松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか ──『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈3〉

権力闘争、あるいは権力奪取闘争のなかで、意見の対立から、元は同志として同じ目的に向かっていた勢力が、分裂を起こすと近親感が憎悪へ変わり、激烈なぶつかり合いから、果ては殺し合いにまで行き着く。

この歴史は何度も教科書の上にすら登場させられることを忘れはしなかった。人間史の深く悲しい惨事の繰り返し。地層のように世界史、闘争史どの断面を切り取っても、対立→分裂→衝突→潰し合いは、人間が保持する克服しがたい、特質のように悲嘆に暮れるしかないのであろうか。

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

そんな疑問や問題提起が、引き金になっているのかどうかはわからない。松岡利康はかねてより、日本の左翼(新左翼)運動内で発生した「内ゲバ」に、人一倍反応し、同志や弱者に向けられる「暴力」に対して、極めて敏感に反応を続けてきた。現在まで5冊の書籍を上梓する結果になった(最初はこれほど多数の出版を、松岡自身が想定してはいなかったであろう)「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」へ取り組む松岡の姿勢が、まさにその証左である。

松岡はどうして「内ゲバ」あるいは、同志や弱者に向けられる暴力に対して、黙していることができないのか。共に取材を進め方針を議論する中でも、この質問を、直接松岡にぶつけたことはない。なんらか、かなり大きな経験なり、思索が「確信」にまで高まり、この種の問題から目を逸らせることを、松岡は無意識に自身に禁じさせている。わたしにはそうであろうとしか推測できない。

そこにはもちろん松岡が学生時代、日本共産党=民青のゲバルト部隊に暴行を受け入院させられた、肉体的苦痛を伴う個人史が作用してもいよう。しかし、そういった経験のある個人は、日本にも世界にも相当数存命中であるはずであり、その点において松岡の体験がことさら特別のものかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

◆リンチ事件への怒りと異議申し立て

4年ほど前になるであろうか「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」が複数筋から鹿砦社に持ち込まれた日(あるいは翌日だったかもしれない)松岡から受信した電話口での語り口調は、明らかに通常時通話のトーンと異なるものであった。あれ以来鹿砦社は自身も血を流す(比喩的な意味である)ことになる、「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」の解明と支援に向かい合うことになる。

松岡はリンチ事件を論じる際に、感情が高じると「常識的に考えて」という文言を繰り返し使う、としばしば感じた。「常識的」は穏やかな一般に共有される概念を指す言葉であるが、松岡が使う「常識的」には、一般的ではない複雑な思いが込められている、と感じたことが少なくない。

それは先に述べた通り、人間史で繰り返されてきた「人間の悪性」ともいうべき、近親憎悪が衝突→潰し合いへと向かうことが、当たり前であるかのような解釈に対する、怒りと異議申し立てではないだろうか。極言すれば松岡は、彼の人生史のなか、とりわけ学生運動に関わった時代の個的経験だけではなく、同時代に発生した幾つもの「内ゲバ」事件を「他人事」と呑気に過ごしていることができず、自身に向けられた「解決策を見出すべき至上命題」として受け取っていたのではないか。

◆高橋和巳と重なる松岡のベクトル

学生当時の松岡が、彼の周辺にさえ「反内ゲバ」を感情ではなく、論理として構成し説き伏せることなど、できようはずはない。しかし『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の最後の原稿として松岡が著した長文「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の冒頭で松岡は、一貫して「内ゲバ」に反対の意思を苦悶しながら表明し続けた高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」から引いている。高橋和巳は苦悩する小説家として著名なとおり、内ゲバに対する論考も、常に原則的な否定論を維持しながら、しかし、ならば「いかなる論や行動が有効であるか」を示し尽くすことができないことに、重ねて苦悶する中で、人生を終えたのではないか……と、またこれも想像する。

おそらく、松岡を突き動かす原動力は、表現方法や行動において同一性は見られないかもしれないが、高橋和巳と重なる方向性とベクトルにあるのではないかと、わたしは感じている。

活動家ではなく研究者だった高橋と、一活動家だった松岡の反応とでは、当然大きな違いもある。そして、松岡が学生時代に生活していた学生寮が、卒業後に某悪質セクトに深夜襲撃され寮生が監禁・リンチされた際、松岡は即寮生支援に向かっている。まだ若かった松岡にとって「内ゲバ」あるいは同志、弱者に対する暴力は、許容できるものではなく、それへの怒りと反撃に激高するのは当然の生理的反応であったと理解する。その経験を松岡は否定はしまい。けれども、会社員から鹿砦社代表へ就任し、多くの出会いと出版物を編纂し、「暴露本」路線に一方では邁進しながら、突然の逮捕-勾留192日という辛酸を経て70歳近くの老境に至り、ふたたび松岡は彼特有の感性である「反内ゲバ」に立ち返ったのではないだろうか。

学生寮が襲撃された連絡を寮母さんから電話で受けた松岡の激高は、年月を経て「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」に初めて接したときの「落胆を伴う驚愕」(これまた推測である)へと質的な変化を遂げていたのではないだろうか。2つの事件に共通するのは表層的な反応の違いではなく、「内ゲバ」=同志、弱者への暴力を「生来徹底的に嫌悪する」松岡の人間性である。

◆「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」

歴史と現状は、そのほとんどが闘争の歴史であることを証明している。闘争は必ずしも崇高なものではなく、私利や権力欲に由来する行為がむしろ主流であり、そこで振るわれる策謀、裏切りや寝返り、そして暴力や殺戮はそれこそ歴史的「常識」である。

ところが、松岡は本人が意識しているかどうか、まったく判然とはしないが歴史的「常識」に行動と言論で「異議あり!」との抗いを続けているように、私には思えて仕方がない。この壮大な作業に簡単な回答など準備されているはずもなく、したがって「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の最後にも「(草稿)」が付されているのではないだろうか。

本原稿は同志社大学の中心的活動家だった望月上史さんが1969年7月6日に、会議襲撃の報復として拉致され、約20日も監禁(軟禁)された末、脱出を試みた際に落下して、のちに死亡した事件を、関係者5名の証言(発言)を紹介しながら松岡が問題提起を行う形で構成されている。5名の証言(発言)をほぼカットなしで引用していることもあり長文となっているが、結論として「内ゲバ」について松岡がどう論を昇華させているかは、読者諸氏がお読みになって確認していただきたい。

人類史と必ず伴走する、闘争史。そしてそこに宿命的に付随するかのような「内ゲバ」と「排除の論理」への挑戦。無謀とも思われるが、人間にとっての一大命題への取り組みは松岡のライフワークなのかもしれない。

この他にも寄稿いただいた原稿はどれも力作の連続だ。松岡は(ストレスのためだろうと推測する)重篤な目の疾患の治療で、昨年秋から全く編集実務から遠ざかっていた。それにもかかわらず、片目1回4万5千円の注射を何度も打ちながら、ほぼ単独で編集した『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は、明日10月29日発売だ。(つづく)

「望月君死ぬ」(1969年9月29日付け読売新聞夕刊)
「また内ゲバの学生死ぬ」(1969年9月29日付け朝日新聞夕刊)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

打落水狗(水に落ちた犬は打て!) 菅原一秀の経産大臣辞任は、結局のところ国会議員の椅子にしがみ付くための方便である

政治は誰がやっても同じ、自民党に代わる政党がないのだから今のままで良いのだ。というのが、日本の国民の少なくとも半数以上を占めるのではないだろうか。あるいは自民党政治にも辟易だが、野党にはおよそ期待できない。そんな政治意識が、じつは自民党政権を支えているのだ。

今回、誰の目にも明らかな公職選挙法違反を犯した、菅原一秀の経産大臣辞任にしても、まぁよくある話(安倍政権では政治資金問題で辞任した閣僚は9人目)として流されていくかのようだ。

だがこれは、れっきとした刑事犯罪(公職選挙法違反)なのである。事実関係を押さえておこう。政治をやるのは誰でもいいわけではない。大げさに言えば、嘘つきやフェイクのパフォーマンスをする者こそが、国家の進路を過ち、戦争への道をひらくのだ。


◎[参考動画]菅原一秀経産大臣が辞表提出 後任は梶山氏(ANNnewsCH 2019年10月25日)

◆国会で追及されているさなかに、堂々と選挙違反

2006年から2007年にかけて、菅原(容疑者=筆者注、以下同)は、選挙区において選挙民にメロンやカニ、イクラ、筋子、みかんといった「金品」を提供して、公職選挙法に抵触する「買収・寄付」を行なっている。これは時効が3年であることから、道義的な責任は問われても訴追される要件ではない。

しかるに、菅原(容疑者)は、過去の有権者買収疑惑を「週刊文春」2週にわたって報じているなかで、公職選挙法違反を犯したのだ。すなわち、練馬区で行なわれた支援者の通夜会場で、秘書をして香典袋を遺族に手渡させ、その瞬間を「激写」されたのである(10月17日)。「有権者にメロンやカニなどを贈っていたのではないか」と国会で追及を受けているさなかに、堂々と公選法違反行為を行なっていたのだ。

菅原(容疑者)は、こう釈明している。「秘書が香典を持って行ったことを知らず、わたしも翌日、香典を持って行ったんです」「先方から香典を戻されたことで、初めて秘書が香典を渡したことを知った」と。議員(大臣)本人が香典を渡すことは、一般慣習として公職選挙法も禁じていない。つまり菅原(容疑者)は秘書が勝手に香典を持って行ったと言うことで、容疑を秘書に押し付けていのではないか。

本欄(2019年9月24日付)では、安倍改造内閣の顔ぶれを批判したときに菅原一秀の経産大臣就任にふれて、批判に晒されるのは必至だろうと断言しておいた。以下、再録させていただく。

