天皇制はどこからやって来たのか〈01〉天皇の誕生

天皇の存在は、わたしたち日本人にとって「喉に刺さった骨」、あるいはその反証として「ホッとさせられる文化の根源」なのかもしれない。「刺さった骨」というときには、政治権力と結びついた支配の要であり、「文化の根源」と考えた際には、御所や神社仏閣といった歴史的建造物、そこにある皇室御物、および叙位叙勲などの伝統的権威によるものであろう。

日本の近代化にとって、国民統合の思想的な要として作用してきた天皇制イデオロギーは、戦争の根拠となったとして批判される。身分制の差別の根源として、廃止せよという意見も少なくない。

いっぽうで、皇室そのものも変化にさらされてきた。天子(神)から人間へ、皇室離脱の自由をもとめる皇族、制度や慣習にとらわれない自由恋愛の希求、そして政治的な発言。皇室のありようはそのまま、天皇制(政治権力との結びつき)を左右すると同時に、われわれ国民にも議論を求めている。そこで、天皇および天皇制とは何なのか、歴史的な視座からわたしなりに解説してみた。横山茂彦(歴史関連の著書・共著に『闇の後醍醐銭』『日本史の新常識』『天皇125代全史』『世にも奇妙な日本史伝説』など)

狩猟採集社会

◆狩猟から農耕へ

大王(おおきみ=天皇)という存在は、なぜ生まれたのだろうか。はるかなる古代に成立した王権、それは偶然ではないはずだ。

狩猟によって日々の糧を得ていたころ、人類は集団で流浪する弱い存在だった。猛獣から身をまもるために石の武器をつくり、獲物を得るために獣の骨で弓や釣り針をつくっていた。おそらく集団のリーダーは、体力と判断力のある人物だったはずだが、まだ彼は王とは呼ばれていなかった。集団には分業がなく、必死に助けあう絆が唯一のものだった。

やがて気候の温暖化により、食糧である鹿や牛が北に移動した。多くの人々は獲物を追ったが、狩猟のために移動するよりも、定住して食糧を得ようとする集団がいた。かれらは野に実っていた麦を畑で栽培し、貝や木の実を採取して村落をつくった。村の誕生である。

稲作農耕社会

栽培で食糧を得た人々は、安定した生活をいとなめるようになった。まもなく食糧の備蓄ができるようになり、人々のあいだに役割の分担が生まれてくる。農耕経験の豊かな村長(むらおさ)が指示を出し、人々はそれに従う。牛などを家畜として飼う役割、農耕具をつくる役割などの分業がはじまった。狩猟のための武器は、もう必要なくなったのだろうか?

かつて狩猟をするために発揮されていた戦闘力はしかし、封印されることはなかった。肥沃な土地や水の利用をめぐって、村と村の争いが起きてしまったのだ。戦争のはじまりである。小さな村が争いと征服によって大きくなり、村々にまたがる権力は、国という単位になった。その国を統率する者こそ、古代の王である。知力と腕力に秀(ひい)で、すぐれた統率力を兼ねそなえた、彼こそ王と呼ぶにふさわしい。やがて国は相争ううちに平和共存の道をえらぶ。やはり自然の猛威から自分たちを守るためには、争うよりも平和共存が必要だった。そから連合国家が模索される。

◆王と天子はどう違うのか?

ここまでわれわれは、国と王の誕生をみてきた。国は集団をひきいる装置に違いないが、王は国という装置にとって入れ替えが可能なものではないだろうか。そう、力があれば取って代わられるのが、王という存在だったのである。それゆえに騒乱はくり返され、魏志に云う「倭国争乱」が起きたのだ。そこで、一計を案じた倭の諸王たちは、連合国家である邪馬台国に卑弥呼という女王を立てた。その結果、女王をいただく連合国家は軌道に乗った。

しかし、この段階では王権の継承は、まだ血統によるものではなかった。卑弥呼の没後に男性の王を立てたところ、ふたたび倭国は争乱に陥ったのである。倭の諸王たちは台与を女王に立てて、内乱の危機を乗りきった。この台与は卑弥呼の宗女である。

卑弥呼には子はなかったから、台与は一族の娘ということになる。倭国の初めての統一政権である邪馬台国において、血族から王が選ばれたのだ。実力よりも血筋が正統とされるには、天の命令が不可欠である。王権を実力支配する王ではなく、天命によって天下を治める天子の原型が出現したのである。天子と天皇は同義である。

じっさいの皇統は、皇太子制度が始まってからだとされている。つまり帝位の継承者が天皇の嫡子や皇族の中から選ばれることで、王権は不可侵のものとなったのだ。その王権を正統化する神話がつくられ、血統による秩序が顕(あら)われる。こうして天皇は、律令制という法制度の頂点に君臨したのだ。天皇の本質は、血統の唯一性である。それは帝位の争奪を防止する叡智であっただろうか、それとも王権を維持する秘密を発見した誰かが、ひそかに考案したものか――。

とはいえ、頂点に君臨する天皇も批判にさらされる。天子の所業は自然現象によって裁断されるのだ。悪政がつづけば、天変地異によって裁かれた。これを天子相関説という。したがって悪政を行なう天子は退けられ、あるいは政争で弑逆されることもある(第三十二代・崇峻天皇)。

wikipedia「崇峻(すしゅん)天皇」項より

とくに古代においては、皇族が臣下にくだらなかったことから、帝位継承はかならずしも嫡系ではないことが多い。前の天皇から、はるかにかけ離れた血筋が皇統に就く場合、これを王朝交代という。第十代・崇神天皇、第十六代・仁徳天皇、第二十六代・継体天皇において、王朝交代があったとされている。文献のうえで皇太子と確認されているのは、第四十五代・聖武天皇である。厳密な意味での皇統の確立はしたがって、奈良王朝で確立されたといえよう。聖武帝即位は724年のことである。

◆朝廷が衰退しても、なくならなかった理由

平安王朝になると、天皇は摂関政治に翻弄される。娘を入内させた藤原氏が外戚となり、幼い天皇をさしおいて権勢をふるう。これに対して天皇は退位後に院政を布いて対抗するようになるが、ときはすでに武家の世になっていた。栄光の古代王朝はすでにはるか彼方のこと、やがて天皇は経済的にもひっ迫してゆく。

にもかかわらず、天皇の権威は地に堕ちることはなかった。位階と職制、そして氏姓制度において、天皇の権威が必要とされたのだ。たとえば戦国時代には、武将たちの受領名(国司・守護職)の裏付けとして、位階・職が朝廷から下賜された。血筋と身分が重んじられた江戸時代には、ますます位階と職は大名の権威を裏付けるものとなった。そして幕末において、天皇の権威は尊王攘夷思想として爆発的に作用し、その勢いが討幕を果たさせる。爾来、天皇の権威は近代国家の軸心となるのだ。象徴天皇制となったいまも、その権威は叙位叙勲としてわれわれの生活に生きている。権威は必要とする者によって、しかるべく存続するのだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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新型コロナウイルス「COVID-19」を探る ── 重要な『ランセット』論文

中国・武漢発とされる新型コロナウイルス「COVID-19」が猛威を振るっている。新型肺炎(SARS)を上回る勢いで感染が拡大し、近隣国であるこの島国でも罹患者が増加傾向にある。


