◆今、改革が求められている

四月の統一地方選挙から分かったこと、それは、無投票選挙区の激増、議員定数割れ市町村の増加など、地方地域衰退の深まり、等々、いろいろある。だが、そうした中にあっても、地方地域住民の「改革」への要求の切実さは予測を超えていたのではないだろうか。

自民党の圧勝、立憲民主党の惨敗が言われる中、やはり際立ったのは、「維新」の躍進だった。大阪ダブル選挙での圧勝、奈良県知事選、和歌山衆院補選の勝利、そして市町村議選での七七五議席獲得は、目を引いていた。

問題は、なぜそうなったのか、その要因だ。そこで言えるのは、やはり「改革」の二文字ではないかと思う。

今の日本で「改革政党」として認定されているのは、共産党や社民党ではない。日本維新の会だ。選挙でも「改革」を前面に押し出し訴えたのは、「維新」だった。

「このままではだめだ」。「日本は変わらなければ」。人々のこの切実な願いを体現して見せたこと、そこに「維新」躍進の秘密を見出すのが、今回の統一地方選から得られる教訓だと思う。

◆「維新」の「改革」は日本にとって何なのか

日本維新の会が「改革」を唱えはじめてから久しい。大阪維新の会として出発した当初から唱えていたのが「改革」だった。

ところで、「維新」が唱えていた「改革」が新自由主義改革だったのは周知の事実だ。今、彼らがそれを声高に叫ばなくなったのは、それでは人心をつかめなくなったからに他ならない。

今、彼らが前面に押し出しているのは、御存知、「身を切る改革」だ。大阪の府と市、議員の定員、俸給の削減、大阪市職員、その定員と俸給の削減、等々、文字通り「身」を切っている。

その他にも、「改革」は目白押しだ。地下鉄民営化、関空業務民営化、小中高校の統合、そして、大阪府大と市大の統合や水道の民営化までが続々企画され、その多くが実行されて行っている。

この「改革」のオンパレードを見て気付くことがある。それは、その基本が「公営」の「民営」化、国から民間への転換、国の削減、等々、「国」と「公」をなくし、「民」に転換する「改革」だということだ。これは、大阪維新の会の時から追求されてきた「新自由主義改革」そのものだ。中身は何も変わっていない。

実際、「維新」の政治を見ていて思うのは、「国」が目の敵にされていることだ。今回の統一地方選でも、地方地域の「改革」を言いながら、二言目には、「国は関係ない。地方のことは地方で!」が繰り返された。

この「国否定の改革」が駅の便所の清掃など市民、府民の好評を得る木目の細かい改革と一体に推し進められていく。この辺りに「維新、改革政治」の人気の秘密があるのかも知れない。

◆日米統合と改革

今、「改革」を求めているのは、日本の国民、地方地域住民だけではない。他でもない、米国が一日も早い日本の「改革」を求めている。

周知のように、今、米国は中国とぶつかっている。このところとみに弱まった自らの覇権を脅かす者として、中国を目の敵にし、ウイグルや香港の人権問題を騒ぎ立てながら、「米中新冷戦」を引き起こし、貿易戦争、ハイテク戦争、対中包囲、封鎖、排除と戦いをエスカレートさせてきている。その対中対決戦の最前線に米国が押し立てているのが、他ならぬ日本だ。

日本がそれに応えるのは容易ではない。何よりも、非核非戦の国是では、米国とともに戦争できない。しかも相手は中国だ。防衛費倍増くらいでは太刀打ちできない。経済だってそうだ。中国と戦って、米国を支えるためには、経済の有り様自体を変えなければならない。外交も、米国に追随しているだけではだめだ。その手足になって中国と戦える外交力を備えることが求められる。一言で言って、米国と一心同体に中国と戦える国になってくれと言うことだ。

そこで言われているのが「日米統合」だ。軍事や経済、外交だけではない。すべての分野、領域での日米一体化、融合が求められている。

この場合、当然のことながら、この「統合」は、日米対等の統合ではない。米国自身が言っているように、米国の下への日本の統合だ。軍事も経済も、すべてが米国の補完、下請けだと言うことだ。 そして、何より深刻なのは、それが日本という国をなくすことを意味していることだ。

