《建築漂流10》地下15メートルに差し込む自然光 安藤忠雄のコレッツィオーネ

《取材建築漂流09》の取材で国際子ども図書館を訪れ、なんだかんだいってカッコいいよなあ、安藤忠雄、とつぶやいてしまった。“いまさら感”を邪念として追い払い、興味のままに安藤忠雄を追いかけてみようと思う。

今回紹介する『コレッツィオーネ(Collezione)』は商業施設として1989年に竣工した建物で、設計は安藤忠雄建築研究所だ。表参道を上り、青山通りを渡ってさらにそのままゆっくり10分ほど歩くと右手に現れる。最寄りの表参道駅からもやや離れており、青山通り付近に比べるとアパレルブランドの店舗も少ないようだ。ほんの少し生活を感じさせる、そんな南青山にこの建物は建っている。

ついでに紹介するが、コレッツィオーネの少し手前(原宿側)に建つレンガタイル仕上げの建物も面白い。1975年に完成したこの『フロム・ファーストビル』は、竣工の翌年に日本建築学会賞作品賞を受賞するなどして名を広めた。南青山界隈にインテリア関係のショップが増えるキッカケをつくったともいわれている象徴的な建築なので、コレッツィオーネを訪れる際に立ち寄ってみるといいだろう。

さて、安藤忠雄らしいモダニズム(浅田彰によればポストモダニズム)を感じさせるコレッツィオーネは、地上部分に加え地下3階の広がりを持ち、要するにボリュームの半分近くが地下に埋まっている。

安藤建築には自然とともにあろうという思想を表しているものが多い(多くはコンクリートを用いたモダンなルックスであり、そのため外から見ているだけでは気が付きづらいのだが)。あの有名な「住吉の長屋」では、中央に設けた中庭のために、雨の日に手洗いに行こうとすれば傘をささなければならない。また、安藤忠雄建築研究所のオフィスにはエアコンが設置されておらず、しかしそれでも不快にならぬよう空気と光の流れを織り込んで設計されている。

これは一例であり、こうした“自然を無視しない設計”は、あるいは安藤忠雄作品の全てにおいてなされているのではないだろうか。コレッツィオーネも例外ではなく、地表から15メートル以上離れた地下にまで自然光が入り込んでくるし、また緩やかに外気と接することができるように設計されているため密室的な息苦しさを感じない。

冬。やや風のある晴れた日。最下階の空気にはほんの少しの湿り気。雪でつくった“かまくら”に入ると感じる、あの唐突な静けさ。地上までつづく背の高いコンクリート壁を見上げると、半分影になった植木の緑が光をさえぎる。またいで届く光は薄くやわらかい。無風だが確かに外と繋がっている、そんな落ち着いた感覚が深呼吸を呼び込んだ。

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい) [撮影・文]
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか『NO NUKES voice』15号

私の内なるタイとムエタイ〈28〉タイで三日坊主Part.20 自分以外が見えてきた

デーンの頭を剃るラス、眺めるトゥム。剃髪は互いに剃り合うコミュニケーションの場でもあります

寺に戻ってまた続く修行の日々。と言っても修行とは程遠い、単なるノラリクラリと送るお坊さん生活でありました。

◆托鉢も楽しい!?

今日も藤川さんの後について托鉢が始まる。1件目の信者さんは初めて出会う17歳ぐらいで凄く可愛い女の子。例えればアグネス・ラムのような。向かい合うともう手の届きそうな近い距離。比丘の身分でウキウキ気分になってしまう。なんと不謹慎な。もちろん顔には出さない。日々出会う信者さんの顔触れも覚え、こんな邪念が頭を過ぎるほど余裕が出て来た私。

坊主仲間だったインドくん(私が勝手に付けた名前、インド人みたいな顔)がバイクでスレ違う。「こいつも還俗したんだ」と気付く。しばらくしてそのインドくんが先の道で待ち構えていて寄進する側となっていました。ニコッと笑ってやると、「ハルキはいつ還俗するの?」と言われ、「とりあえず年明けまで!」と言うとニコッとワイ(合掌)を返してくれました。

◆衝撃の遺体

今日も暇な日で、この日は私の得度式前日に剃髪してくれたアムヌアイさんに付いてちょっと賢い上品グループに加わってみました。彼らもやること無い日は、溜まり場となる本堂脇のベンチでコップくんらも集まり井戸端会議。そこにはガキっぽい話は無く、どことなく大人の会話を感じる比丘達。

やがてアムヌアイさんは寺に入って来た霊柩車を葬儀場脇の霊安室へ誘導。付いて行くと、遺体置き場の冷凍室から一体運ばれて行きました。初めて見た遺体。紫色のコチンコチンに固まったマネキン人形のようでした。こんな姿になったら人も牛も豚も大差は無く、単なる肉塊。ここに至るまでの、この人の人生はどんなだったろうとフッと考えてしまう。この遺体は他の寺で火葬されるようでした。

少々自分で剃ってみるルースくん

◆満月の前日

明日は満月の日で、その前日は剃髪する日と決められています。決まった儀式として、全員読経して静粛にやるのかと思っていたら、夕方4時半過ぎから賑やかに、笑いもこぼれながら水場のあるところなら、あっちこっちで始まりました。私は得度式の前の日に剃髪して貰ってから半月あまり経った頃。他のみんなはほぼ一ヶ月である。私は撮影目的を持ってクティ下で、こんな時だけあつかましくも「先にやってくれ」と名乗り出ました。普段、言葉や態度が悪く、性格悪いなあと思っていたヒベという奴が意外と快くやってくれるも、私の頭はデコボコでやり難いのか、すぐにパンサー3年目のベテラン、ラスくんに代わり最後までやってくれました。やっぱり上手い奴の剃り味は気持ちいいモンである。私はあと何回剃髪するのだろうか。

私は終わるとサッと水浴びしてカメラを持ち、比丘は走ってはいけないのに突っ走り、葬儀場の方でも和気藹々と剃髪が進む中、ブンくんやコップくんらがやっていたので撮ろうとすると和尚さんが「みっともないところを撮るな!」と叱られてしまいました。

「何がみっともないのか」と、そこは日本人感覚で文句言いたくもなるも、黄衣を纏っていない姿は“みっともない”と言う解釈もあるでしょう。和尚さんの言うことでもあるし、そこは大人しく引き下がっておいて、クティ下に戻って他の者をしっかり撮り終えました。これこそ旅の思い出。今撮っておかねば後で絶対後悔する。ブンくんらは撮れなかったが次の機会を狙おう。それにしても誰も嫌がらなかったではないか。比丘として間違っているかもしれないが、時折カメラマン意識に戻ってしまいます。

今日の“調髪”はほぼタダ。カミソリ代のみ。もちろん皆、エイズ感染防止策で使い回しはしません。

他の比丘にいたずらされたパノムの頭を剃るラス。和尚さん居ないところで、こんな姿にすることもあり
新しい仏塔完成行事で参列した後、カメラを向けるとキチンと立つケーオさん(左)とアムヌアイさん(右)。皆の兄貴的存在の二人

