【公開書簡】 鈴木邦男さんへの手紙 [鹿砦社代表 松岡利康]

先の「デジタル鹿砦社通信」6月20日号で、ここ1年余り「カウンター」-「しばき隊」による大学院生M君リンチ事件の真相究明と被害者M君支援(裁判、権利回復など)で共に動いている「鹿砦社特別取材班」の一人「A生」(社外メンバー)が、鈴木邦男さんに対して直截的で激しい意見を述べています。会社としての見解ではなく「A生」の個人的意見ですが、身近で私の「逡巡と苦悶」を見て、やむにやまれぬ気持ちで書いたのでしょう。

あくまでも社外取材班「A生」の個人的意見にもかかわらず、それをそのまま即鹿砦社の見解と早とちりし誤認して香山リカ氏がツイッターで絡んでこられましたが、鹿砦社のHP「デジタル鹿砦社通信」に意見をアップしたからといって、即鹿砦社の見解ではありません。「A生」の意見に基本的に同意しつつも私の気持ちや会社の方針と違う箇所も散見されますし、小なりと雖も会社経営を担い、社員の生活に責任を持つ私や会社は、「A生」ほど過激ではなく、一定のバランスはとっているつもりです。

【注】鹿砦社特別取材班 李信恵氏ら「カウンター」5人による大学院生集団リンチ事件の真相究明と被害者M君支援のために鹿砦社社内と社外のメンバーが集まった有志のグループ。メンバー個々の思想・信条は右から左まで幅広い。リンチ加害者らの代理人・神原元弁護士が詰るように、間違っても「極左」ではない。神原弁護士らによる「極左」認定は、ためにする批判だ。

さて、そこでも述べられているように、鈴木さんとは1980年代前半以来30数年の付き合いになります。月日の経つのは速いものですね。出会ったのは、まだ「統一戦線義勇軍」のリンチ・殺人事件の前だったと記憶しますが、鈴木さんは「新右翼の若き理論家」として売り出したばかりの頃です。いろいろなことが走馬灯のように思い出されます。今闘病中の装丁家で私に出版・編集の手ほどきを実践的にやってくれたFさんの紹介でした。鈴木さんとFさんとも組んで何冊も本を出しました。

まだこの頃はサラリーマンをしながら『季節』という思想・運動系の小冊誌を不定期に出していて、鈴木さんの伝手で、その「現代ファシズム論」の特集に、前記のリンチ・殺人事件の首謀者で、後に見澤知廉を名乗る清水浩司氏(故人)に獄中から寄稿していただき、主に新左翼周辺の読者から顰蹙を買った記憶があります。

1984年暮れに10年間のサラリーマン生活を辞め独立、しばらくして同じ西宮市内で朝日新聞阪神支局襲撃事件があり、鈴木さんとの関係で、私も疑われました。

そうこうしている中で、朝日襲撃3部作『テロリズムとメディアの危機』『謀略としての朝日新聞襲撃事件』『赤報隊の秘密』を出し、そして鈴木さんにとっても私にとってもターニング・ポイントになった『がんばれ!! 新左翼』(全3巻)を刊行しました。

『テロリズムとメディアの危機 朝日新聞阪神支局襲撃事件の真実』(1987年)、『謀略としての朝日新聞襲撃事件 赤報隊の幻とマスメディアの現在』(1988年)、『赤報隊の秘密 朝日新聞連続襲撃事件の真相』(1990年)
『がんばれ!! 新左翼 「わが敵わが友」過激派再起へのエール』(〈初版〉1989年、〈復刻新版〉1999年)、『がんばれ!! 新左翼 Part2 激闘篇』(1999年)、『がんばれ!! 新左翼 Part3 望郷篇』(2000年)

この本を出したことで、私は新左翼界隈から大変な非難を浴び顰蹙を買いました。この頃から、プロレス・格闘技関係も含め数多くの書籍を刊行させていただきました。共著を含めると何点になるでしょうか、すぐには数え切れないほどです。鈴木さんが創設された新右翼団体「一水会」の機関紙『レコンキスタ縮刷版』(2巻。1~200号)も刊行しました。

【注】統一戦線義勇軍 1980年代はじめ、一水会を中心に結成された新右翼、行動右翼の連合組織。初代議長は木村三浩氏(現一水会代表)、書記長は清水浩司氏。結成後すぐに清水浩司氏らによるリンチ・殺人事件が起き「新右翼版連合赤軍事件」と揶揄された。現在でも活動を継続している。

さらには、12年前の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件で会社が壊滅的打撃を蒙り、その後、多くの方々のご支援により復活、鈴木さんへの長年のお付き合いのお礼も兼ね、私たちの思想的総括を懸けて、いわゆる「西宮ゼミ」といわれる、市民向けのゼミナール「鈴木邦男ゼミ」を2010年9月から隔月ペースで3期3年にわたり開催しました。多くの著名な方々が当地(兵庫県西宮市)までお越しになりました。18回開催し(「西宮ゼミ」はその後「浅野健一ゼミ」「前田日明ゼミ」と続き計30回で一応終了しました)、一度たりとも採算に合ったことはありませんが、それでも私は清々しい気分でした。これは記録に残っていて、今これを紐解きながら、鈴木さんとの長い付き合いを想起しため息をついています。なぜ、ため息をついているのか、鈴木さんにはもうお分かりのことと察します。

『生きた思想を求めて 鈴木邦男ゼミ in 西宮報告集〈Vol.1〉』(2012年)、『思想の混迷、混迷の時代に 鈴木邦男ゼミ in 西宮 報告集〈Vol.2〉』(2013年)、『錯乱の時代を生き抜く思想、未来を切り拓く言葉 鈴木邦男ゼミ in 西宮報告集〈Vol.3〉』(2014年)

ここ1年3カ月余り、私(たち)は、「カウンター」とか「しばき隊」と自称他称される「反差別」運動内で、「カウンター」-「しばき隊」のメンバーによって惹き起こされた大学院生集団リンチ事件の真相究明と、裁判闘争を含めた被害者M君支援を行ってきました。私たちなりに事実関係を整理し精査していく過程で多くのことを知ることができました。幸か不幸か……。

その成果は、このかんに出した3冊の本に編纂し出版いたしました。「カウンター」-「しばき隊」界隈の人たちからは「デマ本」とか非難されていますが、その内部にいた人たち複数にチェックしてもらったらほぼ事実だということでした。事実関係には、全く白紙の状態から取材や調査をし、裁判も絡んでいますから特に厳しく留意しています。

驚いたことは幾つかありますが、その一つが、鈴木さんも「共同代表」に名を連ねる「のりこえねっと」、及びこれに群がる人たちがリンチの加害者を擁護し、この唾棄すべきリンチ事件の隠蔽工作、さらには被害者M君へのセカンド・リンチを積極的に行っていることでした。私(たち)に言わせたら「のりこえねっと」は「コリアNGOセンター」と同じく、リンチ事件隠蔽工作の〝特A級戦犯〟です。

「共同代表」の中で、事実上のトップといえる辛淑玉氏は、当初は被害者側に立ち、「これはまごうことなきリンチです」としてリンチ事件の真相究明と被害者M君への慰謝、問題の根本的解決を進めるかと思いきや、すぐに沈黙、昨年9月には逆に掌を返し、挙句には被害者M君が「裁判所の和解勧告を拒否」しているとまでウソの記述をして、あれだけ証拠が揃っていながら、深刻な事情があるのか、「リンチはなかった」という加害者側に寝返ってしまいました。

その3冊の本で集団リンチが確かにあったことが公にされ、佐高信氏ら他の「共同代表」の方々は、ひたすら沈黙です。普段歯切れの良い物言いで人気があり私もファンだった佐高氏でさえ黙殺されています。これも意外でした。中沢けい氏に至っては、電話でガチャ切りされ、ようやく直撃することができましたが、取材担当の若者を前にして、したたかにずるく交わしています(『人権と暴力の深層』参照)。人間として醜いです。

さらには、「共同代表」ではありませんが、「のりこえねっと」に巣食い「のりこえ」の名を冠したネット放送を頻繁に行う実質的中心メンバー、野間易通、安田浩一氏らは、被害者へのセカンド・リンチを執拗に行い続けています。

鈴木さんのサイト『鈴木邦男をぶっとばせ!』では、彼らと和気あいあいと写っている画像が頻繁にアップされています。今週号(6月26日更新)でも3枚の画像がアップされ、うち1枚は鈴木さんが発言されている場面、さらに1枚は辛淑玉氏とのツーショット──「共同代表」、普通考えれば、この会にそれ相当の立場があるわけですから、それも当然と言えば当然かもしれません。

とはいえ、一般にはさほど知名度がなくセカンド・リンチの旗振り役・金明秀(関西学院大学教授)氏の写真をアップされた(『鈴木邦男をぶっとばせ!!』6月12日号)のには驚きました。「松岡さんへの当てつけでしょう」と言う方もいますが、どうなのでしょうか? 金明秀氏がどういう言動を行っているかは、辛淑玉氏や「のりこえねっと」がリンチ事件隠蔽工作について、どう動き、どのような役割を果たしているかは、お送りしている3冊の本をご覧になれば分かるはずです。読み飛ばされましたか? 

しかし、鈴木さんには、佐高氏らのような対応をしてほしくはありませんし、そうした「のりこえねっと」の「共同代表」を務め、辛淑玉氏ら中心メンバーと昵懇であれば、M君リンチ事件や、この隠蔽工作について立場や意見などを明確にされるべきではないでしょうか。そう思いませんか?