【菅原大臣の事務所での暴虐さも暴かれている。秘書たちは朝6時の街頭演説から、夜の11時までブラック勤務を強制されているという。クルマの運転でも、ちょっとでもミスをすれば怒鳴られる。「このハゲー!」で政界を去った(選挙で落選)豊田真由子元議員の言動が暴露されたとき、「つぎは菅原だ」と囁かれたのが、これらの秘書に対する言動だったという。】

【2007年には秘書に党支部へのカンパ(毎月15万円)を強要したとも報じられた(菅原氏はカンパの強制性のみを否定)。高校時代(早稲田実業)に甲子園に出場と選挙公報に書いたものの、じっさいには補欠としてスタンドから観戦していた虚偽記載。】

【女性への言動の酷さは、何度も週刊誌を騒がせたものだ。前述のハワイ行きの愛人に「女は25歳以下がいい。25歳以上は女じゃない」「子どもを産んだら女じゃない」などモラル・ハラスメントしたと2016年6月に週刊文春が報じている。ということは、区議になった元美人秘書は30代から政策秘書(キャリアと能力が必須)を務めていたのだから、女としては扱ってもらえなかったことになる。】

【2016年には、舛添要一辞職後の東京都知事選挙に立候補が噂された民進党蓮舫代表代行が「五輪に反対で、『日本人に帰化をしたことが悔しくて悲しくて泣いた』と自らのブログに書いている。そのような方を選ぶ都民はいない」と発言するが、後日「蓮舫氏のブログではなく、ネットで流れていた情報だった」と釈明している。あまりにも言動が軽く酷すぎる経産大臣が、国会質問で野党の標的になるのは必至だろう。】

菅原一秀事務所では、過去に50人をこえる秘書が退職している。事務所業務のいっさいは菅原(容疑者)が仕切り、勝手な動きをした秘書はクビを斬られるという。したがって今回の「秘書が勝手に」という抗弁も、自己保身ではないかという疑惑が生じるのだ。【高校時代(早稲田実業)に甲子園に出場と選挙公報に書いたものの、じっさいには補欠としてスタンドから観戦していた虚偽記載】とあるとおり、このセンセイは虚言壁があるのではないかとすら思える。

そうであるならば、このさい徹底的に調べを尽くすしかない。香典を持参した秘書は菅原の指示を受けていたのか否か、受けていたのであれば菅原は議員辞職で選挙民に詫びるべきであろう。いや、不逮捕特権があろうとも、検察は書類送検するべきである。いやしくも政治と選挙にかかわる刑事犯罪を犯した議員を、徹底的に叩くことで政治は浄化されなければならないのだ。


◎[参考動画]「政治とカネ」菅原大臣にリスト示し厳しく追及(ANNnewsCH 2019年10月11日)

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▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
タケナカシゲル『誰も書けなかったヤクザのタブー』

ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈2〉

◆1968年フランス「五月革命」と1969年「東大安田講堂」攻防戦

 
鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

1968年から1969年末までの2年間は、日本にとっても、世界にとっても特別な時代だったようだ。米国が「共産主義によるドミノ現象」を阻止するために、参戦したベトナム戦争に対する「反戦」運動が、合衆国本国だけではなく、日本を含む世界中で湧き上がった。

「反戦」から出発した運動は、各国の政権の問題へと矛先を向けてゆき、フランスでは1968年に「五月革命」が起こり、日本でも「べ平連」(ベトナムに平和を市民連合)が全国で広がりを見せ、70年安保を迎え撃つべく、学生運動、労働運動も急激に高揚し、1969年1月には、「東大安田講堂」での学生対機動隊の激烈な攻防戦が展開される。

8,500名とも1万名ともいわれる機動隊が、学生めがけて催涙弾を、地上から発砲し、上空からはヘリコプタが学生を狙い、タンクに貯めた水を投下する。学生たちは火炎びんや投石で機動隊に対抗する。

どうして1969年の1月、2日間にわたり、東大全共闘を中心とする学生たちは、安田講堂に籠城したのか。その事情を詳述しだすと、書籍一冊でも足りない歴史と背景がある。それでも、20歳そこそこ(20歳以下の人もいただろう)の学生たちは、奇跡的に勝利しなければ、逮捕確実なあの籠城闘争に、どんな思いで参加したのか。1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。

あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。

「安田講堂」籠城学生経験者探しは、ひとまず棚上げし、やはりベトナム反戦を闘った方のお話もしくは原稿が頂けないかと、思案していたころ望外の玉稿が鹿砦社に届いた。路上で「ベトナム反戦デモ」に参加した人であれば、簡単に見つけることができる。だが、それでは迫力に欠ける。

◆作家・高部務氏が綴る「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」

かつて都市伝説のように「ベトナムで戦死した米兵の遺体処理アルバイト」なるものがある、と東京を中心に語られていた。まさに「都市伝説」の走りともいえる、非日常性と恐怖感、そして野次馬根性によって彩られたような「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」。それは実在したものであったことを、経験者、高部務氏(作家・ノンフィクションライター)が詳細にご自身の経験を、綴ってくださった。

高部氏がどのような状況で「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」を経験したのか。高部氏は強制されたのか、あるいはみずから進んで、「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」に携わらったのか。それらは『一九六九年 混沌と狂騒の時代』筆頭の回顧記事で明らかにされる。同書が読者にお送りする息をつかせぬ“衝撃”の幕開けである。すべては高部氏による「一九六九年という時代」で語りつくされている。読者諸氏は巻頭の高部解雇記事「一九六九年という時代」でまず、激烈な1969年のエッセンスに触れることになる。

1969年を語るには「ベトナム戦争」を外すわけにはいかない。そして1969年に視点を置けば、ベトナム戦争こそが、アメリカ合衆国を中心とする帝国主義の悪を象徴しているものであったし、南北問題の分かりやすい実例でもあった。

ただ、「反戦」を合衆国で、ベトナム現地で、欧州各国で、そして日本で叫びながら、解放勢力の勝利=米国の敗戦を、はっきりと確信できた人々はどのくらいいたであろうか。米国は建国以来内戦を除き、直接関与した戦争で敗戦経験のない国だ。その米国が、アジアの小国ベトナムに負けるなど、どれほどの人が1969年に予想しえただろうか。だが、一見無謀に見える“象とアリ”(このように表現するとベトナムには失礼かもしれない。ベトナムは米国以前にフランスに勝利した歴史もあるのだから。

でも国の規模から、あえてこの表現を選択させていただく)の闘いで奇跡が結果として訪れたのは、1969年(この年だけではないが)に最大級の盛り上がりを見せた、世界規模の「ベトナム反戦」運動が確実に影響していることは間違いない。世界最大軍事国の侵略戦争を小国が打ち破った。その背後には、世界の「反戦」の声があった。1969年はそんな奇跡が、現実化する前段階が無意識にも用意された年でもあった。(つづく)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈1〉

「企業は創業30年がピーク」だとする、やや古めかしい言い回しがある。企業だけでなく、私立学校などにも結構当てはまるこの言い回しには、なるほどと思わせる根拠がある。起業時に経営者が30歳であれば、30年後は60歳を迎えている。40歳ならば70歳だ。平均寿命が延びて、給与所得と年金が減った今日、企業労働者は60歳定年退職後も、嘱託として半額ほどに減じられた俸給で元の職場にとどまるか、あるいは第二の職場を探さなければ、生活を維持するのが難しい。だが「人生50年」といわれた時代には60歳定年前に、人生の定年がやってきたわけで、つまり事実上の「終身雇用」が生涯続く、ケースも珍しくはなかった。

志や理想に燃えて起業した、あるいは開学した経営者。早々に行き詰まり、こけてしまえば別だけれども、堅調な経営が続いていれば、創業30年で足場は固まり、「攻め」から「守り」に入る時期に中小企業では、落とし穴が待っている。保守化した経営者は独善的になり、みずからの経験則を第一に置き、商品開発や、会社の運営に提言しようとする、新しい従業員の声を聞かない。そのくせに起業(開学)当初の理念を捻じ曲げてでも自己正当化を図ろうとする。だいたい、そんなパターンで30年は転機として訪れるようだ。

◆2005年7月松岡逮捕─長期勾留という分水嶺

今年は鹿砦社創業50周年にあたる。本通信を毎日のようにお読みいただいている読者のみなさんからは、驚きの声が聞こえてきそうだが、1969年に鹿砦社は創業したのだ。そこで「企業は創業30年がピーク」説を当てはめると、1999年に鹿砦社も分水嶺を迎えていたことになる。1988年に3代目社長に就任した松岡は、それまでの硬派一辺倒路線から、芸能界を中心とする「暴露」路線にもウイングを広げた。ジャニーズ、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会などを相手に次々と「暴露」を連発。当時鹿砦社とのつき合いが皆無だったわたしは、てっきり「トップ屋」出版社とばかり思い込んでいた。

1999年はノストラダムスにより「人類破滅」が予想されていた年で、『ノストラダムスの大予言』で儲けた出版社は、夜逃げの準備をしていた(憶測である)。なにも起こるはずがない1999年はさらりと過ぎて、いまやノストラダムスの名前すら若い人は知らないだろう。鹿砦社は「暴露」に次ぐ「暴露」の対価として、多くの訴訟を抱えることになる。それでも起業30周年の1999年は無事経過することができた。

