◆正に激励、応援の証

プロボクシングやキックボクシングで選手に渡されている激励賞は、歌舞伎で見られる投げ銭、おひねりのように受取る選手にとっては有難い副収入。後援会や職場仲間、学生時代の仲間が多ければ激励賞も増えるが、全く応援者の居ない選手にとっては羨ましい話かもしれない。

激励賞を頂いた選手の中には、「貰えた時は嬉しかった。やはりファイトマネーは安いし、いろいろと経費が掛かりますから。貰った激励賞の封筒は捨てずに今でも大切にとってあります。チケットをたくさん買ってくれた人の名前で、中身を入れていない激励賞に自分で書いて、リングアナウンサーに読み上げをして貰いたくて出したこともあります。」といった感謝の想い出や、「激励賞頂いたら勝ち負け関係なく、試合翌日に手紙やメールではなく電話で御礼を言え!」という先輩からの忠告もある中、激励賞を贈ってくれた応援者を訪ねての律義な御礼参りを欠かさない選手も多い。

グローブでは激励賞を持ち難い

◆空っぽの激励賞

試合前にリングアナウンサーによって贈り主の名前を呼び上げ、リング上で選手に渡される激励賞の多くは、すでに中身が抜かれているのは多くの関係者が知っている事実。盗難や紛失を未然に防ぐ狙いがあるが、激励賞は贈り主が直接選手に渡されたり、会場入り口で受付があればそこで渡されたり、控室へ向かうことが許されればそこで選手やセコンドなど側近に渡される流れとなります。

かつての目黒ジムでは、会場で激励賞を頂いた後、トレーナーが選手本人の前で中身を抜いて直接本人にそのお金(全額)を渡し、その後リングアナウンサー席まで空っぽの祝儀袋を渡しに行くいうシステムが出来ていたという。多くのジムもトラブル防止に似たことやっていると考えられ、選手自身がリングアナウンサー席まで届ける光景もよく見られます。

昭和の時代にはこんな綺麗ごとはない、あって欲しくない事態も発生していた様子。盗難とはまた別事情の、陣営の手によって選手に渡るまでに中身を抜かれる、または1万円だけ残して残りを自分の懐に入れるといった事態もあったようである。
贈り主が大雑把にジム関係者に手渡しされると、元々幾ら入っていたか解らなかったり、激励賞そのものを贈られたことを知らされないと「何だあいつは、礼儀知らずめ!」と思われる恐れもあって、贈ってくれる可能性ある後援関係者に余計に気を遣うことも多かったという当時のプロボクサー。そんな自分に返って来ない空っぽ激励賞をリング上でリングアナウンサーから渡されても嬉しくもなく、さっさとセコンドに渡してしまうと、そんな態度が非難されることもあり、リングで戦う前にも気苦労があったりするものだった。

呼び上げた激励賞をリングアナウンサーへ渡される

激励賞を受取り、四方へ感謝の意を示す瀬戸口勝也

◆リング上の儀式として

リング上で渡される激励賞は、お祝い用熨斗袋が使われている場合が多く、持ち運ぶリングアナウンサーから見れば進行上、嵩張るものは扱い難い。水引の付いたものはそれなりの大きな金額である場合に使われるが、人によっては普通の茶封筒、ポチ袋で持って来る人も居て、これらは束ね難くなり、選手に渡した際、落としてしまう姿もよく見られる。気の利くリングアナウンサーは、こんなポチ袋や水引熨斗袋も纏められるよう輪ゴムとクリップを用意しているという。

激励賞の贈り名呼び上げは、本来ファンサービスの一環であり、書かれる選手名や差出人の肩書・名前などは「渡部」はワタベと読むのかワタナベと読むのか、「堀田」はホッタかホリタか。慌ただしい進行業務が続くリングアナウンサーにとっては「中田」を田中と読んでしまう勘違いも起こりやすく、読み違いしないよう読める字にも振り仮名を付けておく方が慌てさせない、進行を遅らせない為にも贈り主の気配りが欲しいところでしょう。

中には明らかに本人でもないのに著名人名を名乗るとか、「半グレ一同」とかエッチなお店の名前のようなものも読み上げると場内に笑いが起きたり、迷った場合は「読み方が解らなくて大変申し訳ございません!」と言葉を濁すこともあるという。

プロボクシングに於いては、激励賞の読み上げは、ひとつ前の試合の後半のインターバルに「次の試合に出場致します、○○選手に激励賞です!」といったアナウンスの後に読まれ、その試合が早いラウンドでKO決着が付けば、激励賞を渡される試合の選手入場前に読み上げられるが、これらは試合進行をスムーズにするための手段。

キックボクシングでは各団体、イベントによってやや手法は違うかもしれないが、選手入場後、選手に渡す直前に読み上げており、当たり前のように慣習化した今後も続く儀式でしょう。

激励賞の中身の相場は選手仲間など同年代では1万円を包むことが多いと思われるが、それより少なくても応援の気持ちがあれば問題は無い。贈る側の年齢や肩書が上の立場になるほど、やや金額が増すのも一定の相場ラインのようです。

ボクシングとキックボクシングに関わらず、ファイトマネーは33パーセントがマネージメント料としてジム側が取る権利があるが、激励賞からも33パーセント引くジムもあるようで、それは違法ではなくとも、激励賞は応援するファン個人が選手個人に贈られるプライベートなものと考えてあげて欲しいところです。

試合後に主催者やスポンサーから敢闘賞を出される場合もあり、他にKO賞やベストバウト賞など、終わってみてからの想定外の収入はまた嬉しいものでしょう。

束ねただけではサイズ違いの激励賞は落しやすい

◆選手が少しでも潤う環境を

最近の話では、選手からチケット購入する人からのドタキャンがあること。選手は試合前の練習や減量以外にもチケットを売り捌く仕事で時間を奪われる上に、更に追い込むようにドタキャンとは可哀想な苦難である。

「応援したい選手の試合観戦に行けず、チケット買ってあげれないなら、少額でも激励賞出してあげて欲しいですね。」という関係者の意見も聞かれます。

ボクシングやキックボクシングでは選手に対して面識無いファン個人でも激励賞を贈ることは可能で、選手側は誰が贈ってくれたか知らなくても問題は無い。

負けが込んでいても長く頑張っている選手を見ると、懐に余裕があれば贈ってあげたくなるものです。

昨年はコロナ禍の中、一部ではクラウドファンディングによって、選手のオリジナルグッズの応援購入も行なわれました。新たな時代の選手応援方法も変わってきたものですが、選手の試合に影響するような負担は極力無いように、より潤う環境を整えてあげたいものです。

人気者・健太も激励賞は多い

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

最新刊!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

◆「『買収』が支える安倍晋三王国・山口」(横田一)と「森喜朗の偉大なる足跡」(編集部)
 
まったくもって、異常としか言いようのない事態がスクープされた。公選法を知らないのだろうか? いや、無法地帯というべきなのであろう。安倍晋三元総理の地盤、山口県下関市で起きた「事件」である。

 

タブーなき注目記事満載!月刊『紙の爆弾』5月号

「桜を見る会」への招待、および前夜祭への費用補填で、利益供与(事前買収)あいた有権者たちを前に、安倍元総理は市長候補への「投票を依頼」したのである。

本誌グラビアでは、下関市長二期目をめざす前田晋太郎とともに、シュプレヒコールの拳をあげる安倍元総理のすがたが活写されている。記事は「『買収』が支える安倍晋三王国・山口」(横田一)である。

今回の下関市長選挙は、安倍派と対立関係にある保守の林芳正派(宏池会)が分裂を回避し、連合山口までが前田候補の応援に回った。にもかかわらず、無党派ともいえる田辺よし子候補が、2万2,774票を獲得した(前田候補は5万7,291票)。田辺氏は市議選でせいぜい2,000~3,000票の地盤であるから、今回の大健闘は、ほぼ安倍批判票だといえよう。

それにしても、下関における安倍利権の凄まじさには閉口する。ここは北朝鮮ではないのかと思うほどだ。横田一ならではの、現場直撃質問も本文を読んでほしい。すくなくとも、ひきつった安倍の表情がうかがえる。

