《廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記14》【最終回】 遺族に感情移入し、会見で感極まった裁判員

2004年10月、広島県廿日市市の高校2年生・北口聡美さんが自宅で何者かに刺殺された事件は、今年3月、広島地裁であった犯人の鹿嶋学に対する裁判員裁判でようやく真相がつまびらかになった。

鹿嶋は1983年、山口県生まれ。その生い立ちは複雑で、母親が父親と結婚前、父親以外の男性との間に授かった子供が鹿嶋だった。そのために幼少期から父親との関係が悪く、鬱屈した思いを抱えて育った鹿嶋は、広汎性発達障害的な偏りがあり、普段はおとなしいが、カッとなると、暴力的になることがあったという。

高校卒業後はブラック企業的な会社で3年半、辛抱強く働いていたが、たった一度、朝寝坊して仕事に遅刻しそうになっただけで会社を辞めてしまう。そして自暴自棄になり、あてもなく原付で東京に向かう途中、ふと「性行為をしてみたい」と思い立つ。そんな時、たまたま路上で見かけたのが北口聡美さんだった。

聡美さんの家に侵入した鹿嶋は、逃げようとした聡美さんを持参したナイフで刺殺した。さらに現場に駆けつけた聡美さんの祖母ミチヨさんも刺して重傷を負わせたうえ、聡美さんの妹も追いかけ回し、一生消えない心の傷を負わせた──。

3月10日にあった第4回公判。審理で明らかになった上記のような事実関係に基づき、検察側は「有期懲役が相当な事案とは到底言えない」として無期懲役を求刑した。対する弁護側は、「動機は言い訳できないが、鹿嶋さんは発達の遅れがあり、自分の意思だけでどうにかなるものではなかった」として有期懲役が相当だと主張した。そして最後に鹿嶋本人が意見陳述を行った。

◆公判終了後、足早に法廷を出ていった犯人の父親

「私は、事件のことを思い出せる限り、正直に話しました。しかし、ミチヨさんのことは思い出せなくて、申し訳ありませんでした。あと、この裁判を通じ、ご遺族の方の顔を見ることができませんでしたが、この場でご遺族の顔を見て、謝罪したいと思います」

鹿嶋は証言台の前に立ち、嗚咽交じりにそう語ると、檀上の杉本正則裁判長に「マスクをとってよろしいでしょうか」と問いかけた。そして許可されると、マスクをとり、検察官席にいた聡美さんの両親に顔を向け、叫ぶようにこう言った。

「自分の身勝手な都合で、大切なご家族の命を奪い、ご家族の方々を傷つけ、申し訳ございませんでした!」

この時印象的だったのは、聡美さんの父・忠さんが潤んだ目で鹿嶋のことをじっと見すえていたことだ。娘の生命を奪った犯人と目を合わせ続けるのは精神的に相当きつかったろうと思うが、「目をそらしたら負けだ」と思っていたという。

こうして公判審理はすべて終わった。傍聴席では、鹿嶋の両親も審理の行方を見守っていたが、鹿嶋の母親は閉廷後も両手で顔を覆い、うなだれたままだった。一方、その隣に座っていた鹿嶋の父親は、杉本裁判長が公判の終了を告げると、すぐに立ち上がり、足早に法廷を出ていった。筆者はそんな様子を見て、鹿嶋と父親の複雑な関係はやはり事件と無関係ではないだろうと改めて思ったのだった。

◆無期懲役という結果に、被害者の父親は無念そうだったが……

この8日後の3月18日、杉本裁判長は鹿嶋に無期懲役の判決を宣告した。その判決公判後、忠さんは無念そうにこう言った。

「娘には、『負けたよ』と伝えます」

殺害された人数が1人の殺人事件で死刑判決が出ることはめったにない。この事件の場合、検察官も無期懲役を求刑していたので、死刑判決が出る可能性は皆無に等しかった。しかし、やはり遺族は裁判長が判決を宣告するその時まで死刑判決を願い続けていたのだろう。

判決後、無念の思いを語る北口聡美さんの父・忠さん

ただ、杉本裁判長が読み上げた判決理由では、遺族の思いに配慮したかのように鹿嶋のことを厳しく指弾する言葉が並んでいた。

「被害者家族が味わった悲しみは筆舌に尽くし難く、被告人の極刑を望むのも本件の重大性を表すものとして理解できる」

「本件が地域社会に与えた影響も大きかったものと推察される」

「被害者らに対する犯行を選択した経緯は、身勝手極まりないと評価すべきである」

この判決が実は「遺族以外の人たち」の思いもくんだものだったとわかったのは、裁判員たちの会見に出た時のことだった。

◆2歳の娘のことを思いながら裁判に臨んでいた裁判員

会見に参加した2人の男性裁判員に対し、筆者は「もしも自分が被害者のご両親と同じ立場だったらと考えることはなかったですか?」と質問してみた。この質問は思っていた以上に2人の感情を大きく揺さぶったようだった。

まず、1人目の男性裁判員(36)は目から涙をあふれさせ、嗚咽を漏らしながらこう言った。

「私も2歳の娘がいて……かわいい、かわいい……と言いながら育てているので、もしも娘が同じことをされたらと思うと……」

この男性は感極まり、これ以上、言葉をつなげなかった。一方、もう1人の男性裁判員(年齢は未公表。推定で40代後半から50代前半)も神妙な面持ちでこう言った。

「私も被害者と同じくらいの子供がいるので、自分の子供に同じことが起きたらと思わずにはいられませんでした」

2人の話を聞く限り、裁判員たちは聡美さんの遺族に深く感情移入していた。彼らも遺族同様、本当は鹿嶋を死刑にしたいという思いだったことがよく伝わってきた。鹿嶋を厳しく指弾した判決理由の言葉の1つ1つはそんな裁判員たちの思いをくんだものだったのだ。

私は、鹿嶋本人にも会って話を聞いてみたいと思い、取材依頼の手紙を出したうえで、判決公判の翌朝、彼が収容されている広島拘置所を訪ねた。しかし、職員を通じて面会を断られてしまった。そしてその後、鹿嶋も検察も控訴せず、鹿嶋に対する無期懲役刑が確定した。

生い立ちが複雑な鹿嶋は、仕事はまじめだったが、友だちが少なく、ゲームをしたり、アダルトビデオを観たりすることしか趣味がなかった。人生で一度も女性と性行為をしたことがなく、風俗店にも行ったことがなかったと言っていた。そしてこれから長い服役生活を送り、いつか出所できたとしても、その時は老人になっているはずだ。彼の人生は一体何だったのだろうか。(終わり)

鹿嶋が収容されていた広島拘置所。鹿嶋は、筆者との面会に応じなかった

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

老舗、キック再開から巻き返しへ挑む! TITANS NEOS 27

昨年春の分裂、藤本ジム閉鎖、今年のコロナ禍で続く苦境の中、新日本キックボクシング協会も興行の在り方が大きく変化。

江幡ツインズがRIZINに出陣した現在、メインイベントを務めるのは勝次(=高橋勝治)。藤本ジムの看板を背負い、責任ある立場となってメインイベントを務めるも、潘隆成に敗れる波乱の幕開けとなった。

8月12日のTITANS NEOS.27に向けた記者会見で、藤本ジムへの想いを語った勝次。

今年1月末に、闘病中の藤本勲会長が病状悪化により藤本ジムが閉鎖に至り、所属選手はそれぞれの道に進んだ。

勝次は今後について、「新日本キックボクシング協会で多くのチャンスを頂き、日本とWKBA世界王座獲得するなどお世話になって来て、この団体を離れる選択肢はありませんでした。」と言う。

更に藤本ジムが引き継いだ目黒ジムの伝統が途切れるという危機感があり、自分が藤本ジムを引き継ごうと、藤本勲会長がジムを閉鎖する前、藤本ジムの名前を使うことを嘆願し、「勝次だったら大丈夫だ、名前だったら幾らでも使ってくれ、何かあったら力になるし、応援しているから!」と承認されていました。

伊原信一代表からは「勝次はそれでやるんだったら、それで頑張るしかないぞ。藤本ジムの名前でやっていけ。この伊原道場を自分のジムだと思って好きなだけ使ってくれ。」と協力的。そして勝次は伊原ジムとのプロモーション、マネージメント契約を締結し活動していくことになっていました。

5月5日に藤本会長が永眠され、コロナ禍で長引いた再開興行の9月27日、ここからの初戦を飾れなかった勝次。今後更なる厳しい境地に立たされる。

潘隆成の右ヒジ打ちが勝次の左瞼にヒットする直前

◎TITANS NEOS 27
9月27日(日)後楽園ホール / 18:00~20:10
主催:TITANS事務局 / 認定:新日本キックボクシング協会  

◆第8試合 63.6kg契約3回戦

WKBA世界スーパーライト級チャンピオン.勝次(藤本/63.5kg)
    vs
潘隆成(元・WPMF日本スーパーライト級C/クロスポイント吉祥寺/63.45kg)

