最高裁で「再逆転有罪」の可能性が浮上 ── 米子ラブホテル殺害事件の理不尽

6月22日に公判が行われる最高裁

当欄で過去に取り上げた冤罪事件の1つ、米子市のラブホテル支配人殺害事件について、不穏な情報が伝わってきた。控訴審で逆転無罪判決(第一審は懲役18年の有罪判決)を勝ち取った被告人、石田美実さん(60)の上告審で、最高裁第2小法廷(鬼丸かおる裁判長)が検察側、弁護側双方に弁論をさせる公判を6月22日に開くことを決めたというのだ。

最高裁は通常、書面のみで審理を行うが、(1)控訴審までの結果が死刑の場合と(2)控訴審までの結果を覆す場合には、判決や決定を出す前に公判を開き、検察側、弁護側双方に弁論をさせるのが慣例だ。つまり、石田さんは(2)に該当し、最高裁で「再逆転有罪判決」を受ける可能性が出てきたということだ。

結果はまだわからないが、長く冤罪に苦しめられながら控訴審で逆転無罪判決を勝ち取った石田さんやその家族、弁護人らは今、不安な思いにかられているのは間違いない。この事件を第一審の頃から取材してきた私は、やり切れない思いだ。

◆控訴審では凄まじい努力があってこその逆転無罪判決だったが・・・

この事件について、当欄では2016年12月28日2017年2月17日同4月14日同12月27日で4回に渡り、取り上げてきたので、今回は事件の詳細な説明は省略する。どんな事件かを端的に言えば、予断を排し、丹念に事実関係を検証していけば、まぎれもなく冤罪だと理解できる事件だ。

もっとも、私は一方で、無罪判決を獲得する難易度は高い事件だとも思っていた。予断を排し、丹念に事実関係を検証しなければ、冤罪であることを理解するのが難しい事件でもあるからだ。

その理由は第一に、事件現場に密室性があることだ。2009年9月29日の夜に事件が起きた現場は、米子市郊外のラブホテルの事務所で、ラブホテルと無関係の人間がふらりと被害者の男性支配人を襲うために訪れることはあまり考えられない場所だ。そんな状況の中、このラブホテルの店長だった石田さんは事件が起きた時間帯、その現場に他の従業員らと居合わせてしまったのだ。

名張毒ブドウ酒事件や和歌山カレー事件もそうなのだが、このような現場に密室性があり、「犯人はその場にいた人間の誰か」であることが疑われる事件では、無実の被疑者が身の潔白を証明するのは難しい。そのため、おのずと冤罪判決が生まれやすくなる。

第二に、石田さんには、一見疑わしく見える事実がいくつかあった。たとえば、事件翌日に230枚の1000円札をATMに入金していたり、事件翌日から車で大阪に行くなどして1カ月以上も家をあけ、警察からの再三の事情聴取の呼び出しにも応じなかったりしたことだ。

実際には、230枚の1000円札については、現場のラブホテルの店長だった石田さんがゲーム機の両替のためにストックしておいたものだということは銀行の振込記録などから裏づけられていたし、石田さんは元々長距離トラックの運転手で、過去にも同程度に長く家を空けたことはあった人だった。つまり、長く家をあけたこと自体は、別に石田さんが犯人であることを示す事情ではなかったのだ。

しかし、そういうことは、予断を排し、丹念に事実関係を検証しないと、わからない。「疑わしきは被告人の利益に」という大原則がお題目と化した日本の刑事裁判では、こういう冤罪事件で無罪判決が出ることは極めてマレだ。

それゆえに、石田さんが控訴審で逆転無罪が勝ち取れたことについては、私は内心、一貫して無実を訴え続けた本人や弁護人の凄まじい努力があってこその奇跡的な出来事のように思っていた。それだけに、石田さんが今、最高裁で再び冤罪判決を受ける危険にさらされている状況は理不尽極まりないとも思うのだ。

◆捜査にも問題は多かった

この事件の現場には密室性があると言ったが、実際には、事件発生直後に現場に臨場した警察官たちの捜査が杜撰で、別の真犯人の侵入や逃走の形跡を見逃していた可能性も浮上している。石田さんはこの事件の容疑で逮捕される前、虚偽の申告をしてクレジットカードをつくったという言いがかりのような詐欺容疑で別件逮捕もされている。つまり、捜査段階から色々問題があったこの事件でもあるということだ。石田さんの裁判の結末を見届けたうえ、改めて当欄で報告したい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

日本人の2人に1人がガンになる時代の〈ガンになりにくい食生活〉とは?

◆37兆2000個の細胞=肉体のエコシステム

わたしたちの肉体は37兆2000個の細胞から成っている。すべての細胞は遺伝情報(ゲノム)によって制御され、必要以上に分裂・増殖しないようにできている。

わたしたちがケガをしたときに、皮膚の細胞が増殖して傷口をふさぐ。やがて傷が治れば、皮膚の細胞は増殖を停止する。ところがガン細胞は、わたしたちの身体からの命令を無視して増殖し、大切な臓器などを破壊してしまうのだ。遺伝情報が何らかの原因で傷つき、制御が効かなくなっているからである。

正常な細胞の遺伝子に傷がつくことで、変異細胞が発生する。この変異細胞は1日に3000個も発生するとされている。正常な細胞に決まった異常が起きるようになると、その細胞は増殖をはじめる。やがて第二の異常が起きると、増殖のスピードが上がるといわれている。

◆わたしたちは生まれながらにしてガン細胞を持っている

あまり知られていないことだが、じつはわたしたちは母体のなかで生命を授かる段階で、ガン細胞を生まれながらにして持っていた。胎児が9ヶ月で3000グラムほどに育つのは、ガン遺伝子の旺盛な力によるものなのだ。誕生とともにガンの遺伝子は読み込まれないことから、わたしたちの誕生のメカニズムに関係していると考えられている。かようにガン細胞は誕生の謎とともにあるわけだが、誕生とともに死亡にも関係しているのだとしたら、何とも不思議な気がする。

いま日本人の2人に1人が、ガンになっている。そして3人に1人がガンで亡くなっている(死因全体の3割)。国民病ともいえるガンをどう克服するのか、じつは医療技術と薬品開発の加速度的な進化で、ガンは完全に克服できることが明らかになってきた。

たとえばmycと呼ばれるガン遺伝子は、タンパク質のはたらきによって際限のない増殖を引き起こすとされている。そうであるなら、タンパク質のはたらきを抑え込む薬を見つければよいのだ。日本人のなかで最も多いガンである肺ガンについても、オプジーボ(ニボルマブ)という新しいタイプの薬が承認されたのは、2015年2月のことである。このオプジーボは皮膚ガンの新薬として世界に先駆けて承認されたものだが、肺ガンにも追加承認された。

