アイドルからエンターティナーへ──輝き続ける55歳!田原俊彦の魅力に迫る

デビューから37年目、この日は田原俊彦とファンにとって特別な意味をもつ日だった。6月21日(火)池袋サンシャイン噴水広場で新曲の発売イベントが行われた。今から36年前、1980年の同じ6月21日は田原俊彦が「哀愁でいと」で歌手デビューした日なのだ。

集まった総勢2000名のファンの熱気は凄かった。「トシちゃん大好き」と書かれた手作りのうちわを大事に持っている人が沢山いて狭いスペースにひしめきあっていた。客はほとんどが女性ファンで、年齢層は幅広いが、やはり40代、50代の女性が目立った。まるで、これから長時間のコンサートが始まる前のような熱気で溢れていた。

ラメ入りのシルバーのシャツに上下黒の衣装で華麗に登場すると、「キャー~!」と割れんばかりの歓声が会場に響きわたった。 最初の曲は、『I AM ME!』続いて「ラブ・シュプール」、『シャワーな気分』など往年のヒット曲を、迫力満点のダンスパフォーマンスで披露した。軽やかに左右に動き、〝キレッキレッ〟のターンも健在。何度も観客に視線を投げかけた。3曲目が歌い終わると、息があがり呼吸を整えた。

「新曲を歌う前に疲れちゃった。」と言いながらも新曲「ときめきに嘘をつく」を4人の男性ダンサーをバックにしっとりと歌いあげた。

6月22日発売のこの曲は、なんと72枚目となるシングルだ。クレジットされているのは『作詞: 松井五郎 作曲: 都志見隆』だ。この二人は、数々のヒット作品を生み出したゴールデンコンビである。6月1日に配信で発売すると、発売週にオリコンウィークリーダウンロード チャート1位を獲得している。

この日は、CD購入者は握手会に参加できるとあり長蛇の列だった。皆、握手を終えた顔は、喜びに満ち興奮冷めやらぬ様子だ。意外にも男性のファンの姿も多かった。夫婦二人で来ている人や、親子2代で応援している家族連れもいた。

女性ファンに伺った。「いつからトシちゃんのファンですか?」と聞くと、「デビュー当時から大好きでファンクラブにも入っています。毎回イベントやコンサートには行きます!」と普段から追っかけているのを教えてくれた。トシちゃんの魅力を尋ねると、「カッコイイところとブレないところです。」と答えてくれた。

男性ファンにも取材した。同じくデビュー当時からのファンだった。「魅力はダンスの上手さ。いつまでも少年のような、なんていうか、思春期の頃の心を持ち続けているところですね!」とした。そして「握手できて良かったですね!」と伝えると「はい、ありがとうございます。もう1回並んできます!」と笑顔で対応してくれた。デビューからずっとずっとファンなのだ。

輝かしい時だけでなく、確かに冬の時代もあった。だが、本当のファンは、ツラい時もどんな事があろうと彼を信じついてきたのだ。彼が歳を重ね培った包容力で、ファン一人一人を大切にしてきた光景が目に浮かぶ。55歳とは思えぬ若さの秘訣は、ファンの変わらぬ愛情と深い絆に支えられているからだと思う。こんなにも沢山のファンが応援していることに驚いたと同時に感動した自分がいた。

現在、毎週金曜日に放映されるTBS系の『爆報!THEフライデー』にレギュラー出演している。テレビに出ない時が長かっただけに、唯一テレビで彼を拝める番組だ。5年前、この番組で田原俊彦の特集をやっていた。

干された事についてどう思うかと聞かれた田原は、「人のせいにしちゃいけない。いつかは1人で歩かなくてはいけない。俺の肉体と精神で挑んでいかなくてはと腹をくくった」と話していた。

彼は、想像以上に強いのだ。打たれても、打たれても這い上がってきた。そんな彼の強さと優しさをファンは知っている。だから、待っていたのだ。見事に復活してくれた彼を心から応援していこうと決意したに違いない。こんな最強なファンがいる限り、これからも田原俊彦はエンターティナーとして輝き続けるだろう。

どちらかというとマッチ派だった自分が、トシちゃんの曲を聴いている。良い曲がいっぱいあることに気付いた。今年行われるコンサートに行ってみたくなるほど田原俊彦の魅力に引き込まれ、『ハッとして!Good』とした1日だった(笑)。

文・写真/林雅子
プロデュース/ハイセーヤスダ

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論! 蹴論!」の管理人。

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高橋三兄弟、復帰の岡田清治、翔・センチャイジム出場の多彩なファイター出場!

大和知也の右ストレートが翔太の接近を防御
大和知也、無念の負傷敗北
センチャイジム陣営、アウェイで勝利

武士シリーズVol.3 / 6月19日(日)後楽園ホール17:30~21:20
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆61.5kg契約 5回戦

NKBライト級チャンピオン.大和知也(SQUARE-UP/61.2kg)
VS
WMC日本ライト級チャンピオン.翔・センチャイジム(佐藤翔太/センチャイ/61.5kg)
勝者:翔センチャイジム / TKO 3R 0:48 / 左腕骨折の疑いでタオル投入による棄権。
主審 川上伸

古いキックスタイルの大和知也と今時のムエタイスタイルの翔・センチャイジムという全く違うタイプの対戦はパンチヒジ打ち、ミドルキック、ヒザ蹴りなど、離れてよし、接近してよしの翔太が有利な技を持ち、1Rには早くもパンチで大和知也からダウンを奪う。

大和も伸びる右ストレートとローキックが翔太のムエタイ戦法を封じる動きだが、翔太の距離を詰めつつある動きに、大和が練習で痛めた左ヒジに翔太のヒザ蹴りが当たると大和の動きが鈍くなる。左腕が使えないような下がった状態。セコンドがタオルを投げ試合を終了させました。大和知也はメインイベンターとして強行出場ながら、練習での怪我が多いのが気になるところです。

チャンピオンになっても守りに入らない積極的前進の安田一平
強打同士も圧力で2度のダウン奪って仕留める
勝利の瞬間、最高の気分の時

◆67.0kg契約 5回戦

NKBウェルター級チャンピオン.安田一平(SQUARE-UP/66.6kg)
. VS
同級5位.マサ・オオヤ(八王子FSG/66.7kg)
勝者:安田一平 / KO 1R 1:49 / カウント中のタオル投入による棄権。
主審 鈴木義和

王座獲得後、初戦となった安田一平は守りに入らず、打ち合い覚悟の左右パンチで2度ダウンを奪い豪快にKO。

◆ミドル級 3回戦

NKBミドル級6位.西村清吾(TEAM-KOK/72.5kg) VS 釼田昌弘(テツ/72.1kg)
勝者:西村清吾
判定2-0 (主審 前田仁 / 佐藤 30-29. 川上 30-29. 鈴木 30-30)

◆ウェルター級 3回戦

NKBウェルター級7位.岡田拳(大塚/66.5kg) VS 上温湯航(渡邉/66.4kg)
勝者:岡田拳(岡田清治/元同級C)
判定3-0 (主審 馳大輔 / 佐藤 30-27. 川上 29-27. 前田 30-27)