「森喜朗の偉大なる足跡」(本誌編集部)は圧巻だ。ほとんどダメ政治家でありながら、総理の座を射止めた男の軌跡。そこには「なりたくてもなれないのが総理総裁」という格言が、逆に「正統性のなさ」ゆえに政治というものの不可思議さを、われわれに教えてくれる。サメの脳みそ、ノミの心臓、でも下半身はオットセイと揶揄されても気にしない感性のなさこそが、森を政治家たらしめた核心部なのかもしれない。

◆強力な連載陣──岡本萬尋、マッド・アマノ、西本頑司

今回は連載にも注目してみたい。「ニッポン・ノワール」を上梓したばかりの岡本萬尋の連載「ニュースノワール」は、袴田事件の帰趨を解読している。いま、再審の争点になっている味噌タンクから一年後に発見された「5点の衣類」(袴田さんとはサイズが合わないうえ、血痕の色の変化)のほか、凶器のクリ小刀など、袴田さんの無罪を立証する証拠調べにはそれほど苦労しない。にもかかわらず、東京高裁が再審決定を却下するなど、裁判所の「メンツ」へのこだわりは酷すぎる。差し戻し審の三者協議の進行が待たれる。

マッド・アマノの「世界を裏から見てみよう」は、有刺鉄線の歴史だ。戦争が政治の異なる手段をもってする延長(クラウゼビッツ)だとして、兵器は総力戦の時代において、政治をも規定するものとなった。有刺鉄線はまさに、総力戦の「時代に移行した戦術、塹壕戦の立役者であろう。炸裂弾による兵士の消耗をふせぐために、第一次大戦は700キロをこえる西部戦線に塹壕を張り巡らせ、戦車が登場するまで有刺鉄線こそが戦場の立役者だった。

そしてその歴史は、アメリカの西部開拓史抜きには語れないという。開拓者たちの有刺鉄線はカウボーイたちの自由放牧と、真っ向から対立した。さらには白人の開拓史が、6500万頭のバッファローを絶滅させた。ここでも「武器」は文明のあり方を変えてきたのだ。

「権力者たちのバトルロイヤル」(西本頑司)は、退陣するアンゲラ・メルケル独首相の偉業をたどる。そして再び到来するかもしれない「ベルリンの壁の崩壊」に言及する。その意味は、ドイツの孤立である。

◆冤罪事件から部落差別問題まで

「シリーズ 日本の冤罪」は、尾崎美代子取材による「滋賀バラバラ殺人事件」である。逮捕時68歳だった杠共芳(ゆずりはともよし)さんが、13個に切断された殺人事件で懲役25年の判決を受けたものだ。

「犯行に至った動機・経緯について不明な部分が残る」という、信じられないほど杜撰な判決である。杠さんが一貫して犯行を否認したにもかかわらず、高裁では証拠調べをすべて却下した一回廷の判決だったという。そして今年の2月に最高裁は被告の上告を棄却した。

レポートでは、杠さんがむしろ被害者を親身になって面倒を見てきた立場であり、被害者の預金(銀行融資)から約70万円を引き出した(この別件逮捕が捜査の糸口となった)のも、信用貸しで被害者に貸していたカネだったという。別件で起きたバラバラ殺人事件とともに、事件の真相を明らかにするためにも、杠さんの再審がもとめられる。

「【検証】『士農工商ルポライター稼業』は『差別を助長する』のか?」(第7回)は鹿砦社編集部による、士農工商の存否(身分制か職階か)をめぐる問題だ。

「士農工商」が江戸時代には「職階」にすぎず、明治に入ってから「身分制度」としての認識が醸成された。したがって、江戸時代には身分制度がなかった、との歴史解釈には極めて大きな違和感がある、というものだ。これには少なからぬ誤認があるので指摘しておこう。

「部落史における士農工商 そんなものは江戸時代には『なかった』」(横山茂彦 2021年3月27日)でも明らかにしたとおり、「江戸時代の文書・史料には、一般的な表記として『士農工商』はあるものの、それらはおおむね職分(職業)を巡るもので、幕府および領主の行政文書にはない。したがって、行政上の身分制度としての『士農工商』は、なかったと結論付けられる。むしろ『四民平等』という『解放令』を発した明治政府において、『士農工商』が身分制度であったかのように布告された。すなわち江戸時代の身分制が、歴史として創出されたのである。」

つまり、江戸時代の「士農工商」は行政上の身分制度ではなく「職分」(職階=職業上の資格や階級ではない)であり、北大路家康が、「『士農工商』、もう教科書にその言葉はありません」と語り、図版アニメの『士農工商』図は、士とその他に変形した。江戸時代に武士階級とその他しかなかった身分制度を表現したとおり、士分(武士)と一般民の身分差は厳然とあった。身分制度は存在したのである。

すなわち、士分と一般民、そして身分外の身分として、天皇や公家、医師、非人(穢多などをふくむ)が存在し、江戸時代はまさに身分制社会だったといえる。

中世前期の自由闊達な交通社会とは異なり、百姓の大多数が定住を強制された排外的、かつ差別的な社会だったのは、疑いのない史実である。

豊臣政権と江戸幕府が「政策的に」差別構造をつくったのだとしたら、兵農分離・検地による定住政策こそが起点といえよう。中世的な流動層が定住するには、もはや劣悪な土地と職業しか残されていなかったからだ。

にもかかわらず、それをもって政策的・行政的に「士農工商」という身分制度があったとは言えない。行政文書に「士農工商」という文言が存在しないからだ。これが史料批判を第一義に置く、文献史学の原則なのである。

そして「四民平等」の「解放令」において、部落民を「新平民」とした明治政府がさらに、天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民という新たな身分制を再生産し、かつそれが「解放令反対一揆」にみられるように、庶民の中に根強い差別意識が存在したことを歴史が教えてくれる。

つまり江戸時代においても、穢多・非人に対する差別は、為政者においてではなく庶民のなかに旺盛だったのである。この論点こそが、こんにち「士農工商」が差別の根拠としての身分制ではなく、江戸庶民の意識の中にこそ身分差別があった。そして明治以降も、差別は支配者の政策ではなく、一般民の意識の中にある、とするものなのだ。その差別意識は、われわれの中に潜んでいる。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

昭和40年代に、真空飛びヒザ蹴りを代名詞にKO勝利を積み重ねた沢村忠(1943年1月5日、旧満州出身)氏が肺癌の闘病を経て3月26日に亡くなられたことが4月1日の新聞報道を中心に発表されました(78歳没)。葬儀は近親者のみで30日に行われた模様です。

汐風アリーナにてサイン会に臨む沢村忠さん(2008年6月22日)

沢村忠、本名は白羽秀樹。その経歴は、言うまでもなく昭和のキックボクシングブームを巻き起こした第一人者として、漫画アニメ「キックの鬼」でも人気を博し、多くの報道で活躍が知れ渡っていました。

沢村忠氏は空手家として1966年(昭和41年)4月11日、大阪府立体育会館でデビュー。必殺技はジャンプ力を活かした真空飛びヒザ蹴りの他、飛び前蹴り、ハイキックは高くスマートに、更にパンチもあればヒジ打ち、ヒザ蹴り、ミドルキックなどでのKO、ボディースラムでのKOも1回ありました。サウスポースタイルながら右にスイッチすることもよくやりました。

1976年5月22日、テレビ放映されたものとしては最後の東洋ライト級王座防衛戦で21回目の防衛成功(3階級制時代含め通算34回)。7月2日の大阪での試合を最後に公表上は今までにない長期休養に入りました。

「沢村はどうしているのか、なぜ試合をしなくなったのか!」というファンの問い合わせが増える中、沢村忠不在は1年を超えた1977年10月10日、引退式が行われ、ようやくファンのモヤモヤした気持ちは払拭。

その後はファンの前には現れなくなり、憶測で広まる噂も情報少ない地方に居ても聞かれるほど。根も葉もないことを書くマスコミを避ける意図はあったかと思いますが、決して人目を避けて引き籠りになった訳ではなく、ごく普通の一般人に戻って自動車修理工と販売の仕事に就き、すでに家庭を持って自然な暮らしをしていた様子でした。

