『エロい格闘技』の神テクを見せつけたキャットファイト「加川万博 新木場 1st RING」

10月30日、19時から行われた「加川万博 新木場1stRING」 は、キャットファイトの団体、CPEがバックアップして、ニコニコ動画の人気配信者であるティロ・フィナーレ加川が格闘技を仕切るというもの。

MCパートナーにこれも人気配信者の石川典行を配して、しんやっちょ、 便所太郎、TJ、なあぼう、ももえり、杏音、みずにゃんなどの人気レスラーを集めてのイベントはおおいに盛り上がった。

「だが、一番盛り上がったのは、ももえりと杏音の『追いはぎデスマッチ』でしょう。この日に収録しているニコニコ動画は基本的にエロはNGだから、絶対に乳首ポロリや股間ポロリはNG。それでも、杏音は乳房が見えそうで見えない絶妙な脱がせかたをされていたし、股間を広げるのも格闘技に見える範囲で、まさしく『エロい格闘技』の神テクを見せつけました」(ファン)

ゲームや料理実況、雑談、アニメ批判などマシンガントークでたくさんのファンをかき集めた「ニコ生の神」の加川もバトルロイヤルに参加し、「か~が~わ~」のコールが鳴り響いた。
「ニコ生を見ていない人はなんのイベントかよくわからないでしょうね。それでも、金曜という忙しい夜なのに会場は超満員。そしてカップルも多く来場するという人気ぶりを見せてつけた。

要するに「素人あがり」が客を集める時代が到来したのだ。
「ニコ生ファンは、地下格闘技であるキャットファイトとうまく客層がリンクする。これからもニコ生とキャットファイトはコラボしていくのでしょう」(同)

それにしても最後に、全員の挨拶が終わっているにも関わらず、「唯我」という格闘技家が乱入して「おれと勝負しろや加川!」と叫んであと味の悪さを残した。これが「加川万博」の第2弾の予告だとしたら、演出もまさにプロ。素人っぽいイベントがプロのそれを陵駕する時代がやってきたといえるだろう。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、著述業、落語の原作、官能小説、AV寸評、広告製作とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論!」の管理人。

◎NJKF-DUEL.3「勝利に飢えた猛獣たちの決闘・第三章」報告
◎美しきムエタイ女子リカ・トングライセーンのど根性ファイトに大喝采!
◎日本のキックボクシングが情熱と音楽の大国アルゼンチンと繋がった日
◎川崎中1殺害事件の基層──関東連合を彷彿させる首都圏郊外「半グレ」文化

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ルール変更の紆余曲折から辿る日本キックボクシング界の栄枯盛衰クロニクル

「ヒジ打ち無し、首相撲(首を掴んでの崩し)無し、3回戦」こんなルールが21世紀に入った頃から蔓延し、キックボクシング界はいま、本来のルールが曖昧になってきています。それが時代の流れと言われていますが、本家のムエタイは、長い歴史の中で基本的ルールの大きな変動はありません。その競技の在り方にキックボクシングとの確固たる違いが表れています。

◆1969年「投げ技禁止」──「キックの鬼」沢村忠はボディースラムでKO勝ちしていた!

昭和41年(1966年)設立当時の老舗、日本キックボクシング協会(日本系)ではルールの制約が少ない時代でした。禁止技はサミング(目潰し)、股間への打撃、噛み付き、ダウンした相手への攻撃、ロープを利用した攻撃、レフェリーへの反発など競技として当たり前の範疇。それが昭和44年(1969年)に全日本キックボクシング協会(全日本系)が設立されて、ここではムエタイ・ルールを参考にしたルールが確立され、投げ技が禁止されました(日本系は投げ技可能)。

日本ヘビー級チャンピオン(当時)の斉藤天心(目黒)は首投げでKO勝ち、日本ミドル級チャンピオン(当時)の渡貢二(モリトシ)はバックドロップでKO勝ち、東洋ライト級チャンピオンの沢村忠(目黒)はボディースラムでKO勝ちするなど、それらの試合はテレビで放映されました。いずれもプロレスラーがやるような見え見えを狙って高々と抱え上げるものではなく、組み合ったりもつれあったりの流れでの展開。元々は、日本人が強いムエタイに勝つにはキックボクシングの独自のルールが必要という考えから、「掴んで投げてしまえ」という発想があったものと言われています。

WKA世界ミドル級チャンピオン田端靖男、マーシャルアーツスタイルの試合(1983.5.21撮影)

◆1976年「頭突き禁止」──禁止技が増える一方で競技の在り方も成長

更に昭和51年(1976年)9月から、日本系で頭突きが禁止されました。やっぱりテクニックの凌ぎ合いとは違う、危険な衝突だろうと言われています。こうして日本のキックボクシングが経験を積み、禁止技が増え、競技の在り方が成長していったのでした。他、日本系はフリーノックダウン制(ひとつのラウンド中、何度ダウンしても立ち上がってくれば続行)、ラウンド間のインターバル1分。全日本系は3ノックダウン制(ひとつのラウンド中3度ダウンすればKO負け)、ラウンド間のインターバルは2分でした(因みに昭和47年〔1972年〕3月まで、2系列とも“全日本キックボクシング協会”という名称で、同年4月よりTBS・野口プロモーション系が日本系に移行。それまでのラウンド間のインターバル2分を1分に変更。他、主要ルールは上記どおり)。

◆1984年の団体統合でルールが統一されるも、1987年に再びルールは多様化へ

武藤英男(伊原/右)vs 鴇稔之(目黒/左)画期的統合団体の日本キック連盟初戦での初タイトルマッチは武藤英男が勝利、日本フライ級タイトルマッチ(同連盟認定)(1984年11月30日撮影)

その後の低迷期で分裂や別競技に転向など、バラバラな団体の時代を経て、昭和59年(1984年)に統合団体となって設立された日本キックボクシング連盟では、過去の各団体のルールから平均的な、また妥当なルールが決定しました。

主な点は、投げ技は禁止、ラウンド間インターバルは1分、3ノックダウン制。その後、昭和62年(1987年)7月、全日本系が復興。ここでは多様なルールが採用される時代になっていました。キックボクシングは基本ルールと呼ばれる当たり前のルールが存在しましたが、昭和52年(1977年)、旧・全日本系時代に、ベニー・ユキーデ(アメリカ)が初来日した頃からのアメリカで誕生したWKA(世界空手協会)はプロ空手ルール。1ラウンド2分の7回戦が基本的ローカルルールで、キックの5回戦に相当。長いパンタロン式のマーシャルアーツタイツを履き、1ラウンド中、腰より高い蹴りを8本以上蹴らないと減点ルールがありました(復興後からは国内では廃止)。これは、アメリカではボクシングが主流で、パンチだけの打ち合いの展開になりがちなことを防ぐ狙いがあったと言われています。更に、ヒジ打ちとヒザ蹴り禁止、足の甲にはパットの防具着用。骨が直接当たることが野蛮という解釈があるお国柄と言われています。昭和60年(1985年)には元日本ミドル級チャンピオンのシーザー武志氏がシュートボクシングを設立。投げ技も明確なポイントとなるルールでした。