今年亡くなった『噂の眞相』編集長・岡留安則氏との対談『スキャンダリズムの眞相』(2001年、鹿砦社)のなかで、松岡は岡留氏から、係争についての忠告を受けている。そして岡留氏の予言的忠告は、鹿砦社創業30周年から遅れること、6年目に現実のものとなる。2005年7月12日、神戸地検特捜刑事部に「名誉毀損」容疑で、松岡は逮捕され、192日もの勾留を余儀なくされたのだ。『噂の眞相』も刑事告訴され、『スキャンダリズムの眞相』が発刊された当時は、一審で争っている最中だったが、岡留氏ともう1名の被疑者はいずれも在宅起訴であり、松岡の逮捕―長期勾留は出版界では大きな事件として、記録に残っている。

取締役や社員の何人もが、鹿砦社を見捨て、離れてゆく中で、入社2年目、まだ20代前半の中川志大、現『紙の爆弾』編集長がほぼ単身で、松岡不在の間踏ん張り続けたことは特筆されるべきだろう。中川に「どうしてあの時鹿砦社を辞めなかったのか?」と聞いたことがある。「みんな辞めて行っちゃったから、残ろうかなと…」と肩透かしのような答えが返ってきた。中川の強みは、松岡と対称的に「闘志や喜怒哀楽を表に出さない」ところだと推測する。『紙の爆弾』廃刊どころか、会社倒産か廃業の危機のなかから、鹿砦社は奇跡的な復活を遂げる。

◆鹿砦社創業50周年に〈1969年〉を掘り下げる

社員でもない無責任な立場から、鹿砦社の半世紀を、あれこれ論評するのはためらわれるが、ご心配なく。半世紀にわたる鹿砦社の歴史は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表が収録されている。松岡から鹿砦社社長就任についての逸話は聞いたことがあった。しかし、鹿砦社創業に関わった方のお話は聞いたことがない。こちらもご心配なく。鹿砦社創業メンバーのお一人である、前田和男さん(現『続・全共闘白書』事務局)に松岡が直々に鹿砦社創業当時のお話を伺った。

このように『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は鹿砦社創業50周年記念として、原点を振り返る。これをひとつの旋律としている。硬派出版社として出発し、芸能、暴露本路線にもウイングを広げ、会社存亡の危機を経て、危機から回復、日本唯一の脱(反)原発季刊誌『NO NUKES voice』を創刊するなど、近年地味ながらも存在感と、心ある識者からの評価を上げてきた鹿砦社。この不思議な出版社誕生から今日までの歴史を振り返るとき、1969年という“特別な年”を掘り下げずに、なにが語れるであろうか。

お定まりの社史編纂では、つまらない。鹿砦社の50周年出版物であれば、当然、鹿砦社視線の〈1969年〉を浮かび上がらせなければ意味はない。そしてそれは、予想以上の成果として貫徹された!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』が鹿砦社の歴史をつまびらかにすることを、ひとつの旋律にしていることは述べた。しかし主旋律は違う。あの年、その後の日本、いや世界中を根底から揺さぶる運動体の胎動があったのだ。そこに迫らずして鹿砦社は〈1969〉年を語ろうとは思わない。(つづく)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

ラグビーワールドカップで南アフリカの国歌に驚かされた

10月20日夜、急な取材のため、でかけたものの帰宅できなくなり、安宿で一夜を過ごすことになった。この日はラグビーワールドカップの準々決勝、南アフリカ―日本戦が19時過ぎから行われ、のちの視聴率調査では40%を超える数字を得たという。

自宅にはテレビがないが安宿の食堂では、宿泊客がNHKの中継に見入っていてた。ラグビーは国境を意識させないスポーツとして、だいぶ以前に本通信で好意的に紹介した記憶がある。その一方、日本開催となった本大会に限れば、来年予定されている「企業の祭典」東京五輪の予行演習の側面と、例によって、にわかファンの騒ぎぶりに、ひねくれものは反応してしまい、ろくろく試合も見ていなかった。

◆「Nkosi Sikelel’ iAfrika」(神よ、アフリカに祝福を)

20日、日帰りを予定していた出張が、予想外に長引いたことでわたしも南アフリカ―日本の試合を観戦することができた。そして試合前にわたしは自分の不勉強と、虚を突かれることになった。ラグビーのワールドカップは他の競技と異なり、純粋な国対抗ではない。英国だけでもスコットランド、ウェールズ、イングランドが今大会に出場している(アイルランドも国だけではなく英国領アイルランドとの合同を意識したチームだ)。だから試合前の「国家斉唱」では通常の英国国歌とされるものではない歌詞やメロディーを使わざるを得ない。

そこまではわかっていたが、自分の無知を恥じたのは、南アフリカ国歌が流れたときだ。「え! あの歌が国歌になっていたんか!」と声を出してしまった。あれは何年だっただろうか。リチャード・アッテンボロー監督の映画『Cry Freedom』(邦題「遠い夜明け」)で聞いた曲だ。


◎[参考動画]Nkosi Sikelel’ iAfrika – Cry Freedom [1987]

当時国際社会から非難されながらも南アフリカでは、明確な差別、人種隔離政策“Apartheid”(アパルトヘイト)がまだ蛮行を続けていた。『Cry Freedom』のエンドロールでは、「1962年の国会において、南ア政府は法律なしでの勾留を認めるようになった。これから紹介するのは、それ以降投獄され死亡したひとびとの、名前と死因の公式発表である」の説明のあとに延々と名前が続いたことが忘れられなかった。

『Cry Freedom』の主人公は、南アの有力新聞デイリー・ディスパッチ紙の白人記者ドナルド・ウッズだ。けれども実際の主人公は1968年に「南アフリカ学生機構」を立ち上げ、のちにドナルド・ウッズと親交を結ぶことになる、スティーブ・ビコだ。スティーブ・ビコは1968年に「南アフリカ学生機構」を設立し、南アにおける黒人解放運動の指導者として、もっとも有名な人物のひとりである。つまり『Cry Freedom』は実話をもとにした映画作品であった。ビコは映画の途中で早々に、虐殺されてしまい、フィルムのかなりの時間はドナルド・ウッズの南アからの、脱出物語にさかれている。このあたりに、若かったわたしには「ちょっと、主役が違うんじゃないか」と感じた記憶もある。

メロディーが記憶にあったのは、調べてみるとコザ語、ズール語による「Nkosi Sikelel’ iAfrika」(神よ、アフリカに祝福を)という曲だったようだ。作詞作曲されたのは19世紀。以来アフリカの多くの国で、独立象徴の歌として歌い継がれたようだ(19世紀アフリカの解放歌が、キリスト教に依拠していた事実をどう考えるか、の課題は横に置く)。

南アの国歌は、わたしが一回聞いただけだが記憶にある「Nkosi Sikelel’ iAfrika」だけではなく、途中で著しく変調した。後半はアフリカーンス語の「Die Stem van Suid-Afrika」(南アフリカの呼び声)を編曲したものだ。1997年にネルソン・マンデラが大統領に就任して出来上がった、2つの歌が合体しているので、変調が際立ってきこえたのかもしれない。

◆寒い国で初めて出会った南ア人

『Cry Freedom』を鑑賞したのより、さらに10年ほど前、わたしは最低気温がマイナス30度を下回る国を放浪していた。その時も安宿に宿泊していた。二段ベッドが3つ並ぶドミトリーといわれる、最安値の宿だ。その国の住民と同じく白人の宿泊者が会話をはじめた。

「あんたこの国の人間かい?」

「いや、俺は南ア人だよ」

「フー、大変なところにすんでるな。黒人(blackとその白人は発語した)が面倒だろう」

「ああ、俺は徴兵を終えたばかりなんだ。軍隊はよかったよ。黒人に気をつかうことがなかったから」

「この国でも黒人はいつも問題をおこしてばかりさ」

なんというあけすけな人種差別をする連中か、とかと呆れていたら。こちらに声が向いてきた。

「あんたはどこからきたんだ?」

「南アだよ」

下手くそな英語で嫌味を返したつもりだった。

「そんな英語が下手な南ア人はいないさ」

すぐにみやぶられ、日本からやってきていることを告げて、

「南アの白人にとっては、有色人種は黒人と同じなんだろう?」

実際そうであると聞いていたので、素朴な質問をなげかけた。

「いや…。ウーン。日本人は特別扱いされると思うよ」

こちらの機嫌を気にしたのか、南ア白人は曖昧にこたえ

「あした、3人でクロスカントリースキーをやらないかい? 俺はやったことがないんだ。日本は雪が降るんだろう?」

と、妙ななりゆきで誘いをうけた。予定も立てていなかったので、3人でクロスカントリースキーを借りて、山道を歩き(滑るというほど初心者に簡単なものではなかった)まわった。

わたしの知る南ア人は、彼だけだ。山道を苦労しながらドタバタするなかでも、彼は饒舌だった。

「おれは規律がすきなんだ。だから軍隊が心地よかった。ワン、トゥー、ワン、トゥー!」

わたしは規律が嫌いで、軍隊に入ることなど想像もできない。

「雪山はきれいだな! 白はいい! 人間も白に決まってる!」

うそのような話だが、黄色人種のわたしの横で、休憩のために腰を下ろして,たばこを吹かしながら大きな声で、もう一人の白人に同意をもとめる。彼は“Apartheid“が廃止され、ネルソン・マンデラが大統領になる日が来るなど、考えもしなかったことだろう。

わたしは、たったひとりの南ア人とは1泊2日をともにしただけだから、そこから決めつけるのは乱暴すぎるかもしれないが、その後、日本で聞くニュースやなどからも、南アフリカについては複雑な感情しか持てなかった。

それだけに、その後ろくろく南アフリカの情報に関心を向けなかった自分の不勉強を、ラグビーの試合によって偶然知るしる機会を得たのは果報だった。まさかあのメロディーが「国歌」になるなんて。信じられなかった。両チームの選手には申し訳ないが、そのことの驚きは、かなり長時間持続した。わたしは「君が代」が大嫌いだ。陰鬱なメロディーで、「解放」などとは無関係な歌詞。対照的に、キリスト教を下地にしているとはいえ、アフリカ全土で歌われた、黒人解放歌が国歌だなんて、素晴らしいじゃないか。


◎[参考動画]Nelson Mandela – Nkosi Sikelel’ iAfrika (God Bless Africa)

南アには貧困、エイズ、引き続き人種による軋轢など、さまざまな問題があることは知っている。犯罪発生率も際立って高いことも。解放歌が国歌になっているぐらいで、感激しているのは、おめでたい奴だとじぶんでも思う。でも正直、久しぶりに感激した。きっと、それほどにわたしは、常日頃、冷めきっているのだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

警察権の行使拡大は、戦前の特高警察よりも悪質で超法規的になっている ── 「即位の礼」「大嘗祭」で進む「治安維持ファースト」社会の異常

◆戦前のような感覚が「普通」になったのか?