◆いつか我が身も、最後の送り出し

この翌日の午前中にまた葬儀の準備に行かされると、葬儀する遺体が股間にガーゼを当てた程度の裸で置かれていました。本物の遺体、40歳ぐらいの刺青しているオッサン。ピストルで撃たれたようでした。親族が入れ替わり見に来る。小さい5歳ぐらいの女の子が笑いながら遺体を覗いたり、母親らしき人の間をスキップ気味に行ったり来たり、それがやがて事態を把握したのか本気で泣き出してしまいました。ピストルで撃たれた胸と貫通した背中の傷を縫っている検視官? 側頭部にも傷がありました。寝ているような、すぐ起き上がりそうな遺体。私はそんな遺体をしばらく眺めていました。ほんの2~3日前まで普通の生活をしていただろうに、ほんの数秒の出来事でこんな姿になってしまうです。

以前、藤川さんから頂いた手紙に、「葬式では歳取った自然死が少なく、事故で亡くなられた方が多いのです。交通事故、水の事故、殺人など。ピストルで撃たれた遺体もあり、身元不明で葬式ができない遺体もあります。お釈迦様の無常の教えが実感として分かってきます。本当に真実は今この瞬間だけ、それ故今この一瞬一瞬を大事に生きていくしか確かなことはないのです。」

そんな遺体が置かれた葬儀場に親族の方がリポビタンDを持って来て比丘に配ってくれました。見てるだけでくれるなんて恐縮でした。そんな場でちょっと麻痺していた認識。“くれる”のではなく、これもタンブンです。

葬儀後、藤川さんが、「今日の葬儀はいつもとちょっと違った殺伐とした雰囲気やったねえ、何で死んだか聞いたか?、警察に賭博の現場見つかって逃げて、追われて胸撃たれてもまだ意識あって、自分のピストルで頭撃って自決したんや!」と言う。タイでは法規制はあれど、個人でピストルを持てる国なのです。噂だけでなく、実際に発砲事件が多いことでそれが証明されている現実でした。

葬儀後、親族がお布施を配りにやって来ました。私は内心、「毎度あり~」といった気分でしたが、すぐに藤川さんの言葉を思い出しました。

「坊主がお金を受け取る時は、あっさりと当たり前のように受け取るもんや。坊主が葬式に行って『毎度ありがとうございます。また宜しくお願いします』など言って、お布施を受け取ってみい、殺されるぞ(例えの表現)! お布施とは何となく差し出し、何となく受け取るもんや。間違っても『ありがとう』なんて言うなよ。知らない顔して当たり前のように受け取れよ、その方が有難味があるんやから!」
お布施といった徳を積む行為に応えることはそういうものなのです。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)

◆諸行無常を実感

これも過去、藤川さんに説かれた言葉で、
「明日は必ずやってくるモンか?各々に“必ずやって来る”とは言えんのとちゃうか?平和な日常でも、明日もこの命があるとは限らへんのやからな!」

そんな話を聞きながら、その時は漠然とその意味を理解していました。

先日の冷凍された遺体といい、今日の葬儀の遺体といい、死因は何にせよ、日々人は死んでいくもので、来世へ最後の送り出しをするのがお寺の役目。一方で、日々新しい命が産まれている。

順々に我が身も送られる日が近づいている。諸行無常の教えが実感として分かってくるのがお寺に暮らす我々比丘なのでした。

これまでノラリクラリ無駄な日々を送ってきたことは勿体無いこと。今やるべきことを先延ばしせず今やらねば。日本に帰ったら無駄の無い日々を送れるだろうか。三日坊主の私に──。

葬儀の様子(イメージ画像、別日)。当然、ベテラン比丘が前に並びます。要請される人数によっては他の寺から呼ばれたり、我々も向かったりします

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する/編集長・中川が一から聞く日本社会の転換点/日本会議系団体理事が支持「道徳」を〝数値評価〟していた文科省研究開発学校 他
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

TBS記者、財務次官、TOKIO …… 性犯罪に関する有罪バイアスの凄まじさ

犯罪の疑惑をマスコミに報じられた人物について、世間の多くの人がクロと決めつけて批判するのは毎度のことだ。それにしても、性犯罪の疑惑の場合、世間の人々が抱く有罪バイアスは他の犯罪よりはるかに凄まじい印象だ。

昨年来、各界の著名な男性たちが性犯罪や性的な不祥事の疑惑を報じられ、社会的に抹殺されていく光景を見ながら、私はそう思わざるを得なかった。具体的には、元TBS記者・山口敬之氏のレイプ疑惑、財務省事務次官・福田淳一氏のセクハラ疑惑、タレント・山口達也氏の強制わいせつ疑惑に関する世間の反応のことを言っている。順に振り返ってみよう。

◆取材の基本を怠った人たちにクロと決めつけられた山口敬之氏

伊藤詩織氏の著書『Black Box』

まず、元TBS記者・山口敬之氏のケース。昨年5月、週刊新潮でジャーナリストの伊藤詩織氏へのレイプ疑惑を報じられ、さらに伊藤氏が実名・顔出しで山口敬之氏からレイプされたと告発したことなどから、山口敬之氏は「レイプ魔」と決めつけた人々からの大バッシングにさらされた。

しかし、当欄の3月1日付け記事で報告した通り、伊藤氏が山口敬之氏を相手取って東京地裁に起こした民事訴訟について、その記録を「取材目的」で閲覧していた者は今年1月の段階でわずか3人だった。山口敬之氏本人はレイプ疑惑を否定しており、起訴もされていないため、当事者双方の主張内容や事実関係を確認するために民事訴訟の記録を閲覧するというのは取材の基本だが、それを行った取材者が3人しかいなかったということだ。

それにも関わらず、山口敬之氏をクロと決めつけた報道が大量になされ、報道を鵜呑みにした人たちが山口敬之氏をクロと決めつけて批判しているわけである。これは恐ろしいことだと思う。

◆福田氏の発言が事実でもセクハラとは断定できない

続いて、財務省事務次官の福田淳一氏のケース。福田氏がテレビ朝日の女性記者に「胸触っていい?」とか「手縛っていい?」などのセクハラ発言をした疑惑については、そのような発言があったことまでは間違いないようだ。最初に報じた週刊新潮が音声データをインターネットで公開しているからだ。そのため、疑惑を否定している福田氏は、往生際悪く言い逃れをしているだけのように見られ、いっそう厳しい批判にさらされている。

しかし実際問題、男性が女性に対して性的発言をすること自体は、セクハラにはあたらない。それがどれほど卑猥な内容の発言だったとしても、男性と女性の関係性やその発言がなされた経緯によっては必ずしも問題があるとは言い切れないからだ。

つまり、福田氏のセクハラ発言疑惑をクロと断定するには、本来、被害者とされる女性記者との関係性や、問題とされる発言に至った経緯などが十分に検証されなければいけない。しかし、今のところ、信頼に足る検証結果が示されたとは言い難い。

◎[参考動画]“胸触っていい?”「財務省トップ」のセクハラ音声(デイリー新潮 2018年4月12日公開)

◆電話番号を聞いたのは山口達也氏?