元NKBウェルター級チャンピオンの岡田清治(大塚)が岡田拳とリングネーム改名し3年ぶりに復帰。デビュー1年ながら、前に出る圧力ある上温湯航(うわぬゆ・こう/渡辺)と対戦。上温湯が予想どおりヒザ蹴りハイキックで圧力かけるも、元チャンピオン岡田はやや劣勢の中、冷静に試合勘を取り戻すように様子を見る。次第に岡田のローキックが効きだして上温湯の圧力が弱まり、ダウン奪って逆転判定勝利。

◆55.0kg契約 3回戦

NKBバンタム級1位.松永亮(拳心館/54.7kg) VS 町野秀和(八王子FSG/54.8kg)
勝者:町野秀和
判定0-3 (主審 鈴木義和 / 前田 28-29. 佐藤 28-29. 馳 28-29)

◆59.0kg契約 3回戦

NKBフェザー級2位.優介(真門/58.5kg) VS 竜坊(BIBLE/59.0kg)
勝者:優介
判定3-0 (主審 川上伸 / 馳 30-28. 佐藤 30-28. 鈴木 30-29)

柔軟なハイキックが冴える高橋聖人
ヒジヒザも有効に使う高橋聖人

◆フェザー級 3回戦

NKBフェザー級4位.KAZUYA(JKKG/57.15kg) VS 高橋聖人(真門/57.1kg)
勝者:高橋聖人 / TKO 3R 2:10 / カウント中のレフェリーストップ / 主審 前田仁

高橋三兄弟三男の聖人はようやくデビュー一年が過ぎたところ、デビュー戦以来のKO勝利を飾り、4戦3勝(2KO)1分となりました。三兄弟としては次男・亮が昨年12月に王座獲得、長男・一眞が4月に王座奪取失敗、聖人は2月に引分けと、まずまずながら、期待が掛かる次期エースの立場としては停滞している感が強い。そんな中、次男・亮が7月3日ディファ有明でのBOM興行(バトルオブムエタイ)に出場します。キョウヘイ・ゴールドライフ(ゴールドライフ)と対戦予定。高橋三兄弟の、進化と明確な実力の披露に、好感度アップと勝利の期待が掛かります。

デビュー戦以来のKO勝利、ランキング入りは確実の高橋聖人

◆他3回戦6試合

4月16日の興行で7戦7敗の岩田行央(大塚)が豪快なKO勝利を飾り、初勝利を挙げました。その興行最優秀選手として6月19日のリング上で表彰されました。デビューが2009年ですでに30歳でしたが、「勝つまでやめられない」と頑張ってきたようです。惜しい展開もありつつ、なかなか勝利を挙げられないまま8戦目を迎えることも難しいものです。

しかし、ここでもうひとつレベルアップを図ろうと高橋三兄弟三男の聖人との対戦を熱望しました。話の成り行きが先行している状況のようで正式決定はしていませんが、アトラクションやパフォーマンスも充実してきた同興行に於いて、リングアナウンサーのような正装でリングに上がった岩田選手。表彰とインタビューを受ける姿はインパクトありました。ここからチャンピオンになったら凄い話題になりますね、日本を越えるほどの王座まで狙って欲しいところです。

6月26日 (日)新宿フェース17:30開始のJ-NETWORK 興行ではメインイベントで、NKBバンタム級6位の佐藤勇士(拳心館)がJ-NETWORKバンタム級6位の金基勲(キムギフン/韓国/STRUGGLE)と対戦予定。高橋亮も7月3日のBOM興行出場と、他団体(フリープロモーション興行含め)出場も緩やかに増えて、更なる団体交流に期待が掛かります。

司会は元NKBウェルター級チャンピオン.武村哲、岩田行央、高橋聖人の次期対戦候補の顔合わせ

次回興行、武士シリーズvol.4は10月2日(日)の開催ですが、NKBバンタム級からウェルター級までの4階級のチャンピオンが出場。タイトルマッチの発表はまだないですが、活性化に繋がる争奪戦に期待したいところです。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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局サイドの思考停止ぶりが心配な日テレ新ドラマ『時をかける少女』

主演に抜擢された黒島結菜(日本テレビ『時をかける少女』HP)

7月からスタートする新ドラマ『時をかける少女』(日本テレビ/土曜21時)の主演に抜擢された黒島結菜とSexy Zoneの菊池風磨が『新鮮な配役』として話題だが「キャスティングに至る裏事情はまったく新鮮じゃない」と囁かれている。

「原田知世、南野陽子、安倍なつみ、細田アニメ、仲里依紗などが演じてきたのが『時をかける─』の主役。ラベンダーの香りをかぎ、そこから「時を自由に超える能力」を身につけてしまう女子高生・芳山未羽(よしやま・みはね)は、ロリータファンなら涎ぜんのキュートさが求められる。そうそうたるメンバーで「スターへの架け橋」とも言われるのが作品『時をかける─』だ。筒井康隆原作でSFファンのみならず、幅広い層に愛される同作品でヒロインを演じるのは一見して「出世街道」に見える。


◎1983年 『時をかける少女』(旧角川春樹事務所)主演=原田知世、監督=大林宣彦

「この作品は何回もドラマやアニメ化されすぎていて、当初オファーがあった有村架純や、大友花恋は「かつて主演した女優たちと比較されたくない」とパス、そして仮キャットで「Kis-My-Ft2」の玉森 裕太がブッキングされていたが、「Kis-My-Ft2」は1月の『SMAP解散騒動』を引き起こした元マネージャー、飯島三智の支配下だった。現状では、つぎつぎと飯島がブッキングした「Kis-My-Ft2」の仕事は現在、ほぼ全権を握るメリー喜多川副社長により引きはがされている。そうした中、『メリーの鶴のひと言』で『菊池にやらせてあげなさい』と発表寸前に差し替えられました」(スポーツ紙記者)


◎2006年 『時をかける少女』(アニメ映画)監督=細田守

ただ、このキャスティングは、ドラマ「ごめんね青春!」(TBS)や映画「ストレイヤーズ・クロニクル」や去年の「花燃ゆ」(NHK)で実績があるものの、端役しかこなしていなく、いまひとつ知名度的に集客に結びつかないことを心配しての「保険」として相手役にジャニーズの人気者をあてておきたい局側の意図が透けてみえる。

「それにしてもすでに手垢のついたコンテンツ『時をかける─』がまた製作されるという局サイドの思考停止ぶりが心配です。キャスティングも事務所が推薦してくるがままになっていますし、もはやドラマは『タレントや俳優のプロモーション』の場でしかないとすら感じます」(放送作家)

日本テレビに「どんなプロセスで黒島と菊池に主役が決まったのですか」と聞くと「個々のキャスティングについて返答できかねます」という丁寧な答えが返ってきた。


◎2010年 『時をかける少女』 主演=仲里依紗、監督=谷口正晃

果たして、『時をかける─』への出演は、貧乏くじなのだろうか。

「そんなことはありません。作品じたいのファンが多いですし、いわゆる『ロリータ好き』な視聴者が観るはずです。そのくらいはマーケティングして結果を弾けますよ」(同)

しかし83年に映画『時をかける─』で主演した原田知世はスターダムにのしあがったが2010年、仲里依紗が主演した映画『時をかける─』は大コケしてオファーを減らしている。果たして、「安全策」として『時をかける─』の制作にのっかる主役ふたりの未来はいかに?

