを、会社から帰宅した本村さんが発見。ほどなく逮捕された犯人の福田(現在の姓は大月)孝行は、被害者一家と同じ社宅アパートで暮らしていた当時まだ18歳1カ月の少年だった。

福田はその後、成人同様に刑事裁判を受けたが、まだ赤ん坊の夕夏ちゃんまで殺害し、弥生さんを殺害後に死姦しているなど犯行内容は凄まじく、裁判では死刑適用の可否が争点になった。結果、福田は2012年2月に最高裁に上告を棄却されて死刑が確定したが、裁判中も「死姦は死者復活の儀式だった」と証言するなど特異な言動を見せ、メディアも凄絶な報道合戦を繰り広げたものだった。

私がこの事件の現場を訪ねたのは、福田の死刑が確定してから約3年の月日が流れた2015年2月のことだ。この時、すでに現場の社宅アパートの建物は大半が取り壊され、広大な空き地になっていた。「管理地」と書かれた不動産会社の大きな看板が立てられていたが、雑草が伸び放題で、きちんと管理されているようには思えなかった。

事件現場の社宅アパートは取り壊され、広大な空き地になっていた

◆ 「今のこの町はゴーストタウン」

現場跡地の通り向かいの家の住人女性はため息まじりに話した。

「社宅は老朽化したために取り壊したそうですが、風の強い日には、伸び放題の草木の種などが飛んでくるんで、迷惑なんですよ」

一方、近所で書店を営む男性はこう語った。

「社宅があった当時は本村さんがよく花を手向けに来ていたけど、最近は見かけないね。現場のアパートがなくなり、花を手向けようにも手向ける場所がないんだけどね」

愛する妻と娘の生命を奪われた本村さんは福田の裁判中、メディアを通じて再三、死刑を望む気持ちを訴えていた。しかし、現在は再婚し、新たな家庭を築いていると伝えられている。別の町で幸せに暮らしているのだろう。

福田は弥生さんと夕夏ちゃんを殺害後、盗んだ金を使ってゲームセンターで遊んでいたとされるが、その店も今は取り壊されて存在しない。福田は裁判において、弥生さんや夕夏ちゃんに対する殺意を否定しており、現在もその主張を維持して広島高裁に再審請求中だが、事件は現在ほとんど報じられることもなく、着実に風化している印象だ。

現場界隈の店舗はほとんど閉店しており、町全体もうら寂しい雰囲気だ。前出の書店を営む男性は「事件の時は多くのマスコミが取材に来たけど、今のこの町はゴーストタウンだね」とつぶやくように言ったが、町が廃れゆくと共に世間の人々も事件のことを忘れ去っていくのだろう。男性と話しながら、私はふとそう思った。

町はうら寂しい雰囲気。地元の男性は「ゴーストタウン」と言った

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

長年書き綴った『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』が完成! 渾身の〈政治的遺書〉! 鹿砦社代表 松岡利康

しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま

私たちは1970年に京都の大学に入りました。私は同志社大学、もうひとりの編著者・垣沼真一さんは京都大学—–もう50年近くも前の話です。昔話といえば昔話です。燎原の火の如く燃えた70年安保闘争、学園闘争の火は鎮火しつつあったとはいえ、まだくすぶっていた時期でした。特に京都では同大・京大を中心に意気軒昂でした。まだ沖縄が「返還」されていない時期で、沖縄(返還協定調印‐批准)─ 三里塚(成田空港反対闘争。第一次‐二次強制収用)─ 学費値上げ問題などが沸騰し、私たちも精一杯闘いました。

しかし、その後、叛乱の季節は収束し、連合赤軍の銃撃戦‐リンチ殺人、内ゲバなどで暗い時代に向かっていきます。私たちも、大学を離れ生活に追われ、背負った問題に呻吟しつつ生きてきました。そうして、齢を重ね60代後半に入りました。

このかん、私たちは、かつて背負った問題を整理し書き綴っていくことにしました。数年かけて書き綴りました。私たちなりの覚悟で<知られざる真実>も明かし、偽造された歴史に小さいながらも楔を打ったつもりです。

こうした私たちの意気込みに、尊敬する大先輩の矢谷暢一郎さん(元同志社大学学友会委員長、現ニューヨーク州立大学教授)が海の向うから玉稿を寄せてくれました。

A5判、2段組で300ページの堂々たる分厚い本になりました。ここには、私たちが若かった頃に培い、そして闘い、しかし挫折し背負ってきた<負債>が書き綴られています。どうかご一読され、時代は端境期、当時の<空気>を感じ取ってください。

本書第二章の「創作 夕陽の部隊」という短編小説で、私の当時の先輩のS・Kさんは、
「俺は、虚構を重ねることは許されない偽善だといったんだ、だってそうだろう、革命を戯画化することはできるが、戯画によって革命はできないからな」
と、当時の情況に対し本質を衝いた表現をしています。

60代も後半となり年老いた私たちは、気力、体力も衰え、再びこのような本を作ることはできないでしょう。私たちの最後の<政治的遺書>といってもいいくらいです。ぜひご購読お願いいたします。
  

