膨大な知識量には感嘆するものの、「知の巨人」だとしても言説は斬るべき。間違いは間違いだ。『「反原発」異論』(論創社2015年1月)で吉本隆明は、こう綴る。故人を攻撃しているわけでもなんでもなく「間違いを正して原発を廃止する」ための方策で取り上げるので、けして吉本の人格を斬るわけでない。
吉本は「反原発で猿になる」というタイトルでこう書いている。

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 僕は以前から反核・反原発を掲げる人たちに対して厳しく批判をしてきました。それは、今でも変わりません。実際、福島第一原発の事故では被害が出ているし、何人かの人は放射能によって身体的な傷害が生じるかもしれない。そのために〝原発はもう廃止したほうがいい〟という声が高まっているのですが、それはあまりに乱暴な素人の意見です。今回、改めて根底から問われなくてはいけないのは、人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか、ということなんです。考えてもみてください。自動車だって事故で亡くなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう。ある技術があって、そのために損害が出たからといって廃止するのは、人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものです。そして技術の側にも問題がある。専門家は原発事故に対して被害を出さないやり方を徹底して研究し、どう実行するべきなのか、今だからこそ議論を始めなくてはならないのに、その問題に回答することなしに沈黙してしまったり、中には反対論に同調する人たちがいる。専門家である彼らまで〝危ない〟と言い出して素人の論理に同調するのは「悪」だとさえ思えます。(中略)一方、その原子力に対して人間は異常なまでの恐怖心を抱いている。それは、核物質から出る放射線というものが、人間の体を素通りして内蔵を傷付けてしまうと知っているからでしょう。防御策が完全でないから恐怖心はさらに強まる。もちろん放射能が安全だとは言いません。でも、レントゲン写真なんて生まれてから死ぬまで何回も撮る。普通に暮らしていても放射能は浴びるのです。それでも、大体九十歳までは生きられるところまで人類は来ているわけです。そもそも太陽の光や熱は核融合でできたものであって、日々の暮らしの中でありふれたもの。この世のエネルギーの源は元をただせばすべて原始やその核の力なのに、それを異常に恐れるのはおかしい。(吉本隆明『「反原発」異論』論創社)
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おいおい吉本大先生よ、核が「ありふれたもの」だって? バカも休み休み言っていただきたい。すると北朝鮮で金正恩が核開発しているのも「日常のひとコマ」ってわけだ。天国で福島原発事故の際に亡くなった人の怒号を聞け!

(渋谷三七十)