鴇稔之(目黒/左)vs 赤土公彦(キング/右)=バンタム級MA日本vs全日本交流戦は引分け(1992年3月21日撮影)

キックボクシングとしてのヨーロッパルールは、顔面へのヒザ蹴りと内股へのローキックが禁止されていました。これは股間に当たる危険性を防ぐ狙いがあったと言われています。更にムエタイルールが重視され始めた頃で、蹴り技が重視される採点に移行されました。キックボクシング系競技の発祥がバラバラで、ルールも多様化は仕方ないところではありました。

◆1996年、「キックボクシングとは、打つ、蹴る、投げる」の野口発言で「投げ技」復活

平成8年(1996年)、今度は 日本系の復興。そこで創始者の野口修氏は復興記者会見で「キックボクシングは、打つ、蹴る、投げる、三拍子揃った競技」と発言。そこで困った顔をしたのが、それまで定期興行を前団体で担ってきた役員たちでした。「投げがあってはシュートボクシングになってしまう」と、何とかムエタイ式に「首相撲からの崩し」に表現を変えました。

日本系が活動を停止した昭和59年(1984年)までは、曖昧な時代で皆忘れがちでしたが投げ技は禁止されていませんでした。野口氏がそれ以来の業界復帰で、創始者として発言に間違いはないのですが、アメリカ路線を主張するブランクある野口氏と現状スタッフの間にギャップがあるのは仕方がないところでした。ただしその後、ムエタイ路線重視のため、1998年5月、伊原信一代表の新日本キックボクシング協会に移る運命を辿ることになりました(野口修氏はWKBA代表を伊原氏に任命するなど親密に友好関係を継続)。

ルンピニースタジアムでのムエタイ試合(選手名不明)(1993年9月撮影)

キックボクシングの流れが大きく変化したルール問題はここからで、これまでは競技の進化のなかで起こったルールの改革でしたが、ここからテレビのお茶の間重視の別イベント競技の影響を受け始めました。5回戦が3回戦に短縮されるルールが各団体で起こり、更に、ヒジ打ち禁止のルールも蔓延。ここで元祖ムエタイルールに顧みる動きもありつつ、どちらも容認する柔軟な形に変わっていきました。今や「ヒジ打ちなんて危ないじゃないですか」と平気で発言し、ヒジ打ち無しルールを選ぶ若い世代の選手もいるという、「キックボクシング競技も大きく変化したものだと諦めざるを得ないのか」と嘆く関係者もいるようです。

◆「ボクシング法」を有するタイの「国技」ムエタイが日本のキック界を変えていく?

こんな私的団体で成り立ってきたキックボクシング系競技に対し、本場タイ国の競技ムエタイは、公的機関が管轄する構築された組織が出来上がっており、1999年に施行された、「ボクシング法」という法律まであって見事な世界の様子です。

ムエタイルールによりワイクルーを舞う江幡睦(2015年3月15日撮影)

タイの格闘技は4つのカテゴリーがあり、1.プロムエタイ、2.プロボクシング、3.学校等主催の格技(アマチュアの範疇)、4.他種競技。上記3つに当てはまらないものは、4になり、スポーツ省傘下の競技委員会により審議され許可を得なければ開催できません。

ムエタイ試合でも公式ルールから外れるヒジ打ち無し、3回戦、ワンデートーナメントなどは、4の扱いになります。試合後、21日を経過しないと次の試合に出場は出来ず、KO負けの場合は30日の経過が必要になります。構築した競技ながら、律儀な日本人からみれば“ルーズなタイ人”と言われるお国柄では、「ルールを守らない、守る認識が無い、何とかなるだろう」などの甘い認識が普通で、主要スタジアムでの試合後、数日後に日本の試合に出場し、バレてタイで出場停止を受ける選手も多いようですが、徐々に、融通利かないルールだという認識は高まっているという声もあります。

日本のキックボクシング界もレフェリングに問題があった過去の経緯から、レフェリー協会なる組織も誕生し、どの興行でも公平に、反則に厳しく、早めのストップも取り入れ、当たり前の改革ながらも進化してきました。昔は、倒れた相手を蹴ったり、明らかな頭突きなどを黙認したり、審判サイドが選手陣営セコンドの抗議に屈したり、優勢な展開も50-50の引き分けだったりと、不可解な裁定も頻繁にあり、審議する機関も無く曖昧な世界でしたが、今ではかなり改善された状況です。

本場ムエタイの組織がレフェリー講習を開催するなどの活動も頻繁に行われ、本場ムエタイの存在が、日本のキックボクシングを率いて、共存共栄が続いています。今後の競技の発展がどう進むのか注目です。

リカ・トーングライセーン(センチャイ)=女人禁制のムエタイも大きく変わり、女子試合も活発に開催(2015年6月28日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち
◎群雄割拠?大同小異?日本のキックボクシング系競技に「王座」が乱立した理由
◎9.27WBCムエタイ戦──強豪たちの本気の対戦がムエタイの権威を高める!
◎倒すか?倒されるか?日本キックボクシング連盟「大和魂シリーズ」vol.4報告

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《ウィークリー理央眼027》戦争法案に反対する若者たち VOL.21 金沢

9月12日(土)、石川県金沢市で安保関連法案(戦争法案)に反対するデモが行われた。
主催したのは、石川県内の若者たちが集まって作った「CHOOSE OUR FUTURE, DON’T LET ‘EM」だ。


[動画]戦争法案に反対するサウンド・パレードin金沢 – 2015.9.12 石川県金沢市(12分11秒)

参加者は250人、金沢で行われた無党派デモとしては過去最大規模の人数だった。普段行なわれているデモの参加者は50~80人程度なので、いつもの3倍以上だ。主催者もこの想定外の人数に驚いていた。
更に言えば、金沢のデモは年齢層もわりと高めなのだが、今回のデモは若者率が高く3割以上が若い人だった。各々が隊列の中でばらけていて行進中は分からなかったものの、デモ解散地にいた若者の多さには正直ビックリした。
今回のデモの若者率が高かったのは、コースが長く高齢者が少なかったというのもあったのだが、やはり普段デモに来ない若者が実際に多く参加していたというシンプルな理由によるものだった。中には隣の富山県から、この若者主催のサウンドデモに参加しに来た若者もいた。これまで集まれる場が無かっただけで、北陸の若者たちも「安全保障関連法案」に関心があり、反対の意思表明をしたいと思っていたのだ。

また、若者を多く集めた要因の一つには「サウンドデモ」という手段を選んだこともあったはずだ。
サウンドカーを使ったデモは金沢では初めてで、「若者デモ」「サウンドカー」「安保法案」というホットなエレメントが揃っていて、マスコミの注目度も高く取材の人数も多かった。
それは取材陣だけに留まらず、街の人々からの注目度も非常に高かった。いつものデモだと街の人たちにスルーされることが少なくないのだが、今回のサウンドデモは手を振ってくれたりする人が多くいた。

