追悼・猪飼剛先生 安らかにお休みください 滋賀・若草診療所の一患者より

猪飼剛先生(医療法人社団 湖光会 若草診療所HPより)

「伊藤さん、2診へどうぞ」
猪飼剛先生は定刻の診察時間開始前に診療所に到着して、要領よく患者さんの診察をして下さる先生でした。若草診療所の午前の診療時開始は8時40分ですが、たいてい猪飼先生は8時30分前には診療所にやってきて(早い時には8時15分頃に)、待合室の患者さんの名前を呼んでくれました。猪飼先生は診療所に毎日のように勤務されていましたが、いつも診察室は2診で、1診には曜日ごとに別の先生が待機されていました。

午前診察終了時刻の12時過ぎでも、容体が悪い患者から電話で連絡が入ると、嫌がることなく「時間外でもいいから連れてきてください」とこころよく応じてくださいました。そのおかげで、のんびりしていたら生命にかかわる重篤な患者さんが、何人も救命されたことは、地元ではよく知られていました。報道で68歳と知りましたが、お世話になりだしたころから、下半身がしっかりしていてお元気な姿は、運動を欠かさない生活に秘訣があったのでしょう。

 
滋賀県医師会長の親子、スキー場で遭難 新潟(2018年1月25日付朝日新聞)

雪の激しい新潟県のスキー場で、猪飼先生がご子息と遭難され、亡くなってしまった。そうとは知らずにいつも通りに若草診療所へ受診に訪れていたわたしは、なぜだか表情のさえない受付の女性たちが気にはなっていましたが、まさかそんな惨事に猪飼先生が見舞われているとは知りませんでした。待合室の患者さんのなかには小声で「これからどないなるんやろうね」、「ここにしか通ってないから今さらほか行かれへん」と話す人もいたのですが、それが猪飼先生の遭難事故のことを意味するとは想像もできませんでした。

1月25日の若草診療所には、なんの貼り紙も掲示もなく、いつもよりちょっと少ない患者さんが普段通り待合室に集っていました。医療法人社団湖光会と建物には書かれていますが、長年お世話になった感覚からすると、若草診療所は猪飼先生と外科の先生だけが専任で、他の先生方は曜日によって診察を受け持つ先生です。診療所の経営にはかかわっていないように思えます。本当にこれからどうなるのかなと不安になります。

それよりも、つい最近まで元気毎日のように診察をこなしていた、猪飼先生が亡くなったことが、現実のようには思えません。昨年の12月は何度も診察や相談でお世話になり、いつも的確に「はい、ほな、そうしましょう。しばらくこの薬で様子見て、また効かんようやったら来てください」とお顔をあわしていましたが、事故にあわれたのが嘘のようです。報道によればお子さんと一緒に遭難されて亡くなったようですが、この地域のたくさんの人たちが、驚き、落胆し、猪飼先生のご逝去を悼んでいることでしょう。御不幸を知ってから猪飼先生が滋賀県の医師会会長であったことを知りました。たいそうご多忙な中で、毎日診察と医師会会長のお仕事をこなしておられたのでしょう。

もうだいぶ前になりますが、知人が入院手術をしなければならなくなり、猪飼先生にその病院の評価を伺いに行ったことがありました。「院長はあかん。あの人は金儲けしか考えてへんから。でもお医者さんはみなさん真面目な人ですよ。うん。だから心配せんでもええですわ」と、ある総合病院のことを教えて頂きました。アドバイスにしたがって、知人はその総合病院に入院し、無事回復しました。気さくで隠し立てしない性格は、看護師さんに厳しいこともあったかもしれません(あくまでも想像です)。

患者にしたら、具合の悪さをしっかり聞いていただけて、素早く柔軟な対応をしていただけるお医者さんでした。早すぎる、そしてお気の毒すぎるご不幸がくれぐれも残念です。これまで猛烈にお仕事をなさった猪飼先生、安らかにお休みください。

▼伊藤太郎(いとう・たろう)


◎[参考動画]新潟のスキー客親子捜索難航 2人と連絡つかず(ANNnewsCH2018年1月25日公開)


◎[参考動画]スキー場で心肺停止の男性2人発見 救助が難航(ANNnewsCH2018年1月26日公開)

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

私の内なるタイとムエタイ〈20〉タイで三日坊主!Part.12 得度式に臨む

左は春原俊樹記者(ワールドボクシング)、右はキックボクシング全日本ライト級3位の高津広行(小国)、いずれも当時
先頭からゲオサムリットジム会長アナンさん、私、アナンさんの奥さん、高津くん

◆人生特別な日の朝!

朝起きて頭を触って改めて気が付く、やっぱり昨日の出来事は夢ではなかったと。やっぱり本当に髪が無かった現実の朝でした。そんな朝、私が朝起きるのが早いからか、デックワットは昨日の夜は私の部屋には来ませんでした。

◆アナンさんらを迎える!

7時20分頃、比丘の朝食中に部屋の窓から外を覗くと1台の車が止まっており、アナンさんらが到着した様子。最初に降りた高津くんと目が合うと互いが笑顔になる。こんなところまで所属選手でもない私の為に、アナンさん夫妻も来てくれたことには本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。積んできた寄進する料理を運び、和尚さんに挨拶に行ったアナン夫妻。私の手を煩わせない気遣いがあって、案内しなくても場所だけ示せば勝手に行ってくれる、どこの寺でも造りなどすぐ分かる慣れたものでした。

比丘の食事が終る頃、隣の部屋の秘書的存在のケーオさんに呼ばれて履歴調査となりました。このお坊さんは若い一時僧たちのお兄さん的存在。私が初めて寺を訪れた3月に藤川さんを「キヨさ~ん!」と呼んでくれたのがこのケーオさん。

「名前は、出身は、生年月日は、両親の名前は、日本で何してる?」など、得度証明書に書かれる項目と、得度出家者をサンガ(僧組織)に届ける義務がある為の簡単な面接でした。終わって部屋に戻ると、すでに春原さんが来てタバコを吸っていました。

「春原さん朝飯食ってないでしょ、一緒に食いましょう!」とまず、昨日春原さんは和尚さんと会えなかったので和尚さんのもとへ行って紹介すると「朝食まだなら、一緒に食べなさい」と予想どおり言われ、デックワットのいる部屋へ向かい一緒に朝食を摂りました。

「朝の托鉢でサイバーツ(寄進)された食材ですよ、比丘が箸を付けてないものもありますから頂いてください」と言うも春原さんは何も気にせず、どの惣菜も召し上がってくれました。

いつの間にか居なくなっていたアナンさんらは外に食事に行き、部屋に戻ると高津くんも戻って来て、出番まで春原さんと高津くんとお話して待機。9時半になってアナンさんが私らを呼び、いよいよ出陣となりました。

なんと寂しい本堂を周る我々(2017年、ワサン氏の得度式と比べて寂し過ぎ)
本堂に入る前の経文。黄色いシャツの人が親代わりとなってくれた先導者

◆人生最後のイベント、得度式!

私にとってこれが人生最後のイベントとなるだろう。今後結婚式などしないし、残るは葬式か。それがあっても自分は見れないが。

クティ内のホー・スワットモン(読経の場)に備えてあった黄衣とバーツ(お鉢)と、式に備える花などの供え物をアナンさんと奥さんと高津くんが持ち、アナンさんを先頭に全員裸足でボート(本堂)へ向かいます。ここに来て、参列者を募らなかったことを悔いました。

「春原さん以外誰も来なくていい」なんて言ってはいけなかった。こんな遠いペッブリーまで、日本の彼らを含め誰も来なかったかもしれないが、過去、タイで知り合った数々の人に出家することを伝えていたらどれぐらい集まっただろうか。私が出家することより徳を積む機会に喜んでいたでしょう。日本人なら「何の祭りか知らないけど酒が飲めるぞ!」といったノリでしょうか。

本堂に入る前に周りを右回りに3周歩きます。三帰依(仏・法・僧へ帰依)を意味するこの3周も、全く分からないまま、ただ小石を踏んでは「痛いなあ、アナンさんゆっくり歩いてよ」と心で呟きながら、“サラサラ”と4人だけの寂しい足音が響き、ようやく3周。ところどころで春原さんのシャッター音が響いていました。

先導してくれる親代わりとなってくれた弁護士の先導者に導かれて経文を唱え本堂に入ります。大きな仏陀像の下にある比丘が座る台座には17僧が待機しており、私が先導者の指示に従って前に進みます。同時にサーラー(葬儀場)では葬式が行なわれており、和尚さんは御挨拶で少々遅れる様子。

