『情況』第5期終刊と鹿砦社への謝辞 ── 第6期創刊にご期待ください 〈前編〉 横山茂彦

わたしが編集長を務めていた雑誌『情況』が休刊しました。この場をかりて、読者の皆様のご支援に感謝いたします。同時に、広告スポンサー(表3定期広告)として支援いただいた鹿砦社、および松岡利康社長のご厚情に感謝するものです。ありがとうございました。こころざしの一端を等しくする鹿砦社のご支援は、いつも勇気を与えてくれる心の支えでした。

 
『情況』2022年夏号

なお、情況誌第6期が若い編集者を中心に準備されています。時期はまだ未定ですが、近い将来に新しいコンセプトを背負った第6期創刊が達成されるものと熱望しています。そのさいは、変わらぬご支援をお願いいたします。

さて、総合雑誌の冬の時代といわれて久しい、紙媒体構造不況の昨今。しかし専門的雑誌は、いまも書店の棚を飾っています。

ということは、21世紀の読者がもとめているのが総合雑誌ではなく、シングルイッシュー(個別課題的)に細分化されたニーズであるのだと思われます。

その意味では、ロシア革命100年、68年特集、連合赤軍特集といった、社会運動に特化した特集が好評を博し、このかんの情況誌も増刷という栄誉に預ったものです(増刷による在庫過多という経営的な判断は別としても)。

いっぽう、情況誌(というよりも左派系紙媒体)に思いを寄せてくれる研究者や論者、たとえば五木寛之さんなども「少部数でも、クオリティ雑誌をめざすという手があるのではないですか」と、ご助言くださったものです。

クオリティ雑誌といえば、高級商品の広告を背景にしたお金持ち相手の趣味系の雑誌や男性ファッション誌などしか思い浮かべられませんが、フランスの新聞でいえば「リベラシオン」(大衆左派系雑誌)に対する「ルモンド」のイメージでしょうか。人文系では岩波の「思想」や「現代思想」「ユリイカ」(青土社)あたりが情況誌の競合誌となりますが、学術雑誌(紀要)よりもオピニオン誌系をめざしてきた者にとっては、やはり左右の言論を縦断した論壇ステージに固執したくなるものです。

新しい編集部がどんなものを目指すのか、われわれ旧編集部は決定には口を出さず、アドバイスも控え目に、しかし助力は惜しまないという構えです。

さて、結局いろいろと模索してきた中で、新左翼運動の総括や政治革命、戦争への左派の態度など、おのずと情況誌にもとめられるものがあります。ちょうど50年を迎える「早稲田解放闘争」「川口君事件」つまり内ゲバ問題なども、他誌では扱えない困難なテーマで、本来ならこの時期に編集作業に入っていてもおかしくないはずでした。このあたりは、残された宿題として若い人を主体に考えていきたいものです。

もうひとつ、第5期の終刊にあたって心残りなのは、ウクライナ戦争です。いよいよロシアが占領地を併合し、侵略の「目的」を達しようとしている情勢の中で、早期終結を提言するべきだが、ウクライナ人民にとっては、停戦は「緊急避難」(ミンスク合意の焼き直し)にすぎないはずです。その意味ではロシアが併合を「勝利」として、停戦に応じたからからといって、プーチンの戦争犯罪が許されるわけではない。

また、ウクライナ戦争は台湾有事のひな型でもあり、日本にとっても重大なテーマと言えましょう。そこで、情況誌第5期休刊号において、新左翼・反戦市民運動の混乱(大分裂=帝国主義間戦争か侵略戦争か)について、解説記事をまとめて掲載しました。その核心部分を紹介することで、本通信の読者の皆さまにも問題意識を共有いただければ幸甚です。

なお、新左翼特有の激しい批判、難解な左翼用語まじりですが、ご照覧いただければと思います。筆者敬白

◆休刊号掲載のウクライナ論争

まずは記事の抄録です。中核派批判から始まり、筆者も過去に関係のあったブント系の分派(共産同首都圏委員会)の批判につづきます。

『情況』2022年夏号 21p-22p
 
『情況』2022年夏号 23p

【以下、記事の抄録】

中核派はこのように主張する。

「ウクライナ戦争は、『プーチンの戦争』でも『ロシア対ウクライナの戦争』でもなく、本質的にも実態的にも『米帝の戦争』であり、北大西洋条約機構(NATO)諸国や日帝も含む帝国主義の延命をかけた旧スターリン主義・ロシアに対する戦争であることが、ますます明らかになっている」(「前進」第3242号、5月2日「革共同の春季アピール」)と。

アメリカとNATO、そして日本までがウクライナ戦争に参戦し、ロシアに戦争を仕掛けているというのだ。事実はちがう。日本は北方開発と漁業でロシアと協商しているし、アメリカは武器支援にこそ積極的だが、軍隊を送り込んでいるわけではない。中核派は政治的な深読みである「米帝の戦争」を強調するあまり、プーチンの犯罪(開戦責任)を免罪してしまっているのだ。

中核派の「アメリカ帝国主義の戦争」を的確に批判しているのが『未来』(第342号、革共同再建協議会)である。革共同再建協議会はこう断じる。

「彼らは、今回のロシアの侵略戦争を米帝バイデンの世界戦争戦略が根本原因で、『米帝・バイデンとロシア・プーチンの代理戦争』と言い、さらには『米帝主導の戦争だ』とまで言う。そこには米帝の巨大さへの屈服はあっても、ロシア・プーチンの侵略戦争への批判は一切ない」と。

「プーチン・ロシアからの解放を求めて闘うウクライナ人民の主体を全く無視している。彼らの『代理戦争』の論理は、帝国主義とスターリン主義の争闘戦の前に、労働者階級や被抑圧民族は無力だという帝国主義と同じ立場、同じ目線であるということだ。ロシア・ウクライナ関係、ウクライナ内部にも存在する民族抑圧・分断支配に接近し、マルクスのアイルランド問題への肉迫、レーニンの『帝国主義と民族植民地問題』を導きの糸に解決していこうとする姿勢はない」と、厳しく批判する。

まがりなりにも「帝国主義間戦争」と言い切っているのは、共産同首都圏委員会である。だが米帝とゼレンスキー政権の強硬策が直接的な原因だとして、これまたプーチンの開戦責任を免罪するのだ。云うところを聴こう。

「この戦争の基本性格はウクライナを舞台とした欧米とロシアによる帝国主義間戦争であり、米帝・NATOの東方拡大によるロシアの軍事的封じ込め政策、多額の軍事支援とテコ入れにより2015年の『ミンスク合意』を無視してウクライナ東部のロシア系住民居住区域への軍事的圧迫と攻勢を強めたゼレンスキー政権の強硬策がロシアを挑発し、今日の事熊を招いた直接的な原因」(「radical chic」第44号、早川礼二)であると。

それでは問うが、この戦争が帝国主義間戦争であれば、ゼレンスキー政権は米帝の傀儡政権・買弁ブルジョアジーとして、打倒対象になるのではないのか? ベトナム・インドシナ戦争におけるグエン・バン・チュー政権、ロン・ノル政権と同じなのか。旧日本帝国主義の中国侵略戦争における、汪兆銘政権と同じなのだろうか。

「ゼレンスキー政権の民族排外主義、ブルジョア権威主義独裁に頑強に抵抗しつつ、ロシアの帝国主義的侵略に立ち向かうウクライナの人々に連帯する。ブルジョア国家と労働者人民を峻別することは我々の原則であり、自国も含めたあらゆる〈戦争国家〉に抗う労働者人民の国際連帯こそが求められている。」(前出)と云うのだから、わが首都圏委においては、戦争国家のゼレンスキー政権打倒がスローガンになるようだ。

だが今回の戦争の本質は、ロシア帝国主義の侵略戦争とウクライナの民族解放戦争である。抑圧された民族の解放闘争が民族主義的で、ときとして排外主義的になるのは、あまりにも当為ではないか。中朝人民における日帝支配の歴史的記憶が、いまだに民族排外主義的な抗日意識をもたらすのを、知らないわけではあるまい。ウクライナ人民のロシア(旧ソビエト政権)支配に対する歴史的な憤懣も同じである。

第一次大戦と第二次大戦も、帝国主義間戦争でありながら、植民地従属国(セルビア=ユーゴ・東欧諸国・フィンランド・中国・インド・東南アジア諸国など)の民族解放戦争という側面を持っていた。

