◆いま一度、「大学の自治」を考える

「大学の自治」あるいは「学問の自治」という概念がある。
若い読者にはその意味するところすらあやふやかもしれないので、簡単に説明しておこう。

「大学の自治」とは、学問研究を行う大学は政治、行政権力や経済界からの干渉や抑圧を受けずに自立的に運営されるべきだから、少々の問題が学内で発生しても、その対応を警察や学外機関に委ねるのではなく、大学が自らの責任と決断を持って解決に当たるべき、という考え方だ(細部には様々な異論があるかもしれないが大筋こんな考え方だろう)。

「学問の自治」とは、学問研究は特定の企業や団体の利害と結びついてはならず、その成果は広く社会に還元されるべきだとも解釈される。

「大学の自治」は当然、「学生の自治」に結びつき、大学の運営は教員、職員だけでなく、最大の受益者たる学生もその一端を担う権利があり、学生は学生独自の視点から大学に物を申す、あるいは学生活動に大学当局の不当な介入は認めないという考え方が導かれる。

これら「大学の自治」や「学問の自治」が重要な概念として認識されたのは、第二次大戦で日本が敗戦して以降である。戦争中に大学も様々な形で帝国主義戦争に加担を強制されてきたことへの反省として、これらの概念は、機関としての大学、教員また学生にも共有される。大学が保持する基本的性格として戦後数十年、「大学の自治」は当然の概念として社会的にも認知されてきた。

◆管理強化で消えゆく「立て看板」文化

ところが今日、それらの概念は基礎から揺らいでいる。
とりわけ「学生の自治」は風前の灯だ。大学だけでなく、社会を見渡せば「労働組合」組織率も下がり、かつ「連合」などは労働貴族が仕切る「総御用組合化」している現象との連動なのだろうが、大学内において学生に許される表現の自由の領域はどんどん狭くなっている。

「立て看板」はクラブ、サークルの部員勧誘や催し物の告知に一般的に使われる道具であるが、今日多くの大学では大学が決めた場所に大学が準備してた規格(定型的な大きさ)を利用しての立て看板しか認めていない。しかも申込制となっており、大学によっては大学公認団体にしか利用を認めないケースもある。

かつて「立て看板」と言えば、その大きさや字体、設置場所などを工夫することにより、よりインパクトのある伝達媒体に仕上げようとする、学生の「表現活動」の感があったが、規格枠内にそれが限定された時点で表現の幅は大きく制約を受ける。

まだ比較的学風が自由とされる京都大学では昔ながらの手作り立て看板が見受けられるが、首都圏、関西の大学でそれを許容しているのはごく限られた数の大学でしかない。

さらに、ビラ配りにも細かい制約を設けられつつある。
前述の通り新入生の勧誘や、講演会・学習会などの宣伝で学生が学内(若しくは大学の敷地近隣)でビラ配りをする場合は、事前に大学に届けが必要としている大学もある。

また、チラシポスターなどを学内に貼りだそうとする場合は事前に許可のスタンプをもらい、これまた決まった場所へしか貼ることが出来ない。そんな大学はキャンパスを訪れると確かに表面上景観は整っているが、果たしてここで学生が有機的な活動をしているのかどうか、薄気味悪くなるくらいに無表情だ。

◆ビラに「許可印」など不要

かつて私が大学職員だった時、学内に貼るビラに「許可印」を押す部署に配属されていたことがある。「許可印」といっても形式的な作業で、学生がビラを持ってくれば、内容のいかんにかかわらず、すべてのビラに許可印を押すことになっていた。

学内には一応ビラを貼るスペースは設けられていたが、学生はそんなものはお構いなく、校舎の壁や廊下に好き放題ビラを貼っていた。個人的にはそのような情景の方が大学の雰囲気として私は好きだった。そしてある時、考えた。無条件に許可印を押すのであれば意味はないから、いっそ許可印自体を廃止してしまえばいいのではないかと。

職場の先輩や同僚の理解も得られ、許可印は廃止することとなった。但し、学生には一定期間が経過した後のビラは貼った者が責任をもって処分することを求めた。そのように運用を変更してからさしたる問題は発生しなかった。

ただし、無数のビラに紛れて学外の業者や宗教団体、怪しげな旅行の勧誘などが貼られるので、週に一度程度は学内のビラを見て回ることが新たな業務となった。学外の怪しいビラは無条件に剥がす。学生のビラは誠に様々なので課外活動の実態を知る一助にもなる。

◆大学職員は「官憲」ではない!

昨年、ある問題で大学生に「どうやって意見を訴えたらいいのか」と相談を受けた時の話だ。
「立て看板やビラやマイクで昼休みに話するなどしたら」と私が提案したら、「全部、許可制だから個人では難しいんです」とその学生が答えたので驚いた。

大学はくだらない管理強化ばかりに熱心なようだが、学生の「表現の自由」を時には思い出してみるべきだ。
大学職員は「官憲」ではないのだから。

(田所敏夫)

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