◎[参考動画]Coronavirus disease named Covid-19

SARSが急に流行したときに、わたしは「動物からの感染で、変異が起こったというけれども、それならどうしていままでおこらなかったのか?」と不思議に感じて、自然科学研究科(医学者ではない)数人に見解を聞いてみた。回答は「わからないし、はっきりしたことは検証しなければ結論が出せないだろう」だった。

新型コロナウイルスについて、余計な混乱を招きたいとは思わない。しかし、発症が伝えられた当初から、「自然発生」であるのであれば、ずいぶん不自然だと感じざるを得ない、中国当局の対応が気にはなっていた。中国という「大きすぎる」国は、一応「共産党」を名乗る権力が支配しているが、どこにも共産主義や、社会主義の残滓は見られない。なんども私見を開陳しているが中国は内に向けても、外に向けても「帝国主義」国家以外のなにものでもない、とわたしは判断している。


◎[参考動画]Coronavirus: China’s Xi visits hospital in rare appearance

さて新型コロナウイルスである。素人の井戸端会議や、自称専門家のどうでもいいコメントではなく、『ランセット(The Lancet)』という世界的に権威ある科学雑誌にこの一月二九日、“Genomic characterisation and epidemiology of 2019 novel coronavirus: implications for virus origins and receptor binding” (https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)30251-8/fulltext) の論文が掲載された。

“Genomic characterisation and epidemiology of 2019 novel coronavirus: implications for virus origins and receptor binding”(The Lancet)

この雑誌に論文が掲載されるのは容易なことではない。世にいうインパクトファクターでは、有名な“Nature”をしのぐ権威のある雑誌である。ここには、塩基配列解析により、新型武漢ウイルス(正式名称: 2019-nCoV=COVID-19)は、その遺伝的近縁度は、コウモリのコロナウイルスと極めて近い、と言うよりは、コウモリのウイルスと判断される。しかし、そのウイルスが宿主に取り付く部位(取り付くと感染する)は、サーズウイルス(SARS-CoV)の部位と似ていると分析されている。少しややこしいが、2019-nCoVはコウモリのウイルスに分類されるけれども、宿主への結合部位はSARS-CoVであることから、ヒトへの感染することになるというのが結論だ。

その後、2020年1月31日にbioRxivというサイトに” Uncanny similarity of unique inserts in the 2019-nCoV spike protein to HIV-1 gp120 and Gag”「 2019-nCoVスパイクタンパク質のユニークなインサートとHIV-1(エイズウイルス) gp120およびGagとの不気味な類似性」(https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.01.30.927871v2)が発表された。

英語論文であるので読むのが難しいかもしれないが、最初の要約で「現在、2019年の新型コロナウイルス(2019-nCoV=COVID-19)による大流行を目の当たりにしています。 2019-nCoVの進化はとらえどころのないままです。 2019-nCoV(COVID-19)に固有で、他のコロナウイルスには存在しないスパイク糖タンパク質(S)に4つの挿入が見つかりました。 重要なことに、4つのインサートすべてのアミノ酸残基は、HIV1 gp120またはHIV-1 Gagのアミノ酸残基と同一または類似しています。 興味深いことに、挿入物が一次アミノ酸配列で不連続であるにもかかわらず、2019-nCoV(COVID-19)の3Dモデリングは、それらが受容体結合部位を構成するために収束することを示唆しています。 2019-nCoV(COVID-19)に存在するHIV-1(エイズウイルス1型)の重要な構造タンパク質のアミノ酸残基と同一性/類似性を有する4つのユニーク配列の生成は、自然界で偶然では起こりえない。 この研究は、2019-nCoV(COVID-19)に関する未知の洞察を提供し、このウイルスの診断と重要な意味を持つこのウイルスの進化と病原性に光を当てます」との書き出しではじまっている。(翻訳はわたし自身ではなくGoogle翻訳を利用した)


◎[参考動画]How coronavirus (Covid-19) spread day by day

注目すべき点は「コロナウイルスのアミノ酸基が、「HIV1 gp120またはHIV-1 Gagのアミノ酸残基と同一または類似している」ことと、「HIV-1の重要な構造タンパク質のアミノ酸残基と同一性/類似性を有する2019-nCoV(COVID-19)の4つのユニークなインサートの発見は、自然界では偶然ではありません」と、人為的な操作により「コロナウイルス」が作成されたのではないかとの指摘である。

その後に詳細な分析結果が紹介されている。わたしは自然科学の素人だが、詳しい人にきくと「最初はコウモリからヒトへの感染かと思われたが、どうやらそうではなく、人為的に作成されたのが『コロナウイルス』ではないか、との疑いを否定できない」と、驚くこたえがかえってきた。

報道が伝える通り、武漢郊外には生物兵器研究を行う施設があることは、よく知られている。重症化と感染力は仮に「生物兵器」であればかなり強力であることを想定しておかなければならないだろう。軽症で快癒するケースも多いが、重症化して死に至る患者数は、おそらく数週間後には桁がひとつ(あるいはふたつ)違っているかもしれない。

繰り返すが、わたしはいたずらに混乱を引き起こしたいわけではない。体力の弱いかたや、高齢者は、できれば人混みに出かけるのを避けて「自己防衛」するしか、対策はないだろう。人混みに出かけるかたは、水分を20分おきに摂取する(ウイルスは胃に入れば、胃酸に淘汰される)ことも有効だろう。


◎[参考動画]Scale of the coronavirus outbreak

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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《死刑破棄殺人犯の実像2》無罪主張に説得力は皆無だった「黙秘の男」

2009年に裁判員制度が始まって以来、裁判員裁判の死刑判決が控訴審で破棄され、無期懲役に減刑されるケースが相次いでいるが、今年1月の淡路島5人殺害事件でそれは7件目となった。死刑を破棄された殺人犯たちは一体どんな人物なのか。筆者が実際に会った3人の素顔を3回に分けて紹介する。

第2回目の今回は、伊能和夫(69)。無罪を主張しながら公判で黙秘し、一言も発さなかった男だ。

◆面会室ではよくしゃべったが・・・

伊能の裁判が行われた東京高裁・地裁の庁舎

裁判の認定によると、伊能は2009年11月、東京・南青山のマンションの一室に金目当てで侵入し、住人の飲食店経営者の男性(当時74歳)を持参した包丁で刺殺した。伊能は1988年に妻(同36歳)を刺殺し、部屋に放火して娘(同3歳)も焼死させた罪で懲役20年の刑に服しており、事件の半年前に出所したばかりだった。

そんな伊能は2011年3月、裁判員裁判だった東京地裁の一審で死刑判決を受けたが、東京高裁の控訴審では2013年6月、死刑判決が破棄され、無期懲役に減刑された。「被害者は1人で、当初から殺意があったとは到底言えない」ということなどがその理由だ。そして2015年に最高裁で控訴審判決が是認され、無期懲役が確定したのだった。

筆者がそんな伊能と面会するため、初めて収容先の東京拘置所を訪ねたのは、伊能が最高裁に上告中の頃のこと。死刑を免れた伊能だが、裁判では無罪を主張していたうえ、公判では黙秘して一言も言葉を発しておらず、どういう人物なのかを会って確かめたいと思ったのだ。