勝者:潘隆成 / 判定0-3 / 主審:少白竜
副審:仲29-30. 宮沢28-30. 桜井28-30

必死にパンチで巻き返しにかかる勝次、潘隆成はまともには食わなかった
やっぱり出た飛びヒザ蹴りの勝次、強引にいくとヒットは難しい
潘隆成の左ミドルキックにリズムを狂わされた勝次

勝次のオープニングヒットとなった右ストレートからの主導権を奪いにいくも、その勝次の突進を阻止する潘隆成。

特に左ミドルキックでリズムを狂わされた感の勝次。

組み合ってからの崩しも潘隆成が優り、第3ラウンドにはヒジ打ちで左瞼をカットされてしまった。

パンチで幾らか軽いヒットさせた勝次だが、潘隆成のディフェンスに阻まれ強いヒットは与えられず押し切られてしまった。

勝利の潘隆成のチーム、T-98(今村卓也)がチーフセコンドを務めた

◆第7試合 70.0kg契約3回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(伊原/69.8kg)
    vs
津崎善郎(LAILAPS東京北星/69.9kg)
引分け1-0 / 主審:椎名利一
副審:仲29-29. 宮沢30-29. 少白竜29-29 

第1ラウンド早々に股間ローブローを受けてから攻め倦み、津崎の前進から組み合う展開は津崎の圧力が優るが、ブラボはパンチとヒザ蹴りを的確に当てる印象も活き、両者の主導権争いは差が出ず。

苦戦の中にもハイキックを見せたリカルド・ブラボ
前進する津崎善郎にパンチのヒットも多かったリカルド・ブラボ

◆第6試合 63.0kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.高橋亨汰(伊原/62.75kg)vs 野津良太(E.S.G/61.55kg)
勝者:高橋亨汰 / TKO 1R 2:19 / 主審:桜井一秀

両者の蹴りとパンチの様子見から、サウスポーの高橋が蹴りから左ストレートを打ったところで、グローブの内側が擦れるように野津の顔面をヒットすると、これで右瞼をカット。ドクターの勧告を受入れレフェリーストップとなった。

高橋亨汰の左ストレートはグローブの内側をかすって野津良太の右瞼にヒット(画像は別シーン)
あっけない幕切れながら、TKO勝利の高橋亨汰

◆第5試合 53.0kg契約3回戦

泰史(伊原/52.95kg)vs 心直(REON Fighting Sports/52.8kg)
勝者:心直 / 判定1-2 / 主審:仲俊光
副審:椎名29-30. 桜井30-29. 少白竜28-30

初回から心直がやや勢いがある蹴り。やや遅れ気味の泰史の攻めをいなすも、泰史は態勢を立て直し互角の展開。採点は振り分け難い判定となった。

心直が先手を打って出た。右ハイキックが泰史のアゴに軽くヒット

◆第4試合 57.0kg契約2回戦

中村哲生(伊原/56.95kg)vs 平田尚人(Tri.Studio/56.8kg)
勝者:平田尚人 / TKO 1R 0:55 / 主審:宮沢誠

平田のパンチ連打で中村はスタンディングダウンを奪われ、更に連打を受けてノックダウンし、レフェリーストップ。

◆第3試合 57.5kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/57.3kg)vs 新田宗一朗(クロスポイント吉祥寺/57.3kg)
勝者:新田宗一朗 / 判定0-2 / 主審:少白竜
副審:仲29-29. 桜井29-30. 宮沢28-30

◆第2試合 女子51.0kg契約3回戦(2分制)

アリス(伊原/50.25kg)vs ERIKO(ファイティングラボ高田/49.5kg)
勝者:ERIKO / 判定0-3 / 主審:椎名利一
副審:仲27-30. 少白竜27-30. 宮沢27-30

◆第1試合 女子スーパーフライ級3回戦(NJKFミネルヴァ/2分制)

芳美(OGUNI/52.05kg)vs NA☆NA(エス/51.9kg)
勝者:NANA / 判定0-3 / 主審:宮本和俊(NJKF)
副審:椎名28-29. 少白竜28-30. 桜井28-29

《取材戦記》

キックボクシングは何度負けても必要とされている限りは再起の道が用意されている場合が多い。プロボクシングだったら戦力外通告で、ジムのロッカーから名前が消されるのも実際にある話。しかしファンから見れば、負けても応援したくなる再起の道。キックではどれだけ負けが込んでも試合に出続ける選手もいる。燃え尽きるまで戦うことが出来るのもキックボクシングなのかもしれない。

ソーシャルディスタンスを保たれた興行が徐々に再開し、収容最大人数(席)の50パーセント以内という条件で各団体、各プロモーション興行も厳しい条件ながら安定してきた感があります。

この日時点では、プロボクシングはまだリングサイド撮影が認められていない模様。スポーツ新聞各社(記者クラブ所属)が揃ったらソーシャルディスタンスを保てない事情もあるかもしれません。キックボクシングは通常、一般マスコミだけなので少人数に限定することは可能でも、元から少ないので混乱にはなっていません。

新日本キックボクシング協会、今回の興行はクラウドファンディングを利用し、246人のサポーターから194万1,000円が集まった模様です。私も応援購入でSAVE THE KICKマスクを購入し付けて行ったら、このマスクを他に付けている人はスタッフの林武利さんだけ。見た限り他は誰も付けて居ない様子。

次回、10月25日(日)興行MAGNUM.53に於いて、勝次はNJKFスーパーライト級チャンピオンの畠山隼人(ESG)と対戦予定。またも他団体チャンピオンとの対戦となり、今度こそ負けられない一戦となる。

ここで負けたら伊原ジムのロッカールームで「藤本ジム・勝次」の名が無くなる!?……かもしれない。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩 編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

理由を語らず人事に介入した菅義偉の独裁性 日本学術会議会員の任命拒否は、内閣総理大臣の職権を超えている

◆政治の私物化を厭わない独裁者・菅義偉の正体が明らかに

おそらく政治の権限というものを、あまりにも単純に考えているのだ。国民の負託を受けた政治権力(総理大臣)は、その任免権において何をやっても許されるのだと。ヒトラーの全権委任法を、21世紀において実行しようとしているかのようだ。

日本学術会議の新会員任命(任期3年)について、菅総理は105名のうち6人を任命しないという処置をとった。史上初めてのことである。


◎[参考動画]日本学術会議 人事「NO」に野党追及(FNN 2020年10月2日)

そもそも学術会議は政府から独立した組織であり、その予算が内閣府傘下の予算建て(国庫から)になっていることから、形式上、総理大臣が任免することになっているに過ぎない。日本学術会議法はその第3条において、政治からの独立を宣言しているのだ。

「日本学術会議は独立して左の職務(一、科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。二、科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。)を行う」と。

ところが、その独立性を知らない菅総理は、政治主導(つまり官邸独裁)をここでも発揮してみせたのである。このことが、学問の自由をめぐる政治問題に発展するのは必至だ。はやくも国会論議の焦点が、いや国民的な大運動に発展させるべき案件が浮上したといえよう。学問の自由・独立が侵されたのだ。

というのも、任命されなかった学者のうち、国会で政府の法案に批判的だった人物が含まれているからだ。好ましからぬ人物(芸術家や研究者)を排除する。それはナチスドイツの文化政策と酷似している。

今回、推薦されながら任命されなかったのは、芦名定道京都大教授(哲学)、小沢隆一東京慈恵会医科大教授(憲法学)、宇野重規東京大教授(政治学)、岡田正則早稲田大教授(行政法学)、加藤陽子東京大教授(日本近代史)、松宮孝明立命館大教授(刑事法学)の人文社会科学系の6人である。

その大半に安保法制に反対してきた経緯があり、松宮教授は共謀法やテロ等準備罪法に反対し、国会で意見を述べているのだ。したがって、今回の任命拒否は、政府の政策・法案に反対する研究者は学術会議から排除する、という政治宣言にほかならない。


◎[参考動画]岡田正則早稲田大教授(行政法学)の会見(東京新聞 2020年10月2日)


◎[参考動画]小沢隆一東京慈恵会医科大教授(憲法学)の会見(東京新聞 2020年10月2日)

◆排除の理由を明らかにできない政府

政府は今回の任命拒否の理由を、絶対に明らかにできないであろう。

なぜならば、選考理由を明らかにすれば、任命拒否それ自体の違法性が露呈するからだ。まずは正面から、憲法23条に違反する違憲行為であることを指摘しておこう。

事実、加藤勝信官房長官は1日の記者会見で「内閣総理大臣の所轄であり、会員の人事等を通じて一定の監督権を行使するっていうことは法律上可能となっておりますから、まあ、それの範囲の中で行われているということでありますから、まあ、これが直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらない。個々の選考理由は人事に関することでコメントを差し控える」と述べている。

今回の選考理由は、けっして任免を左右するような人事問題ではない。今回の政府による会員資格の当否が研究の中身にかかわる、と同時に政府批判にかかわることになるからだ。つまり研究の内容ではなく、研究者の政府批判が基準になっているのだから、もはや学問に政治介入するもの以外の何物でもない。いや、そもそも政府には研究活動の内容を選考理由にする基準は存在しないのだ(憲法23条「学問の自由は、これを保障する」)。


