立ち位置を意識し、選手が出て来た際は、後に下がる配慮を忘れなかった衣笠真寿男氏(1983.2.5)

衣笠真寿男氏のコールは過去いちばん甲高く力強さがあった(1986.11.24)

「リングの名脇役、リングアナウンサーの任務!」に続くリングアナウンサー物語続編です。

鈴々舎馬風(日本系)
柳亭金車(日本系)
チャーリー湯谷(全日本系)
衣笠真寿男(日本系)
三遊亭貴楽(日本キック→RIKIX)
宮崎邦彦(全日本系)
井手亮(MA日本)
酒井忠康(JBC)
山口勝治(JBC)
冨樫光明(JBC)
須藤尚紀(JBC)
中山善治(JBC関西)

巨匠リングアナウンサーを独断と偏見で選びましたが、この顔ぶれをどれだけ知っている人がいるでしょうか。奇妙な世界とは無縁のプロボクシングも含まれていますが、人真似ではない独特のリズム感でコールする個性ある、人々の潜在意識に残るリングアナウンサー揃いです。このメインリングアナウンサーとなる存在は、その競技・団体の顔となっていきます。

◆JBCでは見事な後継者揃い!

全日本系にも厳しいしきたりあり。選手の後方に控えるリングアナウンサー宮崎邦彦氏(1983.6.17)

プロボクシングでは、いちばん古い酒井忠康氏はファイティング原田氏の現役の頃からコールしていた人で、重量感ある声でリズムとイントネーションで、絶妙なコールでした。メインリングアナウンサーとして担当が長かったので、その技量を長く発揮され、広い世代に知名度がありました。

山口勝治氏はタイムキーパー姿が古い映像にあるとおり、その試合運営経験を経て、酒井氏の指導も受けつつ1980年代前半にリングアナウンサーに移ったようです。その山口氏の指導の下、1年ほど研修を受けてから1999年デビューしたリングアナウンサーが冨樫光明氏で、これらの世代交代はJBCの確固たる組織の表れ。現在活躍する須藤尚紀氏も含め、リングアナウンサーとしての立ち振る舞いや、タイムキーパーやレフェリーとの連携も指導が行き届いたアナウンスを続けています。

◆巨匠と言われるキックボクシングに於いての名リングアナウンサー

矢沢永吉スタイルを貫いた井手亮氏、笑いネタでの人気も高かった(1992.11.13)

幅広い分野で活躍する柳亭金車氏、現在も活躍される息の長いリングアナウンサー(1996.6.30)

先駆者・鈴々舎馬風氏、初期のキックボクシングブームを支えた一人でもある(1996.6.30)

1966年に設立された老舗団体、日本キックボクシング協会で初代メインリングアナウンサーを務めたのが、柳家かえる(後の鈴々舎馬風)氏で、そのコールの力強さは当時TBSの放送で全国に響き渡りました。キックボクシングを始めた野口修氏がボクシングプロモーターだったことはその後にも大きく影響し、酒井忠康氏の陰ながらの指導もあったのではと考えられます。

そのかえる氏に導かれたのが2代目リングアナウンサーの柳家小丸(後の柳亭金車)氏でした。かえる氏よりトーンが高く、また高低激しくコールする力強さがありました。また小丸氏はキックボクシングのブーム全盛期、全国を巡業で回った経験談を持っており、米軍基地での興行は「米兵のもの凄い声援が試合を盛り上げた」とか、「北海道の田舎のある駅のホームで、暇潰しに興行スタッフ一同での垂直飛びで、高さ120センチほどある線路からホームへ飛び移ったのは沢村忠だけだった」という当時の懐かしい旅の話題(規制の緩い昔の田舎の駅での話です)を持つ方で、当然全国各地での多くの経験談があることでしょう。

両氏とも噺家が本業で、リングアナウンサーに集中することは難しくなった時期もあり、後に引き継がれたのが山崎康太郎氏と衣笠真寿男氏、更なる後に吉田健一氏がいました。山崎氏は元はJBCリングアナウンサーだったと思われます。

