昭和20年8月15日、日本は連合国のポツダム宣言を受諾して終戦に至る。だが、少なくとも前年の7月(サイパン陥落)には、敗戦は誰の目にも明らかだった。とりわけ最新の戦況(戦果は過大だったが、詳細な損害報告)を伝えられ、戦略観にも卓越したものがあった昭和天皇において、講和交渉を始める必要を理解していたはずだ。

 

にもかかわらず、天皇をして「もうひとつ、戦果を挙げてから」(近衛上奏への回答)などと逡巡させたのは、国体護持(天皇制の維持)の可否であった。

開戦当初のような戦果を挙げて、対等とは言えないまでも、アメリカがこれ以上の出血を回避したくなる戦況が欲しかったのだ。そうでなければ、天皇制を維持できないと考えていたのである。天皇制を護持するためには、自身の退位も厭わない覚悟だったという。

◆終戦で浮上した退位論

昭和天皇は敗戦後の8月29日に、内大臣木戸幸一に退位の内意をあらわしている。
「戦争責任者を連合軍に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうかとの思召しあり」(木戸幸一日記)

この昭和天皇退位論は、じつは戦中からあったものだ。天皇側近のなかから、とりわけ伝統的な公卿のあいだで検討がなされていた。

細川護貞(近衛内閣の総理秘書官)の日記によれば、昭和19年の3月に、戦局の悪化をうけて細川と近衛文麿が話し合ったことが明らかになっている。その内容は敗戦後の国体問題、すなわち天皇制を維持するために、天皇が戦争の責任をとって退位し、新たな天皇を立てるという意味である。そのさい、昭和天皇の処遇はどうなるのか。この時点では、上皇になるとも何とも具体的な構想がなされた様子はない。

退位という処断のもつ重さに、ふたりは戸惑いながら話し合ったものと思われる。明治大帝いらい、皇位は一世一元(詔勅)であり、退位はありえない。細川の日記に「恐れ多いこと」とある如く、天皇の進退は禁忌に属することがらだった。

「最悪の事態については、今日から相当研究して置かねばならぬ問題であるが、恐れ多いこと乍(なが)ら、御退位の如きは、我国の歴史には度々あるのであり」(上掲の細川日記)。

そして、その近衛は20年1月に、京都の別邸に岡田啓介と米内光政(ともに海軍出身で、元総理大臣)、仁和寺の門跡岡本慈航をまねいた。このときは、無条件降伏の場合には、昭和天皇が出家して仁和寺に入る、という構想であった。

退位して出家すれば、連合国も戦争責任を問わないだろうというものだ。まるで武家騒乱の時代の、出家による禊(みそぎ)。仏門に入った者は責任を問われない。というものを想起させる天皇出家である。この退位構想が信任の厚い近衛から天皇の耳に入ったのは、おそらく間違いないであろう。

そして、いよいよ敗戦が決まった。

いっぽう、アメリカの三省調整委員会(国務省・陸軍省・海軍省)では、天皇を戦争犯罪人として戦争裁判に訴追させるべきという議論が支配的だった。唯一、日米開戦時の駐日大使だったJ.C.グルーが「天皇は平和主義者で、戦後日本の混乱を回避するためには、天皇の温存が得策である」との見解を、国務省内で展開していた。戦争犯罪裁判への天皇裕仁の訴追は、まだ微妙な段階だったのである。

中国では天皇制廃止論が主流だったが、蒋介石は日本国民の判断にまかせるべし。イギリスは立憲君主制(天皇制)の存続を認める方針だったが、天皇の戦争犯罪には言及していない。ソ連は昭和天皇の戦争責任を問い質す方針だった。いっさいは、占領軍として主導権を握るアメリカにゆだねられた。

そこで、ひろく知られているのが、昭和天皇のマッカーサー連合軍最高司令官との面会である。

 

◆マッカーサーとの会談

天皇とマッカーサーの面会・対談は、11回におよんでいる。その席上、天皇が「わたしの身はどうなってもいい」と、戦争責任を一身に引き受ける発言をして、マッカーサーを感動させたという話が伝わっている。

扶桑社の教科書は、会見の中身をこう記している。

「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。

だが、このマッカーサーの「感動」は、自分と天皇の会見を美化したものではないかと、現代史の研究者から史料批判されてきた。

◆真偽が錯綜する記録

その発端は、児島襄が公表した「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(『文藝春秋』昭和50年11月号)である。9月27日の会見に同席した通訳官奥村勝蔵が記したという「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇の発言はなかったのだ。

また平成14年10月に外務省は第1回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開したが、児島氏が公表した「御会見録」とほぼ同一の内容である。したがって公的には、天皇発言はなかったことになる。

「会見録」によると、マッカーサーが20分ほど「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、昭和天皇は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となる結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。

要するに、戦争への反省と自己弁護である。マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」との天皇発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのである。

いっぽうで、日本側にも天皇とマッカーサーの発言を裏付ける記録はある。奥村メモを天皇に届けた藤田侍従長が記した「回想録」である。

職掌上、奥村メモに目を通した同侍従長は、昭和36年10月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。

問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に5枚ほどあったと思う」と述べ、天皇は次の意味のことをマッカーサーに話したとしている。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

この天皇発言に続けて、藤田侍従長は「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と自分の感想を書き、つぎのようなマッカーサーの発言を記している。

「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)

これで天皇の戦争責任発言は、歴史のなかに復活したのである。ではなぜ、公的に否定された天皇発言が「じつはあった」となったのか。

◆削除されていた発言とマッカーサーの天皇制擁護

その後、平成14年8月5日付の「朝日新聞」は、この推測を傍証する文書を紹介する。奥村の後任通訳を務めた元外交官松井明が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井はこう記している。

「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」

松井は奥村からの話としての伝聞である。それはおそらく松井が通訳に任官する昭和24年以降のことであろう。

昭和20年当時は、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いていた。

昭和20年10月22日の三省調整委員会では、マッカーサーに対し天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報が発信されている。これに対してマッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に次のような回答の手紙を送ったという。

「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数10万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)。

天皇の戦争責任発言があったのかどうかは、上記の史料から推論するしかない。少なくとも認められるのは、天皇がGHQの占領政策に協力すること、マッカーサーに敬意を表して(モーニング姿)、恭順の意を表したことであろう。そしてマッカーサーはそれに「感動」し、天皇制を存続させるべきと本国に報告したのである。これが日本がアメリカに「永続敗戦」する戦後の国体となったのだ。

アメリカ政府の判断で天皇訴追が見送られたころ、昭和天皇は側近にこう語っている。明仁に譲位するにしても、摂政を立てなければならない。秩父宮は病状があり、高松宮には戦歴があってGHQがみとめないだろう。三笠宮は若すぎる、というものだ。

戦犯訴追を免れたことで退位する気がなくなったのである。しかし国民のあいだには、天皇の政治責任を追及する声は少なくなかった。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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