宮城県気仙沼での興行で仙台青葉ジムの選手と記念写真。沢村忠氏(前列中央)の右隣が瀬戸幸一会長、左隣は遠藤事務局長、佐沼にある東京堂写真館にて(画像提供:仙台青葉ジム瀬戸幸一会長。昭和44年夏)

気仙沼まで、沢村忠氏と遠藤氏は知人会社社長のドイツ車オペルに乗って来られたという1枚(画像提供:仙台青葉ジム瀬戸幸一会長。昭和44年夏)

「沢村で始まり沢村で終わった」とも言われたテレビ放送も他に要因はあれど、後には視聴率低下を巻き返せず放送打ち切りに陥りました。

あの現役時代を一緒に過ごした野口プロモーション関係者から沢村忠氏の情報が聞けたことは幾つかありました。

昭和40年代の全盛、釧路での興行に遠征した時の野口プロモーション一行が、釧路駅の列車の来ない臨時ホームで、線路側から120cmほどあるプラットホームに飛び上がる勝負をやった時、沢村忠氏だけがその場ジャンプで飛び移ったという「沢村のジャンプ力はさすがだったね!」というリングアナウンサーの柳家小丸(柳亭金車)さんの想い出の語り。

[左]横須賀の主催者側から花束を贈られる沢村忠さん(2008年6月22日)/[右]リング上で花束を高く掲げるのは何年振りか(2008年6月22日)

プレゼンターとして沢村忠氏から風神和昌に勝利者トロフィー贈呈(2008年6月22日)

レフェリーの李昌坤(リ・チャンゴン)さんは、沢村が蹴った回し蹴りがレフェリーの李昌坤さんの横腹に当たってしまったこともあり、「試合後に沢村が “李さんごめんね”と謝りに来てくれて、平然と振舞ったが、本当は一週間程動けなかったよ。」というエピソードや、テレビの映し方として、「沢村の試合は秋本直希が裁くことが多かったのは、歌手としても売り出していた秋本をなるべくテレビ画面に出させる意図があったんだ!」といった語り。

秋本直希レフェリーが、ノックダウンした沢村にカウント9まで数え、KO負けスレスレのハラハラドキドキ感を増した映りだったことも幼かったファンとしては懐かしい。

沢村忠とは特別な存在だった。公式241戦232勝(228KO)5敗4分。試合中の第1ラウンド終了後のインターバール中にテレビ画面に流れた戦績は毎度追ってしまうファン心理。

この5敗の中にはサマン・ソー・アディソン、カンワンプライ・ソンポーン、パナナン・ルークパンチャマ、サネガン・ソー・パッシン、チューチャイ・ルークパンチャマが居ました。

沢村忠氏が勝利した相手の中にも記憶に残る選手は居るが、敗戦の相手となった選手がなお印象に強い。

サマン氏、サネガン氏、チューチャイ氏は沢村忠氏よりかなり早く亡くなっています。他に対戦した中では、チャイバダン・スワンミサカワンが居ましたが、タイではチャイバダン氏からコーチを受けた日本人選手も多い。

沢村忠さんと対戦した後の、まだ若き頃のチャイバダン氏(1986年当時)

私(堀田)もチャイバダンさんが興したジムで、日本での試合のお話も少々聞かせて頂いたことがありました。「沢村は今何してるの?元気にしてるの?」といった言葉はまだ昭和の話で、4年前にタイへ渡った際は時間が無くて伺えませんでしたが、改めて今、会ってみたい人であるが御存命かは分かりません。

沢村忠氏の情報は一部の近親者のみが知る存在で、ここ数年は体調不良の情報もあるにはあったところ、2年ほど前から沢村死亡説が流れることがありました。しかしその後に「沢村さんから藤本会長に電話あったみたいだよ!」という近親者の情報があり、噂というものは当てにならないものではあるが、今年3月26日の訃報は、やがて来ると覚悟していても残念でならない想いである。ファン心理で書かせて頂きましたが、幼い頃からのファンとして、心より御冥福をお祈り致します。

ゲストとして御挨拶に立つ沢村忠さん(2008年6月22日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

2006年に「美しい国」を掲げて、颯爽と登場した安倍晋三はしかし、お友だち内閣の不祥事がドミノ倒しになることで、みずから潰瘍性大腸炎で退いた。2007年の参院選挙で大敗を喫したすえの、惨めな最期だった。強権的な国会答弁、極右的な言動が国民の警戒感を招いたといえよう。

そして雌伏5年、そのかんに自民党は二度目の野党時代を経験し、自分たちのツケである原発事故も生起した。沖縄基地をめぐるアメリカとの確執、大震災の災禍によって民主党政権が停滞するなか、安倍晋三は再起した。祖父に岸信介、叔父に佐藤栄作という政界のサラブレッド、長身でみてくれも良い保守期待の星として再登板したのである。


◎[参考動画]【自民党 新CM】「日本を、取り戻す。」(自民党 2012/11/29)

北朝鮮の脅威と拉致問題の解決、北方領土問題、憲法改正という3つのテーマをもって、安倍は「日本を取り戻す」と宣言したのだ。

ところが、第二次安倍政権が真っ先に手をつけたのが「生活保護基準引き下げ」だった。

もっとも貧しい人の生活費を下げるという決断は、小泉政権いらいの新自由主義であり、弱者は見捨てる政権メッセージは意外にも株価に反映した。三本の矢という、内容はふつうの財政出動とリフレへの期待がつのり、肝心の経済再生はともかく、契機は株価において浮揚した。

弱者を切り捨て、そこから生じた財源を海外援助、すなわち円借款として日本企業の海外進出をうながす。それはまた、株価の上昇に作用した。


◎[参考動画]自民党CM「この道を。力強く、前へ。」(自民党 2016/06/26)


◎[参考動画]【第48回衆院選】自民党CM(字幕)「暮らしを、子供たちの未来を、守り抜く。」編(自民党 2016/10/12)

生活保護費を削っておきながら、暮らしと子供たちの未来を守るとは、どの口が言うものなのかよくわからなかった。たしかに、それらしいものはあった。

安倍晋三が政権に返り咲いた直後、2013年に開かれた全日本私立幼稚園連合会とPTA連合会の全国大会を伝える会報「全日私幼連 情報特急便」(平成25年7月8日号)には、こんな記述がある。

「安倍総理は祝辞の中で『すべての子どもたちに、質の高い幼児教育を保障することができるよう、幼児教育の無償化の実現など、様々な政策実現に向けて政府・与党一体となって、また、皆様と手を携えて、取り組んでまいります』と述べられました」

この会報で伝えられる団体こそ、4億円の使途不明金が発覚した全日本私立幼稚園連合会なのである。

連合会と自民党のズブズブの関係を、政界で知らない者はいないという。

「熱心な自民党支持団体のひとつで、参院選では橋本聖子さんや山谷えり子さんを推薦して順位を押し上げた実績もある。2月21日の党大会では、長年の功労があった団体として、連合会を表彰する予定でしたが、使途不明金問題で取り消すことになりました」(自民党関係者)というのだ。

消えた4億円はどこに行ったのか。

事実として確かなのは、安倍政権下で幼児教育無償化がスタートしたことだ。当時は待機児童が社会問題化していたこともあり3~5歳児全員無償化は幼稚園にとって最も恩恵のある形になった。

思わぬかたちで、政権の旧悪が露見したのである。巨額の使途不明金の行方と自民党の関係、教育行政が歪められた可能性について、徹底解明が必要であろう。そのさいには、安倍総理も身の潔白をもとめられるべきだ。


◎[参考動画]【第48回衆院選】アベノミクスで成長の実感を皆さまへ(自民党 2017/10/15)

安倍政権は「アベノミクス」を打ち出し、ことあるごとに経済政策の効果を喧伝してきた。だが、その実態はどうなのか。私たちの生活は、果たして楽になったのか? 