鈴木さんは、かの野村秋介氏(故人)をして「人間のやることではない」と言わしめた、見澤知廉氏らが惹き起こしたリンチ・殺人事件を境に、言論に主たる活動の場を求め舵を転換されました。このリンチ・殺人事件は、鈴木さんにとって大きな衝撃だったことが、長い付き合いの私には判ります。僭越ながら、鈴木さんとの付き合いで、現一水会代表の木村三浩氏ら一部を除いて、30数年の長きにわたる人はさほど多くはないものと察します。特に出版関係者では……。こういう意味でも、鈴木さんとは全く付き合いのない、社外取材班メンバー「A生」とは、立場も思うところも異なります。

昨年来、私は鈴木さんに、リンチの加害者を擁護しこのリンチ事件隠蔽工作を行う辛淑玉氏ら「のりこえねっと」を採るか、被害者側に立ちリンチ事件の真相究明と被害者支援を行っている私や鹿砦社を採るか、選択を迫っています。回答がございません。鈴木さんほどのひとかどの方が、八方美人的に振る舞われることはやめたほうがいいいのではないでしょうか。思想界でも、社会的にも大きな存在となった鈴木さんは、その泰斗として、いいことはいい、悪いことは悪いとはっきり物言うべきです。それができなければ、厳しい言い方になりますが、「A生」が言うように「言論界からの引退」も考えられたほうがいいでしょう。

鈴木さんの日和見主義的態度に、ある読者は「手持ちの安田浩一氏、鈴木邦男氏の著作は全て処分することに決定しました」と言ってきました。リンチ加害者を擁護してやまない安田氏は当然として、鈴木さん、恥ずかしくありませんか?

鈴木さんは見澤知廉氏ら統一戦線義勇軍によるリンチ・殺人事件に直面し、運動内における暴力の問題に苦慮され、その結果として言論による活動にシフトされたと私は思ってきました。では、ふたたびリンチ事件に接し、この国屈指の思想家であり知識人であり社会運動家である鈴木さんは、どう振る舞われるのでしょうか?

先の「デジタル鹿砦社通信」で、このかん私と共に活動してきた「A生」は、私がいまだに「逡巡と苦悶」をしていることを感じ取り、ダイレクトな表現でネット上に明らかにしました。同じ取材班の田所敏夫は、私と鈴木さんほど長くはありませんが、辛淑玉氏との長い関係を清算し「決別状」を、この「デジタル鹿砦社通信」で明らかにしました(『反差別と暴力の正体』に再録)。

リンチ事件追及第三弾『人権と暴力の深層』で、私は、「鈴木邦男さんへの手紙」を書くつもりでしたが、「逡巡と苦悶」を繰り返し書けませんでした。いろんな意味で、やはりこのままではいけないと思い、気持ちを整理しつつ、こうして「鈴木さんへの手紙」を書き始めた次第です。私と鈴木さんとの関係を知る人はおそらく大なり小なり驚かれるでしょう。

人は、ここぞという時に、どう振る舞うかで、その人の人格なり人間性が現われるのではないでしょうか。とりわけ、知識人のレゾンデートル(存在理由)はそこにあると私は考えています。ふだん立派なことを言っていても、ここぞという時に日和見主義的態度をとったり、逃げたりするような人は、「知識人」としてのみならず人間としても失格です。私と知り合い、言論活動に舵を切られて以降、生来頭脳明晰な鈴木さんは、この国の言論界でも存在感を示すようになられました。知り合った頃の、言論界から異物、異端としか思われていなかった鈴木さんを知る私としては喜びにたえません。今、鈴木さんの発言は、この国の言論界でも受け入れられ、その優等生的な発言に面と向かって非難や罵倒をする人はいないでしょう。いまや一介の右翼活動家、右派系知識人ではなくなりました。

鈴木さん、リンチ直後の被害者M君の写真を見て、どう思われますか? 失礼な言い方になりますが、被害者M君は幸いにも死に至らなかったから、間違っても、見澤氏によるリンチ殺人よりはマシだなどとは思ってはおられないでしょうね? くだんのリンチ事件に接して、日頃「非暴力」とか「暴力はいけない」と言っている人たち(この代表は、「のりこえねっと」が支援している、「しばき隊」内の最過激派「男組」組長で暴力行為や傷害で前科3犯、そして昨年も沖縄で逮捕され公判中の高橋直輝こと添田充啓氏です)、とりわけ「カウンター」運動や「のりこえねっと」に関わる人たちがこぞって隠蔽に走ったり沈黙しています。著名な方々も少なくありません。なんのために知識を培ってきたのか、情けないことです。事実に真摯に向き合い自らのスタンスをはっきりさせるべきでしょう。

本来ならば、こういう時こそ鈴木さんの出番ではないでしょうか。私と知り合った直後に統一戦線義勇軍のリンチ・殺人事件に直面し、のた打ち回られたのではないですか。こういう経験を今こそ活かし、大学院生リンチ事件の内容を当初から知り隠蔽工作に走る辛淑玉氏ら「のりこえねっと」の「共同代表」の方々に厳しく進言し、逃げないで問題の本質的解決に汗を流すべきではないでしょうか。鈴木さん本当にこれでいいんですか!? 私の言っていることは間違っていますか?

長年、私には常に鈴木さんの<影>がありました。80年代からの私と鈴木さんとの付き合いの経緯を知らない香山リカ氏などちゃらちゃらした人たちが言う以上に、口では表現できないような、あまりにも濃密な関係があり、もし決別することになれば、大仰な言い方ですが、出版人としての私の30数年そのものを全否定することにもなりかねません。

しかし、人付き合いに不器用で、あちらにも良い顔、こちらにも良い顔ができない私は八方美人にはなれません。要領よく振る舞えず、どこにも良い顔はできません。

私ももうすぐ66歳、決して若くはありません。鈴木さんは70歳を越えられました。自らの心を押し殺し、なあなあで行くほうが簡単ですし、正直、この歳になって義絶したくはありませんが、頑固な鈴木さんは、「のりこえねっと」共同代表をお辞めになる気はなさそうですし、お考えを変えられそうもありませんので、義絶するのも致し方ないかもしれません。一方、私は、辛淑玉氏ら「のりこえねっと」界隈の人たちによるリンチ事件隠蔽に反対しこれを突き崩し、被害者M君へのセカンド・リンチから彼を守ることに尽力していく決意です。

「老兵は去るのみ」── 実は私は、昨年65歳になったところで、会社も再建し黒字体質になったことだし第一線から引退し、いわば「相談役」的な立場に退くつもりでした。これは周囲に公言していましたので覚えておられる方もいらっしゃるかと思います。しかし、その少し前にリンチ被害者のM君に出会い、この理不尽な事件の真相究明とM君支援に汗を流すことにし、引退を先延ばししました。

鈴木さん、厳しい言い方になりますが、いいことはいい、悪いことは悪いと言えなくなった鈴木さんは、「A生」が言うように「言論界からの引退」も考えられたほうがいいのではないでしょうか。私にしろ鈴木さんにしろ、けっして若くはありませんから、どこかの時点で、「老兵」は去らないといけません。「老兵」松岡は、早晩M君問題が解決したら、当初の予定通り第一線から退き、近い将来出版の世界から去るつもりです。鈴木さんはどうですか?

ここに至り私は、このM君リンチ事件の真相究明と被害者M君支援に、私自身の出版人生の総括を懸けて、この最後の仕事とするというぐらいの覚悟で臨んでいます。それはそうでしょう、目の前にリンチの被害者が現われ、誰にも相手にされず助けを求めてきたら、人間ならば手助けしようとするでしょう。そして、そのリンチ事件、及び以降の隠蔽工作やセカンド・リンチが理不尽なものであったら、歳とってフットワークが鈍くなったとはいえ、真相究明をしたくなるでしょう。そうではありませんか?

このリンチ事件は、人間としてのありようを問うものです。鈴木さん、これでいいんですか!? これを蔑ろにして、鈴木さんのみならず「人権」だとか「反差別」だとか口にする人を今後私は信じません。

鈴木さんとは生きる方向性が真逆になってしまいました。このまま鈴木さんが「のりこえねっと」や「しばき隊」、この界隈の人たちと関係を続けられるのであれば、残念ながら、私は静かに去るしかありません。ほとんど私のほうがご面倒をおかけしお世話になったと思います。長年のご交誼に感謝いたします。

この手紙も、そろそろお終いにしますが、鈴木さん、大学院生M君集団リンチを肯定し事件の存在を隠蔽しようとしている「のりこえねっと」や「しばき隊」と手を切ってください。そうでないと、鈴木さんもリンチ隠蔽やセカンド・リンチの<加害者>となり、せっかく日本を代表する思想家として名を成したのに晩節を汚すことになりますよ。鈴木さんには<偽善者>になってほしくありません。これが最後の忠告です。

蛇足ながら、「のりこえねっと」や「しばき隊」と特段に密接な関係のある香山リカ氏は、「デジタル鹿砦社通信」6月20日号の「鹿砦社特別取材班 A生」の個人的意見を即鹿砦社の見解と誤認し「A生」が「言論界からの『引退』を勧告する」のは「鈴木氏に御社(引用者注 鹿砦社)からのすべての出版物の版権引き上げをおすすめし、新たな版元の紹介や手続きなどすべて御社で行ったのち、が出版界の常識でしょう」と、ネットで話題になった「どこに(本を)送付したか、ちょっと書いてみては?」(そう言うから書いたら神原弁護士から内容証明が届きました)という挑発に続き、またまた〝挑発〟されていますが、出版界に30数年いる私にも、はたして香山氏の言うようなことが「出版界の常識」かどうかは判りません。ここは香山氏の〝挑発〟に乗って申し上げますが、鈴木さん、どうされますか? 鈴木さんが「版権引き上げ」や絶版を希望されるのなら、それもよし、私に異存はございません(もし鈴木さんが版権引き上げや絶版を希望される場合、香山氏が言うように「新たな版元の紹介や手続きなどすべて」をやるのが前か後かは別として事務処理はきちんと行わせていただく所存です)。

長い手紙になりました。これでも自分では整理して書き連ねたつもりですが、感情が入り乱れている箇所や、内容が繰り返されている箇所もあるやもしれません。30数年の重みは、思った以上に肩にのしかかり堪えるものです。

