『季節』夏・秋合併号、野田正彰・著『流行精神病の時代』、好評発売中です!

鹿砦社代表 松岡利康

この夏、私たちが心血を注いで編集した2点の新刊が発売になりました。『季節』はお盆前に、『流行精神病の時代』はお盆明け20日に、それぞれ発売になりました。

詳しい説明は省きますが、下記の詳細な内容をご覧になれば、これら2点の新刊に、私たちがいかに力を入れたかがわかるでしょう。

『季節』では、なんと言ってもわれわれの世代のカリスマ、山本義隆さんの23ページにわたる力の入った講演録は必読です。これだけで一冊のブックレットになるほどの分量です(悪徳商法=岩波ブックレットがいかにボッているか)。

『流行精神病の時代』は、『紙の爆弾』『季節』に折に触れ寄稿したものを中心に現代の病理を衝いています。

土日は書店に足を運びお買い求めになるか、あるいはAmazonなどのネット書店、また鹿砦社HPなどでご購入下さい! よろしくお願い申し上げます。

『季節』2025年夏・秋合併号
(NO NUKES voice改題 通巻43号)

A5判 164ページ(巻頭カラーグラビア4ページ+本文160ページ) 

定価 990円(税込み) 紙の爆弾増刊 8月8日発売 

《特集》核兵器と原発を廃絶するために

小出裕章(元京都大学原子炉実験所助教)
[報告]国と洗脳

山本義隆(科学史家)
[講演]核発電の根本問題 核ナショナリズムがもたらしたもの

まさのあつこ(ジャーナリスト)
[報告]原子力ムラ・無責任の実態 事故処理の「責任者」は誰なのか

樋口英明(元福井地裁裁判長)
[報告]本当に「司法が原発を止める」ために 井戸謙一さんとの新刊対談本を語る

後藤秀典(ジャーナリスト)
[報告]東電株主訴訟 損害賠償一三兆円の一審判決が覆された理由

後藤政志(元東芝・原子力プラント設計技術者)
[報告]原発の技術的特性と裁判の論理〔1〕 原発回帰への国策に対抗する道

山崎久隆(たんぽぽ舎共同代表)
[報告]柏崎刈羽原発に迫る危機 地震と津波で「原発震災」が起きる

星野幸彦(柏崎市議会議員)
[報告]《第三弾》避難対策は全国どこでも「絵に描いた餅」
 再稼働に前のめりの柏崎刈羽原発 避難計画ではなく被ばく計画ではないのか

村田三郎(医師)
[インタビュー]弱者の側に立ち、反核・反原発を闘う[前編]

水戸喜世子(「子ども脱被ばく裁判の会」共同代表)
[報告]台湾「原発ゼロ」達成の夜、台北で二度泣いた

豊田直己(フォトジャーナリスト)
[報告]ガザからフクシマへ

北村敏泰(ジャーナリスト)
[報告]十五年目に入った福島第一原発事故被害地から
 欺瞞の“復興”による被災者の分断と抑圧

田口 茂(UNSCEAR 2020/21報告書検証ネットワーク・世話人)
[報告]隠蔽された被ばくと甲状腺がんの真相
 原子力災害伝承館は真実を伝えよ

森松明希子(原発賠償関西訴訟原告団代表)
[報告]避難者と住民票

佐藤雅彦(ジャーナリスト/翻訳家)
[報告]《屁世滑稽新聞からの警告》
 火山の近所の原発再稼動で「地方早世」……の巻

板坂 剛(作家/舞踊家)
[報告]米田哲也 万引き逮捕の衝撃

平宮康広(元技術者)
[報告]大型原発vs大型石炭火力発電、および小型原発vs小型石炭火力発電〈1〉

原田弘三(翻訳者)
[報告]脱炭素の罠 「脱炭素マインド」刷り込みによる原発推進の企み

大今 歩(高校講師・農業)
[報告]原発「最大限活用」でいいのか 第七次エネルギー基本計画を問う

再稼働阻止全国ネットワーク
原発再稼働の逆流に抗して 全国各地の創意ある活動
《福島》鴨下美和(福島原発被害東京訴訟原告)
《柏崎刈羽》けしば誠一(反原発自治体議員・市民連盟 事務局長)
《東京電力》中井はるみ(忘れまい3・11!反戦・反原発の会/千葉)
《東京電力》佐々木敏彦(東京電力本店合同抗議実行委員会)
《東京電力》柳田 真(たんぽぽ舎共同代表)
《柏崎刈羽》木村雅英(再稼働阻止全国ネットワーク)
《東海第二》久保清隆(とめよう!東海第二原発首都圏連絡会)
《関西電力》木原壯林(老朽原発うごかすな!実行委員会)
《中東和平》斎藤なぎさ(たんぽぽ舎運営委員)
《書評》天野恵一(再稼働阻止全国ネットワーク)
[反原発川柳]乱鬼龍選

松岡利康 今後の『季節』について

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0FJXW1RPD/

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『流行精神病の時代』
野田正彰(精神科医)著

四六判 カバー装 本文248ページ  

定価1980円(税込み)8月20日発売  

「発達障害」と「精神病遺伝説」
──精神科医、製薬会社、NHK、学校の病気創りによって、無数の子どもが犠牲になっている。
日本で「精神医療」と呼ばれているものの実相とは。

目次

第一章 「優生保護法」は日本精神医学の常識
 一・一 現代に息づく優生保護法の思想
 一・二 業界による隠蔽
 一・三 優生保護法をめぐるお祭り訴訟

第二章 教科書と「精神疾患」
 二・一 精神病遺伝説を常識とした学校教育
 二・二 偏見に加担する教科書と法
 二・三 偏見改まらぬ教科書
 二・四 開かれた精神医療をめざして
 二・五 地域精神医学の現状

第三章 旭川少女殺人事件と「発達障害」
 三・一 「発達障害」という流行精神病の作り方
 三・二 旭川女子中学生いじめ凍死事件 雪の少女へのレクイエム
 三・三 雪の少女の哀しみ
 三・四 隠蔽のための「再調査」

第四章 事件と映画に思う
 四・一 自死とは世界の消去なのか 大阪放火事件に思う
 四・二 映画『どうすればよかったか?』を観た人へ

第五章 原発事故被害者の精神鑑定
 五・一 原発被害者が死ぬ前に見た景観
     [精神鑑定書1]菅野重清さん  
     [精神鑑定書2]大久保文雄さん
     [精神鑑定書3]Aさん
 五・二 原子炉との深夜の対話

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315827/

昭和のキックボクシング、アジアモエジップン連盟とは?

