2011年3月の原発事故で帰還困難区域に指定され、今なお避難生活を強いられている福島県双葉郡浪江町の津島地区。643人の住民が国と東電を相手に起こした「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」(以下、津島訴訟)が今月7日、結審した。2015年9月29日の提訴から5年余。放射性物質の拡散でふるさとや住み慣れた自宅を奪われた住民たちは、何を求めて闘い続けて来たのか。共に歩んで来た弁護団は何を感じたのか。福島地裁郡山支部で行われた最終弁論を軸に、確認しておきたい。

「お金は要りません。国や東電が私たちの津島を元通りの地域社会にしてくれるであれば、原発事故前と同じような生活が出来る状態に戻してくれるのであれば、お金は要りません」

結審を翌日に控えた今月6日、郡山市役所内の記者クラブで開かれた記者会見。原告団長の今野秀則さんはきっぱりと言った。短い言葉の中に10年分の怒り、哀しみ、苦しみが凝縮されていた。「何としても自分たちの地域を取り戻す」という決意表明のようでもあった。

「地域社会が丸々ひとつ、地図から消されるような事は許されて良いのでしょうかね。私はとても納得など出来ません。私たち津島の住民は住めないような状況にさせられて、除染もされない。戻る事さえ叶わない。歴史が消えて無くなってしまう。納得出来ないでしょ? それを元に戻すために『原状回復』を求めているんです」

「津島訴訟」の原告たちが求めているのは原発事故前の美しい津島に戻す事

津島訴訟の闘いは、文字通り「原状回復」の闘いだった。訴状の「請求の趣旨」は次の2点だ。

〈1〉 被告は原告らに対し、津島地区全域について、平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所の事故により放出された放射性物質による同地域の放射線量(以下、「本件原発事故由来の放射線量」)を毎時0.046マイクロシーベルトに至るまで低下させる義務があることを確認する。

〈2〉 被告らは原告らに対し、津島地区全域について、本件原発事故由来の放射線量を平成32年3月12日までに毎時0.23マイクロシーベルトに至るまで低下させよ。

訴状には、原告の言葉も紹介されている。住民たちの想いが良く伝わってくる。

「東電と国の責任で元通りの津島を自分たちに返してもらいたいと心底思います。中ノ森山や広谷地の美しい自然を元通りにして欲しい。津島での元通りの毎日を返して欲しい。それ以上に望むものなど何もありません。津島での元の生活に戻る事が出来るならゼニなんか一銭も要りません。ゼニ金の問題じゃ無いのです」

これに対し、国や東電は2016年4月15日付の答弁書の中で、ともに「除染は現実的に不可能な事を強いるものであるから原告の請求は認められない」として棄却するよう求めている。

訴状でも「あくまでも津島地区の原状回復が、原告らが求めるものの主眼である」と綴られている

原発事故被害者による訴訟で、原状回復請求が認められた判決は無い。

2017年10月10日に言い渡された「『生業を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟」(生業訴訟)の福島地裁判決では、「本件事故前の状態に戻してほしいとの原告らの切実な思いに基づく請求であって、心情的には理解できる」としながらも、「求める作為の内容が特定されていないものであって、不適法である」として棄却。

2020年9月30日の仙台高裁判決も、「作為の内容は強制執行が可能な程度に特定されなければならない」などとして「不適法であり、却下すべき」との判断を下した。

仙台高裁も被害者に寄り添う姿勢は見せている。

「本件事故によって放出された放射性物質について自分たちが受容し、その線量や影響を受忍しなければならないいわれはなく、何としてでも本件事故前の状態に戻してほしいとの切実な思いや、放射性物質を放出させるような事故を起こした原子力発電所を設置・運転してきた一審被告東電及び国民の平穏生活権の保障に責任をもって当たるべき一審被告国において、どのような手段をもってしても原状回復をすべきであるとの強い思いに基づく請求であることがうかがわれ、心情的には共感を禁じ得ない」

「心情的には共感」しているものの、国や東電に原発事故前の状態に戻すよう命じる事は無かった。

「原状回復」のハードルが高い事は、津島訴訟の弁護団も当然、理解している。これまでの弁論期日に行われた学習会でも「この訴訟では結果の目標だけを示していて、国や東電に具体的に何をしてもらいたいかを特定せずに請求しています。これを法律学的には『抽象的不作為請求』と言います。『空間線量を毎時0.23マイクロシーベルト以下に低下させる強制執行』を裁判所に求めた場合、じゃあ、どうやってやりますか?という部分が具体的に決まっていないと裁判所もやってくれません」などと、法的な難しさが弁護団から原告たちに説明されている。

それでも、津島の住民たちは「原状回復」を請求の主軸に据えた。ハードルが高くても、元に戻して欲しいという想いが上回ったからだ。

事故など絶対に起きないと言われ続けた原発が爆発した。五重の壁で覆われているはずの放射性物質が大量に拡散され、風に乗って津島地区に降り注いだ。放射能汚染は9年10カ月経った今も続き、ごく一部で除染が始まったが、『特定復興再生拠点区域』として整備されるのは、津島地区全体のわずか1.6%にすぎない。地区全体をいつまでに除染するのか、計画すら示されていない。避難指示がいつ解除され、いつになったらわが家に戻れるのか。見通しは全く立っていない。主を失った家が日に日に朽ちて行く中、一刻も早く事故前の状態に戻して欲しいと住民たちが考えるのも当然だ。

ある弁護士は「提訴を準備している段階で弁護士の間でも議論はありました。慰謝料請求だけに絞る方がいいのではないかという弁護士もいました。一方で『住民の皆さんの気持ちを考えると、原状回復請求も加えるべきだ』という意見もありました。議論を重ねた結果なのです。原告になろうと考えている方々が『ふるさとを返して欲しい』と強く口にしていた事も後押ししました。津島の皆さんの強い想いがあったのです」と話す。

7日の最終弁論では、時に語気を強めながら原告たちの想いを代弁した弁護士がいた。(つづく)

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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◆ヤンガー秀樹時代

元・全日本ウェルター級2位.伊達秀騎(本名・鈴木秀樹/1970年5月、宮城県仙台市出身)はチャンピオンには届かなかったが、その叶わなかった夢をタイに向け、現地で正規のジムを構え、ムエタイ二大殿堂チャンピオンを誕生させたことは、タイ側から見た外国人初の快挙を成し遂げた。

フェアテックスジムでのミット蹴り(1991年7月)

鈴木秀樹は中学1年から器械体操を学んでいたが、通学中に「練習生募集中」の看板を見て興味本位に仙台青葉ジムを覗いた。

「丹下段平ジムみたいな掘っ立て小屋の窓から覗いてみたら、蹴ったら自分の脚を痛めそうなヘビーバッグが吊るしてあって、これは普段見る学校のクラブとは比べられない別世界と感じた」というキックボクシングという世界の最初の印象だった。

高校は体育科だったが新設校で、1年目はまだ体操部が無かったことや、兄がブルース・リーが好きだった影響で格闘技に興味があった鈴木秀樹は、運命に導かれるがまま仙台青葉ジムに足を運んだ。

器械体操で鍛えた体幹はバランス抜群の蹴りを備え、デビュー戦は高校2年になった1987年(昭和62年)6月25日、地元の宮城県スポーツセンターで高橋真(山木)に判定勝利。

ここで瀬戸幸一会長からジムの次期エースと期待できる選手に与える、歴代リングネーム“ヤンガー”を授けられた。初代はヤンガー石垣(後の轟勇作)、二代目はヤンガー舟木(後の船木鷹虎)に続く“ヤンガー秀樹”となった。しかし、素質は誰もが認めるも高校卒業時までに7戦2勝5敗。三代目ヤンガーを継承したが、連敗が続くことにプレッシャーを感じていたという。

◆伊達秀騎時代

「戦績も悪くなり、何か練習環境を変えなければと、東京でやろうと思ったのが切っ掛けです」という鈴木秀樹は、高校卒業後上京。親戚が居た板橋区に住むと、やがて近くにあった小国ジムを見つけ仮入門。当初はまだ仙台青葉ジム所属のまま試合出場して大村勝巳(SVG)にTKO勝利。特に難しい条件は無く、これで円満移籍した。