それは支援国が帝国主義国(第二次大戦におけるアメリカの中国支援など)であるとかは、まったく関係がない。反帝民族解放闘争の独自性を承認・支持するのは、国際共産主義者の基本的責務である。

侵略戦争に対する民族解放・独立戦争はすなわち、プロレタリアートにとって祖国防衛戦争となる。それは侵略者に隷属することが、プロレタリアにとっては二重の隷属になるからにほかならない。だから民族ブルジョアジーとの共同闘争が、人民戦争戦術として必要とされるのだ。したがって首都圏委のように「ブルジョア国家と労働者人民を峻別する」ことは必要ないのだ。中国における抗日救国戦争(国共合作)がその典型である。

「民族生命の存亡の危機に当たって、我等は祖国の危亡を回復救助するために平和統一・団結禦侮(ぎょぶ=敵国からのあなどりを防ぐ)の基礎の上に、中国国民党と了解を得て共に国難に赴く」(中国共産党「国共合作に関する宣言」)。

わが首都圏委によれば、マイダン革命も米帝の画策ということになる。そこにはウクライナ人民が民族主義者に騙され、米帝の関与によって政変が起きたとする陰謀史観が横たわっている。世界の大衆動乱はすべて、CIAやダーク・ステートの陰謀であると──。

人間が陰謀史観に支配される理由は、自分たちには想像も出来ない事態を前にしたときに、安心できる説明を求めるからだ。自分たちの経験をこえた事態への恐怖にほかならない。シュタージの一員としてベルリンの壁崩壊に直面して以来、プーチンに憑りついた恐怖心は民衆叛乱への怖れなのである。おなじ恐怖心が首都圏委にもあるのだろうか。

オレンジ革命とマイダン革命に、国務省のヌーランドをはじめとするネオコン、NED(全米民主主義協会)などの支援や画策があったのは事実だが、数千・数万人の大衆行動が米帝の画策だけで実現するとは、およそ大衆的実力闘争を体験したことがない人の云うことだ。おそらく実力闘争で負傷したことも、逮捕・投獄された経験もないだろう。

陰謀史観をひもとけば、ジェイコブ・シフらのユダヤ資本がボルシェヴィキに資金提供したからといって、ロシア革命がユダヤ資本に画策されたと見做せないのと同じである。われわれは大衆の行動力こそ、歴史の流れを決めると考えるが、いまの首都圏委はそうではないようだ。

記事の抄録は以上です。ここからさらに、ブント(新左翼)史に引きつけて、革命の現実から出発してきた共産主義運動の軌跡、ロシアと中国を官僚制国家独占資本を経済的基礎とする覇権主義的帝国主義であると理論展開する。

ここまでボコボコに批判すれば、およそ反論は難しいであろう。この記事を読んだ市民運動家や元活動家の感想はそういうものだった。

しかし、他党派の批判など気にしない中核派(大衆運動が頼み)とちがい、ブント系(組織が脆弱なので理論だけが頼り)において、批判への沈黙は党派の死である。どんな反論をしてくるのか楽しみにしていたところ、それはもの凄いものだった。

なんと、首都圏委員会は相互の論旨を「改ざん」してきたのである。わたしの言い分を部分的に引用することで歪曲し、自分たちの主張も核心部(わたしの批判の核心部)を隠すことで、みごとに(いや、臆面もなく)論軸をずらしているのだ。つまり論文不正を行なったのである。あまりの愕きに、おもわず笑い出してしまったものだ。(愕きと爆笑の後編につづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号
『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

《書評》森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』 田所敏夫

ふつうの暮らしをする人々にとって、「裁判所」や「司法」と積極的に関わりたい、と願う人は少ないだろう(一部に「傍聴マニア」を趣味とする例外的な方々は存在するが)。法廷は静寂が求められる場所であり、開廷の際、原告、被告(人)だけでなく弁護士、検察官そして傍聴者も起立を求められる。黒い法衣に身を纏った裁判官は、最低限かつ必要な発言に留めるのが通例であり、一段も二段も高い位置(大所高所)から私情を挟まずに、「法」と「証拠」に基づいて判断を下す。というのが一般に想像される裁判官の平均的イメージではないだろうか。

平均的イメージが存在するのだから「平均的ではない」裁判官も、理論的には何処かにはいてもおかしくはない。けれども市民がそのような「平均的ではない」裁判官と巡り合う僥倖は、ごくわずかの確率であるといえよう。

 
森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社)

そしてこの点も重要なのであるが、いくら「裁判所」や「司法」と無関係でありたい、と願ってもわたしたちはこの国の司法の下で生活を営んでいるのであるから、「司法」と無関係に生活をすることはできない。そんな前提で森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社 2022年)を手に取ると、新鮮な風に触れたような思いを体感できることだろう。

『初心 「市民のための裁判官」として生きる』の著者、森野俊彦氏は任官から退官まで、文字通り「市民のための裁判官」たらんと、裁判所の中で闘い尽くした類まれなる経歴の持ち主である。

本書第一章は「23期裁判官としてともかく生き延びて」から幕を開ける。「生き延びて」とは大げさなと思われる向きもあるかもしれないが、森野氏と同期の七名が裁判官に任官されなかったということがありこの処断に承服できない森野氏らは最高裁に対しての抗議行動にまで及んだ(このお話は初対面の時から幾度か伺っている)。詳細は本書に譲るが、裁判官として昇進などではなく、森野氏は常に「司法はいかにあるべきか」、「市民のための裁判官とは」を自問しながら試行錯誤し、冒頭に述べた一般的な裁判官とはまったく異なる裁判官として各地の地道な事件に積極的に取り組んでゆく。その延長線上に市民感覚に近い司法の実現や、市民の司法への関心喚起の必要性をお感じなられ、講演会をはじめ様々な啓発活動にも献身されてきたことも特筆すべきだろう。

ご出身は大阪で阪神タイガースの大ファンであることが『初心』の中で紹介されている。近年「大阪維新」の繁茂により、大阪人が「自由さ」や「反中央の気骨」を失ったのではないか、と感じさせられる場面が少なくないが、森野氏はその思想と行動において良質な「大阪人」としてのエッセンスを兼ね備えた人物であることが第二章「サイクル裁判官の四季だより」のそこここから伺える。

森野氏は大阪地裁堺支部勤務時代に、健康法も兼ねて自転車で通勤をしていたところ、たまたま担当していた境界確定訴訟の現場に行き当たる。自転車から降りて早速「検証」にとりかかると、書面から抱いていたイメージと現場の違いに気がついた。それ以降担当する事件については、可能な限り自転車で現場に向かい、自身の目で確かめて判断をを下すようになったそうだ。そこで自らを「サイクル裁判官」と命名してまとめられた「サイクル裁判官の四季だより」は「法学セミナー」の連載を中心に20世紀後半から2004年まで、森野氏が裁判官として脂がのり切った時期に接した事件や人物、風景を森野裁判官らしい温和な感性で綴った、一見読みやすいが硬派なエッセイ集といってよいだろう。多忙ななか読書、映画鑑賞、登山、旅行など多くの趣味を通じて社会を見聞し、現場や事件当時者への尽きない関心を持ち続けた森野裁判官の日常が、テンポよく軽妙に、そして彩り豊かに紹介される。

私が森野氏と知己を得たのは、退官を控えた時期だった。ある集まりでご一緒させていただいたのだが、「こんなに気さくな裁判官がいるんだな」と感心した。森野氏は文字にすれば標準語の文章を書くことはできるが、口語では大阪弁イントネーションが強いため格調の高い文節を駆使することができない(はずだ)。法衣を着ていなければ「大阪のおっちゃん」の呼称が似合うお人柄である。

『初心』では裁判員制度や夫婦別姓問題そして、日本国憲法と裁判官に対する森野氏の見解が中盤から後半にかけては展開される。法律家としての森野節が全開である。前半が海外も含め様々な場面と、裁判官生活における喜怒哀楽(もちろん森野裁判官に特徴的な)の記録、いわば読み物として良質なエンターテイメント性を備えた内容であるのに対して、後半は森野裁判官、もしくは法律家森野俊彦による現司法のありように対する、根本的な問題提起(法律書)であるといってよいだろう。