堀田春樹

「アジアの中の日本のキックボクシング」。これがアジアモエジップン連盟名称の意味である。

テレビによって起こったブームが去った後の昭和50年代のキックボクシング、分裂の始まりはすでに公開済ですが、枝分かれから更に細く枝分かれしたのが1983年(昭和58年)で、以前に述べました日本プロキックボクシング連盟から脱退し設立したのが日本ナックモエ連盟。このナックモエ連盟から枝分かれしたのが、みなみジム南俊男会長が興したアジアモエジップン連盟(AMF)でした。

アジア太平洋キック連盟設立記念興行は豪華版パンフレットとなった(1983年10月21日)

タイ語で“モエ”は表記上“ムエ”とも呼ばれますが、ボクシング中心とする競技を意味し、“ジップン”は“ジープン” とも呼ばれ、即ち日本のことである。

同年9月初旬に設立が発表されると、因みに新日本キックボクシング協会発足が同時期に発表されています。アジアモエジップン連盟記念興行は同年10月21日、後楽園ホールでした(翌22日が新日本初興行)。

設立御挨拶に立った南俊男代表(1983年10月21日)

分裂及び興行の激減、業界を去る関係者、新人が育たない、そもそも誰も入門して来ない氷河期に団体立ち上げて、興行が成り立つのかという懸念も、ただやることはデカい南俊男会長。各団体へ出場交渉と、打倒ムエタイを掲げる設立興行で、タイのナンバー1を呼ぼうと、ルンピニースタジアムで4階級制覇し、国際式ボクシングに転向したサーマート・パヤックアルンを招聘に臨みました。迎え撃つは日本プロキック連盟フェザー級チャンピオン、葛城昇(習志野)でしたが、招聘ビザ申請の面でも、ムエタイの英雄を招くというハードルの高さでも来日が難しい時代で残念ながら実現には至りませんでした。

サーマートと対戦予定だった葛城昇の「次回実現へ」の御挨拶(1983年10月21日)

実際のメインイベントとなったのは日本プロキック連盟の長浜勇(市原)が、在日の日本人キラー、バンモット・ルークバンコー(タイ)をパンチで倒し、トリをノックアウトで締め括り、セミファイナルは、みなみジムのエース、前・団体でのバンタム級チャンピオン、高樫辰征が韓国のアグレッシブな全再鐸を第5ラウンドに圧倒しTKO勝利して存在感を示しています。設立記念興行としては他団体頼りではあったが結構盛り上げた興行でした。

みなみジムの高樫辰征はアグレッシブな全再鐸に圧倒していく展開で制した(1983年10月21日)
セミファイナルだったが、高樫辰征は存在感示したKO勝利(1983年10月21日)

◆アジア太平洋キック連盟とは?

設立から一年後、名称が改名。世間に浸透し難いタイ語よりも馴染み易い呼称となった模様。

“キック” とは簡略化した言い方だが、この業界ではキックボクシングを意味することは当然でしょう。“アジア太平洋”という広域なエリアを指していますが、実質は日本国内の団体ではありました。

アジア太平洋キック連盟の当時の略号はAPF(後にAPKFと表記)。所属ジムも増えた1984年12月1日には設立一周年興行が行われました。メインイベントはシーザー武志が韓国の李興大を大差判定で下しています。APFフライ級王座決定戦では中川二郎(北心)がポパイ卓男(みなみ)をKOで下し、APFバンタム級王座決定戦では黒沢久男が前田市三(みなみ)を判定で下し王座獲得している模様(スポーツライフ社、マーシャルアーツ誌参照)。

◆マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に加盟!

当時の業界は更なる分裂もありましたが、一時的には業界トップとなったマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟と新生全日本キックボクシング連盟発足(1987年7月/旧・協会復興)の二大巨塔が暫く続いた為、その他の団体は興行少なく、陰に隠れる存在でしたが、アジア太平洋キック連盟南俊男会長は埋もれた存在では終わらぬ底力を秘めていました。

1992年10月には役員も代わったマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に加盟し、みなみジムの腕の見せどころ発揮、翌年には一層名声増したサーマート・パヤックアルンをついに来日させ、日本vsタイの対抗戦マッチメイクの中、初の日本人との対戦となった新妻聡(目黒)戦を実現させています(サーマートが判定勝利)。MA日本連盟の主要プロモーターとして、他にも定期的に興行を開催。

MA日本キック連盟で英雄サーマート招聘、日本vsタイ対抗戦を開催した南俊男会長(1993年4月24日)

1996年にはマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟からあっさり脱退しましたが、1999年には4団体集結として発足したNKBグループに参加。現在のNKBは日本キックボクシング連盟とK-Uのみ。しかし発足当時はアジア太平洋キック連盟とニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)も加わって活気が増した活動でした。

結局は2005年頃にはNJKFもアジア太平洋キック連盟も離脱となり、やがて世代交代へ移っていくのは仕方ない時代となっていました。

◆令和時代は二代目、南孝侍が担う!

暫くはディファ有明などで細々とアジア太平洋キック連盟としての興行は行われていましたが、みなみジムの名称はNKB時代にMTOONG(エムトーン)ジムへ名称変更され、2010年頃、アジア太平洋キック連盟は先代会長(南樹三生=南俊男)が活動休止となり、MTOONGジムは御子息の南孝侍氏が引き継ぐことになりました。

2022年にはジャパンキックボクシングイノベーションに加盟したMTOONGジム。南孝侍会長は3歳からキックボクシングを習い幼稚園の頃から少年部の試合に出場、後にプロとしても活躍しましたが、18歳で引退という早過ぎる転機でした。

アジアモエジップン連盟の発足については当時の記録を掘り起こすだけでしたが、この先代のみなみジムから50年継続した南俊男(樹三生)会長と、二代目の南孝侍会長の物語は、時期未定ながら改めて公開予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

民主主義国家における「秘密」とは何か「スパイ防止法」と憲法9条(紙の爆弾2025年8・9月号掲載)

足立昌勝

月刊「紙の爆弾」8・9月合併号から一部記事を公開。独自視点のレポートや人気連載の詰まった「紙の爆弾」は全国書店で発売中です(毎月7日発売。定価700円)。書店でもぜひチェックしてください。

 5月27日、自民党の治安・テロ・サイバー犯罪対策調査会(会長 高市早苗・前経済安保担当相)は、「『治安力』の強化に関する提言~安全・安心な日本を取り戻すために~」を取りまとめ、石破茂総裁に申し入れた。そこでは、公的部門と民間部門を分け、それぞれの「治安力」の強化を提言している。
 まず公的部門では、①海外からの脅威に対し、〈偽情報等の収集・分析・集約や偽情報等に対する対外発信等の対策を強化〉と〈政策決定を支える情報収集・分析能力の強化、諸外国と同水準のスパイ防止法の導入に向けた検討〉を取り上げ、②国内における対策として〈「国民を詐欺から守るための総合対策2・0」の着実な推進〉〈CBRNE(化学剤・生物剤・放射性物質・核物質・爆発物)を用いたテロの対策〉〈ローン・オフェンダー(特定のテロ組織等と関わりのないままに過激化した個人)等による事件の対策〉〈ドローンの対処能力向上・利活用推進〉を提言している。
 これについて、高市氏は「本気で議論を始めなければならない段階に来ている。夏の参院選公約にも盛り込めるよう取り組む」と述べた。