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』※表紙画像をクリックすればAmazonに飛びます。

遙かなる一九七〇年代‐京都
学生運動解体期の物語と記憶

松岡利康/垣沼真一[編著]
A5判/300ページ/カバー装
定価:本体2800円+税  11月4日発売!
本書は、学生運動解体期の一九七〇年代前半を京都(同志社大学/京都大学)で過ごし
潰滅的に闘った者による渾身の〈政治的遺書〉である。
簒奪者らによる歴史の偽造に抗し、
学生運動解体期=一九七〇年代 ─ 京都の物語と記憶をよみがえらせ
〈知られざる真実〉を書き残す!
[構成]
[特別寄稿]『遙かなる一九七〇年代-京都』の出版にあたって
矢谷暢一郎
第一章 遙かなる一九七〇年代-京都
松岡利康
第二章 [創作]夕陽の部隊
橋田淳
第三章 われわれの内なる〈一九七〇年代〉 甲子園村だより
松岡利康
第四章 七〇年代初頭の京大学生運動--出来事と解釈
熊野寮に抱かれて 
垣沼真一

【おことわり】取次会社などに出荷し、手持ち在庫がなくなりましたので小社へのご注文はお受けできなくなりました。Amazonへご注文をお願いいたします。

ところで、本書は、11月12日(日)に行われる同志社大学学友会倶楽部主催・芝田勝茂さん講演会に間に合わせることを私なりの義務感として刊行を目指しました。もともと本書は数年前から準備してきましたが、芝田さんとの再会が俄然モチベーションをアップさせました。本書には、芝田さんとの学生時代の日々、そして以降40数年のお互いの苦闘が底流になっています。なぜか? その〝回答〟は本書を紐解いていただければ分かるでしょう。人間、こうした具体的な目標なくしては力が入らないようです。3年前の同倶楽部の講演会に上記の矢谷暢一郎さんをアメリカから招きましたが、ここでも何とか矢谷さんの著書の刊行を間に合わせました。本が完成し京都に届いたのは前日でした。

講演会の内容は別掲の通りです。入場は無料、参加者先着100名様に芝田さんの単行本未収録3篇を収めた小冊子を贈呈いたします。関西近郊の方はぜひご参集ください。

11月12日(日)芝田勝茂さん講演会(同志社大学学友会倶楽部主催)
芝田勝茂さん 略歴と著書

アウンサンスーチーの民主暴政 ── イスラム教徒ロヒンギャを暴虐する仏教社会


◎[参考動画]Rohingya’s Exodus: A special report on Myanmar(Sky News2017年9月13日公開)

10月3日AFP通信は以下のようにビルマにおけるロヒンギャへの国連の視察の様子を伝えた。

〈国連(UN)は2日、ミャンマー政府の招きでイスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)への迫害が問題となっている西部ラカイン(Rakhine)州を視察し、同州におけるロヒンギャの住民の被害は「想像を絶する」と指摘した。 

ラカイン州では8月末、ロヒンギャの武装集団が警察施設を襲撃したことを機に軍が軍事作戦を強化。約50万人ものロヒンギャの住民が隣国バングラデシュに逃れる事態となっている。国民の間で国連や国際NGOはロヒンギャ寄りだと反発が強まるなか、政府はこれまで州内への外国人の立ち入りを厳しく規制してきた。 

外交官や国際NGO職員らを対象に政府が実施した今回の視察ツアーは、国連とミャンマー政府との関係改善を示すものとなった。国連からも3人が参加した。

国連は声明で今回の視察を「前向きな一歩」と評価する一方、「より広範囲に人道支援を行き渡らせることが必要だ」と強調。「人的な被害の規模は想像を絶する」と述べ、「暴力の連鎖」を終わらせるよう求めている。〉(ロヒンギャの被害「想像絶する」 国連、ミャンマー政府の招きで視察)

ビルマの長年にわたる困難、民族問題が最悪に近い形で推移している。近代におけるビルマ政権の成立は、英国の植民地としてのビルマを第二次大戦中に日本軍の「南機関」によって軍事訓練を受けたアウンサン将軍らがバーモウを大統領に就任させ1943年「ビルマ国」の独立を宣言する。しかし「ビルマ国」は満州同様、完全に日本の傀儡政権であったため、日本の敗戦を機にクーデタにより崩壊。現在「ミャンマー」と称している「ビルマ」の建国は1948年とされている。

その建国の父、国民的英雄の娘にして1988年以来軍事政権の弾圧下に置かれていたアウンサンスーチーがビルマの実権を握ったのが2016年3月だった。前年に行われた民政移管後初の選挙でアウンサンスーチーが所属するNLD(国民民主連盟)は8割を超える議席を獲得し圧勝。軍政時代に改正された憲法による規定で大統領には就任できないとの規定から、アウンサンスーチーは「国家顧問」、「外相」、「大統領府大臣」を兼任し、大統領にはティンチョーが就任した。

◆ビルマ軍事政権の民政移管と中国の脅威

アウンサンスーチーの名は国際的に広く知られているが、ティンチョーと聞いて顔が思い浮かぶ読者はどのくらいいるだろうか。現在ビルマ政権は実質的にアウンサンスーチー政権で、ティンチョーは飾り物と言っても過言ではない。20年以上にわたり弾圧を受けてきたNLDであるが、その間に海外に亡命した支持者の間では政治方針をめぐりかなりの論争が巻き起こっていた。NLD海外支部が実質分裂した地域も少なくない。日本に滞在して穏やかに活動していたNLDのメンバーからも、当時深刻な路線問題を聞かされた。

軍事政権が民政移管を決断した理由はいくつもあるが、主として欧米諸国からの経済制裁により、経済の疲弊が著しかったことが挙げられる。1980-90年代には欧米を尻目に、軍事政権に対して突出した援助を行い、ビルマ人からは陰で「犬」と陰口をたたかれ、軽蔑されていた日本は、その後あっという間に中国にその位置をかっさらわれる。中国はビルマに急接近し、多大な経済援助と投資で影響力を高めていった。ビルマ軍事政権にとって中国の影響力の過大な膨張も脅威と受け取られるようになった。

