コロナ禍を挟んで2年ぶりの開催、第90回全日本学生キックボクシング選手権! 國學院大が18年ぶりの団体優勝! 個人戦も三階級とも制覇! 堀田春樹

全日本学生キックボクシング連盟は1972年(昭和47年)10月設立。来年には満50周年を迎えるアマチュアキックボクシング界の元祖として、現存する中では世界最古のキックボクシング組織となります。

昨年はコロナ禍の影響で、春からの大学交流戦が全て中止され、今年も夏まで大会数の減少や無観客大会など制限の中で開催。現在も部活動が制限され、練習再開の目途が立たない大学もあると言い、今年は5つの大学による大会となりました。

國學院大學が18年ぶりの団体優勝。個人戦も三階級とも國學院が制覇。

優勝=國學院大學
準優勝=中央大学
第3位=創価大学
技能賞=境田建志郎(國學院3年)
喜多川賞=青木幹太(國學院2年)
ベストバウト賞=菅原佑斗(國學院4年)、高岡大(國學院2年)
最優秀選手賞=安河内大樹(中央3年)

2021年度、団体優勝は18年ぶりの國學院大學

2021年度University Kickboxing Federationトーナメント決勝戦

ライト級チャンピオン 菅原佑斗(國學院4年)
フェザー級チャンピオン 青木幹太(國學院2年)
バンタム級チャンピオン 松長雄飛(國學院3年)

2021年度、三階級のチャンピオン
2021年度、個人戦の受賞者

◎第90回全日本学生キックボクシング選手権大会 / 11月27日(土)後楽園ホール10:00~13:47
主催:全日本学生キックボクシング連盟

U-1=3R、防具無し、一定の階級毎グローブ分け有(8・10・12オンス)
U-2=2R、ヘッドギアー、レガース、膝パット着用。全階級14オンスグローブ。

2021年度UKFチャンピオントーナメント決勝戦

◆第8試合 UKFライト級トーナメント決勝 3回戦 U-1

菅原佑斗(國學院4年)vs 高岡大(國學院2年)
引分け 0-0 / 主審:長谷川隆二
副審:古居30-30. 河野30-30. 千代田30-30(三者とも菅原佑斗を優勢支持)

蹴りからパンチの攻防。差が出ない展開も、菅原のハイキックが優勢を導く流れ。菅原佑斗が勝者扱いで優勝。公式記録は引分け。

◆第7試合 UKFフェザー級トーナメント決勝 3回戦 U-1

青木幹太(國學院2年)vs 堀雄太(中央2年)
勝者:青木幹太 / KO(RSC)3R 2:51 / 主審:小林利典

堀のパンチを受けて鼻血を流す青木は打ち返していくと、堀は次第にスタミナ切れか、組み合うと体勢悪く、ヒザ蹴りを受けてノックダウンを喫する。パンチと蹴りの攻防は続くが、青木が勢いに乗り、更に組み合った際、青木のヒザ蹴りを受け続けた堀はレフェリーに止められた。

[左]ライト級決勝 菅原佑斗vs 高岡大は互角の攻防 [右]フェザー級決勝 青木幹太がヒザ蹴りで圧勝

◆第6試合 UKFバンタム級トーナメント決勝

松長雄飛(國學院3年)が計量・検診をパスし、不戦勝優勝。
10月24日準決勝、寺西勇弥(東海1年)vs 大塚豊(創価2年)は寺西が棄権、大塚が計量失格で両者脱落

◆エキシビションマッチ2回戦

松長雄飛ex大塚豊
RSC 1R 2:35 /

決勝戦で対戦していたかもしれない両者は倒しに行く本気モードで、松長雄飛のパンチで大塚豊が2度のノックダウンで終了。

バンタム級制した松長雄飛がエキシビションマッチで大塚豊を倒す

◆OBエキシビションマッチ 2回戦(2分制)

RISEライト級1位.秀樹(創価大学出身)
2012年UKFフェザー級王者、2013年UKFライト級王者、
K-1 REVOLUTION FINAL -65㎏級世界王者
EX
RISEスーパーフェザー級6位.常陸飛雄馬(東海大学出身)
2016年UKFフェザー級王者、2017年UKFフェザー級王者、
2018年 第1回世界大学ムエタイ選手権大会日本代表

プロらしさが見られたテクニックと重みある蹴りとパンチの交錯。

恒例のOBによるエキシビションマッチはRISEで活躍する佐々木秀樹と常陸飛雄馬
最優秀選手賞の安河内大樹は右ストレートで圧勝

以下、大学交流戦

◆第5試合 ウェルター級 2回戦 U-2

安河内大樹(中央3年)vs 田中良弥(拓殖2年)
勝者:安河内大樹 / TKO(RSC) 1R 0:17 /

開始早々、蹴りから接近し打ち合う中、連打から左フックヒット

◆第4試合 ライト級 2回戦 U-2

田中冴樹(創価3年)vs 川島京太郎(拓殖3年)
引分け 0-1 (18-20. 20-20. 20-20)

◆第3試合 ライト級 2回戦 U-2

三須脩平(國學院2年)vs 相原寛人(拓殖2年)
勝者:三須脩平 / 判定2-1 (20-19. 20-19. 19-20)