そして最後に、女子高生に無理矢理キスをした疑惑が持ち上がった山口達也氏のケース。山口達也氏の場合、疑われているようなことをしたこと自体は本人も認めている点が前2者と異なる。しかし、根拠のない憶測により実際より悪質な事案であるように言われている可能性がないわけでもない。

私がそれを感じたのは、タレント・松本人志氏がテレビで次のような発言をしたという報道を見た時だった。

「高校生に電話番号、聞かないって。連絡先を聞いたときは少なくとも酔ってなかったと思うんでね、だからやっぱり、おかしいんですよ」(MusicVoice4月29日配信記事より)

山口達也氏は事件を起こした時に酔っており、電話で被害者とされる女子高生を呼び出したとされるが、電話番号を聞いたのが山口達也氏だったと松本氏はなぜ、わかったのだろうか。おそらく松本氏は、女子高生のほうが山口達也氏に電話番号を聞いていた可能性を考えていないのだ。


◎[参考動画]【TOKIO 山口達也】緊急記者会見(パパラッチ2018年4月26日公開)

◆「被害者」の主張に異論を述べることは許さないという雰囲気

とまあ、このように性犯罪や性的な不祥事を起こした人物については、世間の人々が抱く有罪バイアスは強力だが、もう1つ怖いことがある。それは、性犯罪や性的な不祥事に関しては、「被害」を訴える女性の主張に異論を述べることを許さないような雰囲気が出来上がりやすいことだ。

実際、この記事を読み、私が伊藤詩織氏やテレビ朝日の女性記者、女子高生らを貶めたように受け取り、不快感を覚えた人もいるのではないだろうか。

もしも不快感を覚えた人がいるとすれば、執筆者として申し訳なく思う。しかし、私は同様のことを今後も言い続けるだろう。なぜなら、「被害」を訴える人の言うことを鵜呑みにしたり、事実関係の検証をおざなりにすることは、冤罪防止の観点から絶対にやってはいけないことだからだ。

この記事を読んだ人の全員がそのことを理解してくれるとは思わないが、少しでも多くの人が理解してくれたらありがたく思う。

▼片岡健(かたおか・けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

政権主導の改憲議論は憲法違反 いまこそ「護憲ファンダメンタリズム」を!

朝鮮半島の和平に向けた動きに、まったく関与できなかった安倍首相は、4月29日文在寅韓国大統領と電話会談し、「日本が朝鮮と交渉する際には助けをお願いするかもしれない」と情けない陳情をした。

なに言ってるんだ! 近隣の朝鮮と交渉するのに、どうして韓国助けが要るのだ! 小泉純一郎は自分で訪朝したじゃないか。安倍の無能ぶりは、情けなく、恥ずかしい。海外の報道でも、当然だが大いに馬鹿にされ「蚊帳の外」と呆れられている。虐めるときだけは「制裁!制裁!」と、過剰に騒ぎ立てるくせに、韓国、米国が直接対話に舵を切ると、あたふたするばかり。日頃軽視している韓国に「助けて」と泣きつく安倍のザマは、右派の人びとにとっても腹立たしい姿ではないのか。

◆国民の権利の制限と国家支配の強化を目指す憲法改正は「時代の要請」なのか?

安倍政権の本質は第二次安倍政権発足時に、安倍が明言した通り「改憲」を目指すことを、重要な到達目標に置く政権であり、現実に「解釈改憲」を強行した政権である。安倍の志向する「改憲」は、日本国憲法を大日本帝国憲法に近い形へ作り変えようとの意思に依拠しており(自民党が示した「改憲案」参照)、単純化すれば、国民の権利の制限と国家支配の強化を目指している。「時代の要請にこたえる憲法」などと安倍は繰り返したが、果たしてそれは事実であろうか。

時代は、世界は日本の憲法にどのような役割を期待しているのだろうか。ここで注意しなければならないのは「時代」とは曖昧模糊とした雰囲気や気分ではなく、「現在」の主権者たる日本国国民であることと、「世界」とは近くは東アジアではあるが、中近東、アフリカ、欧州などを含めた全世界であることだ。

◆政府・マスコミあげての「北朝鮮・中国の脅威」という軍拡改憲プロパガンダ

日本国民は今年のはじめまで、「朝鮮」に脅され続けていたのではなかったか? 全国各地で行われる「ミサイル飛来に対する避難訓練」、「Jアラート」の過剰な宣伝、明日にでも朝鮮からミサイルが飛来するかのような政府・マスコミあげてのプロパガンダに、大方の世論も「北朝鮮の脅威」論に傾きつつあった。しかし、金正恩が板門店を一人きりで歩いてくる姿、そして国境を越えて文大統領と握手をし、1日をかけて会談し「板門店宣言」が合意された事実を、われわれは目にした。

これまで「北朝鮮の脅威」を主たる根拠として展開されてきた、日本の軍備増強路線は根拠を失うことになる。「いやむしろ軍事大国中国の方が危険だ」と、またしても標的を変えて軍備増強主義者は論難するかもしれないが、日中は「戦略的互恵関係」を2006年10月、ほかでもない、第一次安倍政権の初外遊で中国を訪問した安倍晋首相自身と中国の胡錦濤国家主席の間で確認しあっている。この文書は現在も死文化してはいない。

憲法前文は「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とある。つまり現憲法が十全にその精神と法体系を確立し、行政が運営されても、「国民が福利を享受できない」状態に陥った場合に「改憲」は国民から、発議されるべきものである。あくまでも国民が憲法の不十分さを認識したときに「改憲」は論じられるものであるのだ。

◆「改憲」策動に総理大臣が血道をあげる行為自体が憲法99条違反である

この点は長年勘違いされてきている。現役の総理大臣や国務大臣、そしてすべての公務員は憲法を尊重し、擁護しなければならない「義務」を課されている。日本国憲法第99条で 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と明確に述べられている。

つまり、憲法尊重・擁護義務を課されながら「改憲」策動に総理大臣が血道をあげる行為自体が「憲法違反」なのであり、今日の日本は憲法が十全に機能している社会とは到底言い難いことを注視すべきだろう。

だから「改憲」を論ずるのであれば、まず現日本国憲法を正当かつ、真っ当に体現した社会を実現し、そのうえで「国民が福利を享受できるか」否かを議論の中心に据えねばならない。その前提に立てば、現在の「改憲」論議はいずれもその最低条件を満たすものではない。首相が提唱する「改憲」議論それ自体がとんでもない違憲であり、完全に無効である。

◆「これ以上悪い憲法を作らせない」意思を明確にするしか現実的な選択肢はない

さて、憲法記念日のきょう、まずはほとんどその問題点が論じられることはないけれども、憲法99条に照らせば、現在の政権が画策する改憲議論が基本的に「憲法違反」であることを再度確認し、憲法についての私見を開示したい。

私は現憲法が到達しうる最高形態であるとは考えない。「平和主義」、「国民主権」、「基本的人権の尊重」は妥当な理念であるが、憲法前文はその後に連なる1条から8条(天皇についての記述)と極めて大きな齟齬を示している。日本国憲法の最大の問題点は、「基本的人権の尊重」を謳いながら、1条で国民の権利を定義することなく、天皇を持ってきてしまっていることだ。

さらに、細かい問題が他にもないわけではないが、「憲法違反」ながら進められている、現在の「改憲」論議を目にすると、私の抱く現憲法の問題を解決する方向への「改憲」は、現実味がまったくないと言わざるをえない。逆に自民党に限らず、野党各党も「改憲」を容認し、党是として「護憲」を掲げる政党は日本共産党しかない(党の政策とは異なり個人で強く護憲を指向する議員が野党にはいるが)。かような状況の中では「これ以上悪い憲法を作らせない」意思を明確にするしか現実的な選択肢がない。

