ちあきなおみと言えば、もはや伝説的な歌手だ。1978年、郷鍈治との結婚を機に芸能界の第一線から退き、92年に郷と死別すると、引退状態となってしまった。

ちあきは1947年に東京都板橋区で生まれた。10代のうちは米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーなどを回って歌を歌う下積み生活を送ったが、69年、21歳の時に『雨に濡れた慕情』で日本コロムビアからデビューした。

72年、代表作の『喝采』でレコード大賞を受賞し、歌手としての最高の栄誉に浴したが、次第に芸能界での居場所を失っていった。

1972年日本レコード大賞に輝いた「喝采」は昭和歌謡の名曲

◆捏造スキャンダルの嵐で芸能活動から遠ざかる

75年6月、ちあきはそれまで所属していた三好プロから独立し、交際していた郷鍈治が俳優業を廃業して、ちあきの個人事務所の社長に就任した。三好プロとは、以前からギャラなどで揉めていたという。ちあきが13歳の頃からマネージャーを務めた、三好プロの吉田尚人社長は、ちあきとにしきのあきらと熱愛し、何度も中絶したことなど、でっち上げを含めた過去のスキャンダルを暴露し、ちあきにダメージを与えた。

ちあきとコロムビアの関係悪化は、ニューミュージック路線を行きたいちあきと演歌路線で売り出したいコロムビアの間で衝突から始まり、77年春ごろには、ちあきが担当プロデューサーを更迭するよう主張するという事件が起きた。

そして78年4月28日、ちあきは郷と二人だけで東京、目黒の氷川神社に参拝し、その足で目黒区役所に入籍届を提出して、結婚した。結婚の事実は5月に入ってから報じら、ちあきは結婚の発表をしたが、コロムビアは入籍の事実も結婚の発表も事前に知らされていなかった。

さらにちあきは、結婚発表の記者会見の席上、コロムビアと再契約する意志がなく、1年間の休養に入ること宣言した。7月、メンツを潰された格好のコロムビア側は「私どもとしては、歌手を断念したと判断せざるをえなかったわけです」として、ちあきに契約解除を申し渡した。

◆レコード業界の自主規制?──カムバック作は発売直前にお蔵入り

7月末、ちあきと郷は港区南麻布に喫茶店を開き、しばらく芸能活動から遠ざかったものの、カムバックの機会を窺っていた。新しいレコード会社と交渉をしていたとも伝えられたが、話はなかなかまとまらなかった。

これについて、『週刊朝日』(78年9月8日号)は、「このほど、所属のコロムビアレコードから、契約の『解除』を申し渡され、おまけにレコード業界の暗黙の協定とかで、当分は他社での吹き込みも困難。歌手生命までが危ぶまれている」とし、また、『女性自身』78年8月24日・31日合併号)は、「コロムビアが先手を打って解約書を発送したのは、“うちは、ちあきなおみを切ったんだ”という姿勢を明らかにして、ほかのレコード会社を牽制したんだと思う。これで、ほかのレコード会社は、ちあきなおみと契約しにくくなった」という関係者の声を紹介している。

80年には、映画『象物語』(東宝東和)のテーマソングとして、ちあきの『アフリカのテーマ・風の大地の子守唄』『アフリカン・ナイト』の2曲が採用され、CBSソニーから2月25日に発売される予定になっていた。

当時の報道によれば、ソニーはちあき起用を決めた際、夫の郷に対するアレルギーがあるとか、ちあきと郷が別居状態になったといった報道もあったが、業界全体でちあきと郷を離婚させようという動きでもあったのだろうか。

だが、結局、カムバック作は発売直前になってお蔵入りとなり、映画ではちあきが歌っているにも関わらず、レコードは黛ジュンが代役として吹き込んだものが発売されるという異常な事態となった。さらに発売されたレコードは、制作現場の混乱により、初回プレス7万枚のうち5千枚が「A面・黛/B面・ちあき」というミスが発生し、回収騒ぎまで起きるというおまけまで付いた。この騒動について、マスコミでは「ソニーがコロムビアに遠慮した」と囁かれた。

◆芸能界に幻滅した伝説歌手の隠棲

その後、ちあきは女優として芸能界に復帰し、歌もビクター、テイチクから何曲かリリースしたが、92年に郷が死去すると、芸能活動を完全に休止した。

ちあきなおみは、どうして芸能界から去ってしまったのか。『週刊文春』(2011年10月6日号)で、元音楽関係者は次のように指摘している。

「当時、ちあきが個人事務所だから“横取りされた”というキナ臭い話が出た。それを耳にしたちあきは、『芸能界はこんなに汚い世界なの』と泣き叫んだという。そこで芸能界そのものに幻滅したのが、隠棲の遠因でしょう。夫の死後は、芸能界の人と話をする気もなくなったという話です」

郷が死んで以来、都心にある郷の墓を喪服を着て訪れる、ちあきの姿がたびたび目撃されているが、マスコミの取材には一切応じようとしない。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

「紅白」出場歌手をめぐるNHKと“芸能界のドン”癒着の構図など注目記事満載の『紙の爆弾』最新号!

 

拙著『芸能人はなぜ干されるのか?』では、日本の芸能界の腐敗の象徴として日本レコード大賞を採り上げている。

レコード大賞は、1959年に始まってほどなくして、賞を獲った歌手のレコードの売上が伸びることが分かって審査員の買収の噂が囁かれるようになり、80年代になると工作資金を抑えるため談合が横行し、2005年には審査委員長が変死するという異常事態まで起きた。

◆ラジオDJ=アラン・フリードのペイオラ・スキャンダル

だが、アメリカの音楽業界もかつては同じような問題があった。ヒット曲をお金で買う「ペイオラ」と呼ばれる悪しき慣習だ。

ペイオラというと、アラン・フリードとともに語られることが多い。アラン・フリードは、50年代に人気を博し、アメリカでもっとも有名だったラジオDJで、「ロックンロール」という言葉をアメリカに広め、その普及に大きな貢献をした人物として知られるが、晩年はペイオラのスキャンダルでもみくちゃにされた。

◎Alan Freed’s Go Johnny Go trailer (1959)