◎[参考動画]芦名定道京都大教授(哲学)=京都大学春秋講義「『戦争と平和』の時代とキリスト教」2016年4月13日 Part 1(Kyoto-U OCW 2019年2月20日)


◎[参考動画]宇野重規東京大教授(政治学)インタビュー(NIRA総合研究開発機構 2018年12月19日)

◆明らかな憲法違反である

過去の政府答弁を確認しておこう。

選挙で日本学術会議の会員を選ぶ制度に代わり、現在の推薦制度が導入された1983年の国会審議では、下記の政府答弁がなされている(参議院文教委員会8号、昭和58年5月12日)。長いが引用しておこう。

粕谷照美(社会党)「推薦制のことは別にしましてその次に移りますが、学術会議の会員について、いままでは総理大臣の任命行為がなかったわけですけれども、今度法律が通ると、あるわけですね。政府からの独立性、自主性を担保とするという意味もいままではあったと思いますが、この法律を通すことによってどういう状況の違いが出てくるかということを考えますと、私たちは非常に心配せざるを得ないわけです」

手塚康夫(政府委員)「前回の高木先生の御質問に対するお答えでも申し上げましたように、私どもは、実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません。確かに誤解を受けるのは、推薦制という言葉とそれから総理大臣の任命という言葉は結びついているものですから、中身をなかなか御理解できない方は、何か多数推薦されたうちから総理大臣がいい人を選ぶのじゃないか、そういう印象を与えているのじゃないかという感じが最近私もしてまいったのですが、仕組みをよく見ていただけばわかりますように、研連から出していただくのはちょうど二百十名ぴったりを出していただくということにしているわけでございます。それでそれを私の方に上げてまいりましたら、それを形式的に任命行為を行う。この点は、従来の場合には選挙によっていたために任命というのが必要がなかったのですが、こういう形の場合には形式的にはやむを得ません。そういうことで任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうには私ども理解しておりません」

形式的な任命権である、と明言しているのだ。したがって「学術会議に監督権を行使することが法律上可能」という加藤官房長官の発言は、日本学術会議法7条2項(会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。)について「総理大臣の任命権は形式的なものに過ぎない」とする政府の国会答弁(従って公権解釈)と明確に矛盾するのだ。

菅総理は自民党総裁選の段階から、官僚の人事について「私ども、選挙で選ばれてますから、何をやるかという方向が決定したのに反対するのであれば異動してもらいます」と明言してきた。

これを学術団体にまで適用したのが、今回の任命拒否なのである。いうまでもないことだが、日本学術会議の構成員は行政官僚ではなく、それぞれが独立した研究者である。このような政治介入がまかり通るのであれば、コロナ対策における専門家会議が政府の都合(失敗を隠ぺい)で廃止されたり、御用学者の意見のみを根拠として政策が実行されていくことになる。

いや、そもそも安保法制のように、9割をこえる憲法学者が反対をする政策が、無批判に行なわれることを意味するのだ。メディア関係者との会食をくり返して、報道内容に手心を加えさせる。あるいはニュース番組の人事に介入し、放映権をかたに政府寄りに報道を捻じ曲げようとしてきた自民党政権において、寡黙な実務派である菅総理が、本領を発揮し始めたとみるべきであろう。いまこそ寡黙な独裁者の言動を国民的にあばき出し、その政治的な死を強いなければならない。


◎[参考動画]加藤陽子東京大教授(日本近代史)『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(FM放送ラジオ番組ベストセラーズチャンネル 2015年12月25日)


◎[参考動画]松宮孝明立命館大教授(刑事法学)【テロ等準備罪】【共謀罪】参考人意見陳述【参議院法務】(※動画33分50秒~)2017年6月1日(shakai nomado 2017年6月9日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

自民党・杉田水脈議員の「女はウソをつく」発言で誰がウソをついていたのか?

「(性暴力の被害をうけた)女性は、いくらでも嘘をつける」

杉田水脈(みお)衆議院議員の自民党内閣第一部会・内閣第二部会合同会議で発言したとされる。この会議に出席した複数の自民党関係者の証言から、共同通信が配信したものだ。

部会の会議では、男女共同参画の来年度要求予算額についての説明が行なわれ、その中で「女性に対する暴力対策」に予算が建てられたことを巡っての発言だったという(本人のブログから)。つまり、女性への暴力について「女性はいくらでも嘘をつける」と、あたかも被害者女性がウソをつくから問題だ、とでも云う被害者バッシングを行なっていたのだ。

杉田水脈議員と言えば、『新潮45』(2018年8月号)で「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と書き、当事者のみならず世論の猛批判を受けた。


◎[参考動画]「生産性ない」発言の杉田水脈議員が釈明(ANN 2018年10月24日)

『民主主義の敵』(2018年青林堂)

さらに『新潮45』が2018年10月号において「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題する特別企画を立てた。この特別企画には小川榮太郎や松浦大悟ら7人が杉田の主張を擁護する趣旨の文章を寄稿。これまた新潮社から著書を出している作家らの批判を浴びた。

けっきょく、この件で新潮社は『新潮45』の廃刊を余儀なくされた。中瀬ゆかり編集長時代には中年男性の本音を衝く総合雑誌として一世を風靡した同誌は、極右路線への漂流のすえに廃刊に追い込まれたのである。杉田はいわば、極右的な言動でネトウヨや封建保守派の代弁者として、言論界に生息してきたといえよう。

当初、杉田本人はみずからのブログで、以下のように今回の発言を否定していた。
「一部報道における私の発言について」

「昨日、一部で私の発言についての報道がございましたので、ご説明いたします。まず、報道にありましたような女性を蔑視する趣旨の発言はしていないということを強く申し上げておきたいと存じます。」

発言を否定していたのだ。杉田の発言を、誰かがウソをついて捏造していたのだろうか。

杉田に直接聞き取りをした下村博文政調会長は、「今回わが党の杉田水脈議員の部会における発言について報道があった。この報道について、杉田議員から直接お聞きした。杉田議員からは『女性に対する暴力対策に対する、しっかりとした取り組みをする必要があると考え持論を述べた。女性蔑視を意図した発言はしていない』と説明があった。」としている。

そして、「わが党は部会での審議内容は公開していないので、誰がどのような発言をしたかは公表していない。わが党の部会は国民の代表による国会議員が自由に政策論議を行う場だ。第三者が傍聴していたのでは言いにくい話もあり、政策立案のためには本音の議論もある。そこで政策立案の部会は会議を基本的に非公開にして各人の発言を公にしないでやっている。」などと、「非公開の原則」という防衛線を張って幕引きをはかっていた。


◎[参考動画]杉田水脈議員“発言” 自民幹部から注意【Nスタ】(TBS 2020年9月30日)

ところが、10月1日午後になって一転、杉田は自分の発言をみとめたのだ。

「9月26日に投稿いたしましたブログ記事『一部報道における私の発言について』につきまして、一部訂正を致します。
 件の内閣第一部会・内閣第二部会合同会議において私は大変長い発言をしており、ご指摘のような発言は行っていないという認識でおり、『報道にありましたような女性を蔑視する趣旨の発言(「女性はいくらでも嘘をつく」)はしていない』旨を投稿いたしました。
 しかし、今回改めて関係者から当時の私の発言を精査致しましたところ、最近報じられている慰安婦関係の民間団体の女性代表者の資金流用問題の例をあげて、なにごとも聖域視することなく議論すべきだと述べる中で、ご指摘の発言があったことを確認しましたので、先のブログの記載を訂正します。事実と違っていたことをお詫びいたします。」

自分の発言も、関係者に精査しなければわからない。この人は認知症なのかもしれない。いや、確信的な「忘却」なのである。


◎[参考動画]「女性はうそつける」杉田議員、一転発言認め謝罪(ANN 2020年10月1日)

◆杉田によるセカンドレイプ事件

慧眼な本欄の読者諸賢ならば、すぐに思い起こされる事件があるだろう。安倍政権の御用ライター・山口敬之のレイプ事件を擁護した、杉田の一連の発言。とりわけ、彼女のセカンドレイプに係る訴訟事件である。

詳しくは、本欄の記事、『伊藤詩織氏がセカンドレイパーを提訴 「ツイート」の「いいね」も民訴(損害賠償)の要件になるか?』(2020年8月24日)を参照して欲しい。

この事件で、杉田は伊藤詩織さんから220万円の損害賠償訴訟をされているのだ。

「女性は、いくらでも嘘をつける」とは、この事件が念頭にあったからではないのか。レイプ犯の擁護者として、みずからがまさにセカンドレイパーとしての被告であるからこそ、同性を貶める発言を流布しているのにほかならない。最悪の女性差別者は、杉田のような女性だという皮肉な現実が日本社会なのだ。。

いや、そもそも杉田水脈は女性差別という、現代日本社会の病理を認めようともしないのだ、

「とにかく女性が『セクハラだ!』と声を上げると男性が否定しようが、嘘であろうが職を追われる。疑惑の段階で。これって『現代の魔女狩り』じゃないかと思ってしまう。本当に恐ろしい(本人Twitter、2018年4月) 」