下に引用した、ふたつの記事を見ていただきたい。武闘路線を解除し地下組織を解散したといわれる新左翼のなかでは唯一、革命軍戦略(武装闘争)を中止していないとされる(機関誌で革命軍の存在をPR)革労協両派に、公安当局の捜査が入った。とはいえ、読む者をドキリとさせるような内容ではない。

見方によっては「トホホ」なものでありながら、思わず法の運用を間違えたのではないかと驚愕させられる。活動家への私文書偽造容疑は珍しいことではないが、マンションを借りるのに「わたしは過激派の革労協に所属しています」と言わなかったから「身分詐称の詐欺罪」だというのだ。現在の日本に「身分」があるのか。

そもそも革労協(赤砦派)にかけられたこの「詐欺罪容疑」は、暴対法および暴排条例で、ヤクザの組員を取り締まる手法なのである。公安委員会から革労協が「指定暴力団」に指定されたのは、寡聞にして聞かない。

ヤクザに対する法運用にも、問題がないわけではない。銀行口座を作る際やクルマを購入する際に、あるいはゴルフ場や喫茶店に入るときに「ヤクザです」と言わなかったから「詐欺なのだ」と。一連の裁判では暴排条例そのものの違憲性が問われ、少なくない例で「詐欺とまでは言えない」という判決が下っている。当たり前である。カネを出してゴルフやコーヒーを愉しむ側に、とくべつの金銭的な利益が発生するわけでもない。ぎゃくにヤクザが銀行口座を開けないことから、その子弟が不利益を被ることで人権問題が派生しているのだ。

◆日本には、まだ「身分制」があるのか?

そもそも「身分を隠して」というのは、21世紀の日本に、いまだに差別的な「身分社会」があるという意味だ。この「身分」とは、古代社会の「奴婢」や江戸時代の「士農工商」と同じ意味であって、明治維新後は「身分解放令」(「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」明治4年8月28日太政官布告第449号)施行により廃止された。いまの日本には「国籍」や「学生割引」「60歳以上の年齢割引」などの証明、および刑事罰による「公民権の停止」以外の「身分証明」は存在しない。警察庁が無理やり「反社会的勢力」という「身分制」を勝手に作り上げたものなのである。

それでも「反社会勢力」排除という流れは社会の隅々まで行きわたり、マンションの管理組合の規約も、当局の指導で「反社の居住をみとめない」方向で改正されている。今回の事案はおそらく、捜査当局の現場感覚で「過激派も反社だろ」という安易な判断で行なわれたものだろう。暴対法で「指定暴力団」であるヤクザの場合よりも、新左翼は国家の転覆まで目標にしているのだから、けだし当然であるという見方があるかもしれない。

だが、いまだ国家公安委員会は左翼団体を「危険団体」と指定したことはない。いや、ヤクザなら誰でも賛成するだろうという見込みで成立した暴排条例(地方議会)とはちがい、左翼団体を非合法化した場合の国会での法的な論争を、捜査当局および公安委員会が引き受けられるとは到底思えない。かつて「過激派に人権なし」という時代もあったが、精緻な法律論争をやればのっぴきならないことになるのを、警察庁も知っているのだ。ヤクザ(暴力団)とは違って、左翼団体と労働運動団体・市民団体の線引きが、かぎりなく不可能に近いからだ。革命を標榜することが、思想信条の自由および結社の自由(憲法)に保障されているのは言うまでもない。

◆法的な争点を精密に論じよ!

もうひとつの事件は、無許可で金貸し業をやっていたという容疑(4回にわたって、わずか1万2000円……しょぼい)だ。この場合、カネを貸すことで利益が生じたのか否か、あるいは個人間での貸し借り契約(融資)に違法性があるのか(個人的な契約でも、利子は当然発生する)。これが法律上の焦点となる。

かりに無許可で「貸金業」をやっていたとするのなら、当該の容疑者が「営業活動」をしていた事実の立証が必要である。闇金のように看板をつくって「おカネ貸します」とか「カネのないヤツは、俺んところに来い。俺もないけど心配するな!」(植木等)とか言っていた、というのだろうか。

新左翼の中には、かなり酷い法運用を行なわれても「不当弾圧」一般で済ましてしまう傾向があるが、このさい革労協(現代社派)は法律的な争点を明確にし、国賠訴訟で争って欲しいものだ。

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【私文書偽造と「身分詐称の詐欺」事件】

警視庁公安部と埼玉、神奈川両県警は8日、有印私文書偽造・同行使の疑いで、過激派「革労協反主流派」の非公然部門最高幹部、土肥和彦容疑者(71)=横浜市港北区樽町=を、詐欺の疑いで同派非公然活動家、石岡朱美容疑者(57)=同=を逮捕した。調べに対し両容疑者とも、黙秘している。

警視庁によると、土肥容疑者は長期にわたって、非公然部門の最高幹部を務めており、活動全般に影響を与えていたとみられる。2人は石岡容疑者が借りたマンションで同居しており、警視庁などは石岡容疑者が土肥容疑者をかくまっていたとみて調べている。

土肥容疑者の逮捕容疑は平成30年3月、東京都板橋区の歯科医院で、架空の氏名と住所を診療申込書に記入し提出したとしている。石岡容疑者は今年4月、過激派の活動家であるのに身分を隠しマンションの一室を借りた疑いが持たれている。(2019年10月8日付け産経新聞)


◎[参考動画]過激派最高幹部の男を逮捕 歯科診療時に偽名を使用(ANN 2019/10/09公開)

【貸金業法違反】

貸金業法違反の疑いで逮捕されたのは、過激派組織「革労協」主流派の活動家で、住所不詳の緒方信雄容疑者(69)です。

警察は18日の朝から、福岡市博多区にある活動拠点や東京の革労協事務所など5カ所を家宅捜索しました。

警察によりますと、緒方容疑者は2019年5月から8月にかけて、許可がないにも関わらず、県内に住む知人の男性に4回にわたってあわせて1万2000円を貸し付け、貸金業を営んだ疑いです。

警察は緒方容疑者の認否を明らかにしていませんが、革労協による組織的な関与があったとみて、押収品などを調べ容疑の裏付けを進める方針です。(2019年10月18日付けテレビ西日本


◎[参考動画]無断で“貸金業”革労協活動家を逮捕 (福岡TNC 2019/10/18公開)

◆法に依らない日常生活上の禁止

つぎは、11月に延期された祝賀パレード沿道の声(下記引用)である。警視庁は天皇式典の祝賀パレード沿道の住人に対して、ベランダに物を置くな、洗濯物を干すなという「呼びかけ」を行なっているという。「気を付けてください」ではなく「物を置かない」「写真を取らないよう」に「もとめる」。左翼活動家を法的な根拠もなく拘束し、住民には日常生活上の禁止を「求める」のだ。そして問題なのは、これらの指示に従わない者は、社会的に排除される「空気」が醸成されることだ。

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【ベランダに洗濯物を干すな】

警視庁は、祝賀パレードのルート近くに住む人たちに対し、屋上やベランダなどからパレードをのぞき込んだり、写真を撮ったりしないよう協力を呼びかけています。

また物が落下しないよう、廊下やベランダに洗濯物を干すことや、鉢植えを置くことを控えるよう求めています。

ルート近くに住む人からは、さまざまな声が聞かれました。

パレードのルートが見える港区北青山にあるアパートの10階に住む半戸アヤ子さん(77)は、自治会で周知があり、ベランダの鉢植えを移動させる準備を進めていました。

ベランダには、ほかにも夏場に“自然のカーテン”として使っていたゴーヤーのつるが残っていて、その枯れ葉が落ちる可能性があるため、10日はハサミを使って取り除いていました。

半田さんは「なかなか厳しいですが、ベランダから見てはいけないということなので、沿道におりて見ようと思います。天皇陛下が通るのできれいにしておかないといけないと思いますし、洗濯物も1日くらい我慢して干さないようにします」と話していました。

また、千代田区麹町のマンションの10階に住む34歳の女性は「規制について知らなかったのでベランダから見ようと思っていました。

2歳の娘に見せてあげられると思っていましたが、テレビで見ようと思います。何かあったら大変だということは理解できますが、残念だとも思います」と話していました。(2019年10月10日付けNHK

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法に依らない事実上の治安拘束、そしてこれも法に依らない日常生活上の禁止がまかり通るようになったのだ。法に依らないという点では、戦前の特高警察よりも、はるかに悪質な警察権の行使が行われている言うべきであろう。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。

タケナカシゲル『誰も書けなかったヤクザのタブー』
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天皇の「即位の礼」が行われる日はどうして休日なのか