森野氏は退官後大阪弁護士会に弁護士登録を行い、あべの総合法律事務所に籍を置き、弁護士活動を続けている。「現場が好き」だという森野氏は、きょうも『初心』を心の中に抱きつつ、大阪を中心にあちこちを駆け回っておられることだろう。四方(しほう)は角だらけだけれども、司法の中に森野氏のような人が居てくれれば、どれほど市民が助かることかと、こちらからは願うしかないのであるが。

そんな森野裁判官にひょっとしたら筆者は京都家庭裁判所で、裁判官と申立人の関係で顔を合わせていたことがあったかもしれないのだ。私的な事件が発生し弁護士を選任して相談したところ、結局は家庭裁判所ではなく地裁への提訴する結果と相成ったが、あの時、京都地裁ではなく、京都家庭裁判所に申し立てを行い、運よく森野裁判官に当たっていたら、私の司法に対する感情や、人生自体がいまとは大きく異なるものになっていたかもしれない。

『初心』は春や夏よりも秋、できれば晩秋のできれば夜、手に取ると味わいが増すように感じられる。滋養強壮にも効果抜群であることを保証する。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。主著に『大暗黒時代の大学』(鹿砦社)。
amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846312267
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000528
※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

あさま山荘事件から50年後に考える「連合赤軍問題の本質」〈後編〉現在になぞらえるための書籍『連合赤軍を読む年表』 小林蓮実

前回、シンポジウムと書籍の前半を取り上げ、連合赤軍の問題から暴力などについて考えることを始めた。今回は、続きの内容を追った後、わたしがイベントや本書を通じて考えた暴力に関する考えを伝えたい。(以下、敬称略)

 
椎野礼仁・著『連合赤軍事件を読む年表』(ハモニカブックス)

◆時系列で「連赤」の真実を追う

まずは、本書、『連合赤軍を読む年表』椎野礼仁・著(ハモニカブックス)の続きを見てみよう。

「その後の『連合赤軍』」の章でも、大衆の反応のおそろしさに触れられていたり、坂口が手記に「誤りの根本原因は……政治路線抜きの目先の軍事行動の統一のみに走った連合赤軍の結成」としていたりといったことも書かれていた。離婚に関する永田と坂口の温度差には、ある種のせつなさは感じつつも、苦笑してしまう。また、坂口の途中までの黙秘に対する、永田の「それができたのは、何よりもあさま山荘銃撃戦を闘ったから……その闘いが取り調べに対する強い意思を与え……同志殺害に対する罪悪感を和らげることにもなった」などという言葉も取り上げられている。

一方、坂口は、森の「自己批判書」に対して責任転嫁を感じつつも誠意は認めていたこと、沖縄や田中内閣などの「新情勢」から『武闘の条件があるようには見えず、新しい時代に入ったことを感じざるを得なかった』」という。

その後、森が、この「自己批判書」を撤回し、坂口は森に対して批判的な手紙を送り、森は坂口に「君の意見を多く押さえてきたことに、粛清の道があったと思います」「この一年間の自己をふりかえると、とめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます」というような遺書を残して自殺した。

前後して、永田には過食症があり、塩見は「連席問題の核心は思想問題である」という見解を示していたそうだ。重信は、「査問委員会で裁いて欲しい」と申し出る坂東に対し、「そんなつもりも資格もない。連赤の敗北に共に責任をとり、総括するために奪還した」と答えていた。そして、永田に対し、女性蔑視といえる判決が下される。本書には、わたしが知らなかったこと、忘れていたことが数多く記されていた。

連席関連の「ガイドブック」紹介を間に挟み、最終章は「インタビュー」となっている。植垣は「現在の日本ではテロもゲリラも必要ないし、むしろ有害だと考えています」「テロは政治的に有効ですらないということなのです」と語ってから、ゲリラ戦が有効である例をあげた。また、総括の暴力を「日本的な論理」「集団を支える強固な論理構造がある」と説明している。赤軍派は「一人一党」だったが、革命左派の前身グループは「家族的、あるいは閉鎖的だと言われていました」とも植垣は述べる。現在の運動の難しさについても語っており、展望や「未来図」が見えず、「社会主義」にも、官僚制や資本主義に代わるものもないともいう。

加藤倫教は、問題は「革命の私物化」にあり、「本来革命は大衆のためにあるはずなのに、自己目的化されていった」という。提案としては、「江戸時代の人口3000万くらいの規模への再評価が出てますよね」「地域々々でその環境が維持できる範囲の生活をするということです」としている。必要な権力の規模としては「江戸時代だったら、藩レベル」をよしとし、「力の押し付けをするんだったら、個人テロが多発する」とも口にしている。アンドレ・ゴルツ『エコロジスト宣言』やエンゲルス、安藤昌益の「直耕」、「現場主義を貫く」という言葉にも触れていた。

他方、岩田は「『共同幻想論』による連合赤軍事件の考察」という文章を書いており、その全文とあとがきも本書に掲載されている。

◆連赤の問題は、組織というものが内包する闇

山上による安倍銃撃後の現在、連赤の問題を考えると、また新たな視点をもつ。宗教や政治、ビジネスにも罪悪感、心配や悩みの利用があるとするならば、連赤もまた人の弱みが活動や組織に利用されてきたように思える。

ただしこれらは、あらゆる組織やグループに見られる問題であり、連赤はその象徴であるようにも感じられるのだ。権力や金を保持したいグループや人物がいて、完全に組織をオープンにすることは好まず、人の感情や自尊心を、言葉や評価で上下させる。権力や腐敗していく組織、金などを守るために、処刑や搾取を繰り返す。

では、どうすればよいのか。私たちは、権力や金、組織の維持をある程度あきらめてでもグループをオープンな状態に保たねばならない。もしくは山上のように、覚悟をもって、個として動く。

個人的には、さまざまな組織のもつ上記のような意図に嫌悪し、距離を置いた経験が多くある。プロジェクトで自らがリーダーとなって仕事を進める際などには、自らの「煩悩」や「欲望」に負けず、オープンでフラットな状態を保つよう、努めているつもりだ。

本書では、彼らの総括として、個人の問題にするのか、それとも思想の問題とするのか、というような揺れる文脈をたどってきたような気がする。暴力などに対し、簡単に答えを出すことはできない。

ある時、生協活動経験者に「生協は組織の問題があまりないイメージが強いのですが、いかがですか」と尋ねたら、「人間は集まればどこも一緒よ」と返ってきた。このようなことのほうが、個人的には本質に近いように感じる。それを思想の問題と捉え、未来へと進むなら、社会主義に権力者を据えず、互いに自由でフラットで固定されない関係性を追求するような社会を想定し、それを実現すべく日々、実行に移すことが有効であるかもしれない。

とすれば、アナキズムがやはり魅力的にうつるが、これが継続的で平和で自由でほどよい規模に維持されることを想定すると、やはりコミュニティの規模は小さく、それが外の多くのコミュニティとオープンな形で結びつくような形がよいだろう。

あらゆる問題を議論と歩み寄りによって解決することの困難を感じながらも実践することも重要かもしれない。武力をアピールすれば、怒りを買うことは、理解できる。そのうえで、権力や変えられぬ問題に対し、ある種の暴力が有効であることは、この間も証明されている。山上が失敗して安倍の命がつながれていたら、残念ながらここまでさまざまな問題が暴かれてくることはなかっただろう。

ここから先のことも連赤についても、日々の実践のなかで今後も考えていきたい。(了)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『紙の爆弾』『NO NUKES voice(現・季節)』『情況』『現代の理論』『都市問題』『流砂』等、さまざまな媒体に寄稿してきた。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。取材等のご相談も、お気軽に。
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『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

内藤秀之さん一家を追った映画『日本原 牛と人の大地』 鹿砦社代表 松岡利康

 
映画『日本原(にほんばら)牛と人の大地』

右に掲載しているように、『日本原 牛と人の大地』という映画が全国のミニシアターで上映中です。朝日新聞10月7日夕刊に映画と、主人公の内藤秀之さんのことが掲載されていました。

この映画は、半世紀余り前に学生運動で頑張った方が、それまでとは違うやり方で基地反対運動に半世紀も頑張られたヒューマン・ドキュメントです。

内藤さんは、私も2、3度お会いしたことがありますが、朴訥としたお爺さんで、この人が、若い頃は学生運動の闘士、それも党派(プロ学同。プロレタリア学生同盟)の活動家だったとは思えません。若い頃にはブイブイいわせていたのでしょうか。

プロ学同は構造改革派の流れを汲む少数党派で、指導者は笠井潔さん(当時のコードネームは黒木龍思)や戸田徹さんら、かの岡留安則さん(故人。元『噂の眞相』編集長)もこの党派に所属していました。生前直接聞いています(氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』参照)。

構造改革派は、過激な闘いではなく、ゆるやかな改革を目指す勢力でしたが、学園闘争や70年安保─沖縄闘争の盛り上がりと時期を同じくして分裂し、その左派のプロ学同やフロントは新左翼に合流しラジカルになっていきました。右派は「民学同」=「日本の声」派で、その後部落解放同盟内で勢力を伸ばしていきます。

さて、69年秋は70年安保闘争の頂点で、内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって虐殺されます。

1969年11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは虐殺された

下記新聞記事では、牛飼いになったのは「友人の死だった」とし(「友人」というより”後輩”でしょう)、「デモ隊と機動隊が衝突し、糟谷さんは大けがを負って亡くなった」と客観的に他人事のように記述されていますが、この頃の闘いは、まさに生きるか死ぬかの闘いで、熾烈を極めました。学生にも機動隊にも死者が出ています。それをマスコミは「暴力学生」のせいと詰(なじ)ったことを、くだんの記事を書いた朝日の記者は知っているのでしょうか!?

