新聞批判を超えて──「押し紙」が映し出すジャーナリズムの構造、延々と続いてきた精神論

黒薮哲哉

古い書棚に一冊の月刊誌がある。2005年4月号の『創』である。同号には、「新聞ジャーナリズムにいま何が問われているのか」と題する座談会が掲載されている。発言者は、原寿雄(共同通信編集主幹)、桂敬一(立正大学教授)、橋場義之(上智大学教授)の3氏である。

3人は、当時の新聞を厳しく批判している。例えば桂氏は、「『言論・表現の自由』は自分たちが闘って勝ち取るものであり、表現の自由への不当な侵害は許さないと、報道界は一致結束して言うべきなのに、指定公共機関問題に対する発言は弱い」と述べ、報道界の姿勢を批判している。

座談会全体を貫いているのは、新聞社や新聞記者の姿勢、あるいはジャーナリストとしての職業意識に対する強い不満である。暴力や恫喝を伴う新聞勧誘の問題にも言及している。

ところが、「押し紙」問題については触れていない。

これは奇妙である。2005年当時、「押し紙」は決して未知の問題ではなかった。特に福岡県では新聞販売をめぐる問題が表面化していた。新聞ジャーナリズムの危機を論じながら、新聞社の経営そのものにかかわる「押し紙」に踏み込まない。この欠落は、当時の新聞批判が抱えていた限界を象徴しているのではないか。

新聞に対する批判は、今に始まったことではない。詳細には立ち入らないが、1950年代にも新聞に対する強い批判があった。それから70年以上を経た2026年の現在も、新聞に対する風当たりは強い。新聞離れが進み、発行部数が減少し、新聞社の経営環境も大きく変わった。それでも、「押し紙」をめぐって新聞業界が積極的に自らの実態を検証してきたとは言い難い。

戦後、「押し紙」問題に研究者として本格的に踏み込んだ人物として、創価大学の新井直之教授がいる。しかし、この問題が新聞研究やジャーナリズム研究の中心的なテーマとして扱われてきたとは言い難い。

なぜなのか。ここに、日本における新聞批判の一つの特徴がある。

(※鹿児島大学の元准教授・宮下正昭氏には、「押し紙」について踏み込んだ論文がある。)

◆欠落した唯物論の視点

過去の新聞批判を読み返してみると、その多くは、結局のところ新聞記者の「精神」の問題に行き着く。記者魂がない。権力と闘わない。勉強不足である。取材力がない。使命感がない──。

もちろん、記者個人の資質や職業倫理は重要である。しかし、それだけで新聞ジャーナリズムの問題を説明できるだろうか。

例えば、優秀で良心的な記者が新聞社に入ったとしても、その記者が所属する企業の経営構造、広告主との関係、販売制度、記者クラブ制度、官公庁との関係などから完全に自由に取材・報道できるわけではない。個人の意思とは別のところで、報道を方向づける力が働くからである。

それにもかかわらず、問題の原因を記者の使命感や倫理観に求め続けるなら、批判はいつまでも「もっと勇気を持て」「もっと勉強せよ」「権力と闘え」という精神論の域を出ない。

このような思考方法を哲学的に整理すれば、観念論的な発想ということになる。

これに対して、唯物論的な視点に立てば、人間の意識や精神だけではなく、その意識を生み出し、行動を制約する物質的・社会的条件に目を向けることになる。マルクスとエンゲルスは、この視点を社会と歴史の分析に適用し、社会の政治や思想を、その背後にある経済的・社会的構造との関係から考察した。

新聞についても同じ視点が必要ではないか。その答えを記者個人の精神にだけ求めるのではなく、新聞社を取り巻く経済的・制度的な構造に求める必要がある。その構造を考えるうえで、「押し紙」は避けて通れない問題である。

◆何が原因なのか?

「押し紙」によって新聞社が得る収入は、最低限に見積もっても、業界全体で年間1000億円程度に上ると私は推計している。しかし、問題は金額の大きさだけではない。

新聞社の経営が「押し紙」による収入を前提として成り立っているとすれば、それを排除することは、単なる販売正常化では済まない。新聞社の収益構造そのものを揺さぶることになる。

仮に公正取引委員会が独占禁止法に基づいて「押し紙」を厳格に規制し、新聞社が販売店に実売部数を超える新聞を供給することが事実上できなくなれば、新聞社の販売収入は減少する。公称部数と実売部数との乖離が縮小すれば、広告媒体としての新聞の評価にも影響が及ぶ可能性がある。

その結果、新聞社によっては人員削減や組織再編を含む大幅な経営合理化を迫られるだろう。ここで重要なのは、公権力と新聞社の関係である。

新聞社の経営を左右しかねない問題について、行政機関が法執行の裁量を持っているとすれば、そこには権力関係が生まれる余地がある。行政機関が実際に新聞社へ圧力をかけているかどうかとは別に、新聞社側が「本格的な法執行を受ければ経営が揺らぐ」と認識しているだけでも、その関係は報道機関の権力監視機能を考えるうえで無視できない。

つまり問題は、政府が新聞社に対して直接「この記事を書くな」と命令するような単純な検閲だけではない。新聞社の経営基盤に影響を与え得る制度や法執行を公権力が握っていること自体が、報道機関と権力との関係を考えるうえで重要なのである。

実は、新聞社の経営基盤と公権力との関係という視点から歴史を振り返ると、戦前にも類似した問題があった。

戦時体制下では、新聞用紙の統制が新聞経営を左右する重要な手段となった。新聞を発行するには紙が必要である。その紙の供給を統制されれば、新聞社は政府の政策から完全に独立して経営することが難しくなる。言論統制は、記事そのものへの直接的な介入だけでなく、新聞を発行するための物質的条件を支配することによっても可能になる。

もちろん、戦前の新聞用紙統制と、戦後の「押し紙」を同一視することはできない。前者は戦時統制の一環として国家が直接関与した制度であり、後者は新聞社と販売店との取引関係の中で形成された商慣行である。成立の経緯も法的性格も異なる。

しかし、両者を「新聞社の経営基盤と公権力との関係」という視点から比較することには意味がある。戦前は、新聞を発行するために不可欠な「紙」が新聞経営の急所だった。戦後は、販売部数とそれに連動する収入が新聞経営の急所の一つになった。

もし「押し紙」が新聞社の収益構造に深く組み込まれ、その存否を左右し得る法執行権限を公権力が握っているとすれば、そこには新聞社が権力から完全には自由になれない構造的条件が存在することになる。

この視点に立てば、新聞ジャーナリズムの問題を「記者魂」の欠如だけで説明することが、いかに不十分であるかが分かる。記者に勇気を求めることは簡単である。しかし、記者が所属する新聞社の経営構造そのものが権力との緊張関係を弱める方向に作用しているのであれば、個々の記者に精神論を説くだけでは何も変わらない。

問うべきは、「なぜ記者は闘わないのか」だけではない。「記者が権力と対峙しにくくなる構造が、新聞社の内部と外部にどのように形成されているのか」なのである。その構造を解明し、変えない限り、新聞ジャーナリズムに対する批判は、10年後も20年後も同じ言葉を繰り返すことになるだろう。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2026年10月3日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
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