リングネームは自身で考えた、伊達秀騎に改名(以後文中、伊達秀騎)。出身地の英雄、伊達政宗から名前を肖った。

移籍初戦は勝山恭次(SVG)に判定負け。それまでにも判定に納得いかないことが多かった為、リスクを伴うが倒すスタイルに移行。2連続KO勝利するが、1992年(平成4年)10月、全日本ライト級挑戦者決定トーナメントで杉田健一(正心館)に顎を打ち抜かれKO負けしてしまう。

ダメージ回復の休養と自分を見つめ直す為にブランクを作るが、空手大会出場やパンチの技術を学ぶ為、プロボクシング転向を試み、沖ジムに入門を果たしていた。自分のパンチはどこまで通用するか、当初は真剣にプロボクシングデビューを志し、プロテストは無事合格を果たすが、キックボクシングへの情熱を拭いきれず、デビュー戦を前に、お世話になりながらも感謝の気持ちを持って沖ジムを後にした。
後のキックボクシング復帰は1994年6月、仙台興行で日本人キラーだったジャルワット・オーエンジャイ(タイ)にKO勝利して再起を飾る。

ここから全日本ウェルター級挑戦者決定トーナメント出場となるが、松浦信次(東京北星)にKO負けする大失態。大飛躍のチャンスを落としたことは周囲にとっても大きな落胆だった。

アナン会長のゲーオ・サムリットジムで調整(1993年9月)

ジャルワット・オーエンジャイ戦、仙台での復帰戦をKO勝利(1994年6月25日)

王座挑戦へのトーナメント、松浦信次戦は悔しい敗戦となる(1994年9月23日)

◆ムエタイ修行で人生転換

伊達秀騎が初めてタイ修行したのは1990年5月、バンコク・ドンムアン空港から発つ飛行機の真下で、騒音が酷い地域にある名門ムアンスリンジムだった。練習以外もキツい環境で、通気性の悪い倉庫のような選手の宿舎。初めてタイ修行に行く者にとって、文化や生活環境の違いは耐え難い状況だっただろう。

もう行きたくないと思っていたというタイだったが、1991年7月、「同門の高津さんに付き合う形で一緒に行きました」と言う、ジムで先輩から勧められていたフェアテックスジムに赴いた。トレーナーを務める伝説のチャンピオンと言われるアピデ・シッヒランさん宅にホームステイする形で修行し、1ヶ月ほど我が子のように慕って貰ったことから一転、タイとムエタイに惚れ込んでいき、後々の運命を変える人生の分岐点となる修行であった。

タイでの初試合は1993年9月のバンヤイシティースタジアム。それまでフェアテックスジムでの修行だったが、層の薄い重量級では試合は組まれ難いものの、逆に選手が足りない事態も起こり、後々深い縁となるゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から声が掛かり試合出場した。

「逆転KO勝ちでしたが、試合が盛り上がると、インターバル中にもギャンブラーからチップをくれて、興行一座のドサ周りみたいな感じが面白くて、タイでの試合にハマりました」とムエタイ初試合の印象を語る。

1994年10月には、メコン河を挟んだラオスとの国境となる街、ノンカイでの試合はKOで敗れたが、タイ全土にテレビ生中継され、倒しに行く姿勢で相手を苦しめた試合内容を評価されたことで再戦が決まり、翌年1月、チェンマイでもタイ全土にテレビ生中継の中、敗れるが大激戦となり、アナン氏からより一層信頼される存在となっていた。

当時、日本で大事な試合に敗れ、更に団体は分裂を起こし、目指していた目標は消え、モチベーションも低下する中、タイで仕事をしながら現役を続けられるのではと考えた伊達秀騎は日本のリングを去った。

アナン会長が冗談を言いながらバンテージを巻くリラックスした試合前(1994年10月18日)

[左]ノンカイでの試合、タイ全土に放映されるサーティット戦(1994年10月18日)/[右]チェンマイで再戦、バックヒジ打ちでサーティットを苦しめる(1995年1月29日)

1996年10月、心機一転タイに移住し、人材紹介会社に就職した。

しかし、タイでも仕事を任せられれば徐々にジムに向かう時間が無くなるのは当然だった。それでもアナン氏から試合のオファーが来ると断らずに受けていた。まだ26?27才で、現役時代の厳しいトレーニングの貯金で動けていた身体だったが、移住1年程経った時期、ラジャダムナンスタジアムでの試合で3ラウンドTKO負けの頬骨陥没骨折。全身麻酔で手術を受けて8日間入院。今でも頬骨にボルトが入っているという。舐めてはいけない本場ムエタイの仕打ちだった。

怪我は癒えた後々、現役に悔いを残さない想いをもって挑んだラジャダムナンスタジアム・ミドル級1位の強豪にKO負け。これでリング上では全てをやり終えた伊達秀騎だった。

同スタジアム、激戦に持ち込む伊達秀騎(1995年6月)

サムローンスタジアムでワイクルー(戦いの舞い)を舞う伊達秀騎(1995年6月)

◆タイビジネスの恩人

その後、30歳を目前にして起業。ムエタイや撮影のコーディネート、ムエタイ日本語情報誌の発行などを興し、2002年2月、バンコク中心部スクムビット地区に目標としていたイングラムジムを設立した。

2004年にブアカーオ・ポー・プラムックを来日させると、K-1 MAX初出場で優勝。その後、サガッペット・イングラムジム(タイ)をルンピニースタジアム・ライト級、ジョイシー・イングラムジム(ブラジル)は欧米人初のラジャダムナンスタジアム・ウェルター級の二大殿堂スタジアムでチャンピオンを輩出する日本人としては初の快挙を成し遂げた。

しかしムエタイ業界に限らず、どこも競争が激しい世界。ルンピニースタジアムのプロモーター傘下では、あらぬ嫌がらせも受けたという。そんなことはよくある業界内特有のしがらみで、ラジャダムナンスタジアムに移ることもあった。

しかし、ルンピニースタジアムに出場していた弟子のダーウサミン・イングラムジム(後のWPMF世界スーパーフライ級チャンピオン)が、前座ながら白熱した試合で、チャンピオンやランカーを差し置いて月間最優秀試合賞を獲得し、本気になって選手を輩出していれば外国人でも認めてくれるのだと、イングラムジムの名前が認められてきたと思ったという。

ここまで這い上がって来れたのは、アナン会長との縁で、試合オファーには出来る限り応じた為、ジム運営やビジネス面では多くのバックアップをしてくれた恩人だという。アナン氏自身も苦労人から這い上がり、多くの強豪選手を輩出し、タイ国ムエスポーツ協会監査役員になるなど実績高い人物だった。そのサクセスストーリーを間近で見てきた伊達秀騎の成功があるのだろう。

2020年初頭は、スポンサーだった日本企業のバックアップで、BTS(バンコク高架鉄道)エカマイ駅近くの800平米もの好物件を見つけジムを移転し、オープン当初は順調だったが、コロナ禍が直撃し3月には政府からタイ全土に営業禁止の通告が出され苦境に陥り、9月末を持ってジム閉鎖に至ってしまった。

その後、ムエタイ界の重鎮達からは、新たなジム開設を勧められているが、現在はどのような形で再開可能かをいろいろと模索している状況という。

2015年には結婚し、翌年長女が生まれて現在4歳。もう言葉が話せるのは当然として、日本語、英語もある程度話せるという。生き甲斐は我が妻と娘いう伊達秀騎。もうとっくの昔に“ビジネスマン鈴木秀樹”に戻っているが、2021年は新たなビジネス展開を見せてくれるだろう。

国家が絡むビッグイベント記者会見に並ぶ、前列左から伊達秀騎、アナン会長、ブンソン大佐(タイ国ムエスポーツ協会副総裁) (2017年3月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』第一部『春の雪』のモチーフのひとつには、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

聖心女子大からの推薦で、歌舞伎座で隣り合わせに座るかっこうで面会し、その後、料亭で歓談したという。そして三島は母倭重江とともに、正田美智子の卒業式を見学に行っている。