たとえば「非正規という言葉を一掃する」と言いつつも、12年に35.2%だった非正規雇用率は、19年までに38.3%に上昇したのだ。12年から19年にかけて、非正規雇用者は352万人も増えている。この数字をしかし、安倍は恥じることなく誇っているのだ。

アベノミクスで「400万人を超える雇用を増やした」などと胸を張る。いま、コロナ禍で失業に喘いでいるのは、これら400万人の非正規雇用者たちにほかならない。相対的過剰人口の流動的形態として、まさに安倍の増やした雇用者(非正規)たちは路頭に迷っているのだ。


◎[参考動画]【第48回衆院選】「観光立国で地方創生へ」(自民党 2017/10/20)

それでも安倍晋三は、神がかり的に選挙に強かった。安倍一強とは、選挙での強みを生かした官邸・党本部の一元的な支配にほかならなかった。したがって、官僚の忖度と出来の悪い新人議員の誕生、身内とお友だちを優先する体質は最後まで変わらなかった。政権末期の、凄まじいまでの政権の腐敗を再録しておこう。

《2017年》
●2月17日 森友問題発覚
●4月26日 今村雅弘復興担当大臣が失言で辞職
●5月17日 加計学園「総理のご意向」文書報道
●7月28日 南スーダンPKO日報隠蔽問題
《2018年》
●3月7日 近畿財務局の男性職員が自殺
●7月14日 「赤坂自民亭」が炎上
《2019年》
●4月10日 桜田義孝五輪担当大臣が失言で辞任
●11月18日 「桜を見る会」問題
《2020年》
●5月21日 黒川弘務東京高検検事長辞任
●5月28日 持続化給付金事業の電通中抜き疑惑
●6月18日 河井前法務大臣・案里夫妻が逮捕
●8月28日 辞任を決断

小選挙区制という政治システムの利点、官邸と党本部による政敵の排除、あるいは官製相場による見せかけの景気浮揚になじんできた政治家に、コロナ禍は容赦なかった。

アベノマスクという、ほとんど何の役にも立たない「施策」を最後に、お坊ちゃま政治家は政権を投げ出したのだ。このさき、政権にしがみついても、何ら得るところはないという聡明な判断だった。

けっきょく、北朝鮮の脅威と拉致問題の解決、北方領土問題、憲法改正という3つのテーマは、ひとつも達成できなかった。


◎[参考動画]安倍首相が会見 辞任決断の理由は(TBS 2020年8月28日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

本日発売!タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

一昨年の参院選に関し、大規模な買収を行った疑いで裁判にかけられている元法務大臣の河井克行被告(58)がついに公判で無罪主張を撤回し、買収を認めた。議員も辞職する。

これをうけ、安倍晋三前首相と菅義偉首相の政治責任が追及されることを期待する人が多いようだが、筆者はまったく別のことを期待している。それは、河井被告がその人生遍歴を自ら語ることである。

◆幼少期を過ごした地で無名だった河井被告

本人が公表しているプロフィールによると、河井被告は昭和38年広島県生まれ。広島市の山本小学校と安小学校(いずれも広島市立)を経て、私立の名門である広島学院中学・高校で学んだ。そして慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、松下政経塾、広島県議会議員を経て、衆議院議員に当選7回。絵に描いたようなエリート街道を歩んだ印象だ。

一方で報道では、性格に問題がある人物だったように伝えられてきた。たとえば2016年に秘書へのパワハラ疑惑を報じられた際には、広島市の小学校時代の後輩が取材に対し、次のようにコメントしている。

「河井先輩のアダ名は“スネ夫”。実家は薬局経営の裕福な家庭で、事あるごとに“僕と君らでは育ちが違う”みたいなことを言う嫌みなヤツでした。当然、皆から嫌われていました」(同年3月3日付け『日刊ゲンダイ』)

このように地元での評判は悪かったらしい河井被告だが、小学校入学前に広島県三原市で過ごした幼少期のことは意外と知られていない。そこで筆者は昨年4月、河井被告の生家があった香積寺という寺院の周辺で取材したのだが、河井被告の幼少期は報道のイメージと随分異なる印象を受けた。

まず何より意外だったのは、河井被告がこの地の出身者であることを地元の人たちがほとんど知らなかったことだ。道行く人たちに、河井被告の幼少期のことを取材しに来たのだと説明しても、「あの河井さんがこのへんに住んでいたんですか!?」「本当ですか?」などと逆に聞き返されるほどだった。

評判が良かろうが悪かろうが、幼少期を過ごした地で河井被告は有名な存在なのだろうと筆者は思い込んでいた。それはまったくの思い違いだったのだ。

◆生家は六畳二間で風呂無し

河井被告はブログで以前、生家が「六畳二間」だったことを明かしていたが、その家は50年以上経った今も入居者募集中の状態で現地に残っていた。だが、平屋の建物は玄関が引き戸になっていて、実につましく、「薬局経営の裕福な家庭」が暮らしていた家には、とても見えなかった。

近所で暮らす高齢の女性によると、「この家はこれまで、色んな家族が借りて住んでいます。以前はお風呂がなく、住んでいる人たちはみんな銭湯に行っていましたよ」とのことだった。河井被告の実家が広島市で薬局を経営するようになった経緯は不明だが、三原市で暮らしていた幼少期は裕福ではなかったのは確かだろう。

河井被告の生家。六畳二間の風呂無しの借家だった

そんな生家周辺で河井被告の幼少期を偲ばせるものが生家以外にも1つあった。上部が地表に露出した半地下式の防火水槽だ。河井被告は自身のブログで、幼少期に防火水槽の上で「黄金バットごっこ」に興じていたことを明かしているが、近所の高齢の女性によると、「このへんの子どもはみんな、ここで遊んでいましたよ」とのことだ。

小学校時代は「事あるごとに“僕と君らでは育ちが違う”みたいなことを言う嫌みなヤツ」だったと言われた河井被告も、幼少期は近所の子どもたちと無邪気に遊んでいたのかもしれない。

つましい幼少期を過ごした少年がその後、エリート街道を歩み、大規模買収事件の罪に問われる政治家になるまでに一体、どんな人生遍歴をたどったのか。裁判で罪を認め、議員も辞職する河井被告がいつの日か自分の言葉でそれを語る日がきたら、ぜひ拝聴したい。

河井被告が黄金バットごっこに興じた防火水槽

▼片岡健(かたおか けん)

全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

7日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年5月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

「解散」という言葉が飛びかい、政局が総選挙にむかって焦点化している。このかんの二階発言「内閣不信任案なら、解散して世論に問うべきだ」が、にわかに解散総選挙を浮上させたのだ。自民党内からも「選挙は早い方がいい」「5月が菅政権のピークだ」の声が上がっているという。

騒ぎのきっかけは、3月の下村博文政調会長の発言だった。下村会長は政府がコロナ緊急事態宣言の解除を決めた3月18日の講演において、菅首相の4月訪米と日米首脳会談が固まったことにふれ「内閣支持率にも多分プラスになる。そのときに(解散)ということは可能性としてはある。追い込まれ解散という構図はつくりたくない」と述べて、訪米後の解散の可能性を指摘したのだった。

下村は最大派閥の清和会(細田派)の副会長であるばかりでなく、総裁選にも野心を持つ総理総裁候補である。その意味では、解散発言は菅政権への揺さぶりにほかならなかった。

これにたいして、二階俊博幹事長は「解散は首相が決めることだ。軽々しく言うべきものではない」と下村発言を批判。

「(下村氏が)どれだけ仲間の選挙のために汗をかいたのか。自分の選挙は大丈夫なのか」と怒りを露わにした。

◆自民党に追い詰められた二階自民幹事長

しかし下村の動きは、党内反主流派のうごきと対応したものだった。
それは3月初旬、議員会館の自民党議員事務所にポスティングされたA4一枚の「怪文書」といわれるものだ。

文書の差出人は「総選挙前に党則第6条第1項(総裁公選規程)に基づく総裁選挙の実施を求める会」で、以下のような日程が記されている。

「9月7日自民党総裁選挙告示 ▽9月20日総裁選挙投開票日(総裁決定) ▽9月22日首班指名 ▽9月27日解散 ▽10月24日総選挙投票日。」というものだ

差出人名からみてもわかるように、9月に総裁選を実施し、そこで選ばれた総裁のもとで衆院を解散するべきだ、という主張なのだ。

暗に菅総理による五輪前の解散を否定している。そして、五輪・パラリンピックが閉幕する9月5日を待ち、その後に総裁選、解散総選挙へと進むスケジュールを例示しているのだ。