これが金沢のデモのフライヤーだ。
「カッコイイなぁ」「オシャレだなぁ」とも思ったが、それよりも何よりも「生活の延長線上にデモが位置づけられているんだ」と、私はまずそんな感想を持った。フライヤーに写っている人物がサウンドカーに乗ってプレイしていたDJで、自分のセンスで作ったそうだ。
クラブミュージックが好きな人が安保法案に反対していることを分かってもらいたくて、フライヤーにデモっぽさを無くしたという。私が感じた「生活の延長線上」というのはそこにあったようだ。

実のところ、サウンドデモはスベる事もあるのだが、金沢では普段のデモより街の反応が良かった。一体、何故だったのだろうか。そんな疑問を、主催者の一人に尋ねてみた。
「地方は特にデモコースが限られるので、わりと通行人にデモへの慣れがあったことが土台かもしれません。そのうえで今までにないサウンドパレードという形態が古くからのデモと180度雰囲気が違ったことが大きな要因でしょう。沿道から見て若い人がガチで多いのも好印象だったと思います。そして事前にデモコース周辺の店に告知に回ったのが大きかったですね。それと金沢は保守的ですが、他の土地と違って文化や芸術への理解があり、わりと進歩的な芸術家やミュージシャンが多いのです。そういう人たちのちからもあったと思います」
「基本的に、SEALDsとか反原連の流れはあると思いますが、僕たち地方の人間としたら『東京のコピー』と取られるのが一番嫌なので、金沢に合う運動形態を常に考え続け、東京をギャフンと言わしてやりたいと思ってるのが一番大きいですね」

今回のデモは、色鮮やかなピンク色をしたバナーが非常にキレイだったし、シュプレヒコールより音楽がメインという印象だったのだが、それも一つのポイントだったのかもしれない。つまりは「怒っていない」こと、怒りの表明の少なさがその答えだったのではないか。
金沢は保守的で、デモで声をあげにくい土地柄だ。それはデモに参加する人だけでなく、それを目撃する街の人も同じで、デモに対する反応さえもしにくい。その点、怒り少なめのサウンドデモには反応がしやすかったのだろう。
もちろん、主催者の方々の気配りやセンス、参加者の真剣な姿、それらが根本にあったから良いデモができたのだ。そこを忘れてはいけない。

「CHOOSE OUR FUTURE, DON’T LET ‘EM(=私たちの未来は私たちが選ぶ、彼らには決めさせない。)」、そのような心強いグループ名の若者たちが金沢で声をあげた。彼らは北陸の希望だ。



[2015年9月12日(土)・石川県]

▼秋山理央(あきやま りお)
1984年、神奈川県生まれ。映像ディレクター/フォトジャーナリスト。
ウェブCM制作会社で働く傍ら、年間100回以上全国各地のデモや抗議を撮影している現場の鬼。
人々の様々な抗議の様子を伝える写真ルポ「理央眼」を『紙の爆弾』(鹿砦社)で、
全国の反原発デモを撮影したフォトエッセイ「ALL STOOD STILL」を『NO NUKES voice』(鹿砦社)にて連載中。
11月21日には全国の路上でヘイト・スピーチと闘うカウンターの姿を追った初写真集『ANTIFA アンティファ ヘイト・スピーチとの闘い 路上の記録』(鹿砦社)が全国書店にて発売決定!

《ウィークリー理央眼》
◎《025》戦争法案に反対する若者たち VOL.19 川越
◎《024》戦争法案に反対する若者たち VOL.18 郡山
◎《023》戦争法案に反対する若者たち VOL.17 弘前
◎《022》戦争法案に反対する若者たち VOL.16 仙台
◎《021》戦争法案に反対する若者たち VOL.15 秋田

歌舞伎町ぼったくり裏事情《4》東京五輪を前に警察が浄化作戦を始動?

「お兄さん、1時間4000円ぽっきり、追加なしで!」
男性が歩けば1度はこんな声をかけられるのが歌舞伎町だ。中にはしつこく客引きを続け、乱闘騒ぎになることもある。しかし、あまりに日常的に当たり前の光景になっていため、誰もそこに驚くことはなかった。これが長く犯罪し放題の入口になっていても、だ。

◆2015年6月歌舞伎町交番の劇的変化──民事から一転、刑事事件対応に強硬化

この執拗な客引きや勧誘は、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」などで規制され、商店会などが防止パトロールに取り組んできたが効果はなし。そこで2013年9月1日、客引き自体を規制する「新宿区公共の場所における客引き行為等の防止に関する条例」が施行された。

これはそれまで規制されていなかった居酒屋やカラオケ店への客引きも含め、客引きそのものを規制するだけでなく、客を待つ「うろつき」「たたずみ」「たむろ」までも禁止した。

しかし、この条例は骨抜きだった。条例には罰則がなく違反しても何もペナルティがない。そのため条例施行の9月1日にもキャッチは横行するという冗談のような光景があった。ただ、キャッチの問題はこれが「ぼったくり被害」への誘いという重要なものだったため、相次ぐぼったくり被害に15年に入り、大きな変化があった。歌舞伎町交番の対応が劇的に変化したのだ。

「特に6月に入って明らかに警察の姿勢に変化がありました」
そう話すのは当のキャッチ男性、佐上俊介(仮名)。29歳でキャリアは6年、高校卒業してしばらくは無職だったが、歌舞伎町の飲食店に務める知人を通じて客引きを始めた。初の就職先がキャッチだったのだ。佐上は当初、問題のないキャバクラ店への客引きが主体だったが、すぐにより稼げる「ぼったくり店」の仕事を引き受けるようになった。
「キャッチの中でも、ぼったくりは受ける人と受けない人がいますが、自分はあまり関係なかったッス」

ぼったくり被害を生むと窓口になったキャッチは恨まれるため、被害者に追われることもあるが、佐上は学生時代にケンカ三昧の日々を送っており、怖い者なしだった。これまでぼったくり店に客を何百人と送ってきた彼だが、いまだ刑事罰を受けたことはない。

「あくまで自分は店に客を紹介するだけ。店とは関係ないッスから」
「前は、ぼったくり被害者が『4000円ぽっきりと聞いたのに、20万円も請求された』とか客が言っても、店は『客が無銭飲食をしてる』って言い張って平行線になってたんスよ」と佐上。

警察は支払いの問題に関しては民事不介入を原則としており、両者の話には入らず、『双方、よく話し合いなさい』という対応までだった。しかし、6月からは客が交番に駆け込むと、被害者をまず新宿署に連れて行き調書をとり、、飲食店に出向く。そして従業員を取り調べとして署に同行させ、最長48時間拘束するようになった。

