戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈1〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

八月の空は悲しい(龍一郎 揮毫)

今年も8月6日がやって来ました。── ここ甲子園では平和の象徴ともいえる夏の高校野球が始まりました。

今年は、ウクライナでの戦火に加えパレスチナでもイスラエルによる無慈悲な攻撃により戦火は収まるどころか拡大しています。日本にあっても、もはや‟対岸の火事”ではありません。解決の糸口はあるのでしょうか、絶望的になります。ほとんどの日本人にとっては今に至るも?対岸の火事”のように感じられます。果たしてこれでいいのでしょうか?

かつて1960年代後半から70年代にかけて(75年のベトナム戦争終結まで)全世界にベトナム反戦運動が拡がりました。これが和平への後押しになったことはいうまでもありません。今はどうか?

8月1日付けの本通信でも記しましたが、戦後79年、日本が曲りなりとも平和を維持できたのは、先の戦争の反省から、歴史の曲がり角にあった60年、70年の〈二つの安保闘争〉を中心として、これ以後も地道な抵抗運動があったからだと考えています。8月15日付けの本通信にて採り上げますが、私の従兄は異国で終戦を迎え必死で故郷熊本に戻り、その後大学生時代に60年安保闘争に参加しています。三里塚闘争はいまだに続いています。

異論もあろうかと思いますが、半世紀余り、時にみずから血を流し闘い、半世紀余り自分なりに社会の動向、反戦運動や社会運動の推移を見てきた上での感慨です。決して机上での平和談議ではありません。日本は、曲がりなりにも民主主義社会です(この規定にも異論はあるでしょうが、少なくとも独裁国家や専制国家ではありません)。まだ声は挙げれます。

大学に入った1970年、帰省の途中で広島に立ち寄りました。これまで長崎には何度か行っていましたが広島を訪れたのは初めてでした。8月6日に毎年広島で行われる抗議活動に参加し、その日は広島大学の寮に泊めていただきました。翌日は京都からやって来たべ平連の人たちと岩国の基地反対運動にも参加し右翼からの攻撃に広島大学の学生(中核派やね)らと一緒に対峙したことが、ついきのうのことのように蘇ります。もう55年かあ。この半世紀余りの間、日本の、そして世界の、言葉の真の意味での平和は維持されたのでしょうか ── もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

翌年1971年の8・6は歴代首相で初めて当時の佐藤栄作首相が広島の慰霊祭に出席するということで荒れました。いまだに記憶に残るのは、ある女子大生が体当たりで佐藤首相に抗議したことです。これは報道写真でも残っています。この年の夏は三里塚闘争で仲間が逮捕されたり9月に予定されている第二次強制収容阻止闘争や沖縄返還協定批准阻止闘争の準備などで広島には行けませんでしたが、報道で観て非常に感銘を受けました。

1971年8月6日の広島平和公園に来た佐藤栄作首相(当時)に抗議の体当たりをする女子学生

今回は、3年前にウクライナ危機に触発されて、若き日に接した反戦歌について書き記した文章に加筆し、この3年間、状況がまったく変わらず、それどころかますます泥沼化し悲劇が拡大している中で、あらためて加筆、再掲載してみました。ぜひお読みいただければ幸いです。

◆矢沢永吉 『FLASH IN JAPAN』

私はこの曲を聴いて大変ショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『FLASH IN JAPAN』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

ちなみに私たちの世代にはカリスマ的存在である秋田明大(日大全共闘代表)さんも被爆二世で、毎年8月6日に開かれる抗議集会には必ず実行委員に名を務められたり参加されています。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛。藤井敦子補訳)。私も時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
 治せるのか
 俺たちは皆あの光を見たのか
 雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
 稜線を照らし 視界を消し去った
 戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
 人々の群れが塔をなぎ倒し
 敵がどこに隠れているのか知っている
 兄妹たちは炎の中をはいつくばったが
 出口に届くことはなかった
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 彼らに何と言えばよいのか
 子供たちよ聞いてくれ
 俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
 君たちは再出発してくれ
 朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
 いくつか変わったこともある
 いつも忘れないでいてほしい
 戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか

◆忌野清志郎『花はどこへ行った』/ PP&M『Where Have All the Flowers Gone?』

当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ戦争が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう3年半も続き、解決の糸口は見つからず、さらに長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争のように──。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから意訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発され加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

つい先日(2024年7月8日)、京都のキエフ(登紀子さんの実家経営)で、私がいた大学の学生運動、および寮の大先輩・藤本敏夫さんの23回忌が開かれました。私とは世代が全く異なり直接の面識はなかったので迷ったのですが、先輩に勧められ、資料コピー係(この世代の常として紙の資料が多いんです)を務め出席させていただきました。

その際、登紀子さんに「今はなぜ『牢獄の炎』を歌わないのですか?」と尋ねましたところ、「あなた、なぜこの曲を知っているの?」と驚かれました。「大学に入ってすぐに先輩に勧められ買いました。私に言わせれば『百万本のバラ』もいいが、『牢獄の炎』や、さらには『美しき五月のパリ』も復活させていただきたく熱望します。

ちなみに藤本敏夫さんは、ここ甲子園の出身です(甲子園三番町。鹿砦社は八番町)。

さて、『花はどこへ行った』は、日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツ』や、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナやパレスチナに見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ戦争のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナやパレスチナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われなくなることを心より祈ります。


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

青山透子氏インタビュー「日航123便墜落」真相究明に政治の言論封殺(紙の爆弾2025年7月号掲載)

 1985年8月12日に起きた「日本航空123便墜落」の再検証を求める世論が、ここ数年、あらためて盛り上がりを見せている。一方で4月10日、真相究明をリードしてきた元日航国際線客室乗務員の青山透子氏の著作に対し、自民党の佐藤正久参院議員が国会で「フェイク情報」であり「全国学校図書館協議会の推薦図書に選ばれているのはおかしい」などと発言。即座に青山氏と遺族の吉備素子さんが言論弾圧であるとして抗議声明を発表するも、その内容を伝えるメディアはほとんどない。そこで今回、7月に『日航123便墜落事件 40年の真実』(河出書房新社)を上梓する青山氏にインタビューした。(聞き手・文責/本誌編集部)

◆現場が物語る「真実」

──佐藤氏は参院外交委員会の質疑で、自衛隊が123便墜落に関与した可能性について、「防衛省・自衛隊の名誉」を問題にしていますが、青山さんは著書の中で、「(当初)私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた」と書かれています。調査を始めた経緯について、まず教えてください。

