《冤死の淵で》富山常喜氏(波崎事件) 自ら書いた控訴趣意書で裁判官を批判

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。5人目は、波崎事件の富山常喜氏(享年86)。

◆自ら裁判官を直接批判

1963年8月に茨城県波崎町で農業を営んでいた36歳の男性が自宅で急死した。この一件をめぐり、男性の知人だった当時46歳の富山常喜氏は死亡保険金目当てに男性を青酸化合物で毒殺したとの容疑で検挙され、一貫して無実を訴えながら1976年に最高裁で死刑判決が確定した。しかし、犯行を直接裏づける証拠が何もないばかりか、富山氏が青酸化合物を所持したと示す証拠すら何もなく、長年冤罪の疑いが指摘されてきた。

富山氏は逮捕から40年、死刑確定から数えると27年に及ぶ獄中生活を強いられ、2度の再審請求も実らず、2003年に86歳で無念の獄死を遂げた。そんな富山氏が生前、いかに激しく裁判所と戦っていたのかがわかる文書がある。一審で死刑判決をうけたのち、自ら獄中で書き綴った8万字に及ぶ控訴趣意書である。

富山氏が自ら書いた8万字に及ぶ控訴趣意書。支援者が活字化した

たとえば、富山氏はこの控訴趣意書の中で、第一審・水戸地裁土浦支部の田上輝彦裁判長の事実認定をこう批判している。

〈“被告人は、人間が悪賢く“(中略)“気性も凶暴であると悪く評価されるようになり云々”と極め付けているが、田上裁判長は右に極め付けているような事実を、果たして、誰の口から伝聞し得たと言うのであろうか〉

水戸地裁土浦支部の判決は、証拠は何もないのに、単なる思い込みで富山氏を悪人物だと決めつけたような記述が散見された。それを富山氏は見逃さず、このように指摘したのだ。

そして、富山氏が田上裁判長ら水戸地裁土浦支部の裁判官たちに対し、何より強く訴えたかったのがおそらく次の部分だ。

〈最後にもう一言、田上裁判長はなおもここにおいて、「しかして被告人は、現在においても尚、寸点も改悛の情を現わして居らず」としているものであるが、被告人としては、現在まで指摘してきた数々の卑劣な虚構に満ちた判決文の内容もさることながら、その中においても、特にこの部分における非難の言葉ほど被告人のプライドを傷つけられたものはありません。
田上裁判長は、冤の人間に対して、一体、何を、どのように改悛せよというのであろうか。改悛とは何か、それは冤である被告人にとっては全くの無縁のものであり、それの必要なのはむしろ、ここに至ってまで愧知らずな無稽の諸非難を羅列している田上裁判長の方こそ、真摯に、裁判官としての自己の良心に目覚めて悔い改めるべきではあるまいかと思料するものである〉

判決で「反省していない」などと批判され、激怒するというのは冤罪被害者の多くに共通することだ。その思いを自ら文章にまとめ、裁判所に直接訴えたのが富山常喜という人だったのだ。

◆死刑執行への恐怖

裁判所に対し、かくも攻撃的な態度を示していた富山氏だが、親しい人に対しては、別の顔を見せていた。以下は、長年に渡って富山氏を支援していた「波崎事件対策連絡会議」の代表・篠原道夫氏に対し、富山氏が出した手紙の一節だ。

富山氏が生前、篠原氏に出した手紙

〈土、日曜、祝祭日の外は来る日来る日の毎日が、ガチャガチャと扉を開けられる度びに、心臓が破裂するのではないかと思へるほどの恐怖心を味わわされる地獄の連続であり、若しも寿命を計る機械がありましたなら、恐らくは確実に毎日毎日相当の寿命を擦り減らされているのではないかと思います。
建て前ではいくら悟り切ったように取り繕ろおうとも、所詮は弱い人間である以上、今申上げたようなところが嘘偽りのない本音の本音と云えそうです〉(1987年12月29日消印)

日本では、死刑は死刑囚本人に予告することなく執行される。富山氏は気持ちの強い人だったが、死刑と背中合わせで過ごした日々の恐怖感はやはり尋常ではなかったようだ。

富山氏が満足な医療も受けられずに獄死した東京拘置所

◆晩年は病気に苦しでいた

晩年の富山氏は常に病気に苦しんでいた。篠原氏に届けた手紙でも、体調の悪さを訴えることが次第に増えていく。

〈二月は上旬から風邪を引き込んでしまい、とうとう最後まで殆んど寝たきりの状態で終わってしまいました。今年はタチが悪かったのか、私の体調がそれ程衰えてしまっているのか分りませんが、最初のうちは下痢が続き、その次は今まで出たことのない鼻汁が出たり、その間、咳は止まらないわけで、すっかり悩まされてしまいました〉(2001年3月5日消印)

〈毎日のように襲って来る吐き気に鬱陶しい思いをしております。出来るだけ長生きすることが皆様の御尽力に対する私の至上命題ですので、この度びお差入れの中から取り敢えず八月と九月分の牛乳を購入させて頂きました〉(2001年9月1日消印)

〈毎日の呼吸不全状態、胃部の異状な膨満感など尋常ではありませんので、何かもっと精密な器械での検査が欲しいところです〉(2002年7月8日消印)

この頃になると、富山氏は人工透析治療を受けるようになっており、手紙を拘置所職員に代筆してもらうこともあった。そして次の235通目のはがきは、富山氏が生前、篠原氏に送った最後の書簡となった。

〈いつも心づかいありがとうございます。面会、差入と感謝しております。弁護士さんについては、後日元に戻ったときに連絡等する予定です。〉(2002年8月27日消印)

この文章は拘置所職員に代筆してもらったようだが、はがきの表面を見ると、文字が激しく波打っている。富山氏が震える手で、まさに命を削りながら書いたものであることが察せられる。

これ以来、富山氏の体調は急速に悪化した。そして、医療体制が不十分な拘置所内で苦しみ続け、2003年9月3日午前1時48分、86歳で永眠したのである。

◆支援者らは今も雪冤のために活動

病気に苦しみながら、雪冤を目指して戦い抜いた富山氏だが、ついに存命中に雪冤は実現できなかった。しかし、富山氏本人が亡くなって10余年になる今も篠原氏ら支援者たちは再審無罪を目指し、活動を続けている。富山氏の最期は悲劇的だったが、心ある人が望みをつないでいる。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここで紹介し切れなかった富山氏の様々な遺筆を紹介している。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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《冤死の淵で》荒井政男氏(三崎事件) 病魔に苦しめられながら訴え続えた無実