衣笠氏はテレビ放映の実況の中で軽く紹介されたことがあり、軍隊での号令官だったということから、大声が出せて更にマイクが無くてもよく響く甲高いコールでした。テレビ放映も無くなった1980年代前半(昭和50年代後半)も辞めることなく務めて居られました。後楽園ホールだけの、テレビ放映の無いところで甲高いコールが響いているのが勿体無く、野口プロモーション系スタッフは虚しい思いをした人もいるようです。しかし、衣笠氏は後の復興団体、更に後のMA日本キックボクシング連盟の1988年まで務められ、その美声が発揮されていました。

ルールにも几帳面で、1986年5月に当時の日本ライト級チャンピオン.甲斐栄二(ニシカワ)vs 同級2位、飛鳥信也(目黒)のノンタイトル戦があった際、「これライト級のウェイト越えてないと甲斐が負けたら王座剥奪だよ」と、契約ウェイトの状況を調べに行ったという、他のスタッフが気付き難いところにも指摘したエピソードがあり、現在のリングアナウンサーには無い探究心を持っていました(この試合は63.5kg契約)。

この衣笠氏に斜陽期のTBS放映時代に指導を受けられたのが吉田氏で、低めの声ながらリズムとイントネーションはソックリで、分裂による枝分かれはしましたが、他団体で単発ながら1987年まで務められました。

復興団体で衣笠氏に指導を受けられたのが三遊亭貴楽氏で、更に後の全日本キック復興の際、縁あるジムの意向でそちらに移動されましたが、その直後の1987年5月に査定を受けた芸人Wコミックの井手亮氏が見習い採用された経緯がありました。

残念ながら衣笠氏は翌年、心不全により亡くなられ、最後の弟子、井手氏がメインリングアナウンサーに抜擢されました。井手氏は矢沢永吉さんのファンで、デビュー当時からそのスタイル貫き、「井手さんにコールされると気合いが入るよね」と語る選手も居て、人懐っこさでファン、スタッフ、選手からも人気も高かった人でした。MA日本キック連盟は初期の石川勝将代表の辞任後、団体の体制がまとまらず、リングアナウンサーも入れ替わりが激しくなり、伝統の日本系の個性は完全に崩れた時代に突入してしまいました。

全日本系での巨匠は俳優のチャーリー湯谷氏、伝説の西城正三vs藤原敏男戦のビデオにもある、この試合のリングアナウンサーが英語のアクセントがインパクトあるチャーリー湯谷氏でした。その後にメインリングアナウンサーを務めたのが宮崎邦彦氏で、こちらも独特の力強いコールで、ベニー・ユキーデをコールしたことも幾度かあり、藤原敏男氏の引退興行もメインリングアナウンサーを務め、全盛期の立嶋篤史をコールする時代まで活躍しました。コールでは大声が出せる人ですが、リング下では優しい口調の方で、物静かに佇む姿が思い出されます。

現在に至るまでのキックボクシングの多団体乱立後のリングアナウンサーは、先人の指導の無いまま、次の新人に任される場合が多かった競技です。主催者役員との思想の違いから退任、次から次と新規リングアナウンサーが誕生する場合もあり、試合役員から指導を受けることはあってもそれは大雑把で、そんな団体で育ったリングアナウンサーは後輩ができても、指導するにしても正しいことが伝えられない負の連鎖が続く場合もあります。これではその団体や興行の顔となる存在には成り得ません。

今回、くどいほどマニアックに述べさせて頂いた巨匠たち、こんな不安定で奇妙な世界によくぞ入ったものだと感心する、かつての名脇役リングアナウンサー揃いでしたが、こんな競技でも研究熱心に進行を考え、真摯にクレームを受け止め、前回のテーマに出てきた進化あるリングアナウンサー達もいます。観ているファンにもそれぞれの好みがあり、批判ある場合もありますが、特殊な才能を持った人たちを願わくば、巨匠たちが競技を越えても次の世代へリングアナウンサーの正しい姿を伝えて欲しいものです。

小野寺力氏お気に入り、三遊亭貴楽氏も他団体に渡り、NO KICK NO LIFEまで登場されました(2014.2.11)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

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