少々ざわめきがあった本堂内も、和尚さんが入って来ると空気が変わり、比丘たちも緊張感が増しました。私は先導者の指示のもと和尚さんの前に座り、問答が始まりました。

本堂で待ち構える17僧の比丘たち

「すべては口移しでやるからお経は覚えなくてもいい」と言われていたものの、「本当に大丈夫かな」と就職の面接のような緊張感が走ります。そして黄衣とバーツを掲げ、出家願いの経文、やっぱり出て来た高校時代に唱えた「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ、ダンマン・サラナン・ガッチャーミ、サンガン・サラナン・ガッチャーミ(我、佛に帰依し奉る、我、法に帰依し奉る、我、僧に帰依し奉る)」。これだけは口移しでなくても唱えられた三帰依でした。「これは鉢である、これは上衣である、これは重衣である、これは下衣である」を指され、その意味も話されているであろう和尚の言葉。ひとつひとつの問いに分かっていなくても「アーマ・バンテー(仰せのとおりです)」と応える私。

副住職のヨーンさんに導かれ、口元を指差し、経文を唱える言葉を見て聞いて真似して唱えること何十回と続く。順番も意味も覚えていないが式は続き、ある時全員の笑いが起きる。何かウケ狙いを言ったなこの和尚。「戒律だからな、オナニーするなよ」とでも言ったのだろうか、藤川さんもアナンさんも声が響く笑いでした。

「もっと前に出ろ」とケツ叩く副住職のヨーンさん

何はともあれ一応厳格な儀式は進み、最後に比丘全員によって読経が続きました。
「この言葉も常識もわからんトロい日本人を比丘にして大丈夫か?」と大雑把に言えばこのような審議と採決があり、その全ては無言の満場一致で決まる出来レースで、得度式は終了しました。

再び黄衣を授けられ受け取る私
三拝する私、因みに仏像の手前、和尚さんの左側に座る、和尚さんと同じ色の僧衣を纏うのがケーオさん
重要なことを言っているのかもしれないが、返事するのみ
バーツを受け取り、供え物を受け取り
再び問答
副住職による誓いの問答
アナンさんと記念写真
高津くんとの記念写真

◆アナンさんらを見送る!

得度式が終わったのは11時少々過ぎ。サーラーでの葬儀も一時休息に入ったようで、昼食はこちらに移動。今朝まで比丘の後に朝食を摂っていた私は、まだ後手に回っていると、昨日ツーショット撮ったメーオが「もう立場は同じだからこっちに入れ!」とケツを叩いて輪に入れてくれました。昼食は葬儀を出している親族の寄進でワンプラのように多くの惣菜が並んでいます。アナンさんが持って来た食材もどこかに並んでいます。せっかく持って来てくれたものだから私が手を付けたかったところ、アナンさんらのタンブンは充分果たしているので気にする必要はありませんでした。

その後、アナンさんらも他の信者さんとサーラーの脇で昼食に入り、春原さんを一緒の車に誘ってくれてバンコクに帰る時間となりました。

藤川さんは「高津くんもやったらどうや!」と誘うことを忘れない。満更でもなさそうに笑っていた高津くん。「鬱陶しい藤川さんのもとでは止めとけ!」と心で呟く私。

皆がクティの前の車に向かうと私は「俺も帰る!」と駄々こねて泣きだしそう。幼稚園の頃、母親に泣きついて一緒に帰ろうとしたあの幼い頃と同じ胸中。それをしなかったのは、大人だから我慢出来たというものではなく、泣いて駄々こねるなんて恥ずかしいこと出来ないだけでした。「これで立派な大人だ、しっかり学んで来い!」と、ただひたすら応援してくれるアナンさんらに御礼を言って見送るのみ。春原さんには「フィルムは大切に預かっておいてね!」ということだけは忘れない目ざとい私。高津くんはまた来月試合が控えているのに、その気遣いも出来ず、最後は慌しく一同を見送りました。

この後、午後も葬儀は続き、合間を縫って藤川さんの厳しい黄衣纏いの指導が始まります。

※写真は春原俊樹氏(ワールドボクシング=当時)撮影(御本人が写っているもの以外)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」
  
  
  
  
  
  

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

《殺人事件秘話12》大阪ドラム缶遺体事件の死刑は「最も重い死刑」である

私は、刑罰の重さというのは、刑罰を科される人間の主観で決まるものだと思っている。というのも、たとえば同じ無期懲役判決でも、被告人が20歳の場合と80歳の場合では、明らかに重さが違う。20歳の被告人が無期懲役判決を受ければ人生の大半を獄中生活に費やすことになるが、80歳の被告人が無期懲役判決を受けたとしても、ものの数年で寿命のために服役を終える可能性も小さくないからだ。

死刑にしたって、被告人が20歳か、80歳かではずいぶん重みが違うし、被告人が重い病で余命いくばくもなく、安楽死を望んでいるような場合、死刑には刑罰としての意味がほとんどない。たまに現れる「死刑になりたくて人を殺した」という殺人者に対しては、死刑は国家が自殺志願者の自殺を手伝うような意味合いすら持ってしまう。

こうしたことから、私は「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考えるわけだが、そんな私がこれまでに会った様々な殺人犯の中で「最も重い刑罰」を受けた人物だと位置づけている男がいる。昨年暮れに最高裁に上告を棄却され、死刑判決が確定した大阪ドラム缶遺体事件の犯人、鈴木勝明死刑囚(50)だ。

◆面会室では、とうとうと「冤罪」を訴えてきたが……

「ラジオで自分に関する報道を聞いていると、ありもしないことばかり言っています。警察はひどいですからね。殺人の証拠がないから、ぼくが最初に窃盗で逮捕された時から(自白させようと)殺人のことばかり聞いてくるんです」

2014年の秋、大阪拘置所の面会室。透明なアクリル板越しに向かい合うと、鈴木死刑囚は私に対し、とうとうと「冤罪」を訴えた。鈴木死刑囚は当時、すでに一審・大阪地裁堺支部の裁判員裁判で死刑判決を受けていたが、裁判では無実を主張しており、大阪高裁に控訴中だった。

鈴木死刑囚の犯行とされる大阪ドラム缶遺体事件の内容はおおよそ次のようなものである。

2004年暮れに失踪した大阪の会社社長・浅井建治さん(失跡当時74)と妻・きよさん(同73)の遺体と車が府内の貸ガレージで見つかったのは2009年秋のこと。ドラム缶に入れられた2人の遺体は激しく損傷しており、きよさんのほうは足を切断されていた。

大阪府警は捜査の結果、同11月、当時建設作業員だった鈴木死刑囚が建治さんの車などを盗んだとして窃盗容疑で逮捕。さらに同12月、きよさんの腕時計も盗んでいたとして再び窃盗容疑で逮捕する。そして翌年12月、ついに「本命」の強盗殺人の容疑で鈴木死刑囚を逮捕したのである。

これに対し、裁判で「冤罪」を訴え続ける鈴木死刑囚だが、公判廷で示された事実関係を見る限り、その主張は苦しかった。

まず、鈴木死刑囚は浅井さん夫婦の失踪直後、遺体が見つかったガレージを賃貸していた。遺体が入っていたドラム缶には鈴木死刑囚の指掌紋やDNAが付着。さらに事件当時、鈴木死刑囚は無職で、消費者金融に約300万円の借金を抱えていたうえ、事件後に浅井家にあった高級時計を50万円で質入れして返済にあてていたのだ。

一方、鈴木死刑囚は裁判で「闇金業者の2人の男に脅され、死体遺棄を手伝っただけだ」と主張していたが、その2人の実名すら特定できない……。

そんな苦しい冤罪主張を続ける鈴木死刑囚の実像をこの目で確かめたく、私は取材依頼の手紙を出したうえで面会に訪ねたのだが、鈴木死刑囚は面会中、私の目をあまり見ようとしなかった。捜査や裁判、マスコミに対する批判は口からどんどん出てきたが、終始うつむき加減で、おどおどした話し方なのも気になった。

それでも、「事件をちゃんと伝えてくれるなら、色々話すことも考えます」と言うので、切手やハガキのほか、便箋や封筒も差し入れた。だが、それから5カ月以上も音沙汰なしの状態が続いたのだった。

◆死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかない

鈴木死刑囚からいつまで経っても連絡がこないので、私は2015年2月、「また面会に行きたい」と手紙で鈴木死刑囚に伝えた。すると、ようやく返事の手紙がきたが、それには「捜査機関が真犯人を隠し、私に押しつけた」という主張と共に、「面会はしんどいし、辛いから断る」という意向が書き綴られていた。