ぼったくり被害は現在、毎月200件ほどの被害電話が新宿署にあるという。「ぼったくり」の一丁目一番地といわれる「新宿・歌舞伎町」だが、ついに捜査拒否の大義名分、民事不介入をひっくり返し、刑事事件として扱いするようになった。

◆東京五輪を前に浄化作戦が始動?──居酒屋「新宿風物語」事件

東京五輪を前に浄化作戦が再活発したという部分もあるが、目先のきっかけとなったのは2つの事件だ。

昨年12月末、居酒屋「新宿風物語」が「クレジットカードの明細、もしくは領収書があれば返金します」というメッセージをホームページ上に出した。この店はよくある暗いバーで値段の分からない飲み物を飲ませられる、いかにも「ぼったくり」なバーではなく、一見して通常の居酒屋だった。ネットの人気グルメサイトにも掲載されているほどだ。しかし、そのサイトのレビューでは客が「ぼったくり」と被害を報告。ツイッターでも領収書の写真を公開して、その異常な会計を示した。

被害者によると、同店では2時間の飲み放題1800円で客を寄せていたが、2名で入店すると広めのテーブルに案内され、二人なのに「お通し」だけで6人分の計2400円を計上された。さらに5人が座れるテーブルの席料として3780円、週末料金も5人分の3780円、飲み放題も2名のはずが5名分の9000円がチャージされた。本来、別途オーダーしたつまみ代を含め2万7000円ほどの支払いのはずが4万3000円ほど請求されたという。

これが大騒ぎとなって運営していた会社は店を閉店させ返金に応じたが、こうした一般の居酒屋でもぼったくりが横行していたことを警察が見過ごせなくなった。一部の夜遊びしている酔客ではなく、大衆が騒ぎしてメディアでも取り上げられる事件となると警察は本腰を入れるのだ。

新宿区内で焼き鳥屋を営んでいる主人によると「同様の居酒屋は他にもたくさんあった」という。
「お通しや席料と称して本来、不必要な支払いを高額請求するのは常とう手段のようになっていました。いまでも飲み放題の金額が安くても、つまみが異常に高いという店などたくさんあります」

そして、もうひとつ、51万円を請求した「CLUB Cenote(セノーテ)」事件も、ぼったくり取り締まりの引き金となった。被害者はぼったくり店で働かせられ、恐怖のあまり富士山麓の樹海まで逃走するという衝撃の事件だった。[つづく]

(小林俊之+影野臣直)

小林俊之+影野臣直!強力タッグの短期連載ルポ[全8回]
新宿・歌舞伎町ぼったくり裏事情──キャッチ目線で見た「警察の対応変化」
《1》「ぼったくり店」はどうやって生まれるのか?
《2》なぜ銀座のクラブにはゴタがないのか?
《3》メニューに金額明示があれば違法性はない?
《4》東京五輪を前に警察が浄化作戦を始動?
《5》御一人様51万円「クラブ・セノーテ」事件の衝撃 [近日掲載]
《6》ベテランキャッチが語る「ぼったくり」の世界 [近日掲載]
《7》「ガールキャッチ」復活と増えるプチぼったくり [近日掲載]
《8》警察の弾圧が盛り場の「食物連鎖」を増殖させる [近日掲載]

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「ビルマの夢」が実現するか?──集大成を迎えたアウンサンスーチーさんの仕事

上下院で総選挙が行われたビルマで、NLD(国民民主連盟)の圧勝が伝えられている。NLDを率いるのはアウンサンスーチーさんで、この選挙でNLDが圧倒的勝利を収めれば「実質的な実権者に就く用意はある」と語っている。ビルマの憲法では「外国籍を有する家族を持つ」人は大統領には就任できない(この不思議な条文は軍事独裁政権がアウンサンスーチーさんを排除するためだけに作り上げたものだ)から、彼女自身が大統領になることは今のところ出来ない。NLDの幹部を大統領に据えて、彼女は要職に就く計画だとの情報もある。

◆本当の政権交代は25年前の1990年5月の総選挙で実現したはずだった

それにしても(仮にこの選挙結果が伝えられている通りNLDの政権奪取に繋がれば)ここまでの道程、なんと険しく、長かったことだろう。1988年、母の看病のためにビルマへ戻ったアウンサンスーチーさんに政治参加の意思は希薄だった。しかし民主化勢力の強い要請により同年8月26日、シュレダゴンパゴタで50万人の民衆を前に初めて演説を行う。この伝説的演説は建国の父アウンサン将軍の娘、アウンサンスーチーさんの民主化への合流としてビルマ国内だけでなく、国際社会でも大きく報じられた。

そして迎えた1990年5月の総選挙でNLDは80%を超える議席を獲得する。本当の政権交代は25年前に実現したはずだった。しかし当時の軍事独裁政権は「選挙結果は無効」とし、当選したはずのNLD議員の身柄拘束や逮捕が相次ぐ。アウンサンスーチーさん自身も禁固を含め何度も自宅軟禁を強いられ、一時は外部との接触を一切禁止された時期もあった。

◆1998年、自宅軟禁下のアウンサンスーチーさんへのインタビューを決行した

私とかつての職場の同僚が彼女に会いに出かけたのはまさに、厳しい自宅軟禁が強いられていた1998年だった。軍事政権の独裁に対して欧米などは経済支援を控えていたので、当時の軍事独裁政権を支えていたのは主として日本だった(後にその位置は中国が取って代わることになる)。英国植民地時代に設計されたラングーン(現在は「ヤンゴン」と呼ばれている)の町並みは緑豊かであったが、経済状態の疲弊は一目瞭然だった。かつては大型商店であったろういくつものビルが廃墟となり、また老朽化していたし、外国人向けのホテルはどこもガラガラだった。欧米人の姿を目にすることはほとんどなかった(民政移管後ラングーンの町も様変わりし今では外資の投資が殺到している)。

当時、取材目当ての外国人の入国は厳しく制限されていた。私たちは大学職員だったから「観光ビザ」で入国し、彼女の自宅のあるユニバーシティ・アベニューに設けられた検問所まで歩を進めた。もちろん、いきなりそこへ向かったわけではなく、事前様々綿密に計画を立て、いくつかのパターンを想定してインタビューする場所も彼女の自宅以外の場所も用意していた。

検問所に着くと自動小銃を持った軍人が数人出てきた。責任者と思われる人物が「ここから先へは行けない、引き返せ」と英語で命じてきた。検問所周辺には軍人の他警察の制服を着た人間や私服警官もいたが、厳格なものではなく、広い通りの片側車線だけに検問は置かれていた。その先は比較的裕福な人々が暮らす住宅街でもあるので、住人は顔を確認して素通りできるようにしてあったのだろう。