「私は、女性差別というのは存在していないと思うんです。女子差別撤廃条約には、日本の文化とか伝統を壊してでも男女平等にしましょうというようなことが書いてあって、これは本当に受け入れるべき条約なのか」とも主張している(2014年10月15日、内閣委員会)。

「日本は、男女の役割分担をきちんとした上で女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です。 男女共同参画基本法という悪法を廃止し、それに係る役職、部署を全廃することが、女性が輝く日本を取り戻す第一歩だと考えます」 (2014年10月31日、衆議院本会議)。

史実はそうではない。生産性が低いがゆえに、男女が力を合わせて農業に従事した古代・中世においてはともかく、江戸期の儒教的な男尊女卑の価値観および戦乱によらない嫡子相続社会が、圧倒的に女性の社会的地位を貶めてきたのである。無能な男性でも家を継承できる、ある意味では能力を否定してきたのが日本の近世社会なのだ。それは封建制という身分社会・差別社会の産物にほかならない、その残滓こそ、杉田が誇りとする男社会なのだ。

2020年1月には、選択的夫婦別姓に関して、国民民主党の玉木雄一郎代表が「速やかに選択的夫婦別姓を実現させるべきだ」と述べた際「それなら結婚しなくていい!」とヤジを飛ばしている。

もはや時代錯誤としか言いようがない。封建的な家制度が個人の上に立ち、女性は男性の従者でしかないと主張するのだ。

◆小選挙区と比例代表制のあだ花

どうしてこんな低レベルの政治家が生まれたのだろうか。杉田はもともと、日本維新の会から衆議院選挙(2012年)に出馬し、選挙区(兵庫6区)で敗れたものの、比例区(近畿ブロック)で復活当選した議員である。

2014年の維新の会の分裂にさいしては次世代の党に参加し、2014年の衆議院選挙で落選している。つまり、いずれも選挙区では落選しているのだ。

その後、ネット番組で知己を得た櫻井よしこの薦めで、安倍総理(当時)の目にとまり、自民党から比例区候補(選挙区は不出馬)として議員復帰を果たしたのである。つまり比例区候補であって、個人として選挙民の支持を得たわけではないのだ。

国民にウソをついたのだから、さっさと辞職するべきであろう。そもそも杉田水脈には、国民に選ばれた国会議員の地位にしがみつく正当な理由はないのだから。

カネがかからないはずの小選挙区で、しかし政党助成金という名の血税がばら撒かれ、党の公認を受けるための忠誠、すなわち官邸の言いなり政治家が輩出されてきた。政治家の劣化とは、この党中央・官邸独裁の産物なのである。

そしてそれは、政治家の人物を評価しない国民の投票行動として、悪夢のような安倍政権の長期化を許してきた。このさい、選挙制度の抜本的な改革こそ求められている。


◎[参考動画]祝!当選&新番組予告「衆議院議員杉田水脈の国政報告」司会:倉山満(チャンネルくらら 2017年10月28日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

《10月のことば》あきかぜに ゆれる秋桜 いのちのかぎり 咲きほこる 鹿砦社代表 松岡利康

《10月のことば》あきかぜに ゆれる秋桜 いのちのかぎり 咲きほこる(鹿砦社カレンダー2020より/龍一郎 揮毫)

今年の夏は、コロナ禍と猛暑で、これまで経験したことのない夏でした。猛暑だけなら昨年も、一昨年もそうでしたが、新型コロナの蔓延は予想もつかなかったことです。

コロナはまだ勢いを保持していますが、猛暑は、ようやく鎮まったようで、「暑さ寒さも彼岸まで」、彼岸を過ぎると一気に肌寒ささえ感じます。

コロナのせいで、ここ甲子園も例年なら全国から集まる野球ファンの歓声もなく(今は少しありますが)、また知人のお店も閉めたり世の中は苦境に喘いでいます。まるで他人事みたいに聞こえるかもしれませんが、私たちの会社・鹿砦社も売上減をいかに補うか苦慮しています。ただ、飲食関係や小売店に比べればまだマシだというにすぎません。なんとか生き延びれているだけでも幸せと言わねばなりません。これから年末が最大の山、皆様方と共に乗り越えていきたいと思っています。

10月になりました。秋桜(コスモス)が咲きほこる季節です。一日も早くコロナが退散し、気持ち良く咲きほこる秋桜を眺めたいものです。

月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』Vol.25

天皇制はどこからやって来たのか〈18〉近世・近代の天皇たち

◆逆境にたち向かう天皇たち

わが皇統は政治的衰退の中でたびたび、英明で剛胆な帝を輩出してきた。古代王朝が崩壊したあとの天皇は、平安期には摂関家藤原氏に、鎌倉期には武家政権の伸長に圧迫された。南北騒乱後の室町期には経済的な逼塞に、そして江戸期にいたると形式的な権能すらも奪われた。

にもかかわらず、豪腕な君子はあらわれるのだ。たといその権能が武家の権勢に虐げられたものであろうと、傑出した人物はかならず業績を残す。平安後期に後三条帝が貴族との戦いのすえに、院政を確立する過程をわれわれは見てきた。鎌倉末期には後醍醐帝の建武の中興に、武家から政権を奪還するこころみを知る。衰退いちじるしい江戸期においても、霊元帝が朝儀を復興させるめざましさに出会う。

京都御所

霊元天皇を語るまえに、その父・後水尾天皇にいたるまで、戦乱期の天皇たちの労苦をたどってみよう。南北合一朝の後小松天皇いらい、朝廷は室町幕府という公武政権のもとで衰亡してきた。後小松から二代後の後花園天皇の時代になっても、南朝の残党が内裏を襲撃して神器を奪う事件が起きている。そして応仁・文明の大乱が京都を焼きつくす。後土御門・後柏原・後奈良の三代にいたり、即位や葬儀の費用も幕府に頼るほど、皇室財政は窮乏する。

武家の戦乱によって荒廃した京都と朝廷を救うのは、やはり武家の権勢であった。織田信長、豊臣秀吉の天下平定の過程で、天皇は戦国大名の調停者としての地位を確立するのだ。足利義満いらいの幕府「院政」からの、それは相対的な独立性をもたらすものだったともいえよう。

戦国大名間の調停という独自性を獲得した正親町天皇、後陽成天皇をへて、後水尾天皇は即位した。すでに徳川幕府は大御所家康、二代将軍秀忠の時代で、豊臣家を滅ぼす計画に入っていた頃である。後陽成天皇が家康との不和から潰瘍をわずらったすえに譲位、弱冠15歳の即位であった。その当代および院としての「治世」は、戦国末期から霊元帝が即位するまで、70年の歳月をかさねている。晩年に造営した修学院離宮にみられるよう、学問と芸術を愛したことでも知られる。

その生涯は、禁中並公家諸法度をもって禁裏を統制する徳川幕府との戦いだった。後述する徳川和子の入内にかかる公卿の処分、紫衣事件など幕府との軋轢のうちに、突然の退位をもってその意志をしめした。徳川家の血をひく娘・明正帝をへて、その意志は息子たちに引きつがれる。嫡男の後光明帝は天才の名をほしいままにした俊英で、十代で儒学に精通する。そして久しく行なわれていない朝儀の復活に取り組んだが、22歳の若さで亡くなる。

弟の後西帝は識仁親王(霊元天皇=後水尾天皇の十九皇子)への中継ぎとしての即位だったが、在位中に火災や地震にみまわれた。とくに明暦の大火にさいして、幕府はこれを天皇の不行状によるものと断じた。ために後西帝は、十歳の霊元帝に譲位する。何という言いがかりであろうか。江戸で起きた火災の責任を、京都の天皇が取らなければならなかったのだ。実際の失火元であった老中阿倍忠秋はその非を問われないばかりか、日蓮宗妙本寺に責任が帰せられている。

霊元天皇の業績として数えられる大嘗祭の復活は、33歳で朝仁親王(東山天皇)に譲位してからのものだが、それこそが院政を敷いた深謀遠慮によるものといえる。というのも、院は朝廷の法体系の枠組みの外側にあり、したがって禁中並公家諸法度による幕府の統制が効かないのである。平安期の摂関政治との戦いとは、また違った意味で江戸期の院政は独自性をもっていた。幕府は院政を認めない方針を通告するが、霊元上皇はこれを黙殺した。

在位中の霊元帝は、後水尾法皇の遺命で決定していた第一皇子(済深法親王)を強引に出家させ、それに反対した小倉実起を佐渡に流刑にする小倉事件を起すなど、荒っぽい行動をためらわなかった。親幕派の左大臣近衛基熙を関白にさせないためには、右大臣の一条冬経を越任させるという贔屓人事を行なっている。また、若いころには側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こし、これを諌める公卿を勅勘の処分にする。武家伝奏正親町実豊を排除するなど、やりたい放題である。

この時期の歴代天皇にみられるのは、後光明天皇のごとき儒教や朱子学への傾倒、あるいは神仏分離を唱える垂加神道への接近であろう。霊元天皇が一条冬経を関白にしたのも、冬経が垂加神道派だったからである。ライバルの近衛基熙はといえば、神仏習合を唱える吉田神道を支持していた。江戸期の朝廷において古神道への回帰志向が顕著になるのは、徳川幕府の仏教優先政策への反発ともいえる。やがてそれは、幕府も奨励する儒教と結びついた国学として、幕末の尊皇思想に結実していくのだ。