◆「スパイ防止法」の歴史と推進派の主張

 今から40年前の1985年、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の系列下にある勝共連合に支援された自民党議員が「スパイ防止法案」を衆議院に議員立法として提出した。この法案は、基本的人権を侵害するとの反発を受け、結局審議未了で廃案となったものの、そもそもこの法案を策定したのは自民党である。
 法案には、「外国のために国家秘密を探知し、又は収集し、これを外国に通報する等のスパイ行為等を防止することにより、我が国の安全に資することを目的とする」と明記され、「国家秘密とは、防衛及び外交に関する別表に掲げる事項並びにこれらの事項に係る文書、図画又は物件で、我が国の防衛上秘匿することを要し、かつ、公になっていないものをいう」と定義されている。
 別表として掲げられた以下の事項は、今後の国家秘密保護の範囲を規定するものとなるので、長いが引用しておく。

1 防衛のための体制等に関する事項

イ 防衛のための体制、能力若しくは行動に関する構想、方針若しくは計画又はその実行の状況
ロ 自衛隊の部隊の編成又は装備
ハ 自衛隊の部隊の任務、配備、行動又は教育訓練
ニ 自衛隊の施設の構造、性能又は強度
ホ 自衛隊の部隊の輸送、通信の内容または暗号
ヘ 防衛上必要な外国に関する情報

2 自衛隊の任務の遂行に必要な装備品及び資材に関する事項

イ 艦船、航空機、武器、弾薬、通信機材、電波機材その他の装備品及び資材の構造、性能若しくは製作、保管若しくは修理に関する技術、使用の方法又は品名及び数量
ロ 装備品等の研究開発若しくは実験計画、その実施の状況又はその成果

3 外交に関する事項

イ 外交上の方針
ロ 外交交渉の内容
ハ 外交上必要な外国に関する情報
ニ 外交上の通信に用いる暗号

 これらの国家秘密を探知・収集・外国に通報する行為を処罰対象とし、最高刑として死刑または無期懲役刑が定められていた。また、それらの行為の未遂・予備・陰謀も処罰され、共犯として教唆・扇動も罰せられる。
 かつて刑法には、間諜罪(スパイ罪)が定められていたが、敗戦後の新憲法で9条が定められ、戦争放棄と戦力不保持が宣言されたことを受け、1947年の刑法改正で、敵国の存在を前提としていた間諜罪は憲法9条に違反することとなり削除されたのである。
 また、刑法改正を審議した法制審議会刑事法特別部会第三小委員会では機密探知罪が検討されたものの、規定しないと決定された経緯がある。
 しかし、国家の右傾化や冷戦構造を背景とする反共主義の蔓延化により、勝共連合に支援された自民党が過去の歴史を無視し、スパイ防止法の制定に邁進するようになった。
 憲法理念に反するとして廃止された規定が、同じ憲法の下で復活するということは、何を意味しているのか。そこには、憲法を無視してでも復活させたいという自民党右派勢力の思いが反映されているのだろう。
 ところで、2001年には自衛隊法が改正されて「防衛秘密」が新たに規定。防衛大臣は、「自衛隊についての別表第4に掲げる事項であって、公になっていないもののうち、我が国の防衛上特に秘匿することが必要であるもの(MSA秘密保護法の特別防衛秘密を除く)を防衛秘密として指定する」と述べた。
 40年前のスパイ防止法案では、防衛のための体制等に関する事項と自衛隊の任務の遂行に必要な装備品及び資材に関する事項に分けられ、合わせて8つの事項が指定されていたが、ここでは1つの柱にまとめられ、10の事項が指定されている。ただし内容には、大きな変化はないように思われる。
 憲法9条が存在するにもかかわらず、米軍の意向を反映して自衛隊を増強し、活動範囲も大幅に広げられた。そこには仮想敵国が存在し、それに向けての体制を構築しようとしているのだ。
 このような体制の構築は、憲法9条の下で許されているのであろうか。戦力不保持を定めている以上、自衛隊という名称を用いても、それが戦力である限り保有することはできない。政府解釈のように、自衛のための戦力の保持は許容されるとしても、自衛を理由とした戦争は過去にも多く発生しているため、歯止めがなくなり、どこまでも広げられてしまう。
 憲法9条について、最高裁判所は政府の意向を反映した解釈しかしてこなかった。それを理由として「解釈」という言葉を用いているが、政府が勝手に運用の範囲を拡大してきたのだ。

◆なぜ今「スパイ防止法」が必要なのか?

 なぜ40年後の今、スパイ防止法の制定を自民党右派勢力は目指すのか。過去と現在で、どのような情勢の変化があったのか。
 それを考える材料として、40年前の立法理由がどこにあったのかを検討する必要がある。

※記事全文は↓
https://note.com/famous_ruff900/n/n824a0551bb4b

冤罪当事者・前川彰司さんが語る「福井女子中学生殺害事件」無罪判決確定報告会

尾﨑美代子

8月9日、ピースクラブで行った「福井女子中学生殺害事件無罪判決確定報告会」には50人以上の方が参加され満席でした。参加された皆様、ありがとうございました。前川彰司さんも「大勢の人が来てくれたね」と喜んでおりました。

初めて参加される方も多く、冤罪事件への関心が少しづつ高まっている気がしました。また検察が上告断念し無罪が決まった8月1日から初めての報告会ということもあり、地元福井から朝日新聞福井支社、日刊福井の方、そして読売テレビ、共同通信の記者も取材に来られた。あと、金聖雄監督とコンビを組む池田カメラマンも。

最初に無罪判決が下された7月18日の雰囲気を皆さんと共有するため動画を見てもらい、判決日と同じ服装をしてきてもらった前川さんに登場頂いた。黄色のネクタイは青木恵子さんから、お帽子は袴田さんから頂いたものだ。前川さんのお話のあと、端将一郎弁護士がパワーポイントを使い、事件の概要と無罪判決のポイントを話してくださった。

それにしてもこの事件、以前にも書いたが、関係者の数が多いうえ、供述がころころ変わり、全体が掴みにくい。それもそのはず。関係者は皆若く、皆、脛に傷持つワルなのだ。前川さんも自戒を込めて「おれもワルかった」という。そんな中おこった中学3年女子の殺害事件、非常に残忍な殺害方法で、当初、少女の不良仲間のリンチと推測された。しかし犯人を絞りこめない。そんなとき、別件で逮捕されていた暴力団組員Aが「犯人は後輩の前川だ」と刑事にいう。しかし、その供述も二転三転。されほど残忍な殺害を犯した前川が犯人というなら、早く逮捕せねばならぬが、逮捕までに時間がかかっている。なぜか? 警察は前川さんを犯人とする「ストーリー」を描き、多くの関係者をその図にうまくはめ込むのに必死になっていたのだ。 

