1992年に福岡県飯塚市で小1の女児2人がわいせつ行為をされたうえに殺害され、2008年に無実を訴える男性・久間三千年氏(享年70)が死刑執行された「飯塚事件」で、福岡高裁(岡田信裁判長)は6日、久間氏の遺族が求める再審を認めない決定を出した。

そんな飯塚事件については、これまでDNA型鑑定の杜撰さをはじめ、様々な事実に基づいて冤罪の疑いが指摘されてきたが、実をいうと確定死刑判決(一審の福岡地裁判決)には、事件の事実関係を何も知らない人間が見ても、間違いだとわかる点も散見される――。

飯塚事件の再審を認めなかった福岡高裁

◆存在しない〈一般的な経験則〉により久間氏を犯人に

実際に確定死刑判決から引用すると、次の部分がそうだ。

〈幼女の陰部にいたずらをして、殺害した死体を山中に投棄するという本件事案の陰湿さに照らしてみると、一般的な経験則からいって犯人は一人(それも男)である可能性が高い〉

確定死刑判決がこのような言及をしたのは、単独犯であることを前提にしないと久間氏をこの事件の犯人と認定できないからだ。というのも、科警研のDNA型鑑定では、被害女児2人の膣内容物から検出されたDNA型と久間氏のDNA型が一致したとされている。仮にこのDNA型鑑定の結果が信じられるとしても、犯人が複数なら、「被害女児2人の陰部にいたずらし、膣内にDNAを残した人物」と「被害女児2人を殺害した人物」が別々に存在する可能性も残ってしまうのだ。

それゆえに確定死刑判決は、〈一般的な経験則〉なるものを持ち出し、この事件は単独犯によるものだということにしたのだが、そもそも〈一般的な経験則〉とは何だろうか。

小さな女の子が性的ないたずらをされ、ひいては殺害されて死体を遺棄される事件は数多く存在するが、この飯塚事件のように「2人の小さな女の子が同時に被害に遭っている」ケースはきわめて特殊だ。私は新聞データベースなどで同様の例を探したが、まったく見当たらなかった。そもそも事件自体がきわめて特殊なのに、〈犯人は一人(それも男)〉などという一般的な経験則など存在するわけがない。

◆久間氏が犯人だという思い込みに基づいた事実認定

飯塚事件の主な経過(2018年2月7日付西日本新聞より)

また、次の部分も確定判決からの引用だが、これも事実関係を何も知らない人間が見てもおかしさがわかる認定だ。

〈付近住民の生活道路ともいえるような場所で、午前八時三〇分ころという比較的早い時間帯に右犯行が行われていること(さらに、八丁峠で手嶋が目撃したのが犯人車であるとすると、犯人は被害児童を略取又は誘拐してから約二時間三〇分後には遺留品発見現場及び死体遺棄現場である八丁峠に到着していることになるが、潤野小学校から八丁峠の死体遺棄現場まで自動車で行くだけで前記のとおり三五分ないし五三分かかること)にかんがみると、犯人は右各現場付近に土地勘があり、しかも、これら現場の近隣に居住する人物であると認めるのが相当である〉

これはつまり、犯人が事件の各現場に土地勘があるらしきことを根拠に、犯人は〈現場の近隣に居住する人物〉だと認定しているわけである。この確定死刑判決の見解が正しければ、久間氏はまさに〈現場の近隣に居住する人物〉だから、犯人像に合致することになる。

しかし、事件の各現場に土地勘がある程度のことを根拠に、犯人は〈現場の近隣に居住する人物である認めるのが相当である〉というのは、論理の飛躍も著しい。普通に考えれば、〈現場の近隣に過去に居住したことがある人物〉や〈現場の近隣に友人、知人、親戚が住んでいる人物〉なども現場に土地勘はあるからだ。さらに言えば、現場に縁もゆかりもない人物でも事前に現場を下見したうえで犯行を実行した可能性だってある。確定判決はそんな簡単なことさえわかっていないのだ。

要するに確定死刑判決を書いた裁判官たちは、〈現場の近隣に居住する人物〉である久間氏が犯人だという思い込みに基づいて事実認定をしたのだろう。だからこそ、このような事実関係を何も知らずとも、間違いだとわかる点が判決中に散見されるのだ。

この酷い確定死刑判決により久間氏の生命を奪った裁判官は、陶山博生氏(裁判長)、重富朗氏、柴田寿宏氏の3人。柴田氏は今も現役の裁判官だが、陶山氏は弁護士に、重富氏は公証人に転じている。3人の動向は今後も注視したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)