1『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』(2017年12月8日刊行)定価=本体1250円+税

鹿砦社取材班は常に「自分たちは間違っていないか? どこかに勘違いはないか?」と、留保の姿勢を維持しながら取材、執筆にあたっている。事実を探しだし、関係人物に話を聞き、事象を裏づける根拠(物証)を見つけて、ようやく原稿化する。当然のように「取材班は正義だ!」などとは微塵も思わない。むしろ世間知らずな面があることを自覚しながら、足らざる部分を補い合い、間違いを指摘し合いながら仕事をしている。

また、取材班は異なる個性の集合体であるので、個々の思想信条や属性、政治的意見もバラバラな人格の寄せ集めである。ただし、「差別」は許さない、「暴力やいじめは許さない」ことに関しては完全に一致をみている。その前提が共有できれば「M君リンチ事件」は、加害者や周辺人物がどのように詭弁を弄しようが、許されざる事件であることは簡単に理解できる。

◆「正義は暴走していいんだよ」と主張する人たち

他方、上記のように、「正義は暴走していいんだよ。だって、暴走しても正義だもん」と主張する人がいる。あきれる。笑いごとではない。小学生や幼児ではあるまいに。おのれを「正義」と規定する傲慢さと、「暴走してもいい」との際限なく浅はかで、危険な心情を吐露したコトバ。「暴走」はあらゆる場面で、ものごとの度が過ぎる場合に用いられるコトバだから、仮に自分の「正義」を確信したとしても(したならば、なおさら)「暴走」などと、理性ある大人は口にはしない。しかも公職や法曹関係者にとっての「正義」がいかなる定義づけをなされるか、は容易に想像される。

少なくとも「正義」の延長上に「暴走」を承認する理性などは、嘲笑の対象でしかない。彼がこの言葉を発したのは初めてではないらしい。やっかいなことに、彼は弁護士の職にある人物だ。その引用をしている人物も同様に弁護士、しかも二人ともM君と争う立場にある人たちの代理人を受任している。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

◆しばき隊の「正義」は変幻自在に変化する

彼らに倣(なら)うかのように「しばき隊」は「みずからが規定する『正義』」になんの疑いもなく「暴走」する。しかしその「正義」の意味するところは、「しばき隊」にとって都合のよいように、変幻自在に変化する。彼らは「ヘイトスピーチ」はいけないという。取材班も同意する。

ではなぜ「ヘイトスピーチ」がいけないのか? 取材班は「差別される人の心を傷つけるから」ゆるされないものだと考える。「しばき隊」もおおすじ合意してくれるだろう。問題はその先だ。現象は常に「わかりやすい」とは限らない。口をつく、文字になる、映像になる差別のほかに、心に宿る差別はどうだろう? 取材班は常に、自己も無意識に保持するかもしれない「心に宿る差別」にも注意をはらう。そして「ヘイトスピーチ」が許されないものであるならば、「人の心だけでなく身体を傷つける暴力」がさらに罪深いことは当たり前だろう。

取材班はとりたてて優れた、または新たな人権思想や、社会のイメージを持っているなどとまったく思っていない。間違いをおかすことは誰にでもあるだろうと思う。なぜか? 「人間」だからだ。

きわめて単純だ。人間に絶対などなく、おおむね「正義」は相対的なものであり、自己を「正義」と評した瞬間、その人は無謬性という思考停止におちいることをあまたの歴史や経験から、そして取材班内の多様性からも知り得ているからだ。「人はみな違う」ことが重要なのだ。

鹿砦社への暴言の一部(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

◆“成果”にしろ“負の遺産”にしろ、社会運動の歴史を直視する

取材班は“成果”にしろ“負の遺産”にしろ、社会運動の歴史を直視する。歴史は断絶したものではありえず、負債にしろ勝利にしろ、私たちの社会で少なくとも戦後どのような社会運動が起きたのかをかなり研究し、共有している。その結実はなんだったのか? 戦術は? 参加者の想いは?被害者はいなかったか? あまつさえ犠牲者はでていないか? 不幸にも犠牲者が出ていれば、それは権力側の横暴によるものであるのか? あるいは不幸にも「正義の暴走」が引き起こした結果なのか?

