松岡利康
1972年2月1日に逮捕され、酷寒の中、1カ月余り京都拘置所で過ごしました。
弁護人を務めてくださったのは海藤壽夫(かいどう・としお)弁護士でした。弁護士になって1年目でした。海藤弁護士はその後、京都弁護士会副会長に就かれています。海藤弁護士から直接伺ったのですが、学生時代、かの塩見孝也さんや、連合赤軍事件で殺された山田孝さんらと京大で生協運動をされていたそうです。総代会で共産党に敗れ組織部を明け渡し、塩見、山田さんは政治活動に純化し、海藤弁護士は法曹の道に進まれました。ここが人生の岐れ道でした。塩見、山田さんらの活動の評価については、ここでは触れません。

また、このFBでもよく引き合いに出す、私が尊敬する矢谷暢一郎さんは、学生運動最盛期の同志社大学学友会委員長を務め68年御堂筋突破デモを指揮したとして逮捕・起訴されます。矢谷さんのその後についても、鹿砦社から出した2冊の著書をご覧になっていただくとして、ここでは触れません。

その闘争の裁判を担当され判決を書かれたのが、これも裁判官1年目の森野俊彦裁判官で、森野裁判官は学生寄りの「寛刑」判決を下します。
ところが、海藤弁護士と森野裁判官は、司法修習の同期で、それも同じクラスだったとのこと、森野裁判官は、裁判官時代、市民のための司法を目指し、名前も顔も出して「日本裁判官ネットワーク」を作り活動されています。
森野裁判官は退官後、弁護士になられますが、縁あって、鹿砦社が関わった大学院生リンチ事件(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)についても2件の訴訟を受任いただき、一部逆転勝訴を勝ち取っていただきました。
そして、矢谷さんが2冊目の著書『ヤタニ・ケース』を出された直後に来日、かつての学友会の仲間と集まりを持った翌日、京都のキエフにて食事会を開かせていただきました。当時の裁判官と学生の奇妙な再会でした。

矢谷さんの人生は、親友の、いわゆる内ゲバでの死、アメリカでの突然の逮捕など凄まじいものがありますが、これについては矢谷さんの2冊の著書をご覧いただくとして、私が関係した海藤、森野、矢谷さんらの奇妙な関係は、何と言ったらいいのでしょうか、世の中にはこういうこともあるのかと、不思議な感覚になります。
海藤弁護士は、今は弁護士をやめられ比叡平で平穏な老後を過ごされていますが、2・1学費決戦で逮捕・起訴された10人全員無罪は勝ち取れなかったものの、当時すでに司法の反動化がエスカレートしていた時代に、1名無罪、残り9名も執行猶予付きの微罪判決を勝ち取ることができました。
裁判は長く続きましたが、裁判所も、意外とわれわれの闘いを理解してくれ、「被告人らは春秋に富む若者であるからには……」という感傷的な名文で締め括っています。「春秋に富む若者」も今や後期高齢者になりましたが、あの闘いから半世紀以上も経った今、残りの人生、そうした闘いの〈総括〉作業を行っていきたいと考えています。もっと非道い判決もざらにあるでしょうが、少なくとも私(たち)にとっては人生の〈原点〉だったことには間違いはありませんから ── 。
当時、私の直属の先輩で三里塚闘争で逮捕・起訴され、その後の厳しい人生を過ごしながら作品を書き続け、今は児童文学者をされている芝田勝茂さんは、「革命は戯画化することはできるが、戯画によって革命はできないからな」という名文句を残しておられますが、まさに言い得て妙です。
さらに同書の冒頭には、「しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま」という一句が記されています。6・15というのは、60年安保闘争で樺美智子さんが虐殺された日ですが、私にとっては2・1に置き換えると、「十年の負債」どころか「50年の負債」を抱えながら返さないまま生き長らえて来ました。
さてさて、先が見えて来た私の今後の人生、「君はどう生きるか?」

(芝田さんのその名文句は、『季節』6号に初出、その後、『遙かなる一九七〇年代―京都』に再録されています。残念ながら両書共品切れで、関心がある方は古書市場で探してください。)