「統合」は、一言で言って、グローバリズムの焼き直しだと言える。国と民族自体を否定する究極の覇権主義、グローバリズム、新自由主義は、イラク、アフガン反テロ戦争の泥沼化、リーマン・ショックや長期経済停滞、それらにともなう一億難民の大群、そうした中、世界中に登場してきた新しい政治、自国第一主義の嵐などを通して、一時期見せた勢いを完全に失い破綻した。それをもう一度、かたちを変えて持ち出してきたのが、米覇権回復戦略としての「新冷戦」であり、その一環としての「統合」だと言うことだ。

実際、「統合」は単なる対日政策ではない。「民主主義VS専制主義」の「新冷戦」にあって、「民主主義陣営」内の同盟国、友好国すべてに対して、米国の下への「統合」を呼びかけたものだ。

こうして見ると、「新冷戦」が崩壊の危機に陥った米覇権を建て直すための起死回生の覇権回復戦略であるのが一層鮮明になる。中ロなど米覇権に敵対する勢力を「専制主義陣営」として、包囲、封鎖、排除する一方、返す刀で米覇権の同盟国、友好国を「民主主義陣営」として、国境を超え「統合」し、究極の覇権、国と民族それ自体を否定するグローバリズム覇権を実現する土台にすると言うことだ。

この米国が求める「統合」が日本の国を亡くす改革になるのは、自明のことではないだろうか。

◆求められているのは、国を創る改革だ

日本の改革の主体は、どこまでも日本国民自身だ。米国ではない。

米国が求める日本の改革が「日米統合」だとすれば、それを自らの改革として選択するかどうかは、あくまで日本国民にかかっている。

先の統一地方選挙は、その一環だったと言うことができる。そこでは、「維新」の「改革」が選ばれた。われわれはこれまで、それが「国を否定する改革」であり、米国の「日本の国を亡くす改革」に通じていることについてみてきた。

実際、先述したように、「維新」の「身を切る改革」は、元を正せば、大阪維新の会の「新自由主義改革」に他ならず、米国が求める「グローバリズム改革」、「国を亡くす改革」と一体だ。

日本の進路が問われる今、何より重要なのは、その改革がどういう改革なのか、その目的と性格が明確にされることだと思う。それが曖昧なままの選択は、日本にとって取り返しの付かない禍根を遺すことになる。

「国を亡くす改革か創る改革か」、ここに改革の是非を分ける決定的な分岐点があると思う。

改革の主体である日本国民にとって、日本の国をどうするかはもっとも切実な問題だ。それは、われわれにとって、国が自らの共同体、もっとも切実な拠り所であるからに他ならない。

その国を亡くし、米国の下に統合する改革なのか、それとも、自らの共同体、拠り所としてよりよい国をつくり上げる改革なのか、どちらが良いか、答えは言うまでもないと思う。

だが、「維新」の「国を亡くす改革」と対決する「改革案」を掲げ立ち上がる政党は一つもない。「改革」は「維新」の専売特許になっている。

なぜこういうことになっているのか。その根底には、これまで日本が、世界のどの国よりも深く米覇権と言う居心地のよいぬるま湯にどっぷりと浸かっていたという事情があるのではないか。「イエローヤンキー」という世界の揶揄には一定の根拠があったと言える。

そのぬるま湯が冷えてくる中、日本には、今、ぬるま湯から飛び出して新しい生き方を選ぶのか、それともぬるま湯の復活を期待してあくまでそこにしがみつくのか、選択が問われている。

これまで米国が敷いた路線を走り、自分で路線をつくってこなかった身には、未知の路線を切り開くのは容易ではない。新しい日本を創る改革案を生み出す政党、勢力が一つもないのには理由があると思う。

今、日本でもっとも切実に問われていること、それは、何よりも米覇権崩壊の現実を直視することであり、どこまでも日本と日本国民のため、新しい日本を創る改革案を広く国民大衆自身に求め、それをあくまで日本国民主体に実現していくことではないだろうか。

小西隆裕さん

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年によど号赤軍として渡朝。現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『一九七〇年 端境期の時代』

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)