薬の研究だけではない。光免疫療法という方法もこころみられている。アメリカの国立ガン研究所の小林久隆氏を中心にした研究チームは、IR700という色素を患部の抗体に結合させ、赤外線を照射してガン細胞を破壊することに成功している。抗体(キラーT細胞)がガン細胞を敵と認識して、ガン細胞の転移や浸潤まで破壊することが想定されているという。この研究はまもなく、全世界で臨床試験の段階に入る。

あるいは、ゲノム編集(修復)を特定のウイルスを使って治療する、いわゆる遺伝子治療も有望視されている。ウイルスがガン細胞の棲む臓器に入りこみ、細胞の遺伝子を元どおりに書き換えるのだ。こちらも遺伝子治療の研究者によれば、あと数年でガンは怖い病気ではなくなると言う。

ガン研究は日進月歩であり、むしろ臨床実験の煩雑さをどう解決するのか。ガン保険などの先端医療適用をどうするのか、薬学・医療技術よりも政策の遅れが危惧されているところだ。わたしが編集長を務めていた出版社の社長は、胃と肝臓の末期ガンで亡くなった。そのさい、ガン細胞にピンポイントで効く新薬(先端医療)を頼ろうとしたが、あまりにも高額のために諦めたという。ガンは生活習慣病である。日々の生活習慣、とくに食生活の影響がもっとも大きいという。

◆ガンになりにくい食生活とは何なのか?

それではガンになりにくい食生活とは何なのか? 肉類はひかえめにして、魚を食べるように。黄緑色野菜を摂りなさい。納豆のナットキナーゼには、腐敗菌を排除し血液サラサラ効果がある。トマトのリコピンはDNAの損傷を修復するので、ガン抑制効果がある、などなど。健康食材の情報は多い。

しかしここに挙げた健康食品である納豆・トマトに、じつは悪性新生物の発生と、つよい相関関係があるのだ。国民の食生活を調査した『国民健康栄養調査』と国民の死因を調べた『都道府県死亡調査』を12ブロックに分けて、その相関係数から納豆とトマトにガンとの相関性が高い結果が得られた。ただし、相関係数は直接のガン因子ではないので、さまざまな研究例からその根拠を探してみた。

その成果をこのたび、鹿砦社LIBRARYから刊行する拙著『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(5月11日発売)に記した。健康食品のなかにひそむ危険な発ガン性、ぎゃくに赤身肉にもガンの抑制効果があること。さらには日本酒のアミノ酸に、ガンを抑制する物質がふくまれていること。ビールにもガン抑制効果があることを発見できた。食生活を見直すとともに、従来の常識をくつがえす知見にご注目いただきたい。

▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。著書に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など多数。医療関係の仕事に『新ガン治療のウソと10 年寿命を長くする本当のガン治療』(双葉社)、『日本語で受診できる海外のお医者さん』(保健同人社)、『ホントに効くのか!? アガリクス』(鹿砦社)、など。

5月11日発売 横山茂彦『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)
『紙の爆弾』6月号 安倍晋三“6月解散”の目論見/「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

戦後から未来まで考えさせられた『サムライと愚か者 オリンパス事件の全貌』

© チームオクヤマ/太秦

以下は、ドキュメンタリー映画『サムライと愚か者 オリンパス事件の全貌』を観た直後に書き留めたメモである。

● わたしは運動を始めてから、「戦後からやり直したい、否、明治からやり直したい。でも、戦後からすらやり直せない」と幾度も考えてきた。

● 最近の政治をみても経済をみても、不正が横行していることをたどっていくと、そこには戦争責任をとっていない敗戦国、戦勝国と互いに利用し合う社会の当然の帰結がみてとれるように思う。

● 長らく、「善悪なんてくそ食らえ」「都合によって揺れ、利用するためのものが善悪・倫理だ」と考えてきた。しかしわたしたちは、責任をとらずにいつづけるために、善悪・倫理を捨ててしまったのではないかと本作を観て改めて感じた。

● 日本で暮らす人は元社長・菊川氏を否定しない。それでよいのか、と。秘密を隠すことにより、人の素朴さだったり日常の積み重ねのなかに小さな喜びをみいだすような(というのは偏見かもしれないが)人生を阻害する。そこには資本主義が内包する問題もあり、この社会の問題もあるだろう。外からもたされる権力や「責任」もあるかもしれない。だが、人として生きるとき。

●「サムライ」とは、信じる方へと向かって抵抗することができる人のことなのだろう。いっぽう「愚か者」とは、自らの選択や行動の目的・結果すら考えない人のことではないだろうか。

咄嗟にそう書き留めておきたいと思わせた『サムライと愚か者』とは、どのような作品だったかを、ご紹介する。

◆ オリンパスの損失隠蔽

光学機器・電子機器メーカー「オリンパス」は、1919年に高千穂製作所として創業。49年にオリンパス光学工業株式会社に、2003年にオリンパス株式会社へと社名を変更した。資本金1,245億円(2017年3月31日現在)、連結(グループ全体の)売上高7,481億円(2017年3月期)、連結従業員数 34,687人(2017年3月31日現在)。ただし、2007年に上梓の行動を内部通報した社員に対して報復的な内部転換をおこない(後に和解)、2011年には月刊誌『FACTA』のスクープとイギリス人社長マイケル・ウッドフォード氏の不当解雇をきっかけに、オリンパスが巨額の損失を隠蔽し、企業買収において不透明な取引と会計処理を行なっていたことが発覚した。

本作では、この2011年に報じられた損失計上先送りとその隠蔽の問題を取り上げている。山本兵衛監督は、ウッドフォード氏、ジャーナリストの山口義正氏、『FACTA』編集長の阿部重夫氏、イギリスの日刊経済紙『フィナンシャル・タイムズ』記者のジョナサン・ソーブル氏、ウッドフォード氏を支援する和空 ミラー氏に取材。不正の実態を白日の下に晒す。『サムライと愚か者』とは、ウッドフォード氏の言葉からつけられたタイトルだ。

そして冒頭のメモに戻らせていただく。戦後からすらやり直せないわたしたちが、「民主主義の責任」を果たし、権力を監視して「素朴な人生」を害するものの「責任」を追及する。自らの選択や行動の目的・結果を考えつづけながら、信じる方へと向かい、「力」に抵抗する。そのためにまずは、真実を知ることだ。そして、それを知ったらできる行動があるはずだ。ならばつまり、本作を観て、隣の人にその話をする。そこから始めることだってできるわけだ。できれば今よりも勇気のような何かを発揮できるとよいのかもしれない。ウッドフォード氏のように。当事者だからこそかもしれないが。怒りを手放す必要はないのだ。

© チームオクヤマ/太秦
 
5月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開。作品のキャッチコピー「隠蔽、欺瞞、嘘、忖度…そして真実は闇に葬られた」にちなみ、“黒忖度まんじゅう”を初日プレゼントとのこと(限定100個、先着順)