ペイオラとは、支払いの意味の「pay」とRCAビクターが販売していたレコードプレイヤー「ビクトローラ(Victrola)」を掛け合わせた合成語で、レコード会社がDJにリベートを払い、その見返りとして番組でそのレコードをオンエアしてもらう賄賂のことだ。もともと、ラジオDJは生活が不安定で賃金も低かったために、ペイオラに頼っていたが、50年代になると業界中に蔓延し、DJにカネを握らせなければ、レコードはオンエアされないという状況にまで陥っていた。

インターネットのない当時、メディアはレコード業界で絶大な権力を持っていた。そして、選曲の権限を握るDJたちに、レコード会社のプロモーション担当者が群がった。

それを象徴するのが59年5月にフロリダ州バルハーバーのアメリカーナ・ホテルで開催さたディスクジョッキー・コンベンションという大会である。

大会は50社近くのレコード会社が協賛し、アメリカ中から2500人ものDJが招待され、4日間にわたって24時間、レセプションやパーティー、コンサート、ハバナへの旅行を賭けたゲームなどがすべて無料で提供される大盤振る舞いが行なわれた。

会場に着いたDJには、RCAから100万ドルの疑似通貨が「遊興費」として手渡され、それを元手にギャンブルをすることができた。その疑似通貨と引き替えにステレオセットやカラーテレビ、洋服、ヨーロッパ旅行のチケット、高級車などが提供された。そればかりではなく、会場となったホテルでは、マリファナや多数の売春婦が溢れ、文字通り、酒池肉林の観を呈していた。

だが、ヒットチャートをカネで操作するペイオラは、アンフェアで非アメリカ的であるとして、世間から非難を浴び、58年、下院議会はペイオラを違法とする法律を制定した。

1960年5月19日、アラン・フリードは収賄の疑いで逮捕された。その後、アラン・フリードを含む多くの有名DJが公聴会に召喚され、数十年にわたって業界でペイオラが浸透していた事実が明るみに出た。62年、アラン・フリードには、罰金と執行猶予付きの実刑判決が下され、業界から追放されてしまった。経済的にも困窮したアラン・フリードは、アルコール依存症となり、65年、肝硬変などを患い、43歳という若さで死んだ。

とはいえ、この一連のスキャンダルでペイオラが完全になくなったわけではない。レコード会社が独立系のプロモーション会社と提携し、そのプロモーション会社がラジオ局に賄賂を渡せば違法とは認定されないという抜け道があったからだ。

だが、2000年代に入ると、この抜け道も問題視されるようになり、連邦通信委員会(FCC)は違法性を認定。大手のレコード会社やラジオ局が次々と、司法当局によって告訴され、ぞれぞれ巨額の罰金を支払わされた。

◆日本レコード大賞──事務所間のパワーゲーム

翻って日本の芸能界はどうだろうか?

その年のもっとも優れた楽曲に与えられることになっている日本レコード大賞は、1964年の第6回目から「黒い霧」と呼ばれるスキャンダルが持ち上がって以降、何も変わっていない。

今年もライジングプロダクション所属の西内まりあが8月にCDデビューすると、その直後にレコード大賞の最優秀新人賞に内定したと報じられた。実力は未知数のほぼ無名の新人だが、ライジングプロでは安室奈美恵の独立騒動が持ち上がっており、安室の後継者として西内を育成したいという強い意向があるという。

日本の芸能界には「実力主義」という言葉はない。そこで繰り広げられているのは、事務所間のパワーゲームでしかないのである。

▼星野陽平
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』絶賛発売中!

 

「芸能界の暴力汚染」は、日本だけに見られる現象ではない。エンターテインメントの本場であるアメリカもかつては暴力が跋扈していた。

フランク・シナトラがイタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかったし、ジミ・ヘンドリックスは暴力に怯えての演奏を余儀なくされた。

Jimi Hendrix "Electric Ladyland"(1968年)

1960年代末、世界でもっとも有名な黒人ミュージシャンとなっていたジミには、人種を理由に多くの団体が関係を持ちたがっていた。その中には黒人民族主義運動を急進的に展開していたブラックパンサーも、マフィアもジミに接触しようとしていた。

ジミは黒人でありながら、ファンのほとんどが白人であり、同胞の黒人社会では今ひとつ受け入れられなかった。また、黒人系の団体から「ジミは黒人社会に借りがある」と主張した。

◆ジミヘンを銃口で脅し演奏させたハーレムのギャング団

1969年夏、ニューヨークの黒人街、ハーレムのギャング団が、ジミを脅迫して演奏をさせようと企て、ジミの承諾も得ないで勝手にコンサートを企画して、そのポスターを街中に貼っていた。

ある時、ジミがこのポスターを街で見かけると、コンサートの主催者のひとりであるギャングが仲間とともに現れ、銃を持ち出し、銃口をジミに突きつけた。

これがきっかけとなり、ジミは黒人仲間から「自分からハーレムでのコンサートに出演しなければ、無理強いされることになる」と説得され、ハーレムでのコンサートへの出演を決めた。このコンサートは入場無料だったため、出演料も出ず、結局、レコード会社が寄付金を出してジミのギャラをまかなうことになった。

翌年の夏のツアーでも、多くの黒人系の過激な政治団体が「暴動を起こされたくなければ売上を引き渡せ」と要求してきた。主催者側は団体に寄付をしたが、結局、何千人もの抗議者たちが入場料を支払わずに会場になだれ込んだ。

◆マネージャー=マイケル・ジェフリーが強いた奴隷契約

ジミを暴力で脅したのは、黒人だけではなかった。

ハーレムでのコンサートからしばらくした後のある晩、ジャムセッションの後で、コカインを調達するため、見ず知らずの人間と店を出たジミは、そのまま誘拐され、マンハッタンのアパートで監禁された。

誘拐犯は、ジミを解放する条件として、マネージャーのマイケル・ジェフリーにジミとの契約を引き渡すことを要求した。ジェフリーは、彼らの要求には応じず、マフィアを雇って犯人を捜させ、事件が起きて2日後に、ニューヨーク州郊外のショーカンのジミの自宅でジミを保護することに成功した。あまりに奇妙な事件だった。

後に、ジミのバンドのメンバーでベーシストを務めていたノエル・レディングは、「ジミが他のマネージャーを捜そうとするのを思いとどまらせるために、ジェフリーは誘拐事件を仕組んだのではないか」と語っている。