青山 1985年の年末までに、当時の客室乗務員有志が作成し、関係者だけに配布した追悼文集(『悼歌』タイトル部写真)があります。ここに追悼文を掲載された客室乗務員12名、そして非番で乗り合わせた2名は、私がともにフライトをしてきた同僚たちです。
 私も先輩たちへの思いを込め、墜落から25年が経った2010年に出版したのが、最初の『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド)でした。
 この本を書くにあたって新聞報道をくまなく読み込みました。すると、当時は単なる元客室乗務員だった私にとっても疑問に思うことが山ほど出てきて、それを時系列でまとめました。
 奇しくもこの本を出した10年に、日航が倒産。日航はずさんな管理体制の下で、軽微なものを含め様々な事故を起こしてきました。その中で最悪のケースが123便墜落であり、単独機で世界最大となる、乗員の殉職を含めて520名の死者を出しました。学校が1つなくなるほどの方々が亡くなられたのです。その精算をしないまま国内3位のJASと合併したら、今後も同じことを繰り返すことになる。あらためて123便をリマインドし、航空会社にいる人間として、その無責任な体制に警鐘を鳴らすべきだと思って、『天空の星たちへ』を書いたのです。
 同書では、第二次世界大戦中は零戦のパイロットであり、墜落時を含めて現場となった群馬県上野村村長を2005年まで40年つとめられた黒沢丈夫さんに取材し、帯文も書いていただきました。黒沢さんは墜落当日の夜、すぐに現場は上野村だとわかり、村民に情報提供を呼びかけ、県や政府関係者、NHKにも電話で連絡したにもかかわらずテレビでは「不明」で、隣の長野県など偽の情報が流され続けたと怒っておられました。その事実を書く人がいないとおっしゃったので、私の本にインタビューを加えたんです。
 また、上野村消防団や、猟友会の地元の皆さんも、真夜中から翌朝まで一晩中捜索しています。生存者である当時12歳の川上慶子さんらを発見したのは、報道されているような自衛隊員ではなく、地元の人たちです。しかし、担架を作り生存者を山頂へ運ぶも、最初に自衛隊のヘリが来てから2時間以上も真夏の山頂に放置状態にされたといいます。そうした方々に取材すると、彼らからも疑問をぶつけられたのです。
 私の問題意識は、こうして事実を集める中で生まれたものです。なにより、私にアナウンスを教えてくれた先輩の対馬祐三子さんが、アナウンスのメモを遺書として残して亡くなられました。そこに込められた同僚たちの意思を尊重するためにも、絶対に真相を突き止めなければなりません。

──墜落をめぐる「謎」の代表的なものとして、「遺体の完全炭化およびガソリンとタールの臭い」「航空自衛隊ファントム2機の数々の目撃情報」「墜落直前の機体周辺にみられたオレンジや赤の物体」が挙げられます。ほかにも疑問点は数え切れず、読者にもそれぞれの詳細を7冊の著書で読んでいただきたいですが、調査を進めた結果として、自衛隊や米軍の関与の可能性を指摘されました。

青山 慶子さんを発見した上野村消防団の話を聞くと、現場はガソリンとタールの臭いで充満していたといいます。ガソリンは危険物で飛行機には搭載できませんから、ジェット燃料はガソリンでもなければタールでもありません。それより引火点が高いケロシンという灯油の一種を使用します。引火点が常温より高いので、常温では引火せず、しかも、飛行時間にして2時間分の量しかないにもかかわらず、翌朝まで燃えていたというのです。
 ほかにも、隣県・長野の信濃毎日新聞が8月12日付の号外で「上野村」だと報道しています。黒沢村長も現場の人も正しかったのに、中央メディアが無視したということです。

※記事全文は↓
https://note.com/famous_ruff900/n/nf4f70999fc3f

WMO世界戦、馬渡亮太は幻の勝利か、王座は保留!

堀田春樹

7月13日に後楽園ホールに於いて行われたKICK Insist.23のメインイベント、WMO世界スーパーフェザー級タイトルマッチは前日計量から試合終了数日後まで波乱の展開となりました。

馬渡亮太が激戦の末、2-1判定で勝者コールされ、チャンピオンベルトも渡された後から、観衆は気付かずも、異様な雰囲気が漂ったリングサイド周りとその後の舞台裏。オーウェン・ギリスが第2ラウンドにノックダウン奪ってから大きく劣るラウンドは無いと見ている陣営は、採点の在り方に抗議すると、ジャッジ一人(タイ)の集計ミスを見付け、更なる猛抗議。運営進行係の集計ではなく、ジャッジの集計だった。

運営進行側のインスペクター(タイムキーパー等)は、ジャッジペーパーに集計ミスがあっても勝手に書き換えてはならない。間違いを認識した場合、変更指示出来るのは、この日の場合においては立会人だけだった。それでWMO立会人は、トータル記入どおりで良いと判断され、マイクで発表した運営進行側は指示に従うだけだったが、このジャッジ一人の記載ミスが大きな波紋を呼んだ。この担当ジャッジも、馬渡亮太がポイント優り、“勝者・馬渡亮太”と判断したなら、忖度したとしても明確に辻褄合う採点に気付くべきだっただろう。

ギリス陣営はWMO本部に直訴。審議され、試合結果は正規集計に基づき3日後、WMOサイトで三者三様の引分けに訂正。また、ジャパンキックボクシング協会側の言い分も伝えられたと考えられるが、発表された後、すぐ削除される様子もあり、裏舞台での攻防は、なかなか最終決定が下されなかったことに繋がりました。

プロボクシングでの各タイトルマッチは各ラウンド毎に集計され、インスペクターが記載しますが、今回のこのムエタイタイトルマッチの場合、ジャッジペーパー1枚には全ラウンドを採点記入し、ジャッジ自身で集計して渡す方式だった。

馬渡亮太の勝ちでも引分けでもいい。間違いない集計がされていれば大きな問題は起こらなかったはずである。

問題はここだけに留まらず、オーウェン・ギリスの計量失格となった前日計量にも遡ります。

前日計量は12日14時、水道橋駅近くの内海ビルにて行われ、オーウェン・ギリスは630グラムオーバー。15時55分、3回目の計量で330グラムオーバーで計量失格確定したが、陣営が持参したデジタルヘルスメーターを出して、「この正確な秤でリミット内だった!」と主張するギリス陣営。そんな個人所有のもの認められる訳もなく、出場者全員が公平に規定の正規計量器で量り、他2名の前座ウェイトオーバー者も最終的にこの秤でクリアーした。

オーウェン・ギリスは全裸で計量、3回目(15時55分)で計量失格は確定。

しかしオーウェン・ギリス陣営はここから理不尽な要求が始まった。「王座剥奪なら試合に出ない!」と言い出したらしい。試合中止は避けたいジャパンキックボクシング協会側は細かい制約は告げず、そのままリングに上がらせたが、実際はリング上でしっかり計量失格で王座剥奪をアナウンス。そこはギリス陣営は日本語が解らないと読み、抗議は起こらなかった。


◎KICK Insist.23 / 7月13日(日)後楽園ホール17:15~21:30
主催:(株)VICTORY SPIRITS、ビクトリージム
認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)、World Muaythai Organisation(WMO)

セミファイナル(第12試合)以下は前回掲載済。

◆第13試合 WMO世界スーパーフェザー級タイトルマッチ 5回戦

前・選手権者.オーウェン・ギリス(イギリス/19歳/ 59.6→59.3→59.3kg/+330g/計量失格)
        VS
挑戦者11位.馬渡亮太(治政館/2000.1.19埼玉県出身/ 58.96kg)
結果保留(判定1-2、或いは三者三様)

スーパーバイザー:アウラチャー・ウォンティエン(タイ)
審判構成はWMOが指示。主審はタイ、副審はタイから2名。日本から1名選出されています。
主審:ナルンチョン・ギャットニワット(タイ/採点には加わらない)

オーウェン・ギリスはアグレッシブに攻めるファイタータイプで初回から強い蹴りを繰り出して来た。馬渡亮太は蹴り返して互角に進んだ印象も、圧力あるギリスに馬渡も必死の形相。第2ラウンドにはギリスのパンチ連打に馬渡はヒジ打ちカウンターするも右フックでノックダウンを奪われる劣勢。中盤以降は馬渡が初回から続けたローキックや首相撲でのヒザ蹴りで徐々に優って巻き返し、最終ラウンドも持てる力を繰り出した両者。最後までパンチとハイキックなどパワーと勢いあったギリス。馬渡はギリスの左足を折らんばかりに効かせながら終了まで熱戦を繰り広げた。