検問所を守る軍人たちにとっても、こんなに正面を切ってやって来る厄介者はそうそうはいなかったのだろう。俄かに周辺が騒がしくなった。
「この先に住む知人から招待されている。先に行かせてほしい」
私がそう切り返すと、責任者とおぼしき男の口から聞き取れない声が発せられた。それと同時に肌の浅黒い4人の軍人が一斉に自動小銃を構え、銃口を私たちに向けた。
「私はビルマ人ではない。私たちが数日以内に帰国しなければ国際的なマスメディアの多くがその事を報じることになっている。国連にも連絡が入る。それでもよければ撃ってくれ」
たどたどしい英語でそのようなことを叫んだが、既に軍人の指は引き金にかかっている。向かい合う双方の緊張が高まる。

当初の計画では検問所で15分ほどねばり、そこへアウンサンスーチーさんが出て来て、「友人だ」として私たちを自宅に連れて行く。というのが第一案だった。しかし検問所でのやり取りは思ったほど時間が稼げず、思いの外、緊張が高まってしまった。軍人たちもかなり興奮している。撃たれることはないだろうが、これ以上そこに留まれば、身柄拘束の危険性は否定できない。仕方ないので私たちは第一案を放棄し、第二案に切り替えた。

アウンサンスーチーさんは自宅軟禁ではあっても監視付きながらラングーン市内の移動は認められているとの情報を得ていたので、自宅突入が失敗した時はNLDのNO.2であるティン・ウーさんの自宅へ移動し、そこへアウンサンスーチーさんに来てもらうプランだった。

ティン・ウーさんはネ・ウィン軍事独裁政権で大臣を経験するも、独裁政権とたもとを分かち、民主化運動に参加した珍しい経歴を持つ人物で、当時ビルマ国内ではアウンサンスーチーさんに次いで人気のある民主運動家だった。

幸い、ティン・ウーさん宅でアウンサンスーチーさんのインタビューは成功した。インタビュー終了後、しつこく尾行に付きまとわれたが、私たちの身柄が拘束されることはなかった。そして翌日の空港ではいったん出国手続きを終え、搭乗ゲートで待っていたところ、再び空港係員に呼び戻され、鞄の中のあらゆる記録媒体(ビデオテープ、カメラのフィルム、土産に買ったビルマ音楽のカセットテープなど)が没収された。何も策を打っていなければ、せっかくのインタビューも人目に触れることがなく、私たちの取材は記憶の中だけのものになっていた可能性もあった。

しかし、そのような事態を回避するために私たちは「運び屋」を準備していた。私たちより1日早くビルマに入り、観光客然として振る舞う同僚を準備していたのが僥倖だった。彼は気の毒なことにアウンサンスーチーさんのインタビューには立ち会えなかったが、取材を終えた私たちから主たるビデオとカメラのフィルムを受け取ると、その日の便でビルマを出国していたのだ。

そんなスパイごっこのような末に公開できたのが下記の取材映像だ。

http://www.kyoto-seika.ac.jp/freedom/aungsansuukyi/index.html

◆人々の夢を実現する

もうあれから17年が経過した。インタビューが終わりティン・ウーさん宅で休憩しながら歓談していた時、私は彼女に謝辞を述べた。
「今回はありがとうございました。何の縁もない私たちのお願いを、危険を冒して受け止めてくださり感謝の言葉もありません。私たちの計画は『素人にできるはずがない。夢みたいな話だ』と揶揄されましたが、今日こうやって成功することが出来ました」

そう私が述べると彼女はさらりとこう言ってのけた。
「とんでもありません。『私の仕事は人々の夢を実現する』ことですから」

「人々の夢を実現する」のが仕事。こんなセリフは普通軽々しく吐けるものではないし、不釣り合いな人が発語すれば、聞いている方が興醒めするだろう。しかし彼女の言葉は違った。私はそれまでの人世で感じた事のない不思議な心地よさに包まれた。「ありがとう。アウンサンスーチーさん。必ずインタビューは世界に公開します。何があっても」そう言いながら握手した彼女の掌は細かった。

彼女がビルマに帰国した1988年から27年、選挙で圧勝した1990年から25年、私たちのインタビューを受けてくれた1998年から17年。当初の彼女から変わったように見受けられる発言や行動もないわけではないが「夢を実現する」仕事はいよいよ集大成を迎えつつある。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

◎《追悼》杉山卓夫さん──「不良」の薬指に彫られた指輪のような刺青の秘密
◎隣のクルド人──「国を持たぬ民」が日本社会で暮らすということ
◎アフガニスタンの「ベトナム化」を決定づけたオバマ米大統領の無法
◎「一期限り」を公言しながら再選狙った村田前学長が同志社大学長選で落選!
◎挙句の果ての「1億総活躍」──狂気、矛盾、悪意、恫喝づくしの安倍暴走政権

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《追悼》杉山卓男さん──「不良」の薬指に彫られた指輪のような刺青の秘密

「え、嘘だ……」とまた全身の力が抜けた。

布川事件の冤罪被害者、杉山卓男さんが先月亡くなっていたからだ。そういえば、昨年の夏頃以来、杉山さんから電話やメイルが来ることはなかった。それ以前は飲みに行った先から「田所さん、遠いだろうけど今綺麗な女の子と飲んでるから来ませんか」と、関西在住の私にいたずらメイルがときどき飛んで来ていた。深夜に関西から首都圏に行けるはずなどないのに。

私は布川事件を知ってはいたけれども、杉山さんや桜井昌司さん(杉山さん同様に逮捕有罪判決を受けた冤罪被害者)の支援活動を別段していたわけではない。杉山さんとはたまたま冤罪被害者を支援している方を通じて知り合うことができ、明け透けな性格とお互いの容姿にちょっとした共通点があったことから、親しくお付き合いさせていただくこととなった。

映画『ショージとタカオ』(右が杉山卓男さん)(2010年井手洋子監督作品)より

◆『冤罪』食らったからって、聖人君子じゃないよ!

杉山さんは自分が「不良だった」と飲むといつも語っていた。本音ではないだろうが「おらさ、刑務所に入っていてよかったと思ってるんだ。娑婆に居たら何してたかわかんねーからな」と何度も口にしていたのが印象に残っている。たしかにその可能性は低くはなかったのかもしれない。そこそこ飲んで気持ちよくなると、あの大柄で色白の男の茨木弁からは、書くにははばかれるセリフを連発していた。

でも、杉山さんは身近な人なら誰でも知っている、頭の切れる人だった。ご自身の冤罪の再審請求も獄中で裁判資料を見直す中からきっかけを見つけたというし、私が「冤罪被害者は国による犯罪の被害者だけれども、全員が清廉潔白な人格の持ち主というのは間違っている。普通の人が『犯人』に仕立て上げられたのだから、色んな人がいるんじゃないですか」と酔いにまかせて語った時、冤罪被害者を含めその場にいた人はみな沈黙してしまったが、杉山さんだけはすぐさま「そうそう、田所さん、ええこというねぇ。ズルい奴もけっこういるし、立派な人もいる。『冤罪』食らったからって、聖人君子じゃないよ!」と同意して下さった。