◆第2試合 ミドル級 2回戦 U-2 

境田建志郎(國學院3年)vs 清太陽(東海1年)
勝者:境田健志郎 / 判定3-0 (20-17. 20-17. 20-17)

◆第1試合 バンタム級 2回戦 U-2

大畑寛太(創価1年)vs 福島智洋(拓殖1年)
勝者:大畑寛太 / 判定2-0 (20-19. 19-19. 20-19)

「K-1 FIT FIGHT」拓殖大学フィットネスチームによるデモンストレーション

《取材戦記》

OBによるエキシビションマッチ出場した佐々木秀樹のセコンドは、赤ちゃんを背負った奥様が付き、ドラマになりそうな珍しい光景だった模様。それに気付かなかった私は撮っていなかった。観察力不足であった。

学生キックでは大方は4年間で終わってしまう大学生活で、4年生は卒業と就職に向けた活動に入る為、3年生でキックボクシングを辞める選手が多いようですが、早々に就職などの進路が決まると、4年生になっても続ける選手も居るようです。

試合出場した選手の一人に、卒業したらプロに行く気はあるか聞いたところ、「勿論就職です。プロには行きません。」という回答。当たり前ながら就職後は「キックは大学生活の想い出」で終わるのが普通なのでしょう。

たまに卒業後、数年経ってからプロデビューする者もいるらしく、やっぱり忘れられないキックボクシングの魅力に導かれる選手もいるようです。

昭和50年代はプロ興行のリングサイドに黒制服を着たパンチパーマの学生キックボクサーが集団で座っていたのを見たことありますが、見た目は怖かった思い出。今やこちらが歳取った上、皆優しい大学生なので、親しみ易さがあります。

大会役員にはオヤジファイトのキック版「ナイスミドル」代表の大森敏範氏や、62歳でナイスミドルに出場している元・日本ライト級チャンピオン飛鳥信也が運営を担っています。皆、キックボクシングに関りが深い人生。その飛鳥氏のお誘いを受け、些細ながら取材している次第でした。

来年は従来通り、大学交流戦を経て第91回選手権大会が開かれるようコロナの収束を願いたいものです。

ラウンドガールを務めた学生2名もリングを飾った

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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「代行主義」を克服し、「サラダ・ボウル」で個々が輝く運動を! 女性ユニオン東京、ACW2(はたらく女性の全国センター)の伊藤みどりさんインタビュー 小林蓮実

「この人、自他の区別がついてないんじゃないかな?」
最近、そんなふうに感じることが多くあった。

そこで、Facebookに以下のような投稿をしてみた。

「遠くから帰って来たのだけど、最近気になり出したことがある。それは、この社会の代行主義と忖度と人権意識について。共産主義や社会主義について語りたいわけではない。

なんか、● よかれ+● 便乗みたいな出来事が多い。たとえば、『私たちは詳しいのだから、あなたのためにこのような準備をしておきました』『あなた方があのようなことを言うので、それならばとこのような準備をしました』みたいなやつ。こちらとしては、たとえば『お金もかかるのだから相談してほしかった』とか、『感謝させたいようだが、それはあなたの希望であって、私たちの立場を口実として便乗しただけではないか』という気持ちになる。

なぜ、私を含めた相手の意向などを聞かないのだろう。本当にそれでよいと思ったのだろうか。相手の感情や思考を奪う、相手を馬鹿にした態度であり、人権侵害ではないのか。そんなことを考えてしまう。みな悪い人たちではない。だが、自他の区別がついていないのではないだろうか。もっとほかにすることややり方があるのではないか。

これが社会的な問題と言えるかどうかを知りたいので後日、余力があったら調べるやも。似たようなご経験があったり、考えたりする方が万が一いらっしゃれば、エピソードなどをお聞きしたい。自戒もこめ、近いうちにまとめてみたい。他方、今後の対策として、たとえば早めに強めに伝えるとか、新たな選択肢もあるのだろう。」

すると、女性ユニオン東京ACW2(はたらく女性の全国センター)メンバーの伊藤みどりさんが、「代行主義ですよね! これは人の力を奪う。相談員トレーニングや、かもす講座の内容も代行主義がいかに人の力を奪うかをしつこくやってます。同情するなら金くれ!」というコメントをくれた。そこで早速、伊藤さんにインタビューをさせてもらった。

2021年11月25日、ZOOMを用い、伊藤みどりさんにオンライン・インタビュー。背景は南国!?

◆個々が独自性を保ちながら力を出し合って1つの器の中にあるという連帯が「サラダ・ボウル」

── 「代行主義」とは一般的にはソ連や中国などで共産党やエリートが人民にかわって政治を動かす体制を指すようですが、日本でこの用語はどのように使われてきたかご存じでしょうか。

伊藤 日本では使う人も少ないですね。ソ連などの共産党政権の国は、レーニン主義、前衛党論。党員は人民の前衛だという(笑)。すると、党員は人民より優れていなければいけないし、何万もの人々の声を代弁しなければなりませんが、難しい。つまり、これはイデオロギーであり、党員は自分たちが最もよく共産主義を理解しているという考えであるわけです。ただし、マルクスは初期の頃、産業革命以降の労働者の置かれている、貧民街が生まれてきた状況からすれば魅力的な思想であり、皆が『共産党宣言』に引かれました。ところがレーニンが最初におこなったのは労働者優遇政策。農民は小ブルジョアジーとして置いてきぼりにされたので、反乱を起こしたんです。この農民を弾圧したり大量虐殺をおこなった後、スターリンが生まれてきました。結局、理想や夢はよかったけれど、現実は理屈通りには行かなかったんです。これがスターリン主義であり、トロツキーも邪魔だから殺してしまえ、という。自分たちの理論に反対する人にレッテルを貼ることは現代でもありますよね。