◆ 組織とは、どのような存在か

いっぽう山本監督は、「事実を犠牲にしてまでも忠実に会社に尽くした役員達。違法であると薄々知りながら会社のために不正会計処理を実行した社員達。そして三代に渡って秘密を抱え続けながら、なんとか解消しようとあらゆる手を尽くした元社長達。彼らが会社を護るために忠実に尽くした<サムライ>であることには間違いなかった。上場企業であるにも関わらず君主制度が敷かれている組織。その中で育まれた盲目的な忠誠心。それは次第に、彼らの倫理観、モラル、良心を蝕んでいった。しかし組織に属する限り、彼らは護られ続けた。だからこそ20年以上に渡り不正を隠蔽し続けることが可能だった」とコメントしている。

だからわたしは組織とは「そりが合わず」、基本的に嫌いだと公言している。組織を守ることを優先することは、常に個人を犠牲にする。それは社会運動にもいえる。しかし、団結・連帯によってなしうることがあることも知っている。だが、常に権力に楯突けない。ちっぽけなもの含め利権と感じるものを得た人のほとんどは、それを手放したがらないからだ。自戒もこめるけれど。そんなとき、組織とそりが合わない、常に権力を意識するというのは、苦労することも多いが、よいことだと思いたい。組織嫌いが集まり、緩やかにつながって、周囲を変えていく。そんな可能性を今後も「日常から」追求したいものである。


◎[参考動画]ドキュメンタリー映画『サムライと愚か者 オリンパス事件の全貌』予告編

『サムライと愚か者 オリンパス事件の全貌』
5月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
*作品のキャッチコピー「隠蔽、欺瞞、嘘、忖度…そして真実は闇に葬られた」にちなみ、“黒忖度まんじゅう”を初日プレゼントとのこと(限定100個、先着順)。

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文/写真]
1972年生まれ。フリーライター、エディター。労働運動等アクティビスト。『紙の爆弾』『NO NUKES voice』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『neoneo』『情況』『救援』『現代の理論』『教育と文化』ほかに寄稿・執筆。

7日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』6月号【特集】「安倍退陣」と「その後」/安倍晋三“6月解散”の目論見/政権交代を目指す「市民革命」への基本戦術/創価学会・公明党がにらむ“安倍後”/ビートたけし独立騒動 すり替えられた“本筋”

《建築漂流10》地下15メートルに差し込む自然光 安藤忠雄のコレッツィオーネ

《取材建築漂流09》の取材で国際子ども図書館を訪れ、なんだかんだいってカッコいいよなあ、安藤忠雄、とつぶやいてしまった。“いまさら感”を邪念として追い払い、興味のままに安藤忠雄を追いかけてみようと思う。

今回紹介する『コレッツィオーネ(Collezione)』は商業施設として1989年に竣工した建物で、設計は安藤忠雄建築研究所だ。表参道を上り、青山通りを渡ってさらにそのままゆっくり10分ほど歩くと右手に現れる。最寄りの表参道駅からもやや離れており、青山通り付近に比べるとアパレルブランドの店舗も少ないようだ。ほんの少し生活を感じさせる、そんな南青山にこの建物は建っている。

ついでに紹介するが、コレッツィオーネの少し手前(原宿側)に建つレンガタイル仕上げの建物も面白い。1975年に完成したこの『フロム・ファーストビル』は、竣工の翌年に日本建築学会賞作品賞を受賞するなどして名を広めた。南青山界隈にインテリア関係のショップが増えるキッカケをつくったともいわれている象徴的な建築なので、コレッツィオーネを訪れる際に立ち寄ってみるといいだろう。

さて、安藤忠雄らしいモダニズム(浅田彰によればポストモダニズム)を感じさせるコレッツィオーネは、地上部分に加え地下3階の広がりを持ち、要するにボリュームの半分近くが地下に埋まっている。

安藤建築には自然とともにあろうという思想を表しているものが多い(多くはコンクリートを用いたモダンなルックスであり、そのため外から見ているだけでは気が付きづらいのだが)。あの有名な「住吉の長屋」では、中央に設けた中庭のために、雨の日に手洗いに行こうとすれば傘をささなければならない。また、安藤忠雄建築研究所のオフィスにはエアコンが設置されておらず、しかしそれでも不快にならぬよう空気と光の流れを織り込んで設計されている。

これは一例であり、こうした“自然を無視しない設計”は、あるいは安藤忠雄作品の全てにおいてなされているのではないだろうか。コレッツィオーネも例外ではなく、地表から15メートル以上離れた地下にまで自然光が入り込んでくるし、また緩やかに外気と接することができるように設計されているため密室的な息苦しさを感じない。

冬。やや風のある晴れた日。最下階の空気にはほんの少しの湿り気。雪でつくった“かまくら”に入ると感じる、あの唐突な静けさ。地上までつづく背の高いコンクリート壁を見上げると、半分影になった植木の緑が光をさえぎる。またいで届く光は薄くやわらかい。無風だが確かに外と繋がっている、そんな落ち着いた感覚が深呼吸を呼び込んだ。

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
Facebook : https://m.facebook.com/omiyakohei
twitter : https://twitter.com/OMIYA_KOHEI
Instagram : http://instagram.com/omiya_kohei

〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか『NO NUKES voice』15号

私の内なるタイとムエタイ〈28〉タイで三日坊主Part.20 自分以外が見えてきた

デーンの頭を剃るラス、眺めるトゥム。剃髪は互いに剃り合うコミュニケーションの場でもあります

寺に戻ってまた続く修行の日々。と言っても修行とは程遠い、単なるノラリクラリと送るお坊さん生活でありました。

◆托鉢も楽しい!?

今日も藤川さんの後について托鉢が始まる。1件目の信者さんは初めて出会う17歳ぐらいで凄く可愛い女の子。例えればアグネス・ラムのような。向かい合うともう手の届きそうな近い距離。比丘の身分でウキウキ気分になってしまう。なんと不謹慎な。もちろん顔には出さない。日々出会う信者さんの顔触れも覚え、こんな邪念が頭を過ぎるほど余裕が出て来た私。

坊主仲間だったインドくん(私が勝手に付けた名前、インド人みたいな顔)がバイクでスレ違う。「こいつも還俗したんだ」と気付く。しばらくしてそのインドくんが先の道で待ち構えていて寄進する側となっていました。ニコッと笑ってやると、「ハルキはいつ還俗するの?」と言われ、「とりあえず年明けまで!」と言うとニコッとワイ(合掌)を返してくれました。

◆衝撃の遺体

今日も暇な日で、この日は私の得度式前日に剃髪してくれたアムヌアイさんに付いてちょっと賢い上品グループに加わってみました。彼らもやること無い日は、溜まり場となる本堂脇のベンチでコップくんらも集まり井戸端会議。そこにはガキっぽい話は無く、どことなく大人の会話を感じる比丘達。