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。4人目は、三崎事件の荒井政男氏(享年82)。

◆手記に滲み出る人柄

荒井政男氏は、1971年12月に神奈川県三崎市で食料品店の一家3人が刺殺された事件が起きた際、現場近くに居合わせたために疑われ、逮捕された。当時44歳で、横浜市や藤沢市で鮮魚店や寿司屋を営んでいたが、この時を境に運命が暗転したのである。

荒井氏は取調べで一度自白したが、裁判では無実を訴えた。実際、荒井氏の衣服に犯人なら浴びているはずの返り血が付着していないことや、現場に残された犯人の靴跡は荒井が履いている靴のサイズと異なることなど、荒井氏を犯人と認めるには矛盾が多かった。しかし荒井氏は1990年に最高裁で死刑確定し、再審請求中の2009年に82歳で獄死した――。

荒井氏は最高裁に上告していた頃、自ら上告趣意書補充書も執筆した

この間、荒井氏が獄中でどのように生きたかが記録された貴重な資料がある。支援団体「荒井政男さん救援会」が発行していた「潮風」という小冊子だ。これには、荒井氏が近況をしたためた手記が毎号掲載されていた。

荒井氏の手記は、いつも様々な人へのお礼や気遣い、ねぎらいが率直な言葉で綴られていた。

〈いつもパンフレットありがとう。救援、冤罪通信、やってないおれを目撃できるか、死刑と人権、ばじとうふうなどありがとう。甲山通信の山田悦子さんの無実勝利の闘いに獄中から熱い応援を送っていますよ。ごましお通信、利明さんの生きざまがわかります。よろしく伝えてね。フォーラム90のパンフは、死刑執行した後藤田正晴への抗議行動報告がびっしり埋まっていますね。とても力強く思いました。もう一人も殺させないようガンバリましょう〉(1993年5月15日記 潮風第12号より)

◆獄窓の鳥が支えだった

荒井氏の手記はこのようにいつも明るく、前向きな内容だった。とはいえ、死刑囚は外部との交流を遮断され、一日の大半を狭い独房で過ごす。その生活がいつ果てるともなく何十年も続く。そんな日々で荒井氏が心の支えにしていたのが、獄窓から見える鳥たちだった。

〈四月二十日ヒヨドリのピーコが、窓辺のしだれ桜の枝に止まって、四〇分近く唄っているのでいつものさえずりと少しちがうなーと思っていたところ、それがピーコのお別れの唄だと分かりました。翌日からヒヨドリ全員(十二羽位の一族)の姿が見られなくなった。どこかの寒い地方へ移動していったのでしょう〉(1994年4月27日記 潮風第16号より)

〈あのヒヨドリのピーコが今年も来てくれました。獄庭の木にとまってピーピーと高い澄んだ唄声を聴かせてくれます。とても心なぐさめられます〉
(1995年11月14日記 潮風第22号)

〈今日もスズメの親子が父さんの窓下に来て、ピイピイと子スズメを鳴かして父さんにエサのパンをくれというのです。けど、父さんはパンを持っていないのです(笑)〉
(1994年5月23日記 潮風第16号より)

〈父さんの窓庭のビワの木の実が鈴なりで黄色く熟して太陽の光に輝いています。何とムクドリの群れがきて半分ほど食べ散らかしていきました。そのおいしそうなうれしそうな姿にニコニコと見とれてしまいました〉(1995年6月17日記 潮風第20号より)

荒井氏は鳥たちと会話でもしているようなことを明るい筆致で綴っている。一見微笑ましい文章だが、鳥たちを心の支えにして途方もない孤独感と闘っていたことが窺える。

荒井氏が獄窓の鳥を心の支えに拘禁生活を送っていた東京拘置所

◆糖尿病で目も不自由に

獄中生活の後半、荒井氏は糖尿病に苦しめられた。しかし、闘病生活のことすらも明るく綴るのが荒井氏流だった。

〈血糖値が一一七でした。こんな数字になったことは近年にないことですから、父さんもやったーと、うれしく思いました。この告知をしてくれた看守氏もびっくりして共に喜んでくれました〉(1994年11月17日記 潮風第18号より)

しかし、併発した網膜症により視力が次第に衰えていくと、手記では、目の状態を嘆く記述が目立つようになる。

〈文庫本文字がすごく見づらくなりました。右目だけで読むのも疲れて視力が落ちたのではないかと思います。医務に診察を申し込みます〉(1994年12月1日記 潮風第18号より)

このように病魔に苦しむ中、荒井氏は強い憤りをあらわにすることもあった。それは、他の死刑囚が刑を執行された時だ。

〈十二月七日に妻と長男が面会にかけつけてくれた意味が一二月一日に(筆者注:他の死刑囚2人が)虐殺されたことについての緊急面会だったことがわかりました。二人も殺されたことは今日のパンフやビラを見て初めてわかった訳です。だからショックが大きいので、眠れませんのでこれを急いで書いています。もう夜中です。紙数も終りです。なんとしても三崎事件の再審を開始したいものです。無実なのに殺されてたまるか〉(1994年12月15日記 潮風第18号より)

無実なのに殺されてたまるか――。この最後の一文に、何物にも代え難い真実の響きを感じるのは、私だけではないはずだ。

◆遺族が受け継いだ雪冤への思い

荒井氏は結局、生きているうちに再審無罪の願いは叶わなかった。2009年9月3日、病気を悪化させ、東京拘置所で82年の生涯を終えたのだ。

しかし、荒井氏が亡くなってわずか25日後の2009年9月28日、今度は娘さんが請求人となり、第2次再審請求を行った。現在も雪冤を目指す戦いは続いている。(了)

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここでは紹介し切れなかった荒井氏の様々な遺筆が紹介されている。

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1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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《冤死の淵で》平沢貞通氏(帝銀事件) 支援者への手紙から浮かび上がる実像

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。3人目は、帝銀事件の平沢貞通氏(享年95)。

◆まるで少年のように

1948年1月に東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒殺され、現金や小切手が盗まれた帝銀事件は、日本を代表する冤罪事件として語り継がれてきた。この事件の容疑で死刑確定したテンペラ画家の平沢貞通氏は、獄中で40年も無実を訴え続けた末に1987年5月、95歳で無念の獄死を遂げたが、現在も遺族が雪冤を目指し、東京高裁に第20次再請求中である。

私は6月10日付けの当欄で、そんな平沢氏を30年に渡り支援した石井敏夫氏という男性が4月に81歳で亡くなったことを報告した。平沢氏が生前、獄中で数多くの絵画を描いていたのは有名な話だが、そのために画材を差入れし続けていたのが、宇都宮市で洋品店を営んでいた石井さんだった。石井さんは全国各地で平沢氏の個展も開催するなどしており、平沢氏にとっては、まさに生きるための支えのような存在だった。