きょう、10月22日はどうして休日なのだろうか。

交通規制のお知らせ(政府広報)

それは天皇の「即位の礼」が行われる日にあたるからだ。30数年前にも同じ理由で休日があった。その日わたしは天皇制にへの反対を示すために、あえて出勤し午後からは市内中心部で行われたデモに参加した記憶がある。

先月来検索サイトを開くと右記のような宣伝(政府広報)が頻繁に目についたし、新聞でも同様の広報があった。おそらくテレビでも東京を中心に相当量の宣伝がなされたことだろう。台風19号の影響で、パレードなど行事の一部は来月10日に延期になったが、総体としての「即位の礼」は変わらない。

さて、「即位の礼」とはなにをする儀式なのだろうか。ウィキペディアが簡潔にまとめているので、紹介する(太字は著者が強調したい箇所である)

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日本国憲法施行後の「即位の礼」では、5つの儀式(国事行為)が行われる。ここでは儀式を概説する。

交通規制が実施される首都高速道路及び地区(警視庁)

・天皇明仁の剣璽等承継の儀
即位の礼はこの儀式から始まる剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)— 皇位継承があった当日に行われる儀式。新天皇や男性皇族が宮殿正殿・松の間に入り、新帝の前に置かれた案(机)に三種の神器のうちの剣璽と御璽、国璽が安置され、新帝が剣璽に挟まれて退出する。大日本帝国憲法下での剣璽渡御の儀(けんじとぎょのぎ)にあたる。

・剣と璽(イメージ、実物は非公開)即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)— 皇位継承当日か、後日行われる儀式。天皇が即位後初めて三権の長をはじめとする国民の代表者と会う。正殿松の間に天皇・皇后や皇族が入場し、天皇の「おことば」の後、内閣総理大臣の式辞がある。明治憲法下の践祚後朝見の儀(せんそごちょうけんのぎ)に相当する。

・即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)— 天皇が即位を国の内外に宣明する、いわば即位の礼の中心といえる儀式で、戴冠式、即位式に相当し、各国元首、首脳らや国内の代表が参列する。皇位継承当日とは日を隔て行われる。宮殿正殿の松の間に高御座、御帳台が設置されて、それぞれ「御装束」に身を包んだ天皇・皇后が登り、諸皇族、三権の長が左右に控える。天皇の「おことば」があり、内閣総理大臣が祝辞である「寿詞」を読み上げ、万歳を三唱して参列者一同がこれを唱和する。

・祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)— 即位礼正殿の儀終了後、天皇・皇后が皇居宮殿から赤坂御用地にある赤坂御所まで御料車でパレードする儀式。

・饗宴の儀(きょうえんのぎ)— 即位礼正殿の儀に参列した内外の賓客に対し、謝意を表してもてなすための宮中晩餐会。即位礼正殿の儀当日に始まり、宮殿豊明殿や長和殿にて数回開催される。

ウィキペディア「即位の礼」の項

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◎[参考動画]即位礼正殿の儀 祝賀御列の儀 祝賀パレード 本番さながらのリハーサル車列 (AirForce Aris2019/10/06公開)

日本国憲法において、天皇は「国民統合の象徴」と定義されているが、なんのことはない。相変わらず、国家神道を土台に据えた明治憲法時代と本質において変わらぬ「神事」が堂々と行われるわけである。

わたしが天皇制を嫌悪し、許容できないのは、このような「宗教儀式」に象徴される「国家神道」が、実質的にまだ生きているからだ。アキヒトは平和を演出しようと、しきりに自分が「象徴」であることを口にしていたが、アキヒトのいう「象徴」とは庶民が使う「象徴」とずいぶん意味が違う。

代替わりに、税金を湯水のように使い、諸外国の元首へ招待状を送り「代替わり」儀式へ参加を要請する。これが「象徴」の入れ替わる際に行われる行事の姿であろうか。こんな扱いは総理大臣の交代にも行われない。つまり本音では「元首」扱いなのだ。

即位礼正殿の儀で《天皇の「おことば」があり、内閣総理大臣が祝辞である「寿詞」を読み上げ、万歳を三唱して参列者一同がこれを唱和する。》この姿を見ただけで日本はいまだに、国家神道から抜け出せていない前近代的な「宗教国家」であることが証明される。でも、日本国憲法の前文やその他の条文から解釈しても、「天皇を元首」とみなすことには絶対的な無理がある。前述したように憲法第一条は「天皇は国民統合の象徴」(この「象徴」の使い方も実に曖昧で不自然ではあるが)と定めているのだ。そしてどこからどう見ても、国民主権は動かしようがない(憲法と法律上は)。

だが、第一条における「象徴」とのあいまいな表現を、優越するはずの国民主権が、実は日本国憲法成立時から、実体化されていなかった事実を「即位の礼」が廃止されなかった経緯に見てとることができる。戦後日本の中枢は、新憲法制定にあたり「国体」を守ることを死活課題とした。そのバーターのために9条が設定されたとの論は、ほぼ間違いないだろう。

「国体」。無理に訳せば不可能ではないだろうが、外国語にこの概念を持つ言語はないのではないか。普段は不可視で存在がつかみにくいが、きょうのような日に正体を現すその核は「国家神道を基礎にする宗教国家」である。

いま何年だ? 2019年だろう。21世紀だぞ! AIの発達が進み、万能細胞が開発され、スマホが世界に行き渡っている時代じゃないか。「国家神道? 馬鹿言いなさい。そんな時代じゃないの」とどうして先進的な科学者や、企業家は発言しないのだろうか。それどころか経団連は労働者を搾取しながら天皇制を称揚し、IPS細胞開発者の山中伸弥はことあるごとに「国家」への忠誠を身をもって示している(新元号選定の有識者会議に山中は参加していた)。ぜんぜん進歩していないじゃないか。IPS細胞の開発者が天皇主義者である事実は、しっかり注意を払う必要がある。

そして、「文化人」だの「評論家」だの呼ばれている連中で、明確に天皇制を批判する方がどれくらいいるだろうか。右の鈴木邦男から自称リベラルの香山リカまで皆さん「万歳」状態じゃないか。芸能人に至ってはもう目も当てられない。

「差別」問題はどうした? 出自による身分制度は、これ以上ない差別制度じゃないのか。「やんごとなき」血筋にお生まれになる方がいるから、生まれたときからさげすまれる子どもが社会的に作られるのではないのか。差別問題を口にしている連中で、天皇制を批判できず、ましてや称揚するような人間は、全員「インチキ」である。

そして「インチキ性」こそが、今日、日本を覆いつくす主流の精神性だといっても過言ではないだろう。まずは鏡を見よう。あなたは「インチキ」に冒されてされていないかどうか。天皇制は強力で巧妙だ。


◎[参考動画]「即位礼正殿の儀」へ 陸自の部隊が予行演習(ANNnewsCH2019/10/19公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

戸田ひさよし前大阪門真市議からの「9・17見解」へ再返答します!  鹿砦社代表 松岡利康

6月30日付けの私からの戸田ひさよし前大阪門真市議への「ご質問」に対し戸田氏より、返答(「9・17戸田見解」)が届いています。ちょうどその頃は鹿砦社創業50周年記念出版の編集・製作作業に慌ただしく、その旨戸田氏に伝え再返答の猶予を要請、また私のFBでもお知らせしていました。ようやく記念出版の作業が校了いたしましたので、戸田氏へ再返答しようと「9・17戸田見解」を熟読し始めたのですが……。

6・7集会案内

まずは10月20日、別掲の再返答をメールにて戸田氏に送りました。戸田氏が私に「弾劾質問状」を本年6月9日に送ってきて以来、本件の議論を「公開でやろう」と合意し、私は、戸田氏が設定した期限6月30日に「弾劾質問状」に回答すると共に戸田氏へ「ご質問」を発しました。

戸田氏からの返答を待っていましたが、私も記憶がはっきりしないほど戸田氏からの返答に日にちが掛かりましたので(本心では、もう来ないのではないかと思ったぐらいです)、戸田氏からの返答文に言及する前に、まずこのかんのやり取りを振り返りたいと思います(当事者の私が覚えていないほどですので、直接関係のない方々はほとんど記憶にないでしょう)。そうして時系列を整理したのが戸田氏への再返答の冒頭のくだりです。

戸田氏からの返答(「9・17戸田見解」)では、もう私を「相手にしない」とか「(私からの)質問に答えない」とか、待たせた挙句、肩透かしであると共に非礼なことです。みなさん、そう思いませんか?

さらには、「人間としての信頼感も絶大」な前田朗教授や、「俄然信頼出来る仲間」の趙博氏や仲岡しゅん弁護士ら「信頼する仲間と共に進むのみ」と宣言しています。前田・趙・仲岡氏らについては、これまでさんざん述べていますので、ここではコメントを省きますが、まあ、言わせていただければ、「類は類を呼ぶ」ということでしょうか。人を信用させておいて平気で掌を返す者らを「信頼」し「共に進む」と言うのであれば、それは戸田氏の勝手でしょうが……。

『カウンターと暴力の病理』より
『人権と暴力の深層』より

そのように戸田氏は、私からの「ご質問」にはほとんど答えてくれませんでしたが、ただ私が借金で訴訟沙汰になったなどというデマに対しては到底許容できませんので、これについては10月31日までの期限で回答を求めています。

人間誰しも誤りはありますから、誤認なら誤認でも仕方ないと言えば仕方ありませんが、こうしたことに対する態度で戸田氏の人間性が現れると思います。戸田氏は私を攻撃する材料として松岡借金訴訟説をみずからのサイトに晒し、私への世間の評価を貶め、さらに鹿砦社の業務に悪影響を与えたといえますので到底許容できません。みなさんがもし、このようなことをされたらどうですか?