伊能はその日、刑務官の押す車椅子に乗り、面会室に現れた。報道で見かけた写真では、健康そうな感じだったが、実物の伊能は痩せており、身体が弱っているように見えた。目の焦点が合っておらず、正直、不気味な雰囲気を感じる男だった。

まず、単刀直入に事件について、白か黒かを質したところ、伊能は「全部やってないですから・・・自分は無罪ですから・・・」と言い切った。そして裁判への不満などを次々に口にした。

「裁判がメチャクチャなんで、最高裁では徹底的にやろうと思ってるんです・・・」
「自分は裁判で住所不明、無職にされましたが、住所も職業もちゃんとしています・・・」

「今は午前中に裁判に出すものを色々書いて、昼からは息子への手紙を書いています・・・」

筆者は正直、こうした伊能の無罪主張や裁判批判がまったくピンとこなかった。裁判では、現場室内から伊能の掌紋が見つかったとか、伊能の靴の底から被害者の血液が検出されたとか、有力な有罪証拠がいくつも示されていたからだ。

また、息子に手紙を書いているという話も違和感を覚えた。伊能に息子がいるのは知っていたが、妻と娘を殺害した伊能が息子と良好な関係だとは思えなかったためだ。

◆面会するたびに金や飲食物の差し入れを催促

その後、筆者は伊能と面会を繰り返したが、伊能の無罪主張は何度聞いても信ぴょう性が感じられなかった。

まず、現場室内で見つかった自分の掌紋や、靴の底から検出された被害者の血液などの有力な証拠については、伊能は「全部偽物の証拠や」と言ってのけるのだが、何か根拠を示すわけではない。裁判で黙秘した理由についても、「裁判では、『無実だから何も出ない。無罪になるだろう』と思ってましたから」と言うのみで、やはり説得力は皆無だった。

もっとも、このように無理な無罪主張を言い連ねる伊能から、やましそうな雰囲気は一切感じ取れなかった。そのため、筆者は伊能と面会を重ねるうち、この男は人を殺しても罪の意識を感じない、サイコパス的な人物なのではないかと思うようになった。

そんな伊能について、もう1つ印象深いのは、面会に訪ねるたびに金や飲食物の差し入れをせがまれたことだ。

「お金と甘い物入れて。お金は多めに、甘い物は何品か。大福餅があったら、大福餅がええな」

このように差し入れをせがんでくる時、伊能は悪びれる様子が無いばかりか、ニンマリと笑みさえ浮かべ、「取材に応じたのだから、差し入れてしてもらって当然」といった雰囲気を漂わせていた。きっと人の物を奪うことにも罪悪感を覚えない人間なのだろう。

最高裁で無期懲役が確定した際、伊能から初めて手紙が届いたが、案の定、金を無心する内容だった。死刑を免れ、今は東日本の某刑務所で無期懲役刑に服している伊能だが、自分の罪を悔い改めることは永遠にないだろう。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

最新刊!月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈後編〉

《わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである》

いきなりの引用で恐縮であるが、横山茂彦さんのわたしに対する天皇制観のご意見である。横山さんは「賭けてみたい」と表現されている。わたしの根本的な疑問は、これまで達成された試しもないことに、どう考えても窮屈さを増す言論状況の中で、「なにをどう賭ける」と横山さんが主張なさっているのか。まったく訳が分からない。「賭ける」ときには持ち札なり、持ち手が必要だ。文脈からすると「皇室の民主化」が横山さんによる「賭け」の持ち札と想像されるが、わたしには見当違いとしか思えない。

それから1月27日の横山さん稿は、随分広範囲に議論が展開されている。そのなかではわたしがまったく主張していないことが、あたかも私の主張のように展開されている(一度に多くの論点を詰め込むと議論がわかりにくくなるのではないだろうか)。まず《田所さんは「左翼」をこう定義するという》と横山さんは勘違いしておられるが、わたしは自分の定義ではなく、一般的な理解に近いものとして「Wikipedia」からその定義を引用していると明示している。左翼の定義はわたしの定義ではない点はまずご確認いただきたい。

そのうえで、横山さんの元号への親和感と天皇制についての諸議論に移るのであるが、どうしてわざわざこのような問題で、わたしが取り上げてもいない、議論にまったく関係のないネット上の、どうしようもない書き込みなどを引用なさるのであろうか。

《「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇 日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが》「便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが」ではなく、本通信での議論とまったく無関係な「便所の落書き」(横山さんの表現)を持ち出す必要がどこにあるのだろうか。かとおもえば、急に、《天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう》

と、至極真っ当な指摘が出てくるので、わたしは混乱する(読者も混乱するのではないだろうか)。わたしは天皇制専門の研究者でもないし、限られた命の時間をこれ以上無駄に使おうとは思わない。わたしなりに天皇制や元号については一定の結論が出せている。

《昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた》

総論違います。昭和天皇の戦争責任議論については、このような曖昧な濁しかたでは到底浅すぎる。横山さんは昭和天皇の戦争責任についてはどのようにお考えなのかをまず明確にして頂きたい。わたしは「生きて虜囚の辱めを受けず」と大元帥の立場から下級兵士に強制し、侵略戦争敗戦の挙句、天皇制とみずからの命乞いのために、マッカーサーに泣きついた、極限的に無責任で許されざる人物としか理解できない。横山さんは皇室に親和感を持っていらっしゃるので、それに続く人物の評価が上記のようになるのかもしれないが、極めて重大な事実誤認(あるいは横山さんが事実を御存知ないのかもしれない)がある。

それをここで書きたい。が、書けない。なぜか。いくら「タブーなき」鹿砦社のメディアであっても、「そのこと」を書けば、「そのこと」が事実であっても、鹿砦社業務に支障が出たり、わたし自身の身に危険が及ぶ可能性があるからだ(横山さんのメールアドレスは存じていますので、「そのこと」が「なに」を指すかを私信でお伝えするのはやぶさかではありません)。

そして「左翼は軍備を否定しない」との主張でずいぶんいろいろなことを論じていらっしゃる。違う。左翼であろうが右翼であろうが、日本国憲法を小学生程度の日本語力で読めば日本国は軍備を持てないのだ(一般に左翼が軍備や軍隊を否定しないどころか、革命にはほぼ「実力部隊」が必要であることを知ったうえで申し上げる)。だから財政問題を論じるのであればどうして軍事費(防衛費)削減に言及しないのか、との疑問がわくだけのことだ。蛇足ながら憲法9条をもう一度確認しよう。

《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。》

天皇制が1条から8条までで規定されている次の9条が、いわずもがな上記の文言だ。横山さんの、
《わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう》

には賛成できない。なぜならば、現状はもっとひどい「違憲状態」であるけれども、横山さん案だって「早期哨戒と地対空ミサイル部隊」を認めている点で「違憲」であるからだ。簡単なことだ。けれども日本人(日本人だけではないかもしれない)は、成文の最高法規があって(小学生程度の読解力があれば理解できる簡易なことばであらわされて)も、平気でそれを無視し、正当化する不思議な思考の持ち主だということである。この点わたしは深く「絶望」し続けているし、横山さんの主張にまたがっかりさせられた。