平沢氏が生前、石井氏に出した手紙を見ると、そのことはよくわかる。たとえば、次の手紙は、石井氏が平沢氏に対し、初めて画材の差し入れを申し出た際、平沢氏から届いた返事の手紙である。

〈御手紙によりますと、画紙を御差入れ下さいます由で恐れ入ります。厚く御礼申上げます。御厚情御親切に御甘えいたしまして申上げますが、実は今御茶の水駅下車、神田スルガ台下、交差点の文房堂発売のドローイングブロック(美濃判位の大きさの白画用紙、二、三十枚綴り〉が使いきって了って困っておりますので、若しもこれが御入れ賜わり得ましたら何よりの喜びで御座居ますが……
「厚かましい」と御怒りなく御許し下さいませ。乍末筆 御尊父様にもよろしく!!〉

この手紙が出された年月日は不明だが、平沢氏は当時60代になっていたという。それでいながら、まるで少年のように石井氏からの画材差し入れの申し入れを喜んでいる様子が窺える。

◆獄中でも芸術を追及

平沢氏は満足のいく絵が描けると、てらいなく無邪気に喜び、次のように手紙で石井氏に報告していた。

〈お慶び下さい!! 見事成功!! 観山師ならずとも、恩師大観先生でも「とうとうやったな!! よし良し……」と必ず御歓び、御褒め下さることと思う成功で、未だ日本画家では何人も、唯一人も出来なかったことをやってのけたのです!!(・・・略・・・)この向うへ《進入して行く運動的表現=即山派の屋根が向うへ突き進んで雲の中へ入って行く姿》が、日本画家のデッサンでは描けないのです。そこは大観師も「洋画の良い領分」として認めていられたのです。(・・・略・・・)出来ましたらすぐ電報で御知らせいたしますから、面会宅下げで御受取りに来て頂きたく御願い申上げます〉

「観山師」とは下村観山、「大観先生」とは横山大観のことで、いずれも日本画の大家だ。平沢氏は横山大観の弟子だった。それにしても、この喜びようを見ると、平沢氏にとって、絵を描くことが何よりの生きがいだったことがわかる。そして、その生きがいをもたらしていたのが石井氏だったのだ。

平沢氏が獄中で綴った「書き残しの記」

◆遺筆となった年賀状

しかし80代になった頃から、さすがの平沢氏も高齢には勝てず、次第に体を弱らせていく。

〈一九七四年七月二日払暁、眩暈を起こし倒れ、寝床に入いり、脈搏を測かりました。《「ヒー・フー・三ツ」と数へ、「四ツ」目に結滞》のくり返しなのです。寝ずの番の先生が気付かれて、医務に電話して下さって、医師先生二人御来診下さって、注射して下さいました。(・・・略・・・)この現襲せる病状から診ますと、いつ心臓麻痺が来るか不明ですので、平素から気になっておりました小生無き後を御願申上げておきたいと存じます〉

平沢氏がこのような書き出しで始まる「書き残しの記」なる文章を書いたのは、82歳になっていた1974年のこと。心臓麻痺の発作を起こして倒れたことを報告すると共に死後のことについて、関係者たちに様々なお願いをした事実上の「遺書」だった。

平沢氏が晩年に拘禁されていた宮城刑務所仙台拘置支所

さらに時は流れて80年代になると、90歳を超えた平沢氏の老衰は進み、右目の視力はほとんど失われ、絵も描けなくなり、ずっと床についている状態となった。そして1987年の正月、次のような年賀状が届いたのが、平沢氏から石井氏のもとに届いた最後の手紙になった。

〈謹賀新年 六十二年 元旦 八王子市三ノ二六ノ一 子安町 平沢貞通〉

もはや、この程度の文字しか書けないほど平沢氏は弱り切っていたのである。この年賀状が石井氏のもとに届いた約4カ月後、平沢氏は危篤状態となり、それから約1カ月は持ちこたえたが、5月10日午前8時45分、ついに息を引き取った。そして養子縁組していた平沢武彦氏が用意していたマンションに引き取られ、平沢氏は逮捕されてから実に39年ぶりに畳のある部屋で休むことができたのである。

今年4月に亡くなられた石井氏は、生前の平沢氏を支えたのみならず、この歴史的冤罪を後世に語り継ぐうえでも重要な役割を果たされたと私は思っている。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、ここでは紹介し切れなかった平沢氏の遺筆や生前に描いていた絵画が多数紹介されている。

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1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
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前回五輪の年から冤罪を訴える広島元放送局アナ 最高裁審理が異例の長期化!

リオ五輪もいよいよフィナーレが近づいてきたが、4年前から今日まで1つの目標に向かって頑張ってきたのは、アスリートばかりではない。当欄で何度か紹介した広島の放送局「中国放送」の元アナウンサー、煙石博さん(69)もその1人だ。

マイクで冤罪を訴える煙石さん

煙石さんは2012年10月11日に、広島銀行大河支店の店内で女性客が記帳台の上に置き忘れた封筒から現金6万6600円を抜き取り、盗んだという容疑で逮捕された。その日から4年近く無実を訴え続けているが、1審・広島地裁で懲役1年(執行猶予3年)の有罪判決、2審・広島高裁でも控訴棄却の判決を受け、現在は最高裁に上告中だ。

事件の詳細については、以前配信した後掲の関連記事もご参照頂きたいが、解析された銀行店内の防犯カメラの映像に煙石さんがお金を盗む場面は映っていなかったのをはじめ、この事件に有罪証拠はないに等しい。そもそも、「被害者」の女性客が記帳台の上に置き忘れた現金6万6600円が入っていた(はずの)封筒は、お金が1円も入っていない状態で記帳台の上に残されており、「その封筒に本当にお金が入っていたなら、犯人が誰であれ、お金だけ抜き取って封筒を元の場所に戻したりするだろうか・・・」という根本的な疑問が存在する明白な冤罪事件だ。にも関わらず、煙石さんは4年近くも雪冤を果たせないでいるわけだ。

冤罪を訴えるチラシを配る支援者

◆公正な裁判を求める署名は6000筆を突破

もっとも、この事件を取材してきた私は、煙石さんを取り巻く状況が次第に好転しているように感じている。支援者らが集めている「煙石博さんの上告審の公正な裁判を求める請願署名」は7月の時点で6280筆に達し、すでに最高裁に提出されている。去る8月7日、煙石さん本人と支援者らが広島市の本通商店街で行った街頭行動でも1時間に満たない時間で1000枚のチラシが配布され、新たに115名の署名が集まったという。

