メッキが剥がれた自民党のプリンス 「上級国民」の悪しき典型として晒しものになりつつある小泉進次郎環境大臣

小泉進次郎の環境大臣就任にさいして、本欄でこう指摘してきた。

「安倍政権が、単に小泉人気を取り込んだだけではなく、閣僚人事が熾烈な『政局』であることを見ておく必要があるだろう。」

というのも、菅義衛官房長官の『文藝春秋』での対談をテコにした取り込みが、安倍総理の了解のもとにおこなわれてきたからだ。これも以下に指摘しておいた。

「今回のパフォーマンスには、小泉進次郎がこれまで石破茂を総理候補として支持してきた(地方・農業政策は石破茂と一致している)ことから、安倍総理への宗旨替えを表明させたものと見られている」

◆上級国民たる小泉進次郎と滝川クリステルの「特異性」「選民性」

それはしかし、滝川クリステルとの結婚発表のパフォーマンス(これも菅義衛の仕込み)で描かれていたシナリオでありながら、上級国民たる小泉進次郎と滝川クリステルの「特異性」「選民性」を浮き出させる結果となった。

上級国民としてのパフォーマンスを嫌悪したのは、一般国民のみならず自民党の年輩の議員たちも同様であった。そしてその空気はメディアにおいても、手痛いしっぺ返しが小泉新大臣を襲うことになったのだ。それは伴侶となった滝川クリステルの浪費壁とおもいうべき金銭感覚においても。

「進次郎(資金1位)の足を引っ張る滝クリの『金銭感覚』」
●「おもてなし」でギャラ高騰 今も年収1億円超え
●滝クリ セレクトは月80万円マンション、50万円バッグ、ベンツ
●進次郎“女子アナ密会”ホテルに政治資金で宿泊代67万円
(以上、11月7日発行「週刊文春」)

滝川クリステルとの結婚を首相官邸で行なうという、前代未聞のパフォーマンスをどう見るべきであったか? 本欄の過去記事から、再度指摘しておこう。

「マスコミが国民的な関心をあおり、全国放映するという異様な光景だ。かれは特別な階級に属する、国民が注目するべき貴人なのだろうか? 小泉進次郎は国会議員とはいえ、ふつうの国民ではないのか? いや、かれはふつうの国民ではない。上級国民なのだから――。」資産と生活において、まさにこの夫婦は「上級国民」だったのだ。


◎[参考動画]小泉進次郎議員と滝川クリステルさんが妊娠・結婚へ(テレ東 2019/08/07公開)


◎[参考動画]総資産最多は小泉進次郎氏 全額がクリステルさんの資産(FNN 2019/10/25公開)


◎[参考動画]滝川クリステルさんのプレゼンテーション IOC総会(ANN 2013/09/08公開)

◆基本ポリシーの欠落

一挙手一投足がマスコミに注目され、ある意味では晒しものになりつつあると言って間違いではないだろう。菅官房長官が小泉進次郎を政権に取り込んだ稚拙さ、あるいは安倍晋三総理の「政敵の一部を取り込みつつ、その将来を奪う」という戦略の巧みさは、もはやどうでもいい。これまで、記者の一般的な質問に無責任な立場から政権批判をしていた当の本人が、環境大臣というきわめて難しい立場に置かれて、その不勉強ぶりと定見のなさを暴露されているのだ。

「気候変動問題はセクシーに」という無定見。国連の会見で「火力発電を減らす」と断言した小泉大臣は、その方法を外国メディアから聞かれると、しばらく沈黙して「私は、大臣に先週なったばかりです」などと言うだけだった。そのニューヨークでは、環境破壊の元凶でもある牛肉のステーキを食べたと、自慢げに公言するあり様だ。家畜飼料として、鶏肉1キロを生産する場合に必要なトウモロコシは3キロ、豚肉1キロで7キロ、牛肉1キロでは11キロである。牛肉は飼育期間が長く、飼料の量はそのまま多くなるからだ。畜産も排せつ物などで温室効果ガスを排出している。なかでも牛の排出量は飛びぬけて多いとされている。小泉大臣はおそらく、何も知らずにステーキ発言をしたのであろう。ステーキを食べるなとは言わない。環境問題にかかわる政治家・大臣としては不適切な発言であることを知るべきだ。


◎[参考動画]「気候変動問題はセクシーに」小泉大臣が国連で演説(ANN 2019/09/23公開)

政治評論家の伊藤惇夫氏は、小泉進次郎を評してこう語っている。

「大臣としては新人で、政策などに通暁していないのはある程度仕方がないと思います。小泉さんは如才がなく、受け答えの能力は高いです。確かに、表面的には正論めいたことを言います。しかし、外交や安全保障といったこの国の方向性についての主張で、納得できる発言は記憶にないですね。小泉さんの発言に中身や具体性、方向性がないことが、大臣になって表面化したのではないですか」(9月24日、J-CASTニュース)。

ようするに、基本的なポリシーがないのである。自民党農政部会のときの農協改革を加速させた「手腕」は、日本の農業に寄り添うかたちで、農協関係者の理解を得られることが出来たが、それは人気政治家を農林族に取り込もうとする関係者の利害にすぎなかった。それが政府にとって困難(ネガティブ)なテーマになると、たちまち無内容ぶりを露見せざるを得ない。たとえば水俣病である。

◆水俣での猛反発

10月19日に熊本県水俣市で水俣病関連の慰霊祭に参列しているが、関係者との意見交換会では、特別措置法で定める周辺住民の健康調査を行うかどうか、あやふやな発言を続けて反発を招いている。小泉大臣は慰霊式のあと地元の商工会関係者と懇談し、人口減少をめぐる悩みこう答えたというのだ。

「減るものを嘆くより、減る中で何ができるか考える街作りをやりませんか。一緒になって考えれば、日本らしい発展の道が描けると思う」と、口当たりの良い言葉のほかに、具体的なことは何も語っていないのだ。

水俣病被害者団体の約20人との意見交換会では、激しい反発をくらっている。

「大臣、ねえ、ちゃんと返事してくださいよ」

小泉大臣が締めのあいさつをした後、出席者の1人があきれたように声を張りあげたといいうのだ。周知のとおり、平成21年に施行された水俣病特別措置法に盛り込まれた周辺住民の健康調査は、いまだに行われないままで、被害者団体から健康調査を求める厳しい批判が相次いでいる。

「健康調査は大臣の一言でできる。水俣病の症状がある多数の患者が切り捨てられてきたんです」「小泉氏には行動力がある。大臣が水俣病を公害の原点と思うならば、きちんと片付けて。63年たっても解決しないのは国が被害者の声を聞かないからだ」「解決を目指すために政治が主導権を発揮すべきだ。持ち前の指導力と発信力を発揮してもらいたい」

声を震わせながら批判する出席者に対し、小泉大臣は正面からの答えを避けた。
「要望は精査する。環境省職員は新しい大臣にまず『環境庁は水俣病がきっかけとなって立ち上がった。そのことを決して忘れるな』と言っている。そのことを忘れず、何ができるかを考えていきたい」

「水俣病被害者の会」の中山裕二事務局長も産経新聞などの取材に不満をにじませたという。

「小泉さんは一見歯切れがよさそうだが、よく聞けば何も語っていない。水俣病をもって環境庁ができたというが、むなしく聞こえる」

その後の記者会見でも、地元メディアから、健康調査の実施に後ろ向きな環境省の姿勢を批判する質問が相次いだ。小泉大臣は口をへの字に曲げ、こう繰り返すのみだったという。

「現時点で具体的時期を答えるのは困難だ。メチル水銀の健康影響を客観的に明らかにする手法は慎重かつ確実に開発しなければならない」

語るに落ちる「具体的時期を答えるのは困難だ」としながら、前向きな雰囲気の発言は誰にでもできる。問題はそれを政策として具体化すること、関係省庁を巻き込んだ具体策へと結実させるのが政治家、とりわけ環境大臣としての責任なのである。ひとりの議員として、政治を論評してきた延長上にしか、いまの小泉大臣の言動はないと断じてもいいだろう。それは言うまでもなく、大臣失格という烙印である。


◎[参考動画]水俣病犠牲者へ祈り 公式確認63年、今なお課題(共同通信 2019/10/19公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

[関連記事]
◎奇人変人総集合の第4次安倍改造内閣で国民が払う重いツケ(2019年9月18日)
◎安倍総理が小泉進次郎を環境相に迎えた本当の理由は何か?(2019年9月20日)
◎続々湧き出す第4次改造安倍政権の新閣僚スキャンダル 政治家と暴力団の切っても切れない関係(2019年9月21日)
◎高齢・無能・暴力団だけではない 改造内閣の「不倫閣僚」たち(2019年9月24日)
◎安倍官邸親衛隊の最右翼、木原稔議員が総理補佐官に就任した政治的意味(2019年9月25日)

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』好評発売中!