やがてアムヌアイさんは寺に入って来た霊柩車を葬儀場脇の霊安室へ誘導。付いて行くと、遺体置き場の冷凍室から一体運ばれて行きました。初めて見た遺体。紫色のコチンコチンに固まったマネキン人形のようでした。こんな姿になったら人も牛も豚も大差は無く、単なる肉塊。ここに至るまでの、この人の人生はどんなだったろうとフッと考えてしまう。この遺体は他の寺で火葬されるようでした。

少々自分で剃ってみるルースくん

◆満月の前日

明日は満月の日で、その前日は剃髪する日と決められています。決まった儀式として、全員読経して静粛にやるのかと思っていたら、夕方4時半過ぎから賑やかに、笑いもこぼれながら水場のあるところなら、あっちこっちで始まりました。私は得度式の前の日に剃髪して貰ってから半月あまり経った頃。他のみんなはほぼ一ヶ月である。私は撮影目的を持ってクティ下で、こんな時だけあつかましくも「先にやってくれ」と名乗り出ました。普段、言葉や態度が悪く、性格悪いなあと思っていたヒベという奴が意外と快くやってくれるも、私の頭はデコボコでやり難いのか、すぐにパンサー3年目のベテラン、ラスくんに代わり最後までやってくれました。やっぱり上手い奴の剃り味は気持ちいいモンである。私はあと何回剃髪するのだろうか。

私は終わるとサッと水浴びしてカメラを持ち、比丘は走ってはいけないのに突っ走り、葬儀場の方でも和気藹々と剃髪が進む中、ブンくんやコップくんらがやっていたので撮ろうとすると和尚さんが「みっともないところを撮るな!」と叱られてしまいました。

「何がみっともないのか」と、そこは日本人感覚で文句言いたくもなるも、黄衣を纏っていない姿は“みっともない”と言う解釈もあるでしょう。和尚さんの言うことでもあるし、そこは大人しく引き下がっておいて、クティ下に戻って他の者をしっかり撮り終えました。これこそ旅の思い出。今撮っておかねば後で絶対後悔する。ブンくんらは撮れなかったが次の機会を狙おう。それにしても誰も嫌がらなかったではないか。比丘として間違っているかもしれないが、時折カメラマン意識に戻ってしまいます。

今日の“調髪”はほぼタダ。カミソリ代のみ。もちろん皆、エイズ感染防止策で使い回しはしません。

他の比丘にいたずらされたパノムの頭を剃るラス。和尚さん居ないところで、こんな姿にすることもあり
新しい仏塔完成行事で参列した後、カメラを向けるとキチンと立つケーオさん(左)とアムヌアイさん(右)。皆の兄貴的存在の二人

◆いつか我が身も、最後の送り出し

この翌日の午前中にまた葬儀の準備に行かされると、葬儀する遺体が股間にガーゼを当てた程度の裸で置かれていました。本物の遺体、40歳ぐらいの刺青しているオッサン。ピストルで撃たれたようでした。親族が入れ替わり見に来る。小さい5歳ぐらいの女の子が笑いながら遺体を覗いたり、母親らしき人の間をスキップ気味に行ったり来たり、それがやがて事態を把握したのか本気で泣き出してしまいました。ピストルで撃たれた胸と貫通した背中の傷を縫っている検視官? 側頭部にも傷がありました。寝ているような、すぐ起き上がりそうな遺体。私はそんな遺体をしばらく眺めていました。ほんの2~3日前まで普通の生活をしていただろうに、ほんの数秒の出来事でこんな姿になってしまうです。

以前、藤川さんから頂いた手紙に、「葬式では歳取った自然死が少なく、事故で亡くなられた方が多いのです。交通事故、水の事故、殺人など。ピストルで撃たれた遺体もあり、身元不明で葬式ができない遺体もあります。お釈迦様の無常の教えが実感として分かってきます。本当に真実は今この瞬間だけ、それ故今この一瞬一瞬を大事に生きていくしか確かなことはないのです。」

そんな遺体が置かれた葬儀場に親族の方がリポビタンDを持って来て比丘に配ってくれました。見てるだけでくれるなんて恐縮でした。そんな場でちょっと麻痺していた認識。“くれる”のではなく、これもタンブンです。

葬儀後、藤川さんが、「今日の葬儀はいつもとちょっと違った殺伐とした雰囲気やったねえ、何で死んだか聞いたか?、警察に賭博の現場見つかって逃げて、追われて胸撃たれてもまだ意識あって、自分のピストルで頭撃って自決したんや!」と言う。タイでは法規制はあれど、個人でピストルを持てる国なのです。噂だけでなく、実際に発砲事件が多いことでそれが証明されている現実でした。

葬儀後、親族がお布施を配りにやって来ました。私は内心、「毎度あり~」といった気分でしたが、すぐに藤川さんの言葉を思い出しました。

「坊主がお金を受け取る時は、あっさりと当たり前のように受け取るもんや。坊主が葬式に行って『毎度ありがとうございます。また宜しくお願いします』など言って、お布施を受け取ってみい、殺されるぞ(例えの表現)! お布施とは何となく差し出し、何となく受け取るもんや。間違っても『ありがとう』なんて言うなよ。知らない顔して当たり前のように受け取れよ、その方が有難味があるんやから!」
お布施といった徳を積む行為に応えることはそういうものなのです。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)

◆諸行無常を実感

これも過去、藤川さんに説かれた言葉で、
「明日は必ずやってくるモンか?各々に“必ずやって来る”とは言えんのとちゃうか?平和な日常でも、明日もこの命があるとは限らへんのやからな!」

そんな話を聞きながら、その時は漠然とその意味を理解していました。

先日の冷凍された遺体といい、今日の葬儀の遺体といい、死因は何にせよ、日々人は死んでいくもので、来世へ最後の送り出しをするのがお寺の役目。一方で、日々新しい命が産まれている。

順々に我が身も送られる日が近づいている。諸行無常の教えが実感として分かってくるのがお寺に暮らす我々比丘なのでした。

これまでノラリクラリ無駄な日々を送ってきたことは勿体無いこと。今やるべきことを先延ばしせず今やらねば。日本に帰ったら無駄の無い日々を送れるだろうか。三日坊主の私に──。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)。当然、ベテラン比丘が前に並びます。要請される人数によっては他の寺から呼ばれたり、我々も向かったりします

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

TBS記者、財務次官、TOKIO …… 性犯罪に関する有罪バイアスの凄まじさ

犯罪の疑惑をマスコミに報じられた人物について、世間の多くの人がクロと決めつけて批判するのは毎度のことだ。それにしても、性犯罪の疑惑の場合、世間の人々が抱く有罪バイアスは他の犯罪よりはるかに凄まじい印象だ。

