『紙の爆弾』11月号に寄せて

中川志大 『紙の爆弾』編集長

自民党総裁選は前回に見た面々、誰が勝っても同じという不毛なものでした。自民党にとって昨年より状況が悪化しているのにこれでは……と誰もが思うでしょうが、では誰がいるのかといえば、誰も思いつかない。だから「石破辞めるな」が説得力を持ってしまったのでしょう。むしろ、維新・国民民主、あるいは参政党と、どの補完勢力を選ぶかということの方が、まだ考えようがあります。加えて、自公政権が衆参で少数与党である中で、今回も自民党の総裁選が電波ジャックをすることに正当性があるのか。マスメディアの異常さが、ますます浮き彫りになっています。

総裁選の不毛さを自ら強調するかのように、候補者が「外国人政策」を訴えたことに、参政党躍進の影響があるのは言うまでもありません。付け加えるなら、彼らは参政党を排外主義とみて、それが受けたと考えていることが、その主張の内容から読み取れます。10月号では、「日本人ファースト」がなぜ支持されたのか、その理由に焦点を当てました。大西広慶應義塾・京都大学名誉教授の指摘は、彼らこそ読むべきものです。「日本人」がどういう状態にあるのか、その原因は何なのかに向き合わない限り、国内世論の断絶を含めた「移民問題」は解決に向かいません。

そもそも、排外主義はどこではびこっているのか。個人的な実感をいえば、それなりに共生している地域が大半だと感じます。本誌執筆陣のひとり、木村三浩氏が代表の一水会のX(8月27日付)で、「川口市内各地の住民5000人に治安について聞いたところ、大半が『自宅周辺の治安は良い』と回答したが、同時に大半が『川口市内の治安は悪い』と回答した」という埼玉県川口市議の調査結果が紹介されています。そもそも日本人同士がきちんと共生しているのか。今の混乱状況自体を問題視すべきだと考えています。

消費税減税や政治資金問題の根本解決を封殺した石破首相が、それでも「レガシー」にできたはずだったのが、「パレスチナ国家承認」でした。フランスやイギリスが承認に動く中、石破首相は国連演説で、「イスラエルが『二国家解決』への道を閉ざすさらなる行動をとる場合、パレスチナを国家として承認する」などと述べたのは、まるで自分がカードを持っているかの物言いです。見送りがアメリカ政府を忖度した結果であることは言うまでもありませんが、少なくとも1990年代の日本には、アラブの国々に対して日本の自主外交を示した実例があり、それゆえに国際的な評価を受けていました。当時よりも対米従属が深化していることを、今回の事態は示しています。一方で、フランスをはじめ「承認」に回った国々にも、一定の目論見があるようです。本誌記事で詳細に明かしています。

ほか今月号では、10月13日閉幕の「2025大阪・関西万博」の“成功”をアピールしながら“辞任ドミノ”に揺れる維新の内情を解説。「大川原化工機事件」違法捜査が明らかとなった公安警察の歴史、国際表現規制といわれる「ハノイ条約」について提案国・ロシア外務省を取材、ネパール・インドネシアなどで相次ぐ“デモ暴動化”の理由、「アフリカ・ホームタウン騒動」の裏側など、本誌独自の視点でレポートをお届けします。『紙の爆弾』は全国書店で発売中です。ぜひご一読ください。

『紙の爆弾』編集長 中川志大

『紙の爆弾』2025年11月号
A5判 130頁 定価700円(税込み)
2025年10月7日発売
 

石破政権とは何だったのか? 財務省に操られた日本政治の真相 植草一秀
「万博成功」のはずが離党ドミノ 維新「副首都構想」の目的 吉富有治
フランスが動いた意図「パレスチナ国家承認」の真実 広岡裕児
米欧も絡むガザ沖合天然ガス争奪戦 イスラエル暴走の理由と「核危機」 平宮康弘
中国軍事パレードの裏で中ロ首脳の最大関心事 浜田和幸
原子炉格納容器がはらむ6大リスク 柏崎刈羽原発6号機設計者が語る脆弱性 後藤政志
「大川原化工機事件」違法捜査の闇 国民監視組織・公安警察の実相 足立昌勝
大江健三郎も上野千鶴子も“禁書”に?国際表現規制危機「ハノイ条約」とは何か 昼間たかし
日本政府「パレスチナ承認見送り」の大愚 木村三浩
混乱を招いた日本政府の不作為「アフリカ・ホームタウン」騒動の深層 片岡亮
「グローバリズム」はこうして始まった イチからわかるディープ・ステートの正体 広瀬隆
ネパール・インドネシア デモ暴動化の背後 早見慶子
予言への正しい向き合い方 佐藤雅彦
経団連による教育現場介入の危険性 永野厚男
シリーズ日本の冤罪 品川美容外科捜査資料漏洩事件 片岡健

〈連載〉
あの人の家
NEWS レスQ
コイツらのゼニ儲け 西田健
「格差」を読む 中川淳一郎
シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
The NEWer WORLD ORDER Kダブシャイン
【新連載】ニッポン崩壊の近未来史 西本頑司

◎鹿砦社 https://www.kaminobakudan.com/
◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0FTFV61YB/

NJKF今回のメインイベンターは匡志YAMATO、感動のラストファイトで締め括る!

堀田春樹

ドラマを作った匡志YAMATO、敗れるも完全燃焼のラストファイトを飾った。
大田拓真はムエタイテクニシャンを倒し切れずも危なげない圧勝。
HIRO YAMATOは勝次にスピードで優る若さの勝利。勝次も見せ場を作る。
亜維二が豪快TKOで皆から認められる本物チャンピオンへ存在感見せた。
西田光汰がテクニックで明夢に大差判定勝利で借り返す初防衛。

◎NJKF CHALLENGER.10(2025.4th) / 9月28日(日)後楽園ホール17:15~22:12
主催:オフィス超合金 / 認定:ニュージャパンキックボクシング連盟、WBCムエタイ

戦績はプログラムを参照し、この日の結果を加えています(正式からややズレもあるかもしれません)。

◆第10試合 第7代WBCムエタイ日本スーパーウェルター級王座決定戦 5回戦

4位.匡志YAMATO(=福田匡志/大和/32歳/ 69.75kg) 31戦17勝(9KO)12敗2分
VS
5位.津崎善郎(LAILAPS東京北星/40歳/ 69.7kg)35戦19勝(6KO)14敗2分
勝者:津崎善郎 / 判定1-2
主審:スイット・サエリム・ランボー
副審:多賀谷47-48. 宮沢47-48. 中山48-47

王座決定戦ながら匡志はラストファイトに、かつて熱戦を繰り広げた好敵手、津崎善郎を選んだ。

激しい打ち合いにはならなかったが初回、蹴りから繋ぐパンチの交錯は勝負を一瞬で終わらせるスリリングな展開となった。

一発のヒットで勝負が決まるスリリングな交錯が続いた匡志と津崎善郎

第4ラウンドには津崎善郎のヒジ打ちで匡志の左目尻辺りをカット。最終ラウンドには匡志のヒジ打ちで津崎の鼻をカット。血みどろの好ファイトは僅差で津崎が制した。

新チャンピオンとなった津崎善郎、WBCの新調されたベルトが光る

試合後は新チャンピオン、津崎善郎も加わって匡志YAMATOの引退セレモニーが行われた。大勢の支援者がリングに上がり、賑やかな引退セレモニーとなった。ダメージが重かった場合、引退セレモニーは行なわない可能性があったが、無事に執り行われた模様。

匡志は試合後、「出だしはちょっと悪かったのと、後半は良かったんですけど、けど結構減量が響いたのかなという動きでした。そこも込みの勝負なので結果に文句は無いです。大和ジム会長として4年目で、若い子達が育って来て、これから指導者として、この子達を育てていくのを天秤に掛けた時に、自分は現役を退いて、これから未来ある後輩達に僕の培ってきたものを注いで想いを託そうと決心したので今回引退をしようと決めました。」と語り、応援して頂いた皆さんに対しては、「ここまで匡志YAMATOを応援して支えてくれた皆さん、有難うございました。皆さんの御陰で32戦、ここまで戦って来れたと思います。一人だったらこんなに続けて来れませんでした。これからは皆さんに恩返ししていけるような人生を歩んで行きたいと思うので、これからも匡志YAMATOじゃなくて福田匡志への応援宜しくお願いします。」と動画インタビューと被るところあるかもしれないが、丁寧に語ってくれました。

2021年7月のWBCムエタイ日本スーパーウェルター級王座決定戦で、津崎善郎にTKO勝利して獲得した王座はWBCムエタイ側の意向で返上した形だったという。その経緯で今回も王座決定戦という形で津崎善郎と再戦となった模様。