そもそも、前川さんはその女子中学生を知らない。しかし、「前川の黒い手帳に女の子の住所が書いてあった」などという供述もあった。すべてうそ。しかし、ストーリーになんとか信ぴょう性をもたせねばならない。そこで一役買ったのが、例の「夜のヒットスタジオ」のアン・ルイスと吉川晃司がいやらしい踊りをする場面だ。質疑応答で、これがどういう経緯ででてきたのかという質問があった。確か、私が資料を読んだとき、取り調べられた関係者の一人が、事件が起こったのが、木曜の9時ということで、たいてい夜のヒットスタジオみてるなあと思ったのか、少年の一人が「あのいやらしい踊りの日か?」と刑事に聞く場面がある。若い男の子が「いやらしい場面」と言えば、相当強く記憶に残るはずと刑事が考えたのではないか。で、「そうだ、そうだ、その日だ」などといって調子にのせて「NがCと部屋で夜のヒットスタジオを見て、ちょうどアンルイスと吉川晃司のいやらしい踊りをみたあとAから電話で呼び出された」ということにしたのでは。実はNは事件当日「ツレとうどん屋に行って男女の喧嘩をみた」とも言っていた。そっちの供述は実際にあったことだ。うどん屋で喧嘩した男女の証言もあり、その事実を警察もうどん屋に確認していた。またNはその日の深夜車で移動中検問にあい、覚せい剤を持っていたのでドキドキしたという。実際、検問があったことは証明されている。 

Nは一審で2回証言している。一回目は検察側証人として、「いやらしい踊りを見たあと、Aに呼び出され、……血のついた前川を見た」と。その後、弁護団と面談し、「うどん屋で男女の喧嘩をみた」に変えた。そして一審は前川さん無罪となった。 

検察は控訴し、控訴審でNが再度検察側証人として「血のついた前川を見た」と証言する。松山龍司刑事に嘘の証言を頼まれたからだ。自分の覚せい剤の件を見逃してもらうかわりに。嘘の証言をしたあと、松山刑事に飯や酒を奢られたNは、結婚したことを告げると、後日松山刑事から5000円の入った祝儀袋が届いた。二回目の再審で、嘘の証言をしたことを証言し、祝儀袋を証拠提出したN。そのことは知っていたが、まさかその祝儀袋があんなにきれいに保管されていたとは、驚き。

今回最大の問題は、夜のヒットスタジオでアン・ルイスと吉川晃司がいやらしい踊りを踊っていた放送日は、事件のあった日ではなく、翌週だったこと、しかも警察、検察は前川さんを逮捕・起訴したあとの補充捜査で、テレビ局に問い合わせ、その事実を知っていたのに、ずっと隠してきたこと。今回の再審で初めて出てきた287点の証拠の中に、それがあったこと。

これに関しては増田啓佑裁判長も「……裁判では事件当日に放送されたという、事実に反することを、ぬけぬけと主張し続けている。……再審でもこの点について何ら納得できる主張がなされていないことをあわせると、知らなかったと言い逃れができるような話ではない。当時の検察官の訴訟活動は公益を代表する検察官として、あるまじき、不誠実で罪深い、不正行為を言わざるを得ず、到底容認することはできない」と超厳しく批判した。顔もぷんぷんと怒っていたようだった。それにしても判決文で「ぬけぬけと」とは。

質疑応答では、「何故警察、検察は裁かれないのか?」と怒りの質問が多かった。確かにそうだ。

若い時期に殺人犯にされ、服役した前川さんは、精神的に病み、病院に入退院を繰り返した。人を信用できなくなった、しかし徐々に寛解してきたと話された。私は3年前、桜井昌司さんに紹介され、電話で話すようになった。しかし、最初は「はい、いいえ」としか言わなかった前川さんが、昨年秋に再審開始が決定して以降は、電話でも良く話し、そして笑うようになった。そうなるのに、39年かかったということ。あまりに残酷だ。

最後に冤罪犠牲者の皆さんのミニアピール。再審を闘う日野町事件の阪原浩次さん、姫路花田郵便局事件のジュリアスさんのアピールのあと、仕事で参加出来なかった和歌山カレー事件林眞須美さんの長男さんからのアピールを司会の尾崎が代読した。湖東記念病院事件の西山美香さん、そして最後にアピールした東住吉事件の青木恵子さんにより、無罪決定を祝うケーキがプレゼントされた。青木さんは、テレビで前川さんが自身の還暦の誕生日に、コンビニのケーキを食べているのを見て、気の毒になり、また自分も刑務所で寂しい誕生日をおくったことを思い出し、みんなで前川さんの還暦をお祝いしたいと用意してくれた。

「前川さん、再審無罪、お誕生日おめでとう!」

実はこの事件の記事を書き始めた当初、YouTubeでそのいやらしい踊りの場面をみることができていた。が、まもなく見れなくなった。が、昨日帰宅後に再度検索したら、ひと月前にアップしている方がいて、見ることができた。コメント欄には「前川さんからきました」とか「吉川晃司が前川さんの無実を証明した」とかある。多くの人が前川さんの無罪を知って喜び、そして冤罪の残酷さを知って欲しい。アン・ルイス・六本木心中(with吉川晃司)で検索!

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

朝日新聞はリンチ事件に対して明確に態度を示せ! 広島・広陵高校のリンチ事件について思う

鹿砦社代表 松岡利康

ここ甲子園(松岡自宅、事務所所在)では夏の高校野球が開催中で賑わっています。今、甲子園は日本の中心と言っても過言ではありません。私は毎朝甲子園球場の周りを散歩して出社していますが、全国から応援や観戦に来られている人たちを見ると、こちらも何か嬉しいです。

今年は、例えば松坂大輔クラスのビッグスターがいないこともあるのか、一番話題になっているのが広島・広陵高校野球部内におけるリンチ(私刑)事件です。当初出て来た1件のみならず複数に渡るようです。今後のメディアの取材に期待します。

ところで、この高校野球の主催者はどこか? 日本高野連と朝日新聞です。このリンチ事件に対して、朝日新聞は頑ななほど沈黙しています。大会が終わったら、特集でも組むためにネタを仕込んでいるのでしょうか──不可解です。

広陵高校のリンチ事件は、すでに同校OBの元プロ野球選手・金本知憲(広島カープ→阪神タイガース。阪神では監督も経験)の時代からあることを、金本自身が著書で明らかにしています。