── 女性ユニオンは設立時、代行主義的でない方法をとっていたのですよね。

伊藤 国内で代行主義という意識が出始めたのは最近。女性ユニオンも最初は専従も置きませんでしたが、設立当時から多くの問い合わせがあったために人手が必要で、代行主義的なやり方は不可能でした。上部組織の全国一般の手法を含め、すべてを一緒に学ぶ。私は事務職だったので、来る人ごとに書類の作成法などを伝え、手がけてもらっていました。当事者が自分の力でやらざるをえない、ほかの人が企業に押しかけてくれるわけではない、自分が前に出ないと、一線を越えないと、ものが動かない。それがかえって、当事者が晴れ晴れとした表情で元気になることにつながっていきました。「ちょっとの勇気で笑顔」というスローガンも生まれたんです。自己肯定感ですよね。それが数をこなすうちに組合の業務に専門性が出てきてプロ化し、専従を置くことになったのですが、振り返れば郵政ユニオンなどのように専従を置かなければよかったと考えています。専従を置くと仕事が集中し、経験の差も生まれて、後から入ってきた人たちは「やってくれないんですか」と、むしろ代行を求めるようになりました。

── そこをどのように突破したのでしょうか。

伊藤 その頃、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)傘下のサービス従業員国際組合(SEIU)との接点ができました。すると、「日本に労働組合はプロ化したものしかないと思っていたが、女性ユニオンがあると知った」と言われ、連帯を求められたんです。1960年代、アメリカの公民権運動から「サラダ・ボウル」という言葉が生まれ、個々が独自性を保ちながら力を出し合って1つの器の中にあるという連帯が、サービス提供型で金を入れれば出てくるような自動販売機型の従来の労組を批判する表現として用いられるようになりました。煮込んで溶け合わせて1つの味の鍋にする「メルティング・ポット」は同化政策だとして、「サラダ・ボウル」が求められるようになったというわけです。日本もかつて朝鮮民族にしたように、アメリカが英語を強要したことが背景にあります。そこで私も、代行主義の概念を意識しました。

── 2007年にみどりさんは「団交等でも代行主義に陥りがち」というテーマを取り上げ、福島で講演・対話をおこなっています。11年にも一橋大学フェアレイバー研究教育センターの媒体で「韓国女性労働組合では、『当事者のできることを代行しない』、ということを『組織化の絶対的な原則にしています』」などと記していらっしゃいますが、こちらについて改めて、ご説明いただけますでしょうか。

伊藤 韓国でも女性ユニオン東京を参考にユニオンができました。そこでは、個人加入の労働組合がなかったんです。その際、「組織化の絶対的原則」として、「絶対に彼女らが自らの力でできることを代わりにしないこと」と掲げられていました。これも、アメリカやオーストラリアを参考にしたもので、代行主義の否定は組合の鉄板だと実感しましたね。ブラジルの教育・哲学者のパウロ・フレイレの言葉でもありますが、人は理論・知識を植えつけられて成長するわけでなく、経験と先人の叡知を理論化したものが結びついた時に、最もよく学ぶ、というようなこと。代行したほうが早くても、全体の底上げには時間がかかっても、大切なのです。イギリスのケアワーカー、ヘルパー、介護業界の支援者も同じ。たとえその人の選んだ道が遠回りと思っても、選択を尊重すること、選択する体験を否定しないことの重要性について教材になっています。

── ACW2の相談員トレーニングでは、アドバイスの危険性やエンパワメントに関する事柄などを中心に、やはり代行しないことを重視されているかと存じます。こちらもご説明ください。

伊藤 もともと高山直子さんが成蹊大学卒業後、Eastern Michigan Universityで女性学、Wayne State Universityでカウンセリングの修士を取得して帰国後、カウンセリングをおこなっていました。Wayne State Universityはレイバーセンターのある大学で、そこで私は留学中の高山さんに会ったんです。帰国後、レイバーセンターの教育ワークショップをともにやっていて、高山さんからトレーニングに関する提案を受けました。実習も経験した高山さんだからこそという、練り込まれたトレーニング内容が評判を呼ぶことに。人の話を聞くとは何か、アドバイスはうまくいくことは限らない。選択肢のメリットとデメリットの提示、「まずい飴、辛い飴、苦い飴どれを選ぶか」、それを選んでもらうことなどですね。