「街頭行動は6回目ですが、署名してくれる人や話を聞いてくれる人が回を重ねるごとに増えてきています」と語るのは、「煙石博さんの無罪を勝ちとる会」の小森敏廣事務局長。この日、マイクで無実を訴えた煙石さんも「こうやって街頭活動をしても、以前に比べて声をかけてくれる人が増えました。『やはり(お金を盗んだというのは)違うらしい』ということがクチコミで広がっているのを感じます」と状況が好転している手ごたえを口にする。

そして実を言うと、ある客観的なデータからも煙石さんの状況が好転していることが窺えるのである。

◆上告から1年8カ月以上続く審理

最高裁が統計によると、公表されている直近5年の「最高裁での審理期間が2年を超える被告人」は、平成22年度は42人(同年度の上告中の被告人の総数は588人)、同23年度は32人(同679人)、同24年度は12人(同555人)、同25年度は4人(同487人)、同26年度は1人(同417人)だ。このデータから読み取れることは、まず何より最高裁における刑事事件の審理期間がどんどん短縮され、上告してから2年以上も結果が出ないケースはほとんどなくなっているということだ。

では、そんなデータを持ち出し、私が何を言いたいかというと、実は煙石さんに対する最高裁の審理が長期化しているのである。

煙石さんは2014年12月11日、広島高裁に控訴を棄却され、即日上告しているのだが、それからすでに1年8カ月が経過している。私はこれまで様々な冤罪事件を取材してきたが、最高裁での審理期間がこれほど長期に及んだ事件として記憶に残っているのは、控訴審までの結果が死刑か無期懲役の事件だけだ。それ以外の多くの事件では、無実を訴える被告人が上告してから1年もしないうちに上告棄却の決定を受け、有罪が確定している。その現実を踏まえると、控訴審までの結果が執行猶予付きの有罪判決である煙石さんの審理期間がここまで長期化しているのは、異例のことだと言っていい。

◆注目は公判が開かれるか否か

裁判所に何か期待すると、裏切られることが多いので、安易に楽観的な予想をするのは控えたい。しかし、少なくとも最高裁が煙石さんの事件を「特別な事件」として認識しているのは間違いないと思う。

最高裁は通常、書面のみで審理し、地裁や高裁が行っているような公判審理は行わない。最高裁は「控訴審までの結果が死刑の事件」と「控訴審までの結果を覆す可能性がある事件」に限り、弁護人と検察官に弁論をさせる公判を開くのが慣例だ。したがって、煙石さんが最高裁で逆転無罪を勝ち取るなら、まずは最高裁がそのような公判を開くというニュースが報道されるはずだ。

この事件の行方を少しでも多くの人に注目して頂きたい。


[参考動画]冤罪を訴える煙石博さん(元中国放送アナウンサー) 2016.8.7広島市本通商店街

[関連記事]
◎広島の元アナ「冤罪」窃盗事件で「公正な裁判を求める」署名が1500筆突破!
◎高まる逆転無罪の期待──上告審も大詰めの広島元アナウンサー冤罪裁判

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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《冤死の淵で》竹内景助氏(三鷹事件)  獄中で書き残した虚偽自白への道程

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。2人目は、三鷹事件の竹内景助氏(享年45)。

◆脳腫瘍で獄死

国鉄三鷹駅構内で無人電車が暴走して商店街に突っ込み、6人が死亡、20人が負傷する惨事になったのは、1949年7月15日の夜だった。捜査当局は当初から、人員整理に反対する労働組合などの犯行と断定。そんな思い込みに満ちた捜査の結果、9人の共産党員と事件前日に解雇を通達された非共産党員の竹内景助氏が実行犯として起訴されるに至った。そして裁判では、共産党員9人は無罪とされた一方、当初容疑を認めた竹内氏が単独犯だったと認定され、1955年に最高裁で死刑判決が確定する――。

竹内氏は獄中で自ら膨大な「再審理由補足書」も執筆した。支援する会のHPより購入できる

これが下山事件、松川事件と共に国鉄三大ミステリー事件と呼ばれる三鷹事件のあらましだ。竹内氏はその後、再審請求をするが、雪冤を果たせないままに1967年、脳腫瘍のために45歳の若さで獄死したのだった。

私が編集を手掛けた書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)でも、「三鷹事件再審を支援する会」世話人の大石進氏がこの事件について、内実に鋭く迫った渾身の原稿を寄稿してくれている。その文中で紹介された竹内氏の遺筆では、虚偽の自白に陥るまでの取り調べの過程が実に生々しく綴られている。

◆恫喝と脅迫を駆使した取り調べ

〈岡光警部はいきなり「やい、この野郎、あんなでかい事故を起しやがって、ひどい奴だ、もう駄目だぞ、観念して謝れ、さあ神妙に白状して詫びろ」と頭から怒鳴りつけられました〉
〈八月十日夜頃から平山検事の調べ句調が、俄然脅迫めいて来まして(・・・略・・・)「検察庁で検挙し起訴した事件で無罪となったなんてことは先づ無いんだ(・・・略・・・)証拠は毎日集っているんだ(・・・略・・・)裁判は自白しなくても証拠で認定されるのだ。君達がやったと云ふ証拠がいくらでもあるよ。君を見たと云ふ証人も、既に裁判官に証言しているし。」と云ひ(・・・略・・・)元気に反対する気も薄らいで来ました〉

このような恫喝と脅迫を駆使した取り調べに対し、次第に気力を奪われていった竹内氏。そんな状態の中、次のような悪辣な攻撃もうけたという。

〈「事故後丁度一と月目だね、今頃丁度此の人達が、こんな死に方をしたんだ、此の写真を見給へ、死んだ人をどう思ふかね。」と云って、惨鼻な死体写真を二十枚以上も、私の目の前に突き出しました〉

こんなおぞましい取り調べの中、竹内氏はついにこんな心境に陥っていく。

〈検事が喋った誘導や暗示によって、私の知識の中には、いつでもウソの自白をすることが出来る状態になりました。そして一っそウソでも自白して、どうせ有罪にされるなら情状を酌んで貰って軽くして貰おうかな、といふ考へが頭を掠めるようになりました。〉

「三鷹事件再審を支援する会」のHPでは再審の動向が適時報告されている

◆義憤と感激に涙して・・・

以下、ついに竹内が虚偽の自白に陥る場面である。竹内氏は悩みに悩んだ末、一緒に検挙された共産党員らを助けるため、自分1人で罪を被ることを決意したのだが、そんな考えから虚偽自白に陥った複雑な心情が克明に記されている。

〈私は生涯の断を決する為に苦悶しました(・・・略・・・)罪なくして罪を負ふのかと考いると、我乍ら自分が哀れにもなりました(・・・略・・・)そして「あの事件は私がやったのです。一人でやったのです。之から真実を申しますから、飯田さん達、他の諸君を直ぐ釈放して下さい。」と高い処から飛び降りるような心地して、悲憤と感激に涙して喋りました〉

この竹内氏の手記は、有名な刑事弁護士で、竹内の弁護人も務めた布施辰治氏宛てに書かれたものである。そして実を言うと、大石氏は、この布施辰治氏のお孫さんである。そういう背景もあり、前掲書「絶望の牢獄で無実を叫ぶ」で大石氏が寄稿してくれた原稿は時代背景、関係者の人間模様まで克明に再現された貴重な読み物になっている。

なお、2011年に竹内氏のご遺族らが東京高裁に再審請求し、現在も再審請求審が続いている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
 タブーなきスキャンダル・マガジン『紙の爆弾』!