昨年来、各界の著名な男性たちが性犯罪や性的な不祥事の疑惑を報じられ、社会的に抹殺されていく光景を見ながら、私はそう思わざるを得なかった。具体的には、元TBS記者・山口敬之氏のレイプ疑惑、財務省事務次官・福田淳一氏のセクハラ疑惑、タレント・山口達也氏の強制わいせつ疑惑に関する世間の反応のことを言っている。順に振り返ってみよう。

◆取材の基本を怠った人たちにクロと決めつけられた山口敬之氏

伊藤詩織氏の著書『Black Box』

まず、元TBS記者・山口敬之氏のケース。昨年5月、週刊新潮でジャーナリストの伊藤詩織氏へのレイプ疑惑を報じられ、さらに伊藤氏が実名・顔出しで山口敬之氏からレイプされたと告発したことなどから、山口敬之氏は「レイプ魔」と決めつけた人々からの大バッシングにさらされた。

しかし、当欄の3月1日付け記事で報告した通り、伊藤氏が山口敬之氏を相手取って東京地裁に起こした民事訴訟について、その記録を「取材目的」で閲覧していた者は今年1月の段階でわずか3人だった。山口敬之氏本人はレイプ疑惑を否定しており、起訴もされていないため、当事者双方の主張内容や事実関係を確認するために民事訴訟の記録を閲覧するというのは取材の基本だが、それを行った取材者が3人しかいなかったということだ。

それにも関わらず、山口敬之氏をクロと決めつけた報道が大量になされ、報道を鵜呑みにした人たちが山口敬之氏をクロと決めつけて批判しているわけである。これは恐ろしいことだと思う。

◆福田氏の発言が事実でもセクハラとは断定できない

続いて、財務省事務次官の福田淳一氏のケース。福田氏がテレビ朝日の女性記者に「胸触っていい?」とか「手縛っていい?」などのセクハラ発言をした疑惑については、そのような発言があったことまでは間違いないようだ。最初に報じた週刊新潮が音声データをインターネットで公開しているからだ。そのため、疑惑を否定している福田氏は、往生際悪く言い逃れをしているだけのように見られ、いっそう厳しい批判にさらされている。

しかし実際問題、男性が女性に対して性的発言をすること自体は、セクハラにはあたらない。それがどれほど卑猥な内容の発言だったとしても、男性と女性の関係性やその発言がなされた経緯によっては必ずしも問題があるとは言い切れないからだ。

つまり、福田氏のセクハラ発言疑惑をクロと断定するには、本来、被害者とされる女性記者との関係性や、問題とされる発言に至った経緯などが十分に検証されなければいけない。しかし、今のところ、信頼に足る検証結果が示されたとは言い難い。

◎[参考動画]“胸触っていい?”「財務省トップ」のセクハラ音声(デイリー新潮 2018年4月12日公開)

◆電話番号を聞いたのは山口達也氏?

そして最後に、女子高生に無理矢理キスをした疑惑が持ち上がった山口達也氏のケース。山口達也氏の場合、疑われているようなことをしたこと自体は本人も認めている点が前2者と異なる。しかし、根拠のない憶測により実際より悪質な事案であるように言われている可能性がないわけでもない。

私がそれを感じたのは、タレント・松本人志氏がテレビで次のような発言をしたという報道を見た時だった。

「高校生に電話番号、聞かないって。連絡先を聞いたときは少なくとも酔ってなかったと思うんでね、だからやっぱり、おかしいんですよ」(MusicVoice4月29日配信記事より)

山口達也氏は事件を起こした時に酔っており、電話で被害者とされる女子高生を呼び出したとされるが、電話番号を聞いたのが山口達也氏だったと松本氏はなぜ、わかったのだろうか。おそらく松本氏は、女子高生のほうが山口達也氏に電話番号を聞いていた可能性を考えていないのだ。


◎[参考動画]【TOKIO 山口達也】緊急記者会見(パパラッチ2018年4月26日公開)

◆「被害者」の主張に異論を述べることは許さないという雰囲気

とまあ、このように性犯罪や性的な不祥事を起こした人物については、世間の人々が抱く有罪バイアスは強力だが、もう1つ怖いことがある。それは、性犯罪や性的な不祥事に関しては、「被害」を訴える女性の主張に異論を述べることを許さないような雰囲気が出来上がりやすいことだ。

実際、この記事を読み、私が伊藤詩織氏やテレビ朝日の女性記者、女子高生らを貶めたように受け取り、不快感を覚えた人もいるのではないだろうか。

もしも不快感を覚えた人がいるとすれば、執筆者として申し訳なく思う。しかし、私は同様のことを今後も言い続けるだろう。なぜなら、「被害」を訴える人の言うことを鵜呑みにしたり、事実関係の検証をおざなりにすることは、冤罪防止の観点から絶対にやってはいけないことだからだ。

この記事を読んだ人の全員がそのことを理解してくれるとは思わないが、少しでも多くの人が理解してくれたらありがたく思う。

▼片岡健(かたおか・けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

政権主導の改憲議論は憲法違反 いまこそ「護憲ファンダメンタリズム」を!

朝鮮半島の和平に向けた動きに、まったく関与できなかった安倍首相は、4月29日文在寅韓国大統領と電話会談し、「日本が朝鮮と交渉する際には助けをお願いするかもしれない」と情けない陳情をした。

なに言ってるんだ! 近隣の朝鮮と交渉するのに、どうして韓国助けが要るのだ! 小泉純一郎は自分で訪朝したじゃないか。安倍の無能ぶりは、情けなく、恥ずかしい。海外の報道でも、当然だが大いに馬鹿にされ「蚊帳の外」と呆れられている。虐めるときだけは「制裁!制裁!」と、過剰に騒ぎ立てるくせに、韓国、米国が直接対話に舵を切ると、あたふたするばかり。日頃軽視している韓国に「助けて」と泣きつく安倍のザマは、右派の人びとにとっても腹立たしい姿ではないのか。

◆国民の権利の制限と国家支配の強化を目指す憲法改正は「時代の要請」なのか?