初回から馬渡亮太も強い蹴りで渡り合った。
第2ラウンドにギリスの右フックでノックダウンを喫した馬渡亮太。
ノックダウン後、ギリスのアグレッシブなパンチに圧された馬渡亮太。

「セコンドはインターバル中に相手の様子を見ることも重要。」

過去、そんなことを言った仲間の記者が居たことを思い出した。第4ラウンド終了後のギリス陣営はギリスの左足を持ち上げるだけで表情を歪めて痛がった。そこも重要な注視ポイントだろう。

馬渡亮太もムエタイ技の一つが活かされた前蹴りヒット。
ギリスのハイキックに馬渡亮太はローキックを合わせる。ダメージあるのはギリス。
馬渡亮太のローキックを避け、サウスポーに変えるも右足を狙われる。

でも攻められてもオーウェン・ギリスは強かった。馬渡亮太はラストラウンドにもっとローキック出していればギリスは倒れただろうという周りの想いもあるが、馬渡亮太本人の戦略と、蹴りに行けなかった、そこは戦う本人にしか分からない事情もあっただろう。

7月25日時点でもジャパンキックボクシング協会、小泉猛代表には経緯も詳しく話して頂きましたが、「結果保留。WMOの連絡待ち」という状況。

深く追求すれば諸々の問題点と対策があり、今後に改善されていくことでしょう。
今回はWMO世界スーパーフェザー級タイトルマッチの試合前後の経過のみとなります。

進捗状況がいつ発表されるか分かりませんが、ここでは速報性が保てませんので、7月25日時点とさせて頂きます。

勝負は差戻しへ。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

《8月のことば》広島・長崎の青い空を見上げる……

鹿砦社代表 松岡利康

《8月のことば》広島・長崎の青い空を見上げる……(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

本年、8・6広島、8・9長崎の原爆投下、そして8・15敗戦からそれぞれ80年が経ちます。また、その後のベトナム戦争終結から50年です。歴史的にもエポック・メーキングの年です。

残念ながら、ウクライナ、ガザではまだ戦争が続いています。

私たち戦後生まれの世代は、もちろん戦争を知らずに生きてきましたが、私たちの青春時代にはベトナム戦争が激しく、そのベトナムへの米軍の出撃拠点となっていた沖縄の現実にも目を向け、ベトナム反戦の集会やデモに連日参加しました。それが当たり前のキャンパスの風景でした。

私が転がり込んだ寮では、戦中、学徒出陣で出征する寮生を母子で見送った寮母さんは反戦意識が強く、集会やデモの日に寮でくすぶっていると「何をしとん、早く行け!」と叱るような人でした。今はそんな寮母さんなどいません。

べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など参加しやすい運動もありました。もっとラディカルな運動もあり、みずからの意志でどれにも参加できる環境でした。

今はどうか? 多様な運動自体がなくなり、参加しようにもできない状況です。私のいた大学は当時(1960年代から70年代にかけて)全国的にも中心となったところでしたが、その後、混乱と低迷の時代に入り学生みずから学友会(全学自治会)を解散するという前代未聞のことをやらかしました。

今、キャンパスは静かで綺麗です。戦争反対を謳う立看一つ立てれません。私たちが日夜切磋琢磨の拠点としていた学生会館も取り壊され、どでかい近代的な建物に変わっています。果たしてこれでいいのでしょうか? 建物は綺麗でも、なにか無味乾燥です。

8月は鎮魂の季節であると共に、私たちの心の中に<反戦>の火をふたたび燃やす季節にしなくてはなりません。

近く発売になる『季節』夏・秋合併号には、かつて東大全共闘代表を務めた山本義隆さんの長大な講演録が掲載されます。山本さんは学問の世界でも優秀な方で、京大の湯川秀樹教授の研究室で学んでいたところ、母校東大で学生運動が燃えてきたということで去りましたが、湯川教授は泣いて止めたという逸話があります。さらには、研究室を戦場にしてまでベトナムに連帯して闘うというようなことも仰っています。

かつての学生運動で、東大といえば日大ですが、日大全共闘代表は秋田明大さんです。あまり知られていないようですが、広島出身の秋田さんは被爆二世です。毎年、8月6日の集会にはいつも、こっそりと呼びかけ人に名を連ねられています。ご存知でしたか? その後の無骨な秋田さんの人生が想像されます。山本さんの次は秋田さんに登場いただきたいですね。

1970年の8月6日、この年の4月に大学に入学、帰省の際、広島で途中下車し広島大学の寮に泊めてもらい、反戦集会に参加したことが思い出されます。18歳の夏のことでした──。

(松岡利康)

介護保険についての女性団体アンケートに答えぬ参政党 本当に「反グローバリズム・反緊縮」なのか?

さとうしゅういち

◆神谷代表にお返ししたい「ふざけるな」

参政党代表の神谷宗幣さんは、参院選中は「日本人ファースト」を叫び、「外国人特権」をなくすかのようなイメージを醸し出し、バカ受けしました。比例代表では広島県内でも二番目の得票となりました。だが、選挙が終わったら「外国人特権?無いんじゃないですか?」と記者に答弁しておられました。

参院選中、街頭演説で、神谷さんは「ふざけるな」と反対派に対して反論しておられました。だが、そのお言葉はそっくりそのままお返ししたいの気持ちです。

◆介護現場の崩壊、忘れ去られる

そして、参政党ブームで十分議論されなくなった問題も多くあります。

その一つが介護現場の崩壊です。ご承知のとおり、介護職員が足りない。だけど他産業より賃金が低いからどんどん辞めていく。賃金が低いのに労働がきついからさらに辞めていく。そんな悪循環に陥っている実態があります。特に、訪問介護では、2024年の報酬改定で引き下げられてしまいました。ただでさえ、若い人が就職してこない中で、職員自身も高齢者が多いという笑えぬ実態がありました。今回の報酬引き下げで、撤退する事業所が相次いでいます。

こうした中、筆者が最近、勤務していた介護施設では、外国人労働者が全員正社員で、日本人のパート労働者より高い時給をだしていました。時給で言えば日本人派遣労働者>外国人正社員労働者>日本人パート という感じです。

いまは、参政党や一部の政治家が言うような、「外国人労働者がくるから日本人の給料が下がる」という単純な話でもないのです。無論、安く使い捨てにする狙いで自公政権が研修生→技能実習生という形で外国人労働者受け入れを進めてきたのも事実です。しかし、安く使い捨てにする仕組みを作ってきたのは日本人についても同様です。30年前の1995年、日経連の「新時代の日本的経営」が出てきて、非正規労働者は増えていたのです。

ともかく、介護の場合は、もともと安すぎて日本人が来ないところにやむを得ず、日本人より高めで外国人労働者に来てもらっているのです。今必要なことは、日本人も含めて介護に従事する労働者の給料を抜本的に上げることです。そうしないとそのうち日本人の若手労働者も海外に行くようになるでしょう。

介護現場が崩壊すればどうなるか?それは高齢者の家族を直撃します。それこそ、いわゆるビジネスケアラー(介護をしながら仕事)、ダブルケアラー(子育てをしながら介護)、ヤングケアラー問題をさらに深刻にします。

◆介護保険についてのアンケートに答えぬ参政党女性候補

こうした中、「高齢社会を良くする女性の会・広島」は介護保険についてのアンケートを行いました。 https://www.wabashiroshima.org/answer.pdf