文科省と学校の偏狭無責任に抗った1988年小6「ゲルニカ」の旗と龍一郎氏の良心

また下品な表現を使わせていただくが「ほらみたことか!」である。萩生田光一文科相が11月1日、2020年度から実施すると計画していたセンター試験英語における民間試験の導入を5年先延ばしすると発表した。センター試験に民間試験を取り入れることには、高校側からの反発意見が根強く、文科省は、それに対してこれまで傲慢な態度をくずしていなかったが、既に試験のID発行を始める最悪のタイミングで延長を発表した。

◆文科省「朝令暮改」の無責任──受験生はたまったものではない

こんなことをされては、準備をしていた受験生はたまったものではない。文科省伝家の宝刀「朝令暮改」の本領発揮である。受験生の立場や大学の都合など、一切お構いなしに、どんどん劣化が進む文教行政の本質が、見事に炸裂した事件といえよう。このような「ドタキャン」ならぬ「ドタエン(延期)」を、行政側ではなく、一般市民が行えば必ずや強権的にペナルティーを課したり、脅しをかけてくる文科省。自らの失態のもたらした受験生、高校、大学への不利益をどう始末するつもりであろうか。

始末などできはなしない。文教行政や学校運営に関わる人が、冒しがちな大いなる勘違いがある。それは方針や政策を一連の流れの中で位置づけようとする意思だ。文科省であれば、「社会の要請や時代の変化」だの、大学は「新しい取り組み」といった理由をつけて、受験生や学生にとって例外を除けば、人生に一度しか経験しない受験や、大学のカリキュラム、学部、学科構成などを文科省を主体、あるいは大学を主体に考えて構築してしまう考えかたである。

◆文科省に隷属する学校・教師の無責任

これは、今回の醜聞に限らず、教育関係者とりわけ私立学校の運営や、個々の教師の児童・生徒・学生への向き合い方にも表出することがある。わたし自身が通った「授業料を払う刑務所」こと愛知県立高蔵寺高校に勤務し、のちに校長まで上り詰めた暴力教師、市来宏はわたしに対して「先生(自分のことを先生と呼ぶな!)も若い時は組合で赤旗を振っていたことがある。でもいまはこれが正しいと思ってやっている」とわたしに暴力を振るう際に開き直ったことがあった。市来が若いころも「いま」(過去である)も、本当の「いま」も生徒への暴力は一貫して犯罪行為であり、教師個人の考えが「法律」を超えることなど許されないことは自明である。

これなのだ。教師にとって新任採用されてから、定年を迎えるまで。経験を重ね教師として(あるいは人間として)成長してゆくことは理解できるが、そのときの私的思想や感情で態度を変えてもらっては、児童・生徒・学生にとっては迷惑以外の何物でもない。学ぶ側は個々の教師の人間性を目指してではなく、義務教育であれば学校へ必然的に、高校以降は「その学校の教育(あるいは課外活動)内容」に的を絞って志望校をきめるのであり、教師・教員の都合で教育態度や内容が変化されたのでは約束違反もいいところだ。

この文科省を筆頭とする教育機関、教師・教員個々が冒しやすい「機関や個人史の中に児童・生徒・学生との向かい合い方をおく」考え方の過ちは案外わかりにくい形でも頻発する。私立大学にとっては少子高齢化で受験生・在学生の確保が厳しい時代だ。

そこで定員割れを起こしている大学の中には、従来の学部や学科を改組することで展望を開こうとするケースが昔から多数見られる。教育内容が充実し学生にとっての魅力が増すのであれば構わない。だが「抱えている教員の顔ぶれで、ちょと目先の変わったことができないか」という実は貧弱な理由で改組が行われることは珍しくない。その際、在学生や卒業生が自分が在籍している、あるいは在籍していた学部なり学科が「なくなる」ことをどう感じるか、といった視点に重きは置かれない。

「わたしはX大学のY学部Z学科卒後です」

と自己紹介しようにも、Z学科がなくなっていたら、卒後生はどう感じるか。あるいはY学部が消滅していたら。そしてX大学自体が閉校してしまっていたら。たとえば、就職試験の際の面接などで卒業生がどう感じるか。それくらいはどなたでも想像が可能だろう。もちろん長期的な視点に立った、学部や学科の改組を否定するものではない。新しい学問領域の誕生は必然的に学びの場の要請を伴うのであるから。しかし、1つの学科や学部を改組を5年ほどで繰り返す癖のある大学もある。文科省同様の「朝令暮改癖」と言わざるを得ないだろう。

このような姿勢に欠如しているのは、学ぶ主体である児童・生徒・学生を中心に据えた考え方である。そして残念ながら文科省を筆頭に、今日そのような考え方はかなり広く伝播しており、教育現場諸問題の根源を成す課題となっているのではないかとわたしは考える。

◆福岡の小学生たちが作り上げた学年の旗「ゲルニカ」の奇跡

凄い2ショット! 男2人、宇崎竜童さんと龍一郎さん(「琉球の風」控室にて。なお「琉球の風」の題字も龍一郎さんが揮毫)

そんな問題を考えるときに、「この人しか話せない」経験を有する絶好の人物が10日同志社大学で講演をする。本通信をはじめ鹿砦社のロゴや出版物の表紙やカレンダーを揮毫していただいている龍一郎さん(本名:井上龍一郎さん)が下記のご案内のように講演会を実施する。

小学校教諭として、学ぶ主体である児童を中心に学級、学年をまとめ上げ偉大な成果を作り上げながら、校長の悪意により作り上げた学年の旗「ゲルニカ」が卒業式に会場正面に飾られることはなく、卒業する児童が抗議の声を挙げた。

「私は校長先生のような人間にはなりたくありません!」

児童の声を支持した龍一郎先生は、のちに処分を受けることになるが、龍一郎さんに対する処分は「児童に対する処分だ」と受け取った龍一郎先生は、『ゲルニカ裁判』を闘うことになる。

文科省から現場の教師にまで、「学ぶ主体」の意識欠如が著しい時代に、龍一郎さんは必ずや珠玉のアドバイスを伝えてくれることだろう。

ピカソの「ゲルニカ」(左)と事件の中間報告『ゲルニカ事件』(絶版)。11・10の講演は、こののちの話になる。現在絶版だが、当日手持ちの10冊ほど販売
鹿砦社出版弾圧10周年の集まりで揮毫する龍一郎さん(2015年7月12日)
その際揮毫した「誠」の字は極真会館中村道場に採用された
11月10日(日)同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」
11月10日(日)同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』好評発売中!
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

「反社会勢力」という虚構〈2〉ヤクザは正業を持っている

暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)が成立したのは1991年のことだった(施行は翌年)。露天商系のヤクザ(テキヤ)が反対デモをするなど、その違憲性が問われたものだ。その後2回の改正をへて、以下のような禁止事項が整備された。執行については、これらに基づいて公安委員会から「禁止命令」が出される。なお、組事務所の移転訴訟などを、地元の住民に代わって暴力団追放センターなどが代行できる訴訟制度の改正も行われた。

【禁止事項】(だいたいわかると思いますので、読み飛ばしてください)
・口止め料を要求する行為
・寄付金や賛助金等を要求する行為
・下請参入等を要求する行為
・縄張り内の営業者に対して「みかじめ料」を要求する行為
・縄張り内の営業者に対して用心棒代等を要求する行為
・利息制限法に違反する高金利の債権を取り立てる行為
・不当な方法で債権を取り立てる行為
・借金の免除や借金返済の猶予を要求する行為
・貸付け及び手形の割引を不当に要求する行為
・信用取引を不当に要求する行為
・株式の買取り等を不当に要求する行為
・預貯金の受入れを不当に要求する行為
・地上げをする行為
・土地家屋の明渡し料等を不当に要求する行為
・宅建業者に対して不動産取引に関する不当な要求をする行為
・宅建業者以外の者に対して不動産取引に関する不当な要求をする行為
・建設業者に対して建設工事を不当に要求する行為
・集会施設の利用を不当に要求する行為
・交通事故等の示談に介入し、金品等を要求する行為
・商品の欠陥等を口実に損害賠償等を要求する行為
・役所に対して自己に有利な行政処分を要求する行為
・役所に対して他人に不利な行政処分を要求する行為
・国等に対して自己を公共工事等の入札に参加させることを要求する行為
・国等に対して他人を公共工事等の入札に参加させないことを要求する行為
・人に対して公共工事等の入札に参加しないこと又は一定の価格で入札することを要求する行為
・国等に対して自己を公共工事等の契約の相手方とすること又は他人を相手方としないことを要求する行為
・国等に対して公共工事等の契約の相手方に対する指導等を要求する行為

ようするに「不当な方法」で「要求」をしてはいけない。というのが法の趣旨である。構成要件が不当というのだから、従来法で対処できるではないかというのが、当時の任侠団体(ヤクザ組織)の言い分だった。


◎[参考動画]1992年2月テレビ朝日「朝まで生テレビ! 激論! 暴力団はなぜなくならないか!?」 (前半)(2019/4/25公開)

しかしすでに、この頃からヤクザは「不当な強要」や「用心棒代」から「正業」に移行しつつあった。その先鞭が五代目山口組の若頭宅見勝である。宅見は愛人(西城秀樹の姉)に高級焼き肉店をやらせ、みずからは土建会社を経営するなど、経済ヤクザへの道を拓いていた。

ヤクザが組の名刺とともに、企業の名刺を持つようになったのは、暴対法の成立が契機だった。六代目山口組(司忍組長)の弘道会が力を得たのも、中部セントレア空港建設の莫大な利権を独占したからである。一説には地下室のプール一杯に、札束が敷き詰められているなどという情報もあったほどだ。

公共事業や民間事業の建設利権とは、正規の予算外に設けられている「地元対策費」をヤクザが業者を取りまとめることで、そこから予算を吸収する方法。そして同じく正規の予算内で配分した業者への仕事の割り当てを差配し、業者からリベートを受け取る方法がある。さらにヤクザ自身が業者となり、共同事業体の仕事を請け負う。その場合はゼネコンの配下にフロント企業、あるいは企業舎弟を持っていることになる。あとでみる暴排条例は、建設利権などからのヤクザ排除を狙ったものである。

実際に取材したわたしが知るかぎり、飲食系の風俗店を直接経営するのは基本中の基本で、コンパニオンの派遣業、フィリピンでの胡蝶蘭の生産・輸入・販売、不動産業、建設業、移動パン屋、和菓子屋、タクシー会社、ジムの経営、風俗店への仕出し弁当(服役中の組員の奥さんが従事)、個人では彫り師や接骨師など、じつに多彩なものだった。Vシネマの製作、芸能プロダクションの経営などもシノギとしては大きい。このうち、コンパニオン派遣業は当時の労働大臣の認可事業なので、不認可を突かれた若手の組長が逮捕されたのを知っている。ようするに、90年代のヤクザは警察の取り締まりに、業態を変えることで対応していたのである。


◎[参考動画]「暴力団対策法」に反対する共同声明

◆暴排条例の無理押し

ところが、2010年代になると警察不祥事が連続し、とくにヤクザと警察の癒着が顕在化した。博多の中州カジノバー事件(捜査情報を漏洩)では、ヤクザ(工藤會系)から月額100万円を受け取っていた警察官が10人以上も芋づる式に逮捕・事情聴取される事態となった。このときの公判資料には「小指のない刑事」という記載がある。つまり警察官でありながら、断指するような稼業人(ヤクザ)がいたことになる。