《ある日、ぼくはふだん以上にはげしい「説教」を受けた。気がつくと、ぼくは正座をしたまま、一瞬気をうしなっていた。二、三人がかりで、なぐられ、けられたのだ》

《先輩のだれかが、スパイクをはいたまま、ぼくの太ももをふみつけた。スパイクには金属製のつめがついている。そのつめがぼくの太ももの肉をえぐり、血が出た》(金本著『心が折れても、あきらめるな』2009年)

金本については他にも差別されたりイジメられていたようです。おそらく金本が在日であるからだと推認されます。

なのに、これまで放置されてきました。金本が先の著書で明らかにした時点で何らかの方策を取るべきでした、

高野連は果たして知らなかったのか? 朝日は知らなかったのか? 高野連、朝日とも主催者ですから厳しく対処すべきです。また、朝日と競合する他の大手各紙はどうか? この際、徹底して膿を出すべきだし、場合によっては、来年1年ぐらい中止してでも、解体的に出直すべきでしょう。古くは怪童・尾崎行雄、池永正明、太田幸司以来の高校野球ファンである私としては、本件に対しては地元・甲子園で大変怒っています。朝日よ、しっかりしろ!

さて、リンチ事件と言えば、私(たち)が長年一所懸命に取り組んだ、「カウンター大学院生リンチ事件」、事件が起きた場所に因んで「北新地リンチ事件」と呼ぶ人もいますが、「俗称「しばき隊リンチ事件」を思い出さざるをえません。加害者は、「反差別」を金看板にそのジャンヌ・ダルクのようにメディアが崇める李信恵、主要暴行犯・エル金こと金良平ら5名で、当時、某国立大学博士課程在学中のМ君に対し壮絶なリンチ(私刑)を加えました。М君が体に忍ばせていたICレコーダーの録音や事件直後に撮った写真が明らかになり、加害者らも降参するかと思いきや、「デマ」「でっち上げ」「街角の小さな喧嘩」「リンチはなかった」などと開き直りました(現在でもそうです)。人間としていかがものでしょうか?

この事件は発生から1年余り隠蔽され世間には知らされませんでした。朝日はじめメディアは知っていたはずです。М君は朝日の記者にも相談していますから。私たちがこれを知ったのは事件から1年余り経ってからでした。それほど隠蔽工作は徹底して行われました。隠蔽工作の証拠も明らかになっています。

私たちは被害者の大学院生から相談があって以来彼を全力で支援しました。また、裁判闘争を裏付けるために徹底して取材し、多くの資料を入手したり多くのことが判りました。それはこれまでに6冊の出版物として世に問いました(まだ書くことは残っていますが)。

しかし、小出版社たる私たちの力では、広く社会に知らしめることはできませんでした。残念です。

いま、しばき隊(もしくはこの界隈の輩)が各所で暴れ、その傍若無人な様が出て来て、心ある方々から批判され、関連して皮肉にも10年余り前の大学院生М君に対するリンチ事件も語られています。私たちがまとめた6冊のムック本、これらに収めきれなかったことは私のFBや「デジタル鹿砦社通信」をご覧になり、今につながる問題であることを感じ取っていただきたいと熱望いたします。

M君は、その後、何とか博士課程は修了したものの、失意のうちに研究者の途を諦め普通の市井人(給与所得者)として働いています。さらにはリンチのPTSDに苦しみながら生きています。リンチ事件によって人生を狂わされたと断じることができます。胸が詰まります。

このように、暴力は、受けた人の人生を狂わせます。広陵高校野球部でのリンチの被害者も、思い描いた広陵での野球生活を断念し転校を強いられたりしています。おそらくリンチを受けたことは悪夢として忘れられない傷跡を残していることは容易に察することができます。

このМ君リンチ事件でも、被害者М君が朝日新聞(他のメディアにも)などに必死に訴えたにも関わらず、彼ら記者連中は、まさに若い研究者の卵を弄ぶばかりで冷ややかな態度を取り、加害者らの隠蔽工作に加担したと断言いたします。М君や私たちの度々の記者会見要請にも応じませんでした。逆に加害者らを持ち上げ、記者会見は開くわ、賛美記事はどしどし掲載するわ、呆れてものが言えませんが、このこともМ君を苦しめました。彼ら大手メディアであることの変なプライドがあるのか、私たちの取材にも応じませんでした。

高校野球の主催者で日本を代表するマスメディアの朝日新聞は、今こそ<暴力>の問題について、社を挙げて徹底して取り組むことを強く願ってやみません。でないのなら、甲子園に出場した高校がこれまで犯してきた過ちを黙認した加害者として糾弾されても致し方ないでしょう。

【追記】古い話ですが、私は学生時代(1971年)、日本共産党=民青(みんせい)のゲバルト部隊(「ゲバ民」と言います)に襲われ病院送りにされました。また、身近の先輩らで、ゲバ民や敵対党派に襲われ亡くなったり傷ついた人は少なくありません。〈暴力〉の問題については、みずからも襲撃されて傷ついた体験から、その被害者の心身にわたる後遺症がどれほどのものか、機会を見て記述したいと思っています。

※別掲画像は8月17日の甲子園球場(撮影者:松岡)

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

格闘群雄伝〈40〉新妻聡 ── 肉体言語を貫いた野武士[後編]堀田春樹

堀田春樹

◆日本ランカー時代

新妻聡は自らパフォーマンスはやらないが、滑稽な言動で周囲を賑わす事態は幾度か起こしていた。

注目されだしたのは、タイへ衛星中継があった1990年(平成2年)12月15日、この日は前座だったが、ビッグイベント興行だけに舞い上がってしまい、入場の際、ロープ飛び越えたら滑って尻餅付いてしまった。それが凄く恥ずかしくて、逃げて帰りたい想いで対戦者の飯塚健を早く倒そうと我武者羅に向かって、第2ラウンドでノックアウト勝利した後、すぐリングを下りて逃げるように帰ったという。なんとナイーブな(良い意味で)。恥ずかしさが新たなエネルギーとなった試合だった。

これで日本ライト級1位に上昇し、後にライト級転級狙っていた日本フェザー級チャンピオンの山崎通明(東金)と対戦したが、山崎のヒジ打ちで鼻曲げられTKO負け。レフェリーに向かって「俺の鼻は元から曲がってんだ!」と叫んだが、続行を訴えた主張は通らなかった。

新妻聡が語る印象深い試合に寺田ヒロミ(太田)との2戦があった。寺田(=格闘群雄伝第18回)が後に末期癌で入院中、新妻聡が見舞いに行った際、寺田ヒロミが「新妻さんと後楽園ホールを盛り上げた2戦は自慢だったんですよ!」と言っていたいう。

それはいずれも目黒ジム主催興行で1991年11月15日、寺田はキャラクター的に派手で腕を振り回したり、アゴを突き出して「打って来いよ!」と挑発して来る始末。しかしそれが新妻聡の闘志に火を点け、最終第5ラウンドにコンビネションブローで寺田をノックアウト。最終ラウンドに倒されたのが悔しかったか、再戦を求めて来た寺田と翌年11月13日、再びグローブを交えた。