《冤死の淵で》久間三千年氏(飯塚事件) 処刑直前に綴った再審無罪への確信

外部との交流を厳しく制限され、獄中生活の実相が世間にほとんど知られていない死刑囚たち。その中には、実際には無実の者も少なくない。冤罪死刑囚8人が冤死の淵で書き綴った貴重な文書を紹介する。1人目は、2008年に福岡拘置所で処刑された飯塚事件の久間三千年氏(享年70)。

久間氏に対する死刑の執行後、拘置所長や担当検察官による死体検視の結果などが報告された文書

◆再審請求を準備中に処刑

〈私にとっての十四年は、単純に十四年という数字ではない。社会から完全に隔離され孤独のなかで人間としての権利と無実という真実を奪われてきた時間である〉

これは2008年の夏、死刑廃止を目指す市民団体「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」が死刑囚105人にアンケート調査を行った際、久間三千年氏が所定の用紙に「今、一番訴えたいこと」として綴ったメッセージの一節だ。

当時、福岡拘置所に拘禁されていた久間氏は70歳。1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人が殺害された通称「飯塚事件」の容疑者として検挙され、死刑判決を受けながら、一貫して無実を訴えていた。

A4サイズの用紙の裏面に小さい文字でびっしりと、無実の自分を死刑囚へと貶めた警察や裁判所に対する批判、憤りを切々と綴った文章は気圧されるような迫力だ。その中でも、とりわけ強く私の胸に迫ってきたのは、次の一節だった。

〈真実は必ず再審にて、この暗闇を照らすであろうことを信じて疑わない。真実は無実であり、これはなんら揺らぐことはない〉

読んでおわかりの通り、再審で無罪を勝ち取ることへの強い意欲と自信が窺える文章だ。しかし、久間氏は生きているうちに再審無罪を実現できなかった。このメッセージを書いてから3カ月も経たない2008年10月28日、死刑を執行されたためである。久間氏は当時、再審請求を準備中だった。

絞首台に上がらされる時、目隠しをされ、首に縄をかけられる時、久間氏の恐怖、絶望感はいかばかりだったろうか。

久間氏が処刑された福岡拘置所

◆警察が証拠を捏造した

久間氏の裁判で有罪の決め手になったDNA型鑑定は、足利事件のDNA型鑑定と同様に90年代前半、まだ技術が拙かった警察庁科警研が行ったものであることは有名だ。それが久間氏の冤罪説を世間に広めている一番の要因だが、実際にはDNA型鑑定のみならず、目撃証言や血痕鑑定などその他の有罪証拠も疑わしいものばかりだった。

実を言うと、久間氏本人もそのことは強く訴えていた。再び冒頭のアンケート用紙から該当部分を紹介しよう。

〈事件について、さまざま経過があって、警察が証拠を捏造して逮捕したあの時から14年の月日が流れた〉

〈あの時とは・・警察が座席シートの裏側から血痕を発見したという平成六年四月を指す。ここで注目すべきは、平成四年九月二九日にルミノール検査をした筈の警察がシートの裏側に付着していたという血痕を平成六年四月まで発見できなかったのも不自然なら、その部位のシート表面から、ルミノール反応が全く出ていないのは、全く説明不能という外はない〉

久間氏が事件当時に乗っていた車の座席から血痕が検出された件については、確定死刑判決でも有罪の根拠の1つに挙げられている。しかし実際には、発見経緯の不自然さから「警察の捏造」が疑われている。久間氏本人もそう考えていたのである。

久間氏の処刑後、遺族が申し立てた再審請求は福岡地裁に退けられたが、現在は福岡高裁で即時抗告審が続いている。その過程では、不正捜査を疑わせる事実も新たに次々浮き彫りになっている。一日も早く久間氏の雪冤が果たされることを私は願っている。

※書籍「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)では、本文中で紹介した久間氏の遺筆の全文が紹介されている。

【冤死】
1 動詞 ぬれぎぬを着せられて死ぬ。不当な仕打ちを受けて死ぬ。
2 動詞+結果補語 ひどいぬれぎぬを着せる、ひどい仕打ちをする。
(白水社中国語辞典より)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

 「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
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関西連続不審死事件──主なき家から窺える遺族の思い

京都、大阪で男性が相次いで不審死していた事件で、筧千佐子被告(69)が夫の勇夫さん(享年75)を殺害した容疑で逮捕されたのは一昨年11月のことだった。最終的に3件の殺人と1件の強盗殺人未遂の罪で起訴された千佐子被告に関しては、不審死した男性たちから莫大な遺産を相続していた疑惑が大々的に報道されたものだった。しかしその後、千佐子被告の裁判がなかなか始まらず、月日の流れと共に事件は人々の記憶から薄れ始めている。そんな中、改めて現場を訪ねたところ、事件の意外な一面が見えてきた――。

筧勇夫さんと千佐子被告が住んでいた家

◆行き届いた手入れ

千佐子被告と、彼女に殺害されたとされる夫の筧勇夫さんが暮らしていた家は、阪急電鉄京都本線の西向日駅から徒歩で数分の閑静な住宅街にある。さほど大きくない2階建ての家で、築年数はけっこう経っているが、住人が大事に住んでいたことが窺える家だった。

良い言い方ではないかもしれないが、私がこの家に感心したのは、手入れが行き届いていることだった。

というのも、前妻に先立たれた筧勇夫さんは、13年12月に亡くなる直前に筧被告と結婚していたが、筧被告が逮捕されて以降、事故物件となったこの家は空き家のはずである。だが、庭は掃き掃除などがされている形跡が見受けられるし、郵便ポストは不要なチラシなどが入れられないように投函口にきちんとガムテープが張られている。そして何より目を引かれたのは、プランターで栽培された植物が門扉の前に置かれていたことである。そこには、この家の外観が殺風景にならないようにという家への愛着が滲んでいるように思えた。おそらくすべては遺族がやったことだろう。