〈今は、面会は出来ないです…… また、気持ち変われば、手紙しますので…… 草々〉

最後はそんな弱々しい言葉で結ばれていた鈴木死刑囚の手紙。その文面からは、冤罪を訴え続ける「罪悪感」に苦しんでいる様子が窺えた。そしてこの時、私は改めて面会中の鈴木死刑囚のおどおどした様子を思い出し、確信したのだ。鈴木死刑囚は死刑が怖くて仕方がないのだろう――ということを。鈴木死刑囚は、本当はクロなのに無実を訴えることに罪悪感はあるが、死刑が怖いため、無実を訴え続けるほかないのである。

私はこれまで、死刑判決を受けた被告人に20人近く会ってきたが、その中でも鈴木死刑囚は誰よりも死刑を恐れている雰囲気が顕著だった。「刑罰の重さは、刑罰を科される人間の主観で決まる」と考える私は、それゆえに鈴木死刑囚こそが過去に会った死刑囚の中でも「最も重い死刑」の判決を受けた人物だと思うのだ。

死刑が確定した今、鈴木死刑囚は大阪拘置所の獄中で日々眠れぬ夜を過ごしているはずだ。

鈴木勝明死刑囚が収容されている大阪拘置所

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

事務所の投資なしに芸能界は成立しないのか? タレント移籍制限をめぐる諸問題

最近、芸能界におけるタレントの移籍制限をめぐる問題が相次いで報道されている。2017年12月27日付産経ニュースでは、「所属契約慣行の違法性指摘 芸能人、スポーツ選手 公取委が新見解」として、2018年1月19日付「朝日新聞デジタル」では「芸能人らの移籍制限『違法の恐れ』 公取委、見解公表へ」として報じている。

 
所属契約慣行の違法性指摘 芸能人、スポーツ選手 公取委が新見解(2017年12月27日付産経ニュース)
 
芸能人らの移籍制限「違法の恐れ」 公取委、見解公表へ(2018年1月19日付朝日新聞=矢島大輔)

公正取引委員会で昨年、設置された有識者会議がスポーツ選手や芸能タレントなどに対して不当な移籍制限などを一方的に課すことが独占禁止法違反にあたる恐れがあると示し、2月にも結論を公表する見通しだという。

この問題に関連して、筆者も昨年末、共同通信から取材を受けて、一部地方紙でコメントが掲載されている。

◆ようやく公取が動き始めた

筆者は2014年に上梓した『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』(鹿砦社)以来、芸能界のタレントの移籍制限や独立したタレントへの追放は独占禁止法に抵触すると主張してきたが、ようやく公取が動き始めたようで感慨深い。

SMAP騒動に見られたように、芸能事務所による芸能界支配は、タレントや視聴者、テレビ局にとって不利益であり、まったく合理的ではないものだ。

なぜ、この問題が放置されてきたかと言えば、芸能事務所側の「われわれはタレントに投資をし、それを回収しなければならないのだから、勝手な移籍や独立は許されない」という言い分があったためだろう。

朝日記事でも、「芸能事務所が育成にかけた費用を回収することは正当化できるとして、業界内でどういった補償が適切か検討するよう求める方針だ」とあり、タレントに対する投資の問題が移籍制限の背景にはありそうだ。

◆アメリカではタレントとエージェンシーの関係は対等である

だが、筆者が調べた限りでは、世界のエンターテインメントの本場であるアメリカでは、タレントと日本の芸能事務所にあたるタレント・エージェンシーの関係は対等であり、タレントがエージェントとの契約を解除するのは自由であった。

ところが、ハリウッドのエンターテインメント業界を規制するタレント・エージェンシー法を詳細に調査しても、エージェントによるタレントへの投資については何も言及がなされておらず、拙著でも芸能事務所によるタレントへの投資についてはほとんど触れていない。

その後、たびたび「芸能事務所はタレントに投資をしているのではないか?」と質問をされることがあったので、ここでは改めてこの問題について考えてみたい。

結論から言うと、アメリカのエージェントはタレントに投資をしていない。

これについては『ハリウッド・ドリーム』(田村英里子著/文藝春秋)に詳しい。

田村英里子と言えば、日本ではサンミュージックに所属し、1990年代にアイドル歌手として活動した後、2000年にかねてからの夢であったアメリカでの映画出演を実現するため渡米し、NBCのテレビドラマ『HEROES』や『DRAGONBALL EVOLUTION』などのメジャー作品に多数出演し、実績を残した。

田村は日本でのキャリアを捨て何のバックアップもなく、単身で渡米した。最初はアパート探しや英語が話せるようになるまで苦労をしている。

そんな彼女の芸能活動のスタートとなったのがアクティング・スタジオ、つまり俳優養成学校である。アメリカではアクティング・コーチの存在が社会的な地位として確立されており、撮影現場でアクティング・コーチが俳優を指導することも珍しくないという。

田村が通っていたアクティング・スタジオはブラッド・ピットやシャーリーズ・セロン、ケイト・ハドソンなど、数々の有名俳優が学んだことで知られる名門スタジオだ。

クラスでは、毎回、アトランダムに選ばれた1組が映画や芝居のシーンを与えられ、1週間で仕上げ、クラス全員の前で演じ、コーチが厳しく指導する。

そして、スタジオに通いながら、エージェントを探す。エージェントは、俳優の代理人であり、所属するのではなく契約する。エージェントはモデル、コマーシャル、演劇の3つに区分されている。アメリカではエージェントとの契約がなければオーディションにすら参加できないこともあるが、演技力が要求される演劇のエージェントと契約するのは至難の業で、ハリウッドではエージェントを持てない俳優がほとんどだという。

田村もエージェントとの契約で苦労している。50近くのエージェントに履歴書を送付しても、反応はまったくなく、電話をして「エージェントを探しています」などと言おうものなら、ガチャンと切られるというのが当たり前だった。

そこで、田村は方針を転換し、演劇のエージェントではなく、コマーシャル・エージェントに目を向けたが、そこでも英語力が障害となり、なかなかうまくいかず、渡米から3年ほど過ぎてから、モデル・エージェントと契約することになった。これによって自信をつけた田村はコマーシャルのエージェントと契約することに成功し、2006年、ヨーロッパで放送されるフォルクスワーゲンのテレビ・コマーシャルに出演を果たした。

この仕事をしたことで、田村は全米映画俳優組合(SAG、現在はSAG-AFTRA)への加入を許された。俳優が本格的な映画に出演するには、それ以前にオーディションに参加するには、SAGへの加入が必須だ。SAGへの加入は通常、3本のエキストラの出演が条件だが、田村はそれまでにエキストラのオーディションにも落ちた経験があり、SAGのメンバーになれたことは、大きな成果だった。

だが、この段階になっても田村は演劇のエージェントと契約ができなかった。そもそも、アメリカの映画やテレビ全体でアジア系の俳優が占める割合は3.4%に過ぎず、通常、起用されるのは、アメリカ育ちのネイティブ・スピーカーである。

田村が日本で活躍していたことを知るアメリカ人はほぼいない。最初から出る幕はなく、エージェントからは「You are a hard sell」と言われ、返す言葉もなかった。

そんな田村がオーディションに合格し、大きな仕事を得たのはアメリカ3大ネットワークテレビの1つであるNBCが放送するドラマ『HEROES』セカンドシーズンのヒロイン、ヤエコ役だった。

オファーがあってから、出演料などの契約が進められるが、田村は次のように述べている。

「一般にはここで、エージェントまたは弁護士が登場し、クライアントであるアクターにとって、少しでも良い条件になるように折衝する。そして製作側とアクター双方が合意できる条件にいたった段階で、サインを交わして、ようやく正式なオファーとなる」

『HEROES』のセカンドシーズンは24話の放送が予定されていたが、撮影の途中で全米脚本家組合のストライキが始まり、11話で終了することになってしまった。

田村も『HEROES』の仲間とともに、SAGのプラカードを掲げてデモに参加している。

以上、田村のハリウッド女優としての軌跡をたどって行くと、日本の芸能界とはまったく異なることに気付かされる。

日本でタレントが芸能活動をするには、事務所に所属することが第一歩であり、その後は事務所の投資を含めてバックアップを受ける。

一方、アメリカでは、エージェントは弁護士と並ぶ俳優の代理人であり、エージェントにとってタレントはクライアントである。弁護士が依頼人に投資をしないように、エージェントもタレントには投資をしない。日本では芸能事務所が所属タレントに演技のコーチを付けることもあるだろうが、アメリカでは俳優がアクティング・スタジオに通い、その費用はアルバイトをして自分で稼ぐのだ。

日本の芸能関係者は「事務所はタレントに投資をしているのだから、移籍は認められない」と言う。だが、これは因果関係が逆なのではないだろうか。

つまり、タレントが移籍できないことを知っているからこそ、安心して投資ができるのだ。「移籍されるかもしれない」という前提では、怖くて投資はできないのである。

◆投資ができないのであれば芸能界は成立しないのか?