ご承知のように鹿砦社は、李信恵氏による「鹿砦社はクソ」「クソ鹿砦社」といった悪罵の連続に対し民事訴訟を起こし、李信恵氏の不法行為を裁判所が認めました。いやしくも「反差別」運動のリーダーがこんな汚い言葉を発し他人を攻撃してはいけないんですよ。戸田氏についても、氏のサイトの閲読者数や影響力などは鹿砦社の比ではありません。戸田氏に然るべき対処を求めます!
   

◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇

 
戸田ひさよし 様

[送信人]   
2019年10月20日 
株式会社鹿砦社 
代表取締役   
松岡利康    

冠省 失礼いたします。

さて、9月17日(修正版同月19日)に「鹿砦社・松岡代表の『6/30回答』への9/17戸田見解~反ヘイトの行政づくり運動等にネトウヨ並のイチャモン・デマ誹謗で敵対する松岡氏弾劾」を拝受いたしております。

折り返しメール差し上げましたように、ちょうどその頃、小社創業50周年記念出版(『一九六九年 混沌と狂騒の時代』。内容は別途広告参照)の編集・製作作業に追われ再返答の猶予を要請し失礼いたしました。お陰様でそれも16日に校了いたしましたので、あらためて戸田さんの「見解」を熟読しそれに再返答させていただきます。

[1]時系列の整理

かなり時間が経ってしまい、議論自体が消滅してしまった感がありますので、まずは時系列を整理しておきます。

・5月23日 「【カウンター大学院生リンチ事件】前田朗教授の豹変(=コペルニクス的転換)に苦言を呈する! 鹿砦社代表 松岡利康」(http://www.rokusaisha.com/wp/?m=20190523)を「デジタル鹿砦社通信」に掲載。

・6月9日 戸田さんから松岡に対して「弾劾質問状」が届く。回答期限が6月30日とされていた。

・戸田さん要求の期限の6月30日松岡回答。同時に戸田さんに対して「ご質問」で、戸田さんが求めた期限同様3週間後の7月21日(日)までの回答を要請。7月1日 松岡デジタル鹿砦社通信に、「戸田ひさよし前大阪門真市議からの『弾劾質問』に回答します! また、私からの『ご質問』にもお答えください! 鹿砦社代表 松岡利康」(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=31283)掲載。

・7月11日 戸田さんから回答期限延期の申し入れ(1回目)。

・8月28日 戸田さんから再度の回答期限延期の申し入れ(2回目)。

・9月15日 戸田さんから3度目の回答延期申し入れ(3回目)。

・9月17日 戸田氏から回答(→9月19日修正版)届く。

このように私は戸田さんに要請された回答期限を守りましたが、戸田さんからは3度にわたる「回答延期の申し入れ」がありました。しかし、誰にも忙しい時期や手を抜けない仕事というのはあるものです(私もこのかん、そのような仕事に取り組んでいました)。戸田さんからの回答延期要請は「よほど大切なことでお忙しいのであろう」と思慮し、あえて問題にはしませんでした。戸田さんからのメールには「ちなみに、今回の『戸田都合による対応遅れ』に関して、松岡氏が戸田をどのように批判しようとも、それは松岡氏の自由に属する事だと、私は認識しております」(7月11日メール)との謙虚な見解表明もありましたが、前述の通り誰にでも「事情はある」との考えから、戸田さんの回答延期要請を受け入れました。

次いで8月28日には2回目の回答延期要請が戸田さんから届きました。その中で戸田さんは、「鹿砦社・松岡代表へ。私は下記の7/11発信メールで、『最も遅くとも8月下旬までの見解表明』、と言明しましたが、諸般の事情で、どうしてもそれがかなわなくなり、『9/15までには必ず』、と延期せざるを得なくなりましたので、ご連絡させていただきます。『これが最後の延期』であり、今度こそは必ず期限を守りますので、ご容認下さい。

なお、7/11メールに書きましたように、『戸田都合による対応遅れ』に関して、松岡氏が戸田をどのように批判しようとも、それは松岡氏の自由に属する事だと、私は認識しております。」と書かれていました。2回目の延期要請ということで、私には回答期限を区切っておきながら、少々自分の事情を戸田さんは優先しすぎるのではないか、との想いもありましたが、懇願調の文章をあげつらうのも大人げないと思い、再度の回答延期も受け入れました。

さすがに9月15日には戸田氏から回答を頂けるであろうと思っていましたが、9月15日当日になり、3度目の回答延期要請が来ました。言論の基本的なルールに立てば、みずからが最初に議論を提起し、その回答期限を設けたのですから、相手(この場合私です)の質問にも、同様に対応するのがルールではないでしょうか。

それでも、何回も繰り返しますが、人には絶対に外せない仕事や事情が、時としてあるものです。私は2回目の回答延期要請までは戸田さんの要請を、黙って甘受しましたが、さすがに3度目になると少し穏やかな気分ではいられませんでした。考えてもみてください、もし私と戸田さんの立場が逆であったら、私が1回目の「回答延期要請」するや、戸田さんは私を非難したのではないでしょうか(そのように感じさせるトーンの文面があります)。

[2]遅れに遅れて届いた「見解」──それでいて、私に対し「今後相手にしない」、「デタラメ主張する人物からの『質問』に回答する事もしない」との宣言はいかがなものでしょうか?

このような経緯を経て届いたのが、今回の戸田さんからの回答です。小社創業50周年記念本が校了し、あらためて熟読すると、回答内容は3度の延期(2カ月間)を私に強いたものとは思えない、誠に酷い内容です。戸田さんは私の質問にほとんど答えていません。それどころか、

《【5】愚劣な腐敗を進める鹿砦社・松岡氏を爾後相手にせず!私は私の信頼する仲間と共に進むのみ。
(1)この間、「カウンター大学院生暴行事件」を巡る松岡氏と前田先生の論議を見てきたが、私には圧倒的に前田先生の主張が腑に落ちるし、人間としての信頼感も絶大である。盟友の趙博氏にしても仲岡弁護士にしても断然信頼出来る仲間であり、その友誼は変わらない。
(2)逆に「6/30回答」によってその腐敗性が明らかになった松岡氏については、今後相手にしない。当然にもこれほどまでにデタラメ主張する人物からの「質問」に回答する事もしない。
(3)この「9/17戸田見解」に対して松岡氏がどのように対応しようとも自由であるが、私への新たな攻撃がなされた場合は、当方のやりやすいやり方で断固として反撃追及する。
(4)当方の「6/10弾劾質問状」記載の<「デジタル鹿砦社通信:5/23」における戸田に関してのデマ誹謗の記述を撤回、謝罪されたい。>という要求は、今後も継続する。~「ヘイト加担公務員N追及配転要求」が「公務員いじめ・迷惑行為・業務妨害である」というデマ~
(5)鹿砦社・松岡氏は、「6/30回答」で展開した愚劣で反動的な諸々の主張を撤回し、真摯な反省の姿勢を示せ。 
(6)ヘイト問題については、「ヘイトを許さない社会づくり」のための全国各地での実践や論理を鹿砦社組織として一から勉強した上で、適切有効な取材・報道が出来るように努力せよ。》

と、一方的に私(及び鹿砦社)を非難した挙句、「逆に『6/30回答』によってその腐敗性が明らかになった松岡氏については、今後相手にしない。当然にもこれほどまでにデタラメ主張する人物からの『質問』に回答する事もしない」と言い切っておられます。

戸田さん、いくらなんでも、紳士的に回答の延期を2カ月遅らせることを了承した相手に、「これほどまでにデタラメ主張する人物からの『質問』に回答する事もしない」とは失礼の度を越していませんか? 回答に窮して一方的に議論を打ち切られた前田朗教授と同じですね。

仮に私をそのように見なしているのであれば、2カ月も回答を延期せず「あなたとは今後一切のやり取りをしない」と直ちに通告いただければ済んだ話ということになりはしませんか? 私は末節で意見の違いがあろうとも、戸田さんとの議論の中で「反差別」とはいかにあるべきか、を深めたいとの想いもあって公開の討論を受けたのです。それを一方的に私(鹿砦社)を罵倒し尽くして、「『質問』に回答する事もしない」は、完全に言論のルール違反です。そうではないですか?

戸田さんのご回答は、私が質問した8項目のうち、「ご質問2」にしかお答えいただいておりません。「ご質問2」について戸田さんが、どのようにお考えかは理解しました。N氏に対する人物評価と、戸田さんの取った行動についての見解が、私と戸田さんとでは異なることは確認できました(戸田さんは大阪で「在特会」と思われる集団から、酷い暴行を受け、眼鏡を損傷されたご経験がおありであることを承知しています。あのような暴徒は私も断じて許せませんし、戸田さんが当時お感じになった、差別的暴徒への怒りも理解できます。

しかしながら、戸田さんが職場(児童相談所)を訪問されたN氏は、街頭で差別言辞を振りまく行動に参加したことのある人物ではありません。彼は在特会を明確に嫌悪しています。集団暴行と言っても差し支えないほどの酷い襲撃を経験なさった戸田さんが「街頭での明確な差別行動」に怒りを感じることには、私も共感します。でもN氏は保守的な考えの持ち主(時に差別的ととらえられることもあるでしょう)ですが、あくまでも、ネット上で自身の意見を開陳しているだけの人物です。私は、戸田さんがサイトで書かれたN氏へのイメージからコワモテの方と思っていましたが、裁判傍聴でたびたび会って話すと、まさに人の好い下級地方公務員でした。

そのような人物の職場に、戸田さんともあろう方が遙々赴く必要があったのかとの疑問は依然変わりません。戸田さんが嫌う“弱い者いじめ”としか私には思えません。戸田さんのような大物が訪問するのであれば、日本会議や神社本庁、あるいは首相官邸など、もっと明確に差別意識、及び権力を保持した対象があったのではないでしょうか。

他の質問についても「公開」の議論を相互に承諾したのですから、是非お答えいただきたい。繰り返しますが私は、戸田さんの要請を受け入れ期限から2カ月(6月30日に「ご質問」を発して2カ月半)も待ったのですよ。

[3]私が借金で訴訟沙汰になったとのデマに対しては厳重に抗議し明確な説明と撤回と謝罪を求めます!