こんなことを書くと、「その程度のことがどうした・・・」と思われた方もいるだろう。しかし私はこれまで、不幸にも殺人事件の現場となり、事件後は誰も住まなくなった家を色々見てきたが、多くの家は庭の草木が伸び放題だったり、壁にカビが生えているなど、いかにも事故物件らしく荒れた感じになっていた。その経験上、筧さんの遺族が事件後もマメに掃除などをしていることが窺えるこの家は、重大な事故物件にしては珍しく思えるのだ。

手入れが行き届いている

◆表札は今も「筧勇夫」

私がもう1つ気になったのは、玄関に今も「筧勇夫」という表札が掲げられていたことだ。というのも、千佐子被告が逮捕された当初の報道では、この家は筧勇夫さんの死後、千佐子被告が相続し、すぐに売り払ったという情報も伝えられていたからだ。

そこで確認のために謄本を調べたところ、家の所有者は土地、建物共に現在も筧勇夫さんになっていた。どうやら上記のような報道は間違いで、千佐子被告はこの家を売る売らない以前に、相続していなかったようだ。一方で、千佐子被告以外の遺族も相続していないということは、おそらく千佐子被告が筧勇夫さん殺害の容疑で逮捕、起訴されているため、裁判が終わらないことには遺族たちも相続問題に手をつけることができないのだろう。

そんなふうにこの家を見ていると、すでに亡くなった筧勇夫さんの名前の表札が今も掲げられていることは、「千佐子の好きにはさせない」という遺族の思いの表れのようにも思えてきた。また、そもそも遺族は千佐子被告が筧姓を名乗ること自体が嫌なのではないか――とも考えさせられた。千佐子被告は裁判で無罪を主張する見通しだと伝えられているが、いずれにせよ裁判では、何らかの形で筧勇夫さんたちの遺族の思いや考えも法廷に示されるはずだ。その時には、私の推察が当たっていたか否かの答えも出るだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
 衝撃緊急出版!『紙の爆弾』増刊『ヘイトと暴力の連鎖』!
 「世に倦む日日」田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

京都男子大学生傷害致死事件──報道とは大きく異なる事件の実相

昨年12月に男子大学生を殴って死亡させたとして、傷害致死罪に問われていた長岡京市のとび職、島﨑翼被告(22)の裁判員裁判で、京都地裁の中川綾子裁判長は今月5日、懲役5年(求刑8年)の判決を宣告した。その公判で明らかになった事件の実相は捜査段階の報道のイメージと大きく異なっていた――。

島﨑被告の裁判員裁判が行われた京都地裁

◆「乱闘」ではなかった

事件が起きたのは、昨年12月13日の深夜2時前だった。京都市中京区の繁華街の路上で被害者の追手門学院大学4年生・大平武紀さん(当時22)のグループが島﨑被告のグループとトラブルになり、島﨑被告に顔を拳で殴られた大平さんが転倒し、頭を打って意識不明状態に陥った。大平さんは病院に搬送されたが、くも膜下出血と診断され、意識が戻らないまま同18日に亡くなった。以上がこの事件のあらましだ。

では、事件の実相が捜査段階の報道のイメージとどのように異なっていたのか。

たとえば、大平さんが亡くなった当初、朝日新聞京都版は2015年12月19日付け朝刊に〈木屋町で乱闘、大学生死亡〉という見出しの記事を掲載し、事件が起きた経緯を次のように伝えていた。

〈13日未明に中京区・木屋町の路上で若者のグループ同士の乱闘があり、殴られて意識不明になっていた大津市の大学4年、大平武紀さん(22)が18日、死亡した〉

大平さん、島﨑被告双方のグループが入り乱れて暴力をふるい合った末に起きた事件だったかのような印象を与える記事である。

だが、公判で明らかになったところでは、大平さんらのグループは島﨑被告らのグループから後述するような因縁をつけられてトラブルになったものの、自分たちからは一切暴力をふるっていなかったという。トラブルになった中で大平さんは着ていたベストを破られ、そのことを抗議したところ、島﨑被告に殴られて転倒し、亡くなった。それが事件の真相で、暴力はふるったのは島﨑被告のグループだけだったという。

大平さんの両親は公判で被害感情や処罰感情を陳述した際、「この事件は喧嘩によって起きたのではありません」「息子は被告人のグループの一方的な暴力で生命を奪われたのです」と裁判官や裁判員に念押しするように述べていた。その言葉の端々には、捜査段階に「若者のグループ同士の乱闘から起きた事件」であるかのように伝えた「誤報」への怒りや悔しさが滲んでいるように思えた。

大平さんの両親の陳述によると、三人兄弟の次男だった大平さんは家族思いのやさしい性格で、弟とはよく服の貸し借りをしており、破られたベストは弟のものだったという。

産経WEST2015年12月18日配信記事

◆因縁をつけたのは被告ではなかった

事件が起きた経緯については、報道によって広まった誤解がもう1つあった。誤解のもとになったと思われるのが、産経WESTが2015年12月18日に配信した〈「目が合った」殴られた男子大学生死亡 京都の繁華街、21歳とび職の男逮捕〉という見出しの記事である。この記事は本文で、次のように事件を伝えている。

〈大平さんは13日午前1時50分ごろ、知人らと数人で京都市中京区大黒町の繁華街にいた際、島崎容疑者を含む数人のグループに「目が合った」などと言いがかりを付けられトラブルになり、島崎容疑者に顔を殴られ、くも膜下出血で意識不明の重体となっていた〉(※原文ママ。正しい表記は「島﨑」)

インターネット上では、この記事に基づき、トラブルのきっかけは島﨑被告が大平さんに「目が合った」と因縁をつけたことだったかのように受け止め、島﨑被告を罵っている人たちの声が散見される。だが、公判で明らかになったところでは、大平さんらに「目が合った」と因縁をつけたのは、島﨑被告ではなく、島﨑被告のグループの別の人物だった。また、大平さんが島﨑被告に殴られる前にベストが破れたのも、島﨑被告のグループの別の人物(「目が合った」と因縁をつけた人物とも別の人物)に押し倒された際のことだったという。

そしてトラブルが続く中、最終的に島﨑被告が大平さんと対峙する形になり、大平さんを殴って死なせてしまった。しかしトラブルを引き起こしたのは、島﨑被告ではなく、あくまで島﨑被告のグループの別の人物たちだったわけである。