当時も今も、聖心女子大はハイソサエティー女子のメッカである。三島の作品では『お嬢さん』のヒロインが聖心の在学生という設定だ。

そして、明仁皇太子(平成上皇)と正田美智子の自由恋愛を装った縁組が、これを前後して行なわれている。旧華族の北白川肇子に決まりかけていたところ、小泉東宮参与、黒木東宮侍従らが水面下で正田美智子嬢を皇太子妃にしようと画策し、偶然をよそおった軽井沢テニスコートでの出会いが準備されたのだ。昭和天皇の「東宮の嫁は、民間から」という意向がはたらいたという説もある。

三島家はどうだったのだろうか。三島の祖母のなつが「商家の娘は(ダメ)」という反対派で、三島家から断ったとされているが、真相はよくわからない。いずれにしても、三島が「『春の雪』はフィクションというわけじゃないんだよ」と語ったのは、このことである。

◆三島の円照寺取材

『豊饒の海』の作品全体をつらぬくモチーフとして、阿頼耶識(大乗仏教)と唯識論、いいかえれば唯心論の中心には、綾倉聡子が出家する月修寺(円照寺)があった。

円照寺は臨済宗妙心寺派だが、作品中の月修寺は法相宗という設定である。法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、法相宗でなければならなかったのだ。

円照寺の縁起からも解説しておこう。円照寺は後水尾天皇の第一皇女・文智女王が開いた寺院(当時は草庵)である。

後水尾天皇による山荘(修学院離宮)の造営にともなって、圓照寺は移転を迫られた。明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称す。さらに東福門院の申請により、幕府から200石の寄進を得て、寛文9年(1669)に八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。爾後、門跡寺院として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた。

その円照寺門跡、山本静山尼が提唱天皇のご落胤、もしくは三笠宮親王との双子で、したがって昭和天皇の妹であるという説については、前回解説したとおりだ。
三島由紀夫が河原敏明説(1979年発表)を知らないのは言うまでもないが、取材を思い立ったのは、いったい何の機縁であろうか。何かが導いたとしか思えない偶然である。三島由紀夫と正田美智子、そして山本静山尼。

作品(春の雪)から解説しよう。物語の結末を暗喩する、唯心論のくだりである。
松枝家の築山の滝に、死んだ犬が落ちていた。来訪していた月修寺の門跡がこれを供養する。

そのとき月修寺門跡(先代)がした講話は「元暁の髑髏水」であった。「心を生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり」。

ようするに、元暁という僧侶が暗闇のなかで見つけて、ありがたく飲んだ水が、髑髏の中に入っていた(思わず吐き出してしまう)という顛末である。心しだいで水は美味であり、吐き出したくもなるという寓話だ。

そのとき、作品中の狂言回しである本多繁邦は、主人公の松枝清顕にこう語りかける。

「純潔な青年は純潔な恋を味わう」しかし「相手がとんだあばずれだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋を味わうことができるだろうか?」「できたら素晴らしい」と。要するに、唯心論なのである。

三島は円照寺を二度おとずれ、二度目の訪問で門跡山本静山に会っている。三島はその印象を、「この世のものとも思えないほどの気品で、ただ絶世の一語につきる」と語っている。自身の創作物である綾倉聡子が、そこに現出したのであろうか。そして月修寺(円照寺)は、物語を反転させる場になる。

◆『豊饒の海』謎の結末の解釈

従来『豊饒の海』の結末の謎は、さまざまに解釈されてきた。悟りの末の「空(何もないところ)」に色即是空を当てはめてみたり、禅宗的に「無」の風景をそこに想定する。哲学的なイデアで解釈する。世界の崩壊をそこにアナロジーするなど、恣意的な解釈であることに変わりはない。文学論とはそもそも、評者の勝手な読み込みにモチーフがあるのだから。

しかし、三島作品をそれほど読んでいない批評家の作品論には、わたしのように全作品、全評論を通読してきた者には違和感がある。夭折にあこがれ、英雄的な死にふさわしい肉体を耕し(『太陽と鉄』)、憂国という舞台建てのなかで切腹死したことと、この作品の結末は無縁ではない。

作品の文章から引用しよう。長く美しい文体がわざわいして、この作品は読者に通読を許さない難解さがある。その例証として、わたしが久住純の筆名で書いた『情況』(2020年秋号「芸術としての政治の完成」)からである。

道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うら)の、隅々まで明瞭な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染(なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み慣れた「この世」であろうか。

どうです? 禅宗寺院の門前の風景、一気に読みくだせましたか? 松枝清顕が出家した綾倉聡子との叶わぬ逢瀬のために通う、六回目の月修寺訪問のシーンである。そこが何もない場所である物語の結末への暗喩が、長文の末尾にほのみえている。

『豊饒の海』の結末とは、月修寺の門跡となった綾倉聡子が、松枝清顕の存在を否定することで、物語全体を否定することになる。いわば夢オチである。

推理小説において、主人公(探偵や刑事)が真犯人であるのは規則違反とされる。夢オチも禁じ手とされている。いずれも魅力的な手法だが、それをやってしまうとストーリーが破綻するからである。

『豊饒の海』の結末は、じつにこれなのだ。三島は月修寺の門跡(綾倉聡子)に、禁断の恋の相手である松枝清顕の存在を否定させることで、この禁じ手をみごとにやってのける。飯沼勲の転生であるタイの王女ジン・ジャンが、子供のころの記憶(前世が勲であった証言)を「何もおぼえていません」と言うのとはわけがちがう。

門跡(聡子)の言葉が真実であれば、主人公の本多すらも存在しなかったことになるのだ。門跡が言う「それも心々」とは、唯心論の真骨頂である。市ヶ谷蹶起の秘密は、じつはここに隠されている。

市ヶ谷蹶起の日に、担当編集者に最終原稿を渡した意味もここにある。それは、すべてを「なかったこと」にする企みだったのである。原稿2000枚、創作ノート23冊におよぶ大作を、夢オチで何もなかったことにする。すべては作りごとにすぎないというものだ。

どうだ、すべてお釈迦にしてやった、お前らに出来るものならやってみろ、である。この地点からは、到彼岸で高笑いしている作家の相貌が浮かぶ。三島の創作活動のすべては虚構に過ぎず、現実にあるものは割腹死だというものだ。それも、三島由紀夫であった亡骸(生首)にすぎない。作品の完結とともに、作家も居なくなってしまったのだ。われわれを置き去りにしたまま、世紀の天才はレジェンドになった。

※三島の市ヶ谷蹶起の真相については、『紙の爆弾』(2020年12月号)の「三島の標的は昭和天皇だった」を参照されたい。

※円照寺は観覧不可だが、奈良交通が年に3回、日帰りのツアーを実施しているという。↓
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298198-d8149900-r352575521-Enshoji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html

「じゃらん」の案内 https://www.jalan.net/kankou/spt_29201ag2130015879/

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

伊藤詩織氏というジャーナリストの女性が、山口敬之氏という元TBSワシントン支局長の男性にレイプされたと実名で告発したうえ、1100万円の損害賠償などを求めて東京地裁に提訴した件に関し、私は当欄で2018年3月1日、以下のような記事を発表した。

◎伊藤詩織氏VS山口敬之氏の訴訟「取材目的の記録閲覧者」は3人しかいなかった

伊藤詩織氏の著書『Black Box』

この件はこの頃から様々なメディアで大々的に報道されていたが、その大半は訴訟記録の閲覧という初歩的な取材すらされていないものだった。そのことを明るみに出したこの記事は、SNSなどで大きな反響を呼んだ。

訴訟はその後、東京地裁が2019年12月、伊藤氏の訴えを認め、山口氏に330万円の賠償を命じる判決を出したが、山口氏がこれを不服として控訴し、現在は東京高裁で控訴審が行なわれている。この間、私の上記記事に触発されたのか、様々な人が裁判所でこの訴訟の記録を閲覧し、インターネット上では、裁判で明らかになった事実に基づいた議論が活発になされるようになった。

もっとも、この件に関しては、まだ見過ごされている重要なことが1つある。それは、伊藤氏と山口氏の性行為がレイプにあたろうがあたるまいが、この事件には複数の被害者が存在することだ。