この団体は別にいわゆる左翼団体でもなく、保守系の地方議会議長経験者も含む幅広い方が活躍される女性団体です。今回のアンケートについて、自民の男性候補さえも賛否は別として「それなり」の内容で回答しています。立憲の男性候補は「はい」「いいえ」の回答はされていますが、具体的な記述がありません。れいわ新選組のはんどう候補は、党の基本政策に基づき、「民間事業者だけでは必要なサービスの量と質がまかなえない、過疎地域で訪問介護サービス事業所がないなど、個別の事情により介護を断られる利用者等に対応するため自治体の福祉職を増員し、「公務員ヘルパー」を創設する。」「年間3兆円の財政投資で介護従事者の給与を月10万円引き上げ、介護現場で働きたい人を増やす」を掲げています。」などと回答しています。

ところが、今回、大健闘された参政党の女性候補は、アンケートに回答すらしていません。

◆「女性だからよい」時代は終わり

「れいわ新選組」と「参政党」で迷った、という有権者も今回は多数おられました。「どちらも反グローバリズム・積極財政だから」という方も多くおられました。しかし、今後は、個々の政策について、候補者のスタンスをきちんと精査していただきたい。また、今回の参政党は女性候補を多く出しました。女性の当選者は今回の参院選では125人中39人と過去最多になりました。そのこと自体は良いのですが、「女性だからよい」というわけでもないのも、留意しておく必要があります。

◆新自由主義グローバリズムの是正は当然だが……

1995年の〈新時代の日本的経営〉をスタート地点に竹中平蔵さん、小泉純一郎さんが推進し、野党第一党の支持基盤の労組も一時黙認してしまった感のある新自由主義グローバリズム自体は是正されるべきなのは、一定程度共通認識になっています。

また、米国主流派やイスラエル首相・ネタニヤフ被疑者が推進してきた急進的なポリコレもやりすぎで、貧困層のマイノリティーが置き去りにされてしまった。LGBTを推進しつつパレスチナ虐殺のネタニヤフ被疑者など、問題外です。

新自由主義グローバリズムとポリコレ両方の推進者であるバイデン氏ら米国主流派が、評判が悪くなったのも歴史的必然です。バイデン政権では、男子大学生が女性を自認して、女子水泳大会で優勝しまくるという事件がありました。差別はいけないが、これはやりすぎです。トランプがこういうことが起きないように大統領令を出したのは政策的には正しいと思う(ただし、手続き的には疑問がある。筆者は米国法には詳しくはないが、正々堂々、議会で法律で決めるべきではなかったかとも思う。)。

◆「プロの腐敗」から「ど素人の暴走」へ

また、日米欧問わず、超大手企業や高級官僚、既成政治家らいわば「プロ」による腐敗が目に余るのも事実です。小選挙区制を背景に、日本でも新自由主義グローバリズム・緊縮財政二大政党による実質的な独裁が続いてきました。身近なところでは広島県知事・湯崎英彦さんの4期16年にわたる長期政権の弊害は目に余るし、広島市長も、ほころびが目立ってきました。広島を、日本を市民、県民、国民の手に取り戻すのは緊急課題です。

参政党は「政治を腐ったプロから取りもどす」イメージを醸し出しています。しかし、「メロンパンを食べたら翌日に死んだ人がいた」という前共同代表のご発言。同様の小麦否定の文脈で「小麦は戦後に入ってきた」という神谷代表のご発言。ほとんど、カンボジアをかつて支配し、大混乱に陥れた農本主義政党・ポルポト派ではないか?と思われるような近代科学否定です。

そして、まるで、朝鮮(金氏)並みの権威主義国家にしようとする同党の憲法案。「プロの腐敗」から「ど素人の暴走」へ、ともいえるでしょう。その流れの中で今、バカ受けしているのが参政党、ということになるでしょう。

◆他党の課題 罵倒の応酬ではなく、「真の反グローバリズム・反緊縮」提示を

参政党支持者は、ネット上でもちょっとでも反論されると「お前、日本人か?」などと突っかかって来られる傾向が強くあります。ただ、他党の支持者がその挑発に乗ってしまうのはいかがなものか?

というか、そもそも、参政党の支持者がやっているような罵倒は、最近では日本共産党系の方がよくやっておられました。日本共産党は昔は、割と礼儀正しい人が多かったのですが、最近ではネット上でもリアルでも品の悪い罵倒をしてこられる方が目立ちます。実際、筆者自身も、複数の日本共産党系の活動家に酷い誹謗中傷に遭い、情報開示を請求。裁判所で日本共産党系活動家による筆者への名誉棄損が認定され、最終的に筆者が勝利的和解をしています。

特に日本共産党系の方に申し上げたい。参政党の選挙活動に、似たような口汚い言葉で抗議するくらいなら、対抗馬の選挙運動を応援された方が効果的ではないでしょうか?

また、前出の米国で男子学生が女性を自認しただけで女子水泳大会において優勝しまくる事件を正当化するような言動はやめた方が良いでしょう。参政党のメロンパン云々と同様に、失笑の的になりかねない。まして、同事件を批判した筆者らを誹謗中傷するような行為は慎むべきです。

自民党支持の70代女性は取材に対して「少子化対策というけど、介護も大事。参政党には怒りを覚える」とおっしゃいました。別の自民党支持で自民党候補を熱心に応援された50代女性も「参政党は途中からおかしいと思った。実際には広島でトップ当選の勢いがあり、自民党候補が落選の危機にあったが、参政党のおかしさに気づく人が増えて自民党候補が助かった」と証言します。

参政党自体は、自壊していくと思う。ただ、他党が、参政党の挑発に乗って、罵倒的な対応をすると思うつぼです。また、参政党の外国人問題云々の提起に過剰反応して、経済面での政策の打ち出しが弱くなるのも避けるべきでしょう。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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飛松五男解説「川崎ストーカー事件」は警察の犯罪である(紙の爆弾2025年7月号掲載)

 神奈川県川崎市で4月30日、民家の床下から20歳の女性がバッグに入った遺体で発見された「川崎ストーカー事件」。事態が明らかになるにつれ見えてきたのは、女性本人や家族から再三の相談を受けながら、捜査を拒絶し続けた神奈川県警川崎臨港署の異様さだ。
 元兵庫県警刑事で、退職後も被害者や家族の依頼を受け、本件にも携わる飛松五男氏が、事件の裏側と「警察の実態」を明かす。(構成・文責/本誌編集部)