◆被害以外の人物にも責任はある

こんなことを書くと、「だからといって、同情できない」などと思う人もいるだろう。しかし、私はこうした事実関係もしっかり押さえておかないといけないと思う。この事件の場合、公判で明らかになった発生の経緯からすると、刑事責任を問われるのは島﨑被告だけだとしても、道義的責任は他の人物たちにもあることが明らかだからだ。個人的には、トラブルのきっかけをつくった人物たちは、大平さんや遺族だけではなく、島﨑被告に対しても何らかの償いをする必要があると思う。

なお、島﨑被告は、ツイッターやフェイスブックに掲載していた写真では、いかにも素行の悪そうな人物に見えたが、法廷では、とても今回のような事件を起こすようなタイプには見えない若者で、神妙に罪を受け止めているように見えた。何をどうしようが、犯した罪は償い切れることではないが、大平さんの母親が意見陳述の際に述べた「一生、うらみます」との言葉を彼も一生忘れることはないだろう。というより、一生忘れられないだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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2009年の鳥取市タクシー運転手銃殺事件──未解決のまま忘れさられた凶悪犯罪

毎年7月の終わり頃になると、1995年7月30日に東京・八王子市のスーパーでアルバイトの女子高生ら女性店員3人が何者かに銃殺された未解決事件、いわゆる「スーパーナンペイ事件」の現状がマスコミで報道されるのが恒例だ。一方、同じ7月に起きた未解決の銃殺事件でありながら、もはや地元マスコミ以外にほとんど取り上げられない事件が存在する。今から7年前に鳥取市で起きた、その「もう1つの未解決銃殺事件」の今を追った。

◆未解決にもかかわらず発生後7年ですっかり風化しつつある事件

犯人がタクシーに乗り込んだ鳥取駅北口

事件は2009年7月17日の夜9時40分頃、鳥取市立川町6丁目の住宅街で起きた。タクシー運転手の下田和雄さん(当時60)が背後から何者かに銃で撃たれ、搬送先の病院で同11時過ぎに死亡。犯人の男はタクシーを奪って逃走したが、ほどなくタクシーは現場から2キロ余り離れた同市東今在家の路上に乗り捨てられているのが見つかった。車内からは下田さんが使っていた釣銭入れがなくなっていたとう。

他のタクシー運転手の目撃証言などから、犯人は事件の数分前にJR鳥取駅北口のタクシー乗り場で、下田さんのタクシーに乗り込んだとみられた。しかし、鳥取県警は大量の捜査員を動員して捜査を展開したものの、めぼしい証拠や情報が得られず、発生から7年になる今も事件は未解決のままだ。スーパーナンペイ事件のようにマスコミに大きく取り上げられることもなく、事件は風化してしまっている感もある。

実際、現場界隈で住人たちに話を聞いて回ってみても、「あの事件以来、近所の公園でやっていた夏祭りが開かれなくなりましたが、今はとくに怖いとか不安とかいうのはないですね。事件が起きてすぐの頃は犯人も見つからないし、怖い感じがしましたけどね」(現場近くの家で暮らす年配の女性)という感じで、現地でも事件のことは忘れ去られつつあるようなのだ。

◆意外な事実──地元の同僚たちにとってもすっかり過去のものになっていた

下田さんが銃で撃たれた現場

意外だったのは、現場界隈の住人たちはともかく、地元のタクシー運転手たちも事件のことを忘れつつあることだ。私は、下田さんが犯人を乗せたとみられるJR鳥取駅北口のタクシー乗り場で、下田さんと同じ会社に勤めるタクシー運転手を何人か見つけ、下田さんや事件のことを聞いてみた。すると、ある運転手は下田さんについて、「マジメな人だったよ」などと振り返りつつ、「事件があった時は会社のみんなで葬式に行ったけどね。今は会社として、命日にとくに何かやったりはしないね。家族の人たちは何かやってるだろうけどね」と淡々と語った。その語り口からは事件がもう同僚たちにとっても過去のものになっていることが窺えた。

さらに意外に感じたことは、下田さんが所属した会社のタクシーを含む鳥取の大半のタクシーで、運転席と後部の客席を隔てる防犯用の仕切り版が装着されていなかったことだ。どこの地方でも多くのタクシーが防犯用の仕切り版を装着しているこのご時世、タクシー運転手が銃殺される異例の凶悪事件が起き、しかもその事件が未解決の鳥取で、この現状には少々驚いた。

現地の人々に取材してみて、鳥取の人たちは総じて人がよく、初対面の人間にも無警戒かつ親切な場合が多いと私は感じた。しかし、防犯意識は高めないと、同じような悲劇が繰り返されるのではないかと少々心配である。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
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3・11甲状腺がん家族の会、設立会見詳報《7》質疑応答(3)

去る6月6日、福島県「県民健康調査」検討委員会は、福島第1原発事故当時18歳以下(胎児を含む)だった県民を対象に実施している2巡目(本格調査)の甲状腺検査で、今年3月末時点で30人が甲状腺がんと確定診断されたと発表した。

右から代表世話人の千葉親子氏(元・会津坂下町議会議員)、河合弘之氏(弁護士)、世話人の牛山元美氏(医師)

2巡目の検査は、約38万人の対象者のうち約27万人で完了。「悪性ないし悪性の疑い」と診断されたのは57人(昨年12月末時点は51人)で、このうち30人が手術により甲状腺がんの確定診断を受けた。

この数字を概観すれば、これより前の平成23年度~25年度前後まで実施されてきた1巡目(先行調査)と合わせると131人の甲状腺がんの確定診断者が出たことになる。

さらにいえば、確定診断とは手術実施者のことで、手術をしていない段階で、甲状腺にあるのう胞が「悪性ないし悪性の疑い」と検出された人数は1巡目、2巡目を合わせ173人と発表されている。福島県検討委は、確定診断が昨年12月末時点の16人から30人に増加した原因を不明としているが、「甲状腺がん発生は原発事故の影響とは考えにくい」との見方を変えていない。以下、本稿は「3・11甲状腺がん家族の会設立会見」詳報の最終となる。

◆質問9=原発事故で被ばくした方に対しても、国は被ばく手帳を作っていただければと思います

【Q9】 広島の原爆被爆者です。6歳の時に被爆して、急性放射能障害、原爆ぶらぶら病、目の障害、甲状腺機能障害による甲状腺全摘出手術、肺がん、と6歳の時から余命宣告を突き付けられて70年間、生きてきました。今、福島の子供たちは、そういう状態で、これからの人生を歩んでいかなくてはならないと思うと本当につらいです。

そんな私が、こうして元気で生き延びてこれたのは、2つ要件があります。一つは、被爆者同士の支え合いです。日本被団協を中心とする各地の被爆者の会に行き、支え合ってきました。もう一つは、国の公的医療保障です。原爆被害者擁護法に基づいて、被曝者健康手帳が交付され私たちは医療を無料で受けることができます。この二つによって、厳しい人生をなんとか元気で生きていくことができたと思います。