支援者に囲まれた賑やかな引退セレモニーとなった感無量の匡志YAMATO

◆第9試合 58.0kg契約 5回戦

WBCムエタイ世界フェザー級チャンピオン.大田拓真(新興ムエタイ/1999.6.21神奈川県出身/ 58.0kg)43戦33勝(11KO)8敗2分
VS
ルークニミット・シンクロンシー(元・S-1・Sフェザー級、ライト級覇者/タイ・ロッブリー拳出身38歳/ 57.85kg)
勝者:大田拓真 / 判定3-0
主審:多賀谷敏朗
副審:児島30-27. 宮沢30-27. 中山29-28

大田拓真は今年6月8日にWBCムエタイ世界フェザー級王座挑戦し、チャンピオンだったアントニオ・オルデン(スペイン)に3ラウンドにノックアウト勝利で王座獲得してからの初戦となった。

ONEなど強豪揃う世界で競う上位のステップに行く為にも、今回の興行ではセミファイナルとなった立場としてもインパクトあるノックアウト勝利を収めたい大田拓真にとっては悔しい展開となった。

ルークニミットは大田に優るスピードは無くても、ベテランムエタイボクサーのしぶとさは発揮された。大田拓真はローキックやボディーブローでノックアウトを繋げそうな圧倒するテクニックを見せながらも倒し切れずに終わった。大田拓真には本来の5回戦で戦わせたい試合だった。

大田拓真のボディーブロー、一発で倒せる可能性もあったが、ルークニミットはしぶとかった

◆第8試合 WBCムエタイ日本ライト級タイトルマッチ 5回戦

第7代選手権者初防衛戦.HIRO YAMATO(大和/2000.6.25愛知県出身/ 60.95kg)
36戦20勝(7KO)13敗3分
VS
挑戦者同級8位.勝次(=高橋勝治/ TEAM TEPPEN/WKBA世界SL級覇者/1987.3.1兵庫県出身/ 61.15kg)82戦48勝(20KO)24敗10分
勝者:HIRO YAMATO / 判定2-0
主審:宮沢誠
副審:多賀谷48-47. ランボー47-47. 中山49-46

負けが込んでもチャレンジ出来るリング。連敗中の勝次は再浮上を狙いたいが、若いHIRO YAMATOが立ち塞がった。勝次にも勝機は充分にあった。ベテランの戦略は侮れない。その動きは初回早々に起こった。開始後距離を詰めた両者。勝次が右ストレートで軽いヒットだったがノックダウンを奪った。

このポイントを守り切れば勝利は有り得る話だが、ラウンドマストシステムで行なわれているこの日のWBCムエタイでは、ノックアウトか終始圧倒しなければ逃げ切りは難しい。

やはりHIROのパワー、スピードは徐々に優り、首相撲に持ち込んでのヒザ蹴りは勝次にとって反撃もままならず、不利な体勢の時間は勿体無かった。勝次のパンチも攻勢を維持出来ればいいが、HIROの圧力に圧されていった。判定は僅差の2-0でHIROが初防衛に成功した。

HIRO YAMATOのローキック、スピード手数でHIROがかつての名チャンピオン勝次を抑えた
藤原敏男氏と並ぶHIRO YAMATO、歳の差52歳。偉大さで追い付けるか

◆第7試合 スーパーライト級3回戦

NJKFスーパーライト級チャンピオン.吉田凜汰朗(VERTEX/2000.1.31茨城県出身/63.25kg) 30戦14勝(3KO)10敗6分
VS
TENKAICHIスーパーライト級チャンピオン.剣夜(SHINE沖縄/沖縄県出身36歳/ 63.1kg)
23戦9勝(5KO)13敗1分
勝者:吉田凜汰朗 / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:多賀谷30-26. ランボー30-26. 中山30-26

初回、吉田凛汰朗が剣夜の右ミドルキックに合わせて右ストレートでノックダウンを奪うが軽いヒットで、その後も先手打つ吉田のパンチと蹴りは剣夜を圧倒。諦めない剣夜もミドルキックで攻めるが、第3ラウンドには吉田のヒジ打ちで剣夜の左瞼辺りがカット。終了間際には吉田の怒涛のラッシュも耐える流血の剣夜だった。

吉田凛汰朗の攻めの上手さが発揮、剣夜は忍耐の勝負となった

◆第6試合 スーパーライト級3回戦

JKイノベーション・スーパーライト級チャンピオン.切詰大貴(武勇会/高知県出身26歳/ 63.4kg)9戦8勝(2KO)1敗
       VS
SB日本ライト級2位.基山幹太(BELLWOOD FIGHT TEAM/ 2001.12.24兵庫県出身/ 63.4kg) 25戦15勝(2KO)9敗1分
勝者:切詰大貴 / 判定2-1
主審:スイット・サエリム・ランボー
副審:多賀谷27-30. 宮沢29-28. 児島29-28

ポッシブルKが欠場で基山幹太出場。
両者アグレッシブにパンチと蹴りの攻防が続く。打ち合いはスリリングながら強烈なヒットは無く、差が出難い互角の展開の中、極端な2-1判定で切詰大貴が勝利となった。

◆第5試合 NJKFウェルター級タイトルマッチ 5回戦

認定王者.亜維二(=小林亜維二/新興ムエタイ/2006.神奈川県出身/ 66.95→66.8→66.78→66.68kg)13戦10勝(6KO)2敗1分
VS
挑戦者同級1位.宗方888(KING/ 66.4kg)14戦5勝(3KO)7敗2分
勝者:亜維二 / TKO 1ラウンド 1分37秒
主審:中山宏美

計量で躓いた亜維二。調整に狂いが出たか、減量がキツくなったか。しかし試合までにはしっかりリカバリー出来、開始早々にローキック牽制、宗方も蹴り返すとそこへ亜維二が左フックヒット、グラつく宗方。打ち合いに出た宗方に亜維二も迎え撃ち、左フックヒット。亜維二はノックダウン取ったと思ったか、後ろを向いてしまうが、更に蹴りからパンチ連打し、右ストレートでノックダウンを奪う。

亜維二が圧倒した強打の連続、大舞台への一歩となったか。宗方は為す術が無かった

立ち上がった宗方にヒザ蹴りからミドルキックでロープ際に追い込み、右ストレートから連打で倒したところでレフェリーストップ。テクニカルノックアウト勝利に繋げた。ノックダウンを奪った際、ニュートラルコーナーに行かず、ロープに上って応援団側にアピールするなどは冷静さが欠けるところは気を付けなければならないだろう。

亜維二は昨年6月に王座挑戦試合がチャンピオンの青木洋輔の欠場で、認定チャンピオンと成った。この在り方は任意団体都合で起こり得るもの。亜維二はタイトルマッチで勝たなければ真のチャンピオンとは言えない立場は理解しており、怒涛のTKO勝利で「これで皆、チャンピオンとして認めてくれたかな!」と安堵した様子。

“正規”ではあったが“認定”止まりから豪快TKOで皆が認めるチャンピオンへ成長した亜維二

◆第4試合 NJKFフライ級タイトルマッチ 5回戦

第14代選手権者初防衛戦.西田光汰(西田/2001.2.13愛知県出身/ 50.8kg)
14戦9勝(1KO)4敗1分
VS
挑戦者同級2位.明夢(新興ムエタイ/ 50.65kg)15戦5勝(1KO)7敗3分
勝者:西田光汰 / 判定3-0
主審:児島真人
副審:多賀谷49-46. 宮沢49-46. 中山50-47

6月8日予定だった初防衛戦は永井雷智欠場により、明夢とノンタイトル戦へ変更となった西田光汰は僅差判定負けだった。今回も挑戦者1位.永井雷智欠場で挑戦者は明夢となった。

今回は西田光汰が主導権を握った展開。西田のローキック、ボディーブローなど攻め優り、組み合っての圧力がインパクトを与えた。最終ラウンドは明夢も捨て身の前進。巻き返しには至らぬも、せめぎ合って終了。西田光汰が大差判定勝利し前回敗戦の借りを返した。

主導権支配した西田光汰がローキックで攻める、明夢に快勝。今後もライバル関係となるか

◆第3試合 55.0kg契約3回戦

HIROYUKI(=茂木宏幸/元・日本フライ級・バンタム級選手権者/RIKIX/1995.10.2神奈川県出身/ 54.95kg)
62戦42勝(22KO)16敗4分
VS
後藤和範(REALMuayThaiFitness/静岡県出身39歳/ 54.85kg)43戦14勝(4KO)28敗1分
勝者:HIROYUKI / KO 1ラウンド 2分0秒
主審:多賀谷敏朗

圧倒の展開を見せたHIROYUKI。蹴って来る後藤和範の動きが読めたか、左フックからローキック、右ストレートでノックダウン奪い、更に打ち合いの距離に誘い込み、立て続けの3ノックダウンで圧倒のノックアウト勝利となった。7月13日にジャパンキックボクシング協会興行でも初回ノックアウト勝利しており、円熟期を迎えたHIROYUKIの存在感が目立った。