このことが、日本政治の今日的最大の困難と不幸である。半数以上の国民は「改憲」の必要性など感じていない。しかし、その意思を投票行動で表そうとすると、政党では、「日本共産党」しか選択肢がないのだ。「護憲」だけれども共産党に好感が持てない人が投票すべき政党が、国政レベルでは存在しない。この異常事態にこそ憲法をめぐる問題の深刻さがある。

◆護憲派リベラルかのように振る舞う「隠れ改憲派」の危険性

また、一見「護憲」と思われるような名称の団体や個人が、じつは「隠れ改憲派」であったりするから、油断がならない。以前本コラムでご紹介したが、「マガジン9」というネット上のサイトは「護憲」ではない。ソフトな護憲派のような立ち振る舞いをしていて、その実「改憲派」が跳梁跋扈するのが2018年の日本だ。山口二郎、高橋源一郎などは同様に「護憲」と勘違いされるかもしれないが、その発言を詳細に分析すると「改憲派」であることを見て取ることができる。池上彰、佐藤優も同様だ。

政界だけでなく、言論の世界でも「護憲」を明確に主張する人は減少傾向にある。そして一見「リベラル」、一見「護憲」に見せかけて息巻く人の多くが「隠れ改憲派」である事実。この危険性は再度強く指摘しておきたい。

◆あらゆる改憲議論を無視すること

では個人レベルでどのような対抗策が考えられるか。前述の通り現在交わされている「改憲」論議は、その前提からして、無効なものであるのだからか、相手のリングに乗らないこと。すなわち「あらゆる改憲議論を無視」することだろう。政党、市民団体を問わず、明確に「護憲」を掲げる集団以外との憲法論議は、前提からして底が抜けているのだから、一切応じないことである。いま政治・言論界に求められているのは「平和主義」、「国民主権」、「基本的人権の尊重」を堅持する『護憲原理主義(護憲ファンダメンタリズム)』と言ってよいだろう。

現政権に領導されるすべての「改憲論議」は憲法違反であり、私は『護憲原理主義』を主張する。

◎[参考資料]日本国憲法全文(1947年5月3日施行)(国立公文書館デジタルアーカイブより)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
私たちはどう生きるか『NO NUKES voice』15号

2004年の広島高2刺殺事件容疑者逮捕 やはり警察は県外の殺人者に弱いのか?

 
2018年4月13日付時事通信より

2004年10月に広島県廿日市市(はつかいちし)で発生し、長く未解決の状態が続いていた高2女子刺殺事件の容疑者が4月13日、14年ぶりに逮捕された。容疑者は、隣県の山口県宇部市で両親と暮らしていた35歳の男で、被害者とは一面識もなく、過去に1度も捜査線上に浮かんでこなかったという。

そんな男が逮捕されたきっかけは、別件の暴行事件を起こしたことだったとされる。逮捕され、指紋やDNA型が調べられたところ、広島の高2女子殺害事件の現場に残された犯人の指紋やDNA型と一致したという。

科学捜査が進んだからこその逮捕劇と言えるが、私はこのニュースを聞き、複雑な思いにとらわれていた。以前から薄々感じていた「警察は県外からやってくる殺人者に弱いのではないか」という疑念がやはり間違っていないように思えたからである。

◆県外の人間が犯人でも何らおかしくなかった今市事件

容疑者が勾留されている廿日市署

報道を見る限り、今回の容疑者逮捕は間違いなく「たまたま」だ。容疑者の男は、職場の同僚とのいさかいで尻を蹴飛ばし、暴行の容疑で逮捕されたそうだが、そのような事件を起こさなければ、おそらく永遠に逮捕されなかったろう。何も事件を起こさなければ、指紋もDNA型も警察に調べられることなかっただろうからだ。

実を言うと、私は冤罪事件の取材をしていて、事件の真相はこれと同じようなパターンではないかと思うことが少なくない。というのも、真犯人は県外の人間であったとしても何らおかしくないのに、警察が頭から県内の人間を犯人だと決めつけ、そのために生まれたように思える冤罪はわりとよくあるのである。

たとえば、無実を訴える勝又拓哉被告(35。第一審は無期懲役)の控訴審が東京高裁で進行中の今市事件がそうだ。2005年に栃木県今市市(現在の日光市)で市立大沢小学校の小1女児が下校中に失踪し、茨城県の山中で他殺体となって見つかったこの事件。警察の捜査は、犯人は学校のある地域に土地勘のある人物だということを本線に進められたと言われる。実際、2014年に検挙された勝又被告は子供の頃、わずかな期間だが、被害者と同じ大沢小学校に通ったことがある人物だった。

しかし、私は現地も取材したのだが、大沢小学校は高速道路のインターチェンジのすぐ近くにあり、県外から土地勘のない人間がふらりと女の子をさらいに来ても、何らおかしくないように思えた。この事件については、私は様々な事情から冤罪だと思っているが、犯人が土地勘のある人物だという警察の見立てが冤罪を招いた元凶であるように思えてならないのだ。

◆飯塚事件でも「犯人は県外の人間」の可能性はなかったか?

2008年に処刑された久間三千年元死刑囚(享年70)について、冤罪の疑いが根強く指摘されている1992年の飯塚事件もまたしかりだ。殺害された小1女児2人が学校の近くで失踪し、遠く離れた峠道沿いの山林で遺体となって見つかったこの事件。福岡県警は当初から被害者らと同じ地区に住んでいた久間元死刑囚を犯人と決めつけていたと聞く。

しかし、私が関係現場を車で回ってみたところ、土地勘がなければ犯行が不可能だったり、困難だったりするだろうと思える要素は何もなかった。私は久間元死刑囚のことは冤罪だと確信しているが、この事件も真犯人は県外の人間で、それゆえに「犯人は土地勘のある人間」という予断を抱いていた警察からまんまと逃げ切ったのではないかという思いが拭えない。

犯罪を誘発する可能性を考えると、「警察は県外からやってくる殺人者に弱いのではないか」ということは、心の中で思っても口に出さないほうがいいのかもしれない。しかし、そういう視点も必要ではないかと思い、あえて口にした。

飯塚事件では科警研がDNA型鑑定の際、犯人の資料をすべて消費したために再鑑定は不能だが、今市事件はDNA型鑑定を行うための資料はまだ残っている。栃木県以外の警察が被疑者の指紋やDNA型を調べる際には、常に今市事件の犯人とも照合するようにしてもらえないだろうか。そうすれば、この事件の真犯人もいつか捕まるのではないかと私は思うのだ。

▼片岡健(かたおか・けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

それでも京都大当局は「立て看板」という学生たちの〈表現の自由〉を奪うのか?