したがって下村政調会長の発言は、早期解散で9月総裁選を見越したものとも、そこでの菅総理の早期退任を展望したものともいえよう。

いっぽう、菅政権の主柱を自認する二階幹事長は、下村発言に不快感を表明していたものの、ここにきて、ジリ貧よりはマシな解散の選択肢として、都議選前・オリンピック前の総選挙を考えていることを明らかにしたのだ。
冒頭に紹介した二階発言である。

「私は解散権を持っていないが、野党が不信任案を出してきた場合、直ちに解散で立ち向かうべきだと菅首相に進言したい」(3月29日)。


◎[参考動画]菅首相 自民・二階幹事長と会談、今後の政権運営協議か(TBS 2021年4月1日)

したがって、解散総選挙は本格的に政局の焦点となった。

都議選前というのは、都議選後に公明党(創価学会)が選挙疲れになる前に、都議選準備と連動したうごきで選挙に臨む。観客が日本人だけになると考えられるオリンピックの前に、せめてもの期待感とともに選挙に臨む。

この場合は、外国人選手の参加がイマイチとなり、トホホなオリンピックになった場合の寂莫感、やらなかった方が良かったという中での選挙よりもマシ、ということになる。

そしてそこには、総選挙における野党共闘の脅威。このかんの知事選での連敗(山形・千葉)が、三度目の政権交代という現実性を感じさせるからにほかならない。政権交代の可能性については、本通信の過去記事を参照されたい。いずれにしても、4月補選が当面の焦点となる。

◎《書評》『紙の爆弾』4月号 政権交代へ 山は動くのか?(2021年3月14日)

◎三度目の政権交代はあるのか? 小沢一郎と山本太郎の動向にみる菅政権の危機(2021年3月9日)

◆勝てるタイミングを見計らう

ところで、2017年秋の解散総選挙をおぼえておられるだろうか。

この年、北朝鮮の核実験・ミサイル実験によって、列島は「ミサイルアラート」の発動で準戦争状態だった。

もちろんこれは、安倍政権による過剰な「明日にも北朝鮮のミサイルが日本を襲う」という演出によるものだった。北朝鮮が全面戦争=国家の破滅、を前提にした核ミサイル攻撃をするはずがないことを見越した、いわば国民を人質にした選挙戦術だったのである。

そしてそこには、もうひとつ選挙にはデータの活用がある。すなわち、各政党およびマスコミには、多数の調査会社からデイリーで「選挙データ」が送られてくるのだ。その内容はデータサンプルも小さく、ほとんど眉唾モノのデータにすぎないのだが、いちおう数字が出てくるのであながち無視はできない。

連日、ある傾向をもって出てくるデータ(円グラフ)を曲線グラフに変換することで、投票行動の予想値まで算出できるという。そのデータをもとに、政権としてのパフォーマンスを付加すれば、選挙で勝てるタイミングが得られるのだ。

2017年の総選挙は、まさに選挙データと北朝鮮のミサイル実験がかさなったタイミングだったが、かならずしも与党圧勝とは言えない(解散前の自民議席284→284、公明党35→29)。

それでも、森友・加計学園疑惑という、安倍政権にとってお友だち優遇のウィークポイントが喉もとに突き付けられているなかで、政権延命のまずまず温存選挙となったのである。その後、タイミングを計れない定日選挙の2019年の参院選では、自民党は9議席減となっている。


安倍前首相が来県「安定政権を」 早期解散も?与野党の動き加速【新潟】(NST 2021年3月29日)

◆賞味期限切れの自民党政権

いまふたたび、自民党は選挙のタイミングを計ることで政権を維持しなければならない局面に立たされているのだ。

そのファクターは、菅総理というおよそ地味で、選挙向きではない看板にあること。コロナ禍の第4波到来をまねいた失政による自滅。しょぼいながらも、オリンピックを開催しなければならない成り行き。あるいは長期政権による弊害を、ほかならぬ選挙民たちが痛感している、いわば交代時期の到来によるものだ。

それにしても早期解散説の5月は、やはり難しいのではないか。

日刊ゲンダイが伝えるところを紹介しておこう。

「解散を先に延ばしても、菅首相には展望はありません。ただ、4月解散――5月総選挙は難しいでしょう。新型コロナウイルスの第4波が猛威を振るっている可能性が高いからです。ゴールデンウイークに人の動きが活発になるのは間違いない。その2週間後、3週間後に感染者が急増する。まさに、選挙期間中です。菅政権に批判が集中するのは明らかです。ワクチンの本格接種も始まっていない。やはり、本命はオリンピックの後でしょう。早期解散説は、4月25日に行われる3つの国政選挙で敗北したら“菅降ろし”が勃発するから、その前に解散するはず、というのが根拠になっています。でも、菅官邸は“3敗しても菅降ろしは起きない”と確信を強めています。3敗する場合、参院広島選挙区でも負けるということですが、その場合、“ポスト菅”の最右翼である岸田文雄氏も、広島県連会長として責任を問われる。ポスト菅がいなくなれば、菅降ろしも起きないという計算です」(政界関係者)。

首班後継最有力である岸田文雄に目がなくなることで、二階構想(河野太郎・野田聖子)が現実性を帯びてくるのだが、いよいよ4月の補選が見逃せなくなってきたと指摘しておこう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆マニー・パッキャオの存在

寺尾新(てらお・しん/本名:井之上新介/1970年12月24日、東京都八王子市出身)は、マニー・パッキャオと対戦した唯一の純粋な日本人として、後々注目を浴びる存在となっていった異色の格闘家である。

マニー・パッキャオは寺尾新戦の後、複数階級を制覇していくだけでもカリスマ的存在だったが、2008年12月にオスカー・デラホーヤに不利な体格差を覆しTKO勝利したことで世界を震撼させるスーパースターとなった。後も世界同時配信されるビッグマッチを続け、更には母国フィリピンで議会議員に当選し政治家活動も開始。それらの影響は思わぬ形で日本にも及んだ。

後にマニー・パッキャオは日本人記者のインタビューで、「日本は寺尾新と戦った思い出の国!」と語り、寺尾新への注目度が増すことへの拍車をかけ、マニー・パッキャオが活躍すればするほど、寺尾の株は更に上がっていった。

寺尾自身も大ブレイクに繋がった因果は、それまでの生き様が物語っていた。

小野瀬邦英さん(左)登場、後楽園ホールで偶然の出会いツーショット(2~3年前/写真提供=寺尾新)

◆前身はプロレス・ファン

寺尾新は幼い頃からプロレス好きで、カメラ小僧としてプロレスを追いかけるマニアックな青春期を送っていた。

1986年(昭和61年)4月、帝京八王子高校に入学し、プロレス好きが高じてリングを見たくてボクシング部を覗きに行くと、待ち構える先輩方の勧誘の威圧感で入部せざるを得ない雰囲気に呑まれ、渋々アマチュアボクシングを始めるに至った。

高校3年の春には、キックボクシングの小国(OGUNI)ジムに入門。プロレス好きから格闘技全般に興味を示し、シュートボクシングやキックボクシングの観戦をしていた中、斎藤京二(格闘群雄伝No.15)、青山隆、菅原賢一といった黒崎道場から育った強い選手と一緒に練習出来ることが決め手だった。

そこまでの努力は、3年生でのアマチュアボクシング東京都大会でのトーナメントはライトフライ級で優勝。

1989年(平成元年)4月には、東京都大会優勝の実績で帝京大学に推薦入学したが、ここからは思うようには勝ち上がれず、ボクシングを諦め、大学も1年で中退の道を選んだ。

小国ジム入門時期では、3ヶ月ほど後に入門する一つ年上のソムチャーイ高津(格闘群雄伝No.7)より先輩にあたるが、寺尾はまだ学生アマチュアボクサーだった為、ソムチャーイ高津が先にプロデビューし、鮮やかなKO勝ちをしたことから、「高津さんは僕の先輩です!」と尊敬の念を強めた。

山本一也(平戸)をローキックで倒す、パンチはフォロー(1994年/藍原高広氏の撮影ビデオより編集)