◆第2試合 スーパーフェザー級3回戦

NJKFスーパーフェザー級6位.匠(KING/東京都出身23歳/ 58.65kg)
12戦8勝(2KO)3敗1分
VS
NJKFスーパーフェザー級7位.細川裕人(VALLELY/北海道出身23歳/ 58.95→58.9kg)
10戦6勝(1KO)3敗1分
勝者:細川裕人 / TKO 2ラウンド 2分26秒
主審:宮沢誠

◆第1試合 フライ級3回戦

植田琥斗(E.S.G/埼玉県出身18歳/ 50.15kg)4戦1勝3敗
VS
竹田奏音(TAKEDA/埼玉県出身16歳/ 50.0kg)1戦1勝(1KO)
勝者:竹田奏音 / KO 2ラウンド 1分25秒

《取材戦記》

存在感あったのは吉田凛汰朗のテクニックで剣夜を圧倒した勝利。豪快に倒して勝った亜維二。勝次をテクニックで優ったHIRO YAMATO。チャンピオンとしてこの地位を譲らない強さ、風格が身に付いた印象だった。来年はメインイベンターとしての登場も有り得るだろう。

武田幸三氏の総評は「ラストの試合はドラマではあったですね。興行的にはいろんな課題も有りつつ、でも人間のドラマをしっかり表現出来て、“THE NJKF”という形を見せました。そろそろ自力が付いて来たので、来年はもっと大きいこと、もうちょっと大きな会場で開催をチャレンジ出来ればと思っています、今回9割ぐらいのチケット売れたんですけど、まだ満員じゃないし、まだまだ皆の力の結集が必要なのかなと、皆の経験値でチャレンジしたいです。」と語り更に、「大田拓真はエースとして最後は倒したかっただろうし、今回はWBCタイトルが主役だったからメインを譲り、そこで大田くんの意地の反応観たかったですね。WBCムエタイはまた大きな発表もしていきます。」と語った。

興行終了後には武田幸三氏のTAKEDAジムの子供たちが後楽園ホールのゴミ集めなど掃除をして帰るという作業をしていた様子。皆が積極的に率先して掃除していた。これはこの子達が、将来に渡って会場を汚さない思想が定着していくだろうと思えました。大人になってからでは身に付き難い道徳心でしょう。

今回はいずれの試合も引分けが無くて良かった。WBCムエタイ戦はラウンドマストシステムで、他の試合によってはややこしい裁定があるのですが、文面が長くなるので今回は割愛します。いずれNJKFルールについては触れたいと思います。

NJKF CHALLENGER 11は11月30日(日)に後楽園ホールで開催予定です。今年の集大成としてメインイベンター争いも楽しみなところです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

1960年代 同志社ラジカリズムとは何だったのか?〈同志社大学学友会倶楽部2025年度 第11回ホームカミング・デーの集いご案内〉

鹿砦社代表 松岡利康

同志社大学学友会倶楽部2025年度 第11回ホームカミング・デーの集い
2025年11月9日(日)13時より(12時30分開場)
同志社大学今出川校地良心館 
参加自由(他大学の方もOK)参加費無料

◆同志社大学学友会倶楽部とは?

1960年代から70年代初めにかけての時代は、日本の転換期といわれ、高度成長下、政治、社会、文化・音楽面すべてにわたり大きな発展を遂げた時期でした。

その時代、私たちは同志社大学で青春のエネルギーを費やしました。当時東洋一といわれた旧学生会館での学術団、文連、放送局、新聞局、各学部自治会などで活動した私たちは、大学を離れても、なんとか親睦を深め記録に残す作業を行う目的で結成したのが「学友会倶楽部」で、30年ほど前から活動を行ってまいりました。

年に二、三度、なにかと機会を見つけ連絡を取り合い集まり歓談しておりましたが、2013年から、OBで、広く各分野で活躍している方を招いて講演会を開き毎回100名(最高200名余)前後の方々が全国から集まられ、コロナ禍で開催できない時期を除き盛況のうちに10回を開催することができました。

しかし、代表の堀清明氏や実行委員会スタッフの高齢化とこれに伴う健康不安により、所期の目標だった10回の講演会が終了したことなどで、重篤な持病を抱えつつ輝かしい同大学友会の運動とこの精神の継承のため長年頑張って来られた堀氏が代表を辞され実行委員会もひとまず解散、堀氏から松岡が代表を引き継ぎ本年から新たな態勢で幾分規模を小さくして再出発することになりました。堀氏の人格と経験に遙かに劣る松岡が果たして大任をこなせるか懸念されますが、学友会の歴史と精神を語り継ぐために精一杯奮闘いたします。

◆本年の企画概要

前記のように、同志社大学における文化・音楽、社会、政治(自治会)など多くの領域での活動は、わが国でもひときわ目立った存在でした。たとえば、文化・音楽面では、「関西フォーク」と呼ばれ一世を風靡しましたが、この中でも同志社大学は中心でした。岡林信康、はしだのりひこ、中川五郎(2018年ゲスト)、豊田勇造(2023年ゲスト)……。

また、ベトナム反戦運動の世界的拡がりの中で、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の中心を担ったのも同志社の学生でした(私が入学した70年当時、学館別館1階にボックスがあり、学生会館ホールで開かれたべ平連主催の小田実やジェーン・フォンダの講演は衝撃でした)。

さらに学生運動においては、60年─70年の二つの反安保闘争、ベトナム反戦、沖縄返還問題が国民的関心となる中で、その圧倒的な戦闘性で全国の先進的学友を牽引しました。

こうした事実は、半世紀余りを経た今、いかなる意味を持ち、いかに歴史的評価をされるのか──このことが学友会倶楽部の一貫とした課題でした。

先にご紹介しましたが、1962年に同志社大学に入学された前田良典氏が先頃、いわば、みずからの“回顧録”として、当時の出来事や記憶などを書き溜めたものを編集し、後輩有志の協力を得てまとめ出版されました(書名『野の人』)。知らなかったことも多い内容です。

一般的には無名に近い方ですが、かの塩見孝也氏と同期で、当時の京都の学生運動に関わった方々、とりわけ同大OBの中では知る人ぞ知る方です。

今回は、その前田氏の著書を参考(資料)に、広く全国から同大OB、のみならず他大学OBの方や若い世代の方にもお集まりいただき、世界的にも国内的にも激動の時代だったといえる当時の出来事、そこにおいて同志社大学の学生はいかに行動したのか、「同志社ラジカリズム」といわれる比類なき急進性、戦闘性などについて語り合いたいと考え、今年は標記のテーマを設定いたしました。

ウクライナやパレスチナでの戦争が続き、60年代と似たような情勢になりつつある中で、私たちが後世に語り継ぐものとは? 私たちは老いても問い続けます。このたびの企画もその一環として開かれます。

◆当日の開催場所、時間 

所:同志社大学今出川校地 良心館(現在教室番号未定。10月半ばに同志社大学ホームカミングデーのホームページにて公表とのこと。当日、良心館の入口でもご案内の予定です)
時間:12時30分 開場 受付開始
   13時00分 開始 
   16時00分 終了 

◎主催:同志社大学学友会倶楽部              
〒663-8178 兵庫県西宮市甲子園八番町2-1-301 (株)鹿砦社気付
電話0798-49-5302 FAX0798-49-5309 メールmatsuoka@rokusaisha.com
代表・松岡利康(1970年文学部入学。71年文学部自治委員、72年文学部自治会委員長、73年第98回EVE[大学祭]実行委員長)

《10月のことば》慌てず騒がずじっと手を見る

鹿砦社代表 松岡利康

《10月のことば》慌てず騒がずじっと手を見る(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

「慌てず騒がず」どころか、今回は慌て騒がざるをえません。

先にお知らせしましたように、龍一郎がガンで倒れ左肺の半分を取る手術をするとのことでした。先にお知らせした文面の末尾に「追記」を記しましたが、末尾ということもあってほとんどの方が読まれていませんでしたので、手術後送られてきた龍一郎からのメールを再掲載いたします。

「心配かけて申し訳ない。24日に手術は無事終わりました。手術後の諸々も順調に進んでいます。頑張ります」(9・26,PM17:37)

ひとまずホッと一安心ですが、思い返せば、14年半前の東日本大震災後、フクシマ(の方々)に寄り添り龍一郎の力強い言葉と筆致で激励していこうという主旨で、大学の後輩で書家・の龍一郎と共に、私たちなりの想いを込めたカレンダーを、その年の暮れから毎年お届けしてまいりました。最初は1000部で、主に『紙の爆弾』の定期購読者、営業で回る書店の方々、主な取引先や熱心な読者の方々に、一部の方には、これも龍一郎揮毫のエコバッグに入れて手渡してきました。

大変好評で現在は、『紙の爆弾』の定期購読者が増え『季節』も創刊したことで、1700部を製作・配布しています。

無料ですが、これにかこつけてカレンダーだけをくれという方はお断りしています。昨年もありました。一方で身銭をきって(中には貴重な年金の中から)雑誌を定期購読されている方がいらっしゃるわけですから。私たちがなんで無料にこだわって、このカレンダー を作り届けて来たのかの意味がまるで理解されていない人たちには送りたくありません。カネにあかしてタダで配っているんじゃないぞ!このかんは苦しくてもタダで配っていることの意味を知れ! 