その誘拐事件の数週間前には、ジェフリーがジミの自宅にやってきて、ジミと仕事の話をしている間、ジェフリーの運転手が拳銃を取り出し、庭の木に向かって発砲し始めるということがあった。

その時、ジミの家に住んでいたミュージシャンのジュマ・サルタンは「ジェフリーのその訪問は、自分がボスだということをジミに見せつけることが目的だったのではないか」と語っている。

権力を持ったジェフリーはジミを半ば強引に働かせ続けた。70年7月、ジミは取材で次のように話している。

「僕はまるで奴隷だった。仕事ばっかりだ。初めは楽しかったけど、今はまた人生を楽しみたいんだ。僕は引退するよ。これからは娯楽が優先だ。仕事はもううんざりだよ」

その直後、ジミは映画撮影のため、ハワイに行ったが、浜辺で足を怪我し、その治療のために滞在が延び、2週間の休暇を得た。実際の怪我に必要な手当より大袈裟に包帯を巻いて、ジミが重症を負ったことを証明するための写真を撮影し、ジェフリーに見せる必要があったという。ジェフリーはジミを支配していた。

69年10月ジミは、黒人ミュージシャン2人と組んで「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成するが、ジェフリーは全員が黒人のバンドに難色を示していた。

70年1月28日には、ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデンでバンド・オブ・ジプシーズとして出演したが、2曲演奏た後、急にジミの体調が悪化し、公演は中止となった。その理由はコンサートを妨害しようとジェフリーがジミに大量のLSDを盛ったからだと、ドラムのバディ・マイルスは主張した。その数日後、ジェフリーはバディを解雇し、バンド・オブ・ジプシーズも解散した。

70年9月18日、ロンドンのホテルに滞在していたジミは、ワインを飲みながら睡眠薬を服用したために中毒状態となり、睡眠中に吐瀉物で窒息し、帰らぬ人となった。デビューからわずか4年、27歳での死だった。

その3年後73年3月5日、ジェフリーはフランスの航空管制室のストライキ中にマジョルカ発ロンドン行きの飛行機で向かう途中、他の飛行機と接触事故に遭った。飛行機はナント市近郊で大破し、乗客は全員死亡したとされるが、レディングは著書の中で、「ジェフリーは実際には飛行機に搭乗しておらず、生存しているのではないか。多数の目撃証言もある」などと主張しているが、真偽は不明だ。

▼星野陽平
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

《芸能界の深層》がまるごとわかる6刷目!『芸能人はなぜ干されるのか?』

 

1978年7月13日に安西マリア事件の公判がスタートし、関係者の新証言に注目が集まった。8月7日の第2回公判では、安西が証言台に立ったが、2月3日に竹野が衣籏を殴った後で、安西と母親を呼び出した際、竹野の言い放った脅し文句について検事の質問に答えて次のように詳細の説明した。

「ワシは前科24犯だ、人を殺すことなどなんとも思わん。警察もこわくはない。背中のイレズミをなんだと思ってるか、これを使ってホリプロとのもめごとと解決すしたんだって。こなると広島から若いものを連れてこなくちゃならんな、などといわれて、私は泣き出してしまいました」

安西は竹野エージェンシーに所属する前、ホリプロ傘下のプロダクションにいたが、安西をスカウトした人間が800万円の借金をつくった。それが移籍の際、問題となり、違約金として請求されたが、竹野は背中のイレズミを見せることでチャラにしたのだった。

つまり、大手芸能プロダクションであるホリプロからタレントを奪うのに背中のイレズミがモノを言ったというのだ。

「あなたに敗けそう」(1975年3月20日東芝EMI 作詞=なかにし礼 作曲=井上忠夫)

◆「社長と寝た方がいい」

これまで何度も述べている通り、芸能界には多くの大手芸能事務所が加盟する日本音楽事業者協会という業界団体があり、タレントの引き抜きを禁じ、独立阻止で一致団結している。だが、この芸能界の秩序は、暴力によって時にねじ曲がるというのである。

これは、なぜ暴力団関係者が芸能事務所を経営しているのかということに1つの答えが見出されると思う。暴力は芸能事務所の経営に役立つツールなのだ。

さらに、安西の証言は続く。安西は検事から「竹野社長が、前科24犯とか、広島から若い者を呼ぶといったのはまちがいありませんね」と訊かれ、「はい。ワシを裏切ったらどうなるかわかっとるのか。殺すことなんかなんでもないし、おまえと寝ようと思えば寝られるんだって……」と答え、嗚咽を漏らした。

そして、安西は、新しい契約書にサインをしてから、新曲の作詞家から「社長と仲が悪いのはまずい、社長と寝た方がいいんじゃないか」などと言われたという。これを聞いた安西は「竹野社長は私と関係しようとしていると感じました」という。

4月8日、安西は失踪したが、その理由は「社長に、コンクリートづめにして海に沈めなければわからないなどといわれたので、逃げ出してしまいました」と説明している。

◆加害者社長はほどなく復帰、被害者マリアは引退へ

年が明けた79年1月19日、東京地裁で竹野に懲役10ヶ月、執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。だが、当時の週刊誌は、「私はマリアに脅迫、強要をした事実はありません。私が期待していた判決ではありません」「私も許されるならば、芸能界の仕事をしたいのですが……」といった竹野のコメントを紹介し、擁護し、にこやかに笑う竹野の写真も掲載している。そして、判決が出た1年後の80年に竹野は奥村チヨの所属事務所としてフェニックス・ミュージックを設立し、芸能界に復帰した。

一方、事務所に謀反を起こし、芸能界の暗部を告発した安西の方は、引退を余儀なくされた。長らく日本を逃げるようにしてハワイに移住していたが、失踪事件から22年後の2000年に芸能界に復帰した。なお、所属事務所は、バーニング系と言われる10-POINTだった。
安西は復帰後しばらく芸能活動をしたが、テレビ番組で2013年に鬱病を告白し、2014年3月15日、急性心筋梗塞で他界した。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』絶賛発売中!