勝者・寺尾新の表情(1994年/藍原高広氏の撮影ビデオより編集)

身軽になった翌1990年4月、キックボクシングのアマチュア版と位置付けされる全日本新空手道大会に出場。55kg級でトーナメント初戦(1回戦)は勝利も2回戦で敗退すると、悔しさから格闘技雑誌で見た、1ヶ月のムエタイ体験入門の募集に申し込んで、謳い文句どおりの有名選手が所属するバンコクのハーパランジムで修行も行なった。

ソムチャーイ高津は帰国後の寺尾を見て、「寺尾さんはそれまでパンチしか印象がなかったのに、サンドバッグに重い蹴りをバンバン蹴っていて、人はたった1ヶ月でこんなに変われるんだ!」と成長に驚いたという。

1991年、寺尾は実家のある八王子から板橋の小国ジムに通うには遠く、すでに足が遠のき始めていたが、伊原ジムの八王子支部があることを知ると、まだプロデビューする前だった為、円満に伊原八王子ジムへ移籍した。暫くは派遣されて来た元木浩二(格闘群雄伝No.4)氏らの指導を受け、通うには近くて楽だったが、やがて八王子支部が閉鎖に陥り、遠い代官山の伊原ジム本部まで通わされることになってしまった。伊原信一会長の厳しさと指導のもと、1992年7月11日、キックボクシングの本格的プロデビューはKO勝利。

1994年12月の宮野博美(光)戦で1ラウンドKO負けが最終試合となったが、通算8戦6勝(5KO)2敗、勝利ではKO率が高い結果を残した。

キックボクシングでの最終試合となった1994年12月の宮野博美戦プログラムより

◆プロボクシング転向

やはり実家のある八王子から通うには遠かった伊原ジム。1995年春、プロボクシングの八王子中屋ジムが開設されたことを知ると、家から近いジムに通いたい願望や、アマチュアで諦めた悔いを払拭する想いも沸き上がり、プロボクシング転向を決意。円満に伊原ジムを退会し、八王子中屋ジムへ入門。

経験豊富な寺尾は間もなくプロテストを受け、C級ライセンス取得。同ジム第1号プロとして1995年(平成7年)9月22日プロデビュー。後に日本フライ級1位まで駆け上がった。

1998年5月18日に当時、東洋太平洋フライ級チャンピオンで世界タイトル前哨戦を迎えていたマニー・パッキャオと対戦。マッチメーカーのジョー小泉氏が対戦相手を探していたところ、寺尾新に白羽の矢が立った。八王子中屋ジムへ打診が入ると、強い奴と戦いたかった寺尾新は迷わず受けて立った。

各メディアに登場して、マニー・パッキャオに関して語られることは似たものになってしまうが、パッキャオと対峙しても、細身でヒョロヒョロのパッキャオに負ける気なんて全く無かったという。

しかし「遠い距離から左ストレートがいきなり飛んできた。更にあっちこっちから千手観音のようなパンチの嵐。根性やテクニックで凌げるものではなく、凄い威力で逃げられなかった!」という1ラウンド 2分59秒で、3度のダウンを奪われKO負け。

「いつもは負けたら、必ずリベンジしてやろうと思ったが、パッキャオに負けた時は二度と顔も見たくないと思った!」と敗戦後の心境を明かしていた。

寺尾は翌1999年7月3日、指名挑戦者としてセレス小林(国際)の持つ日本フライ級王座挑戦も9ラウンドTKO負け。パッキャオ戦から調子は戻らず3連敗で燃え尽きたように引退。通算16戦10勝(1KO)5敗1分の戦績を残した。勝利でのKO率は低く、ボクシングではパンチを的確にヒットさせることの難しさを表していた。

元・日本ミニマム級、ライトフライ級チャンピオン、横山啓介とのチャリティーイベントのエキシビションマッチにて(写真提供=寺尾新)

◆精力的な格闘技人生

寺尾新はプロボクシングは引退したが、元々はプロレス中心の格闘技好き。寺尾道場としたサークルを作って全日本グローブ空手道大会に出場。長瀬館長率いるTAMAプロレスへも参加。2007年9月2日、UKFジャパンのキックボクシングに出場すると、初代UKF東洋フェザー級王座を獲得。いずれも第一線級を去った後だが、プロレスとキックボクシングでチャンピオンベルトを巻くことも出来た。その後もマニー・パッキャオがどんどん活躍していくことで、寺尾新にもさまざまな格闘技のオファーが殺到したという。

2017年12月18日にはテレビ朝日の「激レアさんを連れてきた」に出演。マニー・パッキャオと戦った恩恵の多くを語り、笑いに包まれる明るくオモロイキャラクターとして寺尾新の名は格闘技界に限らず全国へ広まった。

「あの時試合しておいてよかった。悔しい思いが今となっては嬉しい想い!」という本音は、パッキャオに負けても後々に受けた恩恵は計り知れず、生活の糧となる職業は転々とするが、「パッキャオと対戦した唯一の日本人選手」と書いた履歴書は採用にかなりの効力を発揮。職探しに苦労することなく不動産会社や介護施設で働いた後、2011年12月、神奈川県相模原市緑区に、知人の会社経営者から格闘技フィットネスジムの経営を任され、「雇われ会長です!」とは言うが、知名度抜群の看板となってPREBOジムの名で運営開始。プロ選手も育てられる環境である。

PREBOジムで会員さんを指導する寺尾新会長(写真提供=寺尾新)

PREBOジム内覧風練習風景。結構広い(写真提供=寺尾新)

寺尾新自身は「生涯現役を貫こうと思っていましたが、もう燃え尽きたので現役は引退です!」と笑うが、奥様の井之上弥生選手は、4月25日に後楽園ホールでの「KNOCK OUT 2021 vol.2」に於いて、女子45.0kg契約3回戦(2分制)で、川島えりさ(クロスポイント吉祥寺)と対戦予定で、寺尾新の指導の技が試される試合でもある。

2年前の夏には熱海の海岸で、元木浩二氏主催の、昭和のキック同志会主催バーベキューパーティーが行われ、寺尾新はソムチャーイ高津氏、元木浩二氏と感動の再会となって懐かしい語り合いとなっていた。

多くの体験を経て、多くの名選手をも先輩に持つ寺尾新。運命を変えてくれたマニー・パッキャオを初め、多くの対戦者との縁も大切に、今後も指導においても格闘技の楽しさ面白さを教え、少しでも格闘技を盛り上げる力となっていきたいという寺尾新氏である。

熱海で再会、元木浩二氏(左)と寺尾新氏(2019年8月25日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

前回につづいて、昭和天皇の戦争指導を検証していこう。日中戦争の泥沼化のなかで、暴走する軍部(関東軍)およびそれを統制できない政権に懐疑的だった天皇は、開戦劈頭(へきとう)の「大勝利」に浮かれた。そして、大元帥としての軍事的才能を開花させるのだ。

◆開戦前から和平への道を模索する

 

日米開戦が決定的になった時期、昭和天皇は講和への外交工作を気にかけている。

「戦争終結の手段を初めより充分考究し置くの要あるべく、それにはローマ法皇庁との使臣の交換等親善関係につき方策を樹つるの要あるべし」(『高松宮日記』天皇から木戸幸一への下問)と、開戦前に講和工作を模索しようとしていたのだ。

この天皇の要求を、軍部も無視していない。

開戦に当っての大本営政府連絡会議の「腹案」には、独ソ講和によって日独伊三国が英国を降伏させ、ソ連を枢軸側に引きこむ。蒋介石専権の打倒および米豪の海上交通路を遮断し、アメリカをして戦意喪失させる、という希望的展望が盛り込まれている。

さらには具体的に、前掲の天皇の意を受けて、スウェーデン、ポルトガルを通じたローマ法皇庁への外交戦略も付加されている。開戦後も連合軍のシチリア上陸時に、ドイツがルーマニアの油田を失う可能性が論じられ、日本として独ソ妥協を講じられなければ、戦争方針を変更しなければならないことが検討されている(『真田穣一郎日記』)。