途中から『季節』(当時『NO NUKES voice』)も創刊し、年末に『紙の爆弾』『季節』を発送する際に同封して来ました。これが毎年年末の“恒例”の作業でした。

来年は東日本大震災、そしてこれによって惹き起こされた福島第一原発爆発から15年になります。このこともあり、来年のカレンダーまでは何としてもお届けしたいです。万が一、龍一郎が書けなくなり、鹿砦社が潰れても、15年間ずっと、カレンダーという形で、私たちの想いを伝えて来たという足跡は残り、私たちが知る少数の方であってもこのカレンダーで私たちの想いが伝わっているのは事実なわけで、私たちはそれで清々しい気持ちで一杯です。世の中には、商売ではない人の営みもあるのです。

ガンと闘う魂の書家・龍一郎を応援しよう!

鹿砦社代表 松岡利康

10年以上毎年、福島への応援の想いを込めて鹿砦社カレンダーを揮毫してくれる、大学の後輩で書家の龍一郎から9月18日、下記のようなメールが届きました。手術前に騒ぎたくないと、しばらく伏せておきました。まだ術後の経過は連絡ありませんが、心の中で龍一郎を応援しましょう! 応援してください! 

龍一郎は5年ほど前には大動脈解離で倒れ、次いで連れ合いをガンで亡くしています。彼は、若い頃、一昨日触れた同志社大学学友会で活動し、その後、郷里に帰り教職に就き、全国的に有名になった「ゲルニカ事件」に巻き込まれ、一貫として生徒を信じ生徒の側に立って、全国の心ある先生たちや父兄らと共に最高裁まで裁判闘争を闘いました。頑張れ、龍一郎! (ゲルニカ事件にについて、以前に講演会をやった際の資料が残っていましたので参考にしてください)

「昨日 肺がんの手術が決まりました。
来週 24日です。左肺の半分を切り取ります。
8月のレントゲン撮影で左肺に小さなガげが見つかりました。
それから検査を重ね肺がんと断定されました。
そして昨日手術の予定が決定しました。
さて。カレンダーです。
今年が最後になるかもしれません。
松岡さんの言葉を気合を入れて書きたいと思っています。
半分ほどはもう書いております。
手術後の状態がどのようなものになるか分かりません。
体調がいい時をカレンダー作りに集中するつもりです。
よろしくお願いします。
龍一郎」

【追記】
龍一郎より先ほど(9・26,PM17:37)次のようにメールありました。
「心配かけて申し訳ない。24日に手術は無事終わりました。手術後の諸々も順調に進んでいます。頑張ります」
ひとまずホッと一安心です。闘争勝利!

政斗がラストファイトで盛り上げたKICK Insist24

堀田春樹

昨年の王座奪取も豪快だった政斗が激しい攻防を制して初防衛も引退へ。

◎KICK Insist.24 / 9月15日(月・祝)新宿フェース(開場17:00 / 開始17:30)
主催:(株)VICTORY SPIRITS、ビクトリージム
認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

第8試合  ジャパンキック協会ウェルター級タイトルマッチ 5回戦
チャンピオン初防衛戦.政斗(=黒澤政斗/治政館/1992.7.17東京都出身/ 66.6kg)
35戦19勝(5KO)13敗3分
       VS
挑戦者同級2位.細見直生(KICK BOX/ 66.55kg)5戦4勝(1KO)1敗
勝者:政斗 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:勝本48-46. 西村48-46. 中山48-45

初回、様子見から先手を打つ細見直生の右ストレートで政斗がマットに手を付いた。すぐに立ち上がったところへ細見が攻め込もうとしたが、すでにノックダウン扱いで、レフェリーが割って入った。政斗にダメージは無さそうで、政斗は組んでのヒザ蹴り加えた落ち着いた試合運びに移っていった。

政斗のミドルキックに顔を歪める細見直生

第2ラウンド以降も激しさ増していく蹴りとパンチの攻防の中、政斗の首相撲からのヒザ蹴りとヒジ打ちも加わりしつこく攻め込んでいく。細見直生も手数で劣らず攻め込むが、政斗の圧力に打つ手が無くなっていく。両者のパンチとヒジ打ちの激しい攻防は顔面が斬れる流血に移っていく中、。焦る細見は必死の形相に変わっていった。

政斗も流血から底力を見せた
気合いを入れた両者、政斗と細見直生の必死の打ち合い

最終ラウンドまで政斗の主導権支配は変わらず、初回のノックダウン以後は全て奪った政斗が判定勝利で初防衛に成功した。

勝利者インタビューに応える政斗が引退宣言で、「辞めるの~?」とは細田リングアナ

リング上、細田昌志リングアナウンサーのインタビューが始まり、初回にノックダウン奪われ、劣勢のスタートとなったことについては、
「ちょっと泥臭い試合になったんですけど、絶対やり返すと最後まで諦めないで頑張って立ち続けて勝てました。」

第3ラウンド以降、ミドルキックが当たり始め、ペースを取り戻したことについては、
「ミドルは練習どおりの技が使えて嬉しかったです。やっとペースが自分の方に流れて来たので、維持すれば勝てると思ったので頑張りました。」

細見直生選手の印象については、
「やっぱりパンチは注意していたんですけど、一発いいの貰っちゃって倒れたんですけど、そんなダメージは無かったので、この後やり返そうという気持ちでいっぱいでした。」

最終第5ラウンドを迎えた時の心境は、
「今日で現役最後なんですけど、最後の3分間と思って戦いました。最後という意識を持って今迄練習に励んで来ました。初防衛戦して引退しようと思っていました。なので夢を叶えて凄く嬉しいです。」

感謝を伝えたい師範と婚約者を迎え、飯塚健師範には、
「15歳でキックボクシングを始めてチャランポランばかりだった僕をずっと最後まで見捨てないでここまで導いてくださって本当に有難うございました。ここまで僕を育ててくれた師範がチャンピオンです。」と飯塚健師範の腰にチャンピオンベルトを巻いた。

婚約者には、
「10月に結婚式決まってるけど、もう一回想いを伝えたくて、ここでプロポーズです。今迄現役中、良い時も悪い時もずっと傍で支えてくれて本当に有難うございました。これからは俺が支えてあげられるように頑張るから、これからも宜しくお願いします。結婚しよう、愛してるよ!」と公開プロポーズでメインイベントを締め括った。

師範の飯塚健氏はかつて新妻聡(目黒)と対戦した元・日本ライト1位。自分は目黒ジムの選手に結構負けているんで、細見直生選手は鴇稔之さんのKICKBOXジムで目黒直系だし、今回は何とか弟子が勝って雪辱したい気持ちもありました。そんな想いも叶えてくれて嬉しいです。」という感無量だった様子。

治政館ジムの長江政人会長は「政斗は怪我が多いので一旦辞めて、もしかしたら、またやりたくなったら戻って来る選択もあるかもしれませんね。」と引退を労いつつ、先行きは分らないがそんな期待も語っていた。

◆第7試合 65.0kg契約3回戦

ペップンミー・ビクトリージム(元・タイ国ムエサヤーム・イサーン地方フライ級2位/タイ/ 64.6kg)
       VS
コムキョウ・シット・ボーチョーウォー(元・タイ国ムエサヤーム・中部地方スーパーフェザー級Champ/タイ/ 65.0kg)
勝者:ペップンミー・ビクトリージム / 判定3-0
主審:勝本剛司
副審:椎名30-29. 西村30-29. 中山30-28

ムエタイテクニシャンらしい攻防が続く両者。日本人との対戦も多いコムキョウ。しなやかな蹴りが目立ったコムキョウ。ペップンミーも前進して蹴り込み、採点は見極めが難しい中、やはりジャッジ三者が揃ったラウンドは無い僅差だった。

◆第6試合 ライト級3回戦

ジャパンキック協会ライト級1位.興之介(治政館/1988.12.17東京都出身/ 61.23kg)
25戦12勝(4KO)12敗1分
       VS
YUGA(エイワスポーツ/1999.11.19神奈川県出身/ 61.0kg)3戦3勝(1KO)
勝者:YUGA / KO 2ラウンド 1分56秒 /
主審:西村洋

初回、距離取った蹴りからパンチの牽制からYUGAの左フックか、スリップ気味に興之介を崩した。そこからYUGAがリズムを掴んだ様子。

第2ラウンドもYUGAが左フックで最初のノックダウンを奪った後、更に左ハイキックがヒットすると再びノックダウンした興之介。飛び蹴りを見せるなど攻め返す力は残っていたが、今度はYUGAの右ハイキックが興之介の側頭部を捕えると興之介は倒れ込み、3ノックダウンでYUGAのノックアウト勝利となった。