── かもす講座でも、代行主義が人の力を奪うことについて、どのように伝えていらっしゃいますか。

伊藤 間違いのないことをアドバイスすることまでは批判しませんが、たとえば絶対に裁判に勝てるということは少なく、デメリットやリスクを説明しておかなければ後で恨みに変わったりもします。情報提供のしかたですね。また、何を相談しようとしているかを聴くことが8割。不明点については質問し、当事者の希望や意思を確認する。闘いたいわけでなく、有給を消化して辞めたい人もいます。疲弊してしまう人もいますよね。一生の補償をしてあげて闘わせることなどできません。金や時間が奪われて、勝つかわからなくても裁判をしたいという人もいます。さまざまな相談機関で断られ、悩みが深かったり、怒りの強い人もいますね。そのような人の話もよく聴き、共感して、相手に安心感をもたらす方法を相談員トレーニングやかもす講座で身につけることができるわけです。

◆「輝いているということは現場の人が頑張っている代えがたい姿であり、それが思い出になります」

── すると代行主義は、この社会に限らず、世界中で陥りやすい罠だと考え得るでしょうか。

伊藤 ある種、代行したほうが楽。私は女性ユニオンの専従を5年間した後、ヘトヘトになって辞めました。団体交渉申し入れ書の作成など、1人でやれば1時間で終わる作業も、当事者がおこなえば4~5時間かかります。でも、苦労した人が組合を辞めずに残る。いっぽうで、面倒くさいと言われてやむを得ず代行した相手は「ありがとうございます!」と言って辞めてしまう。代行は、してもらうほうも楽なんですね。私がカリスマ化したいわけでなく、粘り強く人間関係をつくっていかねばならず、時間がかかる。そのような立場ですることを、私がやり続けちゃいけないな、と。韓国などでも5年くらいで交代しています。先頭に立てば波風が立ち、怒りをぶつけられ、相談を受けるほうもプロのカウンセラーでもないし傷つけられてしまう。そうなったらお休みしなければ身が持ちません。

── ほかにも活動していて難しかったポイントはありますか。

伊藤 全員、特に女性は難しい。性暴力など、何かしら傷ついている人が女性には多く、癒やされていないため、甘えられる人に怒りなどをぶつけたりします。本当の敵はそこではないのに対立が起きたり。性差別を克服している国と異なり、この性差別大国では、女性中心に動くことに対する反発もすごい。ACW2を設立したのも、もっと緩やかなグループにしなければ続かないし、非正規雇用も増えていったから。1995年、日本経営者団体連盟(日経連)が『新時代の「日本的経営」── 挑戦すべき方向とその具体策』(「新時代の日本的経営」)を公表しました。女性ユニオンがスタートしたのは同年でしたが、当初は組合員の8割が正社員だったんです。経済的ゆとりがないことは、メンタル面でも深い傷を負い、闘う前提が崩れちゃう。Black Lives Matter(BLM)も30年間、底辺に置かれたもの同士が殺し合いも含めて争ってきたことが背景にありました。大衆運動は100年がかりなんです。

── そのようなことから得たことは、どのようなことでしょうか。

伊藤 私が確信を持っているのは、とにかく代行主義はダメ。代行した人の魅力だけで動いたとしても、それは本当の魅力ではない。過去を振り返ると、輝いているということはカリスマ性でなく、特定の誰かのことでもなくて、現場の人が頑張っている代えがたい姿であり、それが思い出になります。それを現在、どのようによみがえらせるのかが目下の課題です。また、過渡期として女性の問題に取り組んできましたが、特に若い男性の貧困問題をかんがみれば、セクシュアリティを超える可能性があります。

── すると運動は、どこへ向かえばいいのでしょう。

伊藤 そもそもたとえ正論でも、人は命令で動きたくないものですよね。テーマがなければ動けない、顔ぶれが変わらない、そんな運動への関心がなくなってきました。同じ思想の相手だけでなく、幅広い人と交流するのがいいですよね。

── 私もオルタナティブの実践を試みていますが、有機などの農業、農的暮らし界隈で興味深い人が多くいます。また、20代は国境の概念も薄く、とらわれていないように感じますね。

伊藤 私も20代が話を聴きに来てくれるとうれしい。彼女たちは上のすべての世代を否定していて、生まれた平成時代からひどい社会のなかで育っています。女性ユニオンの話でさえ、彼女たちにとっては生まれる前の話。10?20年前に若かった仲間たちも、すでに中年ですね(笑)。でも、性差別や雇用崩壊の状況は改善されていない。だから私は、懐かしい話をするだけでなく、なぜこのような世の中になったのかを私なりに反省しようと考えています。それを言語化することが最後の仕事だと思っているんです。

── それを書き上げたら、また伝えたいことが出てくるのでは。

伊藤 それは現時点ではわかりませんが、とにかく知らない人も物語として読めるように、雑誌『賃金と社会保障』(旬報社)に連載を寄稿しています。でも執筆しながら、資料を読みふけってしまうことも。女性ユニオンのニュースを読んでいても、復刻したいほど、組合員の貴重な体験談がキラキラしています。

── それでは最後に読者に伝えたいことなど、お聞かせいただけますでしょうか。

伊藤 『職場を変える秘密のレシピ47』(日本労働弁護団)は、アメリカの労働運動の改革を目指す草の根ネットワーク「レイバー・ノーツ」が発行した書籍の翻訳版です。 ここにも書かれているようなことを、代行主義の文化を変えるための方法として、ACW2などで実践しているので、参考にしてみてください。

── 私は最近、『無銭経済宣言── お金を使わずに生きる方法』(マーク・ボイル著・紀伊國屋書店)を実用書として大変おもしろく読みました。農水省も「半農半X」「有機」をアピールし始め、そこにしか未来への希望はないという自覚を感じます。関係性も生き方も、変えていく時なのかもしれません。

伊藤 ACW2でも地方に空き家を入手し、農業を始めるメンバーが現れました。

── 空間的には距離があっても、1人ひとりの実践が未来につながっているように感じますね。今日は、ご多用の折、本当に、ありがとうございました!