いろんなことが過りました。時に感傷的にもなりました。鈴木さんとリンチ事件に対する構え方や目指す方向性が決定的に違ってしまいました。私はあくまでもリンチ事件の真相究明と被害者M君支援を継続しますが、鈴木さんは、そうした私(たち)と対立する「のりこえねっと」共同代表を継続されるようですから、やむをえません、喧嘩別れではありませんが、ここは袂を分かち、各々信じる道を進みましょう。

鹿砦社代表 松岡利康

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《鳥取不審死・闇の奥03》 様々な点が酷似していた2つの殺人事件

6月29日、最高裁で上田美由紀被告(43)に対する上告審の弁論が開かれる鳥取連続不審死事件。前回は、上田被告が2009年4月、トラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬を飲ませ、海に誘導して溺死させたとされている通称「北栄町」事件について、上田被告と矢部さんの事件当日の足取りをたどったうえで、上田被告の無実の訴えが荒唐無稽だったことを伝えた。

今回は、同年10月に上田被告が電化製品の代金約53万円の支払いを免れるため、電気工事業の圓山秀樹さん(同57)を殺害したとされている通称「摩尼川事件」について、一、二審判決をもとに上田被告と圓山さんの事件当日の足取りをたどり、事件の真相を検証する。

◆2人目の被害者も1人目と同じ死に方

鳥取市を流れる摩尼川の上流で、圓山さんが遺体で見つかったのは2009年10月7日の午後2時半過ぎだった。発見者は圓山さんの知人で、遺体はえん堤付近の河川内でうつ伏せの状態で浮いていた。圓山さんは前日の午前8時頃に家を出かけたまま、行方不明になっていた。

解剖の結果、圓山さんの死因は溺死と判断されたが、矢部さんと同じく圓山さんも体内から睡眠薬や抗精神病薬の成分が検出された。一方で、体内からアルコールは検出されず、疾病も確認されず、頭部などに損傷もほとんど認められないことなどから圓山さんが誤って川に転落したとは考え難かった。さらに現場の水深は30センチから80センチ程度であるにも関わらず、圓山さんの手の平などには傷がなく、溺れた際に危険回避行動をとっていなかったと推定された。

つまり、海と川の違いこそあるが、圓山さんも矢部さん同様、何者かに睡眠薬を飲まされたうえ、水の中に誘導されて溺死させられたことを示す事実が揃っていたわけである。そして2つの事件の共通点はそれだけではない。事件当日に上田被告と被害者がたどった足取りも2つの事件は酷似しているのである。

圓山さんの溺死体が見つかった摩尼川のえん堤付近

◆いずれの被害者とも事件当日に行動を共にした被告

圓山さんと内縁関係にあった女性によると、圓山さんは事件の1週間前の朝に上田被告から電話があったことについて、「(電化製品の)代金を支払わない女性客がいる。その女性の親族が払ってくれる」と述べていた。そして事件当日の午前8時8分、圓山さんは上田被告から電話をうけ、女性に「集金に行く」と言い、朝食を食べずに慌てた様子で出かけたという。その約20分後の午前8時30分頃、圓山さんは営んでいた電化製品販売業の事務所前で上田被告と合流し、自分の車に乗せている――。

つまり、2つの殺人事件の当日、いずれも上田被告は被害者と朝から会っているわけだ。

さらに言うと、実は裁判では、上田被告がこの日、圓山さんに会う前に知人の運転する車でファミリーマート鳥取丸山店に赴き、麦茶など4点を購入していることも明らかになっている。矢部さんが殺害された事件当日も上田被告は矢部さんに会う前、このファミリーマート鳥取丸山店で飲み物などを買っていた。2つの殺人事件の当日に上田被告がとった行動はこんなところまで共通しているわけである。

そして上田被告は圓山さんと合流後、喫茶店に立ち寄ってモーニングを食べ、圓山さんの運転する車でいったん岩戸港という港に赴いている。それ以降の行動については、色々争いがあるが、上田被告と圓山さんが摩尼川の殺害現場近辺まで車で赴いていることは間違いない。

そしてこの日の朝、上田被告と会ったのちに殺害現場のほうに向かい、行方が途絶えた圓山さんは、翌日、摩尼川で睡眠薬を飲まされた溺死体となって発見されている。4月に矢部さんが亡くなった時とまったく同じようなことが再び起きたわけである。この事実経過を見ただけでも、上田被告が圓山さんを殺害したのだと確信する人は少なくないだろう。

◆被告の弁明内容も2つの事件は酷似

そんな状況でもなお、上田被告は圓山さん殺害の容疑についても無実を訴えているのだが、実は上田被告の弁明の内容も2つの殺人事件は酷似している。上田被告は裁判において、矢部さんの事件に関して主張したのと同様、圓山さんの殺害についても同居していた男性A氏が犯人であるかのようなことをとうとうと語っているのである。

次回は、その上田被告の弁明内容をみていこう。

(次回につづく)

【鳥取連続不審死事件】
2009年秋、同居していた男性A氏と共に詐欺の容疑で逮捕されていた鳥取市の元ホステス・上田美由紀被告(当時35)について、周辺で計6人の男性が不審死していた疑惑が表面化。捜査の結果、上田被告は強盗殺人や詐欺、窃盗、住居侵入の罪で起訴され、強盗殺人については一貫して無実を訴えながら2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受ける。判決によると、上田被告は2009年4月、270万円の借金返済を免れるためにトラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませて海で水死させ、同10月には電化製品の代金約53万円の支払いを免れようと、電気工事業の圓山秀樹さん(同57)を同じ手口により川で水死させたとされた。そして2014年3月、広島高裁松江支部の控訴審でも控訴棄却の判決を受け、現在は最高裁に上告中。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

私の内なるタイとムエタイ〈2〉 22年ぶりのペッブリー県、タムケーウ寺再訪

クティ(僧宿舎)内。22年前、この壇上で日々の食事をしていました
献上される寄進物。私もこんなふうにバーツ(お鉢)と黄衣を買って来ました。贈ってくれる親族が居ないので自分で買うのです
和尚のアムヌアイさん。私、貫禄で負けそうです
タムケーウ寺の境内。寺の敷地内もこんな綺麗になりました
タムケーウ寺の憩いの場。バス停のような佇まい

なぜ22年もお世話になった寺に足が向かわなかったのだろう。今回、その寺に向かうことになった導きは何だったのだろう。藤川さんが導いたのか、ムエタイ絡みの友達の縁がそうさせたのか。

バンコクからペッブリー県に向かう朝、同行していた友人は仕事でシンガポールへ向かい、22年ぶりの出身寺に向かうのは私一人でした。

サイタイマイという南方行きバスターミナルにムエタイジム経営の友達に車で送って貰い、バスのチケットを買う。以前はエアコンの青色高級大型バスだったのに見渡すとワゴン車が並んだ乗り場しか見当たらない。経費節減でこんな運送手段に変わったのか。真相は分かりませんが係員に言われるがまま、この車に乗り込みました。いずれにしてもペッブリー県まで2時間ほど掛かります。

◆私が出家したタムケーウ寺

着いたところは、私が出家したタムケーウ寺の隣のバスターミナル。何も迷わず寺に着きますが、宿泊地を探してやや遠回り。すると周りをうろつく野良犬が唸りながら寄ってきます。何もしなければ咬まないまず。しかし煩いので、振り返ってカメラを向けると途端に逃げ出す。コンパクトカメラなのに怖いのか。以前、夜に絡まれた際はフラッシュ焚いてやったら途端にシッポ巻いて逃げたものでした。野良犬にフラッシュは効果的です。

私が寺に居た当時に寺の脇にローカル型(エアコン無し)長距離バスターミナルが新たに開設されましたが、今は無く、それとは違う位置にこの日に乗ったワゴン車型バスターミナルが開設されていました(エアコン高級バスはもっと離れた集落にターミナルがありました)。

昔は舗装の無い土埃のたつ路地と草の生える空地でしたが、今や立派な飲食店を含む団地が立ち並ぶ街となっていました。「お前が今度来た時は街の変貌に驚くぞ」と言っていた藤川氏の手紙を思い出す街並みでした。

プラ・ナコーン・キーリー(歴史公園)という観光地の山の麓にある、この寺の中も新たな仏塔が幾つか増え、寺の敷地内に舗装された歩道が引かれ、クティ(僧宿舎)も改築された綺麗さが目立ち、本堂周りも裸足で歩けば尖った地面に痛い思いをするザラつくコンクリート造りからタイル張りのような石畳に変化。これなら裸足で歩いても痛くないはず。お寺もお金が無ければ新たな建築物は建ちませんが、それなりに“儲かっている”と言ってはかなり語弊あるところ、信者さんが寄進する結果の発展をしていることが伺えました。

以前から藤川さんに教わり知っていたことですが、私の出家を認めて下さった以前の和尚さんは十数年前、ニーモン(信者さんの招きでの寄進)に向かう途中に交通事故で亡くなっており、今の和尚は私の初めての剃髪をしてくれた、当時の寺では中間管理職的なお坊さんで、現在51歳。厳しさある歳の取り方が表情に表れている貴乃花親方のような貫禄を感じました。

22年ぶりの再会ツーショット

◆笑って迎えてくれた和尚さんに感謝

笑顔で懐かしそうに迎え入れてくれましたが、最初に出た言葉が「よく来たな、もう嫁はもらったか?」。

「居ねえよ!」とは思えど、そんな目くじら立てることではなく、「居ない居ない、一人で居る自由奔放な人生だから」と言うと、「お前はホモか、ワッハッハッハ!」。

イラつく会話ではなく、「お前らこそホモ集団だろ、何十年も寺に居やがって!」とはギャグ的に思っても声には出していませんが、笑って迎えてくれた和尚さんに感謝でありました。

「今度、出家したいと言う友達を連れて来たら、この寺で出家させてくれますか?」と尋ねると、いとも簡単に「いいよ!」という返答。タイ人は先を読まず簡単に了解する民族であります。後になって「ダメダメ!」と言い出すこと当たり前なので再度交渉が必要です。