 
のんやローラも救われる? 公正取引委員会がタレントの独立を阻む所属事務所の圧力を独禁法違反と認定(2018年1月20日付リテラ)

では、投資ができないのであれば芸能界は成立しないのかというと、そんなことはないだろう。現に世界のエンターテインメントでもっとも競争力のあるハリウッドでは、エージェントは俳優に投資をしていない。

そして、ハリウッドでもっとも力を持っているのがSAG-AFTRAなどの俳優の労働組合である。田村英里子も脚本家の組合がストライキを起こしたために撮影が中断してしまったが、SAG-AFTRAも過去には何度も大規模なストライキを行っている。最近もSAG-AFTRAは2016年から17年にかけてたゲーム声優の大規模ストライキを起こし、加入者が要求していた条件が盛り込まれた合意が交わされた。

日本でも公正取引委員会が主導する形で芸能界改革が緒についたが、芸能事務所がメディアに対して行う圧力は裏で行われるものであり、公取が介入したところで限界があるだろう。問題を是正する上でもっとも必要なのはタレントによる労働組合の結成である。

▼ 星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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事実の衝撃!星野陽平の《脱法芸能》

平昌五輪と東京五輪の政治利用に見るこの国の〈洗脳と背理〉

南北会談が行われ、朝鮮が平昌オリンピックへの参加を表明してから、韓国、朝鮮政府への論評がどうにも「冷たい」ように思う。開会式の合同入場や女子アイスホッケーが統一チームを結成することが決まると、「北朝鮮のペースに乗せられた韓国政府」、「圧力の足並み乱れを懸念」など後ろ向きの批評が新聞では主流だ。

また、米国では日本側が「北朝鮮からの漂流船が増加しているのは経済制裁の効果が表れている」との見方を示したと報道されているし、河野外相は16日カナダでの会合に出席し〈韓国 との対話に舵を切ったように見える北朝鮮の意図は、『時間稼ぎ』だと指摘しました。平昌(ピョンチャン)オリンピックを控え再開した南北対話が北朝鮮ペースで進む懸念もある 中、河野大臣はスピーチで、北朝鮮の『微笑み外交に目を奪われてはならない』と訴えました。〉と語ったそうだ。

河野外相、対話は北朝鮮の「時間稼ぎ」と指摘(TBS2018年1月17日配信)

◆「対北朝鮮圧力」をかける国々はどんな将来と結末をイメージしているのか?

では、カナダに集まり「北朝鮮圧力」を相談している国たちは、朝鮮の将来にどんな結末をイメージしているのだろうか。朝鮮の非核化は妥当な目標ではあろうけど、そのため、延々と経済制裁だけを続け、対話を一切拒否するという、河野外相=日本政府の姿勢が貫徹され、また他国も日本政府同様のファナティックな制裁で完全に足並みを揃えたらどうなるだろうか。昨年の惨状をみて断定的に語れることは、朝鮮の庶民の暮らしがより圧迫され、困窮し餓死者が増加する事態が加速するであろうことだ。

朝鮮の庶民の生活がどれほど困窮しても、朝鮮政府は外交姿勢を変えることはないだろう。そんな程度で外交姿勢を変えるのであれば、これまで幾度もあった対話の機会で、方向転換を図っていただろう。中国の後ろ盾が実質上なくなり孤立無援ともいる小国の動向に、カナダに集まった20ヵ国は少々過敏になり過ぎているのではあるまいか。制裁一方で平和裏に核問題が解決でいると、私にはどうしても思えない。

それは、この島国が「ABCD包囲網」により、無謀な戦争に突っ込んでいった歴史が証明するところでもある。どうしてパキスタンやインド、イスラエル(さらにいえば、米、英、仏、中、露)の核兵器は容認されて、朝鮮だけ世界から袋叩きにあうか。朝鮮の何万倍も核兵器を保有する米国のトランプは金正恩よりも何万倍も理性的だろうか。

◆「政治の道具」としての近代五輪はなにも平昌五輪だけでないのに……

「平昌オリンピックの政治利用」とまくしたてる「有識者」が多数見受けられるが、近代オリンピックは常に政治の道具、もしくは政治そのものと言ってもいいだろう。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、1980年のモスクワオリンピックは日本を含め約50ヵ国がボイコットした。その報復に1984年のロス・アンジェルスオリンピックでは東側諸国が軒並みボイコットした。東西冷戦時代の出来事ではあるけれども、五輪は露骨に政治利用される。同時に表層的ながらいっときの「融和」や「「友好」を演じる舞台が五輪でもある。

1964年の東京五輪では東西ドイツが開会式で一緒に入場した。冷戦の真っただ中、まだ日本や米国が中国と国交を結ぶはるか昔、東西ドイツの合同入場は国際ニュースだった。開会式を中継したNHKのアナウンサーは、「素晴らしい、本当に素晴らしい」と絶叫している。その東西ドイツ合同入場に苦言を呈した人が、今日ほどいたのだろうか。私はまだ生まれる前の出来事なので、つまびらかではないが、少なくとも録画に残されたNHKアナウンサーの称賛ぶりは確認できる。

また、南北朝鮮のオリンピック開会式合同入場は2000年のシドニーオリンピックで実現している。当時合同入場について、この島国の中でこれほど冷淡な論評が交わされただろうか。私の記憶の限りではそんなことはなかった。2000年から2017年へ何が変わったのか。明示できる転換点は「拉致」の事実を金正日が小泉との会談で認めたことだ。逆に「拉致問題の解決、植民地支配の過去の清算、日朝国交正常化交渉の開始」を内容とする「日朝平城宣言」が2002年に交わされた事実はもうなかったかのような有様だ。

◆対話なき圧力をかける日本政府が直視すべきは「東京五輪」の背理である

「拉致」を金正日が認めたことは、大きな衝撃であった。けれどもそのために「拉致問題」は両国間で顕在化し、帰国された方もいる。以後進展が見られないが、その理由は一方的に朝鮮側だけにあるのだろうか。「対話と圧力」と言っていたこの島国の政府は、もっぱら「圧力」だけに血道をあげるようになった。朝鮮が態度を硬化させるのも無理はない。

そして意地悪ながら事実にもとづく言いがかりをつけるのであれば、朝鮮が非難の的とされたのは、この島国では「拉致問題」だけれども国際的には1983年の「ラングーン爆破事件」であり、1987年の「大韓航空機爆破事件」であった。二つの事件はいずれも朝鮮が国家として韓国の高官や航空機爆破を行った、いわゆる「テロ」事件だが、その後に行われたシドニーオリンピックで両国は合同入場しているのだ。時の韓国大統領は金大中で「太陽政策」で南北融和を図っていた。

繰り返すが、あの頃こんなにも殺伐とした「南北朝鮮」卑下の論評が横行してはいなかった。政府・マスコミから庶民に至るまで、まるで1900年頃のように「朝鮮半島」を蔑視し、見下す言説が溢れている。非常に不健全で危険極まりないと思う。「政治の道具」にほかならないオリンピックが、政治的に平和利用されるのであれば、どうしてその「光」の面を少しは評価しようとしないのか。

翻り「東京五輪」の広報と「洗脳」は日々その勢いを増すばかりだ。補修でも充分仕えた国立競技場を瞬時に取り壊し、史上最高のスポンサーを集めながら「ボランティア」を多用して「大儲け」イベントとして準備が進む「東京五輪」。福島第一原発4機爆発により政府が発した「原子力緊急事態宣言」がいまだ取り下げられない中で、堂々と進められる「東京五輪」の背理こそ自身の問題として直視すべきではないか。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

〈改憲〉国民投票と〈五輪〉無償奉仕──電通2大プロパガンダがはじまる(本間龍)掲載 『NO NUKES voice』14号 脱原発と民権主義 2018年の争点 

2018年鹿砦社新年会開かれる!