YUGAのハイキック、すでにダメージあった興之介は崩れ落ちた

◆第5試合 女子ミネルヴァ・ピン級3回戦(2分制)

アトム級1位.祥子JSK(治政館/1983.12.3埼玉県出身/ 45.7→45.36kg)32戦10勝19敗3分
          VS
ペーパー級1位.上真(ROAD MMA/1985.10.16石川県出身/ 44.8kg)19戦6勝11敗2分
引分け 0-1
主審:中山宏美
副審:椎名29-29. 勝本29-30. 西村29-29

初回早々からの蹴りやパンチや組み合う攻防は上真がやや圧力掛ける前進。祥子はやや下がり出遅れた印象も、第2ラウンド以降も手数減らない両者の攻防は祥子のミドルキックが目立った。ジャッジ三者が揃ったのは上真に付けた初回のみ。僅差の攻防は引分けとなった。

上真vs祥子JSKの接戦の攻防は引分けに終わる

◆第4試合 62.0kg契約3回戦

ジャパンキック協会ライト級4位.古河拓実(KICKBOX/ 61.8kg)8戦7勝(4KO)1敗
          VS
ソムプラユン・ヒロキ(=緑川広樹/DANGER/ 63.0→62.7kg計量失格 減点1)
10戦2勝8敗

勝者:古河拓実 / KO 2ラウンド 1分34秒 /
主審:椎名利一

ローキックからパンチの様子見の両者。次第に古河拓実のパンチでソムブラユン・ヒロキがバランスを崩し、ヒザ蹴りを貰ってしまう展開に移った。

第2ラウンドも蹴り合いは古河拓実が優る展開。更に古河拓実の左ストレートから連打、ヒジ打ちからヒザ蹴り連打でノックダウンを奪った。更にヒザ蹴り連打で2度目のノックダウン。飛び気味のヒザ蹴りから右ストレートで3ノックダウンとなって古河拓実がノックアウト勝利となった。ソムブラユン・ヒロキは計量失格の様子から体調も気力も精彩無い感じに見えた。

蹴りの圧力で優った古河拓実。出遅れ劣勢に陥るソムブラユン・ヒロキ

◆第3試合 フェザー級3回戦

ジャパンキック協会フェザー級5位.海士(ビクトリー/ 57.0kg)6戦4勝2敗
       VS
鈴木ゲン(拳心館/ 56.8kg)15戦6勝(4KO)8敗1分
勝者:海士 / 判定3-0
主審:勝本剛司
副審:椎名30-27. 中山30-27. 西村30-27

パンチと蹴りの攻防はスピードある海士が優る展開。スピード劣る鈴木ゲンはバランス悪く出遅れる。打たれ蹴られ劣勢になっても大きなダメージは無いのか、鈴木ゲンの倒れないしぶとさと蹴り返す頑張りはいつもどおりだった。倒しに行けない海士の方がパワー不足と感じるも全てのラウンドを海士が制したジャッジ三者が揃う大差判定勝利となった。

海士のボディーブローがヒット、打たれても最後まで倒れない鈴木ゲンだった

◆第2試合 66.0kg契約3回戦

三澤悠太郎(市原/ 64.55kg)2戦1勝(1KO)1分
       VS
TYLER(エイワスポーツ/ 65.3kg)1戦1敗
勝者:三澤悠太郎 / KO 1ラウンド 1分54秒 /
主審:西村洋

蹴りの攻防から三澤悠太郎が右ストレートでTYLERからノックダウンを奪うと、倒す距離感を掴んだ三澤悠太郎が立て続けにパンチ連打で3ノックダウンを奪ってノックアウト勝利となった。打ち返す展開も見せたTYLERだったが、距離感が悪かった。

三澤悠太郎がTYLERから3ノックダウン奪って速攻のKO勝利を飾った

◆プロ第1試合 フェザー級3回戦

BANKI(竹森万輝/治政館/2008.2.15埼玉県出身/ 56.8kg)2戦2勝(1KO)
         VS
ゲンキ・ノーナクシン(ノーナクシン/ 57.0kg)6戦2勝4敗
勝者:BANKI / 判定3-0 (30-28. 30-28. 30-28)

テクニシャンの攻防を見せる初回の両者。デビュー戦で魅せた右ハイキックも鮮やかに繰り出すBANKI。今回は簡単にはヒットさせないゲンキのディフェンスが強かった為、やや苦戦の流れもあったBANKI。展開に大きな差は無かったが、BANKIのハイキック、グローブの上からでも蹴りがやや優る攻勢でBANKIがデビュー後2連勝を飾った。

BANKIの鋭いハイキックが繰り出されるもゲンキもテクニックで対抗した

アマチュア3試合は割愛します。

《取材戦記》

今回のタイトルマッチが注目のカードだったKICK Insist.24“ジャパンキック協会ウェルター級タイトルマッチ”と謳っていますが、願わくば純粋に“日本ウェルター級タイトルマッチ”と謳いたいところでしょう。ここが分裂を繰り返して来た多くの団体の宿命です。

昨年3月24日、大地フォージャーを壮絶なノックアウトで王座奪取した政斗だったが、今回の初防衛戦は判定ながら、ノックダウン喫してからジワジワと巻き返しの激闘を制した。

長年のキャリアが活かされた政斗の底力。細見直生はまだ5戦目で政斗攻略法が出来上がっていなかっただろう。次の王座に臨むのは細見直生が再度挑むか、前チャンピオン、大地フォージャーが復活するか。ここはまだ予測するのは早いかな。

今回のセミファイナルに出場したタイ選手に「元・タイ国ムエサヤーム・パーカン」という経歴がありました。ムエサヤームというのは、専門誌のムエサヤームを冠にした各地方のムエタイ有識者による組織ごとの王座で、パーカンはPark・klang(パーク・クラーン)が正しく、パークは方向、クラーンは中央部で、タイの中部地方を指します。パーク・イサーンは東北部。パーク・ヌア(北部)、パーク・ターイ(南部)、パーク・タワンオーク(東部)などがあり、地方の若手選手達の登竜門的な王座でもあるようです。

ジャパンキックボクシング協会次回興行は11月23日(日)に後楽園ホールに於いて開催されます。睦雅と瀧澤博人のビッグマッチが見込まれています。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

前田良典小論選集『野の人』が完成しました! 

鹿砦社代表 松岡利康

あれだけ暑かった今夏もようやく過ぎ、彼岸と共に秋の訪れを感じさせる季節となりました。酷暑の中、先輩方と頑張り、同志社大学此春(ししゅん)寮、また同大学友会の尊敬すべき大先輩で1960年代同大学生運動の生き証人の前田良典さんの小論選集『野の人』が完成しお届けできることを皆様方と共に喜び合いたいと思います。

史上空前の猛暑のゆえ、当の前田さんは7月30日に脳梗塞で倒れられ、また数年来の癌と戦いながら、この企画を中心的に進めてこられた先輩KMさんは、あろうことか完成を待たず8月20日に亡くなられました。本書は、まさに死を賭した編集作業によって完成したといえるでしょう。

私松岡は、いわば「遅れて来た青年」(大江健三郎)で、1970年に同志社大学に入学し、以後、〈二つの安保闘争〉をめぐる激動の時代に、その戦闘性で全国の学生運動を牽引した栄光の同志社大学学友会を舞台に活動してまいりました。僭越ながら、私は70年代前半にみずからが関わった学生運動の意味を探究することをライフワークとして出版活動を持続してまいりました。この点では、折に触れ送られてくる、世代の異なる前田さんの卓見に共鳴することが多々ありました。

このたび、そうした前田さんの著作集の編集・出版をおおせつかったことは無上の喜びです。

私たちはまた、元学友会委員長・堀清明さんらと共に「同志社大学学友会倶楽部」という、OBの親睦と交流、そしてかつての闘いの意義を共有し忘れないという活動(記録集出版、講演会など)を長年続けてまいりました。開始以来代表世話人を務めてこられた堀さんが、ご高齢と健康上の都合で代表を辞され、本年から私が引き継がせていただき、規模を小さくすることを余儀なくされつつも、活動を継続することになりました。学友会倶楽部の活動として2013年から、毎年11月初めに行われる大学のホームカミングデーで教室を借り年1回講演会を実施してまいりました。昨年までの実行委員会は初期の目標だった10回の講演会活動が一段落し解散しましたので、まだ固まっていませんが、今後共にやりたいという方がおられましたらご一報ください。

前田さんが活動された1960年代は、時代が大きく変わる転換期でした。それは政治的な面のみならず文化や音楽の面でもそうで、こちらも中川五郎さんや豊田勇造さんらを招いたこともありました。

せっかく1960年代の生き証人でもある前田さんの著作集が出版されましたので、本年は、後輩である私としてはこの本を参考に「1960年代 同志社ラジカリズムとは何だったのか?」をテーマに開催させていただくことにしました。

かつて同志社のキャンパスや旧学生会館を舞台に活動、活躍された皆様方にもぜひご参集いただき、若かった時代に戦争(当時はベトナム戦争)や、社会と世界の不条理に対し闘ったことの〈意味〉を共に語り合おうではありませんか! 