この事件の現場となった寿司屋とホテル、そして2人のことをホテルまで乗せたタクシーの運転手である。

◆まぎれもない被害者なのに、沈黙する人たち

まず、寿司屋。伊藤氏は「レイプドラッグを飲まされたと思っている」と公言しているが、それが事実か否かはともかく、伊藤氏が山口氏と共に店で飲食中、前後不覚の状態に陥ってトイレで寝込んでしまったことや、一緒にいた山口氏がそのような事態になるのを防げなかったことは確かだ。店が迷惑を被ったことは間違いない。

また、ホテルも事件の現場にされたばかりか、訴訟の証拠として特別に提供した防犯カメラの映像がインターネット上に流出させられる被害に遭っている。ホテルは伊藤氏と山口氏の双方に対し、「映像の使用は裁判手続きの場に限る」との誓約書を提出させていたにもかかわらず、いずれかがその誓約を破ったのである。

そして2人をホテルまで乗せたタクシーの運転手は、前後不覚になっていた伊藤氏が乗車中にシートに嘔吐し、一緒にいた山口氏がそれを防げなかったため、その日はそれ以後、営業できなかったのだという。タクシーの業務ではたまに起こることだとはいえ、運転手は当然腹が立っただろう。

伊藤氏と山口氏の2人は法廷の内外で「自分こそが被害者だ」と声高に主張し合い、お互いを批判し合っているが、2人の主張はいずれも事実関係に様々な争いがある。事実関係を検証するまでもなく、まぎれもない被害者である寿司屋、ホテル、タクシーの運転手はこの間、伊藤氏や山口の言動やそれを伝える報道をどんな思いで見つめているのだろうか。

沈黙し、何も語らない彼らの心中こそがこの事件の「最大のBLACK BOX」だと私は思う。

伊藤氏と山口氏の訴訟は現在、東京高裁で行われている

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。創業した一人出版社リミアンドテッドから新刊『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史)を発行。

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

12月25日、2003年滋賀県近江市(旧湖東町)で、病院で死亡した男性患者に対する殺人罪で服役、その後再審請求裁判で無罪判決を受けた西山美香さん(40)が、国と県を相手取り、損害賠償請求を求める裁判を提訴した。提訴後、弁護士会館で開かれた記者会見で、井戸謙一弁護士より提訴の内容の概略が説明され、その後質疑応答が行われた。その会見内容を2回にわけて紹介する。前編に続き、後編の今回では記者会見での質疑応答を紹介する。なお、質問は複数の記者によるものだが、本稿では各社の名は記さない。(取材・構成=尾崎美代子)

── 国賠を闘おうと決意した理由は?

提訴後、弁護士会館で行われた記者会見

西山さん 再審で無罪判決を受けてからすぐに判断したのではなく、皆さんと協議して決めました。今でも滋賀県警は冤罪をつくるような捜査をしていて、一番偉い本部長が「捜査の違法性はない」とはっきり言えることが、私にとってはおかしくて仕方ない。そんなことで警察官をやっていたら、どんどん冤罪ができていくと思ったからです。それと12月28日は、37年冤罪で闘っておられる滋賀県の日野町事件が起きた日ですが、大阪高裁はまだ再審開始の決定をだしていません。一刻も早く決定をだし、私のように無罪判決を貰えたらと思い、私も闘う決意をしました。そして私たちのために動いてくれる獄友の桜井昌司さん、青木恵子さんらに励まされてきたので、お二人が国賠を闘っているので、私も一緒に闘っていけたらと思ったからです。

── 警察に望むことは?

西山さん 取り調べをしっかりして欲しい。脅迫したり、犯人と決めつけるのではなく、どういういきさつでどうなったかをきちんと話を聞いて捜査してほしい。逮捕したら「こいつは犯人だ」と決めつけないで欲しいということが一番です。

── 滋賀県警が謝罪しないことについては?

西山さん 滋賀県警は間違いをおかしたなら謝るべきです。だからこそ私が国賠をする意味があると思います。国賠することで、裁判所でいろんなことを明らかにしていきたいと思っています。

── 国賠を決断されたのはいつごろか?きっかけは何かを教えてください。

西山さん 日野町事件で、今年(2020年)か年度内に再審開始の決定が出ると思ったが、裁判長が変わったりしてなかなか難しいとなったので、私も裁判をして一緒に闘っていきたいと思うようになりました。秋くらいに決意しました。

── 12月25日に提訴しようと思ったのは?

西山さん 私の再審開始の決定(2017年12月20日)が大阪高裁で出て、喜びが大きかった矢先の12月25日に、検察が特別抗告したのですが、特別抗告されたら、家族がどれだけ苦しいかをわかってもらいたいと思い、25日にしたいと弁護団に言いました。

── 西山さんは、最初は静かに暮らしたいと考えていたそうですが?

西山さん 静かに生活したい、今の生活を大事にしたい思いはあります。でも私が国賠をすることで、勇気づけられる人も沢山いると思います。これまでいろんな手紙をもらいました。障害をもっている方からは「私がもし事件にまきこまれていたら、どうなったかわからない。西山さんのように訴えることはできなかったかもしれない」という手紙をもらいました。ほかに励ましの声も沢山あるので、これは国賠を闘う意義があるのではないかと思い、決断しました。

── 国賠を提訴することを、ご家族にはいつ頃はなされたのですか?

西山さん 両親は、私が(刑務所の)中にいるとき、支援を色々やってくれ、国賠をするものだと思っていたようです。私に「しなさい」と言いましたが、私は(裁判が)長くかかるし、精神的に持つかわからないからできないと言っていたので、両親は最初から国賠するつもりでした。

── 国賠では警察、検察を追求しますが、間違った判決を書いた裁判官にいいたいことは?

西山さん 私の確定審で判決を書いた裁判官は、日野町事件でも悪いことをしています。そういう裁判官をこの世の中からなくしていきたいと思っているので、その点も国賠で強く主張していきたいです。

── この訴訟は賠償請求が目的ですが、さきほどのお話では、お金を目的に訴訟をしようと思ったのではないように聞こえましたが。改めてお金の部分とそうでない部分とどちらのほうが重要とお考えでしょうか?

西山さん お金の問題ではないんです。勝つことが大事なんです。布川事件の桜井さんは国賠で勝ったでしょう。それで勇気づけられた人がいっぱいいるんです。それで裁判所も考えなければいけないと思います。大西裁判長は別の裁判では悪い判決を出しましたが、私の裁判では、真っ白い無罪判決をいただき、その上「説諭」までいただいた。「この事件を教訓に変えていかないといけない」と言ってくださいました。そこを変えるには、裁判をおこさないと変えていけない。滋賀県警はさんざん悪いことをしてきたので、国賠する意義かあると思います。

── 井戸弁護士にお聞きします。供述弱者への取り調べなどが問題になっていると話されていましたが、どういう点を裁判で明らかにしていく予定でしょうか?

井戸弁護士 捜査段階では美香さんの障害は明らかになっていなかった。その点は考慮すべきだが、ただ美香さんが、非常に性格的に弱い、自分の防御能力が弱い、そういう性格の持ち主であることと、しかも取り調べ刑事に対して恋心を抱いていることは、滋賀県警は十二分にわかっていながら、取り調べを続けていた。そういう環境が虚偽自白の温床であるということは、滋賀県警はわからないはずはない。虚偽自白を防がなくてはならないという意識があれば、まず取り調えば、こんなに好都合な環境はない。そこは警察の取り調べに対する意識の持ち方だが、たくさんいる供述弱者の方々は、ある意味警察の追っ手にかかったら、赤子の手をひねるような形で簡単に自白させてしまう。そうであってはならないという問題意識を警察も持たなくてはならないし、社会全体でそうした意識を高めていかなければならない。この訴訟がそういう契機になればと願っています。

大西裁判長の説諭は、全国の刑事司法担当者にボールを投げされたものと思っています。私自身もそのひとりですので、投げ返されたボールをそれぞれの立場で、それぞれの人間がそれをどう発展させるかを考えなくてはならない。私の立場では、この国賠訴訟で問題点を明らかにして、社会に還元していくという作業をすることが、私自身のそのボールの活かし方と思っています。