いよいよ近代の天皇を語るところまで歩を進めたわれわれは、その前に二人の女帝を記憶にとどめるべきであろう。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

《廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記13》精神鑑定医が語った「凶行の理由」

この連載で伝えてきた通り、廿日市女子高生殺害事件の犯人・鹿嶋学(現在37)が2004年10月、被害者の北口聡美さん(当時17)を殺害した動機は、「レイプしようとしたが、逃げられたから」というものだった。

鹿嶋は犯行前日まで、山口県萩市にあるアルミの素材メーカーの工場で働いていた。しかし、朝寝坊し、遅刻しそうになったのをきっかけに突然会社を辞めてしまう。それからアテもなく、原付で東京に向かう途中、「女子高生をレイプしよう」と思いつく。そして路上で見かけた聡美さんをターゲットに定め、聡美さん宅に侵入したが、逃げられたことに逆上し、持参していたナイフで聡美さんを何度も刺して殺害したのだ。

今年3月、広島地裁で行われた鹿嶋の裁判員裁判では、こうした真相がつまびらかになったが、謎がまだ1つ残っている。鹿嶋がなぜ、「女子高生をレイプしよう」と思いつく精神状態になったのか──ということだ。

それについては、鹿嶋の精神鑑定を手がけた医師が証人出廷し、精神医学的な見地から詳しく説明している。今回はそれを紹介したい。

◆子供の頃の記憶や父親との思い出がほとんど無い

事件が未解決の頃、警察が作成した「犯人」の似顔絵。鹿嶋は本当にこんな感じの顔だった

「犯行の前後に反社会的な性向はなく、穏やかな生活をしていた被告人が、なぜこのような凶悪な犯行をしたのか。それが理解しがたいということで、今回の精神鑑定を行いました」

3月5日、広島地裁第304号法廷。証人出廷した精神鑑定医は、まずは鑑定の趣旨をそのように説明した。そしてそれから、鑑定結果を1つ1つ説明していった。

「まず、成育歴ですが、被告人はお父さんのことを『子供の頃から嫌いだった』と言っています。父親との思い出はほとんど無いそうです」

すでにお伝えした通り、父親にとって、鹿嶋は「妻が結婚前に宿していた自分以外の男の子供」だった。妻と結婚後、自分の子供として育てたが、事実関係を見ると、父親が鹿嶋を心の底から愛しているとは認め難かった。鹿嶋が父親と血のつながりがないことを知ったのは事件後のことだが、やはり子供の頃から父親に愛されていないことを無意識のうちに気づいていたのだろう。

このように父親との関係が複雑だったためか、鹿嶋は精神医学的にも色々問題を抱えていたようだ。

「被告人は幼少期から小学校低学年までの記憶がほとんど無いのです。これは、自分に対する興味が無いことの現れです。高校の名前も漢字が難しいこともありますが、それすらも記憶が曖昧なのです」

そんな歪んだ性質だった鹿嶋は、当時から問題行動が確認されている。

「小学校から中学校にかけては、よくケンカをしていて、喧嘩の際、代本版(※)で友だちを殴り、謝りに行ったことがあるそうです。怒ったら何をするかわからないところがあり、自分でも直さないといけないと思っていたそうです」

鹿嶋は犯行時、レイプしようとした聡美さんが逃げ出したことに逆上し、聡美さんに怒りをぶつけるように何度もナイフで刺して殺害している。そのような「突如キレ、とんでもないことをする」という性質は、子供の頃から現れていたわけだ。

※「だいほんばん」と読む。図書館で本が本来置かれるべき場所に無い時に、本の現物に代わって置かれる板のこと。

◆会社を辞め、故郷を捨てることを決めた

鹿嶋は父親との関係が複雑ではあったが、父親が鹿嶋を虐待したりするようなことはなかったという。

「被告人にとって父親は、『規範を守る象徴』でした。父親の前では、きちんとしないといけない感じ、勝手に緊張するなどして、息苦しく感じていたそうです」

そんな環境で育った鹿嶋は高校を卒業すると、「父親が嫌いなので、早く宇部市の実家を離れたい」との思いから寮生活ができる萩市の会社に就職した。そして会社では、同僚たちと仲良くしていたという。

しかし、職場はブラック企業的な環境だったため、その同僚たちは1年以内に次々に会社を辞めていく。鹿嶋は話し相手がいなくなり、寂しい思いを抱えつつ、仕事でも辛い思いをしていたという。

「会社では、2カ月に1度、朝礼があり、みんなの前で業務改善案を発表しないといけませんでした。被告人は、これが苦痛だったそうです。発表に失敗すると、吊るし上げに遭い、他の人が失敗した時には、自分も失敗した人を吊るし上げなければいけなかったからです。その後、ケガをして部署を変わると、残業が増え、さらにつらい思いをしたそうです」

鹿嶋はそんなブラック企業的な職場で3年余り、忍耐強く仕事を続けていた。ところが一転、いざ会社を辞める時には、寝坊し、遅刻しそうになったというだけの理由で辞めている──。

「休み明けに寝坊し、遅刻をしそうになったことにより、仕事に行くのがどんどんいやになり、逃げ出すことしか考えられなくなったのです。そして身の回りの荷物だけを持ち、会社を飛び出してしまうのですが、それから先のことは何も考えていなかったそうです」

そんな極端な考えから会社を逃げ出した鹿島は、原付で実家のある宇部市に戻り、友人宅に一泊している。そして翌日、東京に何のアテもないのに、原付で東京に向かうことを決めるのだが、宇部市内で信号待ちをしていた際、両親が乗っていた車と遭遇している。鹿嶋はこの時、両親に声をかけられながら、無視して走り去ってしまうのだが、それはなぜだったのか。

「会社を辞めたため、『両親に合わせる顔が無い』と考え、両親を無視して逃げたのです。この時、被告人は故郷である宇部を捨てようと思い、携帯電話も捨てています。故郷を捨てることに寂しい気持ちがあったそうですが、一方で、会社から開放され、高揚感も入り混じっていたようです」

話し相手となる同僚もいないブラック企業な職場で、辛抱強く働いた3年間。この生活から解き放たれた鹿嶋は、一気に犯行へと突き進んでいく。

◆想定と違う事態に混乱し、溜まっていた鬱憤が爆発した

「被告人はレイプ願望が元々ありましたが、そういうことを実際にできる性格ではありませんでした。しかし事件を起こした時は会社を辞め、故郷を離れ、社会から外れてしまったという思いだったので、自分を止めるものが何も無い状態でした。東に向かって原付で国道2号線を進んでいると、ふと『エッチがしたい』という気持ちになり、本当に実行しようとしてしまったのです」

そんな時、鹿嶋が路上で見かけ、ターゲットに定めたのが被害者の北口聡美さんだったというわけだ。そして鹿嶋は聡美さん宅に侵入したが、聡美さんが逃げ出そうとしたために激怒し、ナイフを突き立ててしまうのだ。

「被告人はこの時、想定と違う事態に混乱し、溜まっていた鬱憤が爆発したのです」

鹿嶋はこの時、居合わせた聡美さんの祖母も刺して重傷を負わせ、聡美さんの小学生だった妹のことも追いかけ回しているが、聡美さんの妹を刺そうとしたことは「憶えていない」とのことだ。

そして犯行後、鹿嶋は1カ月ほどかけて原付で東京にたどり着くが、何か目的があったわけではない。そのため結局、東京には数日滞在しただけで「捨てた故郷」の宇部に戻っている。この時、複雑な関係にあった父親が鹿嶋のことを抱きしめているのだが──。

「被告人によると、お父さんに抱きしめられても、なんとも感じなかったそうです」

この時、父親が鹿嶋を抱きしめた真意は不明だが、お互いに相手への愛情はなかったのだろう。

鹿嶋の裁判員裁判が行われた広島地裁

◆「明日、世界が滅びる」というくらいの絶望感と開放感

事件後、鹿嶋は友人の紹介で土木会社に就職している。そして2018年4月、別件の傷害事件を起こしたのをきっかけに逮捕されるまで13年半も一般社会で暮らしていた。鹿嶋はこの間、警察に捕まることへの不安を感じていなかったという。

「捕まりたいわけではないですが、捕まりたくないとも思っていなかったそうです。事件を起こしてからはずっと事件のことは考えないようにしていたそうで、警察に捕まった時には、ホッとしたというか、肩の荷がおりた心境だったそうです」

そして鹿嶋は犯行後、精神鑑定を受けるのだが、そのための入院中は終始穏やかに過ごしていたという。感情は起伏がなく、安定しており、躁鬱もなかった。そして統合失調症などの精神障害がないことも確認されたそうだが──。

「一方で被告人は幼少期の記憶がなく、自分への関心も少ないうえ、情状的な発達は乏しかった。知能検査の結果、知能は高いことがわかりましたが、情動的な理解力は低いことも判明しました。それらのことから、広汎性発達障害ではないが、『広汎性発達障害的な偏り』があると判定しました」