 

芸能界には暴力団関係者が経営する芸能事務所というものがある。これは昔からあるし、全国の自治体で暴力団排除条例が施行された今も変わらない。

1978年に起きた「安西マリア失踪事件」では、そうした芸能界の暴力団汚染の実態にメスが入れられた。

デビュー曲「涙の太陽」(1973年7月東芝音楽工業) 50万枚超のヒットとなった

安西マリアは、都内の高校を卒業後、銀座のクラブ「徳大寺」でホステスとして働いていたところ、スカウトされ、1973年に『涙の太陽』で芸能界デビューした。同曲は50万枚以上も売れたが、その後はヒットに恵まれなかった。

そして、1978年4月8日、安西は予定されていた曲のレコーディングに姿を現さず、失踪してしまった。13日、安西が所属するタケノエージェンシー社長、竹野博士は、記者会見を開き、これを公にし、14日、捜索願が出された。

◆「愛の逃避行」報道から急転した事件の真相

だが、事件は思わぬ展開を見せた。

安西は失踪直前に元マネージャーの衣籏(きぬはた)昇とともに母親をタクシーで湯河原まで送り、そのまま同じタクシーでビクターのスタジオに行くところだったが、横浜の日吉で下車し、それ以降、2人の足取りがつかめなくなっていた。以前から2人は親密だったことから「愛の逃避行」などと騒がれていたが、その2人は4月21日に麻布署に姿を現し、竹野社長を暴行と強要の容疑で告訴した。

警察発表によれば、容疑事実は以下の通り。

2月3日、竹野がマネージャの衣籏を呼び出し、安西がその日の朝のテレビ撮影に遅刻した責任を追及し、靴ベラで衣籏の頭を殴打し、怪我を負わせた。さらに、安西と安西の母親を呼び出し、「テメエら、ふざけるんじゃねえぞ、ソレは前科24四犯だ(実際には5犯)。人をブッ殺すことなんか、なんとも思っちゃいねえんだ。仕事をすっぽかしたことをどうするか、よく考えろ」と脅迫した。恐れをなした安西は14日に、月給を100万円から55万円に減額する契約書に署名した。安西と衣籏が失踪したのも竹野を恐れてのことだった、という。この告訴によって5月6日に竹野は逮捕され、竹野が過去、暴力団の組長だった経歴が明らかにされた。

竹野は広島の広陵高校を卒業後、51年、阪神に入団し、二軍で捕手を務めたが、野球賭博に手を出して、翌年、退団。第2時広島ヤクザ戦争が起きていた63年に自身の十一会という暴力団を旗揚げし、64年反山口組勢力の連合体、共政会に合流し、ナンバー3の地位にあたる理事長のポストに就任。だが、銃撃されて重症を負ったり、凶器準備週号などで逮捕されるなどして、抗争に疲れ果て、72年、広島県警に脱会届を提出し、暴力団から足を洗い、上京して芸能プロダクションの仕事を始め、74年に竹野エージェンシーを設立した。

東京ではカタギだったはずの竹野だったが、前年11月に共政会組員が銀座で拳銃を発砲した事件で、その共政会組員が留まったホテルに竹野の自宅電話番号が書かれたメモがあったことから、警察は竹野をマークしていたという。

一方、竹野の側もこれに反論をした。竹野が衣籏を靴ベラで叩いたのは、衣籏が会社のお金を横領した上、商品である所属タレントに手を出したためであり、安西の遅刻の件もあって、解雇した。また、安西のギャラの減額のために再契約した際も、安西は納得して「クビになると困る。これからも使ってください」と言い、その後もたびたび食事をし、おびえた様子はなかったという。

◆それでも安西を叩き続けたマスコミたち

「愛の逃避行」から一転して「暴力団出身の事務所社長による脅迫事件」に発展した後も、マスコミの論調は安西や衣籏のバッシングに走り、竹野を擁護する芸能事務所関係者の声をより多く報じた。安西の失踪事件は、終始、芸能プロダクション側の論理に引きずられていた感が強い。

事件の初期段階で『週刊平凡』(78年4月27日号)がバーニングプロダクションの周防郁雄社長の次のようなコメントを掲載している。

「たとえば本人があらわれて謝罪しても、多くの人に迷惑をかけた今回の行動は許されるべきではない。まわりの人はマリアに引退を勧告すべきだし、レコード会社もすぐ新曲を発売中止にするべきです。厳しすぎるかもしれませんが、そうすることが芸能界の将来にとてプラスになると思います」

事務所の言うことを言うことを聞かず、弓を引いたタレントは、業界から追放すべし、ということなのだ。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

芸能界の真実をえぐる! 『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』

 

 

『週刊大衆』(1987年12月21日号)に「太田プロ関係者」の次のような談話が紹介されている。

「いまから四年前、たけしさんは独立するつもりで自分の側近に声をかけ、密かにスタッフ集めまで始めていたんです。そのときは、結局ウヤムヤに終わってしまいましたがね」

86年度の太田プロの申告所得は、3億5000万円で、芸能プロダクション全体で3位にランクインするほどだった。その稼ぎの大半はたけし絡みだとされていた。当然、太田プロとしては稼ぎ頭のたけしの独立を認めるはずはない。もし、たけしの独立がスムーズに行なわれれば、片岡鶴太郎や山田邦子など他の所属タレントにも追随の動きが出てくる可能性もある。

太田プロが加盟する芸能プロダクションの業界団体、日本音楽事業者協会ではタレントの引き抜き禁止、独立阻止で一致団結している。たけしが独立を強行すれば、業界全体から干される可能性が高いのである。たけしが4年前に独立を断念したのは、そうした芸能界の政治力学が分かったためであろう。

米『TIME』誌アジア版の表紙を飾ったビートたけし(2001年2月12日)

◆「オイラは紳助と違う」

では、なぜたけしは、88年2月にオフィス北野を立ち上げて独立を果たせたのか。これも芸能界の政治力学が大きく絡んでいると考えられる。

『アサヒ芸能』(88年3月10日号)が「ビートたけし『オレはハメられた!』巨額“独立御礼金”の計算違い」と題する記事を掲載している。

記事によれば、日本青年社とたけしの手打ちを実現するためにかかった7000万円は、たけしの借金という形で残り、さらにお世話になった芸能関係者それぞれに対し、独立後の3ヶ月間毎月200万円支払うという話もあった。日本青年社との和解工作で動いた関係者は15人ほどと言われていたから、9000万円程度の費用となるから、先の7000万円と合せて1億6000万円の借金を抱えることとなったというのである。