◆軍事政権顔負けの少数民族弾圧を行うアウンサンスーチー

ともかく2016年からアウンサンスーチー民主政権に移行したはずであったが、軍事政権下時代にも顔負けの少数民族への弾圧をアウンサンスーチーは行っている。ビルマにとって民族問題は極めて深刻だ。ビルマ在住の民族は単純に数だけでも100とも130ともいわれる。カレン、シャン、ワ、コーカンなどとは近年も政府軍との武力衝突が起きている。そして仏教徒であるビルマ族によるイスラム教徒ロヒンギャへの襲撃はAFPが伝える通り、隣国バングラディシュに50万人の難民が逃げ出すまで、事態は深刻化している。

ロヒンギャが民族的な集団をさす呼称なのか、宗教文化的な集団を称するものなのかの議論があるが、この地域でロヒンギャ語を使い、イスラム教を信仰している人びとであることは間違いない。そしてロヒンギャと仏教徒衝突、弾圧の歴史は18世紀にまでさかのぼる。根深いと言えば根深い対立と差別に置かれたのがロヒンギャである。


◎[参考動画]Myanmar: Soldiers kill at least four in hunt for border attackers(Al Jazeera English2016年10月12日公開)

◆「人びとの夢」を実現する社会の答えがロヒンギャ「暴虐」だったのか?

100を超える民族が混在する国の行政運営が困難を極めるであろうことは、容易に想像できる。1990年代アウンサンスーチーが自宅軟禁状態で、国際社会から軍事政権に批判が集中していた1998年に私は自宅軟禁中のアウンサンスーチーにインタビューをした。あの時彼女は撮影用のビデオカメラを止め、インタビュー収録が終わったあと、雑談の中で「私の仕事は、人びとの夢を実現することです」とさわやかに語ってくれた。

「人びとの夢」の人びとはビルマ族だけに向けられていたのか? 20年間軍事政権の弾圧で苦しんだあなたの仲間には獄中死や銃殺された人が無数にいることを忘れたか? ユダヤ人のように第二次大戦中に受けた地獄をパレスチナで同様に展開する愚を平然と犯すのか?

アウンサンスーチー、軟禁解除後の初来日は日本財団の招きによるものだった。会場の一聴衆として彼女の話を聞くことは可能だったけれども、足が向かなかった。この来日では安倍晋三や多数の経済人と面談している。

私は過剰な指導力や幻想を抱いているのではない。あなたが主張していた「民族融和」といま行っていることは丸切り逆ではないのか。民族問題の全面解決などとの無茶を期待しはしない。にしてもロヒンギャへの「暴虐」はひどすぎないか。

気のせいだろうか、あなたの目つきは2015年からどんどん濁ってきているように見える。


◎[参考動画]Rohingya crisis, explained(India Today2017年9月13日公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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私の内なるタイとムエタイ〈13〉タイで三日坊主Part.5 願い参りは修行の一環

黄衣で後楽園ホールへ。異次元の雰囲気(1994年6月27日)

◆アナンさんに相談から!

前年の11月(1993年、藤川さんが再出家した翌月)、私がタイでお世話になっているゲオサムリットジムのアナン会長は、日本の興行に招聘観戦され来日、数日の滞在の後、私と京成線に乗って成田空港へ見送る電車の中で、「俺、タイで出家してみようかと思うんだけど、どう思う?」と相談したことがありました。

アナンさんは「オオ、それはぜひやった方がいい。タイでは社会人として凄く意義あることだ。スラータニーのいい寺紹介するぞ!」といきなりの乗り気。

「いやいや、アナンの家の近くのM&Kやってた藤川のオッサンがペッブリーで再出家したんだけど、そこに誘われているんで行き先は決まっているんだけど」と言うと「藤川ってあの飯屋の? わかった、必ず得度式には出るからその時は言ってくれ」。

応援してくれる仲間が居ることは心強いものでした。

中央線に乗る藤川さん(1994年6月27日)

◆撮る側が撮られる側へ

そして翌年(1994年)3月に寺を見た後の帰国後、もうひとり相談したい人がいました。仕事で知り合い、タイが好きなことから一緒にタイ料理を食べに東京近郊のタイ料理店を何店も回っていた仲であったボクシング雑誌、ワールドボクシングの春原俊樹記者でした。

5月頃、都内も飽きてちょっと郊外の西武新宿線・久米川駅近くにあるタイ料理店に行ったときのことでした。

「俺、タイで出家してみようと思うんですけど、どう思います?」と言うと、春原さんは急に目をランランと輝かせ、「ウン、それはいい、やってやって、俺が得度式の写真撮るから!」。

私は、「実はそれをお願いしようと思ってたところで、撮って貰えますか?他に頼める人はいなくて、撮影が出来る人は春原さんぐらいしかいないのです。」と言うともう乗り気満々。業界仲間で、ある程度タイを知り、撮るコツが分かる人はこの人しかいませんでした。

そこで春原さんは、「よし、それを本にしよう」と言いだし、「ちょっとやめてくれ」と思える早過ぎの展開。

「無理です。今まで何でも三日坊主だった俺で、寺に居るだけので平凡な日々になります」と言っても、「何とかなる、日々細かく日記付けるだけで話題は溜まるし、タイトルはよし、“タイで三日坊主!”にしよう。二日で終わっても三ヶ月続いても“三日坊主”でいい」。