京都大は5月1日から、本部がある吉田キャンパス(京都市左京区)の周囲に学生が設置した立て看板の規制に乗り出すと伝えられている。もしその「通告」が事実であれば5月1日から、京大周辺の立て看板が撤去される可能性もある。4月30日早朝、京大周辺の立て看板がどのような様子になっているか、取材に赴いた。

4月当初に比べると大学敷地周辺の立て看板は数が減っている。そして「立て看板撤去」を翌日に控えているためか、以前よりもこの問題に特化した立て看板が目についた。

まずは今出川通りと東大路通りが交差する、百万遍交差点の様子だ。これまで不注意で気が付かなかったが、この交差点には不自然にも2つのボックス型公衆電話が設置されている。公衆電話が激減する中、この場所にある2つの電話ボックスはそれ自体がおかしな存在だ。この場所がもっとも界隈で目につきやすく、過去には巨大立て看板が数多く登場した場所である。この日最大のものはご覧の通り「違反広告物タテカン撲滅」と黒字に赤で書かれた揶揄に満ちたものだ。

この大きさでは見づらいかもしれないが、ほかに、

昨年クラブの歌である「われは海の子」が作曲されて100周年を迎えた、伝統の京大ボート部や、教職員組合の看板。
 

「環境にいいことしてますか? DO YOU KYOTO?」という公共広告のような、主体不明のものから、体育会ライフル部(武装してタテカン撤去と闘ってくれるのか?)。
 

自治寮、吉田寮の実質的な解体を画策する当局に対して、話し合いを求める看板も見られる。
 

百万遍交差点を少し南に移動すると「ゴリラ討伐 大学奪還」、「闘え! 闘わなければ勝てない……。」となかなかデザインにも作画にも力の入った「作品」が目に入る。「ゴリラ」は山極総長のニックネームである。こういうセンスと「討伐」の字体を私は好感する(ちなみに横は馬術部の立て看板だ)。
 

さらに南下すると、明確に「タテカン規制」に抗議する複数団体が名を連ねる、ピンクを基調としたカラフルなものも。
 

少林寺拳法部。デザインは、ゆとり世代に共通するセンスだが、活動内容のハードさをデザインのソフトさでやわらげるあたり、体育会の部員募集の工夫がみられる。
 

実は普段多いのはこの手の「地味」なサークルの立て看板だ。「京大宝生会」はどうやら能楽部の別名らしい。「稽古日」が明示してあるので安心して入部できそうだ。
 

先ほど同様複数団体による、抗議表明の立て看板。賛同団体が先ほどの看板と一部異なるのは、作成時期が前後したためか。こちらは黒地にパステル色を多用して少々暗くて見やすそうだ。
 

正門に向かう交差点に立てられた、「硬派」な主張の「立て看板」。「公安警察は立ち入り禁止」、「学費が高い!学費が高い!」、「職員にタックルされたのに『暴行した!?』
 

いろいろ書いてあるが、その実どの主張も穏やかで、妥当なものである。「広島カープV3」、「京大生平和的」あたりの、おふざけセンスも立て看板文化の貴重なスパイス。
 

こちらは正門前の様子。この日の夕刻立て看板規制についての講演会が行われる告知も(ちなみに連絡先が「田所」という方で、新聞などに電話番号が記載されていたが、どういうわけか私に電話での問い合わせ(間違い電話)が数件あった。
 

正門の横、吉田寮問題をマンガで示した立て看板。絵、内容とももう少し洗練さが欲しいところ。
 

国際化時代らしく抗議文も英語と繫体字で。
 

「どうただではすまないのか?」が不明ではあるが、強固な意志を感じさせるメッセージ(メッセージが強固なわりには字体が優しいのもよい)
 

「それはお前がやるんだよ」。無責任で無頼だが、実は「それは俺がやるんだよ」の反語ともとれるマニフェスト。黒字に白のシンプルさと詩的表現がよくマッチしている。
 

背景が黄色だと黒が際立つ原則を、あえて選ばなかった配色。「立て看板、どんどんつくって、どんどん立てよう」にすれば五七調になるのに、わざと「を」を入れて韻を踏んでいないところにも要注目。
 

人畜無害、京大の「学生はん」らしいサークルのようだ。立て看板もどことなくお行儀がよい。
 

吉田寮の入り口。「ここはひみつきち『よしだりょう』年三万円(水光熱込み)で家具・友だち・イベント付」なんとも魅力的な条件ではないか。この吉田寮が当局から狙い撃ちされている。
 

立て看板とは直接関係ないが、京大自由のシンボル「西部講堂」。屋根に描かれた三つの星の意味は読者において調べられたし。「世界一クレージーな場所」と称賛され、国内外の一流ミュージシャンも多数舞台に立った。
 
さて、5月1日以降京大当局これらの立て看板をどう扱うのだろうか。限られた数しかご紹介できていないが、学生による「立て看板」が「表現活動」であることはご理解いただけたであろうか。そして、私は自分が持ち合わせないこれらの感性に触れることを、常に楽しんできた。

自由は貴重だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
『NO NUKES voice』15号〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

京大「タテカン」撤去と朝鮮半島和平のコントラスト

 
2018年4月28日付毎日新聞

〈京都大は5月1日から、本部がある吉田キャンパス(京都市左京区)の周囲に学生が設置した立て看板の規制に乗り出す。京都市から昨年10月、屋外広告の条例に違反するとして文書で行政指導を受け、構内の指定場所以外は設置させない方針に転換した。「タテカン」は学生文化として許容されてきた側面もあり、「形式的」「自由の学風に反する」と反発の声も上がる。〉(2018年4月28日付毎日新聞

いよいよ、その時がやってきたようだ。京都大学が大学の周囲に向けて、学生が並べている「立て看板」(通称「タテカン」)を京都市の条例を根拠に、排除の動きに出るらしい。月に一度京大の様子は通りすがりに観察しているが、今月の初頭までさしたる変化はなかった。さて、5月1日以降はどうなるのであろうか。この問題は本コラム並びに鹿砦社LIBRARYの拙著『大暗黒時代の大学』のなかでも比較的詳しく取り上げている。興味おありの方はご覧いただければ幸いだ。

◆「タテカン」規制で消滅する学生の自由

どうして何十年も前から、常時そこにあった「立て看板」を京都市は「屋外広告の条例」を根拠に問題にしだしたのか? それは京大の当局が、すでに大幅に後退している「学生の自由」の完全消滅を目指し、管理体制の強化を図っているのが根底の原因である。京都大学には熊野寮、吉田寮といった「自治寮」があるが、京大当局は吉田寮に対して、一方的に「新たな寮生募集の禁止」と寮の一部改築を通達している。これも、学生自治の拠点である「自治寮」を潰したいとの本音の現れだ。

そして、要注意なのは京大当局が「学生自治」をテーマや問題にする立て看板だけではなく、あまねく学生が作成した「立て看板」を規制しようとしていることだ。毎日新聞の記事にある通り、京大周辺には様々な団体の立て看板が林立しているが、そのほとんどは演劇や、落語サークルだったり、体育系クラブの立て看板で、政治色を帯びたものは全体の1割にも満たない。しかし、それすらも京大当局にとっては「容認しがたい」のだろう。

「しかし市は、コンビニエンスストアなどの看板も場所によって落ち着いた色調に変えてもらうなど、古都の景観保護に力を入れており、『京大も例外ではない。市内の他の大学で違反はない』と説明する」と真顔で語っている。

京都市の役人にとっては、商業施設の広告と大学の学生による表現活動の違いが、まったく理解できないようだ。コンビニやマクドナルドは「商売」だろうが! だから世界中で京都市だけがマクドナルドは看板の色を変えたんじゃなかったのか。学生の表現活動と企業の広告との区別がつかない。もうこんな低レベルな行政が京都市ではまかり通るようになってしまったのだ。