そして、たけしは元所属事務所の太田プロにも解決金を支払うことで合意したという。たけしは、独立と同時に巨額の負債を抱えることとなった。たけしが「オレはハメられた!」と言うのは、成り行きで借金を抱えることになったのではなく、最初からシナリオができていたのではないのか、という疑念があったからだろう。

『週刊文春』(2011年9月29日号)で、島田紳助が暴力団関係者との交際を理由として引退を表明したのを受けて、たけしが日本青年社との手打ちの真相について次のように明かしている。

「これまで何度も右翼団体から街宣活動をかけられたことがあったけど、オイラは紳助と違う。ヤクザに仲介なんて頼んだことない。最初はフライデー事件の後、日本青年社に『復帰が早すぎる』と街宣をかけられたときだな。一人で住吉の堀さん(政夫氏、当時・住吉連合会会長)のところに行って、土下座して謝ったの。その後、右翼の幹部にも会って、それで終わりだよ」

「オイラの行くとこ、行くとこ、街宣がかけられているのに、当時の事務所は何も動いてくれないから、『自分で話をつける』って全部、一人で回ったんだよ。えれぇ、おっかなかったけど。堀さんに謝ったら、小林さん(初代日本青年社会長)と衛藤さん(豊久氏、二代目日本青年社会長)のところへ行けって。それで二人の前で『芸能界辞めます』って言ったら、『まだもったいないだろう』という話になった。街宣をやめる条件は、当時の事務所を辞めるってこと。『お前は生意気だって噂もあるから、気を付けろ』って怒られて、赤坂でスッポンをご馳走になって帰ってきた。そのとき、色んなヤクザから助けてやろうかって言ってきて、それを断るのも大変だったよ」

タレントであるたけしは、立場上、直接的にも間接的にもヤクザや右翼にカネを払ったとは言えない。ここで重要なのは、日本青年社側が街宣中止の条件として、たけしに太田プロを辞めることを要求してきたということだ。

太田プロも所属する業界団体、日本音楽事業者協会(音事協)では、加盟プロダクション同士でタレントの引き抜きを禁じている。たけしが他のプロダクションに移籍することは基本的にできないから、独立せざるを得なくなったのである。

◆なぜ日本青年社はたけしに独立を迫ったのか?

では、なぜ日本青年社はたけしに独立を迫ったのか。それは、たけしの独立が日本青年社の利益になるからだろう。そこで、浮上するのが、マッチポンプの疑惑だ。つまり、日本青年社と仲介役となった芸能関係者らが最初から結託し、たけしに独立を迫り、たけし利権を太田プロから横取りすることを狙った、事実上の引き抜きだったのではないかということだ。

では、誰が絵図を書いたのだろうか。そのヒントとなると思うのが、日本青年社とたけしの和解工作をしたとされ、オフィス北野が設立された当初から、取締役に就任していたライジングプロダクションの平哲夫社長の存在だ。

後にライジングプロは、バーニングプロダクションとの関係を深め、「バーニング系」と言われるようになったが、バーニングプロダクションの周防郁雄社長も和解工作をしていたとされる。

だが、独立したたけしは、バーニング系と目されることはなく、バーニング系のタレントとの共演も特に目立つということもなかった。

実は、オフィス北野の設立と同時にバーニングに対し批判的な報道で知られる芸能ジャーナリストのA氏がたけしの顧問のような形で入っているのである。

A氏とたけしの親密ぶりは業界では有名だ。A氏はたけしの撮影現場にしばしば出入りし、A氏が地元で飲んでいるときに、フラリとたけしが現れることさえあるという。

また、A氏はたけし関係の記事を執筆することも多い。たけしのコメントが『東京スポーツ』で大きく掲載されるとき、このA氏が記事を執筆し、高額の原稿料が支払わるルールになっているが、『東京スポーツ』関係者は「Aさんがライターじゃないとダメだと、オフィス北野が指定してくるんです。なぜなのかは分からないけれども、昔からそうなっています」と言う。

A氏は、なぜ、たけしと関係が深いのかについて多くを語らないが、「オレは芸能界に功績があるんだ」とだけ言う。

あくまで筆者の仮説だが、たけしにとってのA氏の存在意義は、バーニングに対する防波堤のような役割なのではないだろうか。

仮にたけしが太田プロからの独立でバーニング系となったとしたら、どうなっていただろうか。たけしの番組にバーニング系のタレントが氾濫したり、映画のキャスティング権をバーニングに握られるというような事態も考えられる。

だが、現実にはそうはならず、たけしは、多くの国際映画賞や外国の勲章が授与され、国際的スターの座を手に入れた。その陰にはバーニングの介入から守るA氏の存在があったのではないか。そうであれば、確かにA氏には「オレは芸能界に功績がある」と言えるだけの資格があるだろう。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

芸能界の真実をえぐる!『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』

 

 

「暴力と芸能界」について、もっと掘り下げてゆきたい。今回、俎上に載せるのは、「ビートたけし独立事件」だ。

1988年2月、たけしは16年所属していた太田プロダクションから独立し、オフィス北野を設立した。この独立劇のきっかけとなったのは、その2年前に起きたフライデー襲撃事件である。

1986年12月8日、当時のたけしと交際していたとされる専門学校生の女性に対し、講談社発行の写真週刊誌『FRIDAY』の契約記者が手をつかむなどの乱暴な取材によって、全治2週刊の怪我を負わせた。これに憤ったたけしは、翌9日深夜3時、弟子のたけし軍団メンバー11人らとともに『FRIDAY』編集部に押しかけ、暴行傷害事件へと発展。たけしは事件の責任を取るため、謹慎処分が決定した。

ビートたけし&松方弘樹「I'LL BE BACK AGAIN...いつかは」(1986年Victor)

◆たけしを襲った住吉会系右翼団体の執拗な抗議

事件から7ヵ月後、87年7月18~19日放送の『FNSスーパースペシャルテレビ夢列島』への出演で、たけしはテレビに復帰したが、それを許さない勢力があった。広域暴力団、住吉連合会(現住吉会)系右翼団体、日本青年社がたけしのテレビ出演に猛烈な抗議活動を展開した。