捜査機関が非を認めて謝罪してくれるのがベストですが、そこまでいかなくても、今度は民事の裁判所がその点をはっきり認定して、「こういう捜査は違法」という判断がでれば、それは今後の全国の捜査に与える影響は非常に大きいと思います。

共に国賠を闘う桜井昌司さん、青木恵子さんが、翌日の美香さんの誕生日を祝って花束を

◎冤罪を生まないために──冤罪被害者・西山美香さんが国と滋賀県を提訴した理由
〈前編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=37654
〈後編〉 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=37660

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

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昨年12月25日、2003年滋賀県近江市(旧湖東町)で、病院で死亡した男性患者に対する殺人罪で服役、その後再審請求裁判で無罪判決を受けた西山美香さん(40)が、国と県を相手取り、損害賠償請求を求める裁判を提訴した。提訴後、弁護士会館で開かれた記者会見で、井戸謙一弁護士より提訴の内容の概略が説明され、その後質疑応答が行われた。その会見内容を2回にわけて紹介する。前編の本稿は以下、井戸弁護士が語る提訴の概略だ。(取材・構成=尾崎美代子)

滋賀県大津裁判所に入る西山美香さん(写真左から2人目)、井戸謙一弁護士ら(写真左先頭)弁護団

◆滋賀県警による違法行為

つい今しがた、西山美香さんは、国と滋賀県を相手に国家賠償請求を提訴し、書類が受理されました。その件でご報告させていただきます。何を問題にしているか、県と国のどういう行為を違法行為としているかについて申し上げます。

滋賀県の公務員である滋賀県警の警察官に対しては、大きくいうと2つの違法を主張しています。被疑者取り調べの違法が1つ目、2つ目は被疑者に有利な証拠の隠蔽です。

被疑者取り調べの違法については、

[1]取り調べを担当した山本誠刑事が、供述弱者である西山美香さんを一種のマインドコントロール下におき、思い通りの供述調書を作成した。

[2]美香さん自身は供述を否認したり、認めたりをくり返していたが、否認調書を作成せず、自白を内容とする供述の調書だけをつくって、裁判所に供述過程の理解を誤らせた。

[3]起訴後は原則として取り調べをしてはいけないのに、自白を維持させる目的で、頻繁に起訴後の取り調べを続けた。

[4]
弁護人を美香さんが信頼するのを妨害する目的で、弁護人に対する誹謗中傷などを美香さんにつげ、美香さんが弁護人を信頼できないようにしたことです。

2つ目の証拠の隠匿の違法については、

[1]平成16年3月2日付けの捜査報告書には、滋賀医大西教授自身が、「亡くなった方が痰詰まりで酸素供給が低下し、死亡した可能性が十分にある」と説明したということが書かれていたのに、これを検察官に送らなかった。それにより、検察官の適正な起訴・不起訴の判断を誤らせた。

[2]西教授が、確定審の1審で、証人として供述するにあたり、西教授に対して、この痰詰まりの可能性を否定するように働きかけた可能性があることです。

◆検察官による違法行為

検察官の違法については、大きく2つあります。

1つ目は、捜査段階での違法であり、具体的には1つ目は、起訴・不起訴を決定する権限を適切に行使しなかったことです。検察官の取り調べにおいて、美香さんの犯人性に疑うにたりる十分な事情があることを把握していながら、起訴の判断をしたということ。2つ目は、滋賀県警がさきほど申し上げたような違法な取り調べを続けていたが、そのことは検察官も十分認識していたのに、これを是正させなかったことです。

検察官の違法の2つ目の大きなくくりは、再審開始決定に対して違法に特別抗告をしたことです。なぜかというと、特別抗告をするには特別抗告理由が必要です。検察官の主張内容のうち、判例違反の主張は、明らかに不合理でした。

また、事実誤認は、高裁段階までで提出した証拠に基づいて主張しなければいけないのに、それができないから、検察官は最高裁に新たに証拠の取り調べ請求をしたのです。しかし、最高裁が新たに証拠を取り調べる可能性がないから、事実誤認の主張が通る可能性もなかった。

◆警察、検察の違法行為を具体的に明らかにするために

共に国賠を闘う桜井昌司さん、青木恵子さんが、翌日の美香さんの誕生日を祝って花束を

検察官は、最高裁が特別抗告を受け入れ、再審開始決定を取り消す具体的な見通しがないのに、特別抗告をし、これによって美香さんの雪冤を無意味に1年3ケ月遅らせたのです。本訴においては、これらの警察官、検察官の違法行為によって、美香さんが被った損害を算定した金額から、先般受け取った6,000万円弱の刑事補償金を控除した残金として4,306万3,809円を請求するということになります。

美香さんも含めて我々は、再審無罪が確定してから、国賠を提訴するか否か、ずっと検討してきました。最終的に提訴することにしたのは美香さんの決断ですが、我々弁護団としては、再審公判で警察、検察の違法行為を具体的に明らかにするということが十分にはできなかったので、この国賠によってこれを明らかにしたい。具体的な経緯、理由などを可能な限り明らかにすることによって、大西裁判長が「説諭」で言っておられたように、この刑事事件を契機にして、日本の刑事司法を良くしていく、改善していく力になりたいという思いです。

一昨日(2020年12月23日)、袴田事件で最高裁が原決定を取り消しましたが、あのなかで最高裁の裁判官5人が一致して、みそ樽の中からでてきた衣類は、発見の直前に入れられた可能性があるという認識をしました。要するに証拠の捏造です。誰がしたかというと、静岡県警しかありえない。ということは警察という組織は、自分たちがした行為の正当性を取り繕うためには、証拠の捏造までしてしまう、そういう組織であるという認識を最高裁がしたという点が重要です。

そういう体質が日本の警察に色濃く残っているのであれば、今後も冤罪事件は決してなくならない。やはりそれを変えていかなくてはならないので、そのための力に、この国賠訴訟がなることを目指し、それを願って、今後この裁判に取り組んでいきたいと思います。以上です。(後編につづく)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

『NO NUKES voice』Vol.26 小出裕章さん×樋口英明さん×水戸喜世子さん《特別鼎談》原子力裁判を問う 司法は原発を止められるか

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昨年は死刑執行が1件もなかったが、今年はそうはいかないだろう。私がそう予想する最大の理由は、昨年9月に発足した菅義偉内閣で上川陽子氏が法務大臣に再任されていることだ。

安倍内閣でも法務大臣の経験がある上川氏がこれまでに死刑執行を命じた人数は計16人。これは、法務省が死刑執行の公表を始めた1998年11月以降の法務大臣では最多記録だ。今回の在任中も「やる気満々」であるのは間違いない。

さらに言えば、上川氏が委ねられた「菅政権で最初の死刑執行」は、国民ウケするインパクトのあるものになるだろう。上川氏の死刑執行の実績を見ると、実際にそういう観点から執行する死刑囚を選んできたことは明らかだからだ。

死刑執行の最多記録を持つ上川陽子法務大臣(法務省HPより)

◆国民ウケするインパクトのある死刑執行を重ねてきた上川氏

2015年6月、上川氏が法務大臣として初めて死刑執行を命じたのは、闇サイト殺人事件の神田司死刑囚(44)だった。この事件では、被害女性の母親が犯人たちの死刑を求める署名活動を行い、実に30万人超の署名を集めて話題になっていた。つまり上川氏は、こうした大勢の国民の期待に応える形で死刑を執行したわけだ。

上川氏が次に死刑執行を命じたのは2017年12月だが、この時に対象とした関光彦死刑囚(44)、松井喜代司死刑囚(69)はいずれも「再審請求中」だった。しかも、関死刑囚は1992年に千葉県市川市で会社員一家4人を殺害した犯行時、まだ19歳の「少年」だった。

「再審請求をしていようが、死刑は執行する」「犯行時に少年だろうが例外ではない」

そのようなメッセージが込められた死刑執行の人選も、死刑制度容認派が8割を超える日本国民の意向に沿ったものだろう。

そして上川氏の真骨頂がオウム死刑囚13人の大量執行だ。それは、2018年7月16日と同26日、2度に分けて行われた。戦後を代表する大事件の最終決算ともいうべきこの死刑執行により、それを法務大臣として担当した上川氏の名前も歴史に残ることになった。