嘘半分、本当半分のあの茶目っ気にあふれたメイルが来なくなったのは、報道によると昨年夏ごろから病気療養されていたからだったのだろう。短い時間だったけれども杉山さんは私の心を開いて、なんでも楽しく話しをさせて頂ける貴重な方だった。事件の経緯やその後の騒ぎについて、時々話題にすることはあったけれど、本音をいえば私にはあまり興味はなかった。それよりも目の前にいる杉山さんの人格の豊かさがいつも楽しい気分にさせてくれた。ご家族内の相談や「選挙権を手に入れたけど、どこにいれたらいいんだ」ということまで、時に電話を頂いていた。

あああ、また最近経験したのと同じ後悔だ。杉山さんから連絡が無くなった時にこちらから、お伺いの連絡をしておくべきだった。

杉山卓男『冤罪放浪記 布川事件 元・無期懲役囚の告白』(2013年7月河出書房新社)

◆獄中にいた人々へ向ける杉山さんの非凡な視座

杉山さんは若いころ「不良」だったそうだ。間違いないだろう。しかし「冤罪放浪記」(2013年河出書房新社)の中で、永山則夫さんとの交流、袴田巌さん、金嬉老さんをはじめとする獄中にいた人々へ向ける杉山さんの視座は、凡人のそれではない。永山さんの思想性を切り捨て、金さんの傲慢ぶりを平然と暴く。実際のところがどうだったのかはわからないが、杉山さんは様々な「支援しますよ」と近寄って来る人にある種の「教唆」をされても、自身が納得をしなければ受けつけなかったそうだ。逆境でも独立した「個」を持ち続けた意思の持ち主だった。

そして30年の貴重な年月を、この島国の唾棄すべき司法によって奪われた杉山さんの思いは「冤罪放浪記」の帯に記されたことばに集約されるだろう。

「裁判官の皆さん、検察、警察の皆さんに対しては、『私への謝罪は必要ない』ということを、この場を借りて言っておきたいと思います。謝られても、許すつもりはありません。  杉山卓男」

杉山さんは怖い人だった。そして底抜けに優しい人でもあった。彼の薬指には指輪のような刺青があった。「それどうして、彫ったんですか?」と聞いたら「これはね、19の時に悪さして、もう母親には迷惑をかけないように、って誓ってね。それで彫ったの」と杉山さんは答えてくれた。本当かどうかは分からないけど、お母さんへの思いはいつも語っていた。

杉山さん、私がそっち行ったらまた飲みましょう。


映画『ショージとタカオ』予告編(2010年井手洋子監督作品)

◎『布川事件』えん罪被害者支援会HP=http://www.fureai.or.jp/~takuo/fukawajiken/

▼田所敏夫(たどころ としお)
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歌舞伎町ぼったくり裏事情《3》メニューに金額明示があれば違法性はない?

昭和天皇が崩御し、バブルの終焉とともに日本社会は全国的な不況に陥った。カネはないが遊びたい、という客たちが繁華街に溢れた。このあたりからであろうか。キャッチが風俗雑誌を切り抜き、パウチ加工したものを客の目の前でチラつかせて足を留めさせ始めたのは。客は面白いように釣れた。

◆ぼったくりの温故知新──iPadで客引きする歌舞伎町のキャッチたち

平成になると、キャッチのアイテムはさらに進化する。パソコンやアイコラを駆使し、自家製のフライヤーや小冊子を作っているキャッチもいた。そして、今やiPadを所持するキャッチが増えている。

二次元の画像だったものが、iPadの普及により三次元の動画で紹介できるのである。ネット上には、世界各国の動画や画像が氾濫している。取り放題、見放題、使い放題である。これほどの規模の宣伝媒体は、過去に存在しない。

「ウチの店ではですね。こんな娘が……」
キャッチが示すiPadの画面に、目を釘付けにする 客、客、客。ネット社会らしい、新手の客引き法である。

古典的な手法で、客から法外な料金を獲るぼったくり店。時代の先端を担うiPadを駆使し、客引きに利用するキャッチたち。まさに、『温故知新』という故事がそのまま当てはまるのが、ぼったくり店とキャッチの現状なのだ。

◆「確認しなかったのは、アナタの責任でしょ」──ぼったくり店の相場は1人最低5万円前後

歌舞伎町ーセントラル通り(撮影 小林俊之)

店側としては、きちんと「客の了解」をとっている。了解をとった以上、それは「正規のオーダー」であり、これを踏み倒せば無銭飲食だ。客さえ入店すればしめたもの。あとは売上を上げるだけである。

一例をあげれば、セットを1万円程度に設定しても、チャームやオードブル、フルーツを一品、女の子のドリンク代などを加算していく。他にも、タイムチャージなどがある。基本的に、ぼったくり店は自動延長だ。自分から帰る意志を告げないと、延長料金が発生し続ける。タイムチャージと称し、30分毎に延長料金5千円~1万円は取るだろう。

そして、これら算出された小計にサービス料40~60%。テーブルチャージ10%、ボックスチャージ10%、ミュージックチャージ10%などを累計で加算していく。当然、消費税も加算される。一番安く見積もっても、小計金額の2・5倍以上となる。(※店により若干異なる)

現在のぼったくり店では、座った時点で小計が1人最低5万円前後になるように設定されている。メニュー通り5万円の小計で計算すれば、1人あたり12万5千円。4人ならば50万円。しかも、この金額設定はメニューにきっちりと明示されているのだ。だから、違法性はないと突っ張れるのである。

「お金に余裕がないなら、オーダーをだす前にメニューを確かめればいい。女の子に料金システムを尋ねればいい。確認しなかったのは、アナタの責任でしょ」

店側の言い分である。だから、モメた客を警察に連行して払わせる、ということが可能だった。ただし、今年の6月1日からは交番にぼったくり被害客が駆け込むと、被害者、加害者ともに新宿署に連れて行かれ、刑事事件と同様の扱いを受けるようになった。くわえて弁護士が夜9時から歌舞伎町に待機、2万5千円の料金が派生するが店と交渉してくれる『歌舞伎町ぼったくり110番』が東京弁護士会によって6月26日から稼働しているなど、状況は変わりつつある。[つづく]

(小林俊之+影野臣直)

小林俊之+影野臣直!強力タッグの短期連載ルポ[全8回]
新宿・歌舞伎町ぼったくり裏事情──キャッチ目線で見た「警察の対応変化」
《1》「ぼったくり店」はどうやって生まれるのか?
《2》なぜ銀座のクラブにはゴタがないのか?
《3》メニューに金額明示があれば違法性はない?
《4》東京五輪を前に警察が浄化作戦を始動? [近日掲載]
《5》御一人様51万円「クラブ・セノーテ」事件の衝撃 [近日掲載]
《6》ベテランキャッチが語る「ぼったくり」の世界 [近日掲載]
《7》「ガールキャッチ」復活と増えるプチぼったくり [近日掲載]
《8》警察の弾圧が盛り場の「食物連鎖」を増殖させる [近日掲載]

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「一期限り」を公言しながら再選狙った村田学長が同志社大学長選で落選!