警察刷新会議の発足と並行して、自治体レベルでの暴力団排除条例が画策された。この暴排条例は、市民に「ヤクザと付き合うな」という法律であって、市民を取締りの対象にしている。自治体レベルでの決議・施行となったのは、国会では違憲論争に発展すると読んでのことである。このあたりの警察官僚の姑息さは、ある意味で見事だ。

ヤクザと「密接交際した」市民への処罰はじっさいには「企業名の公表」「注意」だけだが、たとえば出版社が現役の組長の本を出版した場合には、印税や原稿料が利益供与ということになる。利益供与の疑いがある出版社には、銀行協会を介して「融資の見直し」という圧力が加えられるのだ。竹書房が「実話ドキュメント」(恵文社発行・2018年5月に紙媒体は廃刊)の販売から撤退したのは、これが大きな理由である。わたしも「血別」(太田守正・神戸山口組太田興業)という本をつくったが、著者の太田さんが現役復帰してしまったので、同書の文庫化はできなかった。引退した親分しか本を出せない時代になったのである。

暴排条例は日常生活にもおよんでいる。組員が喫茶店に入ってコーヒーをオーダーして、店がそれに応じたら「利益供与」なのである。ヤクザが「反社会勢力です」と断らないでゴルフ場の会員になっても「詐欺罪」、身分(ヤクザであること)を隠して銀行口座を開いたり、クルマを購入しても「詐欺罪」となるのだ。銀行口座が使えないのだから、ヤクザは水光熱費の口座引き落としもできない。ヤクザの子供は、カードも使えないことになる。前回の記事で「実話時代」が廃刊に追い込まれたのも、暴排条例を盾にした暴排運動の「成果」にほかならない。

そのいっぽうで、最終的にヤクザ組織を解体できないのは、政治家が選挙運動の裏側で大きく「反社会勢力」に関わっているからだ。


◎[参考動画]指定暴力団 再指定に向けた意見聴取 山口組側は欠席 聴取行われず(サンテレビ2019/4/4公開)

◆政治家のホンネ「いい人とばかり付き合っていたのでは、選挙に落ちるんです」

たとえば2016年に、甘利明経済再生担当相の秘書が千葉県の建設会社と都市再生機構(UR)の補償交渉を巡り、口利きを依頼され現金を受け取った騒動を思い起こしてほしい。甘利氏は記者会見で、この建設会社側から2013年11月に大臣室で50万円、2014年2月に神奈川県大和市の地元事務所で50万円の計100万円を受け取ったことを認めている。秘書も建設会社側から受け取った500万円のうち、200万円しか政治資金収支報告書に記載せず、残り300万円を私的に使っていたという。その責任をとって辞任するときの弁が「いい人とばかり付き合っていたのでは、選挙に落ちるんです」これこそが、小選挙区を生きる政治家のホンネなのである。


◎[参考動画]甘利明経済再生担当相が会見「閣僚の職を辞する」(THE PAGE 2016/1/29公開)

今回は暴対法・暴排条例のおさらいから入り、ややおとなしいレポートになってしまった。次回からは、いよいよディープなヤクザ情報をお伝えしよう。※このテーマは随時掲載します。

◎[カテゴリーリンク]横山茂彦「反社会勢力」という虚構 https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=76

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』好評発売中!

遺伝子から万能細胞の世界へ ── 誰にでもわかる「ゲノム」の世界〈6〉遺伝子組み換えとゲノム編集の違い

ゲノム(genome)とは、遺伝子 (gene)と染色体(chromosome)から合成された、ドイツ語由来の言葉です。言葉の成り立ち通り、染色体から遺伝子にいたる一つのシステムをセットにした生命を形作るために重要な全ての遺伝子情報のことを指します。間違えてはいけないのは、ゲノムという物質があるのではなく、あくまでも概念だということです。

具体的にイメージしてみましょう。生物の構成単位である細胞の中の核というところに、染色体と呼ばれる遺伝子をのせた集合体が存在しています。一つ一つの染色体は、DNA鎖が、タンパク質(主にヒストンと呼ばれるタンパク質)に会合する形でコイル状にぐるぐると巻きついて収まっています。このDNA二重らせんの中に、生物が持つすべての機能や活動をコントロールするための指示が、DNAの化学的構成要素である塩基の配列情報の中に格納されています。この配列の一つの機能単位が遺伝子と呼ばれています。DNA二重らせんの内の10%弱が遺伝子部分に相当するといわれています。残りの90%は遺伝子を「繋い」でいる配列です。おもに、繰り返し配列で構成されていますが、その機能は明確には判っていません。2003年に、ヒトの全塩基配列が解読され、現在に至っています。

ヒトは46本の染色体の中に、30億個の塩基対があり、30億個の塩基対の中に約2万2千個の遺伝子があります。

本に例えてイメージしてみましょう。生物が図書館だとします。図書館に並んだ本棚が核です。本棚の中の本が染色体であり、そこにDNAというインクで文字が書かれ、書かれた内容自体がゲノムです。その中にタンパク質のレシピが書かれた遺伝子というページがあるという感じです。

最近は、ゲノム編集という言葉をよく耳にするようになりましたが、ゲノム編集と遺伝子組み換えというのは、それぞれどういうものなのか、何が違うのか、現在どのような状況なのか、を調べてみました。

遺伝子組み換えは、生物の進化の過程で、絶えず起こっています。組み換えは、その名の通り、これまでは、連続して繋がっていなかった配列が、細胞の環境で、繋がったり、付加された、脱落したりすることを意味します。この組み換えは、突然変異と等価で使われることがあります。

自然界で、こうした組み換えによって誕生した、新たな生物種が自然環境になじんだ場合、その新しい種が繁栄することになります。もし、なじまなかったら、新種は絶えてしまうことになります。癌細胞が生まれるのも、この組み換えで起こっていると考えられています。癌細胞は、その組み換えによって、ある意味、身体の中で繁栄(増殖)するのですが、その増殖に必要な母体を滅ばしてしまうのです。

さて、この組み換えを人為的に起こせないか、という研究は昔から行われて来ました。細胞内に外来DNAを導入して、そのDNAを宿主である細胞の染色体に込み込んでしまうという研究です。これにより、細胞に新たに、機能を付与しようとするものです。

よく知られているのが、組み換え大豆とか、組み換えトウモロコシです。これらは、病害虫抵抗遺伝子が組み込まれています。具体的には、害虫がトウモロコシを食べると、その消化を阻害する物質です。結果的には、害虫はそのトウモロコシを食べることが出来ず、害虫によるトウモロコシの収穫の目減りを抑えることができます。組み換え推進派は、組み換え穀物の栽培により、殺虫剤をまかなくて済む、つまり環境負荷が少ないと言っています。しかし、組み換え穀物に含まれる、害虫の消化の阻害タンパク質がヒトにどのように影響するのか、また、環境に影響するのかなど、直ぐには判断出来ないところがあります。

この組み換えは、これまでは、細胞任せというか、研究者が制御できるものではありませんでした。従って、何が起こるかは出たとこ勝負でした。つまり、どの染色体のどの部分で組み換えが起こるかは、判りませんでした、そこが、ある意味、怖いところで、全く予想が出来なかったのです。

 

一方、ゲノム編集は、狙った領域だけに、人為的に、想定した組み換えを起こす技術です。少なくとも、そう言う技術として、報告されました。現在、本当に、狙ったところだけを編集できているのか、想定外の領域も編集されてしまうのではないかととう議論がなされています。

こうした事に対する、報告も数多くだされ、狙った所だけが編集されているという報告とそれ以外の所、つまり、想定外の所も編集されてしまっているとする報告もあり、まだ、定説にはなっていません。その理由は、ヒトを含めほ乳動物では、約30億個の塩基の並び方を正確に調べる必要があるからです。このことは、現在のゲノム科学のホットな領域の一つです。

ゲノム編集の大きな話題として、中国で2018年11月にヒトのゲノム編集を行い、HIV(エイズウイルス)に感染しないよう遺伝情報を書き換えた双子の女の子が産まれたと発表したことです。この事に対して、全世界がこうした研究の中止を求めました。しかし、ゲノム編集した農作物については、届け出だけで、食品表示の義務がありません。今後、どのようになっていくのか、注視していきたいと思います。

◎連載過去記事(カテゴリー・リンク)
赤木夏 遺伝子から万能細胞の世界へ ── 誰にでもわかる「ゲノム」の世界 
http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=73

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
地方在住の50代主婦。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

江幡睦、4度目の挑戦もベルト奪えず! タイ国ラジャダムナンスタジアム・バンタム級タイトルマッチ

攻撃力は上回るも、引分けというあと一歩が越えられないムエタイの壁。日本人のローキックで殿堂チャンピオンが倒れるなんて在り得なかった過去。でも江幡睦ならやるかもしれない。淡い期待もありながら、ムエタイ関係者は「その可能性は極めて低く、中盤以降にヒジで切られる可能性が高い」と言い切った。それほどサオトーの上り調子は素晴らしく、試合運びの上手さの前評判だった。

試合を終え、江幡睦の顔面はヒジ打ちを貰った3箇所の傷と腫れ、サオトーは足を引き摺りながら歩くダメージを残した。

判定結果を聞く江幡睦の表情、何を想うか
江幡睦のローキックが序盤からヒットさせサオトーにダメージを与えた
江幡睦の左ボディーブロー、これで何人も倒してきた

◎MAGNUM.51 / 2019年10月20日(日)後楽園ホール 17:00~20:15
主催:伊原プロモーション / 認定:ラジャダムナンスタジアム、WKBA

◆第9試合 タイ国ラジャダムナンスタジアム・バンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.サオトー・シットシェフブンタム(タイ/53.45kg)
    VS
同級7位.江幡睦(伊原/53.35kg)

要所要所でサオトーは江幡の弱点を狙っていた左ハイキックをヒット

引分け 0-0 / スーパーバイザー:ジット・チオサクン(ラジャダムナンスタジアム支配人)
主審:ジラシン・シララッタナサクン 48-48
副審:ウォーラサック・パックディーカム 48-48 
副審:ナリン・ポンヒラン 48-48