「良識ある地域住民の皆さん! テレビ局は犯罪者・ビートたけしを出演させております。視聴率のために出演させ、たけしの暴言さえ許している……」

日本青年社の街宣車はテレビ局やスポンサー企業、太田プロなどに押しかけ、大音響でたけしのテレビ出演を糾弾した。

日本青年社の抗議は執拗で、たけしが羽田空港から『風雲! たけし城』(TBS)の撮影のため緑山スタジオに向かった際、右翼と見られる男に尾行され、途中でホテルに逃げ込んだことさえあった。気の弱いたけしは、これにおびえた。

だが、これに対して、たけしが所属する太田プロは有効な手を打てなかった。それどころか、右翼の尾行は太田プロからスケジュールが漏れたために起きたのではないか、とたけしは疑念を抱いた。

たけしに対する日本青年社の抗議活動は、12月初めまで続いたが、最終的に両者を手打ちに導いたとされるのが、女優、富司純子の父親で東映のヤクザ映画のプロデュースをしていた俊藤浩滋だった。たけしが『元気が出るテレビ』(日本テレビ)で共演していた松方弘樹の口利きで俊藤が和解工作に乗り出したと伝えられている。

俊藤は日本青年社の小林楠扶会長と以前から親しかったが、俊藤が京都で大手術をした際、小林会長が見舞いに訪れ、そのお礼のため俊藤が無理を押して上京して小林会長を訪ねたところ、これに小林会長が感動した。その場で俊藤がたけしの件を相談したところ、その場で抗議活動の中止が決定した、とされている。

◆手打ちの「返礼」が「たけし利権」争奪の口実に

だが、話はそれだけでは済まなかった。

この間、十数人の芸能関係者が事態収拾のため動いていた。名前が挙がった中には、バーニングプロダクションの周防郁雄社長やライジングプロダクションの平哲夫社長などがいた。当時の報道によれば、手打ちの成立には総額7000万円の費用がかかったとされる。彼らのためにたけしは、「返礼」をしなければならないことになったという。

義理を返す原資となるのが、「たけし利権」である。自分をマネージメントしきれなかった太田プロに対する不信感もあいまって、たけし独立という流れができていった。

だが、当時のたけしは年に5億円も稼ぎだし、太田プロの売上の大半を占めていたから、事は簡単に進まない。水面下では様々な駆け引きもあったと見られる。

88年2月10日、株式会社オフィス北野が設立され、たけしは約100人もいた、たけし軍団を引き連れ、太田プロから独立を果たした。オフィス北野といえば、現在社長を務める森昌行の顔が思い浮かぶが、設立当初の登記簿を見ると、代表取締役はTBS系列の大手技術製作会社である東通社長の舘幸雄が就任している。

さらにライジングプロの平哲夫社長がオフィス北野の取締役に就任している。平は2001年10月18日に脱税容疑で東京地検特捜部によって逮捕されたが、オフィス北野の登記簿を追うと、逮捕の2ヶ月前の8月20日に辞任していた。

オフィス北野設立時の資本金は1000万円。その内訳は、たけしが400万円、舘が400万円、平が200万円となっていた。

たけし独立の裏側では一体、何が起きていたのか?
(つづく)

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

芸能界の真実をえぐる! 『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』

 

私は拙著『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)の中でこう書いた。

「芸能資本の力の源泉は有力タレントを所有することにある。だが、タレントは『モノを言う商品』であり、放っておけば芸能資本の手から離れていってしまう。それを防ぐために必要なのは、(1)『暴力による拘束』、(2)『市場の独占』、(3)『シンジケートの組成』の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ」

1974年9月に発生した「風吹ジュン誘拐事件」は、(1)「暴力による拘束」に分類されるものだった。

歌の下手さが衝撃だったデビュー曲「愛がはじまる時」(1974年5月ユニオンレコード)

◆デビュー曲25万枚ヒットでも風吹の月給は23万円

富山県出身の風吹ジュンは、京都で中学を卒業した後、18歳で上京し、銀座のクラブで働いていた時にスカウトされた。有名写真家デビッド・ハミルトンがユニチカのカレンダー用に撮影した写真が話題となり、1974年5月、「愛がはじまる時」でレコードデビューし、25万枚が売れ、一躍スターとなった。

当初、風吹はアド・プロモーションという事務所と仮契約を結んでいたが、レコードがヒットしても月給は23万円にすぎなかった。事務所に相談できる人がいないこともあって、9月9日、風吹に倍の月給を提示したガル企画に移籍した。その矢先、事件が起きた。

同月12日午後8時過ぎ、フジテレビで収録を終えた風吹がスタジオから出てくると、旧所属事務所のアドプロのUマネージャーなど3人が現れ、風吹の腕をつかんで局の隣にある喫茶店に連れ出した。

風吹がガル企画の石丸末昭社長に電話で連絡をしてみると、「ジュンか、石丸だけどね、君はU君の指図どおりに動いていいんだ。わかるか」と言われた。そこで風吹はUに従って車で品川のホテル・パシフィックへ向かった。

ホテルに3つ取っていた部屋の真ん中に風吹が入ると、アドプロの社長、前田亜土が現れて、「お前は、自分の二重契約を知ってるのか。オレのところにいればいいんだよ」と言った。

さらに作詞家のなかにし礼の実兄である中西正一が風吹とガル企画の専属契約の委任状を見せ、「ほら、これをみればもう納得もいっただろう」と言い、代わる代わる人が入れ替わって、風吹の事務所移籍を非難した。

そのうちなかにし礼が現れて、風吹の腕をつかんで、「そろそろ、あんたにも事態がどうなっているかわかってきただろう」と言った。

そのまま全員でベンツに乗って高輪プリンスホテルに移動し、また風吹への説得が始まった。そして、なかにし礼がやってきて、「要するにアドプロで仕事をすればいいのサ」と言った。

そんなやりとりが延々と続いた後で風吹が翌日の仕事のため衣装を取りに行かなければならないと言い、風吹、U、なかにしの3人で階下に降りたところ、待ち構えていた大勢の警官によって風吹が保護された。そして、人だかりの中には包帯を巻いた石丸社長の姿もあった。

◆筋書きを書いた「黒幕」なかにし礼

石丸社長の身に何があったのか?

