◆教育に対する国家の態度──欧州諸国と米国は雲泥の差

「欧米」、と容易に西洋諸国をくくってしまうことがあるが、こと社会保障・福祉にかんして、欧州の多くの国と米国には雲泥の差がある。当然欧州の中でもEUに所属していようが、いまいが国ごとにその差があることは言うまでもない。その中でわかりやすい違いは教育への国家の態度だ。教育とりわけ、高等教育に関して英国と米国は比較的政策が近い。そして、この両国を真似ているのが日本であり、韓国であり、台湾、つまり東南アジア諸国である(近年はその中に中国も含まれるようになってきた)。

国立大学法人運営費交付金の推移(2004-2014年度)(wikipedia「国立大学法人」の項より)

なにが似通っているかと言えば、米国、英国やこの島国を含めた東南アジア諸国では、高等教育にかかる授業料が個人負担であり、それもかなりの高額であるという点である。それに対してフランスやドイツなどで、欧州でも一定程度以上の社会福祉が築かれている国々では「義務教育から大学院まで学費は無料」が常識だ。学費が無料の国ほど「金も出すから口も出す」と、教育内容に国家の介入が強いかと思いきや、どうやらかならずしもそういった構図は成立しないようで、むしろ「金は出さないが口は出す」という図々しい態度のほうが、国家を超えて教育行政には蔓延している。それはこの島国と韓国でまことに顕著だ。台湾も追従傾向がある。

文部科学省「国立大学の法人化をめぐる10の疑問にお答えします!」(文部科学省HPより)

◆国立大学が「国立大学法人化」されて

たとえばかつて、「国立大学」と呼ばれた大学は、正確に言えばもう既にこの島国には存在しない。すべての国立大学は「国立大学法人」化されている。だから東京大学でも、東北大学でも名古屋大学でも正式名称には「国立大学法人」が頭につく。この「独立法人化」により、大学の運営の理事会に外部の人間が入るようになり、各地の経済界の人間が大学の間接支配に手を染めることが容易になった。そして今話題の文科省官僚の理事会入りは日常茶飯事である。「国立大学法人」としては理事会に文科省の人間を置いておけば、なにかと便宜も図ってもらえ、情報の入手も容易になるであろうと、スケベ根性を出し大学運営(あえて経営ということばは使わない)の座に文科省の人間を据えているのだ。

それでなにか得策があるのか、といえば「皆無」である。交付の根拠が定められている文科省からの補助金は、融通を利かすことが出来はしないし、時々のトレンドに合わせ、「時限立法的」に設けられる補助金の獲得は、「どれだけ国策に従順か」の競争である。億単位の補助金は、大学にとって魅力的でないはずはないから「パン食い競争」のように、補助金を得ようと大学は必死になり、中身の空疎なプログラム作成や、カリキュラム新設に汗を流す。

情けないことこの上ないありさまだが、国立大学法人においては年々補助金が減額され、首根っこを押さえられている状態では、研究費を得る為にはなりふり構っていられないという事情もある。だから本論からは逸れるけれども、防衛省が研究費を支給(実質的な軍事研究に加担)する、とアナウンスすると、これ幸いと多数の大学が手を挙げたのだ。金の前には「科学の果たすべき目的」や「大学の役割」といった、根源的な問題は全く考慮されることがなかった、と言っていいだろう(多少の内面的逡巡はあったのかもしれないが、そんなものは言い訳にならない)。

文部科学省「国立大学の法人化をめぐる10の疑問にお答えします!」(文部科学省HPより)

◆「独立法人化」で国からの干渉が強まる矛盾

「独立法人化」したということは、「国立大学」時代に比して、国からの干渉が減らなければおかしいが、事態は逆を向いている。これは私立大学においても同様だ。文科省が突きつける、「要らぬお世話」は年々増すばかりで、私立大学の教職員は講義や研究という本務と無関係なところで、雑務の激増を強いられている。

しかも「大学の自治」や「国家からの大学の自由」などということばは、哲学書の中にでも封じ込められた状態だから、大学側から文科省への異議申し立てや抵抗はなきに等しい。ろくな餌ももらっていないのに、なぜそこまで卑屈にならなければいけないか。

日常業務多忙の中で私立大学内部において「大学の自治」や「国家からの大学の自由」が、本気で語られることはない。テレビに出てしおらしく「リベラル面」をしている田中優子が学長の座にある法政大学などは、その悪例中の悪例だろう。学生の自治活動を年中弾圧し、常時学内に多数の警備員を学生の自治活動排除の為に配備し、公安警察の学内徘徊も歓迎する。こんな大学はもはや大学を名乗る資格はない。

「独立大学法人」化した国立大学、私立大学の内実は惨憺たるものである。終焉を迎えることが確実な「資本主義」の競争原理を、教育・研究の場に導入すれば成果が上がる、と考えるのはカネの勘定しかしたことの無い、商人(あきんど)の発想で、学問とは相いれない。すでに各種の国際的大学のランキングで東大や京大の凋落が明示されている。現在の延長線上に高等教育機関を位置づけ続けるのであれば、その傾向にはますます拍車がかかるであろう。

もはや、この島国の大学には「大学生」と呼ぶにふさわしくない学徒が半数近くを占めている。その深刻さこそ直視されるべきだ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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