さすが雑誌を作る側の物書きは発想の展開が早い。

私 「来月、先輩僧の藤川さんが日本に来るんですけど、お会いになられますか?」
春原さん 「もちろん会わせてくれ、これで決まりだな。俺はせっかく行くんだからタイの世界チャンピオン取材も兼ねるようにする」
私 「それで、静かに誰にも知られずに出家したいので、誰にも言わないで欲しいんですけど」
春原さん 「えっ、それは無理だな、タイで動くにはどうしても青島律(ムエタイ関係コーディネーター)さんに頼らなければならないし、勝手に別行動なんかしたら、“何か変だぞ”と思われるよ……」

ここは妥協するしかなく、まずは得度式のカメラマンの確保完了。春原さんは「仕事は月の上旬が忙しいからそれを避けてくれ」と言うことから、ほぼ10月下旬の出家を予定しました。

総武線で電車を待つ。駅でこんな姿を見たら、異様な雰囲気でも、タイ人が寄って来て、ひざまずいてワイをし、お布施をする(1994年6月27日)

◆望みどおりいかぬ極秘の出家

6月下旬、藤川さんが予想どおり、安さ優先で選んだバングラデッシュ航空の早朝着でやって来ました。その朝早くに成田空港まで迎えに行くと、藤川さんより年輩の町田さんという知り合いの方が、タイから別便で先に到着し、藤川さんを待っておられた様子。

「何だ、俺来なくてもいいんじゃねえの」と思いながら成田空港で“3人”で朝食を摂り、一緒に池袋までリムジンバスで移動。

そのバスの中で藤川さんが、先日、タムケーウ寺に藤川さんを訪ねて町田さんが3人連れでやってきたときのことを話し出しました。

「その一人は堀田さんも知ってる若い女性やが、誰やと思う?? 教えねーよ! ヘッヘッヘッヘ!!」

その女性は、「先日も堀田さんと会ったらしいけど、“出家することは何も言ってくれなかった”と怒ってたぞ!」と脅かす藤川さん。

「ワシが“堀田さんが出家するときは責任持って連絡するから”と言っておいたぞ!!」と全く余計なことを……。

藤川さんは調子に乗って「コラッ、女たらし、あまり罪を作るなよ、出家しても救われないぞ。ワッハッハッハ!」と高笑い。

「リムジンバスだぞ、静かにしろ!」とイラつく私。

この女性、そんな滅多に会わないタイでの狭いムエタイ業界日本人関連のカメラマンであり、青島律さんとも知り合いでした。また一人、日本人に知られてしまっていた……すでに数日前に!

池袋周辺散策後、私は午後から仕事もあるので、その後は町田さんにお任せしてお先に失礼しました。

町田さんと都内を歩く藤川さん。奇妙なものを見るかのような周囲の視線など気にしない黄衣の藤川さん(1994年6月24日)

◆修行の前哨戦

日を改めて3日後の朝、宿泊している巣鴨のアジア文化会館へ、コンビニで買った朝食用おにぎり、サンドイッチを持って藤川さんを訪ねました。タイのテーラワーダ仏教の比丘が、一般のホテルに泊まることは戒律上難しいところがあります。止むを得ない場合は仕方ありませんが、極力質素な宿を選ばなくてはいけません。そんな条件で選んだのが、泰日経済技術振興協会関連のアジア文化会館ドーミトリーだったようです。

「お前の知り合いでタイ関係やタイに関心がある者に会わせてくれ、これからムエタイ修行に向かう選手でもいい」これが藤川さんの手紙で要求されていたお願い。
私は「立嶋篤史に会いに行きますか?」と言うと、藤川さんは、「おう、そうやそうや、そうしよう。もう一遍会ってみたかったんや」で決定。

その前に行っておきましょう、後楽園ホールへ。平日の昼だったので、何も催し物はありません。後楽園ホール5階は事務所は開いていますが、この階の他のフロアーは誰もいませんでした。

事務員を見つけたとことで「ちょっとホールを覗かせてくれませんか。こちらタイのお坊さんなのですが、おそらくもう二度と来れないのでちょっとだけ見てすぐ帰りますから。」と言うと、「真っ暗だけどいい?」覗くだけならと了解してくださり、入り口のロビー正面の右側客席階段を上がったところで会場内を見渡しました。リングは設置してあり、廊下側の蛍光灯照明が入り込むので、会場内は見渡せました。

「あの赤コーナーが立嶋が立つ位置ですよ」と言うと藤川さんは、「そうか、篤史もこんなところでドツキ合いしとるんか…!」その場に立っていたのは、ほんの1分ほど。迷惑にならぬよう早々に後楽園ホール事務所で御礼を言って後にしました。いろいろな因果応報が始まったこの聖地に、藤川さんも立ってみて欲しかっただけの私のわがままでした。

夕方にかけ京成八千代台駅から徒歩10分(当時)の習志野ジムへ向かいました。「ここでアナンさんに会わなければ藤川さんとも会うこと無かったろうになあ」と思いながら、並んで歩く藤川さんが鬱陶しくも思えた遠い道程。

これからアッシーと会い、もうしばらく鬱陶しいこのオッサンと東京近郊を歩くことになります。お願い参りはなかなか面倒な修行の前哨戦。すべて藤川さんの思惑どおり、カモとなっている私でした。

後楽園ホール。藤川さんが立った位置(撮影は2017年9月24日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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本物だけが生き残る ── スターを揃える新日本キックボクシングの今後

「どんな技でも、どんな相手でも倒せる試合を見せる」と宣言する江幡塁。いつもアグレッシブな展開を見せる江幡ツインズは、パンチや蹴りが強いだけでなく、ブロックし難いタイミングで打つフェイントとスピードが勝機に結び付けています。