横山さん。わたしは、なまじ根拠のない「希望」を語るより、事実を見据えてしっかり絶望しているほうが、小なりといえども意見を発する者の態度として真摯であると考える。しかし「絶望」は横山さんが意味するような「あきらめ」ではない。「絶望」が深ければ深いほど、光明への渇望もまた強くなるのであり、わたしは「なにもかもあきらめよう」などと主張しているのではまったくない。逆だ。

だから「左翼は軍備を否定しない」の論旨はわたしにたいするものであるとしたら、ひどく筋違いである。わたしはいま、この国の法的規定を前提に議論しているが、わたしの考えと法体系はかすりもしないほど相いれない。いずれにしても論点を絞りましょう。

[関連記事]
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◎横山茂彦-ポピュリズムの必要 ── 政治家・山本太郎をめぐって
◎田所敏夫-政治家・山本太郎に危険性を感じる理由を再び──横山茂彦さんの反論への反論
◎横山茂彦-天皇制(皇室と政治の結合)は如何にして終わらせられるか
◎田所敏夫-天皇制はそんなに甘いもんじゃないですよ── 横山茂彦さんの天皇制論との差異
◎横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える
◎田所敏夫-山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈前編〉

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈前編〉

きょうは『建国記念日』だ。どうしてこの日が『建国』の記念日なのだろうか。本原稿がこの日に(予定したわけではないが)掲載されることを契機に、その理由をお調べいただくと(御存知の読者が多数であろうと拝察するが)、以下の文章をおわかりいただく一助になるかもしれない。

本通信で横山茂彦さんから数度にわたりご教示を頂いている。勉強すべき点と、なかなか理解ができない点、あるいは明らかにわたしと意見が違うであろうと思われる点などが混在しているので、いま一度わたしの考えを整理して生産的(?)な議論となるように、方向が誤っているのであれば修正を試みたい。

まず横山さんは、わたしが「議論を逸らしている」と指摘されている(1月27日付け横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える)。議論を逸らすつもりは毛頭ないので、わたしの思考が浅いか文章表現力が不充分である可能性もあるが、再度この箇所を確認する。横山さんは、

《わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる》

と指摘されている。そうだろうか。わたしは自分の見解を明らかにする前段の説明として、横山さんが安倍晋三の演説力を例示なさったので、それには同意できなかったから、小泉純一郎と橋下徹を挙げたまでで、これが主張の中心部分ではない。横山さんは、

《なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない》

と評されている。わたしが指摘したのは「演説力」の持ち主として橋下を挙げたまでで、政権を取る人物かどうか(そうでないことを願うが)はまったく念頭になかった(横山さんも「政権を取る人物か否か」ではなく「政治」を論じておられたと思うので、わたしに対する「的外れ」の指摘が、しっくり理解できない)。余計なことかもしれないが、橋下は「政治家引退」を表明しながらいまだに明らかな影響力を持ち、とくに大阪(大阪だけではなく関西といってもいいかもしれない)においては、いったん否決された「都構想」の住民投票が再び行われること、そして前回は反対に回った公明党も実質大阪維新に乗り換えたことは、横山さんも御存知だろう(ちなみに大阪市議会・府議会の「維新」、「自民」、「公明」三党の議席占有率が9割を超える事態である)。

さて、議論の中心となっている山本太郎評についての部分である。横山さんは、

《「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ》

と解釈なさる。意味は理解できる。しかし表現のありようは文字で現わされるものばかりではない。山本太郎はもう「普通の政治家」ではないとわたしは感じる。「それなら俺に権力をくれよ!」と怒鳴っている姿は、「意味」としては「政権を任せてほしい」と解釈可能でもあるが、映像を見る限り、その怒気と発語するタイミングなどは、かつての彼を知る身からすると、随分と違和感を感じざるを得ない。これはわたしの率直な「感想」だ。あの変容ぶりに「政治の本質はゲバルト」であるにせよ、薄気味悪い危険性を感じる。

それから横山さんが主張された「政治は独裁である」とのテーゼに反論しない、というわたしの意見は、「プロレタリア独裁や現実の政治で『独裁』が歴史的にも行われた」ことを了解するが、それをもって「民主主義」を掲げる今日の日本で堂々たる「独裁」は具合が悪くはないか、という疑問である。実態は既に「独裁」だ。自公政権などといっても、野党に明確な反対勢力もなく、小選挙区制度を続けている以上、この国の政治風土上「独裁」は既成化しているし、この先も続くだろう。選考制度の変更なしに「独裁」から抜け出す道はないだろうし、わたしは「独裁」をまったく好感しない。

そして、わたしが山本太郎は「左翼ではない」と主張したことに、横山さんは違和感をお感じのようである。わたしは、中核派まで選挙運動に参加させ「脱被ばく」を掲げて当選した山本太郎氏の当初の主張を「左翼」(日共に象徴的な「旧」左翼か新左翼かは別にして)あるいは「左派」であろうと考えていた。その後彼の主張は徐々に変化するのである。変化するのは仕方ない。

しかし変化したのであれば、過去の主張のどこがどう間違っていたのかくらいは、平易な言葉で話す山本太郎氏であれば、わかりやすく解説してくれよ(「総括」という言葉はあえてつかわない)と思う。なぜならば、わたしは、山本太郎氏が公約に掲げた「脱被ばく」はいまでも喫緊の課題であると考えるし、それを後退させる理由がまったく見当たらないからだ。

少しわき道にそれる。自覚してわき道にそれる。山本太郎氏に限らず、わたしたちにとって、議論や討論するうえで(つまり「政治」の場において)、もっとも優先順位を高くおかれるべきテーマは、どのような課題であろうか。わたしは「命にかかわる問題」だと認識する。原発4機爆発という人類史上初の事故(事件)は、政府ですらが「首都圏から3000万人の避難を迫られる可能性」を試算していた。その危険性は横山さんも、かねてより御存知の通りである。地震の活動期に入ったこの島国において、原発停止(廃止)は、理性的に考えれば、あらゆる政治課題に優先するとわたしは感じる。もちろん、消費税廃止にも、奨学金支払い免除も悪い政策ではないが、それらはすべて「この国が存続する」ことを前提にした議論ではないのか。

繰り返すが、考えが変わったのならばそれでよい。山本太郎氏は「わたしは昔のわたしではありません」とひとこと宣言すべきではないか。彼は当選直後の記者会見で述べている。

「裏切るなんてあり得ないですよ。この人たち(選挙事務所に詰めかけたボランティア)に殺されますよ」

少なくとも人柄ではなく「政策」に賛同したひとびとに「変わったのであれば、変わった」と説明する必要があることを彼は知っていたのだ。その程度の要求でも不当だろうか。

さて、元号や天皇制についてである。横山さんとわたしは「感覚」がまったく違うようだ。横山さんは、
《元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる》そうだ。

わたしは感覚的には一部理解できなくもないが、元号と天皇制の近代史で果たした意味を知れば知るほどに、嫌悪の念が増すばかりだ。幼少の頃、あるいは、ろくに世の中の成り立ちを知らない頃には、わたしも平気で元号を使っていた。それは「無知」であったからだ。わたしは元号に対して、少なくとも横山さんのように寛容にはなれない。次の横山さんの問いかけに、正直言えば「大丈夫ですか」と言いたいぐらいにびっくりもしている。