(伊東北斗)

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広島市の人気住宅街で「命がけの戦い」を訴える異様な建物をめぐる複雑な事情

広島市の中心部からそう遠くない住宅街に、独特の存在感を醸し出している建物がある。写真(1)の物件がそれだ。家のようにも倉庫のようにも見えるが、側面と背面には窓が1つもない。そして正面に張り出されたプレートには、こんな気合の入った(?)メッセージがしたためられている。

(1)側面と背面には窓が1つもない問題の建物
問題の建物に掲げられたメッセージ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

町内の皆さんへ

長らくお待たせしました。
再開発部の手抜き工事が原因で、心配や迷惑をおかけしましたが、皆さんのご支援のおかげで、未だ原状回復は途中ですが、耐震工事だけは出来ました。
(修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした。)
何卒今後共宜しくお願い申し上げます。

事件番号28ヨ53 A子(※原文は実名)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この建物があるのは広島市南区の段原地区。このあたりは爆心地とは山で隔てられ、原爆による消失を逃れたが、そのために戦後は道路や下水道などの整備が遅れ、以前は狭く入り組んだ道に老朽化した家が軒を連ねていた。しかし70年代初頭から40年余りかけて再開発され、現在は真新しい家が立ち並ぶ、市内屈指の人気住宅街に生まれ変わっている。

そんな中、この建物の持ち主は、広島市が再開発のために家の建物を仮換地に移動させた工事が〈手抜き工事〉だったために損害を負い、〈未だ原状回復は途中〉の状態だと訴えているのだ。それにしても、〈修復をさせまいとする者と命がけで戦いながらも、この度は逮捕投獄もありませんでした〉とは、何やら物騒な雰囲気だが・・・。

結論から言うと、この建物はずいぶん複雑な事情を抱えているのである。

◆メッセージの主は最高裁で逆転無罪を獲得

(2)今年初めまではこんなボロボロの状態だった問題の建物

筆者がこの建物に関心を持ったのは昨年秋ごろのことだった。実はこの建物、今年初めまでは写真(2)のようなオンボロのたたずまいで、当時は次のようなメッセージをしたためたプレートが掲げられていた。

〈裁判上修理ができることになりましたので、実行しようとしたら逮捕され投獄されました。「無罪」でしたがくり返さない為にももうしばらくお待ちいただくようお願い致します〉

「無罪」とは一体何のことかと調べてみると、このメッセージの主であるA子さん(83)は最高裁で逆転無罪判決を勝ち取ったという稀有な経験の持ち主だとわかった。関連の新聞報道や最高裁判決(http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=37833)によると、事件の経緯は次のようなものだとされていた。

地元で不動産会社を営んでいるA子さんが別の不動産会社の男性社員(当時48)の胸を両手で突いて転倒させ、後頭部に1週間のケガを負わせたとして逮捕されたのは2006年12月のこと。そしてA子さんは傷害罪で起訴され、広島地裁の一審で罰金15万円、広島高裁の二審では暴行罪が適用されて科料9900円を宣告された。しかし、最高裁の上告審では、2009年7月、「正当防衛」だったとするA子さん側の主張が認められ、無罪を宣告されたのだ。

では、なぜ、正当防衛が認められたのか。

最高裁判決によると、冒頭の建物やその敷地は登記上、A子さんの会社と男性の会社が共有していたのだが、A子さんが建設会社に原状回復や改修の工事をさせたところ、被害男性の会社が工事の中止を申し入れ、サッシのガラス10枚を割るなどして妨害。さらに毎日現場にやってきて、作業員などにすごむなどしたため、工事は中止になったという。そして事件当日、被害男性が「立入禁止」の看板を設置しようとしたためにA子さんとトラブルになり、Aさんが暴行に及んだ――。

最高裁は、事件の事実関係を以上のように認定したうえ、被害男性らが「立入禁止」の看板を設置することは〈違法な行為〉で、〈嫌がらせ以外の何物でもない〉と指摘。さらに男性がA子さんに胸を突かれて転倒したのは、大げさに後ろに下がったことや看板を持っていたことからバランスを崩したためである可能性も否定できないとし、A子さんの暴行は「防衛手段として相当性の範囲を超えたものとはいえない」と判断したわけだ。

最高裁の判決をみると、被害男性やその会社が何やらとんでもない悪者のように描かれている。だが、事件のその後を取材したところ、事件の実相は最高裁判決の内容とかなり異なっているのだ。

◆無罪の根拠がことごとく否定された民事訴訟

(3)廃墟であることは一目瞭然

筆者はまず、A子さん本人に取材を申し込んだのだが、電話口でA子さんは「あれは無罪でも嘘の無罪じゃから。私はおもしろくないんですよ」と最高裁の逆転無罪判決を批判した。そして、「正当防衛もくそもないんよ。私は被爆者で、甲状腺のガンや食道ガンやらやって、手の自由がきかんのじゃけえ、暴力をふるえるわけないでしょう」と被害男性に暴行したこと自体がでっち上げだったかのように訴えた。さらに「要するにヤクザ相手じゃから」と被害男性の会社が暴力団であるかのように言い、「泣き寝入りしたくないけえ、がんばりよるんよ」と被害男性の会社相手に民事訴訟を起こしていると明かしたのだった。

そして結局、取材は断られたのだが、A子さんと夫は被害男性の会社を相手取り、複数の民事訴訟を広島地裁に起こしており、それらの訴訟記録を見たところ、意外な事実がわかった。民事訴訟では、A子さんの暴行を「正当防衛」と認めた最高裁の事実認定を否定するような判決が出ていたのだ。

それは、A子さんが夫と共に2009年、被害男性の会社に嫌がらせ行為をされて損害をこうむったとして、約1億2600万円の損害賠償を求めて広島地裁に起こした訴訟の判決だ。昨年4月に出たその広島地裁の判決は、最高裁が被害男性の会社の人間が建物のサッシのガラス10枚を破損したと認定したことについて、「そのようなことがあったと認める証拠はない」と否定。また、被害男性の会社が改修工事の申し入れを求めたことについては、「その態様は、暴言、脅迫に及ぶなど社会相当性を逸脱するものではない」と違法性も否定した。さらに「被害男性が警察官に虚偽の申告をしたり、公判で虚偽の証言をしたと認めるに足る証拠もない」と判示しており、最高裁がA子さんの暴行を正当防衛だったと認めた根拠はことごとく否定された格好なのだ。