◆遺体発見までの遺族の努力

 私が今回の事件で亡くなられた岡﨑彩咲陽(あさひ)さんの遺族から相談を受けて、川崎市に赴いたのは4月10日。話を詳細に聞いて、まず考えたのは、本件が“対警察”の問題であるということでした。
 報道されているように、祖母の家で生活していた彼女が行方不明となったのは、昨年12月20日。それ以前から本人や遺族が、川崎臨港署にストーカー被害を繰り返し訴えていました。しかし警察は動かないどころか、彩咲陽さんの失踪後、捜索を求める遺族に対し、「事件の証拠をでっち上げた」などと、自作自演を疑う言葉まで投げつけています。それで遺族は探偵に大金を払って、元交際相手の白井秀征被告の動向を調べたり、自ら白井に会ったりするなど努力を続けたものの、事態の進展が見通せず、私に依頼したのです。
 ひととおり状況を聞いた私は、1カ月以内に警察に捜査させるところまでもっていくと遺族に約束し、翌日に改めて川崎臨港署に行くように言いました。その際に重要なことは、彩咲陽さんが「特異行方不明者」に当たるということです。
 特異行方不明者とは、国家公安委員会規則「行方不明者発見活動に関する規則」の第2条第2項で「殺人、誘拐等の犯罪により、その生命又は身体に危険が生じているおそれがある者」等と定義され、受理署長や本部長がとるべき捜査方法が定められています。関連資料を見た彩咲陽さんの父親は、「まさに娘のことだ」と驚き、警察署に向かいました。
 父親は資料ファイルに私の名刺も挟んでいたといい、それが功を奏したかはわかりませんが、それまで「事件性がない」と言って追い返す対応を続けてきた川崎臨港署で、すぐに刑事部の責任者が来て謝ったといいます。
 その後も遺族と連携して調査を続け、白井宅の見張りを続けていた父親から、家宅捜索が始まったと報せを受けたのは、4月30日の深夜のこと。夜11時半に最初の電話がかかってきて、翌朝まで14回にわたり状況を伝えられながら、私も翌朝の新幹線で川崎に向かいました。
 翌5月1日、遺族ら約50人が警察署の前に集まり抗議を行ないました。私も求められて加わったのですが、そこで言った重要なことは、神奈川県警をはじめ警察が起こした不祥事をきっかけに、2000年に国家公安委員会が出した「警察刷新に関する緊急提言」です。
 全9項目の第2に、「苦情を言いやすい警察に」とあります。苦情申し立て制度は、署長に対して文書または口頭、公安委員会に文書または口頭で申し立てる4種類に大別されます。遺族らの抗議には、「これだけ人数がいるのなら自分たちが容疑者を直接シメればよかった」といった、警察を擁護するような批判もSNSに溢れましたが、彼らは警察の制度に従った正当な手段で、苦情申し立てを行なったのです。そうである以上、署には受理する義務があります。
 “対警察”の闘いにおいて、遵法精神に則り活動するのが私のやり方です。たとえば張り込みをするにしても、私有地に入ればこちらの不利を招きます。一方で後述するとおり、警察の方に遵法精神を疑う手法がみられる事実があります。その場合には、警察の行為の不当性を突くことになります。だから、依頼者に対しても、法や制度を外れない活動をすることを、私は約束させます。そうしなければ警察とは闘えない、ということです。

◆「姫路バラバラ事件」との共通点

 では、この家宅捜索まで、川崎臨港署は何をしていたのか?
 彩咲陽さんの遺族から依頼を受けた私も、彼女が住んでいた祖母の家や、遺体が発見された白井宅を調査しています。川崎臨港署は指紋採取を1月7日に行なったと言っているようですが、私が祖母宅を実況見分した際には、行方不明時に割られたガラスに指紋を調査した痕跡は一切ありませんでした。父親も、失踪2日後にやって来た警察は、手袋すらしていなかったと言います。鑑識には専用の鞄を持ち込み、現場にシートを敷くものなのに、それも見なかったという。専用ケースに入ったカメラもない(ただしスマートフォンで撮った可能性はある)。それで女性警察官が「事件性がない」と言い、それどころか、ガラスは遺族が割ったのだろうと偽装工作まで疑ったのです。
 すでにストーカー被害を受けており、加害者が明らかである以上、窓ガラスが割られた時点で逮捕状、少なくとも捜査令状をとる十分な理由があります。特異行方不明者であることを示した時点で警察の態度が変わったことが、何よりの証拠です。
 この「川崎ストーカー事件」を調査する中で思い出したのが、私が退職を目前にした2005年に起きた「姫路2女性バラバラ殺害事件」です。23歳の女性会社員・畠藤未佳さんと、同い年で友人の女性が殺されてしまったケースです。

※記事全文は↓
https://note.com/famous_ruff900/n/nebde52086054

《緊急アピール!》対エル金訴訟、一審判決(東京地裁立川支部。被告森奈津子と鹿砦社に損害賠償11万円等)の取り消しを求め東京高裁に控訴! 人生を台無しにされ、いまだにリンチのPTSDに苦しむ大学院生(事件当時)М君に対する残忍なリンチ事件の主要暴行実行犯・エル金こと金(本田)良平の開き直りを私たちは人間として決して許さない! 圧倒的なご支持、ご支援をお願いいたします!

鹿砦社代表 松岡利康

別途「デジタル鹿砦社通信」で述べていますように、元大学院生М君に対する凄惨なリンチ事件(俗称「しばき隊リンチ事件」)の張本人、エル金こと金(本田)良平が、作家・森奈津子さんに粘着し、これから逃げるために、やむなく金良平らによる集団リンチ事件の「略式命令」書を晒したことが「プライバシー侵害」だとして110万円の損害賠償等を求める民事訴訟で、その一部を認容した一審判決の取り消しを求め、森さんと鹿砦社は7月25日、東京高裁に控訴いたしました。さっさと「はい、そうですか」と賠償金11万円を支払って終わりにすることの方が経済効率的には賢いのかもしれませんが、私たちは、くだんの集団リンチ事件によって人生を狂わされ、研究者の途を断念、いまだにリンチのPTSDに苦しんでいるМ君の胸中を思うとやり切れなく、ここはお金の問題ではなく、かの奥崎謙三級のしつこさを持って徹底的に闘うしかありません。

狂犬・金良平

「リンチはなかった」「デマだ」「街角の小さな喧嘩」などと吹聴し開き直る徒輩を私たちは決して許しません。リンチ直後に撮った被害者M君の顔写真を私たちは冷静に見れません。またリンチの最中の音声データも平常心で聴けません。時が経てば解決するなどということはありません。

被害者М君、リンチ前と後の画像を比べれば、これが「デマ」「リンチはなかった」「街角の小さな喧嘩」などではないことは歴然!

一審で原告・金良平は、関西から首都圏に移住したことは述べつつも実際の住所を明らかにせずして提訴しました。「住所」としているのは代理人の神原元弁護士の事務所の所在地です。

控訴状
控訴状
控訴状

かつて、あれだけの凄惨なリンチに手を染めた狂犬が、いったんは「謝罪文」をМ君に渡しつつも、すぐに反故にし開き直り、時を経て今度は森さんに粘着し、森さんの居住地の首都圏に移住したことで、森さんに危害を加える危険性が強く懸念され、私はやむなく、すでに〈公知の事実〉とされてきた罰金40万円の「略式命令」書を森さんに送り、これを大っぴらにしてでも身を守るように申し述べました。森さんは私のアドバイスに従い、それをX上に公開しました。これが「プライバシー侵害」だというのです。

それ以前には、先に森さんを提訴したグループの連中は森さんの自宅周辺を徘徊したり、昨年には正体不明の輩から殺害予告がありました。さらに、森さんや私も面識のある山梨学院大学の小菅信子教授は何者かに愛猫を殺され、またエッセイストの室井佑月さんは自宅前に汚物を撒かれたりしています。小菅、室井両氏とも、金良平に繋がる連中(いわゆる「しばき隊」とか「カウンター」といわれる)を批判したことが共通しています。こうしたことが脳裏を過りました。

森さんが、くだんの「略式命令」書を公開するや金良平による粘着はやみましたので効果はあったと思います。誤解を恐れず申せば、「毒には毒をもって制す」ということです。自分の身は他人が守ってくれるわけではありません。24時間介護の重度身障者の夫を持つ森さんの行為はみずからの身を守るためだったのです。

あれだけの凄惨なリンチをやった者が「プライバシー侵害」だって!? 笑わせないでいただきたい。

ところで、私たちが大学院生リンチ事件について被害者支援、真相究明に本格的に関わり始めるや、被害者周辺はもちろん、加害者周辺からも多くの資料が寄せられました。これらのうち一部は6冊の出版物に掲載していますが、掲載していないものも少なからずあります。くだんの「略式命令」書はそうで、この他には「カウンター」「しばき隊」界隈の活動家住所録なども寄せられ、取材に使わせていただきました。金良平など狂犬のような徒輩がいるので、多くの方々は面従腹背を装っていますが、代わりに多くの情報や資料を寄せていただきました。