江幡塁vsペットサミン(3R)。江幡塁の強い左ハイキックが炸裂
江幡塁vsペットサミン(5R)。ブロックし難いスピードとタイミングで江幡塁の右ハイキックが炸裂

ペットサミンは強打者という情報で、初回から打ち合いにくる可能性があったところ、互いが警戒し、すぐのパンチの距離にはならなかった両者。ローキック、ハイキック、左フックを時折強く繰り出す江幡塁、これらがどんな技でも倒せるという技のひとつであり、あとはタイミング次第で倒せそうな威力は充分。4ラウンドに入ってペットサミンが左ストレートで前進、被弾した江幡塁はやや後退はあったものの立て直しは速く、ラストラウンドはハイキックできたペットサミンをかわして左フックのフルスイングがクリーンヒットしてペットサミンを沈め、ほぼノーカウントでレフェリーがストップするノックアウトでWKBA世界スーパーバンタム級王座2度目の防衛成功。

江幡塁vsペットサミン(5R)。KOとなった江幡塁の強烈な左フック
江幡塁vsペットサミン(5R)。KOの左フックをフルスイング

石原將伍vs高橋亨汰戦は、序盤で高橋の前蹴りが石原のアゴを捉え仰け反らせる攻勢はあったが、しだいに石原のパンチの攻勢が強まる。第2ラウンド終了に近づく中、石原の右ストレートがクリーンヒットし、高橋がダウン。第3ラウンドに入っても石原の攻勢が続き、パンチで3度のダウンを奪ってKO勝利。石原將伍は第10代日本フェザー級チャンピオンとなる。

高橋亨汰vs石原將伍(3R)。2度目のダウンに繋がった石原將伍の右ストレート

緑川創vsポーンパノム戦は、緑川がローキック主体に出方を窺い、徐々に圧力を強める。ボディブローも強烈にローキックも続け、第3ラウンドには一発蹴った右ローキックでポーンパノムは崩れ苦痛の表情で立ち上がれず。緑川は8月の「KNOCK OUT」興行での宮越宗一郎(拳粋会)に判定で敗れて以来の再起戦を勝利で飾る。

緑川創vsポーンパノム。緑川創の重い左ボディブローがヒット

重森陽太vs森下翔陸戦は、第1ラウンドに重森が左ミドルキックでボディに炸裂させ、ダウンを奪う。重森は、しなる蹴りがいつもより少ない印象。決定打が欠いたまま判定へもつれ込むも2点差を開く安定勝利。

森下翔陸vs重森陽太。重森のしなるハイキックが脅威となる

HIROYUKIvs地花デビッド戦は、中盤までHIROYUKIが蹴り中心に主導権を握った展開から第4ラウンドに知花がボディブローでHIROYUKIからダウンを奪う。続行後も立て直せず劣勢の中、左ヒジ打ちを貰ってダウン。立ち上がるも10カウントを許してしまう。たまにやってしまうHIROYUKIの失態、今後に課題が残る一戦。

HIROYUKIにボディブローでダウンを奪った知花デビッド

喜多村誠vsペッダム戦は、喜多村の蹴りのスピードが優り、第3ラウンドに左右フックからアッパーが強烈に入ったあとの追撃連打でペッダムを倒す。

ペッダムvs喜多村誠。重量級パワーで圧勝した喜多村誠のハイキック

内田雅之vs春樹戦は、春樹が2.37kgオーバーで2点減点の制裁を受ける。しかし試合は第1ラウンド途中に偶然のバッティングで内田が試合続行不可能となり、負傷判定が採用され、互角の展開ながら春樹の減点があり、ジャッジ三者とも10-8で内田雅之の負傷判定勝利となる。

泰史vsスターボーン戦は、先月に続き、泰史が積極果敢に攻める攻勢で左ボディブローで仕留める圧勝。日本フライ級王座奪還目指し、ひたすら攻め続ける勢いが好印象を持たれます。

◎MAGNUM.45 / 2017年10月22日(日)後楽園ホール17:00~20:55
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会

高橋亨汰vs石原將伍(2R)。最初のダウンを奪った石原將伍の右ストレート
石原將伍の表彰時、八木沼会長も涙を見せた。

◆メインイベント WKBA世界スーパーバンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.江幡塁(伊原/55.34kg)
VS
挑戦者5位.ペットサミン・サックピンヨー(タイ/54.6kg)
勝者:江幡塁 / TKO 5R 0:47 / 主審:仲俊光

◆日本フェザー級王座決定戦 5回戦

1位.石原將伍(ビクトリー/57.15kg)vs2位.高橋亨汰(伊原/57.15kg)
勝者:石原將伍 / KO 3R 2:59 / 3ノックダウン / 主審:椎名利一

ポーンパノムvs緑川創。緑川の右ストレートがヒット
ポーンパノムvs緑川創。フィニッシュとなった右ローキック、ダメージがあった上での決定打となりました
ポーンパノムvs緑川創。崩れ落ちたポーンパノム苦痛に歪む表情

◆70.0kg契約 5回戦

緑川創(前・日本ウェルター級C/藤本/70.0kg)
      VS
ポーンパノム・ペットプームムエタイ(タイ/69.1kg)
勝者:緑川創 / KO 3R 1:29 / 10カウント / 主審:桜井一秀

◆59.0kg契約3回戦

重森陽太(前・日本フェザー級C/伊原稲城/58.8kg)
VS
森下翔陸(TOP RUN-55kg級C/CRAZY WOLF/58.0kg)
勝者:重森陽太 / 判定3-0 / 主審:宮沢誠
副審:椎名30-28. 仲30-27. 桜井29-27