11月6日、任期満了にともなう学長選挙が同志社大学で行われ、第33代学長に理工学部の松岡敬(まつおかたかし)教授が選ばれた。この学長選挙には4年前に「大学長になっても一期しか学長は勤めない」と公言していたはずの村田晃嗣(むらた こうじ)も立候補していた。

7月の衆議院平和安全法制中央公聴会で「戦争推進法案賛成」を明言し、私立大学学長としては実質的に日本の歴史上初の「戦争推進発言」を行ったファシスト村田は、同志社大学が築いてきた「リベラル」、「良心教育」の歴史を完膚なきまでに踏みにじり、同志社の名を地に落とした。

◆落選したからといって国会で大学長として行った発言の罪が消えるわけではない!

もう学長とは呼ばれなくなる村田。しかし戦争推進発言の罪は消えない

その村田が学内外の良心的な人々から強い指弾を受けながら、恥知らずにも「公約」であった「一期限り」をかなぐり捨て、厚顔無恥にも再び学長選挙に出馬した。学長選挙の候補者になるためには推薦人が必要だが、恥ずかしくも「戦争推進」を公言した村田を支持する人間が同志社大学には一定数存在していたわけだ。

しかし、声を挙げない、行動しないように見えた教職員の中にも「最後の良心」は残っていた。橋下徹同様「公約破り」を平然と行い、同志社に限らず全国の若者を戦場に送り込む最悪法に賛成の意を示した村田。大学人としては万死に値する倫理的大罪を犯しながら、その後も平然と「良心学」の講義の教壇に立っていた村田。本来は任期満了を待たずに、国会での発言直後に「打倒・追放」されるのが村田には当然の報いであったが、よくも再度学長選挙に立候補などできたものだ。奴には「戦争推進法案賛成」の引き換えに、自民党から「ご褒美」が用意されていると、私は見立てていたが、自民党から約束を反故にされたか。それとも大好きな米国(とりわけCIA)から離縁されたのか。

落選したからといって学長として国会で行った発言の罪が消えるわけでは決してない。同志社大学関係者はこの選挙結果に安堵することなく、「村田発言」への責任追及は断乎継続しなければならない。


◎[参考動画]戦争法案【賛成】公述人=公明党推薦・村田晃嗣=同志社大学学長(2015年7月13日)

◆同志社の村田打倒から大阪のファシスト橋下打倒を!

スクラップ・アンド・スクラップで間もなく崖から落ちる橋下徹(2015年10月31日おおさか維新の会 結党大会後の記者会見にて)

そして、関西ファシズムの元凶橋下とその断末魔「政治団体大阪維新の会」(政党ではない)候補の出馬する、大阪市長、大阪府知事陵選挙で、何としてもファシスト橋下=「政治団体大阪維新の会」を最終的に完全撃沈させよう。

私たちはいったいどれほど多くの貴重なものを奴に奪われたことだろうか。村田打倒から橋下打倒へ! 大阪府民、市民の皆さんの決起を強く呼びかける!

 

 

▼田所敏夫(たどころ としお)
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◎奨学金地獄と高すぎる学費──揺るぎなき教育貧困国・日本
◎沈黙する大学の大罪──なぜこんな時代に声を上げないのか?
◎「人文社会科学系学部」ではなく、まず文科省を廃止せよ!
◎福岡教育大学「粛清」事件──安倍の弾圧に過剰適応する大学の罪

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新日本キック「MAGNUM39」──トップ選手のビッグマッチと若いチャンピオンたち

10月25日の新日本キックボクシング協会・伊原プロモーション興行「MAGNUM.39」に於いて今後のビッグマッチが期待されるチャンピオンクラスが出場。

日本チャンピオンから一歩上の“東洋クラス”での戦いを重ねる、新日本キックの“殿堂チャンピオン”と言われる元日本チャンピオンの石井達也(目黒藤本/ライト級)、緑川創(目黒藤本/ウェルター級)、喜多村誠(伊原/ミドル級)の3人と、メインイベンターを務めたWKBA世界スーパーバンタム級チャンピオンの江幡塁(伊原)とツインズ兄・睦含め5人は、今後進むステージが険しいものとなろうとも挑まなければならない最高峰が立ちはだかっている。しかしその出番がいつなのか待ち構えるのも辛いものがあるかもしれない。

◆江幡塁 VS プラーップラーム(タイ)

毎度の江幡ツインズの相手は未知数のテクニシャンで苦戦を強いられる試合が多い。今回の江幡塁(伊原/24歳)も56.0kg契約ノンタイトル5回戦で、無名ながらプラーップラーム・バーンボー・ウィッタヤーコム(タイ)のしなやかな蹴りとスピードに「被弾する、攻め倦む、ラウンドは長引く」といった流れを予想してしまうが、被弾も覚悟でパンチとローキック主体にいろいろな攻めパターンを試し、ボディブローで弱点を突き、見事2ラウンド2分33秒KO勝利に導いた。

「新日本キックに新しい伝説を導きます。その為にもラジャダムナン王座獲りにいきます。」
いつもマイクを掴むと大きな声で滑舌よくアピール。早口でも下手なリングアナウンサーより聞き取りやすいのが見事な声量。兄・睦とともにツインズでムエタイ王座同時奪取となれば新たな歴史に名を残すところ、一昨年、そのチャンスに挑んだツインズだったが揃って敗戦。2年前より更に成長したツインズ。伝説を作るには今後のチャンスを逃がすわけにはいかない。

江幡塁(右)vsプラーップラーム戦。カミソリのような切れ味、効くというより "バシッ"と痛そうな塁のローキック

◆重森陽太 VS 内田雅之

日本フェザー級タイトルマッチは、1位.重森陽太(伊原稲城/20歳)が2階級制覇。チャンピオンの内田雅之(目黒藤本/37歳)を判定で下す。重森は1年前の昨年10月、減量苦から瀧澤博人(ビクトリー/24歳)に2-0の判定で敗れ日本バンタム級王座を明け渡すも、今年3月、フェザー級に上げての初戦で内田雅之と59.0kg契約ノンタイトル戦で対戦し、鋭い蹴りで優位に立ち、判定で僅差ながら3-0判定で勝ってしまった。当然今回、王座挑戦資格を持って再戦。内田雅之も、チャンピオンのプライドを懸けての5度目の防衛戦。通常、再戦はチャンピオンが修羅場を潜り抜けてきた経験値で上回り、挑戦者を退けるパターンが多いが、重森の成長度は著しく、そうはいかないパターンだった。重森の鋭い蹴りは早々から主導権を奪い、その優勢を守りきり、3-0(50-48、50-48、50-47)で第9代日本フェザー級チャンピオンとなる。試合後、内田は第2ラウンドに重森のミドルキックを受けて左腕を骨折していたことが発覚。内田はセコンドにも告げずラウンドを重ねた。4度防衛の経験値で最後まで諦めない戦いを貫いた内田雅之であった。