序盤は想定どおりサオトーはムエタイ特有の手数少ない様子見ではあるが、江幡睦の強いローキックをやや貰うと効いた様子が伺え、更に睦みの左ボディーブローも貰ってしまう。場内に“もしかしたら・・・!”という期待が沸く。

しかしさすがの殿堂チャンピオン。そんな脆く崩れることはなかった。しぶとさを見せていくサオトーは想定どおり第3ラウンドから本調子を上げて来た。ヒジ打ちは、けん制を含めて第1ラウンドから出していたが、パンチとローキック主体にガンガン前に出て連打していく江幡睦に対し、応戦しながら要所要所で鋭いヒジを打ち込んでいくサオトーは、江幡睦の右目尻を切り、単発ながらヒザ蹴りも効果的にヒットさせた。

しかし江幡睦は組み合ってもサオトーの有利な体勢にさせない対策も活かしていた。更なるサオトーのヒジ打ちで、目下も切られた江幡睦は、紫色の内出血を残して第5ラウンドも必死に出て行き、江幡睦の右ストレートで仰け反ってしまうサオトーだが、ヒジとヒザを随所に当てていたポイントがどう流れるか分からない展開が続いた試合となった。

判定を聞く睦の表情は曇りがち。引分けでまたも逃がしてしまったムエタイ激戦区の最高峰のチャンピオンベルトだが、全力を尽くした結果にインタビューに応える表情は清々しかった。

打たれたら打ち返すサオトーのパンチもヒット
江幡睦の左ミドルキック、この蹴りをもっとヒットさせたかった
サオトーの得意のヒジ打ちはどこからくるか分かり難い

江幡睦は「倒しきれなかった、それに尽きると思います。ひとつのダウンでも取れなければ、ラジャのベルトは取れないということです」と率直な感想。

前回、2015年3月の当時のチャンピオン、フォンペットに挑戦した時は、ラウンドを増す毎のインターバルでだんだん返事をしなくなるほど疲労困憊していたが、今回は最後まで冷静にセコンドや伊原会長の言うことに返事し、次どう行くか確認する様子が伺えた。

試合中は激しく檄を飛ばす伊原会長だったが、試合後のインタビューが終わった後、頭を“ポン”と撫でるように触れ「お前はよく頑張ったよ!」と褒め称えていた。

相打ち覚悟のパンチの応酬
最終ラウンドも必死に攻める江幡睦

サオトー陣営のアンモープロモーターに、「もう一回やりたいと言ったら対戦可能ですか?」と問うと、すかさず「ダーイ(OK)!、またここ(後楽園)でやってもいい!」とデッカイ声で喋る。「次はヒジ打ちの勝負になる!」とも語った。

足を引き摺りながら歩くサオトーにも同じ質問をしてみた。こちらもすかさず笑顔で「チョックダーイ(OK)!」と元気を見せ、ここはハッタリでも “同じ失敗は繰り返さない”という意欲をみせるのがムエタイ戦士なのだろう。

実際、対策は練ってくるだろうし、ローキックはまともには貰わないかもしれない。それは江幡睦にも対策はあることだろう。再戦が行なわれるかは分からないが、このカードはラジャダムナンスタジアムで再戦して欲しいものだ。

とにかくノックダウンを奪いたかった江幡睦、バックステップして打たれても倒れないサオトー
健闘称え合い役者が揃う、右はジット・チオサクン氏(スタジアム支配人)

◆第8試合 WKBA世界スーパーライト級王座決定戦 5回戦

アニーバルをロープに追い詰めパンチ連打する勝次

2位.勝次(藤本/63.0kg)
    VS
4位.アニーバル・シアンシアルーソ(アルゼンチン/63.1kg)
勝者:勝次 / KO 2R 2:59 / 3ノックダウン / 主審:椎名利一

序盤はパンチと蹴りのけん制から始まり、アニーバルのパンチ、蹴りの強さとタイミングを見極めた勝次がパンチでアニーバルを後退させると一気に連打した勝次。その勢いで第2ラウンドに進み、パンチ連打でロープ際に追い込みヒザ蹴りを加えスタンディングダウンを奪い、更なるパンチの攻勢でロープ際から逃げられない状態を作ると2度目のスタンディングダウン。

勝次は更に攻勢を続け、防戦一方となったアニーバルは最後まで倒れ込むことは無かったが、レフェリーに止められ(3ダウン相当)、勝次のKO勝利となった。

勝次がパンチから今日も出た飛びヒザ蹴り
しぶといアニーバルを徹底して攻めた勝次
キックボクシング世界で最初のWKBAタイトルを獲得した勝次、試練はこれから

◆第7試合 73.0kg契約 5回戦

日本ミドル級チャンピオン.斗吾(伊原/72.8kg)vsイ・ジェウォン(韓国/69.5kg)
勝者:斗吾 / KO 2R 2:49 / テンカウント / 主審:桜井一秀

序盤は距離をとって蹴りで様子見。斗吾の圧力が徐々にジェウォンを下がり気味に追い込む第2ラウンドに入ると、距離が縮まりパンチの交錯が始まる。バランス崩して横を向いてしまうジェウォンは気を抜き過ぎで、斗吾の右フックを貰ってノックダウンしてしまう。そこから斗吾のパンチのラッシュが始まり、ロープ際で滅多打ちからヒザ蹴り、更に追い詰めてボディーブローの連打でジェウォンは2度目のノックダウンし、そのままテンカウントアウトされた。

◆第6試合 62.0kg契約3回戦

日本ライト級チャンピオン.髙橋亨汰(伊原/61.95kg)
    VS
ペットワット・ヤバチョーベース(タイ/61.45kg)
勝者;髙橋亨汰 / TKO 2R終了 / 主審:少白竜

髙橋の左ミドルキックを腕に受け続けたペットワットが負傷を示し、第2ラウンド終了後のインターバル中、棄権を申し出た陣営をレフェリーが受入れ試合を終了させた。

腫れた太腿を氷で冷やすサオトー、足は相当効いていた

◆第5試合 バンタム級3回戦

泰史(前・日本フライ級C/伊原/53.5kg)vs.Mrハガ(ONE’S GOAL/53.5kg)
勝者:泰史 / 判定3-0 / 主審:仲俊光
副審:椎名30-28. 少白竜30-27. 桜井30-27

泰史の蹴りとパンチで攻勢を続ける展開。下がりながらも応戦して危機を乗り越えるMr.ハガ。泰史はノックアウトに結び付けられない課題を残す。

◆第4試合 63.0kg契約3回戦

日本ライト級3位.渡邉涼介(伊原新潟/62.9kg)vs風来坊(フリー/62.85kg)
勝者:風来坊 / 判定0-3 / 主審:宮沢誠
副審:椎名29-30. 少白竜29-30. 仲29-30 

◆第3試合 57.5kg契約3回戦

瀬川琉(伊原稲城/57.45kg)vs新田宗一郎(クロスポイント吉祥寺/57.25kg)
引分け 0-1 / 主審:桜井一秀
副審:椎名28-29. 宮沢29-29. 仲29-29

◆第2試合 60.0kg契約3回戦

井桶大介(クロスポイント吉祥寺/59.65kg)vs宇野高広(パラエストラ栃木/59.95kg)
勝者:井桶大介 / TKO 1R 0:44 / ノーカウントのレフェリーストップ / 主審:少白竜

◆第1試合 女子48.0kg契約3回戦(2分制)

栞夏(トーエル/47.55kg)vs erika(SHINE沖縄/47.25kg)
勝者:erika / KO 2R 1:53 / 3ノックダウン / 主審:椎名利一

ファンに詫びる江幡睦

《取材戦記》

最高峰の王座や名誉が懸かるとムエタイ選手は強いものだ。譲れないものだけに互いが必死の戦いになった。これがランカー以下のノンタイトル戦だったら江幡のローキックで、過去のタイ選手のようにヘナヘナと倒れ込んでいただろう。

そのサオトーの前評判は「ちょっと映像で見ただけだが、サオトーはあまり強さを感じない攻めで、日本人とやれば面白い展開になりそう。江幡が勝つかもしれない!」という知人も居たが、先に応えた関係者談が「江幡睦のローキックはかわされ、サオトーのヒジで切られる!」と言った予想もあり、私の予想も「もしかしたらサオトーは江幡のローキックでヘナヘナと倒れ込むのではないか!」と思ったが、試合展開から言うと、大雑把ながら皆、何らかの指摘が“近いところにいった”という経過となった。

最高峰への通過点ながら、ひとつの目標だった老舗のWKBA世界タイトルを獲った勝次はまず防衛しなければならない。前回のライト級でドローの末、延長戦で王座を持っていかれたノラシン・シットムアンシー(タイ)や国内にも敗れている難敵は居るが、WKBAを懸けて戦えばその因縁が面白くなる(ライト級は7月に王座決定戦で重森陽太が獲得)。本人は以前、「3回ぐらい防衛してその上に行きたい」と言っていたが、5回ぐらい極力短期で連続防衛してWKBAの活性化と権威向上に貢献して貰いたい。

新日本キックボクシング協会次回興行は、12月8日(日)後楽園ホールに於いて藤本ジム主催興行「SOUL IN THE RING CLIMAX」が開催されます。今年4月14日にWKBA世界スーパーウェルター級王座獲得した緑川創(藤本)の初防衛戦と、勝次と江幡ツインズ兄・塁も出場予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

安倍政権が歩む戦争への安易な道 それよりましな政権選択を探る厳しい道

『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹、中公文庫収録)という本をご存知だろうか。猪瀬直樹という人は、ほとほと政治家(東京都知事)などになって恥をかくべきではなかった。と思わせる氏の名作ノンフィクションのひとつだ。

タイトルのとおり、昭和16年の夏までに、大日本帝国の指導部は対米英戦のシミュレーションを行ない、軍事・経済・資源を算定した総力戦の結果、敗北するというものだ。この試算を行なわせたひとりが東条英機であり、かれの「やはり負け戦か」という言葉も収録されている。