今後、森さんら、しばき隊界隈に批判的な人たちに危険が生じるようなら、私は綺麗事は棄て、どんどんディープな情報を公開しても身を守ることを優先いたします。かつて「おっかけマップ」を出して芸能ゴロや原発貴族を震撼させたように──。

尚、一審係争中の本年正月早々、森・鹿砦社代理人の内藤隆弁護士(1996年から鹿砦社の東京方面の訴訟を依頼。主な事件に、日本相撲協会から東京地検特捜部への刑事告訴[不起訴]、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧の対アルゼ民事訴訟などがある)が急逝され、以後、内藤先生の先輩の清井礼司弁護士が引き継がれ、本件控訴審も清井弁護士が代理人を務められます。いずれも動労千葉弁護団であり、相手方の神原弁護士(ら日本共産党に近い者ら)からは「極左」と詰られる弁護士です。清井弁護士は、偶然ながら、私が10年間のサラリーマン生活を辞め本格的に出版の世界に入った際に、手取り足取り教えていただいた師匠=府川充男(装丁家、活字研究家)さんの親分で、ある新左翼党派の理論家でした。府川さんは軍団を率いこれには坂本龍一も加わっていたそうです。

ともあれ、私たちは一審判決取り消しを求め控訴しました。圧倒的なご支持、ご支援をお願い申し上げます。裁判の遂行を経済的に保障するご支援のカンパをお願いいたします。本件専用の口座を設けましたので、ご支援のカンパはここにご入金をお願いいたします。

三井住友銀行 甲子園支店 普通 0966462 口座名=別口株式会社鹿砦社

ちょっと奇異な口座名ですが、これが正式な口座名です。
皆様方の圧倒的なご支持、ご支援をお願い申し上げます! 勝利をわれらに!

(松岡利康)

《禁煙ファシズム》訴権の濫用を問う横浜・副流煙裁判、和解が決裂、東京高裁

黒薮哲哉

東京高裁が和解を提案していた横浜副流煙事件(控訴審)は、被控訴人(作田学医師ら4人)が、和解を拒否したために、8月20日に判決が言い渡されることになった。控訴人(藤井敦子さんら2名)は、作田氏が作成した診断書に瑕疵があったことを認める内容の和解案を提案していた。

事件の概要(PDF)

◆訴権の濫用

既報してきたようにこの裁判は、藤井さんらが、前訴の勝訴を受けて、起こした反スラップ裁判である。藤井さんの夫・将登さんが吸う煙草の副流煙で健康を害したとして、隣人家族3人が4518万円の金銭支払いを求めて起こした裁判が、訴権の濫用に該当するとして起こした訴訟である。

前訴の中で、最も大きな争点となったのは、作田医師が原告3人のために交付した診断書である。そこには「受動喫煙症」という病名が付されていたが、診断のプロセスに重大な疑惑があることが次々と判明した。

たとえば作田医師がトラブルの現場を確認することなく、患者の訴えを鵜呑みにして、一方的に将登さんを副流煙の発生源と事実摘示したことである。また、原告のひとりに約25年の喫煙歴があった事実である。さらに別の原告については、診察することなく、診断書を交付した事実である。

面識すらなかったのである。この点に関して原審は、医師法20条違反を認定した。

つまり事実的根拠に乏しい診断書を、根拠として4518万円の高額訴訟を起こしたのである。しかも、提訴した後も作田医師は、5通もの意見書を作成して将登さんを批判するなど、一貫して原告3人を支援し続けた。

作田医師が交付した診断書には前提事実に根拠が乏しく、しかも、それを自覚していた可能性が高い。作田医師が理事長を務めていた日本禁煙学会は、訴訟提起も推奨しており、藤井さんのケースは、訴権の濫用に該当する可能性がある。

8月20日に下される判決内容とはかかわりなく、不当裁判に対して「反訴」することは、スラップを防止する上で重要である。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年6月27日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

《ご報告とお礼》『紙の爆弾』創刊20周年/『季節』創刊10周年7・12「鹿砦社反転攻勢の集い・関西」、盛況裡に終了! 4・5東京に続く二つの「反転攻勢の集い」の成功によって、共に苦境を突破しよう!

株式会社鹿砦社代表 松岡利康

鹿砦社の出版活動を理解し支援されるすべての皆様!

私たちは去る7月12日、鹿砦社のホームグラウンドである兵庫県西宮において「鹿砦社反転攻勢の集い・関西」を催し、50名余の方々が参加され盛況裡に終了することができました。

4月5日、東京日比谷・日本プレスセンターでの集いが100名余ですから、人数だけを見ると半分ですが、元々関西にはライターさんが少なく、いつもこんなところです。

また、集いの構成も三部構成で、第一部は20年前の7・12事件の検証と回顧、私が基調報告を行い、当時、地元テレビ局記者として精力的に取材をされ何度もニュース番組で特集を組んでくださったNさん、私が保釈された直後に同じ神戸地検に逮捕されたWさん(当時宝塚市長)も当時の神戸地検の捜査の酷さを証言してくださいました。第二部は、今年デビュー25周年を迎え、このかん全国の刑務所、少年院などを回り獄内ライブ(ご本人らが言うプリズン・コンサート)を行ってきた「Paix2(ぺぺ)」のミニライブ、第三部が懇親会という流れで、3時間という長丁場でした(東京は2時間)。さらに二次会にも15名の方が残り、遅くまでいろいろ語り合いました(東京は二次会なし)。硬い話ありライブあり飲み食いあり自由な歓談ありの濃密な一日でした。

基調報告をする松岡

◆4・5、7・12の二つの「反転攻勢の集い」をステップとして苦境を突破し、『紙の爆弾』『季節』を、存在感のあるミニメディアとして継続させよう!

よく考えてみてください。『紙の爆弾』にしろ『季節』にしろ、わが国には類誌がありません。本来ならもっと売れてしかるべきですが、私たちの宣伝力の弱さにより、いまだに社会的に小さな存在です。『紙爆』はわずかながら黒字ですが、『季節』は創刊以来ずっと赤字です。会社が好況だった時期は、これでもよかったのですが、新型コロナ襲来以降、局面ががらりと変わり、蓄えもすべて溶かし、資金不足、苦境に喘いでいることを隠しません。今現在、両誌を同じ月に発行するのが困難で、やむなく『紙爆』は8月売りの号をお休みさせていただかざるを得ませんでした。

両誌の今後につきましては、極めて重要な選択と改変を迫られており、皆様方にも前向きなご意見を賜りたく存じます。7・12でも『季節』の今後について、私に直談判にお越しになった方もおられました。

私たちは、なんとしても両誌を継続的に発行し、まさに反転攻勢を勝ち取るべく、塩を舐め、たとえ「便所紙」を使ってでも発行を続ける覚悟です。

先の二つの集いには計150名余りの方々がご参集くださいました。これは大きなことです。ふつうなら会社が厳しくなると、こういう集まりを避けられがちになりますが、まだまだ見捨てず時に温かい叱咤激励、時に有り難いご支援をされる方々がおられることは私たちにとって大きな力になります。この方々のお力もお借りし、この苦境を乗り越えていきたく存じます。本来なら自立自存でやっていければいいのですが、残念ながら今は皆様方のご支援なくしてはやってはいけません。

しかし、人件費をはじめ徹底した経費削減、製作費用圧縮、また落ち込んでも一定の売上があることなどによって、月々の不足金も縮小しつつあります。書店や取次会社も元気を失くし書店での売上金が縮小していることは事実で大きな痛手ですが、これを今後は直販などでカバーしたく思っていますので、「セット直販」や『紙爆』『季節』の定期購読と拡販、バックナンバー購読、あるいは書籍の直販など、よろしくお願いいたします。

今しばらく耐え抜き、必ずや勝機を掴みブレイクします! 過去の成功例に酔い知れるのも問題がありますが、私たちはこれまで、幾度となく困難に直面し(その最たるものが20年前の「名誉毀損」逮捕事件)、その都度、皆様方のご支援を得て乗り越えてまいりました。今回も同じく、なりふり構わずなんとしても乗り越える決意です。

◆二つの雑誌の存在意義(レゾンデートル)、鹿砦社の出版活動の社会的意義を、あらためて想起し、再び逆襲、反転攻勢へ!