同月12日午後5時ごろ、石丸社長はガル企画で働くYマネージャーがなかにし礼の事務所にいたときに作った借金の返済するため、暴力団、住吉連合系大日本興業のI事務所を訪れていた。

石丸社長がIに60万円の借金を返すと、部屋にいたIの子分たちがドアの前に立ちふさがり、別の子分からハンガーで顔面を殴られ、ゴルフのアイアンで、頭や首、手などを叩かれ、残りの3人からも殴る蹴るの暴行を受けた。そして、Iが「床に正座しろ!」と怒鳴った。

やがて奇妙なことに、なかにし礼から電話が入り、Iが「いま石丸を監禁してる。お前の友人だろう。この石丸の身柄を引き取らないか」と、なかにしに言った。Iが石丸社長に「お前からもなかにしに頼んだらどうだ」と言うので石丸社長も受話器を取り、「礼さん、お願いだ、身柄を引き取ってくれないか」と懇願した。だが、なかにしは「いや、それはだめですね、石丸さん」と言って電話を切った。

「オレがもう一度なかにし礼に頼んでやろう」と言ってIがなかにしに電話をかけ、石丸社長が「お願いだ、なんとかしてくれないか」となかにしに頼んだが、なかにしは「いやだめだね」と言ってまた電話を切った。

また、しばらくすると、礼から電話があり、実兄の中西正一に頼めと言った。そこで石丸社長は中西正一と電話で話すことになったが、その際、中西正一は、石丸社長の身柄引き取りの条件として、風吹ジュンが石丸社長に書いた委任状を渡し、風吹との契約を解除し、石丸社長がなかにし礼に貸した280万円の借金を帳消しにすること、を突きつけた。

恐怖のあまり、この条件を石丸社長が飲むことにしたところ、フジテレビの隣にある喫茶店から電話があり、風吹と話をさせられたのだった。

午後8時30分ごろ釈放された石丸社長は、病院に行ってケガを治療してもらい、事務所に戻り、弁護士と相談してから警察に通報し、警視庁に出頭した。事態を重く見た警視庁は、パトカー20台と警官80人を高輪プリンスホテルに動員し、風吹を保護した。

そして、9月20日、風吹と石丸社長らは、連名でなかにし礼、中西正一、アドプロの前田亜土、大日本興業のIらを相手に監禁、強要、強盗傷人などの罪で告訴した。

この事件で筋書きを書いた「黒幕」とされたのが、なかにし礼だった。アドプロ社長の前田亜土の妻はなかにし礼の実兄の中西正一の次女。なかにし兄弟はとおにアドプロの重役であり、石丸社長を襲ったIは金融面でアドプロと繋がりがあったという。

一方、なかにし礼側の主張によれば、石丸社長の親戚には九州の暴力団組員がいて、石丸社長は風吹の移籍問題でもそれを持ち出してアドプロを脅していたという。

◆暴力沙汰は「諸刃の剣」

なぜ、このような問題が起きたのだろうか、ということを考察してみたい。

まず、風吹ジュンをめぐって争奪戦を演じた石丸社長と前田亜土は、もともと芸能界とは縁がなかったということがある。石丸社長は上野で鉄鋼業を営んでおり、ガル企画を設立したのも、風吹と個人的に「私の芸能活動についてすべてを石丸氏に委任します」と一筆もらってからのことだった。前田亜土にしてもイラストレーター上がりで、芸能事務所を始めたのも風吹を抱えることになってからのことだった。

大手の芸能事務所であれば、業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)に加盟しているが、音事協ではタレントの引き抜きは禁じており、基本的にこの種のトラブルは起こらない。風吹ジュン誘拐事件は、芸能界のメインストリームを外れた弱小事務所同士だからこそ起こった事件だった。そして、弱小事務所同士の紛争は暴力がモノを言う。

だが、風吹の移籍トラブルは、誘拐事件として大きく報道されたため、風吹を奪った側のなかにし陣営は大きなダメージを受け、結局、風吹の所属先は、ガル企画に落ち着いた。また、風吹自身も、この事件によって経歴詐称なども暴かれ、大きくイメージダウンを余儀なくされた。

タレントの引き抜きなどで、芸能界では暴力事件が起こることもある。だが、事件が明るみに出ると、タレントを奪う側としても、奪われる側としても、そして、業界全体としてもダメージは大きい。そのため、芸能界では諸刃の剣ともいえる暴力が発動されることは滅多にない。そもそも、引き抜きを未然に防止することが重要であり、そのために音事協という組織があるのだ。

(星野陽平)

芸能界の深層に迫る『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』堂々6刷発売中!

 

西郷輝彦「星のフラメンコ」(1966年7月クラウン)

西郷は独立で干されることはなかったが、プレッシャーが重くのしかかった。
独立後間もなくして、西郷の背後を黒い背広を着た傷だらけの集団がつけ狙うようになった。西郷が車に乗ると、その後ろを男たちの車が追い、さらにその後ろを警察官と相澤が乗った車が追い、3台並んでテレビ局に向かった。私服警官が見守る中、西郷はスタジオで歌ったという。また、西郷をめぐる駆け引きの中で出てきたのか、スキャンダルもたびたび流された。

独立後の西郷の仕事は、太平洋テレビとクラウンが分担し、さらに独立から1年は独立の代償として東京第一プロも興行権を握るという約束になった。だが、ブッキングを担う三者は西郷の利権をめぐって激しく対立した。三者が強調せず、それぞれ勝手に仕事を入れたため、異常なまでの過密スケジュールとなってしまった。

たとえば、1965年4月の西郷のスケジュールは、以下のようなものだったという。

・午前9時から午後5時までは、松竹映画『我が青春』収録(第一プロの仕事)。
・午後7時から翌日午前4時までは、日活映画『涙をありがとう』収録(クラウンレコードの仕事)。
・午前6時から午前9時までは、大映映画『狸穴町0番地』収録(太平洋テレビの仕事)。

当時、18歳だった西郷が寝られるのは、2時間の移動時間だけだった。スケジュール調整の話し合いがつかないと、各社の社員たちが西郷を監視するため、マネージャーを名乗ってゾロゾロと現場にやってきた。その数は多いときで20人にもなったという。そんな中で、太平洋がクラウンに3000万円で西郷を返還するという人身売買のような話まで進められたが、独立後1年間は、連日、文字通りの殺人スケジュールだったという。誰しもが「西郷は潰れるだろう」と思った。

だが、西郷は潰れなかった。
疲労のためレコーディングでも声が出ず、スタジオ内に机を並べてその上で10分だけ眠ると、少しだけ声が出た。それで一節歌い、また10分寝て一節歌う。そうして出来上がった『涙をありがとう』という曲がが大ヒット。そればかりか、デビューから2年間に出した20枚以上のレコードのすべてがヒットした。西郷はタフだった。