では、『広汎性発達障害的な偏り』があるとは、具体的にどういう状態なのか。

「普段は社会に適応できる普通の青年なのですが、カッとなると、激しい暴力行動に出るなど、極端な面があります。情緒的な部分が乏しく、『こうあるべきだ』というものにとらわれていて、大きなストレスがかかった時に行動を制御できなくなるのです。普段は、情緒的な発達の乏しさを知的な面の高さで補い、社会に適応しているのですが、物事を段階的・デジタル的にとらえがちで、感情的・アナログ的に判断することができません」

鹿嶋はこのような事情を抱えていたため、寝坊をして遅刻しそうになっただけで会社を辞め、さらに会社を辞めたことにより、「全てを失ったような感覚」に陥ったのだという。

「たとえば、『明日、世界が滅びる』と知れば、自暴自棄になり、やりたい放題になる人もいると思います。被告人も会社を辞めた際には、それくらいの絶望感を抱いていたのです。それに加え、ずっと我慢していた会社を辞め、開放感もあった。そして自暴自棄になり、犯行に及んでしまったのです」

精神鑑定医の話は、鹿嶋がいかに犯行に及んでいったのか、心の中の流れを説明した話としては、わかりやすかった。問題の『広汎性発達障害のような偏り』がある状態になるまでには、父親との複雑な関係も影響があったのだろう。(次回につづく)

《関連過去記事カテゴリー》
 廿日市女子高生殺害事件裁判傍聴記 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=89

【廿日市女子高生殺害事件】
2004年10月5日、広島県廿日市市で両親らと暮らしいていた県立廿日市高校の2年生・北口聡美さん(当時17)が自宅で刺殺され、祖母のミチヨさん(同72)も刺されて重傷を負った事件。事件は長く未解決だったが、2018年4月、同僚に対する傷害事件の容疑で山口県警の捜査対象となっていた山口県宇部市の土木会社社員・鹿嶋学(当時35)のDNA型と指紋が現場で採取されていたものと一致すると判明。同13日、鹿嶋は殺人容疑で逮捕され、今年3月18日、広島地裁の裁判員裁判で無期懲役判決を受けた。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。原作を手がけた『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第11話・筒井郷太編(画・塚原洋一/笠倉出版社)がネットショップで配信中。

最新! 月刊『紙の爆弾』2020年10月号【特集】さらば、安倍晋三
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

《NO NUKES voice》【東日本大震災・原子力災害伝承館】(下)館内撮影は全面禁止、スタッフは〝厳戒態勢〟 事故被害の伝承よりも福島県が守りたいものとは 民の声新聞・鈴木博喜

本来なら〝復興五輪〟の開幕に合わせて7月にもオープンする計画だったが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて五輪自体が1年延期。展示の準備も滞った事で開館が9月にずれ込んだ。〝復興五輪〟と連動し、指定管理者を「公益財団法人福島イノベーション・コースト構想推進機構」(斎藤保理事長、以下機構)に決め、初代館長に〝山下チルドレン〟の高村昇・長崎大学教授を選ぶ。感染症の問題が無ければ、復興大臣や県知事、双葉町長などが大々的にテープカットでもしただろう。ここまで揃えば、原発事故被害の実相を後世に伝えるような施設にする事など、むしろ無理だったのかもしれない。

展示内容の忖度ぶり、物足りなさもさることながら、現場で驚かされたのはスタッフたちの〝厳戒態勢〟だった。

「伝承館」では常にスタッフが〝監視〟をしている。語り部も観客も取材者も

結果的に筆者が取材したのは2日目だったが、オープン初日の取材も「感染拡大防止」を理由に福島県庁内の記者クラブに限定。県生涯学習課が窓口となり、事前に取材者を登録させた。筆者のようなフリーランスには当然、事前申し込みが必要である事など知らされない。「フリーランスの方もたくさんいて連絡の取りようが無い」と担当者は電話で釈明したが、最終的には「入館料(600円)を支払ってお客さんとして入っていただく分には大歓迎ですよ。もちろん、撮影に関しても記者クラブの皆さんと同じ扱いになります」という事で現場に向かった。ちなみに、事前に取材を申し込んだ記者クラブメディアは入館料を払わずに入館したという。

電話での県職員の説明では「一部、写真や動画の撮影を遠慮していただいているが、撮影可能のエリアもある。それは記者クラブの皆さんも同じ」という事だったので腕章を付けたカメラを手に入館したが、最初のプロローグシアターから2階の展示室に上がるスロープで写真撮影していると、遠くのスタッフが「撮影しないでください」と声がかかった。2階に上がったところで改めて「館内は全面的に撮影禁止なんです」とのこと。「取材であればどうぞ」という事で話はいったん終わったが、再び声をかけられた。「取材の方がいらっしゃるとは聞いていないとのことなので、ちょっとよろしいですか」。1階に向かうように言われ、展示スペースの外に出された。そこからが大変だった。

指定管理者の機構が24日、今後の取材は事前申請が必須との告知を急きょホームページに掲載した。禁止事項だらけで、福島県は何を守ろうとしているのか

館内には至るところに緑色の制服を着たスタッフが立っていて、入館者の様子を見ている。スタッフとは別に警備員もいる。順路とは別の階段で1階に下りると広報担当者が現れたが、他に4、5人のスタッフが筆者を取り囲んだ。まるで犯罪者か暴漢でも取り押さえようとしているかのよう。こちらは大声を出しているわけでも何でも無い。それを伝えると周囲のスタッフは我に返ったように下がり、広報担当者だけが残った。事情を説明し、改めて写真撮影も含めた取材を始めた。排除の姿勢を見せつけられたようだった。

一般来館者にはやはり、館内での写真撮影を全面的に禁じているという。スタッフが来館者に「現在、報道の方が写真を撮影しておりますが、皆さんは撮影禁止ですのでよろしくお願いします」と呼びかける念の入れよう。今やスマホで撮影してSNSに投稿する時代。福島県内外から多くの人に訪れて欲しいのならばSNSでの〝宣伝〟はむしろ歓迎するはずだが、担当者は「著作権の問題や個人情報の部分もあり撮影は御遠慮いただいています。どれを撮影しているか確認する事も出来ないですし…」と話した。将来の〝解禁〟には含みを持たせていたが、当面は全面撮影禁止という。

実は「伝承館」の展示内容を説明する事前の記者レクでは朝日新聞を中心に厳しい質問が飛び交っていた。高村館長も囲み取材で「伝承館の一番の主眼はですね、復興のプロセスというものを保存してそれを情報発信していく事」と語っていただけに、展示内容には期待出来ないとの声も少なくなかった。実際、展示物は思わず目を見張るものや息を呑んでしまうようなものは無く、原発事故から10年の苦痛や怒りは伝わって来ない。確かに、高村館長の言う「復興のプロセス」がきれいにまとめられている。それをSNSで広められてしまったら再び批判の的になってしまうと恐れたのだろうか。そう邪推してしまうほど、表面をさらっとなぞっただけ。国や東電のパンフレットを読んでいるような錯覚に陥るような内容なのだ。

福島県庁内にもポスターが何枚も貼られた。「伝承館」とは名ばかりで、実際には「復興PR館」だった
「この看板こそ、原発遺構として最も重要な遺構です」。双葉町の大沼勇治さんは原発PR看板の現物展示を望んでいたが叶わなかった(赤線は全て筆者)

建設にあたり、県は24万点もの資料を収集。その中から〝厳選した〟150点余が展示されている。確かに、原子炉建屋が爆発する映像や当時の東電テレビ会議の映像を観れば、あの頃の記憶はよみがえる。しかし、原発事故は「爆発しました、避難しました、除染しました、復興が進んでいます」で語れるほど簡単なものでは無いのだ。

「原発避難」だけで1つのフロアを埋め尽くす事が出来るだろう。なぜ福島県だけが「年20ミリシーベルト」まで基準値を上げられたのか、それによって裁判を起こした人々が南相馬にいる事も触れられていない。フレコンバッグの現物は展示されているが、除染で生じた汚染土壌の再利用問題は正面から取り上げない。溜まり続ける汚染水の海洋放出問題は?原発事故によって自ら死を選んだ人がいる事や生業を奪われた人がいる事は?そして何より、加害企業である東電が自ら立てた「3つの誓い」を反故にして、法廷で被害者たちに侮辱的な言葉を浴びせ続けている事は触れられていない。

原発事故がひとたび起きると被害は深く複雑で、10年ではとても解決出来ない事を次の世代に伝えなくてどうするのか。それよりも写真撮影を禁じる方が大事なのだろう。あらゆるところに、この施設の性格が表れている。

双葉町の大沼勇治さんが現物展示を望んだ原発PR看板「原子力 明るい未来の エネルギー」は結局、写真が展示された。現物が大きい事もその理由の1つだが、建物の前には広い芝生が広がっている。サビを防止する加工を施して屋外に展示する事も出来た。しかし、福島県は「加工する時間も費用もかかる」としてやらなかった。福島県が本当に「伝承」したいものは何なのか。推して知るべしと言えよう。(了)

◎【東日本大震災・原子力災害伝承館】
(上)館長選びの時点ですでにこうなる事は決まっていた 展示で伏せられた原発事故被害の実相
(下)館内撮影全面禁止、スタッフは〝厳戒態勢〟 事故被害の伝承よりも福島県が守りたいものとは

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ、48歳。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

『NO NUKES voice』Vol.25

『NO NUKES voice』Vol.25
紙の爆弾2020年10月号増刊
2020年9月11日発行
定価680円(本体618円+税)A5判/132ページ

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総力特集 ニューノーマル 脱原発はどうなるか
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[グラビア]〈コロナと原発〉大阪、福島、鹿児島

[報告]小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)
 二つの緊急事態宣言とこの国の政治権力組織

[インタビュー]水戸喜世子さん(「子ども脱被ばく裁判」共同代表)
    コロナ収束まで原発を動かすな!