しかし、「で、いつ来るんだ?」とは気の早い展開。いやいや、その想定で聞いてみただけで実際に身近に出家志願者が居る訳ではない。しかしそんな心に悩みを持つ人生転機に、志願者がいつ現れてもおかしくない状況でもあるのです。そんな前準備的相談の訪問でもありました。

献上される寄進物。お坊さんに渡すグッズ数、15名分でしょうか
得度式を行なう本堂。懺悔の式もここで行ないました。懐かしい場所です
フェイスブックに夢中のメーオさん

◆また一人懐かしい僧侶と再会

そんな話は先延ばしとして、また一人懐かしい僧侶と再会。私より10歳若いお坊さんで22年前は23歳ぐらい。今は45歳と言う“メーオ”というニックネームで呼ばれていたお坊さん。まだ居たか、お互いハグまでした懐かしさでした。

「こいつは学も無いし、坊主やっているしか無いやろうなあ。還俗したところで就職先も無いやろうし」とは私がまだこの寺に居た頃の藤川さんの言葉。そんなことを思い出したのは、このメーオは数年前、一回還俗したことがあるという。たった5日で再出家したと言うメーオ。その理由を教えてはくれなかったが、藤川さんの言葉を思い出してしまうのでした。

しかし、こんなお坊さんは知能が低い訳ではありません。田舎では幼い頃に学校に行く機会が無かった者が多かったのです。今とはまた時代が違うので比べられないですが、メーオが持っていたのは“スマホ”。いとも簡単にフェイスブックを使いこなす。その中でも友達の多いこと。私は専門学校まで出ていても未だに使いこなせない。

外から見たクティ(僧宿舎)。藤川さんの部屋もここにありました
寺周辺でたまたま祭りの露店が並んだ店

◆「寺に泊まるか」とは誘われたが……

そんなクティの中で、早速翌日、得度式(出家式)を迎える青年が経文を暗記している姿を発見。これは撮って行こうと早速、得度式の撮影許可依頼をしました。ここでも「いいよ!」と誰もが言う簡単な了解。和尚は以前の私の撮影姿を見たことがあるお坊さん。どんな撮り方をするか、おおよそ想定出来たと思いますが、なかなか一般人として高僧の前をどこまで踏み込めるかは難しい問題があるのは承知の上でした。

その青年の親族が石鹸や歯ブラシなどの日用品を包んだ、寺での必需品を持って現れ仏壇に献上。といってもそんな僧侶グッズが街で売っている必需品であります。更に僧志願者に与える黄衣も同様に捧げていました。

僧志願者の若者は21歳で“ワサン”と言う名前でした。この得度式のため、過去に藤川氏が移籍したサムットソンクラーム県の寺に向かうことは中止として、スケジュールどおりにはいかないのがタイの常識ではありますが、機転を利かせて動く心構えで翌日の得度式に準備を整えました。

「寺に泊まるか」とは誘われましたが、寝る部屋も固い床に毛布一枚だったり、水浴びも想定も出来、懐かしい寺の造りの中ですが、先に近くにとったゲストハウスに戻ることにして、賑やかな寺周辺のターミナルや、たまたまお祭りの露店が連なっており、見て歩き食事もして、この日を終わりました。(つづく)

よそ者に吠えて向かってくるがカメラを向けると逃げる犬

◎ 私の内なるタイとムエタイ 〈1〉14年ぶりのタイで考えたこと

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』7月号!愚直に直球 タブーなし!【特集】アベ改憲策動の全貌
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

6・6高浜原発3号機再稼働反対集会 ── 『NO NUKES voice』ルポ〈2〉

最新刊『NO NUKES voice』12号【特集】暗い時代の脱原発──知事抹殺、不当逮捕、共謀罪 ファシズムの足音が聞こえる!

夜行バスではあまり眠れなかった。隣がいたら休めないことは分かっていたから、割高(それでも片道4,000円)の独立3列シートを購入したのにもかかわらず、だ。

川崎を出発するまでシートを倒すな、消灯したらスマホを見るな、カーテンを開けるな、渋滞中です。繰り返されるアナウンスに嫌気がさしたまま京都に到着した。

マイクロバスに乗り換え、しばらく北上。6月6日(火)、高浜原発3号機の再稼働を阻止すべく集まった人々と共に現地へ向かった。

◆5月17日の4号機再稼働に続き、6月6日に3号機が再稼働

高浜原発3号機、4号機は、2016年3月に大津地方裁判所が下した決定により運転を停止。裁判所が稼働中の原発の運転停止を命じた初の事例として注目されていた。

しかし、今年の3月に大阪高等裁判所が大津地裁の判断を覆す決定を下したことで、5月17日に4号機が再稼働。3号機についてはこの日、6月6日の14時に再稼働が予定されていた。

◆たじろぐ警察官、近づく海上保安庁ボート

高浜原発付近では複数回の検問に足止めされた。強気の運転手にたじろぐ警察官。なんのための検問かと尋ねると、ペットボトルロケットが打ち込まれたことなどを受け原発を警備しています、と答える。ワードのコントラストがなかなか面白い。

“音海地区”から原発を眺めていると、海上保安庁のボートが近づいてきた。それにしても海は透明で、風も心地よい。原発さえ見えなければとても穏やかな環境だと言える。

◆警察らと対峙する人たち、涙ぐむ黒田節子さん

現地には、報道陣や警察官を除き、約120名が集まっていた。数こそ少なく感じるかもしれないが、あのような僻地の限られたスペースだ。警察らと対峙する人数としては迫力がある。

暑い日差しのなかスピーチとシュプレヒコールを繰り返すも、3号機再稼働の知らせが入る。以降、原発を止めろとの主張に変更し抗う参加者。

「福島はもう取り返しがつかないが、高浜ではまだまだやるべきことがある」と語る、原発いらない福島の女たち・黒田節子さんの目には涙が浮かんでいた。

◆ゲート前の騒然──途絶えた拡声器の音と抗う人たち

代表者がゲート内に入りマイクを握った際、鉄製のゲートを締め切ったことが無線の障害となったのか、拡声器から声が聞こえなくなってしまった。

申し入れ内容を聞かせてくれと頼む声を無視されたことに反発し、数名がゲートに駆け寄り制止されるという、やや騒然とした場面も見られた。

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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Instagram : http://instagram.com/omiya_kohei

最新刊『NO NUKES voice』12号【特集】暗い時代の脱原発──知事抹殺、不当逮捕、共謀罪 ファシズムの足音が聞こえる!
多くの人たちと共に〈原発なき社会〉を求めて『NO NUKES voice』

《鳥取不審死・闇の奥02》弁護人も悲しげな表情で聞く被告人の荒唐無稽な弁解

周辺で6人の男性が不審な死を遂げ、そのうち2人の男性に対する強盗殺人の容疑を起訴された鳥取連続不審死事件の上田美由紀被告(43)。裁判では、別件の詐欺や窃盗は罪を認めたが、2件の強盗殺人についてはいずれも無実を主張している。しかし、2つの強盗殺人事件が起きたとされる日の上田被告と被害者らの足取りをたどってみると、それだけでも上田被告の無実の訴えは無理があるとわかる。

今回はまず、現場の地名から「北栄町事件」と呼ばれる2009年4月4日の事件について見てみよう。一、二審判決によると、上田被告はこの日、270万円の債務の支払いを免れるため、トラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませ、海中に誘導して溺死させたとされる。2人は3月5日、金額を270万円、借主を上田被告、貸主を矢部さん、連帯保証人を上田被告と同居していた男性A氏とし、返済期限を3月31日とする金銭借用証書を作成していたというのは前回述べた通りだ。つまり、事件があったとされる4月4日は返済期限を4日過ぎた日だったことになる。

この日、上田被告は午前7時33分頃、車を使えば自宅からそう遠くない鳥取市丸山町のファミリーマート鳥取丸山店で、おにぎり2個、お茶、即席みそ汁を購入。これと前後して矢部さんと連絡をとって合流し、矢部さんはその後、上田被告が購入したおにぎりやみそ汁を食べている。

そして上田被告は矢部さんの運転する車ダイハツミラの助手席に乗り、2人で殺害現場の東伯郡北栄町の砂浜があるほうに向かっている。そして午前8時16分、国道9号線沿いにあるファミリーマート鳥取浜村店に到着。この店で上田被告はフェイシャルペーパー、ハンディウェットティッシュ、紙コップ、缶コーヒーを購入すると、再び助手席に乗り込んで、午前8時22分に同店を出発し、殺害現場の砂浜がある西のほうへ向かっている。

こうしたことは防犯カメラの映像など上田被告の裁判で示された客観的証拠により動かしがたく証明されている。そしてこの日、午前8時22分、ファミリーマート鳥取浜村店を出発する際に防犯カメラの映像で確認された矢部さんの姿は、客観的証拠により認められる「矢部さんの生前最後の姿」となった。

2日後の4月6日、殺害現場の砂浜で矢部さんのダイハツミラが止められているのが、通報を受けて臨場した警察官により確認される。それからさらに5日後の4月11日、砂浜から東に約3・5キロメートル離れた沖合の海中でワカメ漁をしていた漁師により、矢部さんの溺死体が全裸の状態で発見されている。そして死体解剖の結果、矢部さんの血液や胃内容物から睡眠薬や抗精神病薬が検出された――。

上田被告が矢部さんを殺害したとされる北栄町の砂浜

◆同居していた男性が真犯人であるかのように語ったが……

さて、矢部さんの体内から検出された睡眠薬などと上田被告の結びつきについては後に述べるが、矢部さんには自殺の動機や兆候は見受けられなかったという。とすれば、矢部さんが砂浜で自ら睡眠薬などを飲み、溺れ死んだとも考え難く、何者かに睡眠薬を飲まされ、殺害されたとみるほかない。矢部さんが姿を消すまでの経緯からして、その「何者か」が上田被告である疑いを抱かない者はいないだろう。