これらの戦争戦略、外交政策による戦争の早期終結が実現しなかったのは、戦争の性格がそれまでにない、総力戦に変わっていたからにほかならない。

総力戦とは国民経済(生産と消費)の戦争経済(軍需に集中)への転換であり、それは軍事技術・兵器の高額化と大量化に促されたものだ。

その意味では、昭和天皇が開戦にあたって、和平への道を模索していたのは、講和が容易だった日清・日露戦争、あるいは第一次大戦を限定的に戦った歴史から考えていたものにすぎない。

総力戦の時代には政治(外交)が後景化され、軍事(戦闘)が最優先になる。政治と軍事が逆転するのだ。そしてそれは、兵器の大規模化と国民の総動員によって、国家の崩壊まで突き進む。このことを天皇は理解していなかった。いや、天皇自身が総力戦に呑み込まれていくのである。

◆龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」

 

開戦劈頭、日本は海軍が真珠湾にアメリカ太平洋艦隊の主力を撃滅し、陸軍もマレー上陸から怒涛の進撃を開始する。開戦三日目には、イギリス東洋艦隊(戦艦プリンスオブウェールズ、レパルス)を航空作戦で壊滅させた。

2月にはシンガポール陥落(英軍降伏)、バンドンでオランダ軍が降伏。海軍もインド洋で残存英国艦隊(空母ハーミスほか)を壊滅させ、艦隊決戦となったスラバヤ沖海戦、バダビア沖海戦においても、米・豪・蘭・英の連合軍を敗走させた。赫赫たる勝利である。

龍顔ことのほか、うるわしく「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と天皇は喜びを述べている。じつは天皇自身が、イギリス艦隊の動き(出港)に注意するよう、戦争開始前から軍部に指示をしていた。南部仏印進駐時やイギリス艦隊の動向など、軍事的な才能さえ感じさせる発言が残されている。

フィリピンのコレヒドール要塞の攻略に手こずったとき、天皇は大本営陸軍部を執拗に督励し、追加部隊の派遣を要求している。まさに大元帥として、戦争を指揮し、督戦しているのだ。

◆陸軍機は使えないのか?

 

米豪の交通を断つ目的で、日本海軍はニューブリテン島にラバウル基地をつくり、さらにソロモン諸島に戦線を延ばした。ニューギニアの攻略を目的とした陸軍とのあいだに、齟齬が生じるようになってしまう。昭和17年の南太平洋における戦いは、天皇にとって陸軍と海軍の提携が気になって仕方なかった。

「ニューギニア方面の陸上作戦において、海軍航空隊では十分な協力の実を挙げることができないのではないか。陸軍航空を出す必要はないか」(田中新一『業務日誌』)。

陸軍はこのとき、中国の重慶攻撃のために爆撃機を南方から撤退させる計画を進めていた。しかも陸軍機は、洋上での航法に慣れていなかった。編隊からはぐれてしまうと、海上で迷子になったまま帰還できない爆撃機も少なくなかったのである。

ガダルカナル島の飛行場が米軍に奪われると、天皇は三度目の督促をする。

「海軍機の陸戦協力はうまくいくのか、陸軍航空を出せないのか」(「実録」)と。

このガダルカナル島の苦戦を、軍部以上に気にかけていたのは昭和天皇だった。

「ひどい作戦になったではないか」(「実録」)と、感想をのべている。

珊瑚海海戦、南太平洋開戦で海軍が得た勝利も「小成」と評価はきびしい。開戦当初の勢いからすれば、アメリカの戦意を喪失させる大勝が待ち遠しかったのである。

◆日露戦争の教訓から注意を喚起するも

 

学者的な几帳面さで、歴史にも通じていた昭和天皇は、困難な時期にも軍事的な天才ぶりを見せている。海軍がガタルカナル島の米軍飛行場を、夜間艦砲射撃しようとした(天皇に上奏)さいのことだ。

「日露戦争に於いても旅順の攻撃に際し初島八島の例あり、注意を要す」(『戦藻録』)と釘を刺したのだ。

日露戦争の旅順閉塞戦のとき、戦艦の初瀬と八島が機雷によって沈没した、ある意味では貴重な戦訓を、海軍の永野修身軍令部総長に伝えたのである。

この天皇の警告は、的中してしまった。海軍にとって二度目の艦砲射撃(一度目は戦艦金剛と榛名)だったが、同じような航路をとってガタルカナルに接近した戦艦比叡と霧島は、待ち構えていたアメリカ軍の新鋭戦艦のレーダー砲撃の餌食となったのだ。夜間攻撃であれば、いちど成功した航路をたどりやすい。アメリカは用意周到にこれを狙い、昭和天皇も歴史に学ぶ者にしかない直感で、危機を感じ取っていたことになる。

昭和17年6月には、ガタルカナル島攻防(撤退)とならんで太平洋戦争のターニングポイントになるミッドウェイ海戦で、海軍も致命的な敗北を負った。

この年の12月、昭和天皇は陸海軍とも「ソロモン方面の情勢に自信を持っていないようである」「如何にして敵を屈服させるかの方途が知りたい」「大本営会議を開くべきで、このためには年末年始もない」と軍部を突き上げた。

そして実際に、12月31日に大本営会議が開かれた。ガタルカナル島撤退後、どこかで攻勢に出なければならない、という天皇の焦りが感じられる。

◆決戦をもとめる天皇

昭和18年になるとアッツ島玉砕をはじめ、アメリカ軍の反転攻勢がめざましくなる。

「どこかの正面で、米軍を叩きつけることはできぬか」(『杉山メモ』)という言葉を何度も発している。

昭和天皇の発言だけを見ていると、軍部にやる気が感じられないかのようだ。いや、軍部は戦力的な手詰まりに陥っていたのだ。太平洋上に延びきった前線では、アメリカ軍との戦いよりも、兵士たちは飢えと感染症に苦しんでいた。輸送船が潜水艦に狙われ、海軍は前線の補給のために駆逐艦を使わなければならなかった。

昭和19年の元旦には「昨日の上奏(上聞)につき」として「T(輸送船)北上につき、敵の牽制なるやも知れず『ニューブリテン』西方注意すべし」と、侍従武官を呼びつけて警告している。この年も大晦日まで、軍務にかかる上奏を受けていたことになる。

それはともかく、実際にアメリカ軍は輸送船団を陽動部隊にして、日本軍の注意をニューブリテン島に惹きつけておいて、ニューギニア北部に上陸していたのだ。昭和天皇の細かい注意力は、数千キロ離れた戦場に向けられていたのである。

 

しかし全般的に、昭和天皇の戦争指導は減退してゆく。

敵機動部隊(スプルーアンス提督が率いる15隻の空母部隊)がサイパンに近づくと、天皇はサイパン失陥で東京がB29の爆撃範囲に入ることを考え、海軍に不退転の決戦をもとめる。

「このたびの作戦は、国家の興隆に関する重大なるものなれば、日本海海戦のごとき立派なる戦果を挙げるよう作戦部隊の奮励を望む」(「業務日誌」)と。

しかるに、日米の空母機動部隊同士による海空決戦(マリアナ沖海戦)は、日本海軍の惨敗に終わる。空母3隻を喪失、艦載機400機を失ったのである。そしてサイパン島も、上陸したアメリカ軍の支配するところとなった。

意気消沈した天皇は、吹上御所で夜ごとにホタルの灯をながめていたという。このときこそ、昭和天皇は戦前からの持論であった「講和交渉」を始めるべきであった。

結果論で批判しているのではない。みずから語った日本海海戦に比すべき戦いに負け、サイパンが陥落したのだから、東京空襲の災禍は誰の目にもわかっていた。国家を崩壊させる総力戦の威力を、しかし天皇は徐々に知ることによって「和平」のタイミングを逸し、国民を絶望的な戦いに巻き込んでしまうのだ。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

3月28日、名古屋市内で「冤罪 名張毒ぶどう酒事件の全国支援集会&全国の会総会」が開催された。事件発生から60年目のこの日、午後11時から名古屋駅周辺で大規模な宣伝活動が行われ、雨の中、200人もの人たちが参加。14時から始まった支援集会&全国の会総会会場もあふれんばかりの参加者で埋め尽くされた。