《個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい》

いちいち学者や研究者著作からの引用を持ち出さなくとも、元号が天皇制と直結していることに争いはないだろう。わたし個人の思いではなく、客観的事実として「元号は天皇制と結びついている」。これは間違いなのだろうか? 天皇制について横山さんは、

《むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)》

と仰天するような評価を披歴なさっている。仰天するといのは、横山さんが『情況』という雑誌の編集長だからだ。個人の意見としてそのように考える人がいるであろうことは知っているが、『情況』という雑誌の性質を、わたしは完全に誤解していたのかもしれない。天皇制のどこに「国民的親和性」があると横山さんは主張なさるのであろうか。「汎アジア主義」とはアジアへの侵略以外にどう理解すればよいのでしょうか?「ゲルニカ事件」や「日の丸君が代処分」事件などを引き合いに出すまでもなく!…いや、もうやめたほうがいいのかもしれない。

わたしは頭が悪いので、迂遠な表現が使えない。横山さんの主張を全力で理解しようと努力したが、やはり完全に無理だ。出来うることであれば安易な言葉でわかりやすく、ご教示いただければ幸甚である。今回の問いは1つにする。

「元号と天皇制は結び付いていませんか?」

(後編へつづく)

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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「西成あいりん総合センターをつぶすな」の闘いに新たな動き ── なぜ、センター仮庁舎付近だけ耐震補強工事をしないのか?

◆「仮処分決定」で、再び強制排除されるのか!

大阪市西成区、JR新今宮駅前の「あいりん総合センター」(以下、センター)で続く「センターつぶすな」の闘いに新たな動きがあった。センターは、昨年3月31日閉鎖予定だったが、当日抗議する仲間が多数集まり、閉鎖できなかった。4月1日以降、センターでは労働者、支援者らの自主管理を続けてきたが、4月24日、国と大阪府は機動隊を使い、暴力的に排除した。しかしその後も、シャッター外に作られた団結小屋を中心に「センターつぶすな」の闘いが続いている。

そんな中、2月5日の午後、大阪府の職員と大阪地方裁判所の執行官らが警官を多数引き連れセンターにやってきて、周辺に野宿する人たち一人一人に、「仮処分決定」の書類を渡し、テント前の敷地に「公示書」を釘で留めていった。

以下の写真はその1つだが、稲垣浩氏(釜ヶ崎地域合同労組委員長)以下15名の名前が掲載されている。大阪府と裁判所は、すべてを稲垣氏のせいにする気なのか?

野宿者の寝床の前に釘で打たれた公示書
同上写真にある公示書(拡大)

◆「センターつぶすな」住民訴訟で明らかになった「南海電鉄」の杜撰な安全管理

「センターつぶすな」の住民訴訟(公金違法支出損害賠償等請求事件)の第6回期日が、2月3日大阪地裁で開かれた。この裁判は、センターの建て替えに伴い、南海電鉄高架下に作られたあいりん職安と西成労働福祉センターの仮庁舎の建設費用が、適正か否かを争うものだ。原告はこれまで、仮庁舎が、安全性が保証されない南海電鉄高架下に建設されたこと、しかも工事が「入札」でなく、合理的な理由がないまま、南海辰村建設と随意契約したことの違法性などを主張してきた。

前回原告が、大地震が起きた際、南海電鉄が倒壊する危険性について主張したところ、何も答えられない被告・大阪府に対して、裁判長が「上に電車が走っているので大丈夫でしょう」などと助け船を出す場面があった。裁判長は、25年前の阪神淡路大震災で起きたことを知らないのだろうか? そのため、今回弁護団は、25年前の阪神淡路大震災で、高速道路が倒壊するなどの甚大な被害が発生したこと、その後運輸省(当時)がまとめた「緊急耐震補強計画」の提言と通達、そうした耐震工事が南海電高架下の仮庁舎でも実施されなければならなかったと主張する「第4準備書面」を裁判所に提出した。

阪神淡路大震災で倒壊した高速道路
阪神淡路大震災で倒壊した鉄道高架橋

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災は、震度7、マグニチュード7・3、死者は6,434人にのぼった。書面には、この地震により、多くの建物が倒壊した。更に阪神高速3号神戸線の鉄筋コンクリート橋脚が倒壊したり、山陽新幹の高架橋が8ケ所、在来鉄道では24ケ所が落橋したこと、東海道本線でも甚大な被害が出たことを当時の写真とともに記されている。

運輸省(当時)は、震災の翌日、鉄道施設耐震構造検討委員会を設置し、7月26日「既存の鉄道構造物に係る耐震補強の緊急措置について」をとりまとめた。またこの方針に基づき、既存の鉄道構造物の緊急耐震補強計画の策定などを、全国の鉄道事業者へ通達し、その運用について指導した「解説」を出された。その「解説」によれば、阪神淡路大震災の被害の特徴は、高架橋の柱などが「せん断破壊」をおこし、高架橋が落橋したことにあるとして、緊急措置として、構造物の崩壊を避けるための耐震補強を行うこととした。被害の多かった京阪神地域を優先的に対処したうえで、新幹線、輸送量の多い線区(ピーク時、1時間の列車本数が10本以上の線区)などを対象にするとされ、実施期間はおおむね5年とされた。

ただし、高架下については「間仕切り壁」などの設置により耐震効果のある構造になっているものなどについては、対象外とするとされた。補強方法としては、鋼板巻き立て工法などがあげられていた。

◆なぜ、センター仮庁舎付近だけ耐震補強工事をしないのか?

では仮庁舎が入る南海電鉄高架下はどうか? 税金7億5千万円を投入した仮庁舎で、開業から2ケ月後雨漏りが始まったことは、これまでここで紹介してきた。構造物にどのような欠陥があるのだろうか?

南海電鉄は、25年前、運輸省から受けた「通達」に基づき、耐震補強工事を実施しなくてはならない線区に該当していたが、おおむね5年とされた期間を2十年近く過ぎて、最近ようやく難波駅と今宮戎駅の間や、萩之茶屋駅の南側で「鋼板巻き立て工法」による耐震補強工事を実施した。しかしその工事が、仮庁舎付近では行われていないのだ。

被告・大阪府は、その理由を「その場所は耐震補強の対象外である」と反論してきた。「まちづくり会議」で、南海電鉄の耐震性に疑問の声があがった際も、識者は「南海に確認したところ、今回仮移転の検討を進めている場所は、耐震化の対象外」と返答していた。データなどの提示を求めた委員に対して、府の職員は「南海電鉄を信用できないのか?」と言い返す場面もあった。

◆二重に危険な仮庁舎に労働者を閉じ込めるな!