このように国民ウケするインパクトのある死刑執行を重ねてきた上川氏。それだけに「菅政権で最初の死刑執行」も国民ウケするインパクトのあるものになるだろうと私は思うのだ。

◆上川氏ならやりそうな「スピード執行」

では、上川氏が具体的にどんな死刑執行を考えているかというと……。

私は、死刑確定から1年前後の死刑囚の「スピード執行」ではないかとにらんでいる。

というのも、死刑執行については、法で「判決確定から6カ月以内にしなければならない」と定められているのに、実際はそれよりはるかに長い年月を要することが多く、「死刑執行が遅すぎる」と批判する声は多い。となると、国民ウケするインパクトのある死刑執行を行ってきた上川氏としては、速さで評価される「スピード執行」はぜひやってみたいところだろう。

かつて大教大池田小事件の宅間守元死刑囚が判決確定から約1年と異例の速さで死刑執行された際、それを肯定的に評価する声は多かった。そのことも上川氏は当然知っているはずだ。

そして昨年中に判決が確定したばかりの死刑囚たちの顔ぶれを見ると、宅間元死刑囚と同じく、法廷で無反省の言葉を連ね、自ら一審だけで裁判を終わらせた死刑囚が複数いる。そのことも私が上川氏が「スピード執行」を狙っているだろうと思う理由だ。

というより、私には、そもそも、菅政権で上川氏が最初の法務大臣に選ばれたのは、そういう特定の死刑囚の死刑を執行させたい思惑があったのではないかと思えてならない。言うまでもないことだが、ここで私が念頭に置いている「特定の死刑囚」とは、昨年3月に判決が確定した相模原障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚のことである。

法務省。死刑執行の手続きの多くはここで行われる

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』(画・塚原洋一、笠倉出版社)がネット書店で配信中。分冊版の最新第15話では、寝屋川中1男女殺害事件の山田浩二死刑囚を取り上げている。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

「Go To」一時停止を発表した足で、宴会に向かった菅。多くの国民はあきれ果てたが、側近ともいうべき内閣官房はどのように考えているのだろうか。2020年の師走、直接電話で取材した。(取材・構成=佐野宇)

内閣官房 お電話代わりました。コロナ対策室の○○○○と申します。
佐野   恐れ入ります。お尋ねしたいのですけれども、いま大臣あるいは各省庁、都道府県知事がいろんな形でコロナについてはこういうふうにしてくれと発信していらっしゃるのですが、国としては私たち国民はどのような態度を取ればいいということを要請なさっているのか、教えていただけますでしょうか。
内閣官房 まず、10月23日に分科会が開かれまして、そこでの提言として『感染リスクが高まる5つの場面』というのが出されているんですね。その5つの場面の中に、例えば飲酒を伴う懇親会だとか、大人数で長時間におよぶ飲食とか、マスクなしの会話とか、そういったことが示されていて、政府としてもそれについて注意を呼び掛けているところです。


◎[参考動画]感染リスクが高まる「5つの場面」(内閣官房新型コロナウイルス感染症対策推進室 2020年11月17日)

佐野   以上ですか。
内閣官房 他にどのようなことがお知りになりたいのでしょうか。
佐野   だとすると、総理大臣がそのようなことを守ってないでしょ。
内閣官房 5人以上で会食をされたということですよね。
佐野   5人以上じゃなくたって、今おっしゃった中に5人以上っていう数は入ってなかったでしょ。
内閣官房 その具体的な数については……。
佐野   5人以上ってなんか科学的に根拠があるんですか?
内閣官房 5人以上というのは、特に根拠がなくて……。
佐野   ないでしょ。飲食を控えるってことを10月何日に決まったって、おっしゃいましたよね。
内閣官房 はい。
佐野   総理大臣守ってないじゃないですか。ねえ。
内閣官房 はい。
佐野   これは内閣府の方に申し上げてもしょうがないんですけれども、総理大臣が守ってなかったら困りますよね。
内閣官房 はい。
佐野   「なんだ!」っていう話になりますよね。
内閣官房 そうですね。感染防止策についてはどのような方でも守っていただきたいと思っておりますので。
佐野   昨日、一昨日も首相の動静を見たら、夕方複数の方と飲食されてますもんね。
内閣官房 はい。
佐野   これ、国民聞かないでしょう、こんなんじゃ。むちゃくちゃパンデミック広がってるでしょ。どういうふうに収束させるおつもりなんですか、政府は。
内閣官房 引き続き感染リスクが高まる場所につきましては、こちらとしてもいろいろな場面を捉えて、呼びかけていきたいと思っております。


◎[参考動画]菅総理“マスク会食”を「徹底したい」も実践せず(ANN 2020年12月18日)

佐野   呼びかけたって、総理大臣が守らなかったら、総理大臣だけじゃなくて自民党の各派閥も昨日忘年会予定してて、急遽取りやめてるってそんな状態でしょ。政府とか国会議員の人が守る気なかったら、市民は聞きませんよ。それをどう正したらいいと思われますか。
内閣官房 それは、こちらの呼びかけが足りないということについては……
佐野   そうではないと思いますよ。一生懸命なさってると思いますよ、内閣府の方は。内閣府の方がなさっても、政治家とか大臣がそれを遵守しないということじゃないんですか。
内閣官房 はい。
佐野   とても大変な板挟み状態にいらっしゃるということではないでしょうか。今お電話に出ていただいてる方たちは。
内閣官房 個別の個人に対してここで指導するということは……。
佐野   いやいや、総理大臣は公人じゃないですか。個人じゃなくて公人だから。どこぞのおじさんがとか民間の人だったらこういうことは言いませんよ。この国権の最高権力者でしょ。その人が皆さんが言ってることを守っていなければ、それより下の人が守るわけないじゃない。簡単な理屈で。
内閣官房 はい。
佐野   それはどうお考えになりますか。
内閣官房 それは先ほど申し上げたように、こちらの呼びかけが足りない部分もあると思いますので。
佐野   われわれは聞いてますよ。国民は、そういう呼びかけがあることは聞いてますよ。だからなるべく外で食事しないように心掛けてますよ。だけど、それを発信してる上の統括者の総理大臣が、そんなことほっといて、「Go Toやめます」と言った後に宴会に行っているわけでしょ。皆さんとしてもたまらないんじゃないですか、こんなの。
内閣官房 はい。それは私が謝る立場にあるのかわからないですけれど
佐野   いえいえ違います。今お電話いただいている方に謝罪を求めているわけではないんですよ。そうではなくて、おかしいと思われませんかと聞いているだけです。
内閣官房 はい。感染リスクを高めるようなことについては控えていただきたいと思っております。
佐野   わかりました、じゃあ、内閣官房も困り果ててるというお答えでよろしいですか。
内閣官房 ……感染防止策については、実施していただきたいと思っております。
佐野   いや、菅氏の行動については、呼びかけをしているにもかかわらず、それを遵守しないので、内閣官房としては困り果ててるという答えでよろしいでしょうか。
内閣官房 すみません、私はそのようなお答はしていなかったと思うのですけれども。ただ、どのような方でも感染防止策は実施していただきたいと思っております。
佐野   彼は協力しないわけでしょ。
内閣官房 はい。
佐野   実施しないわけでしょ。
内閣官房 はい。
佐野   だったら困りませんか。
内閣官房 そうですね。
佐野   呼びかけが足らないんじゃなくて。私たちは届いていますよ、下々のものには。
内閣官房 ありがとうございます。
佐野   聞かないのは、総理大臣とかそういう人たちだけですよ。
内閣官房 はい。
佐野   それはお困りになりませんか。お困りというのは、別に憎いとかそういうことじゃなくて、お仕事上お困りにはなりませんか、そういう人が遵守してくれないのは。
内閣官房 そうですね、もし感染防止策を実施していただけないような人がいれば、していただきたいと思っております。
佐野   実施してないじゃない。10月23日の会議のことからご説明いただいたけれども、10月23日よりはるかにあとの12月の、東京都でも600人700人感染が増えている時にね、宴会に行っているわけですから。
内閣官房 はい。
佐野   それは困った人でしょ。
内閣官房 はい。ただ申し訳ございません、私個人的な意見については
佐野   個人的にお伺いしているのではなくて、内閣府として呼びかけていることに従ってくれない人ですよね。
内閣官房 そうですね、それは。
佐野   どんな職業であろうがなかろうが。
内閣官房 それは、はいその通りです。
佐野   その通りですね。はい、ありがとうございました。失礼いたします。
内閣官房 よろしくお願いいたします。