そんな状況において、上田被告にとって無実を訴えるうえでの唯一の望みは、午前11時過ぎに現場の砂浜で当時同居していた男性A氏と合流していることだ。この件に関する上田被告とA氏の言い分は大きく食い違うが、上田被告が電話やメールでA氏を迎えに来るように呼び出したことは事実関係に争いがない。そして上田被告は控訴審の法廷において、A氏こそが真犯人であると言ったに等しい次のような供述をしたのである。

・・・・・以下、控訴審判決をもとにまとめた上田被告の公判供述の要旨・・・・・

矢部さんの運転する車で西に向かっていた途中、矢部さんは私と自分の交際について、『今後どうするだ』『どう思っとる』などと言ったり、Aさんのことを『あれは男だろう』などと問い質したりしてきました。そして私が曖昧な答えをしていることについて怒り出したため、私はそのまま怒らせたら大変だと思い、矢部さんに対し、『頭、冷やして』と言って砂浜近くにあるコンビニ付近の路上で車から降ろしてもらいました。すると、矢部さんは砂浜のほうにいったん去っていきました。

その後、矢部さんは私をおろした場所まで戻ってきましたが、「頭、冷えたん?」と尋ねたところ、「いや、もうちょっと」と言うので、私が「じゃあ、もう1回頭冷やしてきて」と言ったところ、矢部さんは「わかった」と言って砂浜のほうに車を走らせて行ってしまい、その後、私は矢部さんと顔を合わせていません。

そしてこの間、私はAさんにメールや電話で迎えに来るように頼んでいたのですが、午前11時11分過ぎ頃、車に乗ってきたAさんと合流しました。そしてAさんに対し、矢部さんを怒らせてしまったことや、私のかばんを矢部さんの車に残したままにしてしまったことを説明したところ、Aさんは車を運転し、現場の砂浜手前の空き地に車を停め、車のトランクからペットボトル入りミルクティー2本を持ち出し、私を車に残して1人で砂浜のほうに歩いていき、約20分後、ズボンを濡らした状態で、私のかばんを持って戻ってきました。

その後、Aさんとホテルに入りましたが、Aさんは私をホテルの部屋に残し、車を運転してどこかへ行きました。Aさんはしばらくしてから戻ってきましたが、その時、車の後部座席には、矢部さんが当日着ていた着衣の上下とスコップが積んでありました。

・・・・・以上、控訴審判決をもとにまとめた上田被告の公判供述の要旨・・・・・

矢部さんは事件前、上田被告と交際しているような状態だった時期があったとされる。それにしても、上田被告の供述では、矢部さんが嫉妬に狂い、突如、頭がおかしくなったような話になっており、あまりにも不自然だ。そして同居男性のAさんについては、上田被告に呼ばれて現場にやってくるなり、矢部さんに睡眠薬を飲ませ、殺害した犯人であるかのような行動をとったことになっているのだが、荒唐無稽な弁解だと言わざるをえない。

広島高裁松江支部の控訴審で被告人質問が行われた際、私は傍聴券を確保できず、法廷の出入り口ドアにつけられた小窓から中の様子を伺っていたのだが、上田被告に質問をしている男性の弁護人が何やら悲しげな表情をしていたのが印象的だった。それは、第一審では公判で黙秘したまま死刑判決を受け、いよいよ自分の言葉で無実を訴えた控訴審でこんな荒唐無稽なストーリーを大真面目に語った上田被告に対し、哀れみを感じたからではないか。私はそう思えてならない。

(次回に続く)

【鳥取連続不審死事件】
2009年秋、同居していた男性A氏と共に詐欺の容疑で逮捕されていた鳥取市の元ホステス・上田美由紀被告(当時35)について、周辺で計6人の男性が不審死していた疑惑が表面化。捜査の結果、上田被告は強盗殺人や詐欺、窃盗、住居侵入の罪で起訴され、強盗殺人については一貫して無実を訴えながら2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受ける。判決によると、上田被告は2009年4月、270万円の借金返済を免れるためにトラック運転手の矢部和実さん(当時47)に睡眠薬などを飲ませて海で水死させ、同10月には電化製品の代金約53万円の支払いを免れようと、電気工事業の圓山秀樹さん(同57)を同じ手口により川で水死させたとされた。そして2014年3月、広島高裁松江支部の控訴審でも控訴棄却の判決を受け、現在は最高裁に上告中。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

『紙の爆弾』7月号!愚直に直球 タブーなし!【特集】アベ改憲策動の全貌
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

《本間龍20》 改憲派と電通の結託で「憲法改正国民投票」が動き出す

 
 

  
過去数回、国民投票法の問題点について取り上げたが、5月3日に安倍首相が2020年までの憲法改正を宣言したことで、来年の国民投票実施がにわかに現実味を帯びてきた。

来年というのは、国民投票実施のための国会発議には衆参両院で3分の2以上の賛成票が必要であり、現在の衆院の任期満了が来年末に控えているからだ。もし次期衆院選で与党が議席を減らして3分の2を維持出来ないと、国会発議そのものが不可能になる恐れがあるので、改憲派としては何としても来年中に実施したいのだ。

◆「失敗は許されない。やる以上は成立させる」(保岡興治推進本部長)

この安倍宣言を受け、自民党の憲法改正推進本部はそれまでの憲法審査会における与野党協調路線をかなぐり捨て、首相の意に沿うような憲法改正案策定に向けて急速に動き出した。

また、推進本部の保岡興治本部長は6月13日、国民投票について「否決されたら、安倍内閣の命運だけでなく日本の根底が揺らぐ。失敗は許されない。やる以上は成立させる」と述べ、推進本部の強化策として高村正彦副総裁を相談役とし、石破茂前地方創生担当相を執行役員会に入れて挙党態勢を目指すと述べた。

なぜ「否決されたら日本の根底が揺らぐ」のかさっぱり分からないが、自民党が総力を挙げて国民投票実施を目指し始めたことは伝わってくる。首相の発言に対して批判的な石破氏は推進本部会合でも批判はしたが、追随する者がなく孤立していると報じられており、最終的には安倍の腰巾着連中によって押し切られる可能性が高いだろう。

この保岡発言で注目すべきは、「失敗は許されない。やる以上は成立させる」という部分だ。現在、憲法改正のための国民投票実施が、国民に周知されているというような状況では全くない。自民党がどのような改憲案を提示するかで多少の違いは生じるかもしれないが、大急ぎで憲法改正をしなければならないという状況にないことは誰の目にも明らかだ。

そんな中で保岡氏がいくら「やる以上は成立させる」と力んでみても、国会の中だけならお得意の強行採決でなんとかなるが、国民に直接信を問い、なおかつ有効投票の過半数以上の賛成票を獲得しなければ「不成立」となってしまうのだから、これは相当にハードルが高い試みである。

◆改憲のための広報宣伝、国民洗脳が動き出す

自民党お得意の、国会のような「閉じられた世界」での成功方程式が全く効かないとなると、過半数以上の賛成票を発生させる方策は何か。それこそが、「人を説得する」こと、即ち怒涛のような広告宣伝によって多数の国民を洗脳し、賛成票を投じるように仕向けることしかない。

初めて体験する国民投票という場で、憲法改正という国の命運を左右する大命題の審判に参加させ、しかも必ず改憲賛成に投票させなければならない。しかもそれは全国規模で、数千万人の意志を「改憲賛成」にもっていかなければならない。これは首相が国会で所信表明演説をしたくらいでどうにかなるものではなく、圧倒的な物量で「改憲賛成」という意識を国民に刷り込まなければ到底不可能である。

そして現在の日本はまがりなりにも民主主義国であるから、独裁国家のように国民に強制的に独裁者の演説だけを聞かせて投票させることは出来ない。国民に改憲派の意見を聴かせるには、あらゆるメディア(テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・インターネット)を通して語りかけるしかない。しかし、そのメディアを使用するにはカネが必要だ。なぜなら、自らの主張だけを発信するのは、わが国においてはメディアの「広告」枠を買って使用するしかないからだ。これはもちろん、護憲派も同じである。

そうなると、国民投票で賛否の鍵を握るのは、1億人の有権者に自らの信条を届け、説得し、投票に行かせるための「広報宣伝戦略」ということになる。裏を返せば、これはある商品の魅力を伝え、購入する気にさせ、実際にカネを払って購買にまでいたらせる、通常の「商品宣伝」と基本構造が全く同じなのだ。

となれば、この憲法改正国民投票で改憲派の命運を握るのは、その広報宣伝を一手に引き受けるであろう「電通」だということになる。ネットを除くあらゆるメディアに対し大きなシェアと影響力を持つ電通は、改憲派(自民党)の豊富な政党助成金や財界からの政治資金をすべてのメディアに流し込み、圧倒的な「改憲賛成」世論作りを行うだろう。そこでどのようなことが起こるのかは以前にも書いたが、次回はさらに深く解説したい。

▼本間龍(ほんま りゅう)
1962年生まれ。著述家。博報堂で約18年間営業を担当し2006年に退職。著書に『原発プロパガンダ』(岩波新書2016年)『原発広告』(亜紀書房2013年)『電通と原発報道』(亜紀書房2012年)など。2015年2月より鹿砦社の脱原発雑誌『NO NUKES voice』にて「原発プロパガンダとは何か?」を連載中。
最新刊『NO NUKES voice』12号【特集】暗い時代の脱原発──知事抹殺、不当逮捕、共謀罪 本間龍さんの好評連載「原発プロパガンダとは何か?」第10回は「佐藤栄佐久知事と東電トラブル隠し」

《我が暴走09》事件から7年 マツダ工場暴走犯が所感を綴る直筆手記を公開!