新妻聡は「お前の手の内は分かっているぜ!」と挑発に乗らず冷静に戦い、第3ラウンドでまたもノックアウト勝利したが、寺田はウェルター級だけにパワーあってパンチ受けてクラクラしたという中でのジワジワ盛り返す新妻聡の底力が見られた2試合でもあった。

寺田ヒロミと対峙。後楽園ホールを盛り上げた両者(1992.11.13)
寺田との第2戦は冷静に戦いKO勝利した新妻聡(1992.11.13)

◆国際戦で飛躍

日本ライト級1位を長く維持する主力選手として、1993年4月24日、タイの伝説のチャンピオン、サーマート・パヤックアルン(ルンピニー系4階級制覇、国際式元・WBC世界スーパーバンタム級Champ)との対戦が実現。

計量時に「こいつカッコいいな!」と思ったという。「サーマートは脹脛が異様に太かったですね。こいつは強いはずだと思った。練習嫌いとは言われていたけど、若い頃は凄い練習やったんだろうと見える痕跡だった!」という。

試合は第1ラウンドにサーマートのバランスいい蹴りの連係から右ストレートでノックダウン取られて何が起こったか分からなかったという。これでは勝てない、行くしかないと確信。第2ラウンドも右ストレートでノックダウン奪われるも、第3ラウンド目で逆に新妻聡の右ストレートがガツンと当たるとサーマートのマウスピースが吹っ飛んだ。これでサーマートの失速が始まり、逃げられた流れで仕留めるには至らず判定負け。

サーマート戦、番狂わせも在り得た戦いだったが、サーマートは天才だった(1993.4.24)

前編でも述べたました、1994年7月16日、日本ライト級王座をハンマー松井(花澤)と争い、判定勝利で初戴冠となった後、チャンピオンとしての戦いは世界的強豪との戦いに移っていった。

同年11月、タイ国ラジャダムナン系ライト級前チャンピオン、ゲントーン・ギャットモンテープには攻勢的に判定勝ちも圧倒できない苛立ち、ムエタイ式に戦ったゲントーンは負けた気は無いだろうという一般的見方も、ムエタイのトップクラスに通用する実力を着実に身に付けていた。

日本ライト級王座は翌1995年1月にハンマー松井を再度、判定で下し初防衛後、同年10月15日、今井武士(治政館)をノックダウン奪って判定勝利で2度目の防衛。いずれも下位から上がって来たしぶといファイターだったが、経験の大きさで退けた。

国際戦ではこの年の6月2日にはオランダのKO率80%を越えるハードパンチャー、ノエル・バンデン・ファウベルに終始圧倒されながら、ラストラウンド終盤に右ストレートでグラつかせる大健闘。

ノエル・バンデン・ファウベルは強かったが、一発のヒットで逆転も在り得た(1995.6.2)

「ノエルはパンチで来ると思っていたところがローキックばかりだった!」という中の“この野郎”と言わんばかりの強打ヒット。そこで倒し切ればドラマチックだったが判定に逃げられた。しかし敗れてもただでは終らせぬ見せ場をつくる姿は、まさに野武士魂であった。

同年12月9日は飛鳥信也の引退興行でのメインイベント。強打者ダニー・スティール(米国)に手こずり仕留めるに至らぬもパンチと組み合う圧力で優って判定勝利。

◆運命の悪戯

しかし1996年2月、最も充実した頃に思わぬ分裂騒動が起こった。選手側にとっては衝撃的な事態である。当時のマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟から幾つかのジムが脱退する知らせが入った。当時も三団体には分かれていたが、現在ほどの多団体乱立、多イベントタイトル増産ではなかった。

新妻聡は新天地、日本キックボクシング協会復興の興行でエース格として、過去に先輩の飛鳥信也を二度退けているヘクター・ペーナ(米国)に挑むWKBA世界スーパーライト級タイトルマッチを迎えた。

復興記念イベント的な盛り上がりの中で、一進一退の攻防の中、ヒザ蹴りがやや低かったがヘクター・ペーナのボディーヒットもヘクター・ペーナの誤魔化し抗議で股間ファウルブロー扱い。ノックダウンだったらテンカウント聞かせていたかもしれないダメージ。

回復に時間を充分取ったペーナは巧妙な戦法で、新妻聡は最後には倒されてしまった。経験浅いレフェリー起用が悪いと主催の野口プロモーションに抗議も、「もう一回やればいいじゃないか!」と再戦を提示されたが、「簡単に言うんじゃねえよ。時間返してくれ!」という想い。パンチは強く、蹴りもよく出るヘクターペーナとは再戦しても簡単に攻略出来る相手ではなかっただろう。

ヘクター・ペーナはパンチが強かったが、新妻聡は勝てた試合を不運にも勝利を逃がした(1996.6.30)

それでも同年12月1日、名古屋で因縁のヘクター・ペーナに再挑戦。今度は誤魔化しも許さぬタイ人レフェリーが務めた。前回もヒザ蹴りが効果的だったが、今度もヒザ蹴りで勝利を導き、ノックアウトでWKBA世界スーパーライト級王座奪取した。

[左]怒涛のヒザ蹴りでヘクター・ペーナをノックアウト、WKBA世界王座奪取(1996.12.1)/[右]WKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなった新妻聡、勝負はこれからだったが(1996.12.1)

◆完全燃焼! 貫いた肉体言語

この復興した日本キックボクシング協会に移り、ヘクター・ペーナと決着戦を終えてから、団体エース格として最も注目、活躍すべき時期にWKBA世界王座の防衛戦も組まれず、いつの間にか剥奪。協会側の複雑な事情もあったが、新妻聡の激闘は見られなくなっていった。元々のMA日本キックボクシング連盟で多くのライバルと死闘を繰り返し、世界レベルと戦っていた頃が最も充実していた時期だっただろう。

試合間隔が空き気味になる中、1999年7月24日にはかつて下した今井武士に大差判定負け。次第に気力も衰えていった頃かもしれない。

試合間隔も遠ざかった頃に今井志武士に巻き返されてしまった(1999.7.24)

「強い奴としかやりたくない!」といった意向から、最強の相手とラストファイトを行なうことになった2000年7月29日、現役ラジャダムナン系スーパーライト級チャンピオン、ノッパデーソン・チューワタナとの対戦が組まれ、新妻聡は完全燃焼の試合に向け、半年前から走り込み調整に入っていた。

ノッパデーソンはスピード速く柔軟性ある蹴りを上下自由自在に蹴って来る。襤褸切れのように蹴られ続けた大差判定負けも倒れることなく踏ん張り、なおも向かっていく姿は最後まで肉体言語を貫いた完全燃焼だった。願わくばもっと充実したマッチメイクと名勝負をファンに観て貰いたかった現役晩年だった。