2022年10月7日付朝日新聞夕刊
 
『語り継ぐ1969 ― 糟谷孝幸追悼50年 その生と死』(社会評論社)

 

その後内藤さんは、ここが私たちのような凡人と違うのは、医学生への途をきっぱり拒絶し、糟谷さんの遺志を胸に人生を懸けて基地反対闘争を貫徹するために牧場家に婿入りしたというのです。

爾来半世紀近く黙々とこれを持続してこられました。当時流行った言葉でいえば「持続する志」です。

内藤さんの営為は、日本の反戦運動や社会運動の歴史、個人の抵抗史としても特筆すべきもので記録に残すべきです。

……と思っていたところの、この映画です。

また、これに先立ち内藤さんは、後輩活動家の糟谷さんの闘いの記録を残すために奔走されました。

一緒に決戦の場に向かった後輩が志半ばにして虐殺されたことが半世紀も心の中に澱のように残っていたのでしょう。

多くの方々のご支援で、これは立派な本として完成いたしました。そうして、今回の映画となりました──。

多くのみなさんが、内藤さんが中心になって出版した糟谷さんを偲ぶ書籍と、内藤さんと一家を追った映画をお薦めします。闘争勝利!

(松岡利康)


◎[参考動画]映画『日本原 牛と人の大地』予告篇

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

あさま山荘事件から50年後に考える「連合赤軍問題の本質」〈前編〉 暴力について「深く」思考するためのシンポジウムと書籍 小林蓮実

「武装闘争や内ゲバをどのようにとらえるのか」。それは、おそらく関係者も、もちろんわたしたちにとっても、明確な答えを出しにくい問いであるのかもしれない。

2022年6月18日、「あさま山荘から50年─シンポジウム 多様な視点から考える連合赤軍」と題されたイベントが開催され、会場である目黒区中小企業センターホールに多くの人が集まった。わたしは成り行きで受付の(役に立たない)手伝いをしていたが、客層は老若男女、多様だ。

このイベントでは、大学1年生の安達晴野さんからの暴力に関する質問に対し、岩田さんは「正義が勝つのでなく、世の中は勝った者が正義をつくっている」と、ガンディーに触れたことに対し、金廣志さんは「暴力についてはいちばん悩んできた。我々は暴力をなくすための暴力と考えていた」「歴史上、システムがチェンジする時に暴力が行使されなかったことはない」「本当にそんな暴力はあるのか、いまだに解決がつかない。あなたたちも一緒に考えてほしい」と答えていた。

さらに安達さんがガンディーは非暴力・不服従を訴えたことに触れ、暴力に異論を唱える。それに対し、金さんは「ガンディーのインドが世界で最も軍事大国の1つであることを含め、我々は暴力についてもっと深く考えたい」「非戦を語り続けること以外に、どうやって未来社会がつくれるんだということが、一応、わたしの建前上の考え」と返した。これらのことが、わたしにとっては特に印象に残ったことだ。

ガンディーは非暴力で御しやすかったからイギリスが評価したという内容の、アメリカの監督が描いたドキュメンタリー映画を観たことがある。非暴力を訴え続けるだけで争いがなくなるという形に、現在、なっていない。また、日常的に暴力にさらされ、報道もなされ続けている。

戦争や暴力が身近に語られるなか50年の節目にあたり、今回の前編と次回の後編を通じ、改めて連合赤軍の問題について考えたいと思う。(以下、敬称略)

シンポジウムにて、若者からの質問に当事者が答える様子
 
椎野礼仁・著『連合赤軍事件を読む年表』(ハモニカブックス)

◆時系列で「連赤」の真実を追う

1月10日、『連合赤軍を読む年表』(椎野礼仁・著/ハモニカブックス)が発行された。本書は、長年にわたる「連合赤軍の全体像を残す会」の活動や発行媒体などをもとに、50年の節目に向け、改めて発刊されたものだ。

連合赤軍は共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘革命左派によって結成され、1971~72年に活動。革命左派は山岳ベースを脱走した2名を「処刑」し、連合赤軍としても山岳ベースではメンバー29名中12名の命を奪った。また、72年にはあさま山荘で人質をとって立てこもり、機動隊員2名、民間人1名も死にいたったのだ。

本書では、題名通り年表形式で、新左翼運動、革命左派・赤軍派、社会状況、警察・メディアの動きなどを追っている。メンバーが運動に参加するようになった背景・きっかけ、永田が川島に性的暴行を受けていたこと、永田と坂口の結婚、上赤塚交番襲撃時に警官による発砲でなくなった柴田のための救援連絡センター主催による人民葬、アジトの様子、最初の「処刑」決定に関する永田と坂口の記憶の食い違い、「処刑」に対する森の反応、森の論理や革命左派と赤軍派とのヘゲモニー争い。そんな内容から始まる。

次に、「連合赤軍の成立と『総括』」という章が立てられており、永田の女性問題への関心が批判へと結びついていく様子やセクハラ問題の対処から暴力への展開などが読みとれるのだ。また、「共産主義化」という方法論の登場、暴力に対する尾崎の感謝の言葉、その他、総括を要求される各人の反応、死亡者が出た際の周囲の反応などが、立て続けに記されている。さらに、逮捕時の永田の心境にも触れられていた。

続く「あさま山荘の10日間」の章では、坂口の、「敵から政治的主張を言えといわれたことで『政治的敗北をヒシヒシと感じざるを得なかった』」というような内面も吐露される。あさま山荘で人質にされた女性は、「銃を発砲しないで下さい! 人を殺したりしないで下さい! 私を楯にしてでも外に出て行って下さい」と叫ぶ。そして、妻を人質に取られた管理人の思いや坂東の父の自殺にも触れていた。この短い章の間にも、ドラマチックな展開を感じてしまう。

次回の後編では、続きの内容を追った後、わたしがイベントや本書を通じて考えた暴力に関する考えを伝えたい。(つづく)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『紙の爆弾』『NO NUKES voice(現・季節)』『情況』『現代の理論』『都市問題』『流砂』等、さまざまな媒体に寄稿してきた。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。取材等のご相談も、お気軽に。
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『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

《書評》『紙の爆弾』11月号 圧巻の中村敦夫インタビューと特集記事 「原罪」をデッチ上げ、「先祖解怨」という脅迫的物語を使う統一教会の実態 横山茂彦

まずは巻頭の中村敦夫のインタビュー(書き起こし)が圧巻だ。『紙の爆弾』11月号、この巻頭記事だけのために買ってもお得である。

部分的には知っていたが、中村氏は70年代から統一教会(歴史的記述なので、統一教会名で統一する)に関心を払い、テレビのワイド番組で警鐘を鳴らしてきた一人だ。ために、協会側から刑事告訴もされている(不起訴)。

中村氏は70年代の黒板講話に触れている。正確には70年代後半(78年ごろ)からだが、原理研が街頭に小さな黒板を持ち出して、共産主義の「原理」「悪魔性」を解説・批判するというものだ。もちろん漫画的な共産主義論だった。

筆者も通っていた大学のある駅前で、この黒板講話に議論を挑んだことがある。サンシモンやフーリエの社会主義思想はもとより、バブーフやマルクス、エンゲルスの一語も読んだことのない彼ら(彼女ら)は、わたしの質問に何も答えられなかったものだ。共産主義のイロハを知らない人たちが、得意そうに「解説・批判」していたわけだ。