2025年9月24日記

(四六判、上製、本文240ページ 非売品)

【主な内容】
第一章 友人・先輩への追悼集
個と共同(藤本敏夫追悼) 
大森昌也さん追悼 
思い出ボロボロ 堂山道生と私 
同大の先輩たち(中島鎮夫さん・望月躬三さん・片山昌伸さん)
 「境毅(バラ均)さん追悼」走り書き
第二章 同志社ブント・関西ブント記
六〇年代同志社学生運動私記 
    「同志社学生運動」編纂について(コメントひとつ) 
一九六九年ブントに何があったのか 
第三章 同志社此春寮(砂野文枝寮母と寮生)
砂野寮母の生誕と葬送 
砂野ママ葬送一周年追悼集会に寄せて 
深草墓参
同志社リベラル 
第四章 洛南反戦と地域労組
第五章 書 評
第六章 時代論評
時代は回る 
3・11大地震・津波・原発被災と南相馬の村のこと(メモ) 
南相馬への旅 
反原連運動(しばき隊)はスピリチュアル運動か 
「慰安婦と非正規労働」問題(同志社の友人へ) 
原発・沖縄・天皇・障碍者殺害 
ウクライナ戦争と資本主義の変容 
第七章 古代史

▼前田良典(まえだ・よしのり)
1962年同志社大学入学。在学中、同大学友会書記長、京都府学連副委員長を歴任。故・塩見孝也氏とは同期、故・藤本敏夫氏は寮の1年後輩。

◎本書は「非売品」で書店では発売しておりません。ご希望の方は松岡までメールください。刊行会に諮り、ご希望に沿うように努めます。
◎同志社大学ホームカミングデーは11月9日(日)。学友会倶楽部の集いについては後日ご案内。

「司法の独立・裁判官の独立」について

江上武幸(弁護士 福岡・佐賀押し紙弁護団)

井戸謙一・樋口英明両元裁判官が今年6月に旬報社から共著『司法が原発を止める』を刊行されました。これを契機に、司法の独立・裁判官の独立をめぐる議論が再び活発化しています。

*瀬木比呂志元裁判官が『絶望の裁判所』(講談社)を刊行したのは2014年2月、生田輝雄元裁判官が『最高裁に「安保法」違憲を出させる方法』(三五館)を刊行したのは2016年5月です。なお、岡口基一元裁判官は現在もFacebookで最新状況を発信し続けています。

押し紙裁判においても、審理途中で不可解な裁判官交代があったり、販売店側の敗訴判決に類似性・同一性が認められることなどから、最高裁事務総局による報告事件指定がなされているのではないかとの疑念があります。

憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定め、81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するか否かを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定しています。

このように、日本国憲法は裁判官の独立と違憲立法審査権を明確に定めていますが、実際に裁判の場で法令の無効を宣言するには、裁判官に相当の勇気が求められるのが現実です。

裁判官の独立を妨げる圧力や、さまざまなしがらみについて、少し考えてみたいと思います。

◆『新しい憲法のはなし』

私は憲法学者・故丸山健先生の教えを受けた者ですが、日本国憲法は当時も今も世界の最先端を行く憲法だと考えています。日本人300万人、アジア諸国民2000万人もの尊い命を奪った先の大戦の反省に立ち、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三原則を掲げ、前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意する」と宣言した日本国憲法は、「押し付け憲法」などと軽々しく呼べるものではありません。

旧文部省は新制中学生向けに『新しい憲法のはなし』と題する社会科教科書を制作し、将来を担う子どもたちに日本国憲法の精神を身につけさせようとしました。

しかし、冷戦の始まりと朝鮮戦争の勃発を受け、アメリカは日本の民主化政策を転換し、再軍備を進めることになりました。ところが、憲法第9条は武力放棄を定めているため、A級戦犯を釈放し、憲法改正を党是とする政党を設立させ、「押し付け憲法」というレッテルを貼ることで新憲法の精神が日本国民に根付かないように仕向けました。

その結果、日本国民は共通の価値観・倫理観・道徳観を十分に形成できないまま今日に至っています。

世界を見渡しても、外国軍が平時に駐留し続けている国は日本以外に例がありません。戦後80年が経過してもなお、アメリカの影響下から脱しきれない日本の政治の貧困が「失われた30年」を生み出したといっても過言ではありません。

しかし、ネット社会の普及により、日本が真の意味で独立国とはいえないことが徐々に明らかになり、若者はそのような不甲斐ない国をつくってきた旧来型政治家に見切りをつけ、大胆な変革を掲げる新興政党の指導者に期待を寄せているように見えます。

日本の司法もまた、その根幹はアメリカの影響下に置かれてきました。その一例を、以下の出来事から見てみたいと思います。

◆砂川事件

1957年(昭和32年)、米軍立川基地への立ち入りをめぐり学生らが逮捕・起訴される事件が発生しました。いわゆる砂川事件と呼ばれる米軍基地反対運動です。東京地裁は1959年(昭和34年)3月、政府による米軍駐留の容認は戦力不保持を定めた憲法に違反するとして無罪判決を言い渡しました。この判決は裁判長の名をとって「伊達判決」と呼ばれています。伊達判決を受け、法務省幹部(検察)と最高裁は大慌てしました。なぜなら、日米安保条約はアメリカによる日本支配の法的根拠であり、その条約を憲法違反と判断した地裁判決を看過することはできなかったからです。

検察は高裁を飛ばし最高裁へ跳躍上告しました。当時の最高裁長官・田中耕太郎氏は、駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世や公使らと非公式に会談し、伊達判決は誤りであると述べ、破棄差戻しを約束しました。

最高裁は同年12月16日、大法廷において一審判決を破棄し、東京地裁に差戻しを命じました。差戻し審を担当したのは、後に最高裁事務総長・最高裁判事となる岸盛一氏です。岸氏は、青年法律家協会所属の裁判官を排除する、いわゆる「ブルーパージ」の実務を担った裁判官としても知られています。

なお、田中耕太郎氏は、砂川事件差戻し判決の翌年1960年(昭和35年)、アメリカの支持を得て国際司法裁判所判事選挙に立候補し、同裁判所の判事に任命されています。

*田中耕太郎氏の経歴等は、必要に応じて各自ご確認ください。

最高裁が伊達判決を破棄・差戻しするために考案した法理論は、後に「統治行為論」と呼ばれるものです。

「安保条約の如き、主権国としての我が国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが、違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査に原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする。」

「安保条約(またはこれに基づく政府の行為)が違憲であるか否かが、本件のように(行政協定に伴う刑事特別法第2条が違憲であるか)前提問題となっている場合においても、これに対する司法裁判所の審査権は前項と同様である。」

「安保条約(およびこれに基づくアメリカ合衆国軍隊の駐留)は、憲法第九条、第九八条第二項および前文の趣旨に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない。行政協定は特に国会の承認を経ていないが違憲無効とは認められない。」

この最高裁大法廷判決以降、日米安保条約に基づく米軍の駐留や軍人・軍属、基地に関する訴訟において、裁判官が安保条約の違憲判断を示すことは事実上できなくなりました。

私は、ある裁判官から「沖縄県の裁判官人事は福岡高裁を経由せず、最高裁事務総局が直接行っている」と聞いたことがあります。その理由は、沖縄で発生する米軍関係事件において安保条約違憲判決を出す裁判官が現れることを防ぐため、とのことでした。

◆大阪空港騒音訴訟

二番目の事例は大阪空港騒音訴訟です。

1969年、大阪空港周辺の住民は、航空機の騒音・振動による被害を理由に、午後9時以降の夜間飛行差止めと損害賠償を求めて国を提訴しました。

1974年、大阪地裁は午後10時以降の飛行禁止と過去分の損害賠償を認め、大阪高裁も1975年に午後9時以降の飛行禁止と将来分の損害賠償を認める全面勝訴判決を言い渡しました。

この上告審は、刑法学の権威である団藤重光元東大教授が所属する第一小法廷に係属し、1978年5月に結審、その秋に判決が予定されていました。ところが同年7月、国から大法廷への回付申請があり、 岸上裁判長が岡原昌男最高裁長官に相談していたところ、村上朝一前最高裁長官から電話が入り、大法廷への回付が決まったのです。

上告から6年余り経過した1981年12月、最高裁大法廷は大阪高裁判決を破棄し、夜間飛行差止め請求を却下、過去の損害賠償のみを認める判決を下しました。

この重大な経緯は、龍谷大学に保管されていた団藤重光教授の日記に記されており、2023年4月15日放送のNHK番組『誰のための司法か~団藤重光 最高裁・事件ノート』で初めて公にされました。