さらに意外だったのは、「暴力団問題」をめぐる事実関係だ。先述したようにA子さんは筆者に対し、被害男性の会社があたかも暴力団であるかのように述べていた。そして民事訴訟でも、同様の主張をしていたのだが、広島地裁の判決は被害男性の会社について、「暴力団と人的関係や取引上の関係を有していることを裏づける証拠はない」と認め、A子さんの主張を否定。それどころか、民事訴訟では、むしろA子さんのほうが暴力団と関係があったことまで明らかになっているのだ。

◆暴力団の構成員も法廷に登場

(4)泥棒も寄りつかなそうだ

「A子さんの書かれている(陳述書)内容をお読みしまして、あまりにも事実と反するし、法廷で話をちゃんとしておくべだと私は思ったのです」

民事訴訟の法廷でそう証言したのは、A子さんの依頼により問題の建物の改修工事をしていた建設会社の経営者Bさんだ。

A子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、実は写真(1)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在する。A子さんはこれらの物件について、約2700万円と引き換えに被害男性の会社の共有部分をすべて自分たちのものにすることを求める訴訟も起こしているのだが、この共有物分割事件の訴訟にBさんは証人として出廷したのだ。

A子さんはこの訴訟で、被害男性の会社の人間たちが暴力団関係者で、様々な嫌がらせをされてきたかのように陳述書で訴えていた。それによると、A子さんの依頼で改修工事にあたっていたBさんらは、被害男性の会社の関係者たちに毎日のように脅かされ、恐れをなして工事を投げ出し、逃げ出したとのことだった。Bさんによると、このA子さんの主張が「あまりにも事実に反する」というのだ。

(5)窓がないのも不気味

民事訴訟で明らかになったBさんに関する事実関係で何より驚かされたのは、Bさん自身が当時、山口組系の暴力団の構成員だったことだ。Bさんの証言によると、A子さんの仕事を請け負った際、A子さんから被害男性の会社について、「地元の暴力団がらみの地上げ屋で、かなりあくどいことをやっている」と聞かされていたという。しかしBさんはこれに対し、「私は大阪のほうで山口組の関係でしたんで、ああ、そんなことは大丈夫です、と胸をたたいた次第です」というのだ。被害男性の会社は暴力団であるかのように訴えていたA子さんこそが暴力団に仕事を依頼していたのである。

「被害男性の会社の社員たちにヤクザ風の雰囲気はまったくなく、工事をやめてくれないかと小さな声で言ってきたが、無視していました」

そう証言したBさんによると、工事を途中でやめた理由は、被害男性の会社に嫌がらせを受けたからではなく、「被害男性の会社が建物の半分の所有権を有していることがわかり、このまま工事を続けて損害賠償を請求されたら、とんでもないことになる」と思ったからだという。

そしてBさんは、さらに衝撃的な事実を明かしている。A子さんは民事訴訟の中で、2度に分けてBさんの会社に1500万円の工事代金を支払っていたと訴え、Bさんの会社名義の1500万円の領収書のコピーも示していたのだが、Bさんはこの1500万円を「受け取っていません」と言うのだ。

「A子さんの会社からもらった着手金は60万円です。それ以降、250万円か300万円くらいの間だったと思いますが、ちょくちょく頂いていました」(Bさん)

このBさんの証言が事実なら、A子さんの会社がBさんの会社に支払った工事代金はせいぜい300万円から360万円程度か。A子さんがこのことについて、どんな税務処理をしているのかは気になるところだ。

◆異様な雰囲気を醸し出すオンボロな建物

(6)敷地は駐車場として貸し出されている

また、先述したようにA子さんが被害男性の会社と持ち分を共有する建物は、写真(1)(2)の物件だけではなく、その周囲にも10軒ほど存在するが、現地で確認したところ、いずれも写真(3)(4)(5)(6)のようにオンボロの建物ばかり。新しい家が立ち並ぶ人気住宅街の中で異様な雰囲気を醸し出している。

A子さんはこれらの物件についても、広島市の仮換地への移転工事が適切ではなかったと主張。夫と共に広島市に対し、約1億8000万円を求める訴訟も起こしているのだが、これらの建物のオンボロぶりを見る限り、すべてが広島市の移転工事のせいだとは思い難いところだ。

A子さんはかなり個性的な生き方をしている人なのは間違いないが、これらの訴訟はいずれも現在、進行中だ。その動向については、今後も折をみて、お伝えしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
『NO NUKES voice』08号【特集】分断される福島──権利のための闘争
「世に倦む日日」主宰者による衝撃の書!田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

3・11甲状腺がん家族の会、設立会見詳報《5》会員ご家族による質疑応答(1)

2016年3月12日、3・11甲状腺がん家族の会が設立された。設立時の正会員は5家族7人、代表世話人には河合弘之さん(弁護士)と千葉親子さん(元会津坂下町議)が就いた。これまでほとんどタブー視されてきた福島での被曝被害の核心を伝える貴重な設立会見を7回に分けて詳報する。第5回は福島におられる会員ご家族のお二人と東京の会見会場をスカイプで繋いでの質疑応答。

◆震災当時10代だった女子の父親(白い服の方)による自己紹介

私は、中通り地方に住む、震災当時10代の女子を子供に持つ父親です。今まで、子供の病気のことは、周りの誰にも言えず病院の先生と家族で話すだけでした。しかし、この間に甲状腺がん家族の会ができまして、同じ病気の子供を持つ親と子供の手術後の体調やその他の悩み事など、今まで誰にも話すことができなかったことを話すことができました。このことは、本当に良かったと思っております。

また、同じ境遇の人達と話しあうことで気持ちが大変楽になりました。病気の治療のこと、子供の将来のことを周りにいる人達に話せることが、私たち家族にとって大変力になり、また、様々なことを相談できる世話人の方たちも大変力強いと思っております。

そして、定期的に会の人たちが集まり、情報、意見を交わすことなどができれば良いと考えています。私たち家族たちと同じ立場にある方が多くいると思います。是非、この会の方へ勇気を持ってアクセスしていただければと思っております。以上です。
 
◆震災当時10代だった男子の父親(黒い服の方)による自己紹介

私は中通り地方に住む当時、10代であった男子の父親です。突然、息子が癌と言われまして、息子も私もショックが大きく大変つらい思いをしました。今回、こうした家族の会が設立できたということで、本当に気持ちの分かりあえる皆さんとお話しただけでも気持ちの救われる思いでいっぱいです。まだまだ、多くの方がたくさんのことを悩んでいらっしゃると思いますが、是非とも歯を食いしばりこの会に参加して頂ければと思います。

◆質問1=ウクライナでは子供の甲状腺がんと原発事故の因果関係を認めているが……

【Q1】 河合弁護士と牛山医師に質問します。政府が、原発事故と甲状腺がん被害の因果関係を否定しております。そうなると、こちらが立証しなくてはならないわけですが、チェルノブイリ事故を受けて、ウクライナでは事故由来とされる、がん患者1000人以上を治療、入院させている病院がある訳です。