 
朝鮮半島地図

◆「朝鮮半島の非核化」を喜ばない隣国の歪み

時あたかもお隣の朝鮮半島では、多くの人が予想だにしなかった「平和」に向けての流れが勢いを増している。「〈京大〉「立て看板」撤去へ 市「条例違反」で指定外ダメ」との毎日新聞記事が配信された前日には、南北の首脳会談が板門店で行われ、韓国のテレビは1日中その様子を生中継し、「平和」、「戦争を終わらせる」との言葉が伝えられるたびに市民は喜びに沸いた。朝鮮が独裁国家であろうと、過去にあれこれ問題を起こしていようと、「朝鮮半島の非核化」は慶賀に堪えないニュースであり、それが実現し、さらには南北首脳が統一を指向する同意に至ったことは、とてつもなく喜ばしい報せだ。

他方日本では、「自由な学風」といわれた(あえて過去形で書く)京大で、学生自治の最終破壊が画策されている。大学法人化して以降の国立大学や、公立大学では「学問」よりも、「経営(経済)」のが高い価値を占めるようになった。これからますますその傾向は強まるだろう。文科省は既に私立大学の破綻を見込んで、地方ごとに国立大学法人を中心とした大学のブロック化(大学の合併)を進める案を表明している。

そこには「学問」とはいかにあるべきか、「大学の果たすべき本質的な社会的な役割は何か」といった哲学は微塵もない。大学を「企業」同様に考えてその「経営」の効率化だけを目指そうとしている。それが文科省であり、多くの大学の今日の姿だ。

それにしても世の中には「金では買えない」価値があることを、京大当局や、京都市は気が付かないのだろうか。京都は国内外からの観光客でにぎわっているけれども、京都の歴史や遺産は「金」で創造できるだろうか。大学が狭い地盆地に集まる、京都独自の「学生文化」は経済活動に置き換えることができるだろうか。どれだけの頭脳を京都大学が輩出してきたか、それの背景にはどのような学風があったのか、を一顧だにしない京大執行部や京都市は、「経営者」としても失格であることが、近く証明されるだろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

大学関係者必読の書!田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
『NO NUKES voice』15号〈3・11〉から7年 私たちはどう生きるか

NKB VS MA日本キック 禁断の対決! 闘魂シリーズvol.2

蹴りにインパクトがあった井原浩之の右ミドルキックが西村清吾にヒット
西村清吾のパンチの距離での攻勢が目立った

NKB(日本キックボクシング連盟)とMA日本キック(マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟)とのチャンピオン交流戦、西村清吾vs井原浩之戦がメインイベント。

初回の探り合いから蹴り中心に前に出る井原に対し、パンチ、ヒジを合わせる西村。互いの決定打には至らないが、井原は接近すればヒザ蹴りに持ち込みたい体勢。そこから自分のペースに引き込めない井原は攻め難そうながらミドルキックは勢いがいい。西村のパンチとヒジの距離感は隙を突くように打ち攻勢が目立つ。ラストラウンドは疲れが見える両者。それでも強いヒットを狙って打ち合う両者。判定は分かれたが僅差で西村が勝利。

西村清吾の顔面を押し付けるような右ストレート

◆棚橋賢二郎vs稲葉裕哉

長身を利した蹴りと、階級も上の稲葉には棚橋のいつもの豪腕パンチが決まり難い。第2ラウンドに接近戦での打ち合いから偶然のバッティングにより稲葉が右眉下をカット。第3ラウンドには棚橋の左フックで稲葉がダウン。第4ラウンドには負傷箇所の悪化で試合を止められ、最初の負傷原因である偶然のバッティングにより負傷判定となり、ノックアウトを逃した棚橋は不完全燃焼の勝利。

棚橋賢二郎のパンチ連打で稲葉裕哉を攻める

◆野村怜央vs外川夏樹

初回からの両者のパンチと多彩な蹴りの積極的な攻防から第3ラウンド目には外川がスタミナ切れか、やや戦力が弱まり、勢いづく野村の右フックかヒジがヒットし外川がダウン。立ち上がっても劣勢から巻き返せず野村のパンチの攻勢が続き、再び右ヒジ打ちで外川は2度目のダウン。陣営よりタオル投入による棄権により、野村のノックアウト勝利となる。

外川夏樹vs野村怜央。野村怜央の右ヒジ打ちがクリーンヒットした瞬間

◆パントリー杉並vsオッカム山際

両者のパンチ中心のアグレッシブな打ち合いが続く中、若さと勝利数のキャリアで優るパントリーが打ち勝つ展開に進み、山際はダメージとスタミナ切れから下がり気味。次のラウンドがあるならばパントリーがノックアウトに繋げたと思える圧倒気味に終了。

オッカム山際vsパントリー杉並。勢いが増すパントリー杉並のラッシュ
NKBの面子を保った西村清吾

◎闘魂シリーズvol.2
4月21日(土) 後楽園ホール17:30~20:27
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第10試合 ミドル級5回戦

NKBミドル級チャンピオン.西村清吾(TEAM.KOK/72.5kg)
VS
MA日本ミドル級チャンピオン.井原浩之(Studio-K/72.05kg)
勝者:西村清吾 / 判定2-1 / 主審:前田仁
副審:川上49-48. 亀川48-50. 佐藤友章50-48

勝者 棚橋賢二郎

◆第9試合 64.5kg契約 5回戦

NKBライト級1位.棚橋賢二郎(拳心館/64.05kg)
VS
NKBウェルター級2位.稲葉裕哉(大塚/64.5kg)
勝者:棚橋賢二郎 / 負傷判定3-0 / TD 4R 1:16
主審:鈴木義和
副審:佐藤友章40-38. 亀川40-37. 前田40-37

勝者 野村怜央

◆第8試合 64.0kg契約3回戦

NKBライト級4位.野村怜央(TEAM.KOK/64.0kg)
VS
JKIライト級6位.外川夏樹(MWS/64.0kg)
勝者:野村怜央 / KO 3R 1:45 / 右ヒジ打ち、カウント中のタオル投入
主審:川上伸

勝者 パントリー杉並

◆第7試合 63.0kg契約3回戦

NKBライト5位.パントリー杉並(杉並/62.5kg)
VS
オッカム山際(MKH/62.35kg)
勝者:パントリー杉並 / 判定3-0 / 主審:亀川明史
副審:鈴木30-29. 佐藤友章30-28. 川上30-28

◆第6試合 ミドル級3回戦

NKBミドル級1位.田村聖(拳心館/72.45kg)
VS
同級4位.釼田昌弘(テツ/72.57kg)
勝者:田村聖 / 判定3-0 / 主審:佐藤彰彦
副審:鈴木30-27. 川上30-26. 前田30-27

◆第5試合 ウェルター級3回戦

NKBウェルター級4位.チャン・シー(SQUARE-UP/66.68kg)
VS
滝口幸成(WSR・F幕張/66.05kg)
引分け 0-1 / 主審:佐藤友章
副審:鈴木30-30. 佐藤彰彦28-30. 亀川30-30