◆55.0kg契約 5回戦

日本バンタム級チャンピオン.HIROYUKI(=茂木宏幸/藤本/55.0kg)
       VS
WMC日本バンタム級チャンピオン.知花デビット(エイワスポーツ/54.9kg)
勝者:知花デビット / KO 4R 3:00 / 10カウント / 主審:椎名利一

◆70.0kg契約3回戦

喜多村誠(前・日本ミドル級C/伊原新潟/69.6kg)
      VS
ペッダム・トー・パラーン32(タイ/67.7kg)
勝者:喜多村誠 / KO 3R 1:31 / カウント中のタオル投入による棄権
主審:桜井一秀

◆ライト級3回戦

内田雅之(元・日本フェザー級C/藤本/60.9kg)
    VS
日本ライト級3位.春樹(横須賀太賀/63.8→63.6kg=減点2)

勝者:内田雅之/ 負傷判定3-0 / TD 1R 1:35 / 偶然のバッティングによる内田の負傷/
主審:宮沢誠
副審:椎名、桜井、仲、三者とも10-8

◆51.5kg契約3回戦

泰史(前・日本フライ級C/伊原/51.5kg)
     VS
スターボーン・トー・シリトゥーム(タイ/51.15kg)
勝者:泰史 / KO 1R 1:03 / 10カウント / 主審:仲俊光

他、前座4試合は割愛します。

《取材戦記》

内田雅之vs春樹戦は、試合が前半を超えない第1ラウンド途中での負傷ストップ。プロボクシングでは“負傷引分け”となりますが、キックボクシングでは曖昧な裁定が多く、安易に無効試合になるよりはいい裁定となりました。内田は勝者コールは受けざるを得ないですが、納得いかない結末に早々にリングを降りて行きました。

HIROYUKIは好不調の並が大きく、今回はバンタム級超えの契約ウェイトで収まっており、王座剥奪はありませんが、ボディブローで崩れ落ちるのは残念な姿でした。逆に知花デビッドの強さが光った一戦となりました。

江幡塁はこの日の防衛戦をKOで2度目の防衛成功。12月10日の「KNOCK OUT」出場へ繋ぎ、新日本キックからは、勝次(藤本)と重森陽太(伊原稲城)とともに出場。江幡塁は宮元啓介(橋本)と対戦となり、日本国内に於いての本当の立ち位置が見えてくる試合となり、ファンの期待と評価は高まります。

今日の喜多村誠も勝利後、12月10日はまず藤本ジム興行出場希望をアピールしつつ、「KNOCK OUT」出場を意識する発言、「行く行くは自分も出たいと思っています」ともマイクアピールしています。

石原將伍が新チャンピオン誕生となり、新たなエース格スター候補生誕生。今後も「KNOCK OUT」イベント等に出場の機会が増えれば期待の戦力となります。

「KNOCK OUT」出場のいずれの選手も勝利を掴んで、新日本キックの王道をアピールしたいところでしょう。選手個人の目標は違うところにあるかもしれませんが、貴重な経験を経てホームリングに戻って来て欲しいところです。

新日本キックボクシング協会興行は、11月19日(日)にディファ有明に於いて、「Kick Insist.7」が開催、12月10日(日)に後楽園ホールに於いて、「SOUL IN THE RING.15」が開催されます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

《殺人事件秘話04》小泉毅元厚生次官宅襲撃犯が動物愛護家から支援された理由

〈私の人生は、一言でいって、幸せでした。さいたまにいた10年間を省けば、私はいつも色々な方から優しくされ、助けられて生きてきました。そして、さいたまにいた10年間も、人生に後悔や未練を残さない為に、やりたい事を好きなだけ、やってきたので、大変満足しています〉

これは、2008年に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の犯人・小泉毅(54。現在は死刑囚として東京拘置所に収容中)が獄中で綴った計39枚に及ぶ手記の一節だ。これを書いた頃、小泉は裁判中だったが、1、2審共に死刑判決を受けており、そのまま死刑確定するのが確実な状況だった。そんな時期、小泉はなぜ、自分の人生が幸せだったと振り返ったのか。

犯行に及んだ経緯やその時々の考えが詳細に綴られた小泉の獄中手記

それをみる前に、まずは事件の経緯を簡単に振り返っておこう。

◆ 動機は「保健所で殺処分になった愛犬チロの仇討ち」

小泉が旧厚生省の事務次官宅を相次いで襲撃する事件を起こしたのは2008年11月のことだ。まずは17日夜、さいたま市南区の山口剛志さん(当時66)宅に押し入り、山口さんと妻の美和子さん(同61)を包丁で刺殺。続いて翌18日夜、東京都中野区の吉原健二さん(同76)宅に押し入り、1人で自宅にいた吉原さんの妻、靖子さん(同72)の胸などを包丁で刺して重傷を負わせた。

そんな事件は当初、年金制度に不満を持つ人物らによる「テロ」とみられたが、同22日に警視庁本庁に出頭して自首した小泉が明かした犯行動機は誰も予想できないものだった。

「チロちゃんの仇討ちをしたのです」

小泉によると、34年前、自宅で飼っていたチロという犬が野犬と間違われて保健所に連れていかれ、殺処分になったという。小泉はその恨みを晴らすため、犬の殺処分に関して定めた狂犬病予防法を管轄する厚生労働省の元トップを襲撃した――とのことだった。

そんな前代未聞の自白をめぐり、マスコミは当時、「本当にそんな理由で人の命を奪ったのか」と一斉に疑問を投げかけた。インターネット上では、小泉のことを頭のおかしい人間であるかのように揶揄する書き込みが相次いだ。