そこの小児科部長に聞きましたが、福島原発直後、日本政府とそこの病院で30回以上行き来して情報交換をしているといいます。

ウクライナ政府はチェルノブイリから100キロ圏、つまりは当時、放射能プルームが飛んでいったとされる地域で発生した甲状腺がんの子供たちの因果関係を認め、病院に受け入れさせている。その小児科部長が言うには、明らかに(原発事故と)因果関係はあると言っていました。それを踏まえ、今回、家族会ではウクライナに調査団を出す考えはおありでしょうか。医師や弁護団とか。そこまでしないと白を切ると思いますよ。政府は。

【A】(河合氏) 急な質問で、答えにくいですが、財政基盤がそこまであるのかという問題もあります。チェルノブイリに調査団を派遣することが、社会的見解、政府見解を変えさせることに効果が出てくるかどうか、費用対効果を考えた上で対策を考えたいと思います。
 
【A】(牛山氏) 私自身は、2013年にベラルーシに派遣され、医学アカデミーで研修を受けさせていただきました。そこで、伺ったお話と日本で言われているベラルーシの実情とは微妙に違っていて、医師らにおいても、当時の資料と最近の資料でお話されることとは違ってきています。だから、非常に難しいと感じています。

しかし、そういう情報交換をしていかないと本当のことは分からない。チェルノブイリも30年経ちやっと分かってきていることがあるので、私たちもそこから学ばなくてはならない。お金が無くても、個人的にやっていかなくてはならないと思っているし、そういう所に行き、勉強したいという医者は他にもいます。

◆質問2=福島の医療現場で最も不審や不安などを感じた対応は?

【Q2】 福島の2人の保護者の方に質問したいのですが、お子さんが治療や手術を受ける時、医師、県立医大の方になるとは思いますが、その中で最も不審や不安などを感じた対応は何でしょうか。具体的な事があれば教えてください。こんなことが一番ショックだったということかあれば上げていただきたい。

【A】(白い服の方) 甲状腺がんが、放射線の影響とは考えにくいと言われました。それでは、逆に何が原因かを詳しく知りたいというのが本当の所です。(原発事故が原因とは)考えにくいとされる中、何度も検査しています。(原発事故が原因とは)考えにくいとされる中、なぜ何度も検査されるのかという思いもあります。原因がはっきりわからない中、再発、転移する可能性があるのか、無いのか、それが一番心配な所です。

【A】(黒い服の方) 最初に癌だと診断された時、息子の目の前で「あなたは癌ですよ」と言われた時は、ものすごくショックでした。もう少し、なんというか、10代思春期の人間に対し、あの言い方はちょっと辛かったのではないかと思いました。私たちも当然のことながら甲状腺がん関係の知識は何もございません。とにかく、わらにもすがる思いで先生の言うことを聞いて、治療すれば大丈夫なのかなと思っておりました。今後、治療が長く続く間、再発する可能性というのも未だ払しょくできない不安材料です。

◆質問3=「過剰診断ではないか?」と言われてしまうのような日本の状況について

【Q3】 国内では、過剰診断ではないか?という言われ方など、どこか患者の方々であるとか、被害者の存在が放り置かれてしまうようなことが出てきていると思います。そういった状況をどう思いますか?

【A】(牛山氏) 本当にその通りです。ご家族や患者さんがどのように感じているのかということを、この会の設立により、やっと聞くことができました。あまりにも、情報が出てこないのです。福島県立医大がまとめているとは思いますが、きちんとケアがされているのかといえば、決してそうではなかったと思います。こうしたことを家族会設立により改善していければと思っています。

【A】(白い服の方) エコー検査の性能が上がるなど、色々言われていますが、機械の性能も向上しているので、見つかるはずもなかったものが見つかるということは、あるとは思います。娘については、比較的大きな状態で見つかりましたので、これは明らかに癌だと分かる状態で見つかっていますので、過剰診断ではないと思います。

【A】(黒い服の方) 早期で癌が見つかっていますが、過剰診断だということを強く感じたということはないです。(つづく)


◎[動画]20160312甲状腺がん患者家族会設立記者会見(UPLAN三輪祐児さん公開)

▼白田夏彦[取材・構成]
学生時代に山谷、沖縄などの市民運動を訪問。その後、9・11同時多発テロ事件をきっかけにパレスチナ問題の取材を開始。第二次インティファーダ以降、当地で起こった非暴力直接行動を取材。以降、反戦や脱原発などの市民運動を中心に取材。現在、業界紙記者。

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リオ五輪逃した男子バレー清水邦広──それでも妻・中島美嘉の愛は本物だった

〝格差婚〟ながらもラブラブで暮らす、そんな秘訣がこのカップルにありそうだ。
バレーボールのリオデジャネイロ五輪世界最終予選兼アジア予選男子大会第5日が6月2日、東京体育館で行われ、世界ランキング14位の日本は同13位のオーストラリアに0-3でボロ負け。ついにロンドン五輪に続いてリオ五輪に出場を逃した。

中島美嘉『ずっと好きだった~ALL MY COVERS~』(2014年ソニーミュージックエンタテインメント)

「エースの清水邦広(パナソニック)がサーブやアタックを止められすぎて、A級戦犯扱い。妻の中島美嘉が『もう責任とって引退して解説業になりなさい』とぶち切れたようです。しかしその真意はまたちがうところにあるようです」(スポーツ紙記者)

確かに、オーストラリア戦での清水の出来は悪かった。平均して身長が15センチ高い相手に対して、ブロックの手にあててはじき飛ばしたり、ブロックに吸い込むスパイクを狙って14得点を叩き出した。だが1セット目でサーブをふかしてアウトにしたり、パワースイングできるボールをフェイントにして相手に拾われたりして、いつもの冴えはなかった。

「応援に来れば勝率8割を超える〝勝利の女神〟中島が会場にいなかったのもあるが。普通の調子なら1試合20得点はとる清水の不調は、若いエース、20才の石川祐希(中央大学)や柳田将洋(サントリー)が怪我で不調なのをさしひいて考えても、あまりにも痛かった」(同)

そして2011年に「ひとめ惚れして、会場に駆けつけて清水にプロポーズした」というほど情熱ある愛を清水にふりそそぐ中島としては「自分はツアーなどで忙しいし、清水も遠征などでいっしょにいられるのは月に2、3日という中『これで一緒にいる時間が増える』として引退を勧めたという話だ。

〝ゴリ〟と呼ばれるごつい男、清水と中島は『格差婚』もしくは「美女と野獣」などと揶揄された。だが一緒に暮らすうちに、清水は「中島にふさわしい男」に見えてくるから不思議。
「清水は、引退を勧められて『まだ燃え尽きていない。つぎの東京五輪をめざす』と答えたようです。そのとき、清水は33歳とベテランの域に入っているのですが、自分が出場していた中、2大会連続で五輪に出場出来ないのは悔しいでしょうね」(同)