何故センター仮庁舎付は対象外なのか? 25年前の通達では、間仕切り壁などが設置され、耐震効果がある場合は対象外とある。しかし、仮庁舎が建設される際、間仕切り壁は撤去されている。センター建て替えに反対し、連日工事現場を監視していた稲垣氏も、それを確認している。高架下で間仕切り壁を撤去して商店などにしていた個所は、この間順次「鋼板巻き立て工法」で耐震補強工事を行っている。

現在、仮庁舎がある高架下は、二重の意味で危険だということ。つまり、仮庁舎建設のために、間仕切り壁などを取り払ったことで耐震補強の対象外でなくなったうえに、耐震効果のない仮庁舎を建設したことで、鋼板巻き立て工法による耐震補強工事ができなくなってしまったからだ。

こうした理由からも、あいりん職安と西成労働福祉センターの仮移転先を、南海電鉄高架下に選んだことは、不適切だったことは明らかである。

2月3日の裁判では、この点について、南海電鉄に対して、調査を求めるための「調査嘱託申立書」を提出、裁判官はこの申し立てを認め、大阪府に回答を提出するよう求めた。

◆さらに秘密会議化する「まちづくり会議」

1月27日、西成区役所で再開された「まちづくり会議」(労働施設検討会議)でこんなことがあったと、委員の稲垣氏が組合ビラで報告している。「ところでこの日、全委員が受け取った資料の中に、センターつぶしに加担する学者を含め約20人のまちづくり会議のメンバー他が、今年1月8日に、沖縄県那覇市にあるグッジョブセンター沖縄(就労支援の窓口)に見学に行ったときの報告書(A4の紙の裏表に書かれたもの)がありました。見学には朝日新聞の記者まで同行していました。釜合労はそんな見学があったことを知りませんでした。

会議の終わりころになって、見学に参加した白波瀬桃山学院大学社会学部准教授がこの報告書について説明をおこないました。説明を終えた後、白波瀬氏がこれは公表しないでほしいという意味のことを言い、その理由として『相手方に了解を得ていないから』というので、釜合労稲垣は『公表できないものは受け取れない』と言って持ち帰ることを拒否しました。すると白波瀬氏が稲垣の座る席まできて、返すように言って手を差し伸べてきたので、その報告書を返し、『この会議は秘密会議ではない。公表できないなんておかしい』と強く抗議し退席しました。過去47回会議がありましたが、公表してはならない資料が配られたことは、釜合労が知る限り一度もありません」(2月3日付け釜合労チラシより抜粋)

どういう目的のツアーだったか、お金はどこから出たか、あるいは自費なのかなどは不明だが、表に出してはならないような資料が出るなど、まちづくり会議がますます「秘密会議化」していることだけは明らかだ。「誰も排除しない」ではなかったのか?

全国の皆さんには、改めて釜ケ崎がどうなっているかにご注目いただきたい!

センター北側に作られた毛布箱には、全国から毛布が送られている

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。月刊『紙の爆弾』2020年1月号には「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」を、『NO NUKES voice』22号には高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
『NO NUKES voice』22号 尾崎美代子の高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」他

新型コロナウイルス肺炎に閉じ込められた、クルーズ船乗客たちの不自由さ ── 今後危惧される拘禁性ノイローゼ(拘禁病)と基礎疾患での重篤化

2週間の拘束となっている豪華クルーズ船ダイヤモンドプリンセスの乗客、3,771人(乗員1,000人余をふくむ)から、新たに3人の感染(累計64人)が判明した。濃厚接触者273人のほかに、70歳以上の乗客(1,000人)には、再検査が行なわれているという。

バカンスのためにクルーズしていたのに、まるで罪人のように船室に拘禁されるとは、乗船している方々に同情するしかない。報道によれば、船内感染を予防するために、船室から出ることも禁止されているという(窓なし船室の客だけデッキに出られる措置となった)。また、香港でも別のクルーズ船(3,000人乗船)に乗客の下船が禁止されている。日本政府は新たなクルーズ船の入港を拒否する方針だという。

2週間の経過観察の場合に心配されるのは、拘禁性ノイローゼ(拘禁反応)である。拘禁病と総称され、症状は多岐におよぶ。女性の場合はほぼ例外なく無月経となる。

わたしの経験(三里塚闘争で1年間の拘置)では、同じ被告(公判グループ約50人)のうち、2人にこの症状が出た。ひとりは吃音(持病)が恒常化し、公判廷で陳述書を読むのに苦労していた。獄外では人に対する指示も明快で、よく喋るほうだった人が、保釈後もまるで別人のように寡黙になったのを記憶している。

もうひとりは、ちょっとマズい感じというか、拘禁障害がヘンなかたちで現出した。おそらく無意識だろうと思われるが、近くにいる女性に抱きついてしまうのだ。弁護士をまじえた被告団会議で、相被告の女性に抱きついてしまった。襲いかかるという表現があてはまる感じで、その人の仲間(同志)から「女性差別行為」だと断定されたから困ったことになった。左翼運動の場合、たんなる痴漢行為が「差別」とされる。女性の政治的な決起を抑圧する行為、というのがその内容である。

年長の相被告(他党派)から「病気なのだから、治療の方向で考えるべき」という意見も出たが、とりあえず女性から離れた場所に座らせるなどの処置がとられたのだった。確信的な政治犯においてすら、自由を拘束された人間がいかに苛酷な精神状態に置かれるか、それは死刑囚における心神耗弱などにも類例は多い。重篤なウイルス感染かもしれないという不安、部屋から外出できない乗客たちが心配である。

ところで現在、乗客たちがクルーズ船に留め置かれているのは「船長命令」だという。感染者と診断された人は指定感染病罹患者として強制入院させることができるが、感染が特定されない乗客は「身分」が不確定なまま、14日間の経過措置ということになるのだ。しかも客船であることから、公海上・接続海域・領海という法的な区分で主権のおよぶ範囲が決まってくる(公海上ならイギリス)。現状では日本国の要請で、イギリス人(船籍はイギリス・船主はアメリカ)船長が命令を発しているという法的な状態なのだ。

しかし船長の命令権が船舶の安全な航行に関するものである以上、行動の自由(基本的人権=不当な拘束を受けない)と対立するのは明白で、乗客が船を降りようとすれば、これを阻止する法的な根拠はない。にもかかわらず、乗客を船内に停留する政府の方針に、病人は隔離するという発想があるのではないか。乗客は大半が高齢者であるという。持病をかかえ、常用薬が足りなくなっている人もいるという(優先的に搬入方針だと報じられている)。持病を持っている感染者が死亡に至るケースが増えているという。

感染とは別個に拘禁性の病状が出る前に、感染がない人たちは自宅に帰すべきではないだろうか。船内に留めて感染者が増えることをやむを得ない前提として、船外(一般社会)に出さないというのなら、それは棄民の思想である。ハンセン氏病の例にあるとおり、日本社会には病人を隔離する精神的な風土がある。

現段階では、インフルエンザに比べるとはるかに感染力は低く、症状の重篤性(死亡率)も低いとされている。症状が出ない症例があることから、危険なのだというのはウイルスが新型だからであって、ぎゃくにいえば基礎疾患がなければ無病状で終わるということでもあるのだ。ホテルでの隔離もふくめて、もはや拷問のような「船内拘置」はやめるべきではないか。


◎[参考動画]米国人乗船客の対応は日本政府に一任…米政府、判断(ANNnewsCH 2020/02/08)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
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マイ・センチメンタル・ジャーニー〈6〉 2月1日が来たら思い出す(後編)── 私の闘いの〈原点〉 鹿砦社代表 松岡利康

前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。

72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。  

71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)

三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。  

『われわれの革命』表紙

そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。

以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。

前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。

9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。

6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。

71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)

「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。 

沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。

さて、学費闘争に話を戻しましょう。──

11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)
「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。