乾杯の音頭は椎野礼仁さん
松岡利康=鹿砦社社長

去る1月18日夕刻から吉祥寺「大鵬本店」大広間にて2018年鹿砦社新年会が盛大に開かれ、取引先やライターさんら50人が参加されました。新年の慌しいさなか参加された皆様方、ありがとうございました。

開会に際し、長年お世話になっている大鵬の社長がわざわざご挨拶にみえられました。また、新年会の看板もこしらえて飾っていただきました。社長のご厚意に感謝いたします。

初めて参加された方も少なからずおられましたが、小社の新年会(以前は忘年会)は1年に1度の大盤振る舞い&無礼講です。

これは、12年前の、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で小社は壊滅的な打撃を受け、皆様方のご支援で再起できたお礼の意味を込めて開始したものです。

一貫して会費は無料です。勿論費用はかかりますが(今回も50万円近くかかりました)、それよりも、取引先やライターの皆様方に喜んでいただき、また1年小社のためにご尽力いただければ、これにすぐることはありません。

もう10年ほどになりますが、この間にも晴れた日も、また曇りの日もありつつも継続して来ています。いくら曇ったり雨になっても、地獄に落された12年前の出版弾圧に比べれば大したことはありません。この時の体験は、確かに苦しかったですが、これに耐えることができたことで、逆に私たちに、どのような苦難にも立ち向かえる自信を与えたと思っています。

昨年も会場はトランス状態(定員、及び参加者40人ほど)でしたが、今年は昨年よりも更に多く50名ほどが参加され、スペースの関係上懸念されながらも、なんとか無事終了することができました。

左から三上治さん、松岡社長、板坂剛さん

そして、久し振りに全国の刑務所等を回る「プリズン・コンサート」400回を越えたPaix2(ぺぺ)にも歌っていただきました。

Paix2をご覧になったのが初めての方もおられると思いますが、こういうピュアで強い意志を持って頑張っている人たちを、ささやかながら鹿砦社は応援してきました。これからも応援していきますので、皆様方も応援よろしくお願いいたします。ライターやメディア関係の方、機会あればどんどん採り上げていってほしいと思います。

Paix2(ぺぺ)のManamiさん
Paix2(ぺぺ)のMegumiさん

参加の方全員に挨拶していただくことは時間的にも無理ですので、10人ほどに絞り発言していただきました。口火を切った垣沼真一さんは、私と同期(1970年大学入学)で、昨年私と共著で『遙かなる一九七〇年代‐京都』を上梓しました。参加者の中で私と一番古い付き合いになります。以後、続々と多士済々の方々が挨拶、お褒めの言葉あり、叱咤激励あり苦言あったりでしたが、厳しい中にも温かさが感じられるものでした。

『遙かなる一九七〇年代‐京都』の編著者、垣沼真一さん
『芸能人はなぜ干されるのか?』の著者、星野陽平さん

2次会も半分ほどの方々が残られ、こちらも盛況でした。どなたも鹿砦社を愛され、ずっとサポートしてこられた方々ばかりです。こういう方々によって鹿砦社の出版活動は支えられています。

構造的不況に喘ぐ出版界ですが、当社も例外ではありません。しかし、いつまでもこんなことで嘆いてばかりいても仕方ありません。皆様方のお力をお借りしつつ前進していく決意ですので、本年1年、よろしくお願い申し上げます。

これから1年頑張り、また1年後に新年会を開くことができるよう心より願っています。一定の売上‐利益が挙がらないと新年会も開くことはできないわけですから。
ちなみに本社のある関西では、一昨年から、東京の半分ぐらいの規模で忘年会を開いています。

アンコールに応えるPaix2(ぺぺ)さん

株式会社鹿砦社 代表取締役 松岡利康

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える
『NO NUKES voice』14号【新年総力特集】脱原発と民権主義 2018年の争点
衝撃の第4弾!『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』
 
板坂剛『三島由紀夫は、なぜ昭和天皇を殺さなかったのか』(鹿砦社新書004)
松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』

大阪「髪染め強要」訴訟 ほとんど報じられない学校側の主張を伝える【後編】

大阪府立懐風館高校の女生徒A子が学校の指導を不服として起こした「髪染め強要訴訟」では、マスコミがこぞってA子の応援団と化し、学校側に対する批判的な報道を繰り広げてきた。その一方、ほとんど報じられてこなかった学校側の主張も決して信ぴょう性がないわけではない。前編に引き続き、被告の大阪府が大阪地裁に提出した2015年12月11日付け準備書面に基づき、学校側の主張を紹介しよう。

◆入学当初は学校側の頭髪指導に従っていたA子

 
懐風館高校のホームページ。掲載された学校生活の写真では、髪が茶色っぽい生徒も散見される

まず、前編のおさらいをしておく。

A子はこの訴訟で「生まれつき茶色い髪について、学校で何度も黒く染めるように指導されて精神的苦痛を受けた」と主張しているが、前編で紹介した学校側の主張によると、A子の髪の地毛の色は「黒」であり、学校側はA子に対し、髪を地毛の色である黒に染めるように指導していたとのことだった。

また、前編で紹介した学校側の主張によると、懐風館高校でA子と同学年の生徒の中には、地毛が茶色であるなどと入学時に申し出た生徒が約40人いて、学校側はこの生徒たちに対しては、「頭髪を黒色に染めるように」という指導は行っていないとのことだった。この主張が事実なら、懐風館高校では、頭髪の地毛が本当に茶色であれば、髪を黒く染めるような指導は行っていないことを裏づける生徒が約40人存在する――ということになる。

そしてA子は入学早々、3人の教師による頭髪検査で「地毛の色は黒なのに、髪の色を明るく染めていた」と認められ、頭髪を地毛の色である黒に染めるように指導されて一度は従ったとのことだった。以上が前編のおさらいで、以下は今回新たにお伝えすることだ。

学校側の主張によると、A子に対し、髪の毛を黒く染めるように指導した2回目は入学した年(2015年)の5月17日のことだという。その前々日の体育の時間中、担当教師がA子の髪の色について、「明らかに黒ではない」と認めたことから、2人の教師が放課後、A子の頭髪を検査した。すると、A子の髪の毛は根元が黒色なのに、毛先に向かって色が異なっている状態だったという。

A子はこの際、「4月に黒色に染めたが、色落ちした」と説明したそうだが、2人の教師は「A子の頭髪の色は、地毛の色と著しく異なっている」などと判断し、再度、髪の毛を黒く染めるように指導したという。

この時、A子の母親から学校に電話があり、「娘の地毛は茶色なのに、中学の時、そのままだと高校に合格しないと言われて、黒く染めた」などと言ってきた。ただ、母親はこの時、A子の髪の地毛の色のことより、「同じクラスには、化粧をしている子がいるのに、それを認めていいのか」などと言っていたという。そして結果、A子は学校側の指導に従い、5月20日には髪を黒く染めて登校していたという。

だが、学校側の主張によると、この後、学校側とA子の間では、髪の毛の色をめぐる攻防が繰り返されるのだ。

◆学校とA子の頭髪の色をめぐる攻防

前出の準備書面をもとにまとめると、学校側がA子に対して行った頭髪指導の3回目以降の内容、それに対するA子の対応は次の通りだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●2015年7月17日
1学期の終業式があったこの日の頭髪検査により、A子はまた髪の毛の根元の色が黒く、毛先に向かって異なる色になっていた。そこで担当教師2人は「2学期が始まる前に黒く染めるように」と指導した。この時、再びA子の母親から学校に電話があったが、母親は髪の色については、とくにこだわっていなかった。

●同8月24日
2学期の始業式があったこの日、A子は上記の教師たちの指導に従い、髪の毛を黒く染めて登校してきた。

●同12月24日
2学期の終業式があったこの日、A子の頭髪はまた根元が黒く、毛先にかけて色が異なっているという状態になっていた。そこでまた担当教師が「3学期までに黒く染めてくるように」と指導した。

●2016年1月8日
3学期の始業式があったこの日、A子は上記の指導を受けたにも関わらず、髪が黒くなっていなかった。そこで担当教師2人は「4日以内に黒く染めてくるように」と指導した。すると夕方、A子の母親が電話してきて、「同じクラスに化粧をしている生徒がいるのに、頭髪はダメなのか」「弁護士と一緒に学校に行き、校長と話がしたい」などと述べた。対応した担当教師の1人が「化粧についても指導している」などと説明したところ、母親は「黒く染めるから、もういい」と電話を切ってしまった。

●同1月12日
A子は髪を黒く染めて、登校してきた。

●同3月15日
3学期の終業式があったこの日、A子の髪はまた根元が黒く、毛先に向かって色が異なっている状態になっていた。そこで担当教師らは「4月11日の新学期までに黒くしてくるように」と指導した。