2010年6月22日に広島市のマツダ本社工場の敷地内で元期間工の男が車を暴走させて従業員たちを撥ね、1人を殺害、11人を負傷させた事件から明日で7年。犯人の引寺(ひきじ)利明(49)は「マツダで働いていた頃、他の社員らにロッカーを荒らされたり、自宅のアパートに侵入される集団ストーカーに遭い、恨んでいた」と特異な犯行動機を語ったが、裁判では妄想性障害ゆえの妄想だと退けられ、完全責任能力を認められて無期懲役判決が確定。現在は岡山刑務所で服役生活を送っている。

 
引寺が服役している岡山刑務所

当欄では、そんな引寺がまったく無反省の服役生活を送っていることを繰り返し伝えてきたが、引寺は事件から7年経っても相変わらずのようだ。引寺はこのほど、事件から7年の節目ということでデジタル鹿砦社通信への掲載を希望し、便箋20枚を超す手記を送ってきたのだが、それを見れば、引寺が今も何ら罪の意識を感じていないことが実によくわかるのだ。

◆マツダを侮辱しながら「RX-7が大好き」

引寺の手記はまず、〈今年の6月でマツダ事件から7年経つ。もうあれから7年かあー。月日が経つのは早いねーとはいえ、日々、刑務所にキッチリ管理された変わりばえの無い単調で退屈な受刑生活を送っているワシにとっては、事件からの7年は長く感じたのー〉と罪の意識が微塵も感じられない書き出しで始まる(〈〉内太字は引用。以下同じ)。

その後は、2013年に埼玉県でマツダ系列の自動車販売会社が試乗会で車の自動ブレーキがかからずに事故を起こしたことを持ち出し、〈やはりマツダの車は欠陥車じゃのー。(笑)〉〈ったく、マツダのエンジニア達はボケとるのー。(笑)〉などと嘲り笑うなど、マツダを侮辱する記述が続く。

そうかと思えば、〈ワシはガキの頃からRX-7が大好きで、今でもその気持ちに全く変わりは無い〉とマツダ車を好きだという屈折した感情を吐露。さらに〈ワシはRX-7とロータリーエンジンが好きなのであって、マツダが好きな訳じゃない。ロータリーエンジンが持つ、マイナーさゆえの孤高の存在感が好きじなんじゃ〉などと言うのだが、こうした記述には、マツダの関係者を挑発するような意図も窺える。

◆手記で訴える集団ストーカーの「真相」

引寺は手記の後半では、自分に対する集団ストーカー行為に関与していたと信じるYという人物について、引寺の裁判に証人出廷した際に〈自らの保身の為に明らかな嘘をついた〉と主張。この事実がまったく報道されなかったことについては、大手マスコミがスポンサーであるマツダに日和っているためだという持論を展開している。

手記では、このように引寺にとっての真相が色々綴られているが、その大半は「信じるか信じないかはあなた次第」というしかない内容だ。そこで、以下に手記のすべてをスキャニングした画像を掲載した。凶悪殺人犯の実像を知るためには一級の資料だと思うので、心ある人に有意義に活用して頂きたい。

引寺が事件から7年の節目に綴った手記(01-02)
引寺手記(03-04)
引寺手記(05-06)
引寺手記(07-08)
引寺手記(09-10)
引寺手記(11-12)
引寺手記(13-14)
引寺手記(15-16)
引寺手記(17-18)
引寺手記(19-20)
引寺手記(21-22)
引寺手記(23-24)
引寺手記(25-26)

《我が暴走》マツダ工場暴走犯、引寺利明の素顔と手記
◎《08》マツダ社員寮強殺事件でマツダ工場暴走犯が本ブログに特別寄稿
◎《07》「プリズンブレイクしたい気分」マツダ工場暴走犯独占手記[後]
◎《06》「謝罪感情は芽生えてない」発生5年マツダ工場暴走犯独占手記[前]
◎《05》元同僚が実名顔出しで語る「マツダ工場暴走犯の素顔」
◎《04》「死刑のほうがよかったかのう」マツダ工場暴走犯面会記[下]
◎《03》「集ストはワシの妄想じゃなかった」マツダ工場暴走犯面会記[中]
◎《02》「刑務所は更生の場ではなく交流の場」引寺利明面会記[上]
◎《01》手紙公開! 無期確定1年、マツダ工場暴走犯は今も無反省

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
『紙の爆弾』7月号!愚直に直球 タブーなし!【特集】アベ改憲策動の全貌

「のりこえねっと」共同代表の鈴木邦男に言論界からの「引退」を勧告する

 
 

  

 

この人は「聞き手」として、相当に秀逸な能力を発揮する。右であろうが、左であろうが、少々脱輪している人が対象であろうが、必ずその人の見るべき点や、他者にはない個性を見つけ出し、それを展開してゆきながら話を盛り上げる。「すごいなーと思ったんですよ」、この人のインタビューを読んで(聞いて)いると必ずこのセリフが何度かは発せられる。現在の彼を言い現すのであれば「稀代の名インタビュアー」となろうか。『紙の爆弾』に連載されている「ニッポン越境問答」でも毎号「インタビュー力」が発揮され、登場する人物の個性を際立たせる、「聞き手」の妙を毎号披露してくれている。

◆「何かの間違いじゃないか」……

鈴木邦男と松岡の付き合いは30年以上になるという。しかし「M君リンチ」事件をめぐり、加害者側に立ちリンチ事件隠蔽のリーリングリーダー「のりこえねっと」の共同代表である鈴木と「M君」支援を続ける松岡の間には亀裂が生じる。

ことの発端は『ヘイトと暴力の連鎖』に次ぎ出版された『反差別と暴力の正体』で著名人や関係者40名に「質問状」を送ったのであるが、その40名に「のりこえねっと」共同代表の鈴木が含まれていたことに起因する。松岡を筆頭とする取材班は、長年の付き合いもあり、松岡はじめ多くの取材班がその生きざまに敬意を払っていた鈴木からは、当然回答がもらえるもと考えていた。ところが締め切り期限を過ぎても鈴木からは何の連絡もない。

「何かの間違いじゃないか」……そう考えた鹿砦社の社員は、鈴木に最も親しい人物を通じて、回答の督促を試みようやく回答を得るが、松岡は「私は鈴木の著作を多数、原稿整理から最終校正までやってきたので、経験的にも、力を入れて書いているか、いやいやながら書いているかぐらいわかる」(『反差別と暴力の正体』)と表現する通り、惨憺たる内容であった。私も直接目にしたが、ミミズが情けなく這っているような文字に、強い意志はかけらも感じられなかった。

◆あなたたちの主張は安倍政権により現実化されているではないか

話はやや脱線するが松岡と鈴木の親交が始まったのは1980年代前半、まだ鈴木が「行動右翼」、「新右翼の若き理論家」として活動していた頃だ。多くの出版社からどんどん著作(共著も含め)を出せる今と違い、当時は鹿砦社(あるいは関係会社のエスエル出版会)以外に鈴木の著作を出す出版社はほとんどなかった。今でも鈴木の著作は累計で鹿砦社が最も多いという。機関紙『レコンキスタ』の縮刷版2巻(1号~200号)も出しているという。学生時代はバリバリの新左翼活動家だった松岡が、新右翼、行動右翼の著作を数多く出すほど松岡の思想的柔軟さ(松岡本人は「いい加減」だからだと言うが)だからだろうが、この松岡の気持ちを鈴木は思い知るべきだろう。

私は当時「一水会」を知ってはいたが、彼らの主張に惹かれる部分はほとんどなかった。後年米国がイラクに侵略を行う直前に「イラク戦争反対」を表明した時には「右翼にもなかなか腹の座った連中が居るものだ」と感心した記憶はあるけれど、元から右翼には散々な物理的、精神的被害を受けていた私としては「一水会」や鈴木邦男に関心を抱くことはなかった。

いや、正直に言えばむしろ逆だ。松岡と鈴木が出会った1980年代前半は、バブルの走りの時期であったと同時に、当時の首相中曽根が「臨調」を立ち上げ、国鉄解体、総評・社会党解体に本腰で乗り出した時期でもあった。あの時代にその行く末(つまり解釈改憲から秘密保護法、共謀罪が整うファシズム国家の再来、2017年の現実)を明確に予見できた人間は多くはなかっただろう。

 
 

だが、少なくとも当時私の目には日の丸を掲げ、天皇を過剰に崇拝し、靖国神社に参拝する「右翼」はそれが大日本愛国党であれ、一水会であれ「敵」以外の何物でもなかった。見よ! 彼らの主張は予想以上の成果で安倍により結実させられているではないか。戦後の民間右翼の主張をほぼ包含する形で、安倍政権はどんどん治安立法を成立させ、解釈改憲により集団的自衛権までを認めさせ、日本国憲法は実質的に「なきもの」にされた。残るは明文改憲だけだ。

鈴木はその後一水会の代表から離れ、テレビにも登場し、「頭と物わかりの良い」元右翼の論客として活動の幅を広げるが、私が問いたいのは鈴木が80年代に主張していた目標の大筋(対米従属以外)がほぼ言い値で実現された今日、鈴木は当時の主張をどう総括するのか、ということである。今では「リベラル」と称されることもある鈴木だが、あなたたちが80年代に主張していたことが現実化したのだ。そのことに対して鈴木はどう考えるのだろう。

この回答は鈴木本人の見解として聞きたくもあり、また「のりこえねっと」の共同代表としての立場からも是非開陳してもらいたいものだ。そもそも天皇制を崇め奉っていて「君が代は5千回くらい歌ったことがありますよ」という鈴木(今でも天皇制に対する鈴木の敬愛は基本的に変わらないだろう)のような人間が「差別」を扱う団体の呼びかけ人になることから、筋違いなのであり、そんな人間を共同代表に頂く「のりこえねっと」も発足から「勘違い」をしていたのだ。

◆「黒百人組」に乗っ取られた「のりこえねっと」

「のりこえねっと」発足当初の理念や目的に私は異論を感じない。しかし、刺青を入れた暴力集団「男組」を歓迎してしまったあたりから、「のりこえねっと」は反原連から脈々と続く「権力別動隊」(松岡言うところの「黒百人組」)に完全に乗っ取られてしまい、今では野間易通や安田浩一、香山リカらがもっぱら「幹部」ズラをしている。野間、安田の悪質さについてはこれ以上言及する必要もなかろうが、事実をご存知ない方のために敢えて彼らの行状の一部をご紹介しよう。