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性・オルタナティブ・環境 アクティビスト。月刊誌『紙の爆弾』2022年1月号に、「請求棄却で固有種絶滅の危機森林伐採問う沖縄『やんばる訴訟』寄稿。

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《NO NUKES voice》広島地裁がまさかの「非常識決定」! あなたの家の半分以下の耐震性しかない伊方原発を司法はなぜ止めないのか? さとうしゅういち

「嘘だろう!」

2021年11月4日。広島地裁前で我々「伊方原発運転差止広島裁判」原告が申請した四国電力伊方原発3号機運転差し止めの仮処分を却下するという「非常識決定」を伝える「びろーん」(俗称)にわたしは言葉を失いました。

「今回も勝てる(仮処分申請は認められる)だろう」と思い込んでいたので、ショックは倍増です。


◎[参考動画]#伊方原発3号機止まらず #広島地裁 #非常識決定(佐藤周一 2021年11月4日)

報告会場で「非常識決定」「差止ならず」を伝える「びろーん」

◆4年前とは正反対の経験

わたくし、さとうしゅういちをふくむ「伊方原発広島裁判」の原告は、4年近く前の2017年12月13日に同一の建物の前で今回とは正反対の経験をしました。このときは、地裁の建物と同じ高裁の判断を待っていました。地裁では「不当決定」が出ていたので、わたしは、諦観していました。

この日、わたしは、広島駅南口地下広場で行われていた反貧困ネットワーク広島の相談会のお手伝いに来ていましたが、

「地裁で不当決定だったものが高裁で通るわけがないだろう。まあ、俺も一応、原告で当事者だから結果は見届けにいってくるわ。」
「そうか、行ってこい。幸運を祈る。」

という会話を仲間とかわしたあと、自転車にまたがって、裁判所までかけつけたのを覚えています。奮闘してくださっている弁護団には大変失礼なことですが、そんな諦めつつ軽い気持ちで裁判所にチンタラ自転車を漕いで到着しました。

ところが、びっくり仰天。広島高裁は我々の「阿蘇山噴火が伊方原発にもダメージを与える可能性がある。」という主張を受け入れ、伊方原発の運転を差し止める決定をしたのです。

「嘘だろう! 俺は夢を見ているのに違いない。」

わたしは、頬をなんどもつねったが間違いありませんでした。

2017年12月13日の広島地裁前。うれしい誤算だった


◎[参考動画伊方原発3号機差し止めを命令!広島高裁(佐藤周一 2017年12月13日)

◆仮処分期限切れ後、新たな仮処分を申請

その後、2018年9月25日、広島高裁は裁判長がかわった結果、四国電力による異議申し立てをみとめ、伊方原発3号機運転を認めました。いっぽう、我々原告側は地裁に仮処分の期限延長を申し立てていましたが、同年26日、地裁に却下されてしまいました。そしてその直後に伊方原発は動きだしました。

しかし、2020年1月17日、今度は山口地裁で運転差し止めをもとめている原告申し立ての仮処分申請を広島高裁は認めました。裁判長により判断が分かれた形です。

その後、提訴からちょうど4年の2020年3月11日、我々広島裁判の原告も新たな仮処分を申し立てました。我々は「中学生でもわかる理屈」(河合弘之弁護士)で攻めていきました。伊方原発の耐震基準がわずか650ガルであり、一般家屋の1500ガルの半分以下の耐震性しかないこと。原子力規制委員会が基準地震動を定める考え方が「どういう地震がおきるか予知・予測できる」と考えられていた時代のもので、現在では阪神淡路大震災や熊本大震災など想定を超える地震が多数起きていることなどをデータをあげて指摘したものです。

◆非常識決定 判断から逃げた広島地裁

しかし、広島地裁は、以下の理由で我々の申し立てを却下しました。

まず、第一に原子力規制委員会が専門的知見を持って許可をしたのだから、審査基準の合理性及びその適用に過誤欠落がないかを裁判所が事後的に判断することは無理であると述べました。これは、原発について司法がその安全性を判断することを放棄したものです。

第二に、伊方原発訴訟最高裁判決は、民事差止訴訟には適用ができず、行政訴訟のみに適用があるとした。しかし、裁判所の判断不能ということであれば、行政訴訟についてもおよそ判断が不能となるはずなのに、それに限っては判断ができるというのも矛盾しています。

第三に、我々の「日本国内の地震の精密かつ網羅的な観測記録(K-NET)と比較すると、伊方原発の基準地震動650ガルというのはあまりに低すぎる」と主張したのに対して裁判所は、それぞれの地震についての震源特性、伝播特性、増幅特性を詳細に調べて補正し、比較しなければならないとしました。しかし、そのようなことはおよそ住民側にとって不可能なことであり、不可能事を住民側に押し付けるものである。しかも、プロであるはずの四国電力側でさえそのような精査は一切放棄しているのです。