◆宗教は基本的に「無料」である

「原罪」をデッチ上げ、先祖解怨という脅迫的物語を使う統一教会の手法を、中村氏はこう断じる。そして「信教の自由」についても説き起こす。

「現在の報道でも、『信教の自由』に絡めて話す人が多いが、私に言わせれば、これは宗教ではない。そこに信教の自由を持ち込むことは、問題に正面から取り組むのを避けるために、あえてハードルを高めているように見える」(本文より)

つまり、宗教を騙る脅迫的な商売に、信教の自由を持ち込む愚を批判しているのだ。そもそも宗教の大半は、現実社会から生じる心の不安をやわらげる役割を持っているにすぎない。

現世の不幸を嘆き、来世の幸福を祈念するのもいいだろう。ただしそれは、庶民が満足に文字を読めなかった時代とはちがい、本やビデオなどを媒介に得られるようになった現代において、ほぼ無料でなければおかしい。

高僧や導師、牧師の説教を聴くのも、大半は無料である(寺院の講話会や教会のミサ)。寺院運営のための駐車場経営や幼稚園経営、簡易な寄付やバザーなど以外に、宗教が金儲けをするのは、ほとんどすべてが詐欺なのである。※この文脈は、中村氏のものではありません(筆者)。

◆中村氏の原理的批判

さすがに中村氏は勉強家で、統一教会の教義の批判に踏み込んでいる。旧約聖書を曲解した「原理講論」がそれである。その内容が、韓国語版・英語版・日本語版で異なっている点がミソであるという。

圧倒的にキリスト教の影響がつよい韓国においては、その教義は限定的で反日的である。原罪国家とされる日本においてこそ、反共思想とむすびついて爆発的に布教が拡大したとする。その役割を果たしたのが、安倍晋三の祖父、岸信介だったのだ。

そして冷戦が終わって反共が商売にならなくなると、こんどは北朝鮮とむすびついて共和国におけるビジネス(ホテル事業)を展開する。中村氏の指摘するとおり、統一教会は思想的一貫性のある政治団体でもなく、その正体は宗教団体を装ったビジネス団体なのだ。それも会員の無償労働をもとにした、搾取と収奪、霊感詐欺商法である。ここを明確にしないと、信教の自由という隘路に迷込むことになる。
「そんな教団になびいた日本の保守政治家も、思想や政策が一致するかどうかは関係なかった」(本文より)。

ネトウヨや政治に一知半解な人々が、自民党が反日団体と手をむすぶのはおかしい。あるいは思想と政治が一致していない、などと悩んでいるのは、自民党政治を知らないからである。

剥き出しの政治の原理は「奴は敵だ。敵は殺せ」(『幻視の中の政治』埴谷雄隆)であるとともに、「敵の敵は味方」である。思想と政治が一致するなどと思っているのは、自民党右派に期待するお花畑なネトウヨレベルと指摘しておこう。

たとい思想的に正反対にある党派でも、当面の敵の前には味方というのが、自民党政治の本質なのである。そして選挙に敗れて「ただの人」にならないためには、誰とでも(暴力団や反社とでも)手をむすぶ。統一教会を積極的に取り込む。まさにこれが「選挙で圧倒的につよい」安倍政治の本質だったのだから。

最後に中村氏の推測として、安倍晋三が拉致問題の「解決」に統一教会を利用した可能性を挙げておこう。近い将来に、自民党に「切られた」統一教会側から、愕くべき真相が飛び出してくる可能性を指摘しておこう。

◆政治と宗教を議論しよう

広岡裕児の「いまこそ考える政教分離の本質」は、政治と宗教を正面から議論する必要を提起している。このテーマこそ、いま日本において煮詰めていく政治論である。

広岡氏は公明党の山口那津男代表が今回の事件を「政治と宗教一般のことに広げるべきではない」(8月1日)という言葉を冒頭にあげ、石井幹事長の記者会見(8月19日)の矛盾点を指摘する。

すなわち「国家が特定の宗教を擁護したり、国民に強制したりすることを禁じている」ことが、公明党(創価学会)において、矛盾しないのか。という論点である。

じっさいに公明党は政府(国家)に参加し、さまざまな政策を実行しているのだ。創価学会が選挙を「法戦」(宗教行為)と位置づけて戦い、その意をうけた政権与党(公明党)が支持者(創価学会=宗教団体)に有利な政策を行なうことは、まさに上記の政教分離に違反する。※広岡氏はこの部分で疑問を提起するにとどめている(筆者)。

広岡氏によれば、宗教政党には二つに分類できるという。

ドイツやフランスのキリスト教民主主義政党においては、多元主義(政治的な人権・博愛主義)を基礎に、キリスト教会が伝えようとしている価値観を推進する。社会の法が優先し、キリスト教精神はその思想的基礎にすぎないというものであろう。アメリカ大統領が聖書に手を置いて宣誓するのも、この典型である。

いっぽう、イランイスラム共和国ではイスラム教政党が政権をにぎり、アフガニスタンではタリバンが、宗教的価値観によって全体主義国家を形づくっている。だがこれは「キリスト教とイスラム教の違いではない。この二種類はどんな宗教にもある」(本文から)という。

ところで公明党においては、いまだに池田大作の「池田精神」が「社会の法」に優先すると広岡氏は指摘する。そこから「(宗教)政党が権力を掌握するにあたっては、大小新旧教義を問わず、すべての宗教を認めたうえで宗教とは距離を置かなければならない。これが政教分離の本質ではないか」と提起する。

対立宗派である日顕派を認めない創価学会(公明党)に宛てた提起だと、筆者は深読みした。まさしく、政治と宗教を本気で論じなければならない時代なのだ。

さて、その公明党の代表が大方の予想をくつがえす、山口那津男の続投(8期連続)となった。その裏側には何があったのか。大友友樹のレポートが興味ぶかい。熊野議員のセクハラ問題の隠ぺい、創価学会内の山口人気への池田会長の判断など、こちらも火種は少なくないようだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

『紙の爆弾』2022年 11月号
目次
中村敦夫が語る50年 旧統一教会「口封じ」の手法
旧統一教会問題が選挙に与えた衝撃 沖縄県知事選で白旗を上げた自公政権
メディアに“逆ギレ”する議員たち 旧統一教会信者たちが語った自民党議員への怒り
特集●すでに進んだ日本の「戦時体制」
「防衛費」を積み上げてつくる「基地の島」
法律からみた安倍・菅・岸田の戦争準備
米国覇権を超克する「真の安全保障」
東京五輪汚職捜査はどこまで進展 自壊する岸田文雄政権
政党交付金の要件を満たしているのか 統一協会より「自民党の解散」こそ急務
巨大製薬企業に国家予算流出 政府に阻害された「日本製ワクチン」
「政治と宗教」問題の防波堤 公明党・山口那津男代表続投の裏側
「政治と宗教」そして民主主義 いまこそ考える「政教分離」の本質
スウェーデンの新聞が報じた米国の「ドイツ・EU弱体化のためのウクライナ戦争」謀略
「女性蔑視」でトヨタにも古傷が 香川照之“性加害”騒動の波紋
シリーズ 日本の冤罪31 飯塚事件
連載
あの人の家
NEWS レスQ
コイツらのゼニ儲け 西田健
「格差」を読む 中川淳一郎
ニュースノワール 岡本萬尋
シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
キラメキ★東京漂流記 村田らむ
裏から世界を見てみよう マッド・アマノ
権力者たちのバトルロイヤル 西本頑司
元公安・現イスラム教徒 西道弘はこう考える
まけへんで!! 今月の西宮冷蔵
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《書評》星野陽平『CIA陰謀論の真相──元エージェントが明かす米情報機関対日工作の全貌』 陰謀は実体なのか、それとも関係性の産物なのか[評者]横山茂彦