私たちの出版社・鹿砦社は、良くも悪くも、これまで芸能本の売上によって支えられ、『紙爆』『季節』やその他、社会問題書など、いわゆる“硬派”の書籍の発行を保証してきました。これで年間10億円売り上げたこともありましたので、これはこれで評価すべきでしょう。20年前の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧後、復活の元になったのも芸能本で、私たちの規模の会社でコンスタントに3~4億円の売上が続きました。それが、このコロナ禍によってガラリと崩れました。コロナを甘く見て、これについての対応が後手後手に回ってきました。大いなる反省点です。

トーハン、日販の大手取次も、本来の出版取次業務はずっと赤字で、介護やホテル経営など非出版取次業務のほうにシフトしています。書店も、書籍、雑誌だけでは売上不足で、書店をよくご覧になったらわかりますが、文具など非出版物に力を入れています。

『紙爆』20年、『季節』10年、われながらよく頑張ってきたと思います。しかし、これまでと同様の認識、やり方ではやっていけないことが露呈されました。直販や定期購読などを拡大していくことも一つの方策だと思います。雑誌や書籍などの「紙」の出版をやめて電子書籍にシフトしたら、というご意見もあり、電子書籍はサイゾー社と五分五分の共同出資で10年ほど前に別会社を作りやっていますが、さほど売上が立ちません。『紙爆』も『季節』も「紙」と同時に電子書籍を発売しています。今後はわかりませんが、早急な会社再建の柱にはなりません。

しかし、『紙爆』にしろ『季節』にしろ、社会性があるのは事実で、他に類似誌もありません。書籍でも左右硬軟織り交ぜて鹿砦社らしくタブーなく雑多に出してきました。芸能本でも、例えばジャニーズ問題は1995年から追及し、3度の出版差し止めにもめげず続け、一昨年のジャニー喜多川による未成年性的虐待問題では、事前から水面下でBBCに協力し、その先駆性が高く評価されました。

このかん「セット直販」をやるために、これまで出版してきた書籍の一部をリストをリスト化しましたが、どれも社会性があり、よくもこれだけ出して来たなとあらためて感慨がありました。古い本には、当時の気持ちを思い出し、浮き沈みの激しかった出版人生を想起し、もう一仕事、二仕事し、拙いながらやってきたわが出版人生を全うしないといけないな、と思い知りました。

 やはり、こうした出版は続けるべきだし、販売方法ややり方を工夫すれば、今後も続けていきたいし、続けて行けると信じています。近日、精神科医の野田正彰先生の著作を2点出す予定で進めていますが、今後の試金石になると思っています。

◆私(たち)はくたばらない! 『紙爆』『季節』継続! 後々に残る書籍の刊行を持続します! 

私が本格的に出版を始めた頃、歴史家の小山弘健先生に教えていただいたクラウゼヴィッツの「われわれの出版の目的は一、二年で忘れ去られることのない本を作ることである」という言葉を思い出しました。そうして出版したのが、『日本マルクス主義と軍事科学』という本で、引っ越しで書庫を整理しているとまとまって30冊ほど出てきました。皆様にもぜひ読んでいただきたい一冊です。

4・5、7・12と二つの反転攻勢の集いを準備する過程で、多くの皆様方のご支援、ご厚意に触れることができました。それなりに支援金も集まり、2つの集いの直接的費用を支払っても余剰金が出て経費などに使わせていただきましたが、一番底の時期で、かなり助かりました。

同時に、いろいろ考えることも多く、「われわれはなぜ出版を続けるのか?」という本質的な問題にぶつかりもしました。私の出版人生は、このコロナによる負債(特に皆様のご厚志である社債)を今後返し終えるまではやめれなくなり、少し延びましたが、なんとか「一、二年で忘れ去られることのない本」を、一冊でも二冊でも出して行きたいと思っています。

私(たち)はくたばりません。4・5、7・12の二つの集いは、まだまだ多くの皆様の期待が残っていることを私たちに思い知らせ、「弱音を吐かず、もっと頑張らんかい!」という叱咤激励をいただきました。いろんな意味で収穫が大きかった二つの集いでした。準備などもきつかったですが、共に語り合い共に喜び合った集いでした。最悪の事態は脱し山は越えたとはいえ、もうしばらく苦しい時期は続くかと思いますが、今後共ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

最後になりますが、二つの集いに参加された皆様、ご支援の賛同金、カンパ、ご祝儀を賜りました皆様、本当に有り難うございました。心より感謝とお礼を申し上げます。

以上簡単ですが、7・12「鹿砦社反転攻勢の集い・関西」のご報告、そして4・5の前後からのご支援への感謝を申し上げます。

本年も超猛暑が続くようですが、くれぐれもご自愛ください。

いつもこの場所にはPaix2(ぺぺ)がいた

《書評》甲斐弦著『GHQ検閲官』の読後感

江上武幸(弁護士)

阿蘇の北外輪山に、カルデラの中央に横たわる涅槃像の形をした噴煙をたなびかせる阿蘇五岳をながめることができる絶好の観光スポットがあります。外輪山最高峰の「大観峰」と呼ばれる峰です。小国町の温泉旅館に宿泊したときなど、天気がよければ大観峰まで足を延ばし雄大な阿蘇の景色をみて帰ったりします。

最近、熊本インター経由で久留米に帰るため大観峰から内牧温泉にくだる道を通ったことがあります。山の上の広々した草原地帯と異なり、道の両側には鬱蒼とした杉林が続いていました。おそらく、湯けむりで湿った空気が斜面をのぼり、時には雨を降らせるような地形が杉の成長に適しているのではないでしょうか。

ところで、昨年12月に関東地区新聞労連の役員会に招かれたことから、ネットで新聞の歴史を調べていたところ、偶然、甲斐弦熊本学園大学名誉教授の『GHQ検閲官』(経営科学出版)という本を見つけました。

甲斐弦『GHQ検閲官』(経営科学出版)

「元検閲官だった著者が米軍検閲の実態を生々しく描き出した敗戦秘史がここに復刻」・「敗戦で日本人は軍のくびきから解放され自由を与えられたと無邪気に信じ込んでいるが、戦争は終わったわけではなく、今なお続いているのである。」とのカバーに目をひかれ、さっそくアマゾンで購入しました。