◆戦争は平和目的として発動される 

東条英機が対英米戦争に反対だったのは有名な話で、この試算はドイツのバーデンバーデンでおこなわれた陸軍将校(陸士16期の永田鉄山・小畑敏四郎ら)の長州閥打倒の密議グループに、東条英機らを加えた総力戦研究の勉強会の流れを汲むともいっていいだろう。当時の戦争へという「新体制」(近衛文麿政権)の流れ、戦争前夜の空気感にたいして現実的な試算をした結果、予想したとおり「敗戦」は間違いないと結論が出ていたわけだ。

にもかかわらず、日本人は戦争を選んだのである。負けるとわかっていた戦争を、回避する策はなかったのだろうか。そのための努力はあったが、裏目に出たというべきであろう。

元宮内庁長官・田島道治「天皇拝謁記」で明らかになったとおり、昭和天皇は東条英機の首相登用を、「陸軍を統制して戦争を回避できる人物」と期待していた(失敗だったと田島に語る)。戦時中は専制体制と呼ばれる東条政権も、じつは本人は対英米戦反対論者で、戦争回避のキーパーソンと見られていたのだ。統帥権をもって政権を揺すぶる、陸軍の統制こそが戦争回避の道と考えられていたのだ。

戦争が平和目的として発動されるのは、あらためて言うまでもないことだが、具体的には政治的な実権をもった「人物」の「決断」によるものだ。その意味で「政治は誰がやっても同じ」ではけっしてない。いやむしろ、誰がやっても同じだから政治には関心がない、というアパシーこそが戦争を招くと断言しておこう。あるいは国民的な議論の喚起、必要な論評を避けること自体が思想の頽廃であり、批評精神の衰退である。批評精神の衰退は一億総与党化、戦前で言えば体制翼賛政治への道をひらくものなのだ。

◆危険な選択肢

そこで安倍一強といわれる、与党に批判勢力のない現在の政治状況の中で、よりましな選択肢があるのかどうか。そしてそれが現実的なものなのかどうかを考えてみる必要があるだろう。3年前のことになるが、わたしはポスト安倍が岸田文雄(現政調会長・当時は外相)で、その後は安倍のオキニである稲田朋美ではないかという観測に、大いに危機感を抱いたことがある。

当時、稲田は防衛大臣である。周知のとおり、スーダン派遣自衛隊の日報問題(戦闘地域である傍証)を把握できず、シビリアンコントロールが不能状態となっていた。つまり、派遣先の自衛隊が勝手に「戦闘地域」と判断して戦闘状態に入る可能性があったのだ。これは大げさに言えば、戦前の大陸での関東軍(日本陸軍)の事変拡大政策と、まったく変わらない構造なのである。稲田総理が何も知らないうちに、戦争が始まっていた? 

もしかしたら、歴史はそのように進むのかも知れない。ナチスが国会議事堂を共産党員の仕業にみせかけて焼き払い、国防軍と結びついて突撃隊(レーム)を粛清するまで、ヒトラーが独裁政権(全面委任法)になるとは、誰も思っていなかったのだから――。

◆よりましな選択肢はあるか?

そこで、危機感を抱く何人かの編集者とともに、安倍晋三の反対勢力である石破茂の総裁選を支援しようとした。経済に関する本を出して、アベノミクスに代わるイシバノミクスを打ち出したかったのだ。地域経済の再生という観点から、石破の経済センスは悪くない。

この欄でも何度か触れたが、石破のウィークポイントは「経済オンチ」である。感情とある意味での「天才的な感性」で政治をもてあそぶ安倍が、感じがいいからと「同一労働同一賃金」を政策スローガンに入れるのに対して、石破は「誰か教えていただけないか」とブログで発信していた。わからないことは、わからない。それでいいのではないか。

いうまでもなく、同一労働同一賃金はILOなど労働運動の最大限綱領スローガンであって、これが本当に実現できれば、正規の大学教授(年収1000万円以上)と非常勤講師(年収200万円前後)が同じ賃金を得ることになる。同じ工場で同じ工程を管理している社長と主任も、同じ賃金になる。弁当屋の主人とアルバイトも同じ賃金、つまり社会主義経済の賃金分配なのである。こんなこともわからない安倍に比べて、たしかに石破は実際にはタカ派かもしれないが、物事に慎重なのである。

たとえば安倍の感情的な政策(輸出制限)によって、最悪の状態になった日韓関係の基底にあるもの。すなわち歴史問題について、石破は「なぜ韓国は『反日』か。もしも日本が他国に占領され、(創氏改名政策によって)『今日から君はスミスさんだ』と言われたらどう思うか」と発言して、歴史問題に向かい合うことを訴える(徳島市内での講演)。

「いかに努力をして(関係を)改善するか。好き嫌いを乗り越えなきゃいけないことが政治にはある」「相手の立場を十分理解する必要がある。日韓関係が悪くなって良いことは一つもない」(前出)と語っている。現在の安倍一極も、国民の「よりましな選択」によってよるものである。それはしかし、アベノミクスという仮象の経済によって担保されているにすぎない。貧富の格差、お友だち上級国民と下層国民の分岐。そこにこそジャーナリズムの視点と批評精神が据えられなければならない。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

鹿砦社創業50周年記念出版 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』
タブーなき言論を!『紙の爆弾』11月号

対李信恵第1訴訟、李信恵氏が上告を取り下げ! 鹿砦社の勝利が確定!

10月28日、鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の発売を翌日に控え、予想外の大ニュースが飛び込んできた。

 
「反差別」運動のリーダー・李信恵氏が批判者に対して言い放ったツイート

鹿砦社は、Twitter上で李信恵氏から度重なる誹謗中傷を受け、弁護士を通じて「警告書」を送るなど、手を尽くしていた。だが、李信恵氏による鹿砦社に対する罵倒や虚言はいっこうに収まる気配がなかった。そこでやむなく鹿砦社は李信恵氏を相手取り、名誉毀損による損害賠償を求める民事訴訟を大阪地裁に起こした(その後李信恵氏も対抗上別訴を起こしてきたので、便宜上鹿砦社原告の裁判を「第1訴訟」、李信恵氏原告の裁判を「第2訴訟」と呼ぶこととする)。

「第1訴訟」の一審判決では、ほぼ完全に鹿砦社の主張が認められ、勝訴。大阪地裁は李信恵氏の悪口雑言を不法行為と認定したのである。原告、被告双方が控訴した大阪高裁では棄却(一審判決=鹿砦社勝利が維持された)。被告・李信恵氏側は判決を不服として、最高裁に上告していたが、10月25日付け(最高裁の受理は27日)で李信恵氏側は上告を取り下げ、李信恵氏代理人の神原元弁護士は鹿砦社の代理人・大川伸郎弁護士にその旨伝えてきた。

その連絡を28日(月)に受け、ようやくわれわれの主張が裁判の判決として確定したことを知るに至ったわけである。

再度、このかんわれわれの裁判闘争を、陰に陽に支援してくださった皆様方に、ご報告申し上げる!

鹿砦社は、対李信恵裁判闘争において、完全勝利した! と。

この勝利の意味は極めて重い。まず、本件訴訟でわれわれが主張した内容、つまり李信恵氏による鹿砦社への誹謗中傷が名誉毀損に当たり不法行為であることが全面的に認められたこと(逆に李信恵氏の主張はほぼ棄却されたこと)である。

別掲の書き込みをご覧いただければ、お分かりいただけるだろうが、こういった明らかな誹謗中傷を李信恵氏側は「論評」と主張していた。「クソ」という表現が論評に当たるか当たらないかは「常識的」に判断すれば、誰にでもわかることだ。

「李信恵という人格の不可思議」(『真実と暴力の隠蔽』巻頭グラビアより)
 

さらには(この点も非常に重要であるが)鹿砦社代表・松岡が、あたかも喫茶店で、会ったこともない李信恵氏に嫌がらせをしたかのような「まったくの虚偽」記述もあった。本人が一番よく知っているのであるから、こういった「虚偽発信」がどれほど、発信者の信用を貶めるものかを、自身も物書きである李信恵氏は知っているであろうに。

Twitterで李信恵氏が発信すると、支援者や仲の良い人々がすかさずリツイートなどで広める(最近はその影響力もかなり低下していると聞くが)。

 

まったくの虚偽事実であっても、かつては強大な影響力を保持した李信恵氏の発信はどんどん拡散されてゆき、「なかったこと」があたかも「あったこと」のように既成事実化に近い認識が形成される。まことに悪質な印象操作であると言わねばならない。そしてそのような印象操作に、神原弁護士や上瀧浩子弁護士も加担していた事実は見逃せない。

 

法廷内で荒唐無稽な主張を展開するにとどまらず、法定外、ことに拡散が容易なTwitter上で極めて無責任で名誉毀損に該当するような書き込みを、弁護士が行ってもよいものであろうか。

裁判の進行報告や支援の呼びかけなどは理解できるが、いくら係争中、あるいは終結した争いの相手であっても、「法の専門家」である弁護士が、一般市民を相手に感情に任せた乱暴な文章や、事実と異なる発信をしてもいいはずはないだろう。それも日頃「人権」がどうのこうの口にしている者が。

「祝勝会」と称し浮かれる加害者と神原弁護士(2018年3月19日付け神原弁護士のツイッターより)
 

そして、再度確認しておかなければならないのは、このように著名人である李信恵氏が最終的に敗訴しても、一切のマスメディアはその事実を報道しはしない、という歪な状態である。

鹿砦社は、この係争に先立って争われた「M君リンチ事件」提訴以来、M君や松岡が何度大阪司法記者クラブ(大阪地裁・高裁内にある記者クラブ)に記者会見の実施の申し入れをしても、ことごとく拒絶された様子を近くで見てきた。

そして鹿砦社が原告となり(第1訴訟)、李信恵氏を提訴した際にも記者会見開催の申し込みは受け入れられることはなく、さらに、一審で勝訴した際にも記者会見を申し入れたが、開かせてはもらえなかった。

このどうみても「不公平」な扱いを、記者クラブに所属しているマスメディア各社はどのように弁明ができるのであろう。在特会を相手取り損害賠償請求事件を争った李信恵氏には毎回記者会見を用意し(そして記者会見に李信恵氏の仲間らの入場は許可しながら鹿砦社の社員が入ることを拒絶して)、M君や鹿砦社には記者会見の機会を与えない。「差別と闘った」として著名人になった李信恵氏が、このほど鹿砦社に対して、名誉毀損を犯したことが確定した。これはニュースではないのか?