一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。

当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。

そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。

正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。

まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。

「賽は投げられた!」── もう後には引けません。

毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。

入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。

2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)
2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕

さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘
2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。

120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。

連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。 

「被告団通信(準)」

裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。

起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。

明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。

ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文

M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。

有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。

実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。

被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。

ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
 

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。

(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』
板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

《鹿砦社特別取材班座談会》「カウンター大学院生リンチ事件」の「終結」について

 
リンチ直後の被害者大学院生M君

松岡 ご苦労様です。われわれが「カウンター大学院生リンチ事件」と呼び、巷間では「しばき隊リンチ事件」と呼ばれる、大学院生M君に対するリンチ事件で、ようやく確定判決で認められた賠償金が、金良平氏の代理人に就任した神原元弁護士からM君の代理人大川弁護士に振り込まれました。当初の代理人は別の弁護士でしたが、今年になり、なぜか代理人が交替しましたけど、まずはこの事件の一つの区切りといえるでしょうから、きょうは皆さんの意見や感想も聞かせてください。

A  ともかく、お疲れさまでした、が正直なところですわ。判決内容はともかく賠償金が支払われへんのちゃうか、って本気で心配しよりましたよってに。

B  難しいですよね。これで法的には一応終わったわけですよね? 私は本質的なところでは何も終わってはいないと思っていますが……。

C  M君の事件はね。でも鹿砦社は対李信恵第2訴訟(李信恵氏が原告となった進行中の裁判、第1訴訟は鹿砦社が原告、李信恵氏が被告で既に鹿砦社の勝訴が確定。第2訴訟は第1訴訟の反訴として提起されたが、取り下げ、あらためて別訴として提訴された)と、対藤井正美訴訟を抱えているから、終わりとはいえないよ。

D  長かったですよね。誰が管理してるのか知らないけど「支援会」の活動には頭が下がりました。

松岡 支援会は私が責任を持つ形で、少人数で運営しています。口座は既に閉鎖しましたので、遠からず会計報告ができるでしょう。

B  結局「支援会」のメンバーは最後まで僕らにも秘密でしたね。

松岡 秘密主義じゃないですよ。最低限の人数で動かしただけです。お金が絡む問題でもあり、口座は大川弁護士に管理していただいていたことをTwitterでも公表していました。いまだに会計報告をしないで少なからずの方々から首を傾げられている、どこぞの支援会と違い、私たちは1円のお金も飲食には使っていませんし、厳密に管理してきました。また、鹿砦社はM君裁判とは別に、李信恵氏や藤井正美らと訴訟を行っていますが、こちらにはもちろんですが、1円も使っていません。鹿砦社関係は鹿砦社の資金から裁判費用を出しています。

リンチ直後に出された金良平(エル金)[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

C  これまで5冊だったっけ? この事件に関して出した本。最後にまとめみたいなことは必要だと思うな。

松岡 そうですね。今は緊急出版をいくつか抱えてきましたので後手になりましたが、早い時期に取り掛かりたいところです。

A  何年になるんやろ? まだ最初の頃、僕30歳やったもん。

B  もうすぐ4年やね。Aは突撃で下手ばかり打ってた(笑)。

A  そんなん、いきなり「国会議員Aのコメントとって来い!」言われても、東京の地理も知らん大阪人にできるもんちゃいますよ。

C  30歳超えてなにを甘っちょろいこと言ってるんだ!って怒ったよな、俺。

B  新聞や出版の経験があるのにね。たしかにAの詰めはいまだに甘いわ。

A  ……。

D  結局、僕らが問いたかったことが世の中に訴求したかどうか、その点は気になりますね。

C  最後はいつもそこで頭悩ますよね。でも、事実関係は確実でどこのマスコミも切り込まないアングルを維持したから、それは重要なことだったと思うね。おそらく、われわれがやらなかったら闇に葬られていたんじゃないかな。だってそうだろう、われわれが知ったのは事件から1年余り経っていたからね。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

B  そうですよね。不思議なのは後追いがまったくなかったことですね。世間で「リベラル」と言われている人で応援してくれた人といえば……?

A  元読売新聞記者の山口正紀さんくらい違います? あとは黒藪哲哉さんくらいやろか? 先頃亡くなった、『週刊金曜日』発行人だった北村肇さんら、ほんの一握りの方々ですよね。山口さんにしろ黒藪さんにしろ、当初はご存知なく、関心持たれたのは、われわれが資料を添えて説明してからですよね。『週刊金曜日』内部ではささやかれていて、北村さんは少しご存知のようでしたが、事件が起きた大阪と、遠く離れている東京では、事件に対するスタンスも温度差があって、われわれが事件を知って深刻になったのとはまた違う感じだったようです。

D  逆に想定外の「義絶」が相次ぎました。

C  そうそう。田所さんの「辛淑玉への決別」(田所敏夫「辛淑玉さんへの決別状」)にはじまり、社長の鈴木邦男への義絶(松岡利康「【公開書簡】鈴木邦男さんへの手紙」)へと。

A  社長の鈴木さんとの仲違いは、業界では話題になりました。

C  ちゃんと言葉をつかえ!「仲違い」じゃない!「義絶」だ、A!

A  あっ、すいません。

B  相変わらず詰め甘いな。

D  「踏み絵を踏ますな」という人もいたけど、そうじゃなかったですよね。「これ見てどうも思いませんか?」が僕らの原点。

松岡 最初に事件直後のM君の写真を見た時、単純に「これは酷い」と思いました。これが私の出発点でした。すぐに田所さんに連絡し、「これは黙っていたらアカン」と一致しました。まさか、こんなにたくさんのライターさんにお世話になって、5冊も出版することになろうとは思いませんでした。

B  社長を動かしてる動機ってなんなんでしょうか?

松岡 今も言ったように「これは酷いな」という単純なことですよ。もう少し込み入った事情もないわけではありませんが、そのあたりに興味のある人は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』を読んでください。

A  読みました。ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の死体洗いの話、びっくりでしたわ。

松岡 Aさんは私の原稿も読んでくれましたか?

A  はぁ。読んだんですけど、ちょっと難しくて……。

C  しっかりしろよ!

松岡 私は学生運動や社会運動内部で繰り返されてきた暴力の問題、いわゆる内ゲバやね。それを長年考えてきていて、かつて作家の高橋和巳先生らが警鐘を鳴らしたのに軽視され、多くの犠牲者を出しました。「まだこんなことやってるんだ!」という義憤もあったね。いわゆる内ゲバでは、私の行った大学では2人亡くなっていますし、亡くなりはしませんでしたが、あるノーベル賞作家の甥っ子の先輩が、一時意識不明になったり。なによりも私も「ゲバ民」と言われた共産党の集団に襲撃され病院送りになったことなどが悪夢のように甦ってきたりしてね。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の後のほうに掲載している長文の拙稿(草稿)は、そうしたことについて、私なりに考え、書き連ねたわけです。

B  ともかく最後にまとめの、もう一本出すということですね。

D  新たな取材予定があるんだったら、社長早めにお願いします。

松岡 それは秘密です。

一同  えっ! まだあるんですか!