また、ハウスメーカーのハウスのほうがずっと耐震性が強いこと(例えば三井ホームは5000ガル以上)及び建築基準法においても1500ガル程度までが基準地震動になっていることについても、震源特性、伝播特性、増幅特性の精密な分析、補正がないことを理由に、我々の主張をしりぞけてしまいました。

我々は、この裁判において、常識に基づいた分かりやすい問題提起をし、判断を求めたにもかかわらず、裁判所は、徒に複雑な科学技術論争を持ち込み、一知半解な理由で我々の主張を退けました。

誠に不当な決定であるとして、我々は直ちに広島高裁に即時抗告をしました。

◆地震の巣の上にある広島から最も近い原発 

伊方原発は広島から最も近い原発です。90kmくらいしかありません。瀬戸内海、そして太田川を通じて伊方原発と原爆ドームや広島駅などはつながっているのです。

そして、伊方原発の直近には中央構造線断層帯があり、豊臣秀吉の時代には大地震を起こしています。

また、これとはべつに、この地域の真下にはフィリピン海プレートが潜り込んでいるために伊方原発は地震の巣の真上にあります。広島でも時々地震がありますが、多くの場合、伊方原発周辺が震源地です。江戸時代には何度も死者を出すような大地震があったほか、最近でも2014年3月14日にM6.2の地震で伊方町において震度5弱を観測しています。江戸時代には何度もあったようなM7クラスの地震がおきれば、650ガル(震度6弱程度)の耐震基準をオーバーすることも十分ありえます。そうなれば、原発からもれた放射能が瀬戸内海、太田川経由で原爆ドームや広島駅、さらには広島市の安佐南区南部あたりまでを直撃することは十分ありえます。

以下の論文によると、潮汐にともなって塩分が太田川をかなりさかのぼっています。塩分が遡るなら放射能も遡るのです。
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00549/2013/65-02-0031.pdf

伊方原発直下を震源とするM7クラス、広島では震度5弱~5強程度で家屋には被害がないような地震でも、伊方原発では650ガルをオーバーして原発の事故で広島の市街地の大半が壊滅する、というばかげたことが起きる危険性は十分です。

そのことを訴えることも、わたくし、さとうしゅういちが2021年4月25日執行の参院選広島再選挙に立候補した理由でした。当時の立憲民主党系候補の陣営に接触して、伊方原発廃止をふくむ原発ゼロを条件にわたしが立候補をとりやめることを持ちかけようとしたのですが、陣営の方の「候補者本人が具体的な政策がわかる人ではない」とのお話をうかがい、諦め、わたしが独自に立候補したという経過があります。

◆高裁がある! 四国電力が「オウンゴール」を連発の中、諦めない

今回の広島地裁の決定は詳しくは省きますが、2000年の伊方原発運転差し止めを求めた裁判の最高裁判決よりも、法理論的には後退するものです。三権分立の意義をさらに低下させるものです。

ただし、四国電力も報道されているように、宿直職員が無断外出するという不祥事が発覚して、再稼働への準備に手間取っています。愛媛県知事は条件付き再稼働を認めるスタンスですが、四国電力が「オウンゴール」を連発しているような状況があります。今後は広島高裁の判断に望みをつなぎたいものです。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

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冤罪被害者・青木恵子さんの国賠訴訟が大きく進展!「最後の裁判にしたい」という青木さんの思いを汲み取り、大阪地裁・本田能久裁判長が「和解」を勧告! 尾崎美代子

東住吉事件の冤罪被害者・青木恵子さんが、2016年8月再審無罪判決を勝ち取ったのち提訴し闘っていた国賠訴訟は、9月16日弁護団による総括の最終プレゼンと青木さんの最終意見書の陳述を終え結審、来年3月15日の判決を待つばかりとなっていた。そんな中、裁判所が原告、被告(国と大阪府)に「和解勧告」を出すという画期的なニュースが飛び込んできた。

◆「今でも青木さんを犯人と思う」という坂本元刑事

その前に、コロナ禍で傍聴席が制限される中、筆者も傍聴できた最後の2回の法廷の様子を紹介する。

2月12日、青木さんに嘘の自白を強いた大阪府警元刑事・坂本氏の証人尋問が行われた。坂本氏は出廷にあたり、事件当時の取り調べ日誌等を読み記憶を思い直したと話していた。しかし、弁護人の質問に「いやあ、25年も前のことやからね。記憶も薄れてね」などと言い訳し、弁護人が当時の日誌を示すと「書いてあるならそうやろね」などと居直った。

次第にボソボソ小声になり、本田裁判長から「傍聴席の皆さんに聞こえるように、ちゃんと話して下さい」と注意された。また裁判長から「その取り調べ日誌はどうやって書くの?」と聞かれ、坂本氏が「その日の取り調べが終わったあと、もう一人の刑事が書く」と答え、更に「あなたも確認するんでしょう?」と聞かれ「確認する」と答えた。

日誌には、任意同行された9月10日昼過ぎ、青木さんが体を震わせ、寒いんですと訴えたり、げーげーとえづいたと書いてあった。当時青木さんは、突然の火災で愛娘を失い、食事も採れず体重が30キロ台に落ちるまで憔悴。当日も、てっきり火災の原因が判明したと思い任意同行に応じたのに、いきなり「お前が犯人だ」と坂本氏に怒鳴りつけられた。