野間易通は長年ネット掲示板荒らしをしていたらしいが、3・11後どういうわけか、反原連の幹部として登場する。根が「ネット荒らし」で、これといった思想を持っているわけでもない野間だが、ネット上で集団を組織し、意にそぐわぬ人に対しては徹底攻撃を掛けることで悪評が高まる。悪評だけではなく、あまたの誹謗中傷でこれまでにツイッターを何度も凍結されており、それにとどまらず民事裁判でも2回敗訴している。

野間のツイッターを見れば人格を理解するのに5分とかからない。非常に高慢であり、傲慢であり、卑劣かつ下品な人間だ。その野間と鈴木は懇意なのだ。先の「質問状」に鈴木は「野間氏と『ヘイトと暴力』について対談して僕の疑問をみつけたいと思います。『紙の爆弾』でやれたらと思います。野間氏も承知しています」と書いて寄越している。松岡がこの「回答」を見てどれほど憤慨し、あるいは落胆したかは想像に難くないし、鈴木との長年の付き合いからして松岡の心中は察するにあまりある。いや、松岡だけではない。私も鈴木の「トボケぶり」に「とうとうここまで来たか」と末期症状を実感した。

◆鈴木邦男さん、あなたの言説は完全に正当性を失っている

再度昔の話に戻るが、私は松岡と違い右翼(新右翼)に関心を持った経験がない。彼らは常に目前の敵であり、私は何度か身体的に暴力も振るわれ、「M君」ほどではないにしても集団暴行を受けたこともある。一水会はそうではないかもしれないが、広く見れば右翼団体を出自とする鈴木が野間と仲良くなり「野間氏と『ヘイトと暴力』について対談して僕の疑問をみつけたいと思います」という。

鈴木よ、あなたには『ヘイトと暴力の連鎖』を献本しているだろう。読書家の鈴木のことだから、あんな薄い本くらい数十分で読めたはずだ。それでも「僕の疑問を見つけたい」? 疑問はこれから見つけるのか?そのために「M君リンチ事件二次加害者代表」の野間と『紙の爆弾』で対談させろだと?

私はあなたに尊敬の念や崇拝の気持ちを持ったことがないので、それらの気持ちを持ち苦しんでいる人になりかわり、進言する。鈴木邦男さん、あなたの言説は完全に正当性を失っている。加害者に加担している事実にすら気が付かない。「のりこえねっと」はもはや「反差別」を標榜していても「リンチ事件」隠ぺいにかなりの力を注いでいる許しがたい団体だと私は断じる。そしてあなたはこの問題に関しては完全に「ボケている!」。

「のりこえねっと」の共同代表の辛淑玉は自身のフェースブックに民事訴訟が始まる前で裁判所が介在していないのに「裁判所が勧めた和解を被害者(M君)が拒否」したと、全く現実にあり得ないことを平然と書き込みリンチ被害者「M君」に筆舌に尽くしがたい攻撃を加えている。あなたはあなたで野間との対談を『紙の爆弾』でさせろという。
  
  

 
 

  
◆鈴木邦男という「幻想」──「物わかりがよいこと」と「無節操」は同義ではない

6月12日の鈴木のブログでは、あろうことか、被害者M君へのセカンドリンチを主導的に行っている金明秀の写真を、これみよがしに掲載している。これには松岡も被害者M君も驚きショックを受けた。金明秀がどのようなことをやってきたのかは、鈴木にも送ってある3冊の本を見れば判るだろうに何の配慮もないのか!? 自分たちが何を発言し、何をやっているのかわかっているのか。

鈴木邦男「幻想」など昔から「幻想」だったのであり、その「幻想」がいま、目の前でみすぼらしい醜態をさらしている。そんな加害者の肩を持つ人物に紙面を割いたり、付き合ったりする時間や恩義がどこにある。取材班の田所敏夫は昨年、この「デジタル鹿砦社通信」で「辛淑玉さんへの決別状」(『反差別と暴力の正体』に再録)を書いた。その後の辛の言動を見るにつけ、その判断は間違ってはいなかったと取材班一同感じている。

松岡は今でも逡巡している。それは鈴木との長く濃密な30年以上の付き合いがあるからだ。私に松岡の苦悶がすべて理解できるとは言わないが、この苦悶の理由を作り出した鈴木の変節(あるいは本質の発露)を満身の怒りで糾弾する。「物わかりがよく誰とでも話ができること」と「無節操」は同義ではない。現在の鈴木はことの正邪の基本もわからない「無節操」に成り下がっている。

鈴木邦男よ、言論界から引退せよ。あなたには多くの「信者」がいる。かつての吉本隆明がそうであったように、老醜の戯言は「信者」を落胆させるだけでなく、社会的にも害悪でしかない。野間の如き人間の本質を見抜けぬようでは、鈴木はすでにその域に達している。松岡の逡巡と苦悶はいつまで続くのか。松岡が〝重大な決断〟を下す時が来るのか……。

 
(鹿砦社特別取材班A生)
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ちょっと待て! 李信恵

  
きょう6月19日は李信恵が在特会と元会長を訴えた裁判の控訴審判決が大阪高裁で言い渡される。訴訟の内容には詳しくないが、在特会は表現するのも憚られる滅茶苦茶な差別をやりたい放題行っていたのだから、おそらく高裁でも一審に引き続き李信恵の勝訴が予想される。それは結構なことなので、われわれもそのような判決に異存はない。

さらに22日には「保守速報」を訴えた裁判の弁論(本人尋問)が大阪地裁で開かれる。

◆李信恵は「M君リンチ事件」裁判の「被告」である

しかし、あらためて強調しておかなければならない。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
[※上記◇箇所の文字は、裁判所の命で削除しました。(鹿砦社)]
この集団リンチの凄惨さはリンチ直後のM君の顔写真が象徴している。

2014年12月に起きたリンチ事件直後のM君の顔)

しかし鹿砦社以外のメディアはこの事実を報じない。メディアのみなさん、この写真を見て何も感じないのか!? そうであれば「ジャーナリスト」をやめたほうがいいだろう。われわれは陰謀論者では全くないが、先日このコラムでお伝えしたように「天下の朝日新聞」が社説で李信恵と、「M君リンチ事件」隠蔽の主犯格で、「M君」が5名を訴えた裁判では被告側に証拠を提出している「コリアNGOセンター」を同時に取り上げた現象には、偶然以外の何かを感じずにはいられない。

◆李信恵は「差別と闘う」ヒロインなのか?

そればかりではない。『反差別と暴力の正体』に電話取材で登場した「コリアNGOセンター」事務局長の金光敏が最近頻繁に新聞紙上に登場している。

金光敏「コリアNGOセンター」事務局長のコメント(2017年6月15日付朝日新聞)
 
 

  
6月15日には朝日新聞に、6月17日には毎日新聞地方版にコラムを寄せている。

当の李信恵は東京新聞に共謀罪のコメントを寄せたと自満たっぷりにツイッターに書き込んでいる。

李信恵の6月16日付ツイッターより

李信恵の『鶴橋安寧』を出版した影書房はツイッターで同書をしきりに宣伝している。これは明らかなプロパガンダであり判決日への注目を喚起するための情報戦略なのだろう。

きょうの判決後の記者会見には多くの報道陣が集まることだろう。常識的に言えば勝訴だろうから李をはじめとして、弁護士の上瀧浩子や金光敏も記者会見に同席し、コメントを発するのだろう。李信恵は「差別と闘う」ヒロインとしてのみ賞賛を受け、記者から「ところでこの裁判ではありませんが、李さんは民事訴訟の被告になっています。その件はどうお考えになりますか?」などという質問は発せられることはないだろう。

◆産経や読売も報じないM君リンチ事件

もうここまで来たので、書かざるを得まい。李信恵を取り巻く周囲には密議があるのか、あるいは指示系統があるのか明確ではないが、あからさまな「同意」が成立している。それは新聞、テレビ、週刊誌からミニコミ新聞メディアまで含めてである。この奇異な現象はある種「民間の言論統制」といっても過言ではないほどの力を持っている。

相当な実力者が背後にいるのか、そうでなければマスコミ各社暗黙の「忖度」によるものか。李に対する批判は一切行わない、さらには彼女を「差別と闘うヒロイン」として持ち上げるとの同意スクラムが出来上がっている。

右左は関係ない。読売は言うに及ばず、普段腰をぬかすような差別原稿を載せる産経新聞ですらがリンチ事件を報じない。極めて異常な言論統制が幅を利かせている。その周辺にうろつく「工作員」の面々については取材班もほぼ概要を掴んだ。業界大物からの内々の情報提供もある。

◆「事実を変える」ことは絶対に不可能だ

しかしである。ここまでのっぴきならない「民間の言論統制」を目にすることはそうそうあることではない。芸能人のスキャンダルであれば、われ先に!と飛びつくマスコミが、「被害者M君」への情報探りには接近してくるものの、一切の報道を行わない。

きょうの夕刻のテレビニュースや明日の朝刊各紙では判決についてのニュースが山ほど流されるだろう。その濁流を目にして「M君リンチ事件」自体を無かったものにしよう、と企図する李をはじめとする、エセ「反差別者」や「しばき隊」は狂喜乱舞することだろう。

たぶんそのようにことは進んでいく。しかし、われわれは「歴史修正主義者」を断じて許さない。それは国と国との間であっても、民族間であっても、個人間であっても同様だ。些細な諍いなら目くじらを立てることはないけれども、鼻骨骨折をするほど殴る蹴るをされた「被害者M君」に対してのネット上の誹謗中傷と、マスコミにおける李の持ち上げられ方の不平等が目に余る。

「情報操作」や「印象操作」はいくらか可能かもしれないが、「事実を変える」ことは絶対に不可能なのだ。ネットについては取材班もかなりの情報収集メンバーを獲得している。一瞬の書き込みでそれを消去しても、ターゲットのツイッターやフェイスブックは24時間監視している。
  
  
  
  

 
 