昨年12月18日加藤官房長官は「夜の会食について、感染防止策に留意しつつ継続する方向だと説明した。『感染対策と同時に、いろいろな皆さんから話を聞くのは首相にとって大切だ。批判も考慮しながら進められるだろう』」と述べた。みのもんたや王貞治と会うのが、感染対策とどういう関係があったのだろうか。またいろいろな意見を聞くのは大切であろうが、それなら公務としてなぜ昼間に会わないのか。どうして食事をしながらでなければ「意見」が聞けないのか。まったく不思議な御仁である。

▼佐野 宇(さの・さかい) http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=34

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◆よくある入門動機

赤土公彦(1967年6月29日大阪市出身)は時代の変わり目に突如現れた期待の新星。中学2年生の時、父親の仕事の都合で東京の小岩に転居してきたが、後に喧嘩でボクシングを習っている奴にボッコボコにされ、もっと強い競技を習って見返そうと、地元のキックボクシング西川ジムに足を踏み入れた。1983年(昭和58年)、高校入学したばかりの頃だった。

当時の国鉄小岩駅から3分ほど歩いたところにある雑居ビル5階の西川ジムは静かでガラーンとしたもの。毎度の謳い文句だが、キックボクシング界低迷期、興行を細々と続ける時代、どこのジムも閑散としたものだった。

しかし、高校一年生の赤土にとってはどうしても強くなりたいだけ。そこで見た、重く硬いサンドバッグを折るような、ベテランらしき足立秀夫の鋭い蹴りにもう一目惚れ。これは強くなれそうだとその場で入門した。

入門動機を聞いた西川純会長は「喧嘩で強くなるにはプロで20戦以上はしないとな!」と発破を掛けるが、これが後々まで強烈な印象として記憶に残り、志高く持つ動機付けとなったという。

ベテラン土田光太郎にはダブルノックダウンの末、判定負け(1985年11月22日)

10歳年上の坂巻公一をKOして王座戴冠(1986年9月20日)

◆キック界の復興の波に乗り

入門一年を経た1984年(昭和59年)9月23日、17歳でデビューを判定勝利した赤土の周囲には、「凄い先輩達だらけだった!」と言うとおりの西川純会長をはじめ、向山鉄也、足立秀夫といった激戦を経てきた先輩達だったが、入門生が滅多に入らない時期、赤土は先輩たちに厳しい指導を受けつつ、可愛がられる弟のような存在となった。

さらには業界の流れは赤土のデビューを後押しするように4団体統合による復興に一気に好転した時期だった。

しかし、デビュー翌年には同期のライバル、杉野隆之(市原)に判定負け、ベテランの土田光太郎(光)に判定負けも、1986年9月、日本フライ級チャンピオン、坂巻公一(君津)を倒し、19歳で王座に上り詰めた。

「高校三年の時、5戦3勝2敗のくせに卒業文集で『チャンピオンになります!』と宣言していたので、早期に巡ってきたチャンスのプレッシャーに潰されそうになりながら、向山先輩に江戸川の土手まで連れて行かれた坂道で、いつ終わるかも分からない過酷なダッシュを毎日、何十本と命ぜられた成果で勝てました。試合3日後に母校の文化祭があったのでチャンピオンベルトとテレビ放送のビデオを持って生徒皆に見てもらって、有言実行出来たとホッとしました」と当時を語る。

19歳で王座戴冠、当時は乱立少なく価値があった日本チャンピオンベルト(1986年9月20日)

タイ遠征、ノンタチャイジムで鍛える(1989年1月2日)

しかしそんな悠長に構えている場合ではなかった。静養のつもりで家で寛いでいると、向山先輩が訪れ、玄関で「公彦居るか!」と叫ぶとそのまま茶の間まで怒鳴り込んで来たという。

「赤土テメェ、チャンピオンになった自覚あんのか!これからが大変なんだぞ、何で練習に来ねえんだ!」と父親の前で本気で怒鳴られ、驚きつつも涙を流すほど嬉しかったという。

浮かれている場合ではないと自覚した赤土は挑戦者の気持ちを思い出し、初のタイ修行は心細い一人旅を経て、翌年3月、杉野隆之との再戦を闘志むき出しでノックダウンを奪い判定ながら同期対決に雪辱を果たした。

この1987年、復興した全日本キックボクシング連盟に移る事態が発生したが、更なる抜擢、WKA世界フライ級王座挑戦の機会を得た。

向山先輩からは「お前は今一番練習している選手だ、自信を持て!」と言われて不安は無かったと言うが、ミデール・モントーヤ(メキシコ)に僅差の判定で敗れ、慣れぬ2分制の12回戦、ヒジ打ちヒザ蹴り禁止の中での大善戦は周囲の高い評価を得た。

その後、イギリス、韓国、タイ等の国際戦を含め、全日本フライ級王座は宮野博美(光)、有光廣一郎(AKI)を退け、1990年1月、水越文雄(町田)に激闘の判定勝ちで3度目の防衛を果たすも、そこから1年半近いブランクを作ってしまった。フライ級でライバルは少なく、モチベーション低下が要因と思われた。

タイで2戦目、ランシットスタジアムに出場、緊張の試合前(1989年1月9日)

◆体調の異変

その頃、赤土に起きていたことは、「頭痛が頻繁に起こって、サンドバックを叩いても振動でフラっときて、初めて脳外科でCTスキャンを撮ったら先天性の陰があって、『もしボクシングだったらプロテスト受からないよ!』と言われてショックを受けました。そして、引退したらどうなるんだろうと考え出した頃、実家のタイル業を手伝い始めて、目標のバランスが難しくなってきた頃でした。」と語る。

脳疾患の為、暫く安静期間を過ごした赤土は、不完全燃焼のまま終わるわけにはいかないと、以前、日本チャンピオンになった直後、向山先輩に檄を飛ばされたことを思い出し、「あの頃のようにガムシャラにやってみよう!」と決意新たにした赤土は、目標を二階級制覇と定め、1991年(平成3年)4月、再起に備えタイ修行からやり直した。そして6月、自己初のメインエベンターでデンディー・ピサヌラチャン(タイ)に攻勢を許さず、3ラウンドKO勝ちし復活を遂げた。

ようやく勢いづくも同年9月、今度は初のKO負けを喫してしまう。勝っても負けてもKOの少白竜(谷山)の開始早々のパンチの突進で、第1ラウンド、あっという間に3度のダウンを奪われ、あっけなくKO負け。

「日本人に負ける気がしなかった慢心と、少白竜さんの強打を甘くみていた結果だと思います。」と反省。

ムエタイ戦士は蹴りの捌き、試合運びが上手く判定負け(1989年1月9日)

力を出し切れずにリングを降りる屈辱に、すぐに雪辱戦を申し入れると、翌1992年1月、全日本バンタム級王座決定戦として再戦が実現した。赤土もデビュー当時はジーパンをはいても48kgという貧弱な体から、この頃はフライ級には落ちないほど逞しい体に成長していた。相変わらず少白竜はKO狙って強打で突進して来るが、二の舞いは踏まずカウンターパンチで打ち勝ち、第1ラウンドKO勝ちで二階級を制覇した。 

そして休む間もなく、 期待された二大組織の交流マッチが開始された頃の同年3月、日本バンタム級チャンピオン、鴇稔之(目黒)と対戦。

鴇稔之の手数と巧妙さにやや押される部分もあったが、互いの攻防は凄まじく、5ラウンドに右ストレートでダウンを奪うが1-0の優勢ドロー。お互いの名誉と誇りを懸けた、最後に出逢えたライバルと名勝負を展開。