昼食も食べられず始まった午後からの取り調べで突然、同居男性(事件で一緒に逮捕された)が娘に性的虐待を行っていたとぶつけられた。「お前だけがしらなかった」「息子も知ってたぞ」などと嘘をつき、青木さんを「もうどうでもいい。早く部屋に戻って死にたい」と、うその自供書を書かせるまで追い詰めた。

弁護団の尋問後、青木さん自身も坂本氏に質問した。「あなたは今でも私を犯人と思っていますか?」と聞いた青木さんに、坂本氏は「はい、思っています」とはっきり答えた。

その理由を坂本氏は「あんた、自供書を自分で書いたでしょ」「ほら、きれいな字で」などと、まるで近所のおっさんのような口調で話すので、再び裁判長に「証人はちゃんと証言して」と注意された。

「あなたが書かせたんでしょう」と迫る青木さんに坂本氏は「初日に気持ちよく書いたでしょう」とまで言ってのけた。

ドン! 青木さんが机を叩き、その音に坂本氏が驚く。

「あなた、(取り調べ室で)こうやったでしょう」。もう一度、ドン!

「灰皿が転んで灰が飛んだでしょう」。

自供書を書かされた9月10日と9月14日のことを、青木さんは今でも忘れられないという。

東住吉事件の冤罪被害者・青木恵子さん。2月12日大阪地裁前で

◆「この裁判を最後にして欲しい」と訴える青木さん

9月16日、弁護団がパワーポイントを使い裁判の総括を行ったあと、青木さんが証言席で最終意見書を陳述した。

大阪府警の勝手なストーリーに基づき、娘の保険金目当てに娘を殺した母親、犯人にされたこと。

再審無罪となったが、国・大阪府は反省もせず、検証もせずに今も犯人だ、違法はなかったと認めないこと、

警察、検察の違法性を明らかにして、布川事件以上に踏み込んだ判決を言い渡してください。

何故いい加減な捜査・違法な取り調べをしたのか?

なぜ再現実験をしながらも、起訴できたのか?

もう二度と冤罪に巻き込まれる人を生み出さない、仲間たちのためにも国や大阪府の違法性を明らかにさせたいとの気持ちから提訴したこと、最後に「証拠はあなたたちのものではありませんよ」と国・大阪府の代理人らを睨みつけながら訴え、陳述を終えた。

意見書で青木さんは「一番許せなかったことは、私が取り調べ室で(娘の)写真を見るのは辛いからと答えたあとに、大阪府警の代理人に『お嬢さんの写真なんてお葬式とかでもありましたよね』と言われたことです。お葬式でも見ているのだから取り調べ室でも見ることができるだろうとでも言いたかったのでしょうか。私はなんてことを言い出すのだろうかと信じられなかったです。本気で言っているのかと唖然となり、心底怒りでいっぱいです。坂本さんに『お前がやっていないというのなら、なぜ助けへんやったやん。助けれんかったことは殺したことと同じことやぞ』と言われ続けたうえで写真を見ろと言われる気持ちがかわらないのでしょうか」と訴えた。

現在、青木さんは1枚数円のチラシのポステングと集金の仕事を続けている。集会に呼ばれたり、服役中の冤罪被害者に面会に行くため、自由な時間をつくる必要があるからだ。また昨年、遠方にあった娘の墓を近所に移し、毎週1回お参りに通っている。「娘のお墓に通うことで、私の心は落ち着きます」と意見書で述べた。

今年のめぐちゃんの誕生日(10月11日)は、前日今市事件の総会に出席、翌日千葉刑務所の勝又拓哉さんの面会に訪れたあと帰阪。ケーキを買いお墓に急ぎ、真っ暗な中、ロウソクを灯しお祝いした

長期の服役で壊れた関係もある。実の息子との関係だ。息子は、青木さんの逮捕後、青木さんの両親と暮らし、何度か和歌山刑務所にも訪れていた。逮捕後、めげそうになった時、同じ部屋の女性から「残った子どもはどうするの」と言われ、我に返ったこともあり、「子ども」という言葉が青木さんを奮い立たせるキーワードになっていた。出所後行き来していた息子だが今はつきあいをやめている。

「獄中では、息子のことを考え心配して、早く会いたいとの気持ちをずっと持ち続けていました。だけど刑務所から出られて再会した息子は、すでに29才の大人となり、この26年の空白の時間が、私と息子との親子関係まで奪い去りました。(中略)お互いに分かり合うことが難しく、別々の人生を歩んでいく道を選ぶしかなく、現在はつきあいもなくなりました」と、意見書に辛い思いを語っている。

◆裁判長がはっと青木さんを見た瞬間

青木さんが意見書を陳述する間、裁判長と2人の裁判官はじっと書面を見ていた。しかし、裁判長が「はっ」と顔をあげ青木さんを見た瞬間があった。それは青木さんが以下の部分を読みあげたときだ。「私は、社会に戻れた反面、浦島(太郎)状態となり、何もわからない自分が情けなくなり、携帯電話を覚えるのにも苦労して、高速料金所でETCカードを使うことを知り、買い物に行ってもポイントカードのことを聞かれて、物価もわからずに、何もかもが理解出来なくて、一人では行動できないことに情けなくなり、プライドが傷つき、何度も刑務所に帰りたいとさえ思ってしまったのです」。