歴史の前で謙虚になれば、「私たちはまったく新しい運動体」などと言い放つことができる運動など、出てきようががないことはあまりにも自明ではないか。その厚顔無恥を3・11後にやってのけたのが「反原連」(首都圏反原発連合)だった。首相官邸前に「日の丸」を掲げた“烏合の衆”(あえてこのように評す)が集まって、主催者内だけではなく「警察と打ち合わせ」(弾圧側との癒着は「社会運動」とは呼べない。社会運動の常識からすれば、これは「官製集会」、「官製デモ」と評されても過言ではなかろう)をしていた連中。彼らがやがてとんでもないことを引きおこすであろう予感は当時からあった。

◆「とんでもないこと」は2014年12月16日深夜から翌朝にかけて生じていた

そして「とんでもないこと」は実際2014年12月16日深夜から翌朝にかけて、不幸にも生じていた。「M君リンチ事件」だ。この事件を引き越した加害者の中には「戦後社会運動の歴史」を知るものはいないだろう。「新しい社会運動」と勘違いした人々のほとんどはそうだ。そうではなく「戦後の社会運動の歴史」を知る人は「ヘサヨ」、「ブサヨ」、「極左」などの烙印を押され、パージされていった。そして「失敗体験」を知らない人々だけが、「運動」を構成するようになり、やがて「運動」は目的をとらえ切れなくなる。2017年のしばき隊はすでに、「迷走」状態に突入しており、論理的整合性をたもった議論や論述を展開できなくなっている。「しばき隊」の出自が「日の丸」を掲げ「警察と打ち合わせ」をする「反原連」にそのルーツがあることをかんがみれば、当然の帰結である。

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる──。(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

いまや「しばき隊」は極度のジリ貧で、中央が「締め付け」を強めないことには、アクティブな活動家とみられているメンバーの中にも、「辞めたいんですけど、怖くて」と取材班に連絡をしてくる人がいるほどだ。特高警察支配、スターリンの粛清なみに「しばき隊」の締め付けは、厳しいものになっている。つまり、彼らは崩壊の危機にあるのだ。でも心配はいらない。あなたたちを陰で支える、この国の権力はどこかで、あなたたちにテコ入れをしてくれることだろう。なぜならば、「あなたたち」をもっとも必要としているのは、「差別」された人でも「反原発」の人でも「沖縄」の人でもなく、「この国の権力中枢」にほかならないからだ、と取材班はみている。

(鹿砦社特別取材班)

『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD(2017年12月8日刊行)

カウンターと暴力の病理
反差別、人権、そして大学院生リンチ事件
鹿砦社特別取材班=編著
A5判 総196ページ(本文192ページ+巻頭グラビア4ページ) 
[特別付録]リンチ(55分)の音声記録CD
定価:本体1250円+税 12月8日発売! 限定3000部!

渾身の取材で世に問う!
「反差別」を謳い「人権」を守るとうそぶく「カウンター」による
大学院生リンチ事件の<真実>と<裏側>を抉(えぐ)る!
1時間に及ぶ、おぞましいリンチの音声データが遂に明らかにされる! 
これでも「リンチはない」と強弁するのか!? 
リンチ事件、およびこの隠蔽に関わった者たちよ! 
潔く自らの非を認め真摯に反省せよ! 
この事件は、人間としてのありようを問う重大事なのだから――。

【内容】

私はなぜ「反差別」を謳う「カウンター」による「大学院生リンチ事件」の真相
究明に関わり、被害者M君を支援するのか

しばき隊リンチ事件の告発者! M君裁判の傍聴人にしてその仕掛け人!!
在特会&しばき隊ウォッチャーの手記

カウンター運動内で発生した「M君リンチ事件」の経過
続々と明らかになる衝撃の証拠! リンチの事実は歴然!

「M君リンチ事件」を引き起こした社会背景
精神科医・野田正彰さんに聞く

前田朗論文が提起した根源的な問題
「のりこえねっと」共同代表からの真っ当な指摘

リンチ事件に日和見主義的態度をとる鈴木邦男氏と義絶

われわれを裏切った〝浪花の歌うユダ〟趙博に気をつけろ!

「M君リンチ事件」加害者・李信恵被告による「鹿砦社はクソ」発言を糾すが、
誠意ある回答なく、やむなく提訴いたしました!

「M君リンチ事件」裁判の経過報告
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鹿砦社元社員の蠢動と犯罪性
11
大阪司法記者クラブ(と加盟社)、およびマスコミ人に問う!
報道人である前に人間であれ!
M君と鹿砦社の記者会見が五度も<排除>された!

『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(紙の爆弾2017年6月号増刊)

『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(紙の爆弾2016年12月号増刊)

『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(紙の爆弾2016年7月号増刊)