さて、その中島は「まったくファッションに興味がない」という清水の髪型やファッションまでもプロデュース。銀のペンダントをつけて試合に臨んでいるが、これも中島の申し出で「磁気が健康にいい」と言われてつけているが、清水は「ルールには違反しないとはいえ、アタックを打つときは邪魔でしょうがない」とチーム仲間に愚痴っていたほど。

勝利の女神が言うなら、清水も渋々従っていたようだが、問題は、スターの中島が『むさいバレーボール少年』にすぎない清水に対して飽きてきたときだ。
「その心配はないでしょう。ライブ前に励ましたり、夫婦生活をテーマに中島が曲を書いているほどで、お互いになくてはならない存在になっているのです」(同)
五輪の道は絶たれたが、清水のバレーボール人生はまだ終わっていない。
「予選はまだ試合がある。この状況でも中島が応援に来たら、愛は本ものでしょう」(同)

はたして、中島は五輪予選の6月5日、最終日のフランス戦に姿を見せた。やはり愛はホンモノだったんだと思う。

(伊東北斗)

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発生から10年、何かと社会を騒がせた奈良高1少年自宅放火殺人事件の「今」

奈良県田原本町で、名門私立高校の1年生だった16歳の少年が自宅に放火して全焼させ、父の再婚相手である継母と異母弟妹の計3人を焼死させる事件が起きたのは2006年6月20日のこと。この衝撃的な事件は、医師である父親の少年に対するスパルタ教育が背景にあり、少年は父親を殺害するために火を放ったということがセンセーショナルに報道されていた。あれから10年、現場を訪ねて「事件の今」を追った。

現場の跡地は事件後、少年の父が買い取ったそうだ

◆現場跡地は少年の父が買い取り

現場は近鉄橿原線の田原本町駅から徒歩で約10分程度の閑静な住宅街。事件発生当時にマスコミ報道で見かけた、無残に焼け落ちた家屋の姿はもうなく、現場は雑草が生い茂る空き地になっていた。立入禁止のロープが張られているのが唯一、過去に何か事件があったことをしのばせる。

「あの当時、このへんの家は取材がいっぱい来て、大変だったみたいですね」と話を聞かせてくれたのは、たまたま通りかかった近所の男性だ。現場の土地は事件後、火災発生時は自宅に不在で難を逃れた少年の父が買い取ったのだという。

「この家の人たちは事件の数年前に移り住んできて、この家を借りて住んではったんです。でも、ああいう事件があったんで、家主さんはこの家のお父さんに土地を買い取ってくれるように求めたんです。こんな事件があった土地、もう借り手も買い手も見つからんやろうからね。ほんで、この土地は今、事件のあった家の人らの持ち物ですわ」

これまで報道されてきた情報では、少年の父は、少年を自分と同じように医師にすべく、長年に渡って暴力も交えた虐待のようなスパルタ教育を行っていたとされる。だが、男性によると、少年の家族は「どこにでもいそうな普通の人たち」だったという。

「勉強のことで子供に厳しくするのは、普通はお母さんでしょ。あの家の場合、それがお父さんやったみたいですが、普通の家族と違っていたのはそれだけじゃないですかね。そんなに交流があったわけじゃないけど、亡くなったお母さんは道ですれ違ったら普通に挨拶してますし、本当に普通の人やった。火をつけた子も普通の賢い、しつけの行き届いた坊ちゃんいう感じでしたよ」

そんな少年に対し、地元では事件が起きた当初から同情が集まり、自治会の人たちは少年の刑を軽くすることを求める署名を集めて回ったのだという。

◆地元の人はネットの噂を否定

インターネットでは、少年の父が事件後、医師を辞めたかのような噂が飛び交った。だが、男性はこの噂を否定した。

「お父さんは、今も普通に医者として働いているように聞きますよ。事件の頃に勤めてはった病院とは、別の病院に勤め先が変わってるみたいですけどね」

男性によると、少年の父が事件のころに勤めていたのは、自宅から60キロ近く離れた三重県の病院だったという。「お父さんは今もこのへんで暮らしてはるそうです」とのことだが、通勤時間にゆとりのある病院に勤務先を変えたのではないかとふと思った。

父の虐待による広汎性発達障害と診断された少年は、奈良家裁で刑事処分より保護処分が適切だと判断され、中等少年院に送致されている。しかしその後、少年に対する精神鑑定を実施した医師が女性ジャーナリストに鑑定資料を漏えいさせ、秘密漏示罪で逮捕、起訴されるという騒ぎも起き、事件は再び社会の耳目を集めた(結果、医師は有罪判決を受けたが、女性ジャーナリストは不起訴)。男性は「事件だけでも大変なのに、ああいうつまらんことが起きて、家の人らはなおさら大変だったでしょう」と振り返り、しみじみとこう語った

「あの子はもう出てきてるでしょう。今はどこで何をしとるんか知らんけど、あの子やったら、ちゃんとやってるんやないかな。それこそ医者になっとるかもしれんと思いますよ」

現場は今、年に2回ほど、シルバー人材センターから派遣されてきた人たちが草刈りをしているという。このエピソードからも、少年の父らが責任感のある誠実な人たちであることが窺える。少年は今、26歳。彼が起こした不幸な事件はなかったことにはできないが、きっと堅実に更生の道を歩んでいるのだろうと筆者にも思えた。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
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「世に倦む日日」主宰者による衝撃の書!田中宏和『SEALDsの真実――SEALDsとしばき隊の分析と解剖』

夢と希望に満ちたジム入門の前に《後編》──理想のジムと出会うために

◆一般的なジムの選び方

ジムに入門する場合の一般的なジムの選び方は、まず家から近いこと、職場仲間といっしょにやれること、練習費が安いこと、更には有名選手が所属している、元・有名選手が経営している、女性用設備が充実している、タイ人トレーナーが常在している、などでしょう。

日本で最初のジム。藤本ジムに名は変わったが、目黒ジムを引き継いで盟友が集う。目黒藤本ジム落成懇親会(2005.4.17)

もう一歩、踏み込んで考えるならば、多少家から遠くても、練習費が少しだけ高くても、引越の際に賃貸物件を幾つか見て回るように、ジム見学を幾つかしてみた方がよく、また斉藤京二氏の例のような、団体が乱立していることを知らない少年たち、業界の組織図のようなものを理解してから、どこのジムに行けば目指す方向が近いのか、自分との相性も含め、何か感じ取れれば、後の後悔があっても小さくて済むかもしれません。ただし、プロデビューを目指すなら、どこのジムも厳しい練習があることだけは変わりません。

同・落成懇親会。元・東洋ウェルター級チャンピオン.斉藤元助、伊原信一現・協会代表、元・日本ヘビー級チャンピオン.池野興信。創生期の荒くれたジムを知る名チャンピオンたち(2005.4.17)