特に、絶対にお答えいただかなければならないのは、

《ご質問3: 6月1日の戸田さんのサイトで、「『松岡氏の旧ブント仲間OBからの借金踏み倒し事件』を戸田が信頼する複数の被害関係者から話を聞いて」「『借金事件』は裁判になったけれども、原告(貸した側)が(不当に?)負けた」云々とありますが、この原告の名前、裁判所、事件番号を明らかにしてください。》

です。はっきり申し上げますが、これは事実無根の極めて悪質な名誉毀損です。この質問に対し戸田さんは「恫喝をかけてくる始末である」と述べられていますが、果たしてそうでしょうか?

この際、他の質問項目は度外視しましょう。戸田さんは明確に《松岡氏の旧ブント仲間OBからの借金踏み倒し事件』を戸田が信頼する複数の被害関係者から話を聞いて」「『借金事件』は裁判になったけれども、原告(貸した側)が(不当に?)負けた」》と記載されましたが、そのような事実はないのです。私の質問は「恫喝」でもなんでもありません。これがいかに重大な名誉毀損(鹿砦社に対しては「営業妨害」)に該当するかは、長年市会議員をなさってきた戸田さんであれば、おわかりでしょう。

現在警察をはじめ権力が「関西生コン」に対しでっち上げ弾圧をしています。でっち上げとは「事実のないこと」です。「関生」へのでっち上げ弾圧を糾弾する戸田さんが、私(と鹿砦社)に対して、非常に悪辣なでっち上げを明言されました。しかも戸田さんはそのことについて一切お答えにならない。

最後通告です。私(たち)はいたずらに、問題を係争案件にはしたくありません。ですから、

《ご質問3: 6月1日の戸田さんのサイトで、「『松岡氏の旧ブント仲間OBからの借金踏み倒し事件』を戸田が信頼する複数の被害関係者から話を聞いて」「『借金事件』は裁判になったけれども、原告(貸した側)が(不当に?)負けた」云々とありますが、この原告の名前、裁判所、事件番号を明らかにしてください。》

についてだけは、真摯な説明と撤回と謝罪を要求します。この件だけですからすぐに答えることができるでしょう、回答期限は10月31日とさせていただきます。

この件については、事実無根(悪質なデマ)ですから、戸田さんには、明確な説明責任があります。戸田さんが本件について、撤回と謝罪を明確にしていただければ、私はこれ以上戸田さんを追及するつもりはありません。考え方の違い、感性の違いといった問題ではなく、ことは重大な名誉毀損なのです。真摯なお答えをお待ちいたします。

[4]戸田さんが連携する人たちによるヘイトスピーチ、ヘイト行為について戸田さんのご意見をお聴きしたく存じます!

もう一つ、いい機会ですから、これは質問項目にはありませんが、ぜひお聴きしたいと思います。

戸田さんは今回の「9・17見解」において、私が「反ヘイト」分野になると「歪んだ判断と行動になってしまう」と批判されています。とんでもありません、私は原則的にいかなる差別にもヘイト行為にも反対しています。似非反差別主義者や似非反ヘイト主義者とは違い、いわば「左」からの差別やヘイト行動をも批判しています。

例えば戸田さんが連携する「カウンター/しばき隊」に私が疑問を覚えたのは、彼らによる、韓国から母子で研究に来日している鄭玹汀(チョン・ヒョンジョン)さん(当時京大研修員)に対する激しいバッシングでした。さらに公立病院に勤める在日の金剛医師に対する攻撃、これは、あろうことか勤務先の病院にまで複数の人物によって激しい電凸攻撃がなされました。ことは人の生死に関わる病院ですよ、これをやった者らに「人権」という思想はないのでしょうか。戸田さんは当然、鄭さんや金医師に攻撃をやった者らを「お前ら、何をやってるんだっ!」と一喝し批判されますよね? 鄭さんや金医師は、差別主義者でも極右・ネトウヨでもレイシストでもありません。鄭さんや金剛医師への口汚い言葉こそ、言葉の真の意味でヘイトスピーチですし、そうした行為こそヘイト行為ですので、私はこのカウンター/しばき隊によるヘイトスピーチやヘイト行為をやった者たちを実際に批判しています。戸田さんが「反ヘイト」をおっしゃるのであれば、戸田さんが連携している者らによるヘイトスピーチ、ヘイト行為を人間関係とは関係なく批判されますよね? 私には戸田さんがカウンター/しばき隊によるヘイトスピーチ、ヘイト行為を批判されているのを見たことがありません。もし過去にカウンター/しばき隊メンバーの言動を、戸田さんが批判された事例があれば、その部分をご教示ください。

誰にでも勘違いや間違いはあります。無意識に差別的な言動を行う可能性は、私にも戸田さんにもあります。世界には私たちの知らない価値観が無限に存在するのですから。そういった場合には、いきなり人格否定ではなく、当該「行為」を批判すべきだと考えますがいかがでしょうか?  

以上 

◇      ◇      ◇      ◇      ◇      ◇

【関連記事】
◎松岡利康「戸田ひさよし前大阪門真市議からの『弾劾質問状』に回答します! また、私からの『ご質問』にもお答えください!」(2019年7月1日付け本通信)

《関連過去記事カテゴリー》
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私の内なるタイとムエタイ〈64〉タイで三日坊主! Part.56 今年は御礼参り!

◆私虐めのネタ!

春原さんとの再会となったお昼。藤川さんが今回付き添ってくれている女子大生を「ボクシングの記者やが、マスコミの勉強になるから会うとき!」と誘った。行った先はとげぬき地蔵に向かう途中にある商店街の昨年と同じレストラン。

席に着いた途端、藤川節は始まった。今年は私のことを笑いものにした話が中心。
「こいつな、出家した夜、袈裟の纏い方をいくら教えても不器用で纏えんで、“明日の朝までに纏えるようになれ”って突き放したら、翌朝、托鉢に出る1時間半も前に起きて練習しとったんやで、前の晩は眉吊りあがって、口はへの字になって(そんな顔真似)、今にも泣きそうにメソメソしながら纏う練習しとったわ。ワシ、部屋帰ってから一人で大笑いしとったわ、ワッハッハッハ!」いつもの漫談風の喋りっぷりがオモロく、他人事のように笑えてしまった。

昨年のミャンマーの女学生はすでに帰国された様子だったが、食事中、厨房からインド人風の男性が二人出て来た。「すみません。私達に寄進させてください!」と慣れた日本語で言うゴッツイ男達。どこの国かは忘れたが、やはり東南アジア系仏教徒の留学生だった。

また5千円あまりの負担を掛けさせてしまったが、それが彼らの希望だ。日本に来てタンブンの機会が無い彼らにとって、いきなり黄衣を纏った比丘が現れるとは絶好のチャンス。私自身はタイでたいした修行にはならなかったからより心苦しい気持ちが残る。またも藤川さんの存在で我々が恩恵を受けたが、それぞれが留学生の徳を積む心をしっかり噛み締めていた。

眼力強く語る藤川さん、試合のように打ち合えるのは立嶋篤史のみ(撮影は前年のもの)
小国ジムにて、出家前の藤川さんの店にはよく通ったチャイナロンと再会

◆藤川さんの反省!

今年の藤川さんの東京滞在も、私が一緒に居られる時間はできるだけ付き合い、翌日には池袋にあるキックボクシングの小国ジムに連れて行くと、縁ある仲の再会となった。

私の得度式に参列してくれた高津くんが居た、ノンカイとチェンマイで試合した伊達くんも居た、アナンさんのジムから小国ジムにトレーナーとして招聘されていたチャイナロンも居た。

「高津くん、出家する気になったけえ?」冗談でも目敏い質問。笑って拒否する高津くん。練習見ながら私が「伊達くんは実力有りながらタイトルに絡む大事な試合でコロッと負けたり、ロードワークでうっかり足挫いたり、注意力が足りないのかなあ!」と言うと、「彼こそ、一回出家してみた方がええな、何か熱くなり易い性格みたいやから隙が出来るような気がするしなあ、自分を振り返る時間が必要かもな、1ヶ月ぐらいでええから出家してみればええ!」と私に言うだけだったが、ここでの藤川さんはやたら喋らない存在だった。

そのジムの中で「ハルキ!またやってしもうた!」なんていきなり言い出すから、「“またやってしもうた”って何やったんですか?」と聞くと、この前日の昼食後、皆が別れた後の夕方5時頃、アジア文化会館のロビーに女子大生が、お母さんを連れて再びやって来たという。

「また身になる話でもしたろと思うて話しだして気が付いたら、ロビーの電気も消される閉館間近の夜9時やった!」

女子大生はお母さんにオモロイ坊主の身になる話を聴かせたかったのだろう。私は“このジジィ、やったことの罪深さ分かったんかいな“と少々感心。

巣鴨で再会した春原さんと(前年と似ているが撮影は1995年6月)

◆私の逆襲!