安倍政権の本質は第二次安倍政権発足時に、安倍が明言した通り「改憲」を目指すことを、重要な到達目標に置く政権であり、現実に「解釈改憲」を強行した政権である。安倍の志向する「改憲」は、日本国憲法を大日本帝国憲法に近い形へ作り変えようとの意思に依拠しており(自民党が示した「改憲案」参照)、単純化すれば、国民の権利の制限と国家支配の強化を目指している。「時代の要請にこたえる憲法」などと安倍は繰り返したが、果たしてそれは事実であろうか。

時代は、世界は日本の憲法にどのような役割を期待しているのだろうか。ここで注意しなければならないのは「時代」とは曖昧模糊とした雰囲気や気分ではなく、「現在」の主権者たる日本国国民であることと、「世界」とは近くは東アジアではあるが、中近東、アフリカ、欧州などを含めた全世界であることだ。

◆政府・マスコミあげての「北朝鮮・中国の脅威」という軍拡改憲プロパガンダ

日本国民は今年のはじめまで、「朝鮮」に脅され続けていたのではなかったか? 全国各地で行われる「ミサイル飛来に対する避難訓練」、「Jアラート」の過剰な宣伝、明日にでも朝鮮からミサイルが飛来するかのような政府・マスコミあげてのプロパガンダに、大方の世論も「北朝鮮の脅威」論に傾きつつあった。しかし、金正恩が板門店を一人きりで歩いてくる姿、そして国境を越えて文大統領と握手をし、1日をかけて会談し「板門店宣言」が合意された事実を、われわれは目にした。

これまで「北朝鮮の脅威」を主たる根拠として展開されてきた、日本の軍備増強路線は根拠を失うことになる。「いやむしろ軍事大国中国の方が危険だ」と、またしても標的を変えて軍備増強主義者は論難するかもしれないが、日中は「戦略的互恵関係」を2006年10月、ほかでもない、第一次安倍政権の初外遊で中国を訪問した安倍晋首相自身と中国の胡錦濤国家主席の間で確認しあっている。この文書は現在も死文化してはいない。

憲法前文は「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とある。つまり現憲法が十全にその精神と法体系を確立し、行政が運営されても、「国民が福利を享受できない」状態に陥った場合に「改憲」は国民から、発議されるべきものである。あくまでも国民が憲法の不十分さを認識したときに「改憲」は論じられるものであるのだ。

◆「改憲」策動に総理大臣が血道をあげる行為自体が憲法99条違反である

この点は長年勘違いされてきている。現役の総理大臣や国務大臣、そしてすべての公務員は憲法を尊重し、擁護しなければならない「義務」を課されている。日本国憲法第99条で 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と明確に述べられている。

つまり、憲法尊重・擁護義務を課されながら「改憲」策動に総理大臣が血道をあげる行為自体が「憲法違反」なのであり、今日の日本は憲法が十全に機能している社会とは到底言い難いことを注視すべきだろう。

だから「改憲」を論ずるのであれば、まず現日本国憲法を正当かつ、真っ当に体現した社会を実現し、そのうえで「国民が福利を享受できるか」否かを議論の中心に据えねばならない。その前提に立てば、現在の「改憲」論議はいずれもその最低条件を満たすものではない。首相が提唱する「改憲」議論それ自体がとんでもない違憲であり、完全に無効である。

◆「これ以上悪い憲法を作らせない」意思を明確にするしか現実的な選択肢はない

さて、憲法記念日のきょう、まずはほとんどその問題点が論じられることはないけれども、憲法99条に照らせば、現在の政権が画策する改憲議論が基本的に「憲法違反」であることを再度確認し、憲法についての私見を開示したい。

私は現憲法が到達しうる最高形態であるとは考えない。「平和主義」、「国民主権」、「基本的人権の尊重」は妥当な理念であるが、憲法前文はその後に連なる1条から8条(天皇についての記述)と極めて大きな齟齬を示している。日本国憲法の最大の問題点は、「基本的人権の尊重」を謳いながら、1条で国民の権利を定義することなく、天皇を持ってきてしまっていることだ。

さらに、細かい問題が他にもないわけではないが、「憲法違反」ながら進められている、現在の「改憲」論議を目にすると、私の抱く現憲法の問題を解決する方向への「改憲」は、現実味がまったくないと言わざるをえない。逆に自民党に限らず、野党各党も「改憲」を容認し、党是として「護憲」を掲げる政党は日本共産党しかない(党の政策とは異なり個人で強く護憲を指向する議員が野党にはいるが)。かような状況の中では「これ以上悪い憲法を作らせない」意思を明確にするしか現実的な選択肢がない。

このことが、日本政治の今日的最大の困難と不幸である。半数以上の国民は「改憲」の必要性など感じていない。しかし、その意思を投票行動で表そうとすると、政党では、「日本共産党」しか選択肢がないのだ。「護憲」だけれども共産党に好感が持てない人が投票すべき政党が、国政レベルでは存在しない。この異常事態にこそ憲法をめぐる問題の深刻さがある。

◆護憲派リベラルかのように振る舞う「隠れ改憲派」の危険性

また、一見「護憲」と思われるような名称の団体や個人が、じつは「隠れ改憲派」であったりするから、油断がならない。以前本コラムでご紹介したが、「マガジン9」というネット上のサイトは「護憲」ではない。ソフトな護憲派のような立ち振る舞いをしていて、その実「改憲派」が跳梁跋扈するのが2018年の日本だ。山口二郎、高橋源一郎などは同様に「護憲」と勘違いされるかもしれないが、その発言を詳細に分析すると「改憲派」であることを見て取ることができる。池上彰、佐藤優も同様だ。

政界だけでなく、言論の世界でも「護憲」を明確に主張する人は減少傾向にある。そして一見「リベラル」、一見「護憲」に見せかけて息巻く人の多くが「隠れ改憲派」である事実。この危険性は再度強く指摘しておきたい。

◆あらゆる改憲議論を無視すること

では個人レベルでどのような対抗策が考えられるか。前述の通り現在交わされている「改憲」論議は、その前提からして、無効なものであるのだからか、相手のリングに乗らないこと。すなわち「あらゆる改憲議論を無視」することだろう。政党、市民団体を問わず、明確に「護憲」を掲げる集団以外との憲法論議は、前提からして底が抜けているのだから、一切応じないことである。いま政治・言論界に求められているのは「平和主義」、「国民主権」、「基本的人権の尊重」を堅持する『護憲原理主義(護憲ファンダメンタリズム)』と言ってよいだろう。

現政権に領導されるすべての「改憲論議」は憲法違反であり、私は『護憲原理主義』を主張する。

◎[参考資料]日本国憲法全文(1947年5月3日施行)(国立公文書館デジタルアーカイブより)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
私たちはどう生きるか『NO NUKES voice』15号

2004年の広島高2刺殺事件容疑者逮捕 やはり警察は県外の殺人者に弱いのか?