この鴇稔之戦を引き際と考え、リングを遠ざかった後、1994年6月、立嶋篤史とエキシビジョンマッチを披露して引退式を行ない、現役を去った。

「立嶋君とは彼の新人の頃から何度かジムで会ってもメラメラと闘志を感じていたので、戦いたい相手の一人でもあった。」と言う。一度、フライ級で対戦の可能性がわずかにあった時期があるが夢物語に終わっていた。「終了ゴングの瞬間、現役への決別に後悔したくないと右ストレートを思い切り出しちゃいました。」という終了も、そこは心の内知る二人が交わす言葉の中で打ち解けた終了となった。

[写真左]少白竜に雪辱し2階級制覇(1992年1月25日)/[写真右]チャンピオン対決、鴇稔之戦は完全燃焼したラストファイト(1992年3月21日)

◆昭和が残したキックボクサー

赤土は過去のタイ修行で2試合こなしていた。1988年(昭和63年)2月、ルンピニースタジアムに出場したが判定負け。土曜の昼興行だったが、メインイベントで相手がBBTVのチャンピオンだということは試合終了後まで知らぬまま。タイ初戦からかなり強敵だったようだ。

2戦目は1989年(平成元年)1月、ランシットスタジアムに出場。ムエタイ独特の蹴り捌き、ポイント獲り戦法に突破口を見出せず判定負け。タイではいずれも敗れ、ムエタイの壁は厚かったという。

赤土は昭和の匂いを醸し出すキックボクサーだった。そこには西川純会長の教え、向山鉄也先輩の厳しさがあった。

堂々たるチャンピオンの存在感示した赤土公彦(1994年6月17日)

西川純会長からは「プロは練習をしているんだからスタミナはあって当たり前、そして根性もみんな有るんだ。だから技を磨いてそれを競い合うんだ!」という忠告や、「チャンピオンなんだからリングの上で喜ぶな、勝って当たり前という態度でいろ!」と注意されたことも忘れられないという。古い昭和時代の考え方だが、これが本来のキックボクサーたるものだろう。

赤土公彦は引退後、家業を継ぎ、タイル・石施工・左官など外構工事を請負う「KINGタイル」代表を務め、2005年に結婚。年子の息子さんを2人儲け、小学生時代からキックボクシングに興味を持っていたという2人は現在中学生。赤土は毎朝、仕事に行く前に自宅の前で指導もする。キック界で親子チャンピオンは向山鉄也さんと羅紗陀(竜一)親子が最初で、二組目が中川栄二とテヨン(勝志)親子、現在3番目を兄弟揃って達成出来ればと頑張っている。

終了間際に悔いを残さぬ右ストレートを立嶋篤史に打ち込む(1994年6月17日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

正月のこととて、あまり生々しい政治論や天皇制論などは避けて、しっとりとしたテーマを選びましょう。文化論として読めば、天皇史は神仏崇拝・神社仏閣の歴史であり、和歌や宮中儀典など古今伝授をめぐる文化史でもある。

とはいえ、史実の裏側を読み解くのがこの連載の持ち味である以上、やはりスキャンダラスなものにならざるをえない。今回は「昭和天皇の妹」のことである。

すでにご存じの方も、かのお方が三島文学の最期のエッセンスのヒントになったことをめぐりながら、文学散歩としてお読みいただければ幸甚です。

◆男女の双子だった?

大正天皇は貞明皇后(九條節子)とのあいだに、4人の皇子をなした。近代天皇の中では、男ばかりつくったのは稀である。明治天皇が15人中5人の男子、昭和天皇は7人中男子は2人である。

だが、その大正天皇にも娘がいた、という説があるのだ。しかもそれは、男女の双子であったことから、畜生腹を嫌う皇室および宮内省において、他家(山本實庸子爵)へ養女に出されたというものだ。

したがって、その説は「悲劇の皇女」ということになる。その内親王になるはずだった娘の名は、山本静山尼(じょうざんに)という。

 

河原敏明『昭和天皇の妹君』(2002年文春文庫)

唱えたのは、皇室ジャーナリストの河原敏明である。

河原敏明は1952年(昭和27)に皇室ジャーナリストになり、『天皇家の50年 激動の昭和皇族史』(講談社・1975年)、『天皇裕仁の昭和史』(文藝春秋・1983年2月。文庫版は「昭和天皇とその時代にと改題)など、多数の皇室関連の著書がある。そのうちの一冊が、『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』(ダイナミックセラーズ・1984年7月)なのである。

大正天皇の4人の息子たちを確認しておこう。

昭和天皇(迪宮裕仁親王)、秩父宮雍仁親王(淳宮)、高松宮宣仁親王(光宮)、三笠宮崇仁親王(澄宮)の4人である。

河原によれば、このうち三笠宮と双子だったのが奈良円照寺の門跡、山本静山尼(絲子)だというのだ。したがって、前述のとおり昭和天皇の妹ということになる。
河原説には、証言もあるという。ひとりは末永雅雄という考古学者(関西大学名誉教授)で、橿原考古学研究所初代所長を務めた人物である。もともと、この人の証言から出発した河原説である。

もうひとりは、静山尼の兄君とされる高松宮である。

『高松宮日記』昭和15年(1940年)1月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。

円照寺は有栖川宮(江戸初期からの宮家で、大正2年に威仁親王が薨去して廃絶)ゆかりの寺院である。その有栖川宮の祭祀を継承したのが、高松宮なのである。したがって山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

静山がしばしば上京したときに皇居をおとずれ、天皇をはじめとする皇族たちと歓談していたこと、それはとりわけ若いころの慣習だったなどとしている。そして静山尼が昭和天皇によく似ている、と河原はいう。

◆本人も宮内庁も否定する

河原がこの説を『週刊大衆』に掲載した当初、宮内庁側は黙殺していた。昭和の時代は、南朝熊沢天皇やご落胤説などが流行った時代でもあった。

ところが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。同年1月20日、宮内庁はこの説を全面的に否定する声明を発表した。

さらに河原の「皇室が双子を忌み嫌う」という主張に関して、宮内庁は近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王の姉妹(1907年生)が双子として誕生し、いっしょに成長した事例を反証として挙げた。

ついで、山本静山尼みずから、河原説を否定する。そして末永雅雄教授も、河原への証言そのものを否定した。

こうして、河原敏明の「昭和天皇の妹説」は、はなはだ論拠を欠くものとなってしまったのだ。

三笠宮夫妻も後年になって『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで、河原の双子説を否定する。

静山尼本人は、いたって鷹揚とした女性だった。「河原さんは、もうそればっかりで」などと、笑いながらあきれたように会話し、河原の双子説を楽しんでいるかのようだ。

◆大正天皇のご落胤か?

河原の説を新しい地平に押し上げたのが、原武史(日本政治思想史・明治学院大学名誉教授)である。

原は『高松宮日記』の記述に加え、『蘆花日記』の大正4年(1915)11月25日および12月3日、『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日、山本静山の誕生日(1月8日)と三笠宮の誕生日に1カ月あまりのズレがあることを根拠に、「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、大正天皇とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している(『皇后考』講談社・2015年)。

生涯、貞明皇后を唯一の伴侶にしたはずの大正天皇にご落胤があった、というのだ。これなら落ち着きやすい仮説だが、今後の研究が待たれるとしておこう。静山尼は5歳のときに京都大聖寺で落飾し、8歳で円照寺に入山したという。5歳で出家とは、いかにも理由がありそうだ。

◆三島が会った静山尼

三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』は、朝廷をめぐる婚姻の悲恋をひとつのモチーフにしている。第一部『春の雪』における綾倉聡子と松枝清顕の恋、そしてそのもつれから物語が錯綜し、聡子が洞院宮治典王との縁談に勅許が下ることで、禁断の愛へと転化するのだ。ふたりは逢瀬をかさね、堕胎ののちに聡子は出家を決意する。

三島は作品のモチーフを『浜中納言物語』としているが、サブモチーフには加賀前田家における悲恋、島津藩西郷家における悲恋譚を取材している。そして自身のモチーフとして、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。

そして作品中の月修寺を取材するために、山本静山尼が門跡をつとめる円照寺を訪れたのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

月刊『紙の爆弾』2021年1月号 菅首相を動かす「影の総理大臣」他

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

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