●同4月11日
1学期の始業式があったこの日、2年生に進級したA子は上記の指導に従い、髪を黒くして登校した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、こうして学校側の主張を時系列に沿って見ていくと、A子は終業式のたびに髪の毛が地毛と異なる色になっており、地毛の色である黒に染めるように指導されていたことになる。あくまで学校側の言い分だが、頭髪検査の際にはいつも「A子の髪の根元の色が黒く、毛先に向かって色が異なっていた」という主張は無下に否定できない内容ではあるだろう。

◆次第に指導に従わなくなったA子

このように学校側の主張によると、A子は髪を何度も明るい色に染め、教師たちに指導されるたびに地毛の黒に染め直すということを繰り返していたが、だんだん指導に従わなくなっていったという。その経緯を見てみよう。

同4月27日、和歌山方面での校外学習の際、またしてもA子の頭髪は茶色になっており、それを見つけた教師は黒く染めるように指導したという。だが、A子はこの指導に従わず、髪の毛が茶色いままで登校し続けた。そして同5月17日、ようやく髪を黒くしてきたが、同6月20日には再び髪を茶色くしていたという。

この時、担当教師は「同6月24日までに髪を黒くしてくるように」と指導したが、A子は「やらへん」と言った。そして同6月24日には、一応、髪を黒くして登校してきたが、染め方が不十分だったという。

そんな経緯を経て、1学期の終業式があった同7月20日、A子はまたも髪の毛を地毛の黒と異なる色に染めていた。そこで担当教師は黒く染めるように指導したが、夏休みに入った同7月27日、A子は逆に極端に茶色く髪を染めていたのを教師らに発見される。しかしA子は「夏休みなのに、なんであかんの」などと言ったという。

そして翌28日、A子の母親から学校側へ不穏な連絡が入る。「昨日、娘が過呼吸で救急搬送された」というのだ。

だが、そんなことがあったにも関わらず、夏休みが終わって2学期が始まると、A子は今度はピアスをつけて登校してきたという。頭髪の色はまだら状態だったが、教師に対しては「黒いやん」「直してるやん」とからかうように言った。そしてその後、A子は頭髪の色に関する学校の指導に従わなくなってしまったという。

◆「先生、訴えるで」「えらい目に遭わしたる」

そんな状態が続く中、同9月8日、ついにA子と学校側の間で決定的なことが起こる。担当教師らに指導を受ける中、A子が薄ら笑いを浮かべながら、「先生、訴えるで」と言い、さらに教師たちに対し、こんな言葉を投げかけてきたというのだ。

「次の手を考えている。教育委員会に言ってもダメだったので」

「T(教師の名前)をえらい目に遭わしたる」

「おかあさんに『Y(教師の名前)は文化祭、一生懸命やってるからおとなしいしといたれ』って言うたけど、もうええ」

この日を最後に、A子は学校に登校してこなくなった。そして1年余りの月日が過ぎた2017年(昨年)10月、今回の訴訟を起こしたというわけだ。

以上は学校側の主張に基づいてまとめたものだ。従って、A子側の反論を聞くことなく、鵜呑みにするわけにはいかない。

ただ、これまでマスコミでは、A子側の主張が大々的に報じられる一方で、学校側の主張を伝える報道はあまりに少なかった。それゆえにあえて、ここでは学校側の主張を詳しく伝えた。

訴訟はまだ始まったばかりで、予断を許さない。私は今後もこの訴訟を取材していくので、適時、新しい情報をお伝えしたい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)
2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

私の内なるタイとムエタイ〈19〉タイで三日坊主PART.11 剃髪の時

先輩僧たちに囲まれて俗人姿で撮影(1994.10.28)

◆寺入り3日目の朝

部屋は替わったので、隣に寝て居るのは二人のデックワット。不安や苛立ちが大きいのか、今日も眠りが浅いまま自然と目が覚めてしまいました。今日は春原さんがやって来る日。「明るく笑顔で出迎えなければならない」と思っているうちに5時に目覚まし時計が鳴り、電灯を点るとデックワットも目を覚ましてしまい「悪いな!」と言いつつ、藤川さんに合わせるため仕方ないところ。

ワンプラの次の日は平凡な朝に戻ります。いつもの流れで比丘の朝食、デックワットの朝食と移り、相変わらずやることが遅れる私。朝食後、藤川さんは私に声掛けることなく一人で掃除を始めていました。口煩かった昨日と比べ、今日は無視か。仕方なしに私も自分の部屋を雑巾掛け掃除して、そのまま部屋に篭ってしばらく本を読んでいると扉が開き、藤川さんが白衣をポンと投げ入れ、何も言わずに行ってしまいました。

「何だ、何か言って行けよ」と思うも、この白衣は剃髪後に纏うことになり、比丘と俗人との中間に立つことになります。これは借り物で済むものですが、本来はこれも親族から贈られるものでしょう。これを準備してくれた藤川さんでありました。

本堂脇で藤川さんは春原さんと立ち話(1994.10.28)
髪を剃ってくれるのは僧歴7年のアムヌアイさん(現・住職)(1994.10.28)

◆春原さんを迎える!

比丘の昼食後はデックワットと一緒に飯喰いたいところ、春原さんを迎えにバスターミナルへ行かねばなりません。

一応、藤川さんに断ってから行こうと部屋に行くと「オイ、待っとってくれよ!」と言って黄衣を纏って準備している藤川さん。

私は「はあ? 何で来るんですか?」と言うと「まあええやろが!」とまた出たがり藤川さん。仕方なく、また2台のバイクタクシーで向かいました。予定していた12時30分ぐらいに青いエアコン高級バスは到着。15人ほどの乗客の中、降りて来た春原さん。先日会ったメンバーは誰も来ず、それで結構なところ、彼らの気分を悪くさせていたかと後ろめたい気持ちも残りました。

藤川さんは「よう来たな、こんな田舎まで御苦労さん!」と労いの言葉をかけます。また話し相手を迎えてニコニコ顔。「お久しぶりです。相変わらず元気そうですね!」と応える春原さんの御挨拶を遮って、私は早速、「春原さん、昼飯行きましょう!」と食事に誘い、我々は軽四輪タクシーに乗って市場に向かいます。ぶっ掛け御飯の惣菜が並ぶ屋台に入るも、藤川さんは昼を過ぎているので食事は摂れません。こんな状況だから連れて来たくなかったのです。

昼食後は銀行へ行って、得度式での参列する比丘たちへのお布施用に100バーツ紙幣が多めに必要になるので、4000バーツ分を両替。更に雑貨屋で、昨日買っとけばよかったと思うも、封筒や湯沸しポット、部屋の鍵は新しく備える為の南京錠を購入。

「ついでにネズミ殺しの餌買うて来てくれ!」と言う藤川さん。比丘がネズミ殺しって?「これはさすがにワシが買うのはマズイやろう、そやから頼むわ!」ってそんな勝手な。春原さんは巣鴨での会話の再現に笑っているし、「巣鴨の時のような呑気なものではないんですよ、愚痴聞いてよ!」と悶々と春原さんに訴えかける私。

何かポーズをとっては印象に残るカットを考える私(1994.10.28)
他の比丘も興味津々集まって来る(1994.10.28)
心は泣いている私(1994.10.28)
仕上がり直前、剃り残しをチェック。藤川さんも何か言いたそうな顔つき(1994.10.28)(1994.10.28)
白衣を着せてくれる藤川さんと私(1994.10.28)

◆剃髪の時間!