 
2018年4月13日付時事通信より

2004年10月に広島県廿日市市(はつかいちし)で発生し、長く未解決の状態が続いていた高2女子刺殺事件の容疑者が4月13日、14年ぶりに逮捕された。容疑者は、隣県の山口県宇部市で両親と暮らしていた35歳の男で、被害者とは一面識もなく、過去に1度も捜査線上に浮かんでこなかったという。

そんな男が逮捕されたきっかけは、別件の暴行事件を起こしたことだったとされる。逮捕され、指紋やDNA型が調べられたところ、広島の高2女子殺害事件の現場に残された犯人の指紋やDNA型と一致したという。

科学捜査が進んだからこその逮捕劇と言えるが、私はこのニュースを聞き、複雑な思いにとらわれていた。以前から薄々感じていた「警察は県外からやってくる殺人者に弱いのではないか」という疑念がやはり間違っていないように思えたからである。

◆県外の人間が犯人でも何らおかしくなかった今市事件

容疑者が勾留されている廿日市署

報道を見る限り、今回の容疑者逮捕は間違いなく「たまたま」だ。容疑者の男は、職場の同僚とのいさかいで尻を蹴飛ばし、暴行の容疑で逮捕されたそうだが、そのような事件を起こさなければ、おそらく永遠に逮捕されなかったろう。何も事件を起こさなければ、指紋もDNA型も警察に調べられることなかっただろうからだ。

実を言うと、私は冤罪事件の取材をしていて、事件の真相はこれと同じようなパターンではないかと思うことが少なくない。というのも、真犯人は県外の人間であったとしても何らおかしくないのに、警察が頭から県内の人間を犯人だと決めつけ、そのために生まれたように思える冤罪はわりとよくあるのである。

たとえば、無実を訴える勝又拓哉被告(35。第一審は無期懲役)の控訴審が東京高裁で進行中の今市事件がそうだ。2005年に栃木県今市市(現在の日光市)で市立大沢小学校の小1女児が下校中に失踪し、茨城県の山中で他殺体となって見つかったこの事件。警察の捜査は、犯人は学校のある地域に土地勘のある人物だということを本線に進められたと言われる。実際、2014年に検挙された勝又被告は子供の頃、わずかな期間だが、被害者と同じ大沢小学校に通ったことがある人物だった。

しかし、私は現地も取材したのだが、大沢小学校は高速道路のインターチェンジのすぐ近くにあり、県外から土地勘のない人間がふらりと女の子をさらいに来ても、何らおかしくないように思えた。この事件については、私は様々な事情から冤罪だと思っているが、犯人が土地勘のある人物だという警察の見立てが冤罪を招いた元凶であるように思えてならないのだ。

◆飯塚事件でも「犯人は県外の人間」の可能性はなかったか?

2008年に処刑された久間三千年元死刑囚(享年70)について、冤罪の疑いが根強く指摘されている1992年の飯塚事件もまたしかりだ。殺害された小1女児2人が学校の近くで失踪し、遠く離れた峠道沿いの山林で遺体となって見つかったこの事件。福岡県警は当初から被害者らと同じ地区に住んでいた久間元死刑囚を犯人と決めつけていたと聞く。

しかし、私が関係現場を車で回ってみたところ、土地勘がなければ犯行が不可能だったり、困難だったりするだろうと思える要素は何もなかった。私は久間元死刑囚のことは冤罪だと確信しているが、この事件も真犯人は県外の人間で、それゆえに「犯人は土地勘のある人間」という予断を抱いていた警察からまんまと逃げ切ったのではないかという思いが拭えない。

犯罪を誘発する可能性を考えると、「警察は県外からやってくる殺人者に弱いのではないか」ということは、心の中で思っても口に出さないほうがいいのかもしれない。しかし、そういう視点も必要ではないかと思い、あえて口にした。

飯塚事件では科警研がDNA型鑑定の際、犯人の資料をすべて消費したために再鑑定は不能だが、今市事件はDNA型鑑定を行うための資料はまだ残っている。栃木県以外の警察が被疑者の指紋やDNA型を調べる際には、常に今市事件の犯人とも照合するようにしてもらえないだろうか。そうすれば、この事件の真犯人もいつか捕まるのではないかと私は思うのだ。

▼片岡健(かたおか・けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

それでも京都大当局は「立て看板」という学生たちの〈表現の自由〉を奪うのか?

京都大は5月1日から、本部がある吉田キャンパス(京都市左京区)の周囲に学生が設置した立て看板の規制に乗り出すと伝えられている。もしその「通告」が事実であれば5月1日から、京大周辺の立て看板が撤去される可能性もある。4月30日早朝、京大周辺の立て看板がどのような様子になっているか、取材に赴いた。

4月当初に比べると大学敷地周辺の立て看板は数が減っている。そして「立て看板撤去」を翌日に控えているためか、以前よりもこの問題に特化した立て看板が目についた。

まずは今出川通りと東大路通りが交差する、百万遍交差点の様子だ。これまで不注意で気が付かなかったが、この交差点には不自然にも2つのボックス型公衆電話が設置されている。公衆電話が激減する中、この場所にある2つの電話ボックスはそれ自体がおかしな存在だ。この場所がもっとも界隈で目につきやすく、過去には巨大立て看板が数多く登場した場所である。この日最大のものはご覧の通り「違反広告物タテカン撲滅」と黒字に赤で書かれた揶揄に満ちたものだ。

この大きさでは見づらいかもしれないが、ほかに、

昨年クラブの歌である「われは海の子」が作曲されて100周年を迎えた、伝統の京大ボート部や、教職員組合の看板。
 

「環境にいいことしてますか? DO YOU KYOTO?」という公共広告のような、主体不明のものから、体育会ライフル部(武装してタテカン撤去と闘ってくれるのか?)。
 

自治寮、吉田寮の実質的な解体を画策する当局に対して、話し合いを求める看板も見られる。
 

百万遍交差点を少し南に移動すると「ゴリラ討伐 大学奪還」、「闘え! 闘わなければ勝てない……。」となかなかデザインにも作画にも力の入った「作品」が目に入る。「ゴリラ」は山極総長のニックネームである。こういうセンスと「討伐」の字体を私は好感する(ちなみに横は馬術部の立て看板だ)。
 

さらに南下すると、明確に「タテカン規制」に抗議する複数団体が名を連ねる、ピンクを基調としたカラフルなものも。
 

少林寺拳法部。デザインは、ゆとり世代に共通するセンスだが、活動内容のハードさをデザインのソフトさでやわらげるあたり、体育会の部員募集の工夫がみられる。
 

実は普段多いのはこの手の「地味」なサークルの立て看板だ。「京大宝生会」はどうやら能楽部の別名らしい。「稽古日」が明示してあるので安心して入部できそうだ。
 

先ほど同様複数団体による、抗議表明の立て看板。賛同団体が先ほどの看板と一部異なるのは、作成時期が前後したためか。こちらは黒地にパステル色を多用して少々暗くて見やすそうだ。
 

正門に向かう交差点に立てられた、「硬派」な主張の「立て看板」。「公安警察は立ち入り禁止」、「学費が高い!学費が高い!」、「職員にタックルされたのに『暴行した!?』
 

いろいろ書いてあるが、その実どの主張も穏やかで、妥当なものである。「広島カープV3」、「京大生平和的」あたりの、おふざけセンスも立て看板文化の貴重なスパイス。
 

こちらは正門前の様子。この日の夕刻立て看板規制についての講演会が行われる告知も(ちなみに連絡先が「田所」という方で、新聞などに電話番号が記載されていたが、どういうわけか私に電話での問い合わせ(間違い電話)が数件あった。
 