 
星野陽平の最新刊『CIA陰謀論の真相 ── 元エージェントが明かす米情報機関対日工作の全貌』

◆実体と関係の深い闇

表題にあげた星野陽平の労作を批評するまえに、実体(組織の存在)と相対(人間の諸関係)、および歴史観について前提的な議論を提起しよう。

いま評判の哲学書がある。かつて『恋愛論』で一世を風靡した竹田青嗣の『新・哲学入門』(講談社現代新書)である。冒頭から引用して、その問題意識をつかんでおこう。

「哲学の本義は普遍認識を目がける普遍洞察にある。だが、現代哲学では、稀な例外を除いて、哲学の根本方法を否定する相対主義哲学がその舞台を席巻してきた。」

「普遍認識の否定、これが相対主義哲学の旗印である。それは現代の流行しそうだったが、現代哲学の最大の病でもあった。」

「いまわれわれは、哲学の概念と像を根本的に刷新しなければならず、そのため、根本的に新しい哲学を必要としている。」「現代哲学には、独断論と相対主義の方法だけが残された。」

要するに普遍的存在をテーマにすべき哲学が、実体的な存在の解明を回避しているという、現代哲学への批判がその問題意識である。それでは、竹田が批判する「相対主義」とは何なのだろうか? われわれはデカルトの主体・客体という、近代的な図式への批判に立ち返って、相対主義を解き明かしておくべきであろう。

「われ、見るゆえにわれあり」がデカルトの存在論である。客体を見る「わたし」は、見るという行為において存在する。ここにすでに、近代的な相対主義がひそんでいる(客体によって存在が反証される)のを、われわれは感得する。しかしながら、それでは客体を認識する主体とは、何に由来するものなのか。絶対的な主体? そんなものは立証不可能である。

現代哲学の出発点は、じつにこれなのである。フッサールの共同主観性、メルロ・ポンティの間身体性、ハーバマスのコミュニケーション論、等々。

実体(モノ)と関係(コト)。絶対存在から相対的な関係性へ。これが現代哲学のテーマであった。典型的な論攷に、現代マルクス主義哲学の大家・廣松渉の哲学入門書を挙げておこう。奇しくも同じ版元の新書である。その煽りにはこうある。

「〈実体(モノ)〉的三項図式にかわり、現相世界を網のように織りなす〈関係(コト)〉的存立構制、その結節としてたち顕れる『私』とは、どのようなものか?量子論からイタリアの戯曲まで、多彩なモデルで素描する、現代哲学の真髄!」『哲学入門一歩前──モノからコトヘ』(講談社現代新書)。

実体と関係は、こうして概念として対立するようにみえる。少なくとも哲学者たちの世界では──。

実体論と関係論の相克はしかし、現実の社会関係(人間関係)を分析するうえで、相互に協力しあい、世界を認識する者(私)の中で、縦横に役立つはずだ。

なぜならば、われわれは現実存在としての実体(個別の存在)と関係性(社会的諸関係)に分裂させられながらも、ひとつの人格としてつねに統一されているからだ。それをどう評するかは、哲学者の恣意性であって、思想の趣味にすぎない。

◆個人的な体験であるところが凄い

哲学論の前置きが長くなった。いよいよ星野陽平の大著の分析に入ろう。

実体として、星野によればCIAの陰謀は現実に存在するが、その分析方法はじつに相対的である。なぜならば、方法論として星野が採用しているのが一般にジャーナリストが向き合う、自分の体験をもとにしているからだ。

自分の周囲の人間関係、それは星野の場合は芸能界をめぐる、さまざまな「動力(欲望)」を媒介にしているがゆえに、個人的でありながら「普遍」的である。たぶん彼でなくても体験できるが、彼においていっそう深刻な陰謀として立ち顕われるのだ。これはジャーナリストとしての星野の嗅覚・才能であろう。

星野がCIAの陰謀と向かい合うことになったのは、彼の『芸能人はなぜ干されるのか』であった。芸能界に張り巡らされた陰謀(干す)は、強大な芸能プロの存在がなさしめる陰謀であり、その背後には黒幕として暴力団の存在、それと争闘するCIAの存在が見え隠れする。

われわれを惹き込むのは、凡百の批評家や芸能評論家が外在的に論評するのではなく、すべて星野の実体験をもとにしていることだ。そこに「妄想」や「推論」があるのは言うまでもないが、ほかには代えがたい「実感」がある。時には相手と喧嘩をし、その修復にあたっては意図をさぐる。まさにドラマチックである。

しかも、その大半がSNSを媒介にしていることが、評者(横山)のような旧世代には目からウロコが落ちるというか、呆れるというか……。日々のSNSのメッセージを読み取る「能力」には、とてもついていけない。

◆陰謀史観の愉しみ

ロシア革命がユダヤ資本の陰謀であり、レーニンをはじめとするボリシェビキ幹部の大半はユダヤ人だった。この陰謀史観は事実でありながら、ロシアの労働者農民の歴史的偉業(革命的大衆行動)ゆえに、ロシア革命史研究から除外されてきた。

ユダヤの陰謀論はやがて、ディープステート論として「結実」する。すなわち、ユダヤ資本による連邦準備銀行の独占が歴代のアメリカ大統領(政権)をあやつり、世界支配の野望を計画に上せているというものだ。それもコミンテルン(死後)勢力と結びつき、国家外の国家が世界を支配していると。ほとんどは妄想だが、世界を解説する与件としては面白い。

星野のCIA陰謀論の源流は、占領下日本(東京租界)から出発する。渡辺プロ誕生の秘密、および国鉄下山・松川事件の謀略性。岸信介・佐藤栄作・安倍晋三にいたる政治家のCIA人脈。もちろんCIAコードを持つ正力松太郎まで、源流をさかのぼる。黒幕たちの戦後史をたどりながら、これは新しい世代によるひとつの戦後史だなと、松本清張いらいの謀略史観に酔う。

ところで、陰謀史観はその本質が陰謀であるがゆえに、陰謀の本当の実体には迫れない。関係性(人間関係・社会的諸関係)という実体をもとに、推論するしかないのである。それゆえに、歴史観の強靭さがもとめられる。それを妄想力というべきか、信念(妄念)というべきかは知らない。

◆歴史観の闇

ひとつだけ、特定の史観が強靭な構造をもっていることを、最後に述べておこう。マルクス主義的な「史的唯物論」は、歴史のすべてが「階級闘争の歴史である」(マルクス『党宣言』)から出発する。すべてが階級闘争の反映であるのだから、原因をそこにもとめれば説明がつく。

歴史観としてともかく、その「壮大な物語」(フランシス・フクヤマ)が歴史的には虚構だったことが、今日では明らかになっている。共産主義社会はおろか、その初期である社会主義すら実現できず、その多くが帝国主義的専制国家(独裁社会)となった。人間のはばひろい生活を包摂するには、政治革命論では無理があったともいえよう。

もうひとつ例に挙げておきたいのは、マルクス主義ほどは流行しなかったが、日本史における「先住・渡来」史観である。作家の矢切止夫が典型の歴史観で、日本史の戦乱・政変はすべて先住民系の氏族と渡来民の闘いであったというものだ。

日本史のどこを切り取っても、先住民系と渡来民系の争いがあり、その時々にどちらかが優勢であると。開国派(海外貿易派=蘇我氏・大和奈良王朝・平氏政権・室町幕府)と鎖国派(物部氏・平安政権・源氏政権・江戸幕府)という具合に、日本史はピッタリと合致するのだ。ある意味で、日本の外交史の本質を解いている。

これらを「争闘史観」と呼べば、マルクス主義の「階級闘争史観」との近似性がよくわかるが、もちろん別ものである。

世界史的な陰謀を成しているのは、ユダヤ資本やCIAだけではなく、アメリカだけでも全米民主化連盟など多数ある。ここから先は、星野陽平にCIAにとどまらない、世界史的陰謀組織の実態究明を期待したいものだ。

なお、筆者(横山)は星野が学生時代からライターを志していた時期に出会い、その後の歩みは知らなかったが、為替論や市場論をへて芸能取材に転じてきたこと。その旺盛な取材力と筆力(筆量)に感服している。本書の中にもその軌跡は触れられているが、フリーランスとしての苦闘やバイタリティに賛辞を贈りたい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

星野陽平の最新刊『CIA陰謀論の真相 ── 元エージェントが明かす米情報機関対日工作の全貌』

《書評》『紙の爆弾』10月号 元総理は誰に殺されたのか 安倍晋三事件の真相 横山茂彦

興味をそそられるのは、安倍元総理殺害事件の「真相」である。山上徹也容疑者ではなく、ほかにスナイパーがいた! というのである。

殺害の黒幕は誰か? 殺害が組織的な犯行だとして、どのような勢力が背後にいるのか? 事件はケネディ暗殺事件なみの疑惑を生じさせている。

というのも、不可解な銃撃音(サイレンサー付き?)が入っている動画(YouTube)が、なぜか閲覧禁止になったからだ。もう読んでいて興奮、ドキドキワクワクである。このドキドキ感は本誌をめくって愉しんで欲しいが、キーワードをいくつか紹介しておこう。

◆二発の銃撃のあいだに「ピュッ」という音が!