◆第4試合 フェザー級3回戦

岩田行央(大塚/57.1kg)
VS
NKBバンタム級5位.海老原竜二(神武館/56.8kg)
勝者:海老原竜二 / KO 1R 2:24 / ハイキック、カウント中のタオル投入
主審:川上伸

◆第3試合 ライト級3回戦

小笠原裕史(TEAM.KOK/60.95kg)vs誠太(アウルスポーツ/60.95kg)
勝者:小笠原裕史 / 判定3-0 / 主審:佐藤彰彦
副審:亀川30-27. 前田30-29. 川上30-29

◆第2試合 バンタム級3回戦

ノーマーシー・カズ(テツ/52.8kg)vs北田竜汰(光/52.0kg)
勝者:ノーマーシー・カズ / KO 1R 1:47 / テンカウント
主審:鈴木義和

◆第1試合 フェザー級3回戦

山本太一(ケーアクティブ/56.95kg)vs孝則(総合格闘技TRIAL/57.15kg)
勝者:山本太一 / TKO 1R 2:38 / カウント中のレフェリーストップ
主審:亀川明史

《取材戦記》

「禁断の対決が実現!」という見出しが目立ったプログラムの文言。

90年代の、団体が細分化する前なら興味深い団体交流となるところ、現在も存在する両団体でも、33年前の分裂当時から存在する加盟ジムは非常に少ないでしょう。当時の加盟ジムは、その後、この両団体以外にまで分かれて行ったジムや辞めていった関係者が多いということです。戦った西村清吾と井原浩之にとってはチャンピオン対決として勝利を目指すも、33年前の事情など“何のことやら”でしょう。それでも他団体交流戦も増えてきた日本キック連盟は、今後も更に“禁断の対決”を実現して話題提供に力を注いで欲しいところ。時代の流れは進み、若い世代の力に期待が掛かっています。

MA日本同級チャンピオンを下した西村清吾はまた一歩前進。35歳デビューの現在39歳で、10戦7勝(1KO)2敗1分となりました。

大阪での次回興行は、4月29日(日)大阪市立旭区民センターで14:30よりNKジム主催「闘魂シリーズ ヤングファイトZ-1 Carnival」が開催されます。

6月16日(土)後楽園ホールでは17:15より「闘魂シリーズvol.3」が開催され、ここでの興味深いNKBフェザー級王座決定戦では昨年12月、高橋聖人の蹴りのペースが続く中、右フック一発で勝利した安田浩昭(SQUARE-UP)との再戦となります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

『紙の爆弾』5月号 安倍晋三はこうして退陣する

李信恵からM君リンチ事件本販売差し止め等を求める「反訴状」が鹿砦社に届く

ツイッター上で李信恵被告による、「鹿砦社はクソ」、「クソ鹿砦社」などと、多量な誹謗中傷が止まらず、本コラムで取材班ならびに松岡が数度にわたり「品のない言葉遣い」を止めるよう李信恵被告に注意を促したが、それでも罵詈雑言が止まらなかったため、鹿砦社は仕方なく李信恵被告を相手取り名誉毀損損害賠償請求を大阪地裁に起こした(2017年9月28日)ことは、本コラム並びに、『カウンターと暴力の病理』でもご紹介した。

 
『ヘイトと暴力の連鎖 反原連―SEALDs―しばき隊―カウンター 』(2016年7月刊)

同訴訟の前回期日(3月16日)に代理人の上瀧浩子弁護士から「反訴の意思」がある、旨の発言があった。どのような反訴が行われるのかを、多忙なかたわら待っていると、2018年4月17日付け(受付印は18日)の「反訴状」が過日(4月25日)鹿砦社に届けられた。「ないもの」をあたかも「あったように」印象操作する魔術師、李信恵被告がどのような「反訴」を打ってくるのか? 鹿砦社と取材班はその「反訴」内容を半ば「楽しみに」待っていた。

ただし、強調しておかなければならないのは、そもそもこの提訴は李信恵被告による、鹿砦社に対する誹謗中傷や、根拠なき言いがかりが発端となり、単なる名誉毀損だけではなく、鹿砦社の業務自体に悪影響が出る兆しが見えはじめ、放置することができなくなったことが背景にあることだ。

1つの事柄をめぐって、100人には100通りの解釈が成立しよう。それが思想や言論の自由というものだ。しかしながら「ない」ことを「ある」といってはならない。それは「ある」ことを「ない」というに等しく大きな誤謬であるにとどまらず、人や団体を深く傷つける行為につながる。歴史修正主義者の言説などがそうだ。「南京大虐殺はなかった」、「日本は合法的に朝鮮半島を併合した」などとの主張は、歴史の事実に逆らうもので、そこで生きた人びとの営為を無化しその精神を殺してしまうものである。

『反差別と暴力の正体 暴力カルト化したカウンター-しばき隊の実態』(2016年11月刊)

李信恵被告の発信にも同様に、あたかも鹿砦社が「李信恵被告の仕事の妨害をしている」、あるいは「健康を害する原因を作っている」かのごとき言いがかりも散見された。しかしながら事実に立脚していなくとも、このような「物言い」はそれ自体が独り歩きしてしまい、鹿砦社に対するマイナスの情報やイメージとして流布される。ことに「差別の被害者」としてマスコミに頻繁に取り上げられる、李信恵被告からの発信は、無名な市民の発信とは訴求力において比較にならぬ力を持つ。

そのため、致し方なく鹿砦社は業務への悪影響と、継続する誹謗中傷を止めるために提訴を起こす以外に選択肢がなかったのである。事実、提訴以降李信恵被告による鹿砦社に対する誹謗中傷、罵詈雑言はすっかり影を潜めた。その点において提訴は判決を待たずとも、一定の「抑止効果」をすでに発揮しているといえよう。

そこにもってきての李信被側からの「反訴」である。以下請求の趣旨を掲載するが請求では、まず、550万円を払えと求めている。そして鹿砦社がこれまでに発刊した『ヘイトと暴力の連鎖』、『反差別と暴力の正体』、『人権と暴力の深層』、『カウンターと暴力の病理』を「頒布販売してはならない」と実質上の販売差し止めをもとめている。また本コラムに掲載した過去の記事の削除も要求している。

概ね予想の範囲内ではあったが、『ヘイトと暴力の連鎖』、『反差別と暴力の正体』、『人権と暴力の深層』、『カウンターと暴力の病理』を「頒布販売してはならない」との請求には、正直失笑を禁じ得なかった。すでに発売されてから1年以上のものも含み4冊を「販売するな!」、「広めるな!」との主張は李信恵被告や、代理人、神原元弁護士らしい、乱暴な請求ではあるが、もし本気で「販売差し止め」を求めるのであれば、どうして「仮処分」の申立てを行わなかったのだ?

