11・1同志社大学ホームカミングデー高橋博子さん講演会 矢谷暢一郎(ニューヨーク州立大学心理学名誉教授)さんから熱い連帯のメッセージが届きました!

松岡利康

11・1同志社大学ホームカミングデー高橋博子さん講演会に、激動の1960年代後半、ヴェトナム反戦運動が世界的に盛り上がる中、「伝説の学友会委員長」といわれ先頭で闘った、アメリカ在住の先輩・矢谷暢一郎(ニューヨーク州立大学心理学名誉教授)さんから熱い連帯のメッセージが届きました!

全関西の労働者、学生、市民のみなさん! 11・1には同大京田辺キャンパスに圧倒的に結集し、今こそ反戦、反核、反原発の声を拡げていこうではありませんか! 同志社大学キャンパス内での講演会ですが、同志社OB・関係者でなくても、他大学OBでもどなたでも自由に参加できます。

以下、矢谷さんからのメッセージを掲載いたします。(松岡)

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60年前同志社大学学友会の反戦・反核運動と今日の挑戦

矢谷暢一郎
Professor Emeritus of Psychology at Alfred State College

奈良大学・高橋博子先生を招いて行われる2026.11.1 同志社大学ホームカミングデー講演会に、ニューヨークの片田舎アルフレッドより連帯のメッセージを送ります。

高橋教授(文化史学博士)は1969年生まれ、同志社大学文学部卒業とあります。それよりも23年前1946年生まれの私は、1965年に同志社の英文科に入学しました。第二次世界大戦・太平洋戦争直後に生れた日本人はアメリカ民主主義の第一世代と言われます。1945年の夏、広島・長崎に落とされた世界で初めての原子爆弾で、21万人以上の(1945年12月末までに)犠牲者たちの死の上にもたらせた民主主義と平和憲法でした。自治と民主主義、平和は日本だけではなく世界共通の国際主義が要求されるとは、アメリカ民主主義第一世代が突き付けられた1960年代の教訓でもありました。

大戦中、浜松航空隊の「特攻隊候補生」だった父親は7月幸いにも(!?)大病に見舞われて、死の突撃の前に矢谷家の跡取りを産むために日本海の漁村の田舎に一時帰省が許され、娶った母親に私を産ませて浜松航空隊に戻る直前に民主主義国家アメリカの原子爆弾で「生き長られる羽目になりました」。(10年ほど前、生前の母親に、「原爆が落とされず、浜松に戻った親父が太平洋でゼロ戦で爆死して後、ボクを妊娠していなかったとわかったら、お母さんどうなっていた?」と訊いたら、そげなこと誰にもわからへんかった。同じような境遇の女の人は私ひとりじゃなかったんだよ…」と応えた。)

1965年に隠岐の島出身の私が入学した京都の同志社は、ヴェトナム反戦運動が盛り上がり、あっちこっちに、学術団、文連、新聞局、学生放送局、各自治会などを総括する全学自治組織「学友会」の反戦の看板が立ち並び、先生方、生協の組合員たちも一緒になって、同志社は全体としてアメリカのヴェトナム戦争反対、「非核三原則」を支持し、戦争放棄した日本国憲法を守る運動、「護憲運動」を繰り広げていました。1968年1月17日~21日、原子空母エンタープライズがヴェトナム北爆に参加した戦闘機を搭載していたことから、この空母が日本初の佐世保寄港をすることがわかり、日本がヴェトナム戦争の出撃基地になることへの不安、反発、そしてエンタープライズの寄港が日本への核兵器の持ち込みと放射能汚染の懸念が広まり、日本全国から原子力空母寄港反対派の労働組合員や新左翼系の学生たち(三派全学連など)が佐世保に結集し、「エンプラ反対」の激しい運動を繰り広げました(当時の詳細や映像はNHKアーカイブスや佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争 – Wikipedia参照)