事件の謎への糸口を教えてくれるのは、片岡亮の「防衛庁が極秘捜査していた安倍暗殺に残された謎を追う」である。

山上容疑者が海上自衛隊出身ということで、防衛庁は事件当初から捜査に乗り出していたようだ。片岡の記事によると、軍事ジャーナリストの事務所に在籍していたフリーライターの証言として、防衛庁の捜査に協力した詳細が明らかになっている。

またSNSで話題になった動画に、不可解な点があるという。二度目の発砲の前に、安倍元総理の襟が不自然になびいているというのだ。

そして山上容疑者が放った一発目と二発目のあいだに「ピュッ」という音が入っているという。ようするに、第三の銃弾が安倍を襲ったのではないか。安倍の遺体から弾丸が摘出されなかった(警察・執刀医発表)のは、マスコミ報道で明らかになっている。消えた銃弾はどこに行ったのだ? ※安倍の心臓壁をえぐり、外に出た説が有力。

さらに、なぜか8月になると、防衛庁は「これ以上の分析はしないことになった」と、フリーライターに通告してきたのだ。それも「なるべく憶測でモノを言わないでほしい」と釘を刺したという。

いっぽうで、現場近くのビル屋上に「黒人に見える」人影があり、白いテントが確認されたという(タレントのさかきゆい)。本当に散弾銃だったのか? と疑問を呈するのは、マッド・アマノ(世界を裏から見てみよう)である。

アマノはYouTubeやSNSで検証されている疑惑(仮説)について、想像画像付きで解説する。

その仮説では「別の二人の人物」が放った弾は、22ロングライフル銃から撃たれたものだという。問題は役30メートルから狙って、みごとに貫通させた(弾丸が見つかっていない)のである。そんな手腕の持主は、オリンピックのクレー射撃選手だった麻生太郎ではないか、とアマノはいう。したがって、麻生の見解をもとめる必要があると、アマノは主張するのだ。得心させられた(笑)。

◆安倍殺害に暗躍した組織とは?

それでは、どんな組織が安倍殺害に暗躍したのだろうか? 山上容疑者の狙撃を前提(予測=殺害計画の囮)にしながら、なおかつ銃弾が安倍の体内から発見されない犯行(完全犯罪)を可能にする組織とは──。

片岡亮は、安倍が7月30日に台湾を訪れる予定(李登輝総統の命日)があったことから、中国当局の関与を可能性に挙げているが、西本頑司「権力者たちのバトルロイヤル──誰が安倍晋三を殺したのか」は、そうではないという。

西本はまず、CIAの謀略で排除された中川一郎・中川昭一親子を例に挙げ、あまりにも出来過ぎた安倍殺害の背後関係を解説する。

安倍の死後、約一カ月で行なわれたトランプ元大統領への「国家機密漏洩」疑惑捜査が、なぞを解くカギであるという。そう、安倍とトランプがともに親プーチンであり、金正恩を水面下で工作できる存在であること。

大統領当選時、メディアのトランプバッシングに対して、端無くもトランプが発した言葉「クリミナル・ディープステート(DS)」こそが、それを言い当てているというのだ。したがって安倍元総理はDSによって、裏切り者として血祭りに上げられたことになる。安倍の弔問にヌーランド女史(影の参謀総長)が訪れたとき、岸田総理は震えあがったのではないかと、アマノさん。どうです、ドキドキしてきたでしょ。

◆統一教会問題と安倍国葬

統一教会問題の論点としては、「反セクト法」制定について、フランス在住の広岡裕児が、これにたいする宗教学者の反発を批判している。

「反セクト法」は、その対象が一般宗徒におよぶこと、信教の自由を侵害するのではないかとの批判がある。橋下徹が批判の論陣を張ったことでも知られるようになった。

フランス(アブー・ピカール法=反セクト法)でも刑事事犯への適用は少ないという。アメリカでも憲法修正第一条における「信教上の自由を侵してはならない」によって、カルト対策の州法が実現に至っていない。

フランス法の条文を読む限り、かなり危険な法律であることは間違いない。

①法的形態を問わず
②その活動に参加する人の心理または肉体的服従を創造したりすることを目的または効果とするあらゆる法人で
③法人そのものまたはその法的あるいは実質的指導者が以下の一つまたは複数の犯罪について、複数の確定有罪判決を受けた(以下には、刑法・医療・薬事法・不当虚偽広告規制など)。

つまり、③の構成要件(指導メンバーの犯罪)があれば「カルト」と規定し、規制できるというのだ。かぎりなく権力(政権および捜査当局)のデッチ上げを誘発しかねない条文だといえよう。

民事裁判手続きが必要とされているが、指定暴力団の規制が、当事者の抗弁権をほとんど認めていない(聴き取るが、ことごとく却下)現状では、権力の恣意性にまかされることになる。政治団体にたいする破壊活動防止法(新左翼党派の指導者・オウムにのみ適用)とほぼ同じ内容のものが、宗教団体に適用されることになるのだ。

むしろ大山友樹がレポート「政治と宗教・癒着の裏に2つの事件」で明らかにしているとおり、宗教団体への税務調査や宗教指導者への証人喚問(いずれも創価学会を震え上がらせ、公明党の与党参加の一因となった)など、政治と宗教の問題を国民的な議論として行くほうが効果的であろう。

宗教法人は事業収入こそ課税されているが、最大のメリットは寄付金と固定資産税の免税である。そこへの課税は政治議論としても行なわれて来なかったが、宗教法人としての許認可は、宗派としての死活問題である。この議論をやろうではないか。政治と宗教、宗教と国民生活というテーマは、まともになされて来なかったのだから。

末尾になったが、安倍国葬問題にも的確なレポートが掲載されていることを付加しておきたい。秋の訪れとともに、時代への視点を刮目させる、紙爆の購読をよろしく。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

党綱領を自ら否定した自民党は即時解散せよ 岸田内閣改造人事の真相 月刊『紙の爆弾』2022年10月号

《書評》「紙の爆弾」9月号 旧統一教会と自民党の深い闇 横山茂彦

従来は、政局をふくむ政治情勢と社会問題全般に目配りした「紙の爆弾」が、とくに「【特集】自民党を支える『宗教』」を押し出しているところに注目したい。

すなわち、特集メインの「旧統一教会問題と安倍政権」(鈴木エイト)「創価学会と岸・安倍家」(大山友樹)「カルトに浸食された右派と神社界」(青山みつお)

そのほかに浅野健一の「安倍暗殺事件のマスコミ報道の犯罪」山田厚俊の「安倍後の岸田文雄と自民党」横田一「銃撃事件が参院選挙に与えた影響」青木泰「山上容疑者を誰が利用したのか」など。

マッド・アマノの連載も「安倍晋三狙撃事件の真相」で、事件が事前に知らされていたかのような新聞見出しに疑義を呈する(記事の内容は、過去のパロディ画像に対する安倍事務所の抗議)。そして佐藤雅彦の連載「偽史倭人伝」は「追討・安倍晋三」だ。いずれにしても、世紀の大事件をうけた特集は圧巻だ。

事件の本質は、やはり安倍晋三の教会利用にあった

なかでも、トップ記事の鈴木エイトの記事に注目した。事件の総合的な評価として、馘首できるものがある。これを読んでおけば、事件の本質と今後の課題(カルト対策の重要性)がわかるはずだ。

その鈴木エイト(やや日刊カルト新聞主筆)は、ワイド番組でも知られるようになった。とくに旧統一教会の被害者をサポートし、被害を減らすために活動するスタンスが評価されているジャーナリストだ。あまり自分を押し出すタイプではない、控え目でありながら丁寧なところも好感をもたらす。いっそうの活躍に期待したい。

さて、今回の事件に政治的な背景が皆無であることは明白だが、山上容疑者の犯行はしかし、きわめて「政治的」であるといえよう。なぜならば、事件によって引き起こされる政治的な波乱が、本人にも想像できないほど大きかったからだ。それは鈴木エイトが指摘した、つぎの一文に集約されている。