◆裁判官の独立を脅かす構造

原発訴訟や諫早湾干拓事業開門訴訟など、国政の根幹に触れる裁判については、担当裁判官に対し、様々な形で干渉・情報収集・人事配置による圧力が及んでいるとしても不思議ではありません。

近年では三人合議体においても、経験年数や年齢差、上下関係などの影響で自由闊達な議論が難しくなっていると言われます。黒い法服の裁判官3人が、裁判長を先頭に一列で廊下を移動する姿は、裁判官間の序列を象徴する異様な光景です。

私自身、大阪高裁での読売新聞販売店押し紙訴訟控訴審判決の際、代理人席に着席する前に裁判長が「控訴棄却」を告げ、陪席裁判官とともに退廷してしまった経験があります。その高圧的な態度に私は唖然としました。

また、西日本新聞長崎販売店押し紙訴訟判決(福岡高裁)では、前の2件の判決では型どおりの「本件控訴を棄却する」とだけ告げたのに対し、私どもの事件では「主文1」と言ってから棄却を告げるという、いたずらのようなやり方でした。私は一瞬勝訴かと思いましたが、すぐに肩透かしをくらった形で、不快感を覚えました。

◆裁判官人事と独立の限界

高裁裁判長クラスは65歳定年に近い年齢が多く、私より10歳ほど若い世代です。私の同期には最高裁長官や高裁長官になった者もいますが、結局はそうした裁判官を生み出してしまったのが私たちの世代でもあります。

現在はウェブ裁判が普及し、画面上では裁判官も代理人も当事者も同じ目線の高さで映し出されます。そろそろ、法廷においても裁判官席を弁護人席や傍聴席と同じ高さに設置する時代に移行すべきではないでしょうか。

憲法は裁判官の独立を保障していますが、下級裁判所裁判官は最高裁が指名した名簿に基づき内閣が任命し、任期は10年と定められています。したがって、裁判官志望者は任命や再任を意識し、無意識のうちにも最高裁の顔色を窺う傾向が生じます。

1971年には23期司法修習生のうち裁判官希望者7名が任官を拒否される事件が発生しました。理由説明を求めた坂口徳雄修習生は罷免され、さらに宮本康昭裁判官の再任拒否や、青法協加入裁判官への脱退工作によって、憲法擁護派裁判官は急速に減少しました。これは最高裁事務総局と司法研修所当局による「ブルーパージ」とされ、司法の独立を内部から踏みにじる暴挙でした。この時、司法の自律は実質的に崩壊したといえるでしょう。

私たち29期修習生はその6年後に司法研修を受けました。東大紛争を知る最後の世代でもありましたが、1971年のブルーパージの影響で、裁判官・検察官志望と弁護士志望が憲法三原則について腹を割って議論する空気は失われていました。

それでも、実務修習の1年間は同じ釜の飯を食う関係が築かれ、進路が分かれても同期の法曹として対等なつきあいが続きました。

ところが、その後、法曹養成制度は大きく変質しました。ロースクール設置、司法試験制度の変更、修習期間の短縮、給費制廃止、さらに弁護士事務所の法人化や宣伝自由化など、日本の風土にはなじまないアメリカ型の司法制度が導入されたのです。

これはアメリカの年次報告書に基づく司法制度改革要求を、日本が無条件に受け入れた結果でした。そして今では、それが誤りであったことを多くの人が認識するようになっていると思います。

次回の投稿では、アメリカの年次報告書に基づく司法制度改革が日本の司法界をどのように変質させたのか、その感想を述べたいと思います。

※本稿は黒薮哲哉氏主宰のHP『メディア黒書』(2025年8月23日)掲載の同名記事を本通信用に再編集したものです。

▼江上武幸(えがみ・たけゆき)
弁護士。福岡・佐賀押し紙弁護団。1951年福岡県生まれ。1973年静岡大学卒業後、1975年福岡県弁護士会に弁護士登録。福岡県弁護士会元副会長、綱紀委員会委員、八女市役所オンブズパーソン、大刀洗町政治倫理審査会委員、筑豊じんぱい訴訟弁護団初代事務局長等を歴任。著書に『新聞販売の闇と戦う 販売店の逆襲』(花伝社/共著)等。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

『紙の爆弾』10月号に冤罪「みどり荘事件」を寄稿しました。ぜひ読んでください!

尾﨑美代子

「みどり荘事件」は、1981年大分県で起こった女子短大生強姦殺人事件です。この事件を書くにあたっては不思議ないきさつがありました。

確か25年ほどまえ、ある冤罪の専門書を読みました。日本の刑事司法の問題点がいろいろ書かれてて、ひとつに「日本は未だに自白中心主義だ」とありました。25年ほど前で「未だに」です。というか、それこそ「未だに」警察、検察は自白をとることに必死であることは、最近のプレサンス元社長冤罪事件でも明らかです(この事件も紙の爆弾に書いてます)。さらに驚いたのは、証拠の杜撰さです。つい先日も佐賀県警の科捜研の男性が長年DNA型鑑定で不正を続け(その数が130件)るという事件がありました。「問題ないね」と居直る佐賀県警、そんな訳ないだろう。

「みどり荘事件」に話を戻します。事件で犯人とされた男性の髪の毛はパンチパーマの短髪であったのに対して、「証拠」とされていたのは「ロン毛の金髪」だったというのがありました。おいおいおい、と驚く話です。それを裁判の途中でみつけた弁護団は、彼が常に短髪のパンチパーマだったことを立証するために、男性の姉、月に一度通う理髪店店員や理髪協会の関係者に証言させました。姉は事件前、父の葬儀があり、喪主である弟に理髪店に行かせたこと、理髪店店員は男性が常に数センチのパンチパーマをかけていたこと、理髪協会関係者はパンチパーマは時間の経過とともに伸びることはあってみ直毛にはならないなどと。その本では確かに「ロン毛の金髪」だったので、何の事件か調べようと、「冤罪、ロングヘアー、金髪」等で検索したこともありましたが、全くわからずに時が経ち……。 

一昨年、飯塚事件を取り上げた映画「正義の行方」を観た私は、どうしてもお話を聞きたくて、仲間と飯塚事件弁護団の徳田靖之弁護士をお呼びしました。その前に徳田弁護士がほかにどのような事件を担当したかを調べました。飯塚事件同様にすでに被告が死刑執行されたもう一つの冤罪「菊池事件」を担当しているのは知っていました。ほかを調べると、冤罪で一審で無期懲役、控訴審で無罪を勝ち取った「みどり荘事件」がありました(無罪判決を勝ち取ったのは、14年後の1995年でした。)。「どんな事件だったのだろう」と読み進めていくと、後半で、久間三千年さんの死刑執行の連絡を受け膝から崩れ落ちた岩田務弁護士が「念のため」と高裁で証拠品を確認しにいく場面がでてきます。そこで見たのは、被告の髪と全く違う髪の毛。「金髪、ロン毛」ではありませんが、被害女性か姉の毛髪のようで、栗色のセミロングでした。

裁判資料などを集め、書き進め、最後に徳田弁護士に確認して頂こうとメールを差し上げました。いつも多忙で「遅くなってすみません」と返事があるのですが、このときはすぐに返事がきました。「了承しました。その事件を取り上げて貰えるのは嬉しいです」と。記事は、徳田弁護士の大ファンの東住吉事件の青木恵子さんにも読んでもらいました。「この事件はしらなかった。徳田弁護士のように熱心に弁論してくれる弁護士ばかりだったらいいのに」などと言っておりました。その直前、青木さんが応援している被告の控訴審があり、まともな審理も行われず、あっという間に控訴棄却となってしまっていたからでしょうか。

原稿の締めをどのように書こうか、いつも悩みます。今回は、その素晴らしい最終弁論の場面を書きました。徳田弁護士の最終弁論が終了すると、傍聴者から拍手が沸き起こる。「静かにしなさい」と裁判長がたしなめます。それは法廷で良くある光景……さてその後どうなったか?ぜひ、本誌でご確認ください。

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/

格闘群雄伝〈41〉小野寺力 ── キックボクサーの本道を貫くキックの鬼~ちゃん!