完全燃焼のノッパデーソン戦。ボロボロに蹴られても向かって行ったラストファイト(2000.7.29)

戦績 37戦22勝(11KO)13敗2分

現役引退後は文京区白山で新妻格闘塾開始したが、ビジネスの兼ね合いもあって後に撤退。

2022年には、身体が動く今だからと、キックボクシングの指導やろうとジム形態ではないが、いろいろなスポーツ施設を借りて「新妻聡キックボクシングクラブ」を始めた。

しかし2023年5月に咽頭癌を患って休止。

「指導していて腕は上がらなくなるし、仕事辞めて時間あったから検査に行ったら癌が見つかりました!」という結果、早期発見で6月に摘出し、1年間の通院。その後の経過検査も問題無かったが、病み上がりというところで現在キックボクシング指導は休業中。

今後はその再開と、将来計画される目黒一門会が開催された際には参加が期待されるだろう。

新妻格闘塾時代。撮影の為の指導を少々でしたが熱のこもる指導が伝わって来た(2006.1.12)

《格闘群雄伝》バックナンバー https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

私の故郷熊本が集中豪雨に襲われました

鹿砦社代表 松岡利康

先ごろ私の故郷熊本が集中豪雨に襲われました。テレビでも報じられているように市内の中心部を直撃しました。私の先祖代々のお寺も所在していますが、幸い無事でした。熊本地震では江戸時代からの本堂や山門など全壊する被害を受けましたが、今回は大丈夫でした。

……っと、NHKのニュースをよく観ると、知人の星原克也君の店が映っていました。星原君は地元・熊日新聞の記者でしたが、彼なりの事情で辞め数年前から熊本産の焼酎を集めた小さな店を始めました。店を開くときに、熊本に数多くの焼酎が存在することを知って驚きました。帰郷するたびに立ち寄っています。結構有名人も、その存在を知り尋ねるほどの名店になりつつありました。店が地下にあるため大被害を受けたようです。さっそく現金書留を持って郵便局に走ったのは言うまでもありません。

彼とはもう10数年前、高校の同級生の東濱弘憲君(故人)がライフワークとして始めた島唄野外イベント『琉球の風』の記録本を作る過程で知り合い、その本に名前が出てくることでピンと来た、中学の同級生・有田正博君が、若い頃一時期東濱君が開いたブティックで働いていたことを知り引き合わせてもらいました。有田君と会うのは中学を卒業(1967年)以来40年ぶりでした。有田君は、今や世界的ブランド「Paul Smith」を日本に初めて持ってきたことで知られ、一時は熊本市内で3つのビルを持つほど大儲けしました。Paul Smithさんが若くて無名の頃、アメリカの見本市で出会ったということです。本年初め、惜しまれながら店を閉じました。私の先祖代々の墓が近くに在ったことから、その後、帰郷するたびに立ち寄って会っていました。

星原君は今、不屈の根性(肥後もっこす)を持って、さっそく再開に向けて立ち上がりました。以下は最近のFBの記述です。

◆     ◆     ◆     ◆     ◆

ホシハラ カツヤ
36分
·
数日に渡りテレビジョンに登場したため、多くの人に69spiritsの濡れ鼠っぷりが知れ渡りました。

https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250813-00000011

常連さん、同級生、先輩後輩、遠方からご来店いただくお客さま方。先ほどは先隣にお住まいの方からもお見舞いいただきました。いただく激励のメールや電話、励みになります。開き直ってお願いした69spirits AIDにもたくさんのご賛同いただき感謝感激です。
ありがとうございます。

復旧に向けて全力を尽くしています(休み休みですが)。盆明けに清掃の見積もり、被害総額の確定などやることは盛りだくさんなのですが、皆さまのお心遣いを糧に、来月中の再開店をめざしています。

今日も夕方から被災焼酎の頒布を行います。まったり一人でうだうだしてますので、冷やかしにどうぞ。エアコンは動いてますが、冷蔵庫や冷凍庫は水損で稼働していません。手ぶらでどうぞ。

すべての作業を終え、無事に69spiritsが再開したときに…
ありがとうございました
と、笑顔で言えるように。

(松岡利康)

梓加依・著『広島の追憶』(鹿砦社 2023年)

戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈3〉ある無名教師の記録

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫、竹内護画)

祈り(龍一郎 揮毫)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。3年前に亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。

護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。

「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」

こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。

1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。

「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」

「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」

「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」

そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。

長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。

父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。

収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。

祖国への逃避行

収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」

「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」

そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」

一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。

「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」

そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。

物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」

「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」

「地獄に仏」ということでしょうか。──

収容所にて

そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。

時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。

引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。

「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」

ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。

「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」

そうして、

「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」

その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、

「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」

正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。

私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。

なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。

(松岡利康)

※本稿は昨年同月同日付けの原稿に一部加筆、修正したものです。

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

リベラシオン社・岩田吾郎さんの死を悼みます!

鹿砦社代表 松岡利康

ブント系を中心とした新左翼学生運動の資料収集のサイトで有名な「リベラシオン社」主宰・岩田吾郎さんが急逝されました。社会運動の研究者にも有名な膨大なサイトです。まだサイトはそのままになっていますので、ご関心のある方は一部でもコピーされたらいいでしょう。趣味の山歩きの途上での事故死ということですが、詳しい情報はまだ入ってきていません。岩田さんがボランティアで手伝っていた『人民新聞』の追悼記事をアップさせていただきましたので、ご一読ください。

『人民新聞』の追悼記事(2025年8月5日付)

岩田さんとは、20年余り前、『田原芳論文集プロレタリア独裁への道』を編纂・出版したいと、先輩Hさん(故人)を介して知り合い手伝いました。完成直前で私が「名誉毀損」容疑で逮捕―勾留され中断しましたが、岩田さんを中心に周囲の方が作業を継続され勾留中に完成しました。手元にある当該書には神戸拘置所の「閲読許可証」が貼られています。保釈後、出版記念会が開催され発言させられた記憶があります。この本はⅡ巻も刊行され、60年安保闘争以来全国に名を馳せた同志社の学生運動を育てた理論家・田原芳さんの貴重な記録となっています。

また、岩田さんは、勾留中の神戸拘置所まで面会に来られ、さらには公判にも毎回傍聴に来られました。その後も細く長い付き合いが続いていました。私が最初に逮捕された72年2・1学費決戦50周年の集いにもお越しいただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌

(松岡利康)

広島県知事・湯崎英彦さんは被爆80年の素晴らしい挨拶を花道にご勇退を!