練習生としてジム入会諸々の手続きを経て練習開始し、基礎体力、基礎技術習得しプロライセンス制度が有る団体では取得後プロデビュー、そのジム所属としてプロ選手生活が始まります。大雑把に言えば、伸び悩んで方向転換する(引退、転向など)といった選手が多い中、チャンピオンやランカーなど、地道に勝ち上がっても、その地位を維持するだけで必死の努力で、入門者数のほんの一握りになっていきます。

◆稀に移籍トラブルが発生

そして稀に移籍トラブルが発生します。ジム会長と選手間で、主にはファイトマネーが絡む問題。またはその他の待遇に関するもの、進む方向に関わるもの、練習環境の問題などありますが、転勤や家族の事情で遠地に移る場合を除き、移籍はそう簡単なものではありません。送り出す側のジムと受入れる側のジムが対話で円満に解決してくれればいいですが、有力選手になると、そうはいかない場合もあり、行き場を無くし引退を余儀なくされる場合もあるようです。

藤本勲会長。ジム前でポーズ。日本で放映されたキックボクシングの最初の人(2006.1.5)

「移籍金100万円払ったのに、1戦しただけで姿消された」という話も昔聞いたことがありますが、円満に移籍してもその先で挫折する、過去にそんなパターンもありました。

円満に移籍できなかった場合、密かに海外、タイなどで試合するという例はあるようです。選手とのトラブルがあってもすべての所属選手が会長を嫌っていることは少なく、そこは個人間の相性でしょうか。国内では聞いたことはありませんが、本気で所属選手全員に嫌われては、そのジムは試合出場が無くなり閉鎖に追い込まれるかもしれません。タイでは、あるジムから選手全員夜逃げの撤退が起こったことがありました。その後、新しい選手が入ってもジムに活気無く閉鎖に繋がりました。

◆心温かい名古屋の大和ジム

斉藤京二氏の例は決して失敗例ではなく、逆にその目白ジム(後の黒崎道場)は昭和50年代のキック低迷期であっても比較的試合出場に恵まれて、そこで頑張った先には、日本人初のムエタイチャンピオン、同門の先輩・藤原敏男にKO勝利する驚きの結果を導いたスターとなって、その後怪我もありましたが、期待どおりMA日本ライト級チャンピオンに就き、復興した全日本キック連盟に移っても引退までエース格を務めました。

チームワークが良いジムメイト、大和ジムの守永光義会長、大和大地。右は連盟代表理事・斉藤京二氏

心温かいジムと言えば、名古屋の大和ジムでは会長と選手のコミュニケーションがしっかりとれているジムと言われます。守永光義会長が選手誘って一緒に呑んでバカなこと言って溶け込んでお互いをしっかり知る、そんなところから選手を見て育てる方針には理解出来る部分があります。昭和の市原ジム(玉村哲勇会長)では、練習後、選手みんなでジム近くの焼き鳥屋で食事し、時には会長宅に押し掛け大宴会をやるといった、玉村会長自身が自由奔放な指導者だった為、日々みんなが計画せずも自然と集まる輪がありました。

石井宏樹引退セレモニーで挨拶、デビューから19年の想いを語る。ここまで来れたのは、すべて周りへの感謝

温かみあるジムはそれぞれの個性を持って他にもいろいろあると思いますが、移籍問題に発展するトラブルは少ないでしょう。
選手が引退式の中でのスピーチで、会長やトレーナー、選手仲間など周囲への感謝を述べていく挨拶があります。引退式に向けて話す内容を前もって考えてくることで、綺麗ごとを並べている部分もあるかもしれませんが、周囲への感謝は本音でしょう。周囲の協力が無ければ練習も充実せず、マッチメイクも決まらないことに繋がっていきます。

ミット持ったり持って貰ったり、スパーリングパートナーになったりなってもらったり、また先輩の試合も後輩の試合も、控室で身体にタイオイルを塗るマッサージや準備、試合中のセコンドでフォローすることなどのチームワークも学び、コミュニケーション能力が増していきます。

そんな触れ合いから教わった想い出が感謝と涙に変わるのは自然なことで、1戦でもプロ公式戦を経験させて貰えたならば、どれだけの人たちがフォローに周ってくれたかを自覚し感謝していくことは他の職場では味わえない大切な人生経験となるでしょう。どこのジムへ入っても、最後は感謝の気持ちを持って引退できる環境で戦って欲しいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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夢と希望に満ちたジム入門の前に《前編》──キックボクシングジム今昔物語

ジム選びは慎重に決めないと入門後、後悔する場合が稀にあります。赤い糸で結ばれていたかのような理想のジムと出逢うことも理想的ながら難しい出逢いです。

路地で練習していた頃、お巡りさんに「近所から苦情が来ている」と中止させられ、物件を探し、雑居ビルにジムを構えた頃の西川ジム。練習生も入らず、閑散としていた時代(1983.1.6)

—「目黒ジムの次に強いジムはどこだ?」
・・・「目白ジムです!」
—「よし、そこに決めた!!」

◆2団体制を知らずに対抗団体に行った斉藤京二氏

沢村忠(目黒)と対戦したくて最初のジム選び、上京して入門。ところが沢村忠が所属する目黒ジムは日本系、目白ジムは全日本系で団体が違い、通常対戦の機会は無いと、後になって知ったのは後の全日本ライト級チャンピオン、現NJKF代表理事の斉藤京二氏でした。

同様に閑散としていた頃の市原ジム。トタン屋根の板張りの床、男の汗臭い昔ながらのジム。一般の女性では絶対入ろうとしない空間(1983.6.11)

日本でキックボクシングが発祥した最初のジムは目黒ジムで最初はここひとつのみ。藤本勲vs木下尊義の、キックボクシング放映最初の試合は同門対決からの始まりでしたが、ジムはここしかないので同門ばかり、入門は目黒ジムに溢れるほどでした。

やがて目黒ジムに対抗する、あらゆる個性や方針のあるジムが誕生していき、キックボクサーに憧れ、「俺の方が強いぞ」「俺もチャンピオンになりたい」「有名になって稼ぎたい」「沢村忠と対戦して勝ちたい」「目黒ジムに負けるな、追い付き追い越せ」創生期はそんな目標が多かったかと思います。

市原ジムにて、長浜勇のミット蹴り。プレハブ小屋のこんな風情あるジムは今や少ない

ジムは殺伐としたもので、サンドバッグの取り合いなど、何か些細なことでも先を争う事態があれば喧嘩になるのは日常茶飯事。どこのジムもそんな感じだったと言われます。ちょっと気の弱い少年だったら見学もできない、そんな近寄り難い存在だったでしょう。

◆低迷期の80年代からジムの雰囲気が様変わり

大きく風向きが変わったのはキックボクシングが一旦衰退し、低迷期を彷徨った頃の、1980年代から、業界も変わり世代も変わり、殺伐とした雰囲気が無くなった頃でしょう。どこのジムも閑散として誰もいないことも珍しくなく、時代も変わって「いじめに勝ちたくて」そんな目標を持ってヒョロッとした喧嘩に弱そうな中学生が勇気を出して入門してきたという、そんな光景も方々のジムで結構あったのではと思います。