鹿砦社はこれまで、刑事裁判を含め、数えきれないほどの裁判を闘ってきている。裁判闘争史の初期は大物(ジャニーズ事務所、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会など)が多かったので、負けを覚悟での猪突猛進をしていた時期もあった。しかし鹿砦社とて成長するのだ。

ことに言論に関わる争いや係争には近年むしろ慎重に取り組むようになっている。法定外でも情報収集を幅広く行い、「どうすれば勝てるか」を学習もした。また弁護士だけでなくアドバイスを送ってくださる方々の存在も頼もしい。

 

李信恵氏側も、マスメディアも鹿砦社を見下していた印象は否定できないが、このままの姿勢を続けてもよいものであろうか。

「第1訴訟」の判決が確定した。繰り返すがわれわれの〈 完全勝利!〉であった。しかし、この裁判一審の後半になり、李信恵氏側が突如「反訴をしたい」と我が儘にも主張しはじめ、裁判所に認められなかったことから、李信恵氏は別の裁判を起こした(「第2訴訟」はそのような中で発生したものだ)。

その裁判では鹿砦社に損害賠償を迫っているだけではなく、「M君リンチ事件」に関連して出版した書籍の販売差し止めまでもを求めてきている。

とんでもない請求であるが、現在「第2訴訟」は大阪地裁で進行中である。「争点準備手続き」という一般の方が傍聴できない形式を裁判所は採っており、証人尋問までは、基本非公開の法廷で弁論が進む。

当初の裁判長は、李信恵氏が在特会らを訴えた訴訟で李信恵氏勝訴の判決を出した裁判官だった。あまりにも不公平なので裁判官忌避請求を出そうと、準備していたしたその日に、何かあったのか担当裁判長が急に交替した。

李信恵氏との間ではいまだに係争が継続中であるので、「第1訴訟」の完全勝利を喜びながら、気を緩めることなく、「第2訴訟」も完勝し、対李信恵氏裁判〈完全勝利!〉を勝ち取るべく、勝って兜の緒を締めて、さらに闘いは続く。読者の皆様方には引き続きのご支援をお願いしたい。

◆李信恵氏の仲間・金良平氏は直ちにM君に賠償金を支払え!

ところで「M君リンチ事件」で損害賠償110万円超の支払いが言い渡された金良平氏が、代理人を通して「総額のうち40万円余りを支払い、残金は月5万円の分割にしてほしい」と判決確定後に願い出てきた。

M君、弁護団と支援会が相談し、「40万円余りは受け取るが、残金の分割払いには連帯保証人を付けるように」と回答したところ、相手方は難色を示した。仕方なくM君並びに弁護団、支援会は譲歩し、40万円の受け取りを承諾した。そして金良平氏の代理人も「支払う」と回答してきた。

それから少なくとも3週間が経過しているが、いまだに、金良平氏(若しくは代理人)からの支払いはない。

金良平氏は一審の法廷でM君に謝罪したが、これは体のいい猿芝居だったのか!?

リンチ直後に出された金良平(エル金)氏[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)


◎[参考音声]日本第一党 第七回神奈川県本部 川崎駅前東口街頭演説活動 2019年10月19日

 

このことには金良平氏の良心が問われているのだ。「反差別」運動に関わり「人権」という言葉を口にする金氏に良心の一欠片があれば、今すぐにM君に賠償金を支払うべきである。

それどころか、金良平氏は、10月19日川崎で行われた日本第一党の街宣活動に対する抗議行動に赴き、両手をポケットに入れながらも明らかに何者かに、体をぶつけ、その後も聞くに堪えない罵声を、日本第一党関係者に浴びせている。

周囲に金良平氏同様抗議活動へ参加している人の姿が10余名ほど確認できるが、体をぶつけ(相手が警察であれば確実に公務執行妨害で現行犯逮捕だろう。そうでなくとも体をぶつけられた本人が申し出れば金良平氏は何らかの罰則を受ける可能性があろう)汚い罵声を飛ばしたりしているのは、金良平氏ひとりだ。

 

繰り返すが、金良平氏は大阪地裁の法廷で、M君に芝居がかった謝罪のポーズを演じて見せたが、あれはなんだったのだ?

集会結社・言論の自由は、憲法で誰にでも認められているから、どこへ行こうが、何をしようが基本的にはその人の自由である。しかし、金良平氏には損害賠償の支払いが命じられており、その義務をまだ一切履行していないではないか。

M君への110万円余りの支払いを「一時金40万円で、あとは分割にしてくれ」と身勝手な申し出をしておきながら、川崎まで出かけて行ってこんなことをしている場合か?

金良平氏の代理人及び、「M君リンチ事件」一審判決当日、敗訴にもかかわらず「勝訴」とまったく事実と異なる発信を写真入りで行った神原元弁護士も金良平氏を正しく指導する義務があるのではないか!?

鹿砦社は本年創業から50年を迎えた。記念出版物において、これまでの歩みを振り返り、いいところはさらに拡大し、反省すべきは反省しつつ、今後も、われわれが精査し、正しいと判断した道を粛々と進んでゆく。偽物や偽善者に対しては言論戦において容赦はしない。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

M君リンチ事件の真相究明と被害者救済にご支援を!!

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

自主避難者への住宅無償提供うちきりと闘って ── 福島原発事故避難者に聞く〈2〉羽石敦さん

福島第一原発事故からの避難者は、幼い子どもらを抱えた若い女性が多いが、じつは高齢な方、単身の女性、そして単身の男性もいる。単身男性で、しかも福島県以外からというと、「男性のくせに気にしすぎ」と思う人もいるかもしれない。

しかし前回森松さんが訴えたように、「避難の権利」は、すべての人に等しく与えられなければならない。そうした意味で、彼らの取った行動は、今後避難を考える人たちに、大きな勇気を与えてくれるだろう。今回は、茨城県から単身で大阪に避難してきた羽石敦さん(43才)にお話を伺った。

◆日立の企業城下町で育ち、チェルノブイリに衝撃を受ける

羽石敦(はねいし あつし)さん

羽石さんは、3・11の事故時、茨城県ひたちなか市に母親と弟の3人で住んでいた。ひたちなか市は1994年勝田市と那珂湊市が合併して編成された町で、その名の通り、「日立製作所」の企業城下町である。市の中心部には東海原発や東海村JCOがあり、羽石さんの実家のある、ひたちなか市(旧勝田市)の「勝田音頭」では「今じゃ 科学の花が咲く」と歌われるように、日常生活の中で徐々に原発に「洗脳」されるような状況があった。

そんな町に育った羽石さんは、一方で子供の頃見た「はだしのゲン」や、1986年発生のチェルノブイリ原発事故などに大きな衝撃を受けたことで、原発や放射能、被ばく問題に関心を強め、独自に知識を得てきた。

◆1997年の3・11と2011年の3・11

1997年3月11日には、地元実家の近くの東海村、動燃(現・日本原子力研究開発機構)東海事業所再処理工場で、火災爆発事故が発生し、建屋内にいた作業員129名のうち37名の体内から微量の放射性物質が検出されるという事故があり、その2年後、東海村JCOで臨界事故が発生、のちに2名の作業員が被ばくで死亡した。事故は、国際原子力事象評価レベルでレベル3、レベル4であった。工場から10キロ圏内にある羽石さんの実家でも、丸1日屋内退避を強いられた。

2011年3月11日の原発事故後は3日間、電気が止まっていたが、4日目につけたテレビで福島第一原発の3号機が爆発した映像を見た。当時の線量が通常の100倍になったことを知り、羽石さんは避難を決意、身の回りのものを積め込んだバッグ一つでバスに飛び乗ったという。

◆西成、高槻、再び西成

2日かけて関西にたどり着き、10日ほど西成の1日1500円の簡易宿泊所(通称ドヤ)で過ごしたあと、谷町4丁目にある大阪府庁の建物内の、スポーツジムのような場所に、開設された避難所に入った。当時の食事はチキンラーメンとアルファ米のみだったという。

しかし羽石さんは、その後まもなく高槻市の雇用促進住宅に入居できた。当時の大阪知事・橋下徹氏が、比較的柔軟に避難者の受け入れを進めたこと、その後茨城県が「災害救助法」に適応されたこともあり、罹災証明書もスムーズに取ることができたからだ。

しかし、その年の9月までに突然、福島県以外からの避難者は退出してくださいと言われる。仕方なく羽石さんは二度目の避難先を探し、急きょ泉北ニュータウンの府営住宅に移り住んだ。しかし住んでみて初めてそこが、市内から遠く離れ、大阪市内に出るのに、電車賃が往復約1000円もかかり、非常に不便なことがわかった。
さらにごみ問題などで、元からの住民と軋轢が生じため、再び引っ越しを考え、その後、一番長く住むことになる、西成区長橋の市営住宅に引っ越すことになった。当初役所からは、200戸ほどの住宅リストを紹介されたが、うち7割~8割には風呂がついてなく、約20万円の風呂釜を自腹で用意しなければならない住宅だった。

経済的に風呂釜を買う余裕のない避難者らは、仕方なく、同じ市営住宅でも風呂のついている事業者用住宅を選ばざるをえなかった。それがのちの住宅無償提供うちきりのさい、一つの大きな弊害になったという。羽石さんの入居した西成区の事業用(再開発)住宅には、地元の高齢者が住む1階以外の2、3階には福島、宮城、岩手、茨城からの避難者で埋まっていたという。

1年ごとの更新はあるが、ようやく落ち着いてきたと思っていた、6年目の2016年7月中旬、大阪市役所から一通の通知が届いた。そこには「今年度いっぱいで住宅支援、家賃無償提供は終了する」という通知と、「今年度で支援住宅を打ち切ります。大阪から出ていきますか・それとも家賃を払って住みますか?」というアンケート用紙が同封されていた。