私はそんな小泉の実像が知りたく、裁判が上告審段階になった頃から東京拘置所に収容中の小泉と面会や手紙のやりとりを重ねた。そうした取材を通じ、小泉は善悪の基準こそ一般的な日本人と異なるものの、むしろ知的能力は高い人物だと思うようになっていった。

◆ 「仇討ち」に至る経緯と自首の理由

小泉は62年、山口県の柳井市で生まれた。愛犬チロが保健所で殺処分になる悲劇に見舞われたのは、中学入学直前の1974年春のことだった。その後、くしくも保健所の向かいにある県立柳井高校に進学したことが小泉の運命を大きく変えたようだ。

「高校時代の私は毎日、登下校の際に保険所の建物を見て、憎しみを募らせました。そして高2の時、チロちゃんの仇討ちを決意したのです。当初、仇討ちの相手と考えたのは政治家でしたが、大学入学後、日本の支配者が政治家ではなく官僚だと知りました。そして50歳まで普通に生き、人生にやり残したことがない状態にしたうえで、厚生事務次官経験者を狙った仇討ちを決行すると決めたのです」

実際に小泉が「仇討ち」を決行したのは46歳の時だ。小泉は当時、勤めていたコンピューター会社を辞め、ネットで株投資をして暮らしていた。計画を前倒ししたきっかけは05年12月、タクシーに接触された事故で左ヒザと右アキレス腱を負傷したことだという。

「私はこのケガにより体力に自信をなくし、『50歳になるまで待てない』と思い、仇討ちの時期を早めたのです」

そして小泉は国立国会図書館で歴代厚生事務次官たちの住所を調べ、その中から「住んでいたアパートから近い」などの理由で選んだ2人の家を襲撃した――。

では、なぜ、小泉は犯行後、自首したのか。小泉は理由をこう語った。

「私はチロちゃんの仇討ちは果たしました。次は裁判で無罪を主張することにより、保健所で苦しみながら殺された何百万、何千万の犬や猫の代弁者となり、“ペット虐殺行政”を批判しようと考えたのです」

小泉は裁判で「私が殺したのは、人間ではなくマモノとザコです」と主張し、無罪判決を求めているが、その狙いは“ペット虐殺行政”を批判することだったのだ。

と言われても、おそらくピンとこない人が少なくないだろう。しかし実をいうと、全国の動物愛護家の中には、この小泉の考えに共感した者が少なくなかったのである。

小泉が憎しみを募らせた柳井市の保健所
支援者たちは署名サイトでも小泉の減刑を求める署名を集めた

◆「小泉さんは革命者」

マスコミは黙殺したが、最高裁の判決が迫った頃、小泉を支援する動物愛護家たちが小泉の減刑を求める署名活動を行っており、集まった署名は1500筆を超えていた。14年6月、最高裁が小泉の上告を棄却し、死刑を事実上確定させた公判にも10人前後の支援者たちが傍聴に来ていたが、誰もが裁判の結果を心底悔しがっていた。

ある女性支援者は涙をポロポロこぼしながら、こう語っていた。

「小泉さんは革命者だと思います。将来、日本にも海外にあるような本格的なペットシェルター(飼い主に捨てられた動物を保護し、新たな飼い主を見つけるための施設)ができたら、私は“コイズミ館”と名づけたいと思います」

小泉はこのように多くの人に愛された。それゆえに、手記で自分の人生を「幸せ」だったと綴ったのだ。

死刑確定後、東京拘置所は小泉の処遇を変え、私は小泉と面会や手紙のやりとりができなくなった。だが、小泉は今も幸せな気持ちで過ごしていると思う。


◎[参考動画]元厚生事務次官ら連続殺傷事件 「ほかにも殺害計画していた」(TOKYO MX 2008年11月24日公開)


◎[参考動画]1990年11月23日にテレビ朝日が報じた元厚生事務次官宅連続襲撃事件(AutumnSnakeArchive2009年2月16日公開)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

電通出身脱原発派の曽我逸郎候補 健闘すれど厚かった小選挙区制の壁

曽我逸郎氏のHPより
曽我逸郎氏のHPより

前回取り上げた長野5区曽我逸郎(そが いつろう)候補が残念ながら落選した。当選したのは自民党の宮下一郎氏(91,542票)で、2014年前回の衆議院選挙(91,089票)より得票を少し増やした。曽我逸郎氏は宮下氏に次ぐ2番目で、48,588票を獲得した。宮下氏の得票と比較するとやや開きがあるが、希望の党から立候補した中嶋康介氏が前回の衆議院選挙(46,595票)よりやや減の得票を今回獲得(43,425票)したのに対し、曽我氏はそれを上回る得票を獲得した。

中島氏が前回と比較してやや得票を落としたのは、前回まで連合長野のもとで中島氏を支援していた自治労長野が曽我氏を独自に支援していたことが原因の一つと考えられる。自治労長野が連合長野とは違う候補を支援したのは長野県内ではこの5区だけで異例だった。曽我氏は前回共産党推薦で立候補した水野力夫氏が獲得した28,947票に約2万票上積みしたが、及ばなかった。

◆小選挙区制下の一本化をめぐる苦悩

今回の長野5区は死票率が50%を超えた。相変わらず小選挙区制の酷薄さを感じさせる結果だ。曽我氏の支援者によると、「曽我さんも、中島さんが希望の党ではなく立憲民主党や無所属で出馬していたら、今回の出馬はなかったのではないか」とのことだった。他の支援者は中島氏のマニフェストと希望の党との政策のかい離を指摘していた。