女性の入門生も多くなった近代的設備が充実した現代風のジム(2011.4.11)

その後の時代は徐々に進化し、2000年代には、ムエタイ修行受入れ態勢のタイ側のジムが進化したように、冷暖房完備、リング、サンドバッグ、ウェイトトレーニング機器、タイ人トレーナーの常在。入門というと厳しさ漂う修行寺のような感覚ですが、女性がボクササイズ感覚で“入会”し、ダイエットなど、また目標も大きく変わった時代でした。

藤原敏男を破った斉藤京二。その後5年掛かったが、MA日本ライト級チャンピオンになった頃(1987.1.25)

男女とも周囲の影響を受けて、アマチュアからプロ転向まで志次第で進む選手も多いと思います。実際に女性の入門生増加の影響で、プロデビューに至る女子選手が増え、女性用シャワールーム、女子更衣室が用意されるのは大半のジムになり、定期興行を打つジムの数も首都圏においてはプロボクシングのその数に迫るほど増えたかもしれません。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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なぜ、高橋さんは犯人にされたのか? 1988年の鶴見区金融業者夫婦殺人事件

年末になると、テレビ、新聞が一斉に事件の現状を報道する世田谷区一家殺害事件をはじめ、重大な未解決事件は毎年訪れる「事件から×年」の節目の日にマスコミで取り上げられるのが恒例だ。

高橋さんが綴った手記

そんな中、重大な未解決事件でありながら、一切そういう報道が行われていないのが、1988年6月20日に起きた横浜市鶴見区の金融業者夫婦殺害事件だ。

というのも、この事件では、発生からまもなく、現場の金融会社に出入りしていた小さな電気工事会社の経営者で、高橋和利さんという当時54歳の男性が強盗殺人の容疑で逮捕されている。高橋さんは裁判で無実を訴えたが、1995年9月に横浜地裁で死刑判決を受け、控訴、上告も実らずに2006年に死刑が確定。現在も無実を訴えて再審請求しているが、なかなか裁判所に無実の訴えを認められない状況だ。

つまり、この事件が未解決事件として報道されない理由は、「高橋和利という犯人が捕まっている」という幕引きが公式になされているからだ。それに対し、筆者がこの事件を未解決事件と呼ぶのは、犯人とされている高橋和利さんは冤罪で、無実だと思っているからである。

◆「真実ではない」と裁判所も認めた自白で死刑に

では、そもそもなぜ、高橋さんはこの事件の犯人とされたのか。

元をただせば、警察が高橋さんを犯人だと誤認したのは、仕方ない面もある。事件の日、被害者夫婦が営む小さな金融会社に顔を出した高橋さんは、夫婦が頭から血を流して倒れており、何者かに殺害されているのを目撃しながら、警察に通報しなかった。その場に残されていた紙袋の大金(1200万円分の札束)に目がくらみ、持ち去ってしまったからだ。高橋さんは当時、義弟(妹の夫)の借金を肩代わりしたことから金策に追われ、冷静な判断ができない状態だったのだ。

警察は事件直後、現場の金融会社に出入りしていた高橋さんがあちこちに借金を返済している情報をつかんだ。そして高橋さんを連行し、容疑を追及。高橋さんは金を持ち逃げした弱みもあり、ほどなく強盗殺人の犯行を自白したのだった。ここまでの経緯をみると、高橋さんにも自業自得の面はあったろう。

だが、裁判では、事実上唯一の有罪証拠である自白には、様々な問題が散見された。まず、高橋さんの自白では、被害者らをバールで殴ったり、ドライバーで刺して殺害したことになっていた。しかし、「犯行後、凶器はゴミ集積場に捨てた」と高橋さんが自白しているにも関わらず、この2つの凶器は見つかっていない。さらに公判段階になり、弁護側の請求によって裁判所が職権で遺体の状況に関する再鑑定を行ったところ、鑑定医は、捜査段階に解剖医が示した「凶器はバールとプラスドライバーと推定される」との見解を「牽強付会だ」と否定した。こうして高橋さんの自白を裏づける決定的な証拠は何もない状態になったのだ。

そもそも凶器をめぐっては、高橋さんの自白は、「まず、被害者のうち夫のほうをバールで首やあごを殴って殺害し、次に妻を殺害した際には、まずバールで頭部を殴り、それから凶器をプラスドライバーに持ち替えて背中や胸を多数回刺し、その後に再び凶器をバールに持ち替えて頭部を殴打して殺害した」という大変不自然な内容になっていた。

被害者2人の遺体に複数の凶器を使われたとみられる傷跡があるなら、本来、犯人は複数だと考えたほうが自然ではないか。実際、弁護人の大河内秀明弁護士によると、警察も当初は複数犯だとみていたという。

「警察は高橋さんを任意同行した際、高橋さんと一緒に仕事をしていた配管工の男性も共犯者と疑って任意同行しています。しかし、この男性にアリバイがあることがわかり、犯人が高橋さん一人に絞られた。また、担当検事は高橋さんを起訴後も拘置所に何度も会いに来て、しつこく共犯者の名前を聞き出そうとしていたのです」

高橋さんの無実の訴えを退けた第一審判決、控訴審判決共に「被告人の自白には、真実ではないものが含まれている」と認めざるをえなかった。それでいながら、そんな信用性の乏しい自白をもとに無実を訴える被告人に死刑を宣告しているのだから、空恐ろしくなってくる。

高橋さんが今も拘禁されている東京拘置所

◆別の犯人が存在することを示す事実

この事件には、高橋さん以外の犯人が存在することを示す事実も散見される。というのも、被害者夫婦が殺害された後、事件現場から無くなっていたのは、高橋さんが持ち去った大金入りの紙袋だけではなかったのだ。

現場の金融会社は事件の4カ月前にも窃盗に入られ、融資の借用証や不動産の権利証などの重要書類を盗まれていた。それ以後、被害者の夫は会社の重要書類を布袋に入れて持ち歩いていたのだが、その布袋が事件後、見当たらなくなっていた。また、高橋さんが持ち去った紙袋の1200万円の札束について、被害者の夫は銀行から持ち帰る際に黒いカバンに入れていたのだが、このカバンも現場から消えていた。高橋さんが現場に顔を出す前に別の人物(たち)が被害者夫婦を殺害し、これらの物を持ち去ったとみても何もおかしくないだろう。

筆者はこの春、編著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)を上梓したが、現在82歳の高橋さんもこの本に書き下ろしの手記を寄稿してくれている。

〈私をこの歳まで生き永らえさせているものは、足の先から頭の天辺にまで詰まり凝り固まっている司法権力への失望と満腔の怒りだ〉

そんな書き出しで始まる高橋さんの手記は、無実の罪で死刑囚へと貶められ、30年近くも牢獄に留め置かれていることへの憤りが連綿と綴られ、なんとも言い難い迫力がある。事件発生から今年の6月20日で28年になった。高橋さんが生きているうちに雪冤がなされ、一日も早く2人の生命を奪った真犯人が捕まって欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)
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