さとうしゅういち

湯崎英彦広島県知事に対して2025年11月30日限りで勇退するよう勧告する署名運動

広島瀬戸内新聞は2025年7月31日、オンラインで広島県の湯崎英彦知事に対して2025年11月30日限りで勇退するよう勧告する署名運動を開始しました。右のQRコードから署名ができます。

湯崎さんが進退を決めるのが9月という説もあることからとりあえず、8月いっぱいを署名運動期間とします。

また、この署名運動に関連して、8月21日(木)11時から広島県庁県政記者クラブで筆者が記者会見を行います。ご注目ください。

「4期16年お疲れ様でした!広島県知事・湯崎英彦さんは勇退し、後進に道を譲ってください!」の署名運動の趣旨は以下です。 

広島県知事の湯崎英彦さんは2025年11月9日執行の広島県知事選挙に立候補せずに御勇退ください。

◆県外著名人も含め被爆80年の湯崎さんの8・6挨拶絶賛のいまこそご勇退の時!

さて、湯崎さんは2025年8月6日の被爆80年の平和記念式典で、素晴らしい挨拶をされました。

だからこそ、これを花道にご勇退を!と申し上げたいのです。タレントの荻野目洋子さんら、県外の著名人も湯崎さんの挨拶をほめておられます。

荻野目さんは「広島記念式典中継を見て。湯崎県知事の言葉に強い言霊があった。社会学者で、原爆についての調査をされていた父、湯崎稔さんから受け継いだ想いが含まれているのだと察する、重みあるメッセージ」と絶賛しています。

この他、「湯崎英彦広島県知事の内外で高まる「核抑止論」への全面批判のあいさつは、何よりもその内容と、時折参列者に目を上げる語り方も素晴らしかった」(県外の日本共産党支持者)など、湯崎さんを絶賛する声が広がっています。

筆者はだからこそ、湯崎さんには御勇退を!と申し上げたい。これ以上、知事を続投された場合、「本業」の県政で「ボロ」が続出し、せっかくの湯崎さんの平和メッセージの価値も損なってしまう、と危惧します。

◆当初はわくわくさせた湯崎さん

広島県知事の湯崎英彦さんは、2025年11月30日で4期16年の任期満了を迎えます。

2009年11月、湯崎さんが広島県知事に初めて当選した際、『「演説がうまいとか、プレゼンがうまいとかそういうことではない。子育てをしているお母さん、農業のおじいちゃんおばあちゃん、漁師さん……一人一人の広島県民の声を聞くことが出来る、そういう知事が求められている。」という彼の訴えに共感し、当時、中山間地や島しょ部の医療・福祉担当の広島県庁職員でもあった私(呼びかけ人)は彼に投票しました。

就任当初、湯崎さんは部下である私たち広島県庁職員に対し、『現場スタッフを局長が支え局長を知事が支える』とのお言葉を述べられ、私は胸をわくわくさせて期待していました。

当初は、湯崎さん自ら育休を取り、「共育て」へ向け、一石を投じました。私の故郷でもある福山市の鞆の浦埋め立て架橋問題では、市民との対話を通じて積年の課題に解決の道筋をつけた姿に、感銘を受けました。

◆県民・現場無視の「産廃」「病院」対応で失望へ

汚染水流出が繰り返される三原本郷産廃処分場

しかし、私はそれ以降の彼の県政運営には失望しています。

湯崎さんが知事に在任された16年間で広島県は多くの課題に直面しています。問題は、そうした中で、最近の湯崎さんがすっかり県民の声を軽視している点です。

特に三原本郷産廃処分場問題では、汚染水流出が繰り返される中、米農家を含む地元住民の声を無視しながら、問題がある産廃業者との一体化を疑わせるような行動を取っています。地裁判決を控訴し、汚染水被害を訴える住民に対して対抗する姿勢を見せました。これによって、県民と知事の間の信頼関係が大きく損なわれています。

また、県立広島病院問題における湯崎さんのアプローチも批判の的となっています。湯崎さんは同病院の独立行政法人化を進め、JR広島病院や中電病院との統合を進める巨大病院建設を推進し、「トップレベルの医療」や「断らない救急」を実現するなどと、大言壮語されています。しかし、財源確保の課題は解決されていません。周辺住民の反対の声、議会の懸念の声にも耳を傾けていません。

この県病院問題では「県立広島病院の職員の大部分は移転に断固反対しています。しかし関係者が内部から声を上げることは難しく」との公益通報を関係者からいただきました。湯崎さんが当初唱えていた「現場主義」はどこへいったのでしょうか?

県立広島病院

◆教育長問題に公益通報握りつぶし……身内びいきの弊害噴出

湯崎さんが肝いりで2018年に任命した平川理恵前教育長を巡る問題も解決していません。平川さんが進めた高校入試の「自己表現」導入は現場に混乱を招きました。また平川さんの下で起きた官製談合事件は明らかに平川さんなくして起きえない事件にも関わらず、部下の職員だけが刑事責任をかぶり、平川さんはのうのうと、東京に戻って広島での「改革」の成果を豪語されています。こうした中で教職員のモラル低下はとまらず、不祥事が相次いでいます。

西部建設局呉支所での公文書偽造事件では、本庁人事課長が、職員からの公益通報を「該当する事実はない」などと握りつぶしていました。これは公益通報者保護法違反ではないでしょうか?

「これはちょっとまずいのでは?」と声を上げた職員の意見が軽んじられる。そして、知事らが気に入った人物や県外の企業ばかりを重用する。処分すべき事案もうやむやにする。こんな体制は、県政の腐敗を象徴しています。

◆「湯崎五選」なら県政のヘドロが化石に!

湯崎さんの4期16年の長期政権のもとで、広島県政にはかくのごとく、ヘドロが溜まっています。もし、湯崎さんが5期20年在任されれば、ヘドロが今度は化石のようにこびりつき、広島は取り返しのつかないことになるのではないでしょうか?

湯崎さんの長期政権期間中に人口流出が続き、4年連続全国ワーストワンを記録し、本年6月には総人口が270万人を割ってしまいました。硬直した状態の県政をこれ以上続けて大丈夫なのか?

◆初心を忘れた湯崎さん、後進に道を!

広島県の未来を考える上で、初心をお忘れになった湯崎さんは知事職を後進に譲るべきです。広島県は新しいリーダーシップを迎え、県民の声を真正面から受け止め、県民ひとりひとりのための県政を進める必要があります。

湯崎さんには「4期16年間、お疲れさまでした」と申し上げます。その上で、湯崎さんには、新たな風を広島県にもたらすための一歩を踏み出していただきたいと願います。

署名を通じて、以下のことへの広島県民、また広島県を愛するすべての皆様のご賛同をお願いします。

・湯崎英彦さんは2025年11月9日執行予定の広島県知事選挙に立候補せず、御勇退されること。

・湯崎英彦さんをこれまで推薦・支持してこられた県内各政党におかれては、今回の県知事選挙における湯崎さんへの推薦・支持を見送ること。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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