[座談会]天野恵一さん×鎌田 慧さん×横田朔子さん×吉野信次さん×柳田 真さん
    コロナ時代の大衆運動、反原発運動

[講演]井戸謙一さん(弁護士/「関電の原発マネー不正還流を告発する会」代理人)
    原発を巡るせめぎ合いの現段階

[講演]木原壯林さん(若狭の原発を考える会)
    危険すぎる老朽原発

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
    反原発自治体議員・市民連盟関西ブロック第四回総会報告

[報告]片岡 健さん(ジャーナリスト)
    金品受領問題が浮き彫りにした関西電力と検察のただならぬ関係

[報告]おしどりマコさん(漫才師/記者)
「当たり前」が手に入らない福島県農民連

[報告]島 明美さん(個人被ばく線量計データ利用の検証と市民環境を考える協議会代表)
    当事者から見る「宮崎・早野論文」撤回の実相

[報告]鈴木博喜さん(ジャーナリスト/『民の声新聞』発行人)
   消える校舎と消せない記憶 浪江町立五校、解体前最後の見学会

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
    《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈9〉
    「原発事故被害者」とは誰のことか

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
    多量の放射性物質を拡散する再処理工場の許可
    それより核のゴミをどうするかの議論を開始せよ

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
    具体的なことと全体的なことの二つを

[報告]板坂 剛さん(作家/舞踊家)
    恐怖と不安は蜜の味

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
    山田悦子の語る世界〈9〉普遍性の刹那──原発問題とコロナ禍の関わり

[読者投稿]大今 歩さん(農業/高校講師) 
    マンハッタン計画と人為的二酸化炭素地球温暖化説

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
    コロナ下でも萎縮しない、コロナ対策もして活動する
《北海道》瀬尾英幸さん(脱原発グループ行動隊)
《石川・北陸電力》多名賀哲也さん(命のネットワーク代表)
《福島・東電》郷田みほさん(市民立法「チェルノブイリ法日本版」をつくる郡山の会=しゃがの会)
《規制委・経産省》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
《東京》柳田 真さん(たんぽぽ舎、とめよう!東海第二原発首都圏連絡会)
《浜岡・中部電力》沖 基幸さん(浜岡原発を考える静岡ネットワーク)
《読書案内》天野恵一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)

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天皇制はどこからやって来たのか〈17〉古代女帝論-9「八人・十代」のほかにも女帝がいた! 横山茂彦

ここまで六人・八代の古代女帝を紹介してきた。女性天皇は江戸期の明正帝(興子・一〇九代)と後桜町帝(智子・一一七代)をふくめて「八人・十代」ということになっている。

神功皇后(じんぐうこうごう)(歌川国芳『名高百勇伝』より)

ところが飛鳥王朝以前にさかのぼると、あと二人の女帝を歴代の史書はみとめているのだ。その一人は有名な神功(じんぐう)皇后である。この連載の08回「朝鮮半島からの血が皇統を形づくっている」でもふれた仲哀帝の皇后であり、応神帝の母親ということになっている。

「歴代の史学はみとめている」と、ことわったのは「記紀」の神話的な部分がその典拠だからである。神話的な記述をどこまで史実とするかは、同時代の文献や伝承・記録で証明する以外にないので、関連記事のない神功皇后の実在性はとぼしいと言わざるをえない。

いちおう触れておくと、「日本書紀」であるという説もある「王年代紀」に、彼女の即位が記録されている。この「王年代紀」が中国に伝わり、痘代の「新唐書」(列伝一四五東夷日本)と「宋史」(列伝二五〇)にも記述されている。中国に記録が伝わったのは、十世紀末のことである。

だが、中国の史書にあるから史実だと言えないのは、出典が神話世界に仮託されたものだからだ。神功皇后のモデルは卑弥呼説、朝鮮出兵の陣(九州)で亡くなった斉明女帝(皇極天皇)とする説(直木孝次郎)がある。じっさいに江戸時代まで、神功皇后は天皇という扱いだった。

もうひとり、一般の人はほとんど知らない「幻の女帝」がいるのだ。ふつうの歴史解説本には載っていない。いや、幻の女帝というのは語弊があるだろう。その女帝は実在性がきわめて高いうえに、同じ「日本書紀」の記述とはいえ具体的な(粉飾されない)エピソードの持ち主なのだ。その名を飯豊(いいとよ)天皇という。

皇極(こうぎょく)天皇

◆女帝は処女でなければならなかった

「日本書紀」の清寧天皇時代の記録に、飯豊女帝は「飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)」とある。飯豊青皇女は第一七代履中天皇(405年没)の娘とされている(「記紀」)から、清寧帝の時代には、少なくとも74歳になっているはず(このあたりが古代天皇史のいい加減なところで、やたらと天皇たちが長寿)だが、彼女は初めて「女の道を知る」(日本書紀)のだ。70歳をこえて「初体験」をしたというのだ。女は骨になるまで、とはよく言ったものだ。

別伝では履中帝の息子(市辺押磐皇子)の娘という記述があり、その場合は「70代で初体験」ではなくなる。20歳前後(雄略時代・清寧時代で27年間)ということになるから、記事の真実性が増す。

「飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交(まぐはい)したまふ、人に謂りて曰く『一女の道を知りぬ、また安(いづく)にぞ異(け)なるべけむ、終(つい)に男に交はむことを願(ほり)せじ』とのたまう(※ここに夫有りといえること未だ詳らかならず=日本書紀編者注)」

「わたくし、初体験をして女になりましたが、どこか違うのではないかと感じました。また男とやりたいと願ってはいません」と訳してみた。初体験を語るとは、かなり明け透けな性格だったことがうかがえる。

文中に角刺宮(つのさしのみや)とあるのは、奈良県葛城市の忍海に実在する(現在は角刺神社=近鉄忍海駅下車徒歩4分)飯豊皇女の居住地である。

「日本書紀」の編者はおそらく、飯豊皇女が帝位を嘱望される存在だから、彼女がセックスをしたことに愕き、この記事を残したのであろう。帝位に就く女性は、独身でなければならなかったはずだからだ(卑弥呼・孝謙女帝などの例)。

そこで「※夫有りといえることは未だ詳らかならず」とあるのは、「彼女がセックスをしたからといって、その相手が夫になったとは限らない」なぜならば「彼女はもう逢わないと言っている」というふうな文意と注釈になる。なので、皇位に就くのに差し障りはない、ということだろう。古代においても、女系天皇は敬遠されていたのだ。

女性天皇は六人・八代の古代女帝に江戸期の明正帝(興子・109代)と後桜町帝(智子・117代)を加えて「八人・十代」ということになっているのだが……

◆第二四代天皇、飯豊女帝

いっぽう「陸奥国風土記」には「飯豊青尊が物部氏に御幣を奉納させた」とあり、飯豊青皇女が「尊(みこと)」すなわち天皇になったことを示唆している。飯豊女帝の即位の事情は、ハッキリしている。第二二代の清寧天皇が亡くなり、皇太子候補だった二人の皇子(大脚皇子=仁賢天皇と来目皇子=顕宗天皇)がお互に譲り合ったので、やむなく立てられた女帝と記録にある。

「日本書紀」における即位の記述は、顕宗天皇の「即位前紀」に「天皇の姉飯豊忍海角刺宮に臨朝秉政(りんちょうへいせい=ミカドマツリゴト)したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称(なの)りたまふ」とあり、上述の「陸奥風土記」を裏づけている。

平安時代の史書である「扶桑略記」には「飯豊天皇廿四代女帝」とあり、室町時代の「本朝皇胤紹運録」には「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記されている。いずれも女性天皇(女帝)という記録である。

明治維新後、昭和20年までは宮内省において「歴代天皇の代数にはふくめないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。戦後、宮内庁では「履中天皇々孫女飯豊天皇」と称している。これは「不即位天皇」としての扱いである。

宮内庁が「不即位天皇」にしようと、史実は別物である。飯豊青皇女、すなわち飯豊女帝の即位と執政は疑いない。したがって、わが国の女帝の数を「九人・十一代」としても差しつかえないのだ。日本史の新常識が、またひとつ増えた。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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格闘群雄伝〈07〉ソムチャーイ高津 ムエタイに染まった人生、友達の輪は人望からくる因果応報!

◆格闘技人生の始まり!