そうした独立の苦労をともに分かち合ったマネージャーの相澤と別れる日がやってきた。直接のきっかけは、西郷の人気に陰りが見えてきたことに不安を覚えた相澤が「新人を育成したい」と西郷の父親に相談したところ、断られたことだった。相澤は西郷と袂を分かち、1971年、サンミュージックを設立。西郷の方はそれから日誠プロを解散し、舟木一夫の育ての親である阿部裕章の第一共永に移籍。1973年、三度独立して、西郷エンタープライズを設立した。

(星野陽平)

《脱法芸能01》私が『芸能人はなぜ干されるのか?』を書いた理由
《脱法芸能02》安室奈美恵「独立騒動」──なぜ、メディアは安室を叩くのか?
《脱法芸能03》安室奈美恵の「奴隷契約」発言は音事協「統一契約書」批判である
《脱法芸能04》安室「奴隷契約」問題が突きつける日米アーティストの印税格差
《脱法芸能05》江角マキコ騒動──独立直後の芸能人を襲う「暴露報道」の法則
《脱法芸能06》安室奈美恵は干されるのか?──「骨肉の独立戦争」の勝機
《脱法芸能07》小栗旬は「タレント労働組合の結成」を実現できるか?
《脱法芸能08》小栗旬は権力者と闘う「助六」になれるか?
《脱法芸能09》1963年の「音事協」設立と仲宗根美樹独立の末路
《脱法芸能10》1965年、西郷輝彦はなぜ独立しても干されなかったのか?

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』堂々6刷発売中!

 

 

1963年4月、日本音楽事業者協会(音事協)が設立された。音事協では、加盟社同士でタレントの引き抜きを禁止する協定を結び、独立阻止で結束を固めた。だが、結成されたばかりの音事協は加盟社も少なく、引き抜きトラブルは収まらなかった。

1965年に起きたのが、歌手として、橋幸夫、舟木一夫とともに「御三家」と呼ばれた西郷輝彦の独立事件だった。

◆10ヶ月で2億円を稼いだ「御三家」西郷の月給は2万8000円

鹿児島県生まれの西郷輝彦は、高校を中退後、歌手を目指して、大阪に行き、ロカビリーバンドを主催していたゲイリー石黒に拾われてバンドの雑用をしていたところ、1963年、当時、龍美プロダクションという芸能事務所を経営していた相澤秀禎(後のサンミュージック創業者)に見出され、上京。

だが、龍美プロは稼ぎ頭だった歌手の松島アキラなどが去ったことで経営が左前となり、当時、勢いのあった東京第一プロダクションに吸収されることとなり、西郷も移籍することになった。

西郷は東京第一プロに在籍してから売れ始め、1964年2月発売のデビュー曲『君だけを』がヒットし、130万枚も売れ、その年のレコード大賞新人賞を受賞することとなった。ところが、東京第一プロでは在籍していた10ヶ月ほどの間に2億円を稼ぎながら、西郷の月給は2万8000円と薄給だったという。東京第一プロと対立した西郷と相澤は1965年1月、独立した。

独立といっても、西郷と相澤には資金も力もなかった。そこで、頼ったのが、太平洋テレビジョン社長の清水昭だった。太平洋テレビは、もともとテレビ映画を海外から買い付け、日本語版を制作し、日本のテレビ局に配給する会社だったが、当時は芸能プロダクション事業にも進出し、大勢のタレントをかき集めていた。西郷と相澤は、太平洋テレビ、所属レコード会社のクラウンレコードなどとの共同出資という形で日誠プロダクションという事務所を立ち上げた。

◆西郷輝彦の幸運──「音事協」独占途上期だった1960年代の芸能界

当時はすでにタレントの引き抜き禁止じる音事協は設立されていたが、太平洋テレビによる西郷の引き抜きは阻止されず、干されることもなかった。

『週刊現代』(1965年4月15日号)によれば、「西郷をとりまく大人たちも悪いが、もとをたどれば彼のまいたタネさ。育ての親であるプロダクションを一年たらずで裏切った西郷だが、本来なら事業者協会に提訴されて、芸能界をほされたかもしれない(中略)西郷はオトナの欲につられて、芸能界から抹殺されることは助かった」というプロダクション関係者のコメントを紹介している。

では、なぜ西郷は干されなかったのか。

音事協発行の『エンテーテイメントを創る人たち 社長出番です。』所収の第一プロダクション社長、岸部清のインタビューによれば、音事協の創立メンバーは、次の8人だった。

渡辺 晋(渡辺プロダクション社長)
木倉博恭(木倉音楽事務所社長)
西川幸男(新栄プロダクション社長)
堀 威夫(堀プロダクション社長)
岸部 清(東京第一プロダクション社長)
永野恒男(ビクター芸能社長)
新鞍武千代(日本コロムビア文芸部長)
宇佐美進(キングレコード)

東京第一プロの岸部清は音事協に加盟していたものの、太平洋テレビは加盟していなかった。太平洋テレビはテレビ映画の輸入会社ということもあって、音事協加盟の芸能プロダクションとは流派が異なるのである。できたばかりの音事協は、カルテル組織としては未熟で芸能界全体ににらみを利かすだけの力がなかったのだろう。

(星野陽平)

《脱法芸能01》私が『芸能人はなぜ干されるのか?』を書いた理由

《脱法芸能02》安室奈美恵「独立騒動」──なぜ、メディアは安室を叩くのか?

《脱法芸能03》安室奈美恵の「奴隷契約」発言は音事協「統一契約書」批判である

《脱法芸能04》安室「奴隷契約」問題が突きつける日米アーティストの印税格差

《脱法芸能05》江角マキコ騒動──独立直後の芸能人を襲う「暴露報道」の法則

《脱法芸能06》安室奈美恵は干されるのか?──「骨肉の独立戦争」の勝機

《脱法芸能07》小栗旬は「タレント労働組合の結成」を実現できるか?

《脱法芸能08》小栗旬は権力者と闘う「助六」になれるか?

《脱法芸能09》1963年の「音事協」設立と仲宗根美樹独立の末路

 

 

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』

 

« 次の記事を読む前の記事を読む »