内田雅之(左)vs重森陽太。長い足を利した重森の伸びあるハイキック、今後の脅威となるか

◆緑川創 VS ジン・シジュン(韓国)

緑川創(目黒藤本/28歳)は韓国の突貫ファイター、ジン・シジュンが前に出てくるところを左ヒジ打ちを合わせ、額をカットし3ラウンド28秒TKO勝利。ここ3戦は勝っても負けてもヒジ打ちで切ったり切られたり、接近戦の賭けが明暗を分けるスリリングな試合で、その勝負度胸を持って目指すはラジャダムナン・スーパーウェルター級王座、タイ現地スタジアムに“単独で渡ってでも挑戦したい”構え。喜多村誠との先手争いも見もの。

緑川創(右)vsジン・シジュン。単なる打ち合いはではない、肘打ちか首相撲を視野に入れた前段階

◆喜多村誠 VS ファン・セチョル(韓国)

その喜多村誠(伊原/35歳)はこの春、日本ミドル級王座を返上して、5月に現地ラジャダムナンスタジアムでのスーパーウェルター級王座挑戦もチャンピオンのアーウナーン・ギャットペーペーの厚い壁に撥ね返される判定負けで、今回の再起戦。韓国ファイターを1ラウンドでローキックで弱点を掴むと2ラウンド1分10秒、しつこくローキックで倒すTKO勝利。再度、ムエタイ王座に挑みたい構え。年齢的にはこちらが急ぎたい構えだろう。

喜多村誠(右)vsファン・セチョル。心折れずとも、足が麻痺してへたりこむしかない喜多村の重いローキック

◆石井達也 VS ソン・スター(韓国)

石井達也(目黒藤本/33歳)も韓国ファイターを最終第3ラウンド終了間際にヒジでカットしTKO 勝利。「そろそろベルトを巻きたいです。見たいですよね?」とマイクアピールでファンに同意を求めた。「WKBAでもWBC(ムエタイ)でもチャンスがあれば何でも来い」という、ムエタイ殿堂王座に限らず、いけるものなら“権威有る世界”と名の付く王座挑戦へステップアップ宣言した。

石井達也(左)vsソン・スター。ビッグマッチを想定した前哨戦、試合展開にもゆとりが出てきた石井達也

◆アトラクションは伊原代表 VS 斗吾

アトラクションにおいて、伊原信一代表を相手にミット蹴りを披露した日本ミドル級新チャンピオンの斗吾(伊原/26歳)。先月、王座決定戦で4位.今野明(市原/32歳)をKOし、念願の王座奪取したばかり。自信を持つとより一層激しい蹴りを観客に披露する威力が増したミドル級の重みが響く。観客の前では毎度、伊原代表も選手以上に現役時代のような強い蹴りを披露する。64歳とは思えない重く速い蹴り。しかし疲れを誤魔化さずタイ人トレーナーにミットを渡し、息を整え観客の笑いを誘う。

伊原代表(左)&日本ミドル級C.斗吾。64歳とは思えぬほど、毎年激しさが増す蹴り合いのパフォーマンス、スタミナだけキツそうな伊原代表

新日本キックには他に日本フライ級チャンピオンの麗也(治政館/19歳)も5月にHIROYUKI(=茂木宏幸/目黒藤本/20歳)からKOで王座を奪った。その後HIROYUKIも再起戦を飾り、今後の更なる成長が楽しみなヤングチャンピオン達。日本ライト級チャンピオンの勝次(=高橋勝次/目黒藤本/28歳)も3月に王座奪取したばかりだが、虎視眈々とムエタイ王座に標準を定めている。といった具合に、ステップアップを果たしたい選手が希望通りチャンスが回って来るか、または若い世代に足を掬われるか、過酷な興行継続も注目となる新日本キックボクシング協会の展開である。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」

◎群雄割拠?大同小異?日本のキックボクシング系競技に「王座」が乱立した理由
◎9.27WBCムエタイ戦──強豪たちの本気の対戦がムエタイの権威を高める!
◎倒すか?倒されるか?日本キックボクシング連盟「大和魂シリーズ」vol.4報告

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歌舞伎町ぼったくり裏事情《2》 なぜ銀座のクラブにはゴタがないのか?

そもそもぼったくりとは、どのようなものなのか。

店の料金の設定権は店側にある。日本が資本主義国家である以上、個人や法人は経営において利潤の追求を第一の目的とする。当然、経営はボランティアではない。客を喜ばせるために、赤字経営になってはならないのだ。

まず、店を開店するにあたって投資した、敷金・礼金や不動産仲介料などの償却。毎月、支払わなければならない家賃に人件費。その他、管理費や水道・電気・ガス等の光熱費。酒代やおつまみ等の仕入れなども、大きな出費である。店のマットやトイレのタオル、カラオケがある店なら機械などのリース代。名刺代や伝票・領収書などの文具代。細かいものなどを合わせれば相当な金額がかかる。その出金を営業日数で割り、1日の最低必要経費を算出する。さらに、それを入店客数で割ったものが、最低限必要な個々の客単価となる。

◆客引きが入店に介在して、はじめて生まれる「ぼったくり被害」

何度もいうようだが、店の営業は慈善事業ではない。必要経費が1日10万円で、1日10人の客が見こめるなら、客単価は1万円以上でなければ利益は計上されない。2人の客しか入らないなら、客単価5万円以上は欲しい。1人の客しか入らないなら、客単価は(損益分岐として)10万円以上となる。銀座の高級クラブなみである。

だが、 銀座のクラブにはゴタがない。一晩で何百万円請求されても、客はぼったくりだと非難しない。銀座という土地柄なのか。歌舞伎町との格差なのか。否、客が自分の意志で店を選んでいるからである。つまり、客引き(=キャッチ、ポン引き)が入店に介在して、はじめてぼったくりが生まれるのだ。

キャッチの甘言に惑わされ、低料金だと思って店に入店する。そこで、自己の想像の範疇を超えた料金を請求されたとき、人は「ぼったくり被害に遭った」ことを認識するのである。[つづく]

歌舞伎町ーセントラル通り(撮影小林俊之)

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小林俊之+影野臣直!強力タッグの短期連載ルポ[全8回]
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《1》「ぼったくり店」はどうやって生まれるのか?
《2》なぜ銀座のクラブにはゴタがないのか?
《3》メニューに金額明示があれば違法性はない? [近日掲載]
《4》東京五輪を前に警察が浄化作戦を始動? [近日掲載]
《5》御一人様51万円「クラブ・セノーテ」事件の衝撃 [近日掲載]
《6》ベテランキャッチが語る「ぼったくり」の世界 [近日掲載]
《7》「ガールキャッチ」復活と増えるプチぼったくり [近日掲載]
《8》警察の弾圧が盛り場の「食物連鎖」を増殖させる [近日掲載]

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