当時羽石さんの入っていた住居は、中堅層向けの住宅で家賃が6万円と高いうえに、減免もきかなかった。こんな重要な、避難者の将来に関わることを、当事者らとの話し合いや説明会もなく、紙切れ1枚で一方的に通告される……「これでいいのか」、羽石さんはどうしても納得できなかった。「結果がどうあれ何かしら抗っていかなければ…」と考え、まずは地元の維新の会の議員事務所にアポイントもとらず、飛び込んだ。結果、なかなか難しいとの回答だったため、つぎに共産党の議員事務所に駆け込み、ようやく話を聞いてもらえることになった。

◆「大阪避難者の会」の立ち上げ

そうした活動をきっかけに、避難者10人と支援者らを含め20人ほどが集まり、「大阪避難者の会」を立ち上げ、羽石さんは代表となった。その後、市議会議員や府議会議員への訴え、議会への請願書・陳情書の提出、大阪市の行った住宅支援打ち切りについてのパブリックコメントへの取り組み、大阪市との協議、役所との個別面談など、考えられる限りのことを支援者らと取り組んできた。

大阪市との協議は3回行ったが、そこで羽石さんらは、第一に家賃の無償提供を継続すること、第二に、引っ越す場合の引っ越し費用を出してもらうこと、第三に、無理やり追い出すようなことはしないこと、最後に羽石さんらの経験から風呂釜を要求するという内容の要望書を提出した。

その後、山形の避難者が闘っている追い出し裁判で住民側の代理人を務める井戸謙一弁護士からアドバイスされ、「一時使用許可申請書」を作成、役所に提出した。対応した市の職員は「なんでこんなことをするんだ。裁判をする気なのか、あなたは」と顔を真っ赤にして怒り、押し問答が1時間くらい続いたが、その後受け付けさせることができた。それ以降、羽石さんらへの市の対応が少し柔軟になったという。

「家賃無償提供終了」の通知がきた2016年7月から2017年3月末までの9ケ月間、支援者と共に必死で闘った結果、家賃無償は打ち切られたが、希望する人が避難を続けられる「特定入居」(継続入居か住み替え入居)を勝ち取ることができた。

原発賠償関西訴訟 第24回口頭弁論は11月21日(木)大阪地裁にて

◆沈黙は容認、反対の声を記録を残す

── ここまでお聞きすると、 避難して以降の羽石さんの闘いは、避難に一番大切な「住居を確保する闘い」であったわけですね? 具体的にはどのような内容を勝ち得たのでしょうか? また9ケ月の闘いの中で、羽石さんはどんなこと考え、学んできましたか?

羽石 1番は入居要件の緩和を勝ち得たことです。具体的には、大阪市営住宅の60歳以下の単身入居が、可能になったことです。家賃減免制度も利用できるようになりました。これは、避難者だけでなく、一般の大阪市民も利用できるようになったので、本当に良かったです。それから、事業用住宅の応能応益家賃も認めさせました。風呂付住宅にも入居できました。

最初に考えたことは、沈黙は容認であるということです。とにかく、反対の声を上げようと思いました。記録を残すためです。それが後に、裁判や国際問題にも影響すると思ったからです。実際に国連では4カ国(ドイツ、オーストリア、ポルトガル、メキシコ)が、日本政府に改善するよう、勧告をだしています。学んだことは、当事者が声を上げる事の大切さです。当事者不在では、支援者ができることに、どうしても限界があります。

── 京都や奈良ではどうだったのでしょうか?

羽石 京都は2012年12月28日の受付終了から、6年の入居としました。奈良は特別なケースで、震災後の早い段階に条例を改正して、対応しました。

── 大阪市は当初、避難者の家賃を国に求償していないと言っていたのですね?それが情報公開請求で嘘だとわかったと。

羽石 はい。大阪市は国に近傍同種家賃で求償し、何億円も得ていました。それなのに、最初求償していないというので、私たち避難者は「税金でお世話になって……」と肩身の狭い思いをしていました。

── 羽石さんは、「原発賠償関西訴訟原告団」の幹事も務めておられますが、この裁判を闘うに当たって、決意、訴えていきたいことなどをお話ください。

羽石 1番は被曝を避ける避難の権利を求めることです。今の日本では、移住か帰還の選択を迫られて、避難を続けることが難しい状況です。国内避難民を消したい国と、裁判を通して抗う決意です。

◎福島原発事故避難者に聞く
1〉いま、起こっていることは「風化」でなく、「事実の矮小化」と「隠ぺい」です 森松明希子さん 

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。『紙の爆弾』、『NO NUKES voice』にも執筆。

タブーなき言論を!『紙の爆弾』11月号!
〈原発なき社会〉を求める雑誌『NO NUKES voice』21号!

現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!──鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』 満を持して本日29日発売!〈4〉

学生運動に興味のない読者(本通信では少数であろうが)にとっては、「全学連」も「過激派」も「共産党」も同じに見えるかもしれない。けれどもそれらは個々ずいぶん違う性質のものであるので、本日の文章をご理解いただくために、最小限の用語の意味だけご紹介しておく。

 
鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

◆「全学連」と「全共闘」

「全学連」とは「全日本学生自治会総連合」の略語で、各大学の自治会が寄り合った組織である。当初は一つであったが、60年安保闘争を前にして主流派が共産党と訣別し死者をも出しながら激しく闘い世界に「ゼンガクレン」という名を広めるほど有名になった。一方、反主流派の共産党系も「全学連」を名乗って今に至っている。共産党ではない(主として共産党から離脱した)新左翼系の「全学連」は、60年安保闘争後いったん解体し66年に、いわゆる「三派全学連」(ブント、社青同解放派、中核派)として再建され、60年代後半の運動を牽引したが、党派による連合体の形をとったが故に、利害関係などから長続きせず、やがて各党派ごとの「全学連」に移行する。ブント系を除き今でも各派で「全学連」を名乗っている。

これに対して「全共闘」は「全学共闘会議」の略称であるが、上記の「全学連」が党派連合なのに対し、「全共闘」は、党派も抱き込みつつ、党派による弊害を感じた学生たちが、自由意思により、大学(高校)ごとに共闘する運動体を打ち立てた。その先鞭として有名なのが「日大全共闘」であり「東大全共闘」である。

日大は日本一の学生数を擁する大学であったが、学内での集会の自由を認めない、など大学としての最低限のレゾンデートルも、踏襲していなかった。60年代後半、それまで学生運動とは無縁だった日大で、30億円に上る使途不明金問題が勃発。それに呼応する形で自然発生的に「日大全共闘」が結成される。このように、最初から旧来の党派ありきではなく、自然発生的に生まれ、それゆえ瞬く間に広がったのが「全共闘」運動の特徴といえるだろう。「日大全共闘」をはじめ、全共闘運動については『思い出そう!一九六八年を?』(2018年、板坂剛と日大芸術学部OBの会編著、鹿砦社)で経験者、板坂氏らが詳しく紹介しているので是非ご一読いただきたい。

そして、まさに「全共闘」が全盛を極めたのが1969年であった。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は「全共闘最盛期」の報告と副題を付すことも可能かもしれない。1969年は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表を付しているが、年始から実に様々な事件や、のちの世代に影響を残す事柄が集中的に起きていることに驚かされる。翌1970年に70年安保という大事件を控えながら、大衆運動としての学生運動は、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に寄せられた数々の原稿を目にすると、1969年でピークを迎えていたような印象すら受ける。
しかし、それはわれわれが、まだ1968年と1969年を解析したように、1970年(~代)についての充分な情報収集を行っていないからかもしれないが…鹿砦社では1968年・1969年に続き来年は1970年(~代)をテーマとした書籍を出版する予定だと聞いている。

◆同志社大学出身者たちが当事者として語る「東大安田講堂籠城戦」

さて、「全共闘」に話題を戻そう。全共闘は各大学で生まれ、参加者や議論の制約を設けない、新しい形の運動体だった故に、それまでの学生運動には距離を置いていた学生の中からも、参加者が劇的に増加する。

そんな中闘われたのが1月の「東大安田講堂籠城戦」だ。東大全共闘が中心であったが、全国から応援の部隊が駆け付けた。26日の本通信で、

《1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。》

とご報告した通り、証言者は当初見つからなかった。ところが偶然にも鹿砦社代表・松岡の先輩筋に、かつてその戦闘性で全国の学生運動を牽引した「同志社大学学友会」のOBの親睦団体「同大学友会倶楽部」でここ数年共に活動している方が安田講堂籠城組で、おそるおそる今回の出版企画への寄稿をお願いしたところ、単独の執筆は勘弁してほしいが「私の限られた経験でよければ」と“証言”を頂けるとのありがたい許諾を受けた。けっきょく6人の座談会となった。

松岡も私もかなり緊張し興奮しながら、取材当日を迎えた。“証言”を受けていただいた方は、2人が松岡と共に学友会倶楽部で顔を合わせたことのある方だったが、お二方はご親切にもご友人にもお声がけいただいて、取材には6名の皆さんがお集まりいただき「1969年」を振り返る「座談会」を催すことができた。いずれも同志社大学出身(中退・卒業)6名の皆さんに自己紹介からお話を始めていただくと、なんと3名が「安田講堂籠城組」であることがわかり、松岡もわたしも驚きの声を抑えることができなかった。

貴重な証言は細部に及んだ。同志社大学から、どうして東大闘争に駆け付けることになったのか? 京都を出発する時点で、「決死の闘争」へ参加する覚悟はできていたのか? 安田講堂内での守備位置はどこだったのか? 機動隊員が内部へ入ってきた時の様子は?われわれの質問は果てることがなく、参加いただいたみなさんのお答えにも、なんの躊躇もなかった。

これまでの報道では決して報告されなかった、いくつもの事実が初めて明らかになった。その多くは意外な事実であったが、中には例外的に大爆笑を止めることができないような“秘話”も含まれている。

現代史の発掘の妙味は、体験者に直接語って頂くことだ、とあらためて痛感した座談会であった。帰路松岡も、わたしも興奮が冷めやらなかった。お一人が語ってくれるだけでも望外だと思っていたのに3名もの証言者のご協力を得ることができ、それにより質疑ではなく経験者同士の対話も展開され、より事実の発掘が深まったからだ。この座談会「元・同志社大学活動家座談会   一九六八年から六九年」は間違いなくお勧めだ。

元・同志社大学活動家座談会

◆重信房子氏が回顧する「私の一九六九年」

さらにである。6名のうち5名の皆さんは、その後活動期間の長短はあれ、「赤軍派」に参加されていたことも判明する!