松岡 当たり前じゃないか。冒頭に述べたように、賠償金が払われ訴訟実務としては終結しただけで、本質的な問題は、まだ何も終わっていないんでね。特に、普段は元気がいいのに、この事件について質問したり取材すると、沈黙したり逃げたり開き直ったり隠蔽に加担したり豹変したり……「人間としてどうなの?」と言わざるをえない、いわゆる「知識人」の狡さに対しては徹底的に追及、弾劾しなくてはなりません。私のことを「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」と侮辱した徒輩がいましたが、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」にも意地がありまっせ!

D  社長、若手使ってくださいね。俺もうフットワーク効かないし。

松岡 心配しないでください。無理は言いますから(笑)。この件だけでなく数々の直撃取材を成功させたHT君のような根性が欲しいよね。

B  これだから鹿砦社は……。

C  そうそう、忘れないように。M君から取材班にも「くれぐれもよろしく」ってメッセージありましたよね。

C  M君もこれを区切りに新しい未来を切り開いてほしいね。

B  きっといいことありますよ。

松岡 そう思います。自分で言うのも僭越ですが、何度も地獄に落とされたながらも浮上した私のように、人生、悪いことばかりではなく、きっと良いことがあるよ。M君も、国立大学の博士課程まで進んだ秀才だし、研究課題も、日本では珍しい分野なので、彼が必要とされることがきっと来ると私は信じています。アントニオ猪木じゃないけど、「苦しみの中から立ち上がれ!」と言いたいね。皆さん、あと少しよろしくお願いします。

A  社長、次あるんだったら、ちょっと前借りできまへんやろか?

松岡 それではAさんにはもうお願いしません。

A  キツー。

B  Aよ、HT君のように前借りできるくらいに仕事しろよ。

A  あっ忘れとった。こんなんあるんですけど。

C  お前なんで今まで出さなかったんだ! これ超ド級の資料じゃないか!

B  おいおい! また大騒ぎだぞ!

松岡 これはびっくりしました。使えますね。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

《死刑破棄殺人犯の実像1》真顔で「政府の陰謀」を訴えた淡路島5人殺害犯

2015年の淡路島5人殺害事件で殺人罪などに問われた被告人・平野達彦(45)の控訴審で、大阪高裁は1月27日、「被告人は犯行時、妄想性障害により心神耗弱状態だった」と認定して刑法39条を適用し、一審・裁判員裁判の死刑判決を破棄、無期懲役を宣告した。裁判員裁判の死刑判決が控訴審で破棄され、無期懲役に減刑されたのはこれで7例目となった。

この現象に関しては、「裁判員裁判が形骸化する」などの批判的な意見が多いが、死刑を破棄された殺人犯たちは一体どんな人物なのか。筆者が実際に会った3人の素顔を3回に分けて紹介する。第1回目は、死刑判決が破棄されたばかりの平野達彦。

◆裁判員裁判では、「責任能力はある」と判断されたが・・・

事件を起こす前、SNSで「政府の陰謀」を告発していた平野

平野が事件を起こしたのは今から5年前、2015年3月16日のことだった。兵庫県・淡路島の小さな集落で生まれ育った平野は当時40歳。精神障害による入通院歴があり、事件を起こすまで長く実家で引きこもり生活を送っていた。

そんな平野がこの日早朝、近所の2家族の寝込みを襲い、計5人をサバイバルナイフでメッタ刺しにして殺害した事件は社会に大きな衝撃を与えた。そしてほどなく注目されたのが、平野がインターネット上に残していた「活動の形跡」だった。

「日本政府は何十年も前から各地で電磁波犯罪とギャングストーキングを行っています」

平野は事件前からSNSでそんな「陰謀論」を書き綴っていた。それと共に被害者たちの写真をネット上で公開し、「工作員」呼ばわりしたりもしていた。平野は精神刺激薬の大量服用を長期間続けたのが原因で、犯行時は薬剤性精神病に陥っていたのだ。

平野は2017年2~3月に神戸地裁で行われた裁判員裁判でも、「事件はブレインジャックされて起こした」「本当の被害者は私であり、私の家族。祖父も自殺に見せかけて殺された」などという特異な冤罪主張を繰り広げた。さらに事件前からネット上で訴えていた日本政府の「電磁波犯罪」を改めて法廷で告発したりした。

このように法廷で荒唐無稽なことばかりを言っていた平野だが、見た目はグレーのスーツと銀ブチめがねが似合う普通のサラリーマン風で、話しぶりも真面目だった。それだけに余計に異様さが際立っていた。神戸地裁の裁判員裁判では同3月22日、責任能力を認められたうえで死刑を宣告されたが、筆者は傍聴席から平野の様子を見ていて、正直、「壊れている」としか思えなかった。

◆死刑を恐れる雰囲気が全く感じられない理由は・・・

筆者が神戸拘置所で平野と面会したのは、平野が神戸地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けた翌日の朝だった。透明なアクリル板越しに向かい合った平野に対し、筆者は何より気になっていたことを単刀直入に質問した。

「平野さんは死刑が怖くないのでしょうか?」

筆者がこんな質問をしたのは、公判中に平野から死刑を恐れる雰囲気がまったく感じられなかったためだが、平野はサラリとこう答えた。

「私は電磁波攻撃という死刑以上のことを何年もされていますから」

電磁波犯罪とは一体何なのかと質すと、平野は「脳内に音やかゆみ、刺痛を送ってくるのです」と真顔で説明してくれた。では一体、誰が何の目的で平野にそんなことをしているというのか。

「“五感情報通信”というのをご存知ですか。日本政府はそのための人体実験として私に電磁波攻撃を行っているのです」

“五感情報通信”とは、電話やネットでは伝達できない触覚や嗅覚、味覚なども含めた五感すべての情報を伝える通信技術のことで、現在は国が中心になって研究を進めているものだという。「日本政府がその人体実験のため、自分に電磁波攻撃をしかけている」と、平野は本気で思っているようだった。

このように平野の話の内容は荒唐無稽だが、話の中には実在する人や企業、組織、団体もチラホラ出てきた。たとえば、上記の“五感情報通信”も国がそういう通信技術の開発を進めているのは事実だ。検察官は裁判で「被告人は自宅で引きこもる中、インターネットで情報を収集し、独自の世界観を築いた」と説明していたが、平野は実際、ヘヴィーなネットユーザーだったのだろう。

◆裁判で「精神障害」を主張した弁護士を批判

平野の死刑判決を破棄、無期懲役に減刑した大阪高裁

平野によると、事件を起こした動機は「刑事裁判をうけ、日本政府の電磁波犯罪を国内外に知らしめること」だったという。そんなことを大真面目に言う平野に対し、私は「弁護人は平野さんのことを精神障害だと言っていましたが、不満ではなかったですか」とも尋ねてみた。すると平野は「もちろん、不満です。私は精神障害ではないですから」と言った。そしてこう付け加えたのだった。

「弁護士は精神障害のでっち上げに協力したのです」

間違いなく平野は相当重篤な精神障害者だった。ご遺族は無念だろうが、事実関係を冷徹に見極めれば、「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」という刑法第39条第2項の規定を平野に適用した司法判断を否定するのは難しい。この件では、裁判官を批判している人が多いが、「平野のような殺人犯も死刑にすべきだ」と考える人が批判の対象とすべきなのは、刑法39条だ。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

7日発売!月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)