◆著者の甲斐教授について

著者の甲斐教授は、1910(明治43)年に熊本県阿蘇郡内牧町(現阿蘇町内牧)に生まれ、旧制第五高等学校から東京帝国大学文学部英吉利文学科に入学、佐渡中学校教諭、その後、約7年間の蒙古政府官吏を経て、昭和20年6月18日に現地で応召、翌年の昭和21年5月13日に佐世保に上陸、15日午前8時49分熊本駅に着き郷里に復員されています。熊本駅の到着時刻まで記録されており先生の几帳面さが窺えます。ちなみに私の父は明治45年生まれなので、甲斐教授を父に置き換えることで、当時の先生の周りを囲む人たちの生活・行動・考え方・心情等をリアルに感じることができるような気がしています。

先生は、前もって故郷に引きあげていた奥さんと幼い二人の子供達が無事だったことを喜び、同時に、我が子のようにかわいがっていた亡兄の子(甥)が戦死したことを知ります。一人息子の戦死の公報を受け取った兄嫁の狂ったような悲しみを描いた文章は秀逸であり強く胸を打たれます。

「(戦死の公報がはいった)数日後の夜更け、異様な叫びに姪は目覚めた。離れに飛んでいくと、母(兄嫁)が半裸になって四つ這いとなり、畳を掻きむしって泣いていた。爪は血だらけであった。髪を振り乱し、これも血だらけとなった額を何度も何度も畳に打ち付け何で死んだ、何で死んだ、と獣のように吠え続けた。」

私が、冒頭で阿蘇の大観峰から内牧温泉に下る道の杉林のことにふれたのは、次の一説を見つけたからです。

「何とか収入の道を講ぜねばならぬ。ホテルがダメなら開墾をやるしかない。開墾の話は私の復員直後に持ち上がったもので、(引揚者互助会の)幹部が役場に日参して、町長や助役を説いて承諾させたものである。」

「開墾予定地は私の家からは目と鼻の距離にあった。北外輪山の一角、遠見ヶ鼻 -今は徳富蘇峰翁の命名で大観峰と呼び名が変わったが- その大観峰から流れ落ちる尾根の一つが、湯山と呼ぶ古い湯治場の手前でわずかにカーブする。その東南の斜面に予定地はある。尾根の頂きと山すそは杉の町有林となっているが、あとの斜面はみな篠竹に覆われている。そこを借り受けて切り開こうというのである。」

その描写は、私が大観峰から内牧温泉に降りてきた山道の情景そのものでした。戦地から身ぐるみ一つで故郷に引き上げてきた著者が、家族を養うために慣れない開墾の仕事に汗水にまみれて打ち込む姿が目に浮かんできます。

開墾を始めた6月の19日の日記には、「今日は19日。月こそを違え、結婚記念日。ともかくも家族4人、何とか生きていることのありがたさ。京浜地区の餓死者を思うと、ぜいたくは言えない。」と記してあります。

先生は、職を見つけるために熊本市に出向いたおり、朝日新聞の記事で博多の米軍第三民間検閲局(CCD)が外国語の出来る者を百名ほど翻訳係として募集しているのを知ります。さっそく熊本から博多に向かい採用試験を受験し翻訳係に採用されます。36歳の時です。本俸700円、手当200円、土・日の週休2日、外に月2回の公休。野菜や魚の公定価格での配給など、まずはAクラスの待遇であったといいます。

◆同胞を裏切る仕事に耐えがたい嫌悪感

先生が福岡の米軍第3民間検閲局(CCD)に勤務されたのは、昭和21年10月28日から同年12月27日までのわずか61日です。その時の自分のことを「アメリカの犬」と評しておられます。米軍の手先となり検閲要領に抵触する手紙を片っ端から翻訳し、危険人物と思われるものはブラックリストに載せ、あるいは逮捕し、場合によっては手紙そのものが没収されるという、同胞を裏切る仕事に耐えがたい嫌悪感を感じておられたことが伺えます。

「同胞の秘密を盗み見る。結果的にはアメリカの制覇を助ける。実に不愉快な仕事である。」

先生は、そのような忸怩たる思いを抱えながらも、外輪山の山麓でひたすら先生の帰りを待つ妻子のために、見ず知らずの日本人の手紙の翻訳作業を黙々と続けておられたことがわかります。

◆著作にふれて感銘を受けたふたつのこと

私は、先生のこの著作にふれて、特にふたつのことに感銘を受けました。ひとつは先生の家族に対する愛情の深さです。その愛は、なかんずく先生より先に旅立たれた長女の津賀子さんに最も多く深く注がれていたことを感じざるを得ません。

もう一つは人の評価です。先生は反共の闘志として鳴らした友人を訪ねたとき、その友人が共産党中央委員を独占取材したインタビュー記事を新聞に掲載したことを自慢げに語るのを見てがっかりします。友人の節操のなさに失望された先生は、節操によって人を次の3つに区分されています。

「一番偉いのは節を守って死んでいった人たち、次が私みたいな憂鬱組。どんじりが、彼のような自称文化人。たちまちに看板を塗り替えて、時世に媚び、朗らかに飛び回っている連中だ。」

先生は、福岡での仕事は2ヶ月で見切りをつけ、熊本にもどり大学での教育・研究、著作業にその後の人生を捧げられます。

◆何故、誰一人として自己の体験を公表しないで生きてきたのか

さて、私がメディア黒書に甲斐弦先生の『GHQ検閲官』を取り上げたのは、「占領軍が放送、新聞、雑誌、書籍、映画、演劇、紙芝居等々、あらゆるメディアの徹底した検閲を行ったこと。併せて郵便、電信、電話の検閲が行われ民間検閲局(CCD)がそれらを担当したこと。CCDは日本を3地区に分け、東京、大阪、福岡に検閲本部を設置し、通信工作のうち郵便は2億通、電報は1億3600通開封され、電話は80万回も盗聴されたこと。優に1万人以上を超える英語力を扱える日本人が検閲官として働いていたこと。」をこの本で知ったからです。

戦後50年を経て、ようやく甲斐教授が自らの検閲官としての経験を本書で刊行されたことから、戦後生まれの私も占領期の日本社会の実相に迫ることができました。生活の為とはいえ、占領軍の手先となり検閲作業に従事し、その後、日本各地でしかるべき地位を得て社会生活を送ったと思われる1万人を超える人達が、何故、誰一人として自己の体験を公表しないで生きてきたのか。

押し紙裁判に携わる中で、新聞が戦前戦中はもちろん戦後も政治権力の広報機関としての役割を担わされそれを果たしてきたこと、戦後日本にジャーナリスト精神なるものが存在するとしたら、なぜ、新聞やテレビがジャーナリズムとしての本来の役割、すなわち権力の監視機能を果たせていないのか、未解決の朝日新聞の阪神支局の記者殺害事件にみる気味の悪さや、押し紙問題から目をそらす新聞人の言動などに思いを致すと、甲斐先生が「一番偉いのは節を守って死んでいった人たち。」と言われている言葉の重さがズシリと伝わってきます。

幸い私たちは「失われた30年」あるいは「日本中枢の崩壊」といった日本社会の本質をずばりとつく言葉を持ちえています。新聞・テレビの崩壊と反比例するようにSNSのネット情報が拡散・拡大しています。それに刺激されて若い世代の人たちが、新聞・テレビの既存のマスメディアの再生に尽力すれば、きっと遠い将来ではあっても、いつかは平和で豊かな日本を築き上げることが出来ると信じて疑いません。

甲斐先生は、2000(平成12)年8月21日に、89歳の生涯を閉じられました。私の父も90歳を前に他界しています。私は先生のこの著作に出会ったことで私達世代の父親の時代がどのような時代だったのか肌感覚で知ることが出来ました。今、先生はこの世で一番愛されたであろう娘さんと、あの世で永遠の命を共にしておられるだろうと思います。ありがとうございます。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年5月5日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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