堀田春樹

◆平成の新星

元・日本フェザー級チャンピオン.小野寺力(目黒/1974年7月7日、東京都大田区出身)は、リズミカルなコンビネーションでのノックアウト劇と、アイドル並みの甘いマスクで大きな人気を獲得した平成初期の新星。現在では多くのテクニシャンが存在するが、当時は神秘的な存在だった。

「兄貴が空手をやっていた影響で蹴り技を使える競技をやりたかった」という小野寺は、月謝が安く、家から近かったという目黒ジムを選び、平成元年(1989年)、中学3年になった春、入門した。

当時、下目黒にあるボクシングの野口ジムを間借りしていた目黒ジムで小野寺は、自然とパンチを学ぶ機会には恵まれていたが、野口ジムコーチ(当時)の野口勝氏が「小野寺をボクシングでデビューさせたい」と語ったほど、小野寺のパンチのセンスは抜群だった。

◆日本チャンピオンとしての威厳

キックボクシングの基礎は3年間鍛えられ、高校三年、18歳の秋(1992年11月13日)にデビューし5連勝。しかし、ノックアウトを導くにはパワー不足を感じた小野寺は、ウェイトトレーニングでパワーアップを図った。 上位ランカーの佐藤堅一(士道館)や元・チャンピオンの山崎通明(東金)とは引分けるも、上位に通用する効果は表れ、続いて佐藤孝也(大和)、松尾栄治(士道館)と立て続けに国内フェザー級トップクラスに圧倒のノックアウト勝利し、一躍注目を集めるカリスマ的存在となった。

デビュー戦は落ち着いた試合運びで判定勝利した(1992.11.13)
ベテラン山崎通明戦は上手い試合運びを見せたが、際どく引分け(1995.6.2)
全日本キックの前チャンピオン佐藤孝也を倒した小野寺力(1995.12.9)

1996年3月には昭和の老舗・日本キックボクシング協会が復興。その代表的な立場で全日本キックボクシング連盟興行ではあったが、日本系vs全日本系の古き時代の交流戦も復活し、前田憲作(SVG)をノックダウン奪って判定勝利。復興再スタートの先陣を切った意義ある勝利を飾った。

交流戦での代表的選手の戦いは小野寺力が優った展開で判定勝利(1996.3.24)

同年5月25日には、日本キックボクシング協会復興プレ興行となった三重県津市での大柴ひろし(治政館)との日本フェザー級王座決定戦は意外な苦戦の中、狙った鋭いヒジ打ちで大柴の歯が唇を突き抜ける衝撃のTKO勝利で初の王座戴冠となった。

大柴ひろしには苦戦したが、最後は一撃必殺技で優った小野寺力の神業だった(1996.5.25)
初戴冠は日本系伝統のベルト、価値を上げるのはこれからだった(1996.5.25)

しかし、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟から分裂しての王座であり、まだ真の頂点とは言い難かったが、ここまで順調に王座に昇り詰めた小野寺に大きな期待は掛かるのも当然で、より多大な試練が襲って来た。

日本フェザー級王座は1998年5月5日の初防衛戦でマサル(伊東マサル/トーエル)と意外な苦戦の引分けだったが、1999年1月30日の2度目の防衛戦はマサルとの再戦を大差判定で退けた。

マサルには苦戦し、辛うじて引分け防衛。再戦では大差で退けた(1998.5.5)

選手層が厚いタイの激戦区を勝ち抜いたムエタイボクサーには、小野寺の華麗なテクニックを封じられ2連敗し、1997年秋にタイへ初のムエタイ修行に挑んだ。未熟だった首相撲で徹底的に転ばされる毎日だったが、これを克服しようとより闘志が湧いたという。

その復帰後もタイのテクニシャンには敗れ、タイ戦は4連敗となったが、1999年5月には5度目のタイ戦で、タイ国南部フェザー級王者、シーナコン・ギャットヨンユットを蹴りとパンチの技で優るコンビネーションで倒し、同年11月に新日本キックボクシング協会企画のタイ国ラジャダムナンスタジアムでの「Fight to MuayThai」に於いてノックアウト勝利を飾り、日本チャンピオンとして威厳を示した。

◆試練に立ち向かう

小野寺力の現役を振り返ると試練と言うより不運な事案も様々存在した。1996年当時のマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟から分裂は仕方ない状況ではあったが、対日本戦好カード対決が減ったことは勿体無かった。当時のMA日本フェザー級チャンピオンはワンダーマン室戸(室戸みさき/東金)だったが、小野寺が挑戦権を得たこのカードはファンや関係者皆が楽しみだっただろう(決定直後に室戸は王座返上したが、本人の意図ではないだろうと推測される)。

1997年夏、キックボクシングよりもテレビの影響で世間の注目を浴びた人気イベントのK-1では、ヘビー級中心から新たに軽量級(フェザー級域)トーナメントも始まり、新日本キックボクシング協会から小野寺力にも出場要請があったが、キックボクサーの本道を貫く信念を持って出場を拒み、罪の無いまま半年間の理不尽な出場停止処分を受けたが、復活の日までジッと耐え、練習の日々を送っていた(この時期を利用したタイ遠征が被る)。

相次ぐ試練の最大の難関は、ハードパンチャーの宿命である拳の故障の連続だった。2000年頃から続いた右拳の負傷。右ストレートがしっかり打てぬハンディーは苦しかった。拳の回復は予想以上に時間が掛かり、そんな最中の2001年1月に、朴炳圭(朴龍/韓国)戦ではハイキック喰らってあっさり倒されたことは衝撃だった。

朴龍には意外なKO負け。ハイキックをまともに貰ってしまった(2001.1.21)

2000年5月、筋肉増強から来る減量苦もあって王座返上したが、2001年7月、後に王座獲得した小出智(治政館)との新旧チャンピオン対決では再び右拳と更に左拳を負傷し、両手が全く使えないまま後半の反撃を許して引分けとなる不運。

トップクラスの立場に陰りが見え始めたのもこの頃で、「小野寺の時代は終わった」という世間の声も聞かれ始めた。王座返上以降、チャンピオンベルトを巻いた姿は見られなくなったが、「価値ある座にある者をブッ倒し、己がより価値ある男になる」と最高峰に目標を掲げて現役を続行。

2002年9月、小野寺力が渋谷アックスで自主興行「GREATEST HITS!」を開催し、この復帰戦はタイのラタナサック・サックタウィーをラストラウンドで圧倒のラッシュで大差判定勝利して存在感を示した。

ジム経営に乗り出した時期でもあり、拳負傷の影響もあってブランクを作ったが、2005年10月には、これも自主興行「NO KICK NO LIFE」を大田区体育館で開催した引退興行となった。

先輩・飛鳥信也から始まった目黒ジムの伝統、現役最後の試合で完全燃焼するに値する最強の相手にタイの現役二大殿堂フェザー級チャンピオン、アヌワット・ゲオサムリットを迎え、ハイキックで攻勢も見せたが第2ラウンド、アヌワット得意のパンチ強打を受け3ノックダウンで倒される玉砕で現役を締め括った。

ラストファイトのアヌワット戦。パンチも蹴りも速く重かった(2005.10.29)

◆新時代へプロモーターとしての挑戦

現役時代の小野寺は、ジムやプライベートでは目黒ジム・野口和子代表やトレーナーの指示には礼儀正しく従い、優しい口調と笑顔で周囲からは「リキちゃん」という愛称で親しまれた。性格的にもフレンドリーな小野寺は、芸能界からの誘いも多く、テレビ出演も増していた。若さゆえの暴走を心配した野口和子代表からは、「立場が上にいくほど頭を下げなきゃダメよ!」と忠告されたことで、小野寺本人も当然自覚を持っていた。

当時のブルース京田トレーナーは、「小野寺は教えたことがすぐに出来たのが印象的です。ブレイクした後も天狗にならなかったし、ずっと謙虚でした。私は教えるのが下手でトレーナーは向いていないと思っていましたが、彼によってトレーナーを続ける気力が湧き、他の選手にもミット持って教えて自分の成長にも繋がりました。感謝です!」という。人の運命も好転させる小野寺は芸能界仲間にも慕われるようになり、人脈が広がったのは当然のことだろう。

この人脈から多くの協力者を得て、現役時代の2003年11月にRIKIXジムを大田区の大岡山に開設し、2011年4月21日、川崎市の小田急線百合ヶ丘駅前にRIKIXジム百合ヶ丘店を開設。その後、横浜店、三田店、湘南店と現在5店舗を拡大経営している。

2014年にはNO KICK NO LIFEイベントを正式に立ち上げ、2月11日を“キックボクシングの日”にしようと、なるべくこの日を目途に大田区総合体育館で開催。古きを大切に新しきを取り入れ、プロモーターとして躍進し始めた。

2016年9月には新たなイベント「KNOCK OUT」に誘われ移行したが、諸々事情はあったと推測されるが3年で退いてNO KICK NO LIFEを復活。不定期ではあるが再び大田区総合体育館で豪華イベントも行ない、現在も次なるイベントを計画している模様である。

現在は小野寺力の下で育った10名程のプロ選手が成長。各団体、各プロモーション興行からのオファーに応え、試合出場が充実している様子である。今後は国内から世界へ、チャンピオン誕生も近いだろう。

NO KICK NO LIFEの試合後、出場者を集めてイベントを締め括った小野寺力(2015.2.11)

※補足ながら、“キックの鬼~ちゃん”とは過去、ナイタイスポーツ紙で小野寺力氏にコラムをお願いした際のタイトルです。キックの鬼ながら優しいお兄さんを意味しています。

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▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」