正門の横、吉田寮問題をマンガで示した立て看板。絵、内容とももう少し洗練さが欲しいところ。
 

国際化時代らしく抗議文も英語と繫体字で。
 

「どうただではすまないのか?」が不明ではあるが、強固な意志を感じさせるメッセージ(メッセージが強固なわりには字体が優しいのもよい)
 

「それはお前がやるんだよ」。無責任で無頼だが、実は「それは俺がやるんだよ」の反語ともとれるマニフェスト。黒字に白のシンプルさと詩的表現がよくマッチしている。
 

背景が黄色だと黒が際立つ原則を、あえて選ばなかった配色。「立て看板、どんどんつくって、どんどん立てよう」にすれば五七調になるのに、わざと「を」を入れて韻を踏んでいないところにも要注目。
 

人畜無害、京大の「学生はん」らしいサークルのようだ。立て看板もどことなくお行儀がよい。
 

吉田寮の入り口。「ここはひみつきち『よしだりょう』年三万円(水光熱込み)で家具・友だち・イベント付」なんとも魅力的な条件ではないか。この吉田寮が当局から狙い撃ちされている。
 

立て看板とは直接関係ないが、京大自由のシンボル「西部講堂」。屋根に描かれた三つの星の意味は読者において調べられたし。「世界一クレージーな場所」と称賛され、国内外の一流ミュージシャンも多数舞台に立った。
 
さて、5月1日以降京大当局これらの立て看板をどう扱うのだろうか。限られた数しかご紹介できていないが、学生による「立て看板」が「表現活動」であることはご理解いただけたであろうか。そして、私は自分が持ち合わせないこれらの感性に触れることを、常に楽しんできた。

自由は貴重だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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『NO NUKES voice』15号〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

京大「タテカン」撤去と朝鮮半島和平のコントラスト

 
2018年4月28日付毎日新聞

〈京都大は5月1日から、本部がある吉田キャンパス(京都市左京区)の周囲に学生が設置した立て看板の規制に乗り出す。京都市から昨年10月、屋外広告の条例に違反するとして文書で行政指導を受け、構内の指定場所以外は設置させない方針に転換した。「タテカン」は学生文化として許容されてきた側面もあり、「形式的」「自由の学風に反する」と反発の声も上がる。〉(2018年4月28日付毎日新聞

いよいよ、その時がやってきたようだ。京都大学が大学の周囲に向けて、学生が並べている「立て看板」(通称「タテカン」)を京都市の条例を根拠に、排除の動きに出るらしい。月に一度京大の様子は通りすがりに観察しているが、今月の初頭までさしたる変化はなかった。さて、5月1日以降はどうなるのであろうか。この問題は本コラム並びに鹿砦社LIBRARYの拙著『大暗黒時代の大学』のなかでも比較的詳しく取り上げている。興味おありの方はご覧いただければ幸いだ。

◆「タテカン」規制で消滅する学生の自由

どうして何十年も前から、常時そこにあった「立て看板」を京都市は「屋外広告の条例」を根拠に問題にしだしたのか? それは京大の当局が、すでに大幅に後退している「学生の自由」の完全消滅を目指し、管理体制の強化を図っているのが根底の原因である。京都大学には熊野寮、吉田寮といった「自治寮」があるが、京大当局は吉田寮に対して、一方的に「新たな寮生募集の禁止」と寮の一部改築を通達している。これも、学生自治の拠点である「自治寮」を潰したいとの本音の現れだ。

そして、要注意なのは京大当局が「学生自治」をテーマや問題にする立て看板だけではなく、あまねく学生が作成した「立て看板」を規制しようとしていることだ。毎日新聞の記事にある通り、京大周辺には様々な団体の立て看板が林立しているが、そのほとんどは演劇や、落語サークルだったり、体育系クラブの立て看板で、政治色を帯びたものは全体の1割にも満たない。しかし、それすらも京大当局にとっては「容認しがたい」のだろう。

「しかし市は、コンビニエンスストアなどの看板も場所によって落ち着いた色調に変えてもらうなど、古都の景観保護に力を入れており、『京大も例外ではない。市内の他の大学で違反はない』と説明する」と真顔で語っている。

京都市の役人にとっては、商業施設の広告と大学の学生による表現活動の違いが、まったく理解できないようだ。コンビニやマクドナルドは「商売」だろうが! だから世界中で京都市だけがマクドナルドは看板の色を変えたんじゃなかったのか。学生の表現活動と企業の広告との区別がつかない。もうこんな低レベルな行政が京都市ではまかり通るようになってしまったのだ。

 
朝鮮半島地図

◆「朝鮮半島の非核化」を喜ばない隣国の歪み

時あたかもお隣の朝鮮半島では、多くの人が予想だにしなかった「平和」に向けての流れが勢いを増している。「〈京大〉「立て看板」撤去へ 市「条例違反」で指定外ダメ」との毎日新聞記事が配信された前日には、南北の首脳会談が板門店で行われ、韓国のテレビは1日中その様子を生中継し、「平和」、「戦争を終わらせる」との言葉が伝えられるたびに市民は喜びに沸いた。朝鮮が独裁国家であろうと、過去にあれこれ問題を起こしていようと、「朝鮮半島の非核化」は慶賀に堪えないニュースであり、それが実現し、さらには南北首脳が統一を指向する同意に至ったことは、とてつもなく喜ばしい報せだ。

他方日本では、「自由な学風」といわれた(あえて過去形で書く)京大で、学生自治の最終破壊が画策されている。大学法人化して以降の国立大学や、公立大学では「学問」よりも、「経営(経済)」のが高い価値を占めるようになった。これからますますその傾向は強まるだろう。文科省は既に私立大学の破綻を見込んで、地方ごとに国立大学法人を中心とした大学のブロック化(大学の合併)を進める案を表明している。

そこには「学問」とはいかにあるべきか、「大学の果たすべき本質的な社会的な役割は何か」といった哲学は微塵もない。大学を「企業」同様に考えてその「経営」の効率化だけを目指そうとしている。それが文科省であり、多くの大学の今日の姿だ。

それにしても世の中には「金では買えない」価値があることを、京大当局や、京都市は気が付かないのだろうか。京都は国内外からの観光客でにぎわっているけれども、京都の歴史や遺産は「金」で創造できるだろうか。大学が狭い地盆地に集まる、京都独自の「学生文化」は経済活動に置き換えることができるだろうか。どれだけの頭脳を京都大学が輩出してきたか、それの背景にはどのような学風があったのか、を一顧だにしない京大執行部や京都市は、「経営者」としても失格であることが、近く証明されるだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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