森恒夫、田宮高麿、遠山美枝子、坂東国男、重信房子…といった、多くの人たちがその名を知っている方々。

いずれも大事件に関係した、「あの時代」を知っている人であれば、興味のある人であれば何度も目にした名前が、直接の登場人物として話題に上る。上記4氏の中で、生死がはっきりしているのは重信房子氏だけである。森恒夫氏は赤軍派から連合赤軍を結成し、山岳ベース事件で多くの仲間をリンチ死に至らしめ、逮捕後、獄中自死した。

「あさま山荘事件」といえば、50代以上の誰もが記憶しているであろう、あの事件の前段での不幸ともっとも関係が濃密な人物である。坂東國男氏は、海外にいるとされるが、生死、消息不明だ。座談会出席者の中には森氏と、個人的に知り合いであった方もいた。そしてその方は森氏の危険性を予期していた!

田宮高麿氏は、「よど号」ハイジャックで朝鮮に渡ったグループのリーダーであり、遠山美枝子氏は山岳ベース事件で「自己批判」の末、命を絶たれることになった被害者だ。やはり座談会参加者の方からは遠山氏のお人柄も、証言されている。重信房子氏についてはさらに詳細な議論が交わされた。もうこれ以上本通信では明かすことはできない。

「おいおい、えらくコアな証言のようやな」と読者の声が聞こえてきそうだ。その通りだ。これだけでも読了後は結構な汗をかくのだが、最後的な決定打がさらに準備されている。

東日本成人矯正医療センターに収監されている重信房子氏も寄稿して頂けたのだ! シンプルに「私の一九六九年」という題で重信氏が回顧する原稿からは、一部マスコミのミスリードにより、「冷血なテロリスト」との印象を刷り込まれた読者諸氏に大きなショックを与えるに違いない。重信氏の人間性溢れる貴重な原稿だ。

いよいよ本日発売の『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(税別800円、安すぎる!)にはその他にも「あの時代」の証言、告発、問題提起が詰め込まれている。
かつて松岡は『季節』という雑誌を発行していて、その5号、6号は電話帳のように分厚いもので、ある人に「奇妙な情熱」と揶揄されたというが、今回もA5判・224ページと、思った以上に分厚く、それでいて本体価格800円という安価――これもまた松岡の「奇妙な情熱」といえるだろう。

「絶対」という言葉は、よほど注意しなければ使わないが、あえて「絶対」にお勧めの一冊である。そして『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は歴史に名を残す書籍になるであろうことを確信する。この種の本には珍しく1万部ほどを発行したという。松岡は強気だ! 売り切れ要注意、すぐに書店に向かうか、ネット書店や直接鹿砦社(sales@rokusaisha.com)にご注文を!(了)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか ──『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈3〉

権力闘争、あるいは権力奪取闘争のなかで、意見の対立から、元は同志として同じ目的に向かっていた勢力が、分裂を起こすと近親感が憎悪へ変わり、激烈なぶつかり合いから、果ては殺し合いにまで行き着く。

この歴史は何度も教科書の上にすら登場させられることを忘れはしなかった。人間史の深く悲しい惨事の繰り返し。地層のように世界史、闘争史どの断面を切り取っても、対立→分裂→衝突→潰し合いは、人間が保持する克服しがたい、特質のように悲嘆に暮れるしかないのであろうか。

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

そんな疑問や問題提起が、引き金になっているのかどうかはわからない。松岡利康はかねてより、日本の左翼(新左翼)運動内で発生した「内ゲバ」に、人一倍反応し、同志や弱者に向けられる「暴力」に対して、極めて敏感に反応を続けてきた。現在まで5冊の書籍を上梓する結果になった(最初はこれほど多数の出版を、松岡自身が想定してはいなかったであろう)「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」へ取り組む松岡の姿勢が、まさにその証左である。

松岡はどうして「内ゲバ」あるいは、同志や弱者に向けられる暴力に対して、黙していることができないのか。共に取材を進め方針を議論する中でも、この質問を、直接松岡にぶつけたことはない。なんらか、かなり大きな経験なり、思索が「確信」にまで高まり、この種の問題から目を逸らせることを、松岡は無意識に自身に禁じさせている。わたしにはそうであろうとしか推測できない。

そこにはもちろん松岡が学生時代、日本共産党=民青のゲバルト部隊に暴行を受け入院させられた、肉体的苦痛を伴う個人史が作用してもいよう。しかし、そういった経験のある個人は、日本にも世界にも相当数存命中であるはずであり、その点において松岡の体験がことさら特別のものかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

◆リンチ事件への怒りと異議申し立て

4年ほど前になるであろうか「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」が複数筋から鹿砦社に持ち込まれた日(あるいは翌日だったかもしれない)松岡から受信した電話口での語り口調は、明らかに通常時通話のトーンと異なるものであった。あれ以来鹿砦社は自身も血を流す(比喩的な意味である)ことになる、「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」の解明と支援に向かい合うことになる。

松岡はリンチ事件を論じる際に、感情が高じると「常識的に考えて」という文言を繰り返し使う、としばしば感じた。「常識的」は穏やかな一般に共有される概念を指す言葉であるが、松岡が使う「常識的」には、一般的ではない複雑な思いが込められている、と感じたことが少なくない。

それは先に述べた通り、人間史で繰り返されてきた「人間の悪性」ともいうべき、近親憎悪が衝突→潰し合いへと向かうことが、当たり前であるかのような解釈に対する、怒りと異議申し立てではないだろうか。極言すれば松岡は、彼の人生史のなか、とりわけ学生運動に関わった時代の個的経験だけではなく、同時代に発生した幾つもの「内ゲバ」事件を「他人事」と呑気に過ごしていることができず、自身に向けられた「解決策を見出すべき至上命題」として受け取っていたのではないか。

◆高橋和巳と重なる松岡のベクトル

学生当時の松岡が、彼の周辺にさえ「反内ゲバ」を感情ではなく、論理として構成し説き伏せることなど、できようはずはない。しかし『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の最後の原稿として松岡が著した長文「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の冒頭で松岡は、一貫して「内ゲバ」に反対の意思を苦悶しながら表明し続けた高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」から引いている。高橋和巳は苦悩する小説家として著名なとおり、内ゲバに対する論考も、常に原則的な否定論を維持しながら、しかし、ならば「いかなる論や行動が有効であるか」を示し尽くすことができないことに、重ねて苦悶する中で、人生を終えたのではないか……と、またこれも想像する。

おそらく、松岡を突き動かす原動力は、表現方法や行動において同一性は見られないかもしれないが、高橋和巳と重なる方向性とベクトルにあるのではないかと、わたしは感じている。

活動家ではなく研究者だった高橋と、一活動家だった松岡の反応とでは、当然大きな違いもある。そして、松岡が学生時代に生活していた学生寮が、卒業後に某悪質セクトに深夜襲撃され寮生が監禁・リンチされた際、松岡は即寮生支援に向かっている。まだ若かった松岡にとって「内ゲバ」あるいは同志、弱者に対する暴力は、許容できるものではなく、それへの怒りと反撃に激高するのは当然の生理的反応であったと理解する。その経験を松岡は否定はしまい。けれども、会社員から鹿砦社代表へ就任し、多くの出会いと出版物を編纂し、「暴露本」路線に一方では邁進しながら、突然の逮捕-勾留192日という辛酸を経て70歳近くの老境に至り、ふたたび松岡は彼特有の感性である「反内ゲバ」に立ち返ったのではないだろうか。

学生寮が襲撃された連絡を寮母さんから電話で受けた松岡の激高は、年月を経て「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」に初めて接したときの「落胆を伴う驚愕」(これまた推測である)へと質的な変化を遂げていたのではないだろうか。2つの事件に共通するのは表層的な反応の違いではなく、「内ゲバ」=同志、弱者への暴力を「生来徹底的に嫌悪する」松岡の人間性である。

◆「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」

歴史と現状は、そのほとんどが闘争の歴史であることを証明している。闘争は必ずしも崇高なものではなく、私利や権力欲に由来する行為がむしろ主流であり、そこで振るわれる策謀、裏切りや寝返り、そして暴力や殺戮はそれこそ歴史的「常識」である。

ところが、松岡は本人が意識しているかどうか、まったく判然とはしないが歴史的「常識」に行動と言論で「異議あり!」との抗いを続けているように、私には思えて仕方がない。この壮大な作業に簡単な回答など準備されているはずもなく、したがって「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の最後にも「(草稿)」が付されているのではないだろうか。

本原稿は同志社大学の中心的活動家だった望月上史さんが1969年7月6日に、会議襲撃の報復として拉致され、約20日も監禁(軟禁)された末、脱出を試みた際に落下して、のちに死亡した事件を、関係者5名の証言(発言)を紹介しながら松岡が問題提起を行う形で構成されている。5名の証言(発言)をほぼカットなしで引用していることもあり長文となっているが、結論として「内ゲバ」について松岡がどう論を昇華させているかは、読者諸氏がお読みになって確認していただきたい。

人類史と必ず伴走する、闘争史。そしてそこに宿命的に付随するかのような「内ゲバ」と「排除の論理」への挑戦。無謀とも思われるが、人間にとっての一大命題への取り組みは松岡のライフワークなのかもしれない。

この他にも寄稿いただいた原稿はどれも力作の連続だ。松岡は(ストレスのためだろうと推測する)重篤な目の疾患の治療で、昨年秋から全く編集実務から遠ざかっていた。それにもかかわらず、片目1回4万5千円の注射を何度も打ちながら、ほぼ単独で編集した『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は、明日10月29日発売だ。(つづく)

「望月君死ぬ」(1969年9月29日付け読売新聞夕刊)
「また内ゲバの学生死ぬ」(1969年9月29日付け朝日新聞夕刊)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!