午後2時頃、寺に帰ると春原さんを連れ境内を案内し、得度式を行なう予定の本堂の方へ回りました。ついて来た藤川さんはそんなところでも立ち話しが長い。こちらは今のうちに春原さんとツーショット撮りたいのに、自分の話しが終われば「もう頭剃るぞ!」と急がせます。クティの階下にある芝生の上にパイプ椅子が置かれており、正に刑場のような佇まい。「まず水浴びて来い!」と藤川さんに促されます。石鹸で頭洗いながら、「髪がある、ずっとこうやって何年も髪洗って来たんだな」としみじみ洗い収めました。

今日は髪がゴワゴワになる心配は無い。タイに居て石鹸で髪洗うことはムエタイのジムでも経験あり。幼い頃も石鹸でした。昔は粉石鹸なるものも売っていて、これで髪洗ったんだな。何か遠い昔を思い出す水浴びでした。

3時半頃、“刑場”に向かうと髪を剃ってくれる僧歴7年のアムヌアイ(現・住職)さんが待っています。

「まず断髪式や!」と言って春原さんにハサミを持たせた藤川さん。普通は親族の父親が最初にハサミを入れるのでしょう。しかし私にはこのタイで親族は居らず、親族暫定代表の立場にあるのは春原さんだけ。
「えっ! いいの? 切るよ! 本当に切るよ!!」
オドオドしながらハサミを入れようとする春原さんに藤川さんが
「バサッといけ、そんなもん!」と後押しします。

そしてついに頭頂部の髪が切られました。散髪屋で感じる切れ味とは違う、遠慮がちなゆっくり“ジョキッ”とした音。「ついに切った。始まった!」と悟る瞬間でした。次にアムヌアイさんが剃り始めます。カミソリで髪を梳いているような心地良い響きが伝わってきます。

春原さんに「あっちからも撮って、見ている坊さんらも入れて!」なんて注文していると「いちいち煩い!」と言われる始末。仕事でカメラマンも兼ねる人だから、分かっていることには苛立ったことでしょう。やたら喋ることが多かった私は、心が動揺してどうしようもなかったのです。10分あまりで剃り終えるとアムヌアイさんに御礼を言って仕上げの水浴びに向かいました。髪を掴もうにも「あっ、髪が無い、現実なんだな」と意識すること10秒ぐらい。しかし頭洗うことの楽なことも実感。

部屋に戻り、春原さんは「どうです、今の心境は?」と計量を終えたボクサーにインタビューするかのように問い、「昨日も今日も変わらぬ風景が視野に入っていますが、この場に春原さんが居る不思議さと、癖で髪を掻き上げようとすると髪が無いことに気付く。そこでハッと現実に返るような心境です」と応える私。そんなところへ藤川さんがやって来て「早よ着んかい!」と急かすように白衣を纏わせてくれました。

子供の蛇が成長し脱皮して古い皮を捨て去るように身体は白くなり、大人へと一段と成長する過程にあるこの状態が、この白衣の意味があるようです。そして次が黄衣に変わる、明日は大人の仲間入りとなります。

そして明日の得度式に備え、比丘へのお布施を「100バーツを25人分、300バーツを2人分、500バーツを一人分、親代わりになってくれる式の先導役へ200バーツ用意しとけ!」と言って出て行った藤川さん。買った封筒は50枚ほどあり、両替した紙幣をその人数分用意しました。

夕方、5時30分を回った頃、そろそろ春原さんはホテルへ移動します。こんな寺ではお誘いできる寝床はありません。予約はしてなかったと思いますが、寺から7~8分ほど歩いたところに、中級のホテルがあるようで、藤川さんが付き添って行ってくれました。

30分程で戻って来た藤川さん。ホテルのフロントの女の子に勿論タイ語で「“日本からウチの寺を取材に来た記者や、どうせ今晩暇やろうから晩飯でも付き合うてやってくれてもええで”と言うて来たわ!」と話す藤川さん。フロントの女の子も大笑いだったらしく、比丘の立場でお騒がせな藤川さんでありました。

寝るまでに髪触ろうと何度頭を触ったことか。中学生の頃は五分刈りで、こんな剃ってしまうのは生まれて初めてのこと。長髪が好きで、もう絶対坊主頭にはしないと思った中学卒業の頃。私も変わったものだと感心。明日は高津くんがこの頭見て笑うのかあ。恥ずかしながら楽しみな対面となります。

春原さんと初めてのツーショットは剃髪後、セルフタイマーで(1994.10.28)

※筆者剃髪時の写真は春原俊樹氏(ワールドボクシング=当時)撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

韓国映画『消された女』が描く「強制入院」の「悪魔的な部分」「毒気」

本年も、よろしくお願いいたします。今年こそ、社会の問題に対し、現実的に一矢報いるところから始める所存。

さて最近、書籍の話題を取り上げてきたが、今回は新年の話題としてもっともふさわしくない「人間の悪魔的な部分」「毒気」について考えざるを得ないような、韓国の劇映画を紹介したい。

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◆韓国と日本の「強制入院」

作品は、2016年に韓国で実際に起きた拉致監禁事件をモチーフとした『消された女』。プレスシートによれば、「韓国では、精神保健法第24条を悪用し、財産や個人の利益のために、合法的に健康な人(親族)を誘拐し、精神病院に強制入院させる事件が頻繁に起こり、社会問題になっていた」という。たとえば、医師が自らの息子を、資産を守るために夫が元妻を、離婚のために夫が妻を強制入院させた。「精神保健法第24条」とは、「保護者2人の合意と精神科専門医1人の診断があれば、患者本人の同意なしに『保護入院』という名のもと、強制入院を実行できる」ものだそう。韓国公開後の16年9月、憲法裁で精神疾患患者の強制入院は、本人の同意がなければ憲法違反という判決がくだった。

調べると、日本の措置入院も、都道府県知事への通報等があること・調査の上措置診察の必要があると認めること(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律27条1項)、診察の通知(28条)を経て、指定医2名以上の診察の結果が「精神障害者であり、かつ、医療及び保護のために入院させなければその精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認める」ことで一致すること(29条2項)などによって措置入院が可能となっているようだ。

ただし、「自傷他害のおそれがある」という文言を拡大解釈して常習犯や「触法(犯罪を起こした)精神障害者」などによる犯罪その他の触法行為の予防のための拘禁の代用としてこの制度が使われる危険性があり、犯罪として処罰するためには立法府が制定する法令において犯罪とされる行為の内容・刑罰を規定しておかなければならないとする罪刑法定主義の原則との兼ね合いが問題になっているという。

また、措置入院以前でも、医療保護入院(33条)の家族等による悪用があるようだ。権力が強まり、「中世」とすらいわれる現在の社会状況をかんがみても、また監禁事件などの報道をよく目にすることを考えても、背筋が寒くなる話であり、本作のテーマを対岸の火事と思っている場合ではないかもしれない。

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プレスシートには、精神疾患者たちの平均入院期間は韓国が極端に長期にわたっていると説明されていた。なぜか日本が取り上げられていなかったので、気になり、これも調べてみた。すると、「第8回 精神障害者に対する医療の提供を確保するための指針等に関する検討会」(2014年3月28日)の参考資料が見つかった。そこに示されている「精神病床の平均在院日数推移の国際比較」グラフのたとえば2010年のデータを見ると、諸外国が50日程度までにおさまっているのに対し、韓国が100日を超えており、ここ20年間なんと日本がダントツで500日からようやく300日程度まで下がってきたということだ。強制入院に限ればまた異なるのかもしれないが、まったくいったいこれはどういうことなのかと考えなければならない。資料に続けて目を通せば、通常の身体的な病気同様、退院を促すというスタンスはあるようだが、精神的な負担が多い社会なのか、それとも入院させ続けがちな社会なのか、その両方なのか、ほかにも原因があるのかなど、不勉強な筆者には気になることばかりだ。

だが、再びプレスシートを読んでいくと、「1日10件を超える強制入院が発生している韓国の現実」などと書かれている。そこでまた日本のデータを調べ、厚生労働省のデータを見る。「精神障害者申請通報届出数、措置入院患者数及び医療保護入院届出数の年次推移」の2014年度では申請通報届出数24,729件、措置入院患者数1,479人、医療保護入院届出数170,079件(一部を改正する法律の施行により、保護者制度が廃止され、医療保護入院の同意者が従来の保護者又は扶養義務者から、家族等のうちいずれかの者となった)で、全体としては措置入院患者数が減っているが、医療保護入院届出数が増えている。別の「医療保護入院患者数の推移(年齢階級別内訳)」の資料を見れば、131,924人となっている。単純に比較できるデータが出て来ないのでなんともいえないが。

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◆「真実に基づいた映画は、世間の注目を集めるために必要であると信じている」

本映画作品に戻ると、そのあらすじは、こうだ。白昼、都市で、カン・スアという女性が誘拐され、「精神病院」に監禁される。彼女が強制的に薬物を投与され、暴力をふるわれる日常を書き留めた手帳は、ナ・ナムスというTVプロデューサーの男性に届けられた。彼は、殺人事件の容疑者として収監されていた彼女と出会うことになるが……。

韓国でも、実際の殺人事件を取り上げた『殺人の追憶』『殺人の告白』、暴行事件を取り上げた『トガニ 幼き瞳の告発』『ハン・ゴンジュ 17歳の涙』などの作品があり、いずれも評価が高い。