同志社英文科の新入生となった私は、1967年の2回生で文学部英文科自治委員3人の1人に選出され、1月の「エンプラ反対」に他の自治会委員・学友会執行部委員たちと京都から鉄道深夜便で佐世保に入り、エンプラ寄港反対運動に参加しました。全国から集まった若い労働組合員たち、そしてたくさんの佐世保市民たちと4日間にわたる、あのような大きい反戦・反核・護憲運動を体験したことはありません。

1968年、2万人を擁する同志社の学友会中央委員長に選ばれた私は、10月21日の国際反戦闘争に全学ストライキで参加しました。フランスでは5月革命・5月危機と言われたパリのカルチェ・ラタン闘争に続き、アメリカ、ドイツとヨーロッパ各地で起こったヴェトナム反戦の学生運動は文字通りのinternational anti-war dayと世界的な規模となりました。

この年の2年前、英文科助教授として就任したばかりの矢内原伊作の招待で同志社にやって来たジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボ―ヴォワールが、実存主義をベースに「人間は社会に対してどのように主体的に関わるべきか(政治参加すべきか)」を強く説いた講演をしましたが、後の日本の学生運動や大学闘争の思想的背景に大きな刺激を与えた実例としても語られるべき60年代の同志社の社会政治的態度、行動の表明でした。

一国の良心として育成される同志社の教育精神は受け継いだものの、私は同志社を卒業していません。60年代の反戦学生運動が三派全学連内の「日本革命運動を巡る党派・党内闘争」の結果に責任が負えず、同志社を中退、2、3年のサラリーマン生活にも満足できず、1977年アメリカに渡りました。

ユタ州の大学で学士、オレゴン州の大学院で修士、そしてニューヨーク州のストニー・ブルック大学院で心理学の博士号を取りつつあった1986年、オランダであった国際政治心理学会での論文発表後、帰国したニューヨークのジョン・F・ケネデイー空港で逮捕され、アメリカ連邦拘置所に44日間拘留。学生ヴィサも取り消され、国外追放の危機に見舞われました。

拘留・追放の容疑・罪状は「日本でのアメリカのヴェトナム反戦活動、共産主義団体のメンバーもしくはそれに関係ある組織の反米活動に従事、アメリカ人とアメリカ国家に不利益な、undesirable alienとしてMcCarran-Walter Act(1952)のブラック・リストに載せられ、国外追放の処罰」。国際学会の研究発表は、アメリカの「反核態度と反核運動の不一致:不一致を正当化する心理的詭弁としてのアメリカ国家主義と個人主義」。国外追放の直前、私を「救出」したのは、日本のパスポートを発給した日本政府ではなく、アメリカの大学・法曹界・人権団体・新聞テレビラジオのマス・メディア、ワシントンDCの議員たちのアメリカ政府批判などで、名もしれぬ多くのアメリカ人の抗議によって、レーガン・アメリカ政府は国外追放を諦め、私は妻とアメリカ生まれの二人の息子たちのアメリカの土地に戻されました。

家に帰った後博士号学位を取りましたが、アメリカ政府のブラックリストに載せられた私のアメリカでの就職探しはなかなか大変でした。それでもニューヨークの片田舎で、30年間ニューヨーク州立大学のアルフレッド工科大学で教授職に携わり、現在心理学名誉教授としてアルフレッドで田舎暮らしをしています。

来年6月,University of Split in Croatiaの“Archipelagos of Meaning”をテーマとした人文科学国際学会で、“Living in the Kafkaesque:An Undesirable Alien in America”と題して、「ヤタニ・ケース」の発表を行う予定です。

アメリカ帰りの新島譲は同志社の創設精神として、一国の良心たらんと若い学生たちを鼓舞しました。今年80歳になった私はアメリカに在って、夢を託した未来を「明日があるさ」と期待しましたが、「明日」は早く来すぎてしまい「明日の明日」を期待しなければならないスーパーパワーの混乱を見る今日です。

米国政府もロシア政府も、外国人排斥政策と不必要な戦争で自らの失策を覆い隠そうと躍起です。グローバル化した世界にあって、日本政府も外国人排斥に戦争と繁栄の道を求めていませんか?