今回の家族会設立は、皆さまのこれからの支えになっていくと思います。福島では、子供だけでなく、大人の方の甲状腺がんも発生していると聞きます。私の友人の福島在住の方も、甲状腺がんで摘出手術を受けていらっしゃいます。大きな広がりとなっていくためには、子供さんだけでなく大人の方、そのご家族の方々にも、同じように広まっていっていただきたいと思います。

そして、原発事故で被ばくした方に対しても、国は被ばく手帳を作っていただければと思います。そういった観点で、福島では、世代を超えた人たちとのつながりも持っていくことをお考えでしょうか。

【A】(千葉氏) そういうお話は、会の中でもありました。この会は子供だけでなく、大人も対象にしていく体制を作りたいと思っております。また、原発事故の放射線の影響を考えるならば、福島県だけの問題ではないという話にもなりました。今後、もっと充実した会の方針・中身を作っていきたいと思っております。

【A】(河合氏) この会の設立の意味は、そこにありまして、政策提言をきちんとしていきたい。個人で孤立していては、Aさん、Bさんという形では、ダメなのです。患者さんが結束して申し入れや発言をしたりすると、それが社会的勢力の発言として見なされます。そこで、初めて注視され尊重されるようになります。そのための団体、患者の会ということになります。もちろん、その基礎として情報交換し、慰め合い、団結する必要があり、それが第一目的ですが、そのあとに来るものが、きちんと社会的勢力を作り、申し入れをし、自分たちの要求を政党に反映させていくこと、これがこの3・11甲状腺がん家族の会の目的ということになります。

◆質問10=将来的には訴訟を考えていますか?

【Q10】 将来的には訴訟を考えていますか。

【A】(河合氏) 今の所は、考えていませんが、申し入れをして政策要求をして、きちんと通らない場合には、それを敢えて排除することはないと思いますが、今の所は考えていません。

◆質問11=医学論争、疫学論争で裁判をやっていくことが必要ではないか?

【Q11】 因果関係を追及されても、政府は交渉では絶対認めないと思うので、医学論争、疫学論争で裁判をやっていくことが必要ではないか。それは視野に入れていますか。

【A】(河合氏) 視野には入れていますが、きちんとした社会的勢力を作って、きちんと政府に政策を要求することで、その正当な目的が認められないとは限らないと思っています。先ほど、ご家族が言うように、まずは、因果関係を認めてもらうということが大事だと思います。

因果関係を認めない時、それは、損害賠償ということは大よそない、治療だけはしてやるよ、という、その治療も、恩恵的な、家父長的な治療になると思います。だから、きちんと資料を出して、まずは因果関係を認めなさい、国と東電に責任があることを前提に対策を取って下さいとする。何も、モノを下さい、とかお情けを下さいと言うのではありません。きちんとした正当な要求を通すには、被害者がきちんと団結しないといけない。そのための会になります。

◆質問12=癌宣告の時に、医師の方からセカンド・オピニオンのお話がきちんとありましたか?

【Q12】 癌宣告の時に、医師の方からセカンド・オピニオンのお話がきちんとありましたか。患者には、色々な患者会がありますが、その様な紹介を受けることができましたか。癌の状態について、最初に説明はどのくらい時間として受けることができましたか。

【A】(白い服の方) セカンドオピニオンについては、はっきりなかったという記憶があります。患者会の紹介については、甲状腺がんなど全部を含めた患者会の説明はありました。診察時間は、通常は10分くらいであったと思います。

【A】(黒い服の方) セカンドオピニオンについての説明は、私にはありませんでした。患者会についても連絡はありません。診療時間は同じように10分くらいだったと思います。

◆質問13=福島県立医大に対する不審感?

【Q13】 甲状腺疾患を含めた患者の会の紹介というのは、福島県立医大からだと思います。案内をもらって、参加しようと思わなかったのは、県立医大に対する不審からですか。

【A】(白い服の方) 案内を頂き、妻が話を最初聞きにいきました。患者会というよりは、先生の説明会というような感じで、甲状腺がんの子供の親は、そこでは見受けられなかったと聞きました。

【A】(黒い服の方) 通知がくれば参加したかというと、参加したかもしれないが、そういった患者会があるというのも、家族会ができて初めて知った話です。非常にびっくりしました。

◆質問14=再発や手術後の生活の困難さ

【Q14】 再発や手術後の生活の困難について教えてください。

【A】(牛山氏) 今回の県立医大の手術ですが、片側の甲状腺の手術しかしていません。片方を残すと、うまくいけば薬を飲まずに生活していくことができます。しかし、甲状腺がんが再発している方が既におり、疑いの方もいます。ベラルーシでも、結局、もう一つも手術しなくてはいけないという話を聞いています。手術後は、モノが飲み込みにくくなったり、声がかれることがあったりということがあります。後遺症について、今回は直接は聞いていませんが、事例としてはそういうことになります。

【A】(白い服の方) 薬は毎日飲んでいます。やはり、甲状腺を半分とりまして、何カ所かのリンパ節も取りまして、後遺症的にいうと、モノが飲み込みにくいとか、声がかすれて出ないということかがあります。

◆質問15=何が必要で、何が一番足りていないのか?

【Q15】 何が必要で、何が一番足りていないでしょうか。

【A】(白い服の方) 精神的なケアを充実させていただきたいです。

【A】(黒い服の方) 今後望むのは、メンタルのケアをやっていただきたいと思っています。

◆質問16=がん宣告を受けたときのお気持ちは?

【Q16】 がん宣告を受けたときのお気持ちは?

【A】(白い服の方) 10代で癌と言われ、妻も子供もショックでした。

【A】(黒い服の方) 本人は顔面蒼白となり、立っていられないほどのショックで、数日間はふさぎこんでいました。

◆質問17=甲状腺がん家族の会の活動方針は?

【Q17】 今後は、交流会や相談会ということになると思うが、会の活動方針について。

【A】(牛山氏) 設立するということで、今回ワンステップになったわけですが、具体的にはこれからです。[了]


◎[動画]20160312甲状腺がん患者家族会設立記者会見(UPLAN三輪祐児さん公開)

▼白田夏彦[取材・構成]
学生時代に山谷、沖縄などの市民運動を訪問。その後、9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材。現在、業界紙記者。

タブーなきスキャンダル・マガジン『紙の爆弾』8月号!

7月14日衝撃緊急出版!『ヘイトと暴力の連鎖』(『紙の爆弾』増刊)

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『NO NUKES voice』08号【特集】分断される福島──権利のための闘争