前日の昼食で会った春原さんらとの食後、店も混みだしたのでまた皆で喫茶店に移ってから、藤川さんの放っておけばいつまでも調子に乗って喋る姿に、ついに本音で苦言したくなり、捲くし立てて口撃してしまったのだった。

「藤川さん、笑い話には楽しくていいんですが、どこからか関心無い世間話を延々と聞かされる者の気持ち考えたことありますか?立嶋篤史に何か言えば何か自論が返ってくる。これが会話のキャッチボールですよ。去年の習志野ジムの合宿所(アパート)に泊めて貰った翌朝、15歳の練習生にいきなり人生の生き方みたいな話を1時間ぐらいして、彼はせっかくの休みの日に朝から説教されて、“いつまで続くんだろう”と思ったろうに。

タムケーウ寺では、ある日の夕方6時頃、私に「旅に出る許可貰う為の和尚に渡す文言の書き方教えるからワシの部屋来い!」と言うから行ってみると、そんなもん立ち話で2分程度で終わる話。そこからいつ終わるか分からない説教が世間話に替わって止まることなく12時まで続いた。何も飲まずに、喉渇かなかったですか?私はトイレに一回行かせて貰ったけど、あれ息抜きに部屋の外出ただけですよ。それとノンカイからネイトさんが来た時、硬い椅子に窮屈で暑くて眠れない夜行バスで朝着いたばかりなのに、延々話しだして、私が「ネイトさん、疲れているでしょ、こっちで少し寝たら?」と逃げ道作ってやろうとしたら、「人は寝んでも寝る時にはちゃんと寝とる!」と言ってまた止まらぬ話が続いて、それでもネイトさんは頭いいから対話になっていたけど、人が集中して話しを聴いて居られるのは1時間が限度ですよ。藤川さんが普段、日本語喋る機会が無いから、聴いて貰える相手と会った時が、思いっ切り喋りたいだけの単なるストレス発散でしょ!!」

前列、チャイナロン、高津広行、伊達秀騎、ここから次なる運命が広がるか

的を得ていたか、ほんの数秒だが藤川さんが黙ってしまった。そしてまた「坊主の話は長いほど有難いモンやぞ!」と自論を言い出したから“身勝手なジジィ”と思ったが、この反省を少しは踏まえていながら、“またやってしもうた”らしかった。

「女子大生のお母さんはずっと笑って聴いていましたか?途中からその笑いは愛想笑いになっていませんでしたか?どこからか相槌しか打たなくなりませんでしたか?」と問うと、

「なっとった・・・!」と応えた。

「それは目上の人の話を断ち切って席を立つのは失礼だから我慢しているだけで、もう話に興味無くなって、もう帰りたいという信号ですよ!閉門されるとか、電車の終電とか、何か譲れぬ切っ掛けが無いと話が終わらない、我の強い人はドンと話を断ち切ることも出来ますが、立場の弱い人はそうはいかないんです。これって凄い苦痛なんですよ!!」

長く溜まっていたストレスを発散したのは私の方で、言いたいこと言ってスッキリした。逆に藤川さんの喋り捲る癖が少しは分かる気持ちだった。

◆今後の展開!

この翌日、藤川さんは京都の娘さんのところへ1週間ほど帰り、再び巣鴨に戻られてから私が成田空港へ見送った際、「これで御礼参りは終わった。来年以降は一人で勝手にやってくれ!」と出国手続きへ背中を圧し飛ばしてやったが、後々そんなこと覚えている藤川さんではなかった。

1996年以降も藤川さんは毎年パンサー(安居期)に入る前に御自身の活動の為、日本へやって来た。私は御礼参りも済み、もう縁は切っていいと思うところ、あまりにもしつこく何度も手紙と電話で連絡寄こすので根負けし、成田空港までは行かないが、昼食(12時前)を都内で迎え入れることは多かった。

タイのワット・タムケーウでの様子もいろいろ変化が起こっていた。そして藤川さんに転機もやってきた。1997年3月、ペッブリー県よりややバンコク寄りのサムットソンクラーム県にあるワット・ポムケーウに移籍されたのだった。この時期からまだ先になるが、私もその寺に一度、訪れてみることにした。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

神戸市立東須磨小学校教員間いじめ事件は社会の縮図 ── 文科省の教育施策失敗と日本の社会崩壊を視野に入れなければ、この惨状の本質は語れない

神戸市立東須磨小学校(同市須磨区)の教員間暴行・暴言問題で、同小の仁王美貴校長(55)が10月9日、市役所で市教育委員会の担当者と記者会見した。2018年度に当時の校長が、既に教員のセクハラ発言や職員室でのからかいなどの嫌がらせがあったことを把握しながら、指導などの対応が不十分だったことが判明。加害教員の一部から児童が嫌がらせを受けたとの訴えがあることも分かった。


◎[参考動画]東須磨小学校教員間いじめ問題 新たな事実が明らかに(サンテレビ2019/10/10公開)


◎[参考動画]神戸市・教師いじめ問題 前校長はパワハラを謝罪(ANNnewsCH 2019/10/16公開)

◆1990年7月、神戸高塚高校で起きた女子生徒校門圧死事件

兵庫県では、定期的に教育関係の深刻な事件・事故がおこる。わたしがもっともショックを受けたのは、1990年7月6日、兵庫県神戸市西区の兵庫県立神戸高塚高等学校で、同校の教諭が遅刻を取り締まることを目的として登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒(当時15歳)が門扉に圧潰されて、死亡した事件である。

本通信の「『体罰』ではなく、すべて『暴力』だった」で3回にわたり自身が受けた、天地がひっくり返ったような「公教育」体験の中には、兵庫県立神戸高塚高等学校での事件を彷彿させる場面が、限りなく記憶に残っているからだ。高塚高校同様、わたしの通っていた「授業料を払う刑務所」こと高蔵寺高校や、春日井東高校でも毎朝同様の光景が繰り広げられていた。

わたしは経験はないけれども、校舎の中から眺めていると、教師が猛烈な勢いで校門を閉める際に、少なくとも体を挟まれた生徒は複数確認している。あれが頭部であれば命にかかわったであろうに、野蛮な教師どもは、反省など一切せず毎日同じような危険な光景が繰り返し行われていた。

登校時間ギリギリになる生徒は、必ずしも怠け者の生徒ばかりではない。「授業料を払う刑務所」こと高蔵寺高校は春日井市の西北に位置するが、10キロ以上離れた名古屋市との境界に近い距離から自転車通学してくる生徒も少なくはなかった。

通常通りであれば、登校時間に間に合う時刻に家を出発しても、途中で雨が降り出したり、道路工事で道を迂回しなければならないと、計算通りの時刻に登校できない。生徒はみな、登校時間を送れると「指導」の名のもとに、人権侵害お構いなしの懲罰を食らうことを知っているから、のんびり登校する生徒などはいない。

つまり教師どもは、校則を盾にとって雨中、必死で自転車をこぎ登校してくる生徒を「おはよう」のあいさつで迎えるつもりなどなく、定刻になったら容赦なく校門を勢いよく閉めることに、職業上の喜びや、快感を感じていたのだ。


◎[参考動画]関係者らが追悼 神戸高塚高校 校門圧死事件から29年(サンテレビ2019/07/06公開)

◆「社会の縮図」が引き起こした事件

さて、話がそれたようだが、逸れてはいない。神戸市立東須磨小学校で発生した、教師による教師イジメは、もっとも簡略化して解説するのであれば「社会の縮図」が引き起こした事件である、といえよう。もちろん、その程度の低さと悪質さ、組織的な隠蔽は、もう言及するのも嫌になるレベルである。

学校が、児童や生徒の居場所ではなく、行政権力や国家による人格捻じ曲げの場所に変化してしまったから、このように表現する言葉も見つからない、貧しすぎる精神が居場所を占めるようになったのだ。

このいじめに手を染めた、あるいは黙認した教師どもには、教壇に立つ資格などない。しかし、重要なことは兵庫県だけではなく、全国を見回しても、「イジメ教師」と同等あるいは、同様のレベル人間を今日の学校は制度的に求めている根源がある、ことではないだろうか。

職員会議の議決権が奪われ、校長の権限が強化され、教育に何の知識・経験もない人間が「民間校長」として大阪などでも、もてはやされている。市場原理や、企業的な競争原理を義務教育に持ち込むことが、あたかも「先進的」であるかのような、誤解が全国に広まっている。断言するがこれは完全に大いなる間違いである。

教師を養成する教職課程も、不要な荷重がかけられ、本当に児童・生徒への教育に熱心な個性は、採用されるのが困難になっている。「子供のまま、社会問題など考えない」志望者ほど公立学校の採用試験には合格しやすくなっているのだ。

つまり、極言すれば「子供が教壇に立っている」状態を文科省は望み、その歪な像が実体化している。ここにも深刻な病巣があるのではないか。文科省のいう「多様性」は「成績の出来不出来」を指す。個性も同様だ。少子化で学校の先生の数は余っているはずなのに、先生たちは、毎晩「意味のない」資料作りや報告書作成に追われて、帰宅が遅い。

熱い情熱で、児童・生徒・学生に向き合っている先生・教員が存在することは、強調せねばならない。しかしそういったひとびとが、多数ではいられない仕組みを文科省や教育委員会はが、率先して作り上げている。

きょうのバラエティー番組で、法政大学の「なんとかママ」と呼ばれる「評論家」は、なにをコメントするだろうか。文科省の連綿とする教育施策失敗と、さらにいえば、日本の社会崩壊を視野に入れなければ、この惨状の本質は語れない。


◎[参考動画]東須磨小学校で保護者向け説明会(サンテレビ2019/10/16公開)


◎[参考動画]教員間いじめ問題 保護者説明会で加害教員コメント(サンテレビ2019/10/17公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)