元NJKFライト級1位.ソムチャーイ高津(ソムチャーイ・タカツ/1969年6月16日、神奈川県藤沢市出身)は、ムエタイの師匠、パイブーン・フェアテックス氏が名付け親となるリングネーム。タイトル獲得歴は無いが、不思議な人望と人脈を持つ、オモロイキックボクサー人生である。

タイ初試合、ポンテープ戦は判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.5.4

ソムチャーイ高津は、幼い頃から格闘技に興味を持ち、漫画や映画で公開された「四角いジャングル」を観てより一層格闘技に魅せられていった。

高校3年の1987年8月2日、シューティング(修斗)に入門。アマチュアで3戦したが、プロはまだ無い時代だった。

元々、日本人初のラジャダムナンスタジアムチャンピオン、藤原敏男に憧れを抱いていたソムチャーイ高津は、後に打撃競技をやりたくなったのを機に、1988年8月2日、OGUNI(小国)ジムに入門、藤原敏男氏が厳しい鍛錬に耐えた黒崎道場はすでに無く、その黒崎イズムを継承するのは藤原敏男氏の後輩、斎藤京二氏がトップ選手として活躍する小国ジムであると確信したからだった。

◆タイへ渡って多くの経験!

プロデビューは1989年4月8日、中島貴志(東京北星)にKO勝利。翌年10月の再戦では、激戦の末のドローとなったが、中島貴志のトレーナーだったユタポン・ウォンウェンヤイ氏からタイ式の攻防としても凄く褒められたことで、ムエタイとは切っても切れない縁となったと感じたという。

タイ2戦目、サクアーテット戦も判定負け。撮影:パイブーン・フェアテックス 1993.6.1

そして運命に導かれるままの初のタイ遠征で向かった先はフェアテックスジム。ここはすでにタイで修行を積んだOGUNIジムの先輩が勧める名門で、奇しくも過去の入門日と連鎖する1991年8月2日にジム入り。ここで専属トレーナーとして家族との住居を構える、1960年代の、タイでは5本の指に入る伝説のチャンピオン、アピデ・シッヒラン一家と一つ屋根の下で暮らし。

ジムでは最初は誰もが馴染めぬタイ人との距離も、ソムチャーイ高津は持ち前の明るさと人懐っこさで難なく親しんでいった。アピデ氏夫妻との生活は、タイのお父さんお母さんと呼ぶまでになり、ここでトレーナーを務めるパイブーン・フェアテックス(元・ルンピニースタジアムランカー)とは先生と崇め、切っても切れない縁も連鎖した。

全日本ライト級王座挑戦、内田康弘に判定負け。1996.3.24

タイで初めての試合は1993年5月4日、パイブーン先生の故郷、チャイヤプーム県で、積極的な展開も善戦の判定負け。タイでの戦績が最初は10連敗だったが、勇敢な戦いが続いたことからパイブーン先生から、タイ語のリングネーム付けた方がいいという話が持ち上がり、タイで流行っていた曲の「タオ・ソムチャーイ・ケムカッ!(勇敢な男)」というフレーズから“ソムチャーイ”のリングネームが付けられた。

そこからもタイ遠征する度、試合出場を続けた1997年初春、次にパイブーン先生に掛けられた言葉が、「タカツもそろそろ出家するべきじゃないか?」と言われたことで、タイでは一人前の大人となる通過儀礼ではあるが、アピデさんの息子さんやフェアテックスジムの仲間たちといった身近な人の出家を見て来た縁もあって、違和感無く出家を決意。あらゆる寺が候補に挙がるも、パイブーン先生の実家があるチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンに決まり、9日間の出家となった。ムエタイボクサーはブランクを空けない短期出家となりがちだが、短期でもテーラワーダ仏教の教えはその後の人生にも影響を与えていったという。ムエタイ修行の厳しさが活きるが故の習得力だっただろう。

タイに渡る度、パイブーン先生の実家に訪れると、家族のように迎えられるソムチャーイ高津だった。チャイヤプームはもう第2の故郷である。

NJKFライト級王座挑戦、小林聡に何度もヒジ打ちヒットさせるもKO負け。1997.4.6(左)。タイでもうひとつの修行、出家を経験。 撮影:パイブーン・フェアテックス1997.5.18~5.26(右)

◆ムエタイが導いた日本での活躍!

日本に於いては、ムエタイ修行の成果はすぐには表れず、3回戦(新人クラス)時代が長かった。OGUNIジムはタイからチャイナロンというトレーナーを招聘すると、それまでわずかに残っていた黒崎イズムから、今迄に無いムエタイのムードが漂ってきた。

引退試合、OGUJIジムが招聘した二人の名トレーナー、パイブーンとチャイナロンがセコンドに付く。2004.11.23

ソムチャーイ高津はタイでの練習に近い環境が整うと、やがてジワジワと修行の成果が物を言い出してランキングは上昇。後にはパイブーン先生も招聘することに成功したが、全日本ライト級タイトルをはじめとした国内タイトルには、当時のトップクラスに阻まれ、計5度に至る挑戦は実らなかった。

1997年4月のNJKFライト級王座に挑戦した、小林聡(東京北星)戦では、ヒジ打ちを何度も叩き込み、ガチガチ打ち合う一番噛み合った試合となったが最後はローキックで倒された。後に小林聡から「高津との試合がベストバウトだった!」と言ってくれて、お世辞でも嬉しかったという。

2004年11月23日の引退試合を含め、日本で41戦17勝(9KO)17敗7分、タイでは25戦6勝(4KO)19敗だったが、技術的にはまだ伸びていた中、打たれ脆くなったことを意識し、現役を去ることとなった。

引退後はトレーナー人生となったが、タイ修行で得た厳しい指導で多くの後輩をチャンピオンに育て上げることに繋がった。2009年10月18日、大槻直輝がWBCムエタイ日本フライ級初代チャンピオンとなると、パイブーン先生は「よく育て上げたな、タカツは俺が認める一人前のムエタイトレーナーだ!」と恩師から名トレーナーの勲章を頂いたような感動もあったが、パイブーン先生は役目を終えたかのようにタイに帰ることになった。

◆引退してもムエタイとの繋がりはより深く!

ソムチャーイ高津はその後も後輩をムエタイ修行に導いたり、アピデさんやパイブーン先生と酒を酌み交わす為、タイには頻繁に訪れていた。しかしそんな師匠らとの別れの時がやってきた。

アピデさんは肺癌を患い入院。末期には奥様が気晴らしに散歩を勧めても、もう出歩くことを嫌がるほど気力は衰え、2015年4月に永眠された。73歳だった。

引退試合、高野義章戦、最後までヒザ蹴りを活かしたが判定負け。2004.11.23
引退セレモニー、息子を連れて御挨拶、後方にチャイナロンとパイブーンが控える。2004.11.23

ソムチャーイ高津は、「1993年頃、一度だけアピデ父さんの実家に連れて行ってもらいました。近くのワット・バーングンでアピデ父さんは、“いつもこのお寺で練習していたんだ。タカツも一緒に練習しよう”と言われてシャドーボクシングしたことがあります。また、最後の入院した病室では二人きりになった時、“タカツ、一杯やろう”とベッドの下から酒瓶を出し、どうやって厳禁の酒を持ち込んだのか分からないのが笑えてしまった。でも最後の杯を交わしました!」と懐かしく振り返る。

パイブーン先生は帰国後、後に肝硬変で体調を崩し、2017年9月、肝臓癌で永眠。56歳だった。亡くなる前、「俺の葬儀には来るな!」と言っていたという。

言い付けを守り、衰弱した頃にはタイには見舞いも葬儀も行かなかったが、電話で何度も懐かしい話をしたという。辛い別れ方だが、この世に生まれたものは全ては劣化し消えていく諸行無常を知り得たソムチャーイ高津。生涯、タイでの二人の師匠に誇れる人生を送るだけであろう。

今もムエタイ繋がりの仲間は多く、日本で梅野源治や石井宏樹に勝利したゲーオ・フェアテックスの来日の際も付き添った。ソムチャーイ高津が初めてタイに行った時、練習していたゲーオはまだ小学生だった。そんな名チャンピオンの幼い頃を知る仲でのお付き合いが多いのもお金では買えない財産。

憧れの藤原敏男さんとは、知人の飲み会に誘われて一緒に陽気に呑んだことで、その際に「君は面白い奴だな!」と言われ、2016年7月、ディファ有明での、タイTOYOTA CUPのムエタイイベントで、かつてラジャダムナンスタジアムで藤原敏男さんと名勝負を展開したシリモンコン・ルークシリパット氏が来日した際は通訳として呼ばれ、その後も呑む機会に誘われている模様。

とにかく、このソムチャーイ高津は羨ましい奴である。ムエタイの英雄、日本の英雄らと常に声を掛けられ、ここまで人望が厚いのは生まれ持った才能とムエタイとキックと仏門での努力の賜物。今もソムチャーイ高津に会いたがっているムエタイボクサーは多い。

是非、私(筆者)も肖(あやか)りたいものである。

日本での試合、ゲーオ・フェアテックスのセコンドを務めたソムチャーイ高津(左)。アピデ夫妻とのスリーショット。2015年春(右)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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