「教団への憤りが安倍氏へ転嫁されたという文字通りの『逆恨み』などではなく、冷静にどうすれば教団に最もダメージを与えることができるかを考えたうえでの凶行だったとわかる」

その効果を山上が想像しえないほどの結果、まさに旧統一教会にとって致命的な打撃になる犯行となったのだ。それにしても、鈴木が緻密に調べ上げた安倍晋三の教会シンパぶりはすさまじい。犯行がもたらした民主主義に対する破壊の大きさ、安倍氏の災難への同情・憐憫は別としても、やはり自業自得と言いたくなるものだ。

※誤植を指摘=8頁上段1行目の「凶弾」は、正しくは「教団」。自分が編集する雑誌の誤植を必ず発行後に気づくように、他雑誌の誤植にもよく気づく(笑)。真剣に読ませる記事だからだろう。

◆危機にある日本人の宗教生活

この通信でも、今後は政教分離および日本人の宗教をテーマにしていきたいと考えている。80年代・90年代から、統一教会やオウムをはじめとする新興宗教の影響力が社会をゆるがし、だが確実に日本人の精神生活に浸透しているからだ。その大きな理由は、政教分離(これが特異なものであるのは、前回の記事で指摘した)をもたらした天皇制権力の弊害、明治政府の廃仏毀釈による仏教弾圧にある。

「政教分離とはどのような意味なのか? ── 安倍晋三襲撃事件にみる国家と宗教」2022年8月5日 

いわば無宗教状態にされた、われわれ日本人の心の隙を衝くように、カルトはしのび寄るのだ。

そしてカルトは政治との結びつきを通じて、日本社会に定着していく。政治の側もまた、宗教団体を集票マシーンとして活用し、そこにカルトの活躍の場をひらいてきた。その点を、創価学会と岸・安倍家の癒着としてレポートしたのが、上で紹介した大山友樹の記事である。

青山みつおの「カルトに浸食された右派と神社界」も、宗教と政治の結びつきをレポートしたものだが、政局(衆院山口四区)との関係で読ませる記事だ。林芳正外相と安倍晋三のライバル関係に、黒幕として岸田・麻生をからめた構図は唸らせる。

◆事件の真相は、まだ明らかになっていない

政治的な論評記事になりがちな特集の中で、事件の真相解明そのものを提起しているのが、青木泰の「山上容疑者を誰が利用したのか」である。

青木はゴルゴ13(さいとう・たかおプロ作品)を例証に「銃をつくるバックアップ体制なくして、山上容疑者に暗殺を試みることは可能だったのか。まず浮かんだ大きな疑問点」とする。選挙の前に起きる重大事件の数々。青木が疑問を感じる背後関係については、じっさいにお読みいただきたい。背後関係は本当にあるのだろうか。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

旧統一教会問題と安倍晋三暗殺 タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年9月号

《書評》『紙の爆弾』8月号 心療内科の闇をあばく野田正彰の「大阪心療内科放火事件に思う」 横山茂彦

野田正彰の記事「大阪心療内科放火事件に思う」に注目だ。事件そのものではなく、心療内科というよくわからない精神科についての疑問である。心療内科放火事件の背後には、拡大自殺にいたる人間の世界観(存在観)が横たわり、自殺による世界の消滅が自分をとりまく世界を道連れにする。このような構図が鮮やかに解説されている。

記事それ自体は朝日新聞のウェブ論座向けに書いたものを、直前で没にされたものだ。

それらの経緯については、別記事の「野田正彰論考を朝日新聞『掲載見送り』の裏側──『心療内科』はマスコミダブー」(浅野健一)を読んでいただきたい。

◆病は気から

さて、一流の書き手ならではの明解な文章で、その秀逸な問題意識は読んでいただくとして、わたし自身が得心したことを述べておこう。

野田さんは心療の診療行為に、一時間半をかけるという。じっくりと患者の話を訊き、鬱症状の因子をさぐりあてる。患者もその因子に気づき、対応できる行動(職場替えなど)で解決するという。鬱病と呼ばれるものの大半は、心理的な因子、環境によるものなのだ。薬で治ると考える医師たちによって、患者は薬漬けの「ジャンキー」にされるのだと。

『紙の爆弾』2022年8月号より

野田さんの記事中には村西とおるさん(映画監督)の薬漬け体験記の抄録があり、とても参考になる。

わたしの場合は鬱ではないが、神経性胃炎みたいな症状が「持病」である。いずれは胃がんで死ぬなと思っているが、症状が出る時はH2ブロッカーのお世話になる。小学校低学年のころ寄宿学校に通っていたことがあり、月曜日の登校日(寄宿学校への出発)の朝になると、行きたくないから胃がキリキリと痛む。母が「じゃあ、今日は休んで明日になさい」で、ピタリと嘘のように胃痛が治るのだった。

長じて仕事の責任がかかってくるようになると、しばしば胃痛に悩まされたが、40代のころに初めて胃カメラを体験。十二指腸潰瘍の痕跡がある(つまり知らないうちに治癒している)ことを告げられた。薬によるピロリ菌の除去をへて安堵したが、しかし十二指腸潰瘍は再発した。

ちょうど「情況」の編集長を引き受け、某元総理大臣(こう書けば誰だかわかる)のインタビューの前日のことだった。その前日には東大阪に某元政治家の大物弁護士(こう書けば誰だかわかる)の親族の取材をして、河内方面の人々の手荒い歓迎(大きな声、タバコと酒)で神経が参っていたのかもしれない。ようするに、やや苦痛な取材だったのだ。

診察の結果、すぐに入院ということになったわけだが、そこで医師と論争をするという、とんでも患者を演じてしまったものだ。明日は大事な仕事があるので、入院なんて絶対にできない、というわけだ。

前日までの疲労、翌日のコーディネーターとしての責任感から、十二指腸が出血していることが判明。抵抗むなしく、人生で初めての入院となったものだ。入院生活4日で味気ない食事とはお別れしたが、やがて収入の半分近くが年金生活となり、編集長も辞した安穏な現在も、ときどきその気が訪れる。

論争や創造的なことだとアドレナリンが出て活力を感じるし、遠距離のサイクリングでβエンドルフィン(快楽物質)を体感することはあるが、嫌なことや大儀なことを前にすると──。今後は野田さんの記事を参考に、自分との対話をくり返しながら、おだやかに生きていこうと思うこのごろだ。

◆台湾有事について

5月号につづいて、天木直人さんと木村三浩さんの対談が掲載されている。「台湾有事の米国戦略と沖縄の可能性」である。ウクライナ戦争の原因については、両氏と意見を異にするが、熱のこもった対談には元気をいただいた。

お二人によると、沖縄が反戦の声をあげることで東アジアの危機(台湾をめぐる米中戦争、およびそれに巻き込まれる日本)は回避できるというものだ。日本の平和を沖縄に押しつけるような疑問は残るが、それ自体としては慧眼である。沖縄は命を宝として、日米の基地押しつけに耐えてきた。われわれヤマトンチュが、辺野古をはじめとする米軍基地の撤去に何ができるのか。そのことを抜きに沖縄の可能性は問えないであろう。

いっぽうで、ウクライナ戦争が反戦平和一般では解決できないことを、この4カ月余は厳しくも知らしめて来た。かつて日本は朝鮮半島の戦争で焼け太り、いままた台湾危機に逢着しようとしている。外交による解決が最優先であるにしても、戦争は外交が破綻したあとに起きるものであって、勃発した戦争は戦争でしか止められない。

朝鮮戦争のとき、共産党をはじめとする革命勢力は武装闘争で「戦争を内乱へ」(レーニン)を実行し、壊滅的な弾圧をうけた。その方針は、朝鮮動乱で大量の避難民が日本に流れ込む、その混乱と政治危機をとらえて革命情勢を創出するといったものだった。中朝共産主義勢力の、いわゆる「第5列」として内乱を実行する。帝国主義戦争を終局させるのは、社会主義革命しかないと。こうした議論はいまや日本の左翼にはない。

木村さんのように対米自立・自主防衛を唱える場合も、平和一般ではなく国防という問題は避けられない。共産主義のコミューン原則であれば、現在のウクライナが採っているように、18歳以上60歳未満の男性は国内にとどまり、郷土を防衛しなければならない。さて、台湾有事にさいして、われわれは何を議論するべきなのか。テーマは鮮明だが、議論の軸心があやうい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年8月号