『人権と暴力の深層 カウンター内大学院生リンチ事件真相究明、偽善者との闘い』(2017年5月刊)

少々解説すると、一般の裁判は判決が出るまでに相応の時間がかかる。鹿砦社が李信恵被告を訴えた裁判も判決が出るのは、まだかなり先になるだろう。これが民事訴訟の標準である。一方のっぴきならない緊急性があるときは「仮処分」を裁判所に申し立てて、それが認められれば、極めて短時間で司法により「禁止」や「差し止め」の命令が下されることがある。鹿砦社自身過去に不当と思われる「仮処分」による「出版差し止め」を食らった経験があるし、大手週刊誌などでも「出版差し止め」の仮処分が認められ、発刊が出来なかった事例は過去にある。

しかし、出版差し止め仮処分を申し立てるには、強度の緊急性と高度の違法性を要する理由がなければならない。仮処分が認められなければ、引き続き同じ内容を争う「本訴」では不利に作用することもある。

李信恵被告側は、鹿砦社が発刊した上記4冊に、名誉毀損や事実無根の記載があれば、堂々と出版差し止め仮処分を申し立てる選択肢もあったろうに、そうはしていない。そして、その根拠は丁寧にも「反訴状」に記載されている。いずれの4冊も李信恵に言及している部分のみを理由として、「頒布販売の禁止」を求めている。

法的な知識に取材班は詳しくないが、李信恵側が主張する「頒布販売の禁止」のを求める根拠は、いかにも希薄である。弁護士に相談するまでもなく、手元に反論材料は山積している。反論材料を多すぎて、整理するのに手間がかかるほどだ。

『カウンターと暴力の病理 反差別、人権、そして大学院生リンチ事件』[特別付録]リンチ音声記録CD(2017年12月刊)

そもそも『鶴橋安寧』を出版以降、李信恵被告による、まとまった文章による主張を目にしていない(どこかにあるのかもしれないが、鹿砦社ならびに取材班は見つけることができていない)。李信恵被告は元々ライターなのであるから、自身に疑義が向けられている「事件」についてもツイッターなどという、安易な方法ではなく、自身のまとまった見解を明らかにすればよいのではないか。売れっ子の李信恵被告が、原稿を発表したいと声をかければ、幾らでもそれに応じる出版社はあろう(取材班の多くがうらやむほど……)。

だが待て! 先日のM君が李信恵被告ら5名を訴えた裁判の判決では、M君が勝訴はしたものの、一般常識からすれば考えられない、「屁理屈」のような論が展開され、多くの主張が認められなかった。あろうことか同一個人名の誤表記が3度も判決文にはあった。「裁判は水物」だ。「え、嘘だ!」というような判決が、過去あまた積み重なっている事実を無視はできない。

可能性は低いが、万が一「反訴」が認められれば、『ヘイトと暴力の連鎖』、『反差別と暴力の正体』、『人権と暴力の深層』、『カウンターと暴力の病理』が発売禁止になり、これ以上読者のお手元に届かなくなる可能性もある。

万が一まだ上記4冊をお読みでない読者の方がおられたら、急いでお買い求めいただくことをお勧めする。まだ幸い在庫はある。が、「反訴」が認められ「頒布販売」が禁止になれば、これ以上お分けすることができなくなるかもしれない。鹿砦社の対李信恵裁判及び反訴にご注目を頂きたい。


◎[参考音声]M君リンチ事件の音声記録(『カウンターと暴力の病理』特別付録CDより)

いまだに「リンチはなかった」などと平然と語る連中がいる──。(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

(鹿砦社特別取材班)

覚えていますか? 痴漢やレイプ、少女ヌードにまで寛容だった少し前の日本

女性記者に対するセクハラ発言の疑惑を報道された財務省の事務次官が辞任した。事務次官本人は疑惑を否定しているが、今のご時世、セクハラ発言は官僚のトップの首が飛ぶような重罪だということだ。

そんな中、私はふと自分が20代、30代だった頃のことを思い出し、「少し前の日本は今では信じられないくらい様々なことに寛容だったなあ…」と感慨にふけってしまった。

というのも、「今やればアウトだが、少し前なら全然OKだった」ということは、歩きタバコや犬の放し飼いなど色々あるが、ワイセツ関係のことに目を向けても、痴漢やレイプ、少女のヌードに至るまで、かつての日本は様々なことに驚くほど寛容だったからである。

◆レイプを〈悪〉として描いていなかった日本映画

 
東映ビデオのVシネマ「痴漢日記」

たとえば、痴漢。今は卑劣な行為の代名詞のように思われているが、少し前まではそうではなかった。もちろん痴漢は昔から犯罪ではあったが、東映ビデオが製作していたVシネマの「痴漢日記」や「新痴漢日記」のシリーズには、全国放送のテレビドラマに出るような有名俳優が普通に出演していたものである。それはきっと痴漢を肯定的に描いた作品に出演しても、イメージが悪くなることはなかったからだろう。

レイプもそうだ。現在、15歳の時に輪姦された女性の実話が映画化された「私は絶対許さない」が公開中だが、今はレイプを映画の題材にする場合、このように絶対悪として描いた社会派作品ではないと許されないのではないかと思われる。

しかし、ひと昔前の日本映画では、田中裕子主演の「ザ・レイプ」という社会派の作品もあるにはあったが、むしろレイプを悪と認識していないような描き方をした作品のほうが圧倒的に多かった。たとえば、「極道の妻たち」シリーズや「鬼龍院花子の生涯」、「瀬戸内少年野球団」などのことを私は言っているのだが、「ああ、そういえば・・・」と思い出された方も少なくないはずだ。

◆宮沢りえの『サンタフェ』は氷山の一角

 
宮沢りえの写真集『サンタフェ(Santa Fe)』(1991年11月朝日出版社)。撮影は篠山紀信。発売当時、宮沢は18歳だった

さらに私が思い出すのは、つい少し前の日本では、街中で小さな女の子の裸を見かける機会も決して珍しくなかったことだ。私が中学生くらいの頃には、コンビニで小さな女の子が裸になっているようなビデオが当たり前のように棚に並んでいたものだ。また、テレビドラマや映画で子役の女の子が全裸で入浴しているシーンもちらほら見かけたものだ。

数年前に児童ポルノが単純所持も処罰対象になった際、宮沢りえが10代の頃に撮影されたヌード写真集『サンタフェ』を所持していた場合はどうなるか・・・・・・ということが話題になったが、あれは「氷山の一角」だ。昔はむしろ、18歳未満の女優やアイドルがヌード写真集を出したり、映画で脱いだりするのは当たり前だったからだ(ちなみに宮沢りえがサンタフェの撮影を行ったのは18歳の時だったそうだ)。

名前を出すことは自主規制しておくが、現在50代後半以上の有名女優たちの中には、高校生くらいの年齢の頃に映画で脱いでいる人は少なくない。今は逆に30代で水着のグラビアをやっている女性タレントが珍しくない時代だが、世の中は随分変わったものである。

くだんの財務省の事務次官は、女性記者に「胸触っていい?」とか「手縛っていい?」などというセクハラ発言をした疑惑を報じられ、辞任せざるをえなくなったが、この疑惑が事実だという前提に立てば、「やむをえない」と思うのが今の日本人の一般的な倫理感覚だろう。

しかし、80年代や90年代くらいの日本人がもしも今の日本にタイムスリップしてきたら、「なぜ、それくらいで?」と首をかしげるのではないだろうか。あるいは、逆に今の若者が80年代、90年代にタイムスリップすれば、街中で普通に少女のヌードをみかける様子を見て、日本人のモラルの低さに驚くのではないだろうか。

霞が関のセクハラ騒動を眺めつつ、ふとそんなことを考えた

▼片岡健(かたおか・けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)