曽我氏のスローガンは「安倍政権、小池新党に立ちはだかる」であり、選挙後に出した曽我氏のコメント「今回の選挙を総括すれば、小池百合子氏にかき回されてしまいました。改憲勢力に対抗する一枚岩をつくり上げることができなかったのは、大変残念です。安倍首相と小池氏とは同類であり、そのどちらの陣営にも伊那谷から一議席を与えてはならなかったのに」(公式サイトより引用)とあるのを読む限り、他の候補者が安倍・小池と距離を置いていれば曽我氏は出馬していなかった可能性は高い。

曽我逸郎氏のHPより
曽我逸郎氏のツイッターより

中島氏は希望の党から立候補していたが、集団的自衛権の閣議決定撤回(公式サイトより)を掲げるなど、希望の党のスタンスより左寄りの立場をとっていたので、選挙区での争点がやや不明瞭となった。中島氏は民主・民進党時代に中川村村長選挙で曽我氏や曽我氏の後継候補(現職:宮下健彦氏)を応援していたこともあり、曽我氏も中島氏も互いに悔いの残る結果となったのではないだろうか。

曽我氏の前述のコメントはこういった背景があってのことだろう。もちろん立候補して主張を訴えることは民主主義社会で正当な行為であり、一本化自体が本来邪道であると筆者は考えている。死票を制度上大量に生み出す小選挙区制自体が不本意ながらの一本化を推進しやすい。このような選挙制度は早急に改革されるべきだ。

◆長野県内 自民・希望両党に逆風

長野1区の民進党前職篠原孝が希望の党の公認を蹴り無所属で立候補して圧勝し、2区では希望の党の下条みつ氏が自民党前職務台俊介(長靴事件で内閣府大臣政務官を辞任)相手に辛うじて勝利した。10月23日放送の地元テレビ局の報道によると下条みつ氏はもともと改憲反対を訴えており、社民・共産支持層が一本化する予定だった。しかし、下条氏が希望の党から立候補したため一本化はご破算となった。下条氏が選挙戦の中、党と自身のマニフェストとかい離があるのに、なぜ希望の党にはいったのかを直接説明する一幕もあった。長野県内では中島氏に限らず、希望の党にたいしてかなり風当りが強かったと言っていい。

◆立憲民主党への警戒

以上、希望の党が長野県内で一様に伸び悩んだことに言及してきたが、一方全国的に大躍進した立憲民主党にも不安がある。ジャーナリストの寺澤有氏に枝野氏の原発事故時の発言を受けて“新党「直ちに影響はない」”と揶揄された(原発事故避難者が枝野氏や福山哲郎氏らに向ける不信感を思えば当然である)立憲民主党だが、野党第1党になったのでその影響力は無視できないものとなった。

立憲民主党のホームページをみると「北朝鮮の核実験・弾道ミサイル発射は極めて深刻な脅威であり、断じて容認できない。北朝鮮を対話のテーブルにつかせるため、国際社会と連携し、北朝鮮への圧力を強める。平和的解決に向け、外交力によって北朝鮮の核・ミサイル放棄を訴え、最後の一人まで拉致問題の解決に取り組む」とあり、自民党と全く方針が変わらないものもある。その点、Twitterや候補者アンケートで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の意図を理解し、圧力強化へ同意しなかった曽我氏のほうが筆者としてはまだ筋が通っていると思う。

さらに危険だと思うのが枝野氏の持論だ。「日本近海の公海上で、日本を守るために展開している米海軍が攻撃された時に助けに行けるのかについて、他国の軍隊が公海上で攻撃されたという面で捉えれば、行使が認められていない集団的自衛権のように見えます。でも、わが国を防衛するために展開している艦船だという点に着目すれば、日米安保条約に基づいて自衛隊と同じ任務を負っているのだから、個別的自衛権として行使することができます」と通販生活の記事で述べているが、ここでは個別的自衛権と集団的自衛権の境が限りなく曖昧になっている。

『私にも話させて』ブログを運営している金光翔氏が以下のように過不足なく適切に要約している。

有田芳生議員のツイッターより

「安倍政権が個別的自衛権では不可能として、集団的自衛権の行使を可能にして対処した案件に関して、枝野は個別的自衛権で対処可能、と強弁しているだけの話としかいいようがない。枝野の個別的自衛権解釈(およびその帰結としての憲法解釈)は、安倍政権の解釈論よりもはるかに強引かつ説得力のないものであって、これこそが立憲主義の破壊であろう」(2017年10月19日、メモ59より引用)

同感だ。立憲民主党が大政翼賛会化し、自壊する日もそう遠くないように思われる。

◆追記:有田芳生参議院議員の曽我氏への言及

支持する・しない、好き・嫌いは自由に発言されてもかまわないし、仕事柄むしろ積極的になされるべきだが、「国会でお会いしましょう」と言う前に、とりあえず鹿砦社特別取材班の取材に答えていただきたいと思う。説明責任を果たさないまま応援されると「逆宣伝」になりかねない。応援は本来自由にやればいいので、自分でも理不尽なことを言っている自覚はあったが、選挙期間中強くそう思った。

◎[関連記事]長野5区、曽我逸郎候補(電通出身・前中川村長)のまっとうな戦争・原発・沖縄観(2017年10月20日)

◎曽我逸郎氏公式サイト http://itsuro-soga.com/

▼山田次郎(やまだ・じろう)
大学卒業後、甲信越地方の中規模都市に居住。ミサイルより熊を恐れる派遣労働者

『NO NUKES voice』13号 望月衣塑子さん、寺脇研さん、中島岳志さん他、多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて
愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』11月号!【特集】小池百合子で本当にいいのか