  
◆「安寧通信」0号に登場した人物の名前を列挙してみてわかること

李信恵が在特会を訴えたことに反論はない。われわれは1ミリも在特会の差別言辞を支持しない。しかし同時に「M君リンチ事件」の取材を始めるやいなや、「どうしてこの事件に興味を持つのかわからない。運動に分断を持ち込むだけ」と電話口で語った安田浩一の意図がだんだんわかってきた。

取材班の手元には李信恵の裁判を支援する会が発行した「安寧通信」の0号から10号までがある。0号に登場する人物の名前を列挙すると実に興味深い事実が浮き上がる。「M君リンチ事件」で隠蔽のための「説明テンプレ」を作成したITOKENこと伊藤健一郎、「M君リンチ事件」の被告(反訴原告)であり、大阪地裁でM君に「お前メンチ切ってんじゃねーよ」とチンピラ口調で絡んできた伊藤大介、前述の金光敏。

金明秀関西学院大学教授の2016年5月19日付ツイッターより

こういう書き込みをして、いまだにM君に謝罪すらしない金明秀、野間易通、「M君リンチ事件」で罰金刑を受けた凡、上瀧浩子、岸政彦、安田浩一、西岡研介、辛淑玉、高橋直輝こと添田充啓らだ。このほか数人が寄稿しているが、上記の寄稿者に「リンチ事件」の直接加害者と、二次加害に積極的に加担した者、また隠蔽に奔走した中心人物が見事に揃っている。脇役だが写真は秋山理央でイラストは岸政彦の配偶者、齋藤直子だ。

「安寧通信」0号は2014年10月7日発行だが、その時点で後に人の道を外れた行動に奔走する連中が見事に名前を連ねていることが証明される。その後8号には香山リカが「利己的な私の自分勝手な闘い」、9号には参議院議員有田芳生が「高貴な激情」を寄せている。いずれも彼ら彼女らの行動を知る者からすると読むに堪えないが、この件については後日あらためてコメントする

◆李信恵は嘘つきだ

李信恵は嘘つきだ。再度その証拠を提示する。本来あなたは公的な場所に立ってはならない人だと自分で宣言している。もう一度自分の書いた文章を見直してみることだ。屁理屈は通らない。事実を事実のまま見る。そのことを放棄するものは報道の世界にいる資格のない者だ。

M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
 
 
M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
 
 
M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
M君リンチ事件に対する李信恵の謝罪文
(鹿砦社特別取材班)
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私の内なるタイとムエタイ〈1〉 14年ぶりのタイで考えたこと

タートゥトーン寺の本堂。タイ街並みで必ず見れるお寺の佇まい
スクンビット通りの朝の露店。御飯のオカズとなる惣菜がビニール袋に入れられて売られています
エカマイ地区路地の露店。ぶっ掛け御飯のオカズとなる惣菜
エカマイ地区路地の露店。串焼き
BTS電車の車体、外からは中が見えない構造。プラットホームで写真を撮影していたら警官に怒られました

14年ぶりのタイ。17年ぶりのラジャダムナン・スタジアム。22年前に自分が出家したお寺を再訪し、ラオスへも足を延ばす旅──。ある旅行社関係から依頼があり、この5月、久々にタイへ出かけました。

ムエタイの試合とジムの様子、僧侶とお寺、歓楽街と売春婦、トゥクトゥク(サムロー)のボッタクリ、市場の賑わい、屋台の飯、市内バスと渋滞と排気ガス、買い物の値切り、チャオプラヤー河やメコン河の優雅な風景、街の野良犬野良猫、歩道橋の乞食……。タイを訪れるにあたり、思い出される景色には枚挙の暇がありません。

◆1993年、「オモロイ坊主」藤川清弘僧侶との出会い

1993年のことでした。ある偶然の導きから藤川清弘氏というタイ仏教の僧侶に出会いました。藤川氏はもともと京都で地上げ屋をやっていて、その後タイで事業を営み、51歳の時にタイで出家したという「オモロイ」経歴の持ち主でした。

私は、当時一時僧経験者だった藤川清弘氏と出会い、その後、タイ仏教のもと、ペッブリー県で再出家に至った藤川氏にお願いして、私自身も短期間出家したことがありました。その頃のお話は、いまから10年以上前に藤川氏のホームページ「オモロイ坊主を囲む会」で一度レポートしたこともありました。

藤川氏は2008年以降、胃癌を患い(それと直接的ではないようですが)、2010年2月に脳内出血で倒れ、永眠されています。

私の先導でタイ、ラオスを訪問するという今回の旅程を打診された時、当初それを受けるか否か躊躇しました。しかし、「悩んどらんと行ってみんかい!」と、藤川氏ならば、そう言うであろう言葉に背中を押されるかのように、14年ぶりのタイ行きを決心しました。その意味で今回の旅は、かつて私を指導してくれた藤川清弘氏と一緒に歩いた街並みを再び歩く旅でもありました(※藤川清弘氏との思い出は今後、別の機会に詳しく書かせていただきます)。

とはいえ、行きたくて指折り数えていた訳ではありません。夢にまで見たのとはむしろ逆でちょっと憂鬱。期待と不安がないまぜとなったままでの旅立ちでした。

◆エカマイ駅南側地区市場──早朝、市場に僧侶の托鉢姿を見に行くも……

タイでの滞在期間、ちょうどラジャダムナンスタジアムチャンピオンのT-98(=今村卓也)のムエタイ王座防衛戦も重なりました。試合は前回お伝えした通り、残念ながらT-98(今村卓也)は判定負けでムエタイ王座から陥落しましたが、それを取材することができました。

T-98取材当日の早朝、宿泊先のホテルから二つ先の駅、スクンビット通り“ソイ42”のBTS(高架鉄道)エカマイ駅南側地区にある市場に行きました。「僧侶が大勢、托鉢をする姿が見られる」といった同行者の誘いで行ってみたのですが、寝坊してしまい市場に着いたのは朝8時。すでに僧侶の托鉢時間は過ぎており、朝のラッシュの姿に変わっていました。

とはいえ、市場にはまだ賑わいが残っていて、旅行者が楽しめる風景が目白押しです。ソイと言われる路地には車が通る中、露店が連なります。衣料品も日用品も装飾品も並び、犬も寝転がる呑気さ。ぶっ掛け飯屋もあり、注文するがまま、御飯にオカズをのせてくれます。

エカマイ地区路地の露店。焼き鳥と焼きおにぎりでしょうか
エカマイ地区の路地の露店。ここで御飯に掛けて奥のテーブルで食べることもできます

次に訪れたのはエカマイ駅北側にあるタートゥトーン寺。ここはかつて藤川僧とバンコクに出た際、一泊だけさせて頂いた寺でした。しかし、その寺の面影の記憶が少なく、新築・増築された真新しい光景が目に入りました。かなり広い寺で22年前もどう歩き、どの辺りのクティ(僧宿舎)で泊まったかも全くわからなくなっていました。

タートゥトーン寺の本堂。読経の際は僧侶が壇上に座ります。一般人は低い後方の地べたに座ります
タートゥトーン寺側から見た至近距離にあるエカマイ駅。寺の門に迫る門より高い高架鉄道の駅、こんな時代となりました

◆言い値で乗ったトゥクトゥクもマイペンライ(大丈夫)

夕方にはT-98の試合のため、ラジャダムナンスタジアムへ向かいました。しかし、、フアランポーン駅前でしつこいトゥクトゥク(サムロー=三輪タクシー)に言い寄られながら「行くにはトゥクトゥクが楽だな」と同行者と決心し交渉。

「100バーツで行ってやるがどうだ?」と言う運転手に、「100でも高いだろうな、昔なら50バーツかな」と一瞬思いました。とはいえ、現在の相場もよくわからない。なので、運転手の言い値でトゥクトゥクに乗り込みました。

というのも、他の運転手は「200バーツ!」と言って来た。これはさすがに高い。私が選んだトゥクトゥクの運転手も「いや、100でいいよ」と笑っていたほどです。「旅行者が値を吊り上げている」と言う現地滞在者の話も聞きますが、私は根っから交渉下手。「ちょっとぐらい許して」と思って、そのトゥクトゥクに乗りました。

運転は思った通りの昔ながらの暴走モード。慣れればそんなに荒れた運転ではないのですが、滅多に乗らないとやはりそう感じます。多少ボッタくられたかもしれませんが、笑顔で人のいい感じの運転手さんでした。

フアランポーン駅に陣取るトゥクトゥクの群れ。旅の気分を味わうにはこの乗り物が最高
ただし、かなりスピードを出す奴もいます

◆大らかなタイ時間のおかげで出会えた懐かしい友

ラジャダムナンスタジアムのチケット売場。観光客は案内係りに導かれることでしょう

ラジャダムナンスタジアムでは、タイの知人カメラマンの来るのが遅い、さすがおおらかタイ人。リングサイドには知らないカメラマンが一人。日本の早田寛カメラマンも現れ、協力的な雑談。

タイ知人のカメラマンがやってきたところで打ち合わせをしていると、先に居た知らないカメラマンから声が掛かりました。実はそのカメラマン、知らないどころか懐かしい友人カメラマンでした。気付かなかったのはお互いが歳を取ったからで、昔一緒にムエタイの写真を撮っていた仲間でした。懐かしいあまりいろいろ話しかけてくれ、いざリングサイドに入る頃はカメラマン皆が「大丈夫だ、ハルキはここに居ろ」と補助してくれる有難さ。

こんな形でT-98撮影は無事終わりました。やれやれ、ひとつの目的は達成。これで帰国してもいいと思ったところ、同行者である友人は当然ながら“本番はこれから”と「明日から宜しく!」と気合充分でした。(つづく)

ラジャダムナンスタジアム最終試合の背景。なかなか観易い構造のスタジアム
指で賭けを誘う賭け屋の迫力はいつも凄い。観光客には分かり難いです

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

愚直に直球 タブーなし!『紙の爆弾』7月号【特集】アベ改憲策動の全貌