3月28日、名古屋市内で行われた「名張毒ぶどう酒事件の全国支援集会&全国の会総会」

1961年3月28日、三重県名張市葛尾の公民会で開かれた村の親睦会で、ぶどう酒を飲んだ女性5名が死亡する事件が発生、奥西勝さん(当時35歳)が逮捕、起訴された。1964年12月23日津地方裁判所は、検察側の死刑求刑を退け、奥西さんに無罪判決を言い渡し、奥西さんは釈放された。一方、検察はこの判決を不服として名古屋高裁に控訴、1969年9月10日、名古屋高裁は、無罪判決を破棄し、奥西さんに逆転死刑判決を言い渡した。1972年6月15日、上告が棄却され、奥西さんの死刑が確定した。

奥西さんはその後も無実を訴え続け、再審を闘い続けてきた。2005年4月、第7次再審請求で再審開始が決定されたが、検察官の異議申し立てにより再度逆転し、翌年取り消し。2015年10月4日、無実を叫び続けた奥西さん(89歳)は、八王子医療刑務所で無念の獄死を遂げた。その後、妹の岡美代子さん(再審請求時86歳)が名古屋高裁に第10次再審を申し立てた。

会場参加を望んだが、コロナのためと支援者らに止められ、自宅からビデオメッセージを送られた岡美代子さん

集会では、岡美代子さんのビデオメッセージが紹介された。

「この60年間は家族にとって言葉につくしがたい苦しみの歳月でした。兄・勝は5年前無実を叫びながら獄死するにいたってしまいました。私はどうしても許すことができません。私は年齢ですが、最後のお願いになるかもしれません。兄・勝は絶対やっておりません。長い再審の闘いを通じて兄・勝の無実は明らかです。1審は無罪、そして再審請求でも一旦は開始決定を頂いています。無実の証拠が次々と明らかにされていましま。すべての証拠を明らかにして、まっとうな判断をして頂きたいと願っております。この目で無実の判決を見届けたいとの思いでいっぱいです。」

しかし、岡さんの申し立てから4年間、名古屋高裁は、弁護団との面会を拒否し、審理を行ってこなかった。高橋裁判長に対する弁護団の3度の忌避申立と支援者の抗議が実り、2019年12月、名古屋高裁刑事部第二部に鹿野伸二裁判長が着任し、それまで一切動かなかった裁判所が一転して動くようになった。

弁護団は裁判長と面談し、①検察官の未提出証拠につき裁判所から証拠開示するよう働きかけてもらいたいこと、②ぶどう酒瓶の封緘紙裏面についている糊の成分を特定するため、フーリエ変換赤外分光光度計による再測定を許可してほしいことなどを強く求めていた。会場で行われた市川哲宏弁護士の報告から、再審へ向けて新たな動きを見てみよう。

◆「犯人は毒物を混入したあとで、栓を閉めて封緘紙を張り直した」

農薬が混入されていたぶどう酒瓶の蓋には封緘紙(ほうかんし)がまかれていた。奥西さんの自白では「公民館の囲炉裏の間で、火箸でぶどう酒の瓶の外蓋を突きあげて開けた。外蓋が飛んでいったとき、封緘紙も切れて外れた」「農薬を入れ、栓を閉めるときは内蓋を手で閉めて栓をした。外蓋は外れたままでした」とされていた。それが事実なら、封緘紙には、ぶどう酒が製造された段階でつけられていた工業用のCMC糊が付着しているはずだ。

一方、真犯人が、封緘紙を切って外し、外蓋と内蓋を開け、農薬を入れ、内蓋と外蓋を閉めて封緘紙を張り直したと考えた場合には、封緘紙には工業用の糊に加えて、真犯人が張り直したときに使った別の(一般家庭にあるような)糊が付着しているのではないか。もし別の糊が付着していた場合、奥西さんの自白による開栓方法とは全く違ってくるうえ、真犯人が公民館以外の場所でぶどう酒に毒物を混入し蓋を閉め、封緘紙を張り直した可能性がでてくる。つまり、犯行現場は公民館の囲炉裏の間で、奥西さんにしか犯行の機会がないという裁判所の事実認定の誤りが明らかになるのだ。

弁護団は、2020年8月、裁判所にフーリエ変換赤外分光光度計を持ち込み、澤渡教授と封緘紙の裏面についていた糊の成分の再測定の実験を行った。結果、封緘紙の裏面に工業用のCMC糊に加えて、洗濯糊に利用されるPVAを成分とする糊が付着していることが判明した。10月5日、弁護団は、この再測定に基づいて作成された鑑定書を新証拠として裁判所に提出した。

◆「紙がまいてあった」との供述調書が新たに開示された

そんな中、今年に入り、未開示の供述調書9通の存在が明らかになった。検察官は、開示の必要なしとの意見だったが、裁判所が検察官に開示するよう促し、3月3日開示された。9通の供述調書は、事件当夜の親睦会に参加していた会員のもので、3月30日、31日と事件の記憶が鮮明な時期にとられたものだ。うち3通は、公民館に運ばれたあとのぶどう酒瓶について、封緘紙がついていたかどうかを述べるものであった。警察官に「封をしている紙(封緘紙)があったかどうか?」と聞かれ、「蓋がしている処に紙がまいてあった」「王冠のふちに封した紙を巻いてありましたので」と供述している。

これらの供述は、奥西さんの自白と矛盾する事実を示すばかりでなく、先の糊問題の新証拠が示す事実と整合する極めて重要な証拠だ。

弁護団は、今回の証拠開示をきっかけに、事件の本丸ともいえる「ぶどう酒瓶到着時刻問題に関連する関係者の初期供述証拠」の開示を実現させたいと考えている。ぶどう酒瓶が会長宅へ到着したのはいつかを決着をつけるため、犯行を行える人物が本当に奥西さん以外いなかったのかを証明するために、すべての未開示の供述調書や供述に関する捜査報告書などの一切の書面が開示されなければならない。

弁護団が作成した表によると、まだ大量の証拠が検察により隠されている。2月5日、裁判所は検察官に対して、事件当日の親睦会に参加した者の供述調書およびこれらの者に関する証拠書類と、公民館に運ばれたあとのぶどう酒瓶の状況に関する捜査報告書などについて、弁護人に開示されているもの以外に存在するかどうか、存在する場合にはその証拠の標目を明らかにされたいなど2事項について求釈明を求めた。これに対して検察は、3月14日「現在弁護人に開示されているもの以外に『開示すべき証拠』は存在しない」などと、正面から答えようとしない不誠実な回答を提出してきた。

グレーの部分が開示されていない証拠

検察官は公益の代表者、証拠という公共の財産の管理者である。事件解明のためにすべての証拠を公にし、60年前のあの日、小さな村で何が起きたかを明らかにしなくてはならない。奥西さんを犯人にするために、村人の証言が、徐々に変わってきた(変えられてきた)ことで、村の人たちへも非難の目がむけられた。検察が全ての証拠を開示していたならば、事件はより早く確実に解決し、村の人たちも凄惨な事件の全貌を理解し、新たな一歩を踏み出せたはずだ。

冤罪は冤罪犠牲者やその家族だけではない、すべての事件関係者の人生を取り返しのつかないものにしてしまう。検察はすべての証拠を開示し、1日も早く奥西勝さんと岡美代子さんに無罪判決を言い渡せ!


◎[参考動画]名張毒ぶどう酒事件全国支援集会&全国の会総会(tadaaki nagao 2021年3月28日)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

《4月のことば》花 自由に生きる 自分らしく咲く(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

 
花咲き乱れる季節となりました。
しかし、世相は暗い。
悠長に咲き乱れる花を眺めている余裕はないかもしれません。

鹿砦社のホームグラウンド・甲子園、一昨年までなら、今の季節は高校野球、これが済んだらプロ野球開幕──全国から多くの人々が駆けつける季節で、咲き乱れる花のように人の洪水で賑やかでした。なにしろ野球だけで年間400万人以上(阪神甲子園球場発表)の人々が押し寄せるのですから。

まだまだ厳しい世情が続きますが、「自由に生き」「自分らしく咲」いていきましょう!
 
 

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

『NO NUKES voice』Vol.27《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

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