ところで最近、長女を両親が監禁したと思われる「寝屋川監禁事件」、金銭トラブルが原因とされ4人目が逮捕された「茨城・牛久の切断遺体事件」、宮司殺害など3人が死亡した「富岡八幡宮」の事件、アパートで9人の遺体が見つかった「座間殺害事件」など、以前であればもっと騒がれていたようにも思われる凄惨な事件の報道がいくつかあった。筆者は先日、「北九州監禁殺人事件」についてのネットの記述を一晩中読んでしまった。

イ・チョルハ監督は、「いくつもの私設精神科病院にはびこる悪行について語りたかった」「物語を展開することによって、社会から保護されていない犠牲者たちについて語りたいと思った」「真実に基づいた映画は、世間の注目を集めるために必要であると私は信じている」という。ちなみにナ・ナムス役のイ・サンユンは最新ドラマ『二度目の二十歳』などではソフトな魅力を打ち出しており、ファンの方も本作の緊張感あふれる演技を新鮮に楽しめるだろう。ほかにも人気俳優たちがキャストに名を連ねている。

人間には、自らを守るためなのか、悪魔というか毒気にとりつかれるような性質があったり、ある環境や関係性に追いこまれればそのような性質があらわとなるような面があったりするのではないだろうか。生きながらにして互いに地獄に陥らないために、たとえば制度の問題があればそれを是正し、極力オープンな状態を保てるような仕組みをつくったり、対立する利害を対話で解決できる仕組みもどんどんつくったりそれがきちんと用いられたりするようにみんなでし続ける必要があるのかもしれない。

まずは本作をご覧になってみては、いかがだろう。

◎『消された女』公式サイト http://www.insane-movie.com/
原題:날, 보러와요(『私に会いに来て』) 英題:INSANE
監督:イ・チョルハ 出演:カン・イェウォン、イ・サンユン、チェ・ジノ ほか
字幕翻訳:金 仁恵 提供:キングレコード  配給・宣伝:太秦
【2016年/韓国/カラー/91分/シネマスコープサイズ/5.1ch/DCP】
2018年1月20日(土)より、シネマート新宿・シネマート心斎橋ほか全国順次公開


◎[参考動画]映画『消された女』予告編(uzumasafilm 2017/12/22公開)

▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文]
1972年生まれ。フリーライター。労働・女性運動等アクティビスト。『現代用語の基礎知識』『情況』『週刊金曜日』『現代の理論』『neoneo』『救援』『教育と文化』『労働情報』ほかに寄稿・執筆。

『紙の爆弾』
●〈2月号〉【特集】2018年、状況を変える8「『よど号』メンバーに聞く 日米安保路線見直しで 日朝国交正常化へ」
●〈1月号〉決死の覚悟と不屈の精神をもつ従軍慰安婦とされた女性たち 寄稿
●〈1月号〉対米従属「永久化」今こそ日米関係を根本的に見直せ! 天木直人さんインタビュー 構成

『NO NUKES voice vol.14』
●[報告]「生業を返せ! 地域を返せ!」福島原発被害原告団・弁護団「正義の判断」寄稿
●[インタビュー]淵上太郎さん(「経産省前テントひろば」共同代表)
〈反原発の声〉を結集させ続ける 不当逮捕を経たテントひろば 淵上さんの「想い」 取材・構成・撮影
●[インタビュー]松原保さん(『被ばく牛と生きる』映画監督)
 福島は〈復興〉の「食い物」にされている 取材・構成・撮影

『救援』584号 塩見孝也さん追悼文

2018年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』2月号【特集】2018年、状況を変える

『カウンターと暴力の病理』の「鹿砦社元社員の蠢動と犯罪性」を改めて問う

◆神原元弁護士はなぜ、対鹿砦社の代理人を一手に引き受けているのか?

 
『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD(55分)定価=本体1250円+税

写真家の秋山理央は取材班からの電話問い合わせに対して、「あす電話で回答します」と語っていたが、翌日鹿砦社に電話をしてきたのは神原元弁護士だった。これまでに、「反原連」(首都圏反原発連合)、五ノ井郁夫、秋山理央、香山リカ、そして李信恵の代理人を神原元弁護士は鹿砦社に対して引き受けている。

弁護士業界不況の中、年収200万円以下で弁護士登録を断念するしかない、多くの若手弁護士が泣いている中、神原弁護士のご多忙はまだまだ、続きそうである(念のため、上記団体や個人はいずれも、鹿砦社からの質問や要請に対してみずから回答をせず、神原弁護士に対応を依頼したものである。鹿砦社から、好き好んで弁護士登場が必要な場面を作り出したわけではない)。

◆付録CDが怖くて開けない読者にも10項だけは読んでほしい

『カウンターと暴力の病理』を購入していただいた方々から、次々と感想が寄せられている。予想していたこととはいえ「本文を読みましたが、怖くなってCDは聞けていません」という方々が多数いらっしゃるようだ。編集部は読者の皆様に『カウンターと暴力の病理』の読み方、付録の聞き方を強制する立場にはないし、どのようにお読みいただいても(あるいは買いはしたが、面白くなくて途中で放り出されようが)結構。お買い求めいただいただけで感謝、感謝である。

ただ、本文だけでも200ページ近くあるので、後半は未読の読者がいれば、10項「鹿砦社元社員の蠢動と犯罪性」には是非お目通しいただきく、お勧めする。「しばき隊」、「M君リンチ事件」に関心のない方々にも(もちろん内容は事件と無関係ではないが)、現代のネット社会の問題点、とりわけSNSに過度の依存をすると、どのように行為が変化してゆくのか。心理がいかなる変化を見せるのかを考察するうえでの症例研究としてもお使いいただけるであろう。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

◆関連事件に絡む「SNS依存症」の人たちが取る類似行動

いま、ご覧頂いている「デジタル鹿砦社通信」は少なくとも一人以上が、公開前に目を通し、内容の妥当性や誤字脱字をチェックしている(それでも間違いが散見されるのは、ひとえに書き手の「ズボラさ」ゆえだ)。しかし、SNSはふと思い立ったらすぐにそれを「公開」することができ、基本的に「編集者」や「校正者」が介在することはない。特別な有名人で本人ではなく、「ゴースト」が複数で書き込みをしている場合などの例外を除いて、一般人のSNSやブログは「ノーチェック」で他人の目に触れることになる。

そして、SNSの恐ろしいところは、一度深みにはまってしまうと、時間的、内容的な制御が効かなくなることだ。趣味で植物の生育ぶりや、旅行記を書いていたり、興味を同じくするテーマで穏やかに語らっているうちは平和だけれども、SNSを「論争の場」や「徒党を組んで勢力を誇示する場」として使い始めると、とんでもない中毒症状(依存症)と、攻撃性、そして法をも犯すまでに至る「実例」を生々しくご紹介している。

これはどなたにとっても他人事ではない。あなたの隣で真面目そうに仕事をしているように見える同僚が、実は就業時間の半分ほどをSNSに費やしているかもしれない。あなたはそうでなくとも、あなたのご家族やご友人は大丈夫だろうか?

取材班は結成以来、「M君リンチ事件」の取材を進めるかたわら、持ち込まれた複数の類似事件へも直面してきた。社会的にも問題を含んだこれらの事件はまだ記事化されてはいないが、いずれの日にか読者の皆様にご紹介する日が来ることだろう。取材班が驚いたのは、それらの「事件」にはいずれも「SNS依存症」の人間が必ず絡んでいることだ。そして「SNS依存症」の問題人物は共通して「虚構を述べる(あるいは数人で創り出す)」、「法的措置をちらつかせる」などの行動に類似性を見て取ることができた。時に企業恐喝と取られても致し方のないケースもあった。

その象徴のような人物が犯した数々の問題を紹介することにより、過剰に情報伝達速度が上がり、誰しもが「人の目を経ることなく」発信が可能となった今日社会の危険性と病巣に警鐘を鳴らすのが『カウンターと暴力の病理』10項の「鹿砦社元社員の蠢動と犯罪性」だ。「藤井(注:鹿砦社元社員の名)ライブラリー」とさえ揶揄される、この膨大なメールやツイッターの記録を見て取材班は、やや大げさながら「SNSは充分に危険性を理解してから使わないと危険だ」との結論に至っている。

多くの人がスマートフォンを保持し、パソコンを触る環境にある中、「SNS」の使い方を間違えると、仕事や下手をすると人生の貴重な時間を無駄にすることになる。「みもふたもない」(同書176頁秋山理央の告白)失敗に陥らないためにはどうしたらよいのか。その生きた回答を「鹿砦社元社員の蠢動と犯罪性」の中でまとめあげた。未読の方には是非お目通しをお勧めする。

(鹿砦社特別取材班)

『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD(55分)定価=本体1250円+税