無実の罪を着せられ不当に獄中に囚われ、息子、両親にも会えない苦しい刑務所に,再び帰りたいと思ってしまうとは…。あの時、青木さんをじっとみつめた本田裁判長は、何を思ったのだろうか。

結審後の記者会見で青木さんは「裁判所の判決がおかしければ、私は法壇に上がっていく。それで刑務所に入っても後悔しない。そのときはまた取材してくださいね」と話し記者らを笑わせた。「そんなことは絶対にないだろう。この裁判長がそんな判決を出すはずはない」。わたしは、その時そう確信していた。

しかし、そんな裁判長から「和解勧告」が出されたとは?青木さんにお話を伺った。

青木 結審後に弁護士から連絡があり「和解」の話が出ていると聞きました。1回目の法廷で裁判長は「私が判決を言い渡しても、絶対に控訴、上告されてしまいます。この事件は、平成7年に始まり、来年は令和4年となり、長く続いています。これ以上長引かせないためには、和解が良いと考えました」と話されました。他にインターネットなどで、青木さんへの誹謗中傷が酷い。世間に対して「青木さんは完全無罪だ」と訴えたい。そして青木さんが訴え続けているほかの冤罪犠牲者のことにも触れたい」と。私は感動して胸がいっぱいになり、涙が溢れてきて言葉にならなかった。しばらくして「私は裁判官にじかに話されたこともないので、涙がでます。国と大阪府にはちゃんと謝って欲しい。灰色をとって無罪になりたい」と話しました。

また、裁判長の話をメモしていた私に、裁判長は「青木さんの目を見て言いたいんですが」と切り出し、裁判長と目を合わせると「私は、青木さんを『再審で無罪になった人』として裁判にかかわってきました」と話されて、また泣いてしまいました。また、裁判長が「私はいつも柄のカッターシャツですが、今日は白のシャツを着てきました」と話したことがありました。和解に向けた2回目の協議のとき、右陪審の女性はあざやかな黄色のタートルのセーター、裁判長と左陪審の男性は白のカッターシャツと黄色地のネクタイを締めてきました。

私は、青木さんが陳述を終えたあと、裁判長が青木さんの著書「ママは犯人じゃない」を掲げ、「皆で読みました」と話し、2人の裁判官も頷いた場面を思い出した。

裁判長は、白い服を着ていた青木さんに「和歌山刑務所を出た日も白い洋服だったんですね」と聞いた。

青木さんは「いいえ、その日は黄色です。めぐちゃんの好きなひまわりの色です」と答えた。

本の写真がモノクロだったため、裁判長は黄色を白と見間違えたのだ。それに対して裁判長は「すみません」と詫びたが、その後、法廷で青木さんと同じように白や黄色を身に着けるようになったのだ。そう考え、今度は私が泣かずにいられなくなった。

和解協議は、12月23日行われる予定だ。

自宅でくつろぐ青木さん。獄友・西山美香さんや支援者らにプレゼントされたぬいぐるみに囲まれて

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

12月7日発売! タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年1月号!

《12月のことば》縁 出会いは人生を豊かにする 別れは人生を深くする 鹿砦社代表 松岡利康

《12月のことば》縁 出会いは人生を豊かにする 別れは人生を深くする (鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

2021年のカレンダーも最後の1枚になりました。

本当に1年経つのは速いものですね。

今年は当社もコロナの影響をもろに受けました。

顕在化しなかっただけで、危機は昨年から水面下で進行していたようです。そりゃそうでしょう、コロナが何波も襲来し、そのたびに書店さんがクローズを余儀なくされ売上ゼロになった月もあったりで、のちのち出版社に逆流することは判り切ったことです。

出版は取次会社の精算が遅いので、気づくのも遅れてしまいました。

昨年はまだなんとか売上微減でしたが、今年は急激に落ち込み青息吐息です。

しかし、私たちはこれまで何度も危機を乗り越えてきましたので、ここはなんとしても乗り越える決意です。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

11月29日に『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を発行いたしました。

1971年は、私がちょうど19歳から20歳になる頃で、一所懸命に闘った年でした。50年前の出来事、そうして、なにがしかの〈縁〉があって出会った人たち、別れた人たち……出会いと別れを繰り返しつつ齢を重ねてきました。走馬灯のように過ぎります。

この本には、そうした思い入れもあって目の疾患で難儀しつつも(ゲラを拡大コピーしたり、さらにルーペを使ったりして)多くの方々の寄稿と協力を得て心血を注ぎました。

ちょっとスケジュールをゆったりめに取って編集に当たりました。特に詳細に記された年表には苦労しましたが、こういう仕事も残しておくこともけっして無意味ではないでしょう。

1971年は地味な年で、あまり論じられることもありませんが、政治、文化、多くの面で転換期にありました。

政治的には、「返還」前の沖縄問題、開港前の三里塚問題を中心に、今とは比較にならないほど、まだ抵抗運動は続いていました。しかし、それも翌年早々起きた連合赤軍事件が私たちを絶望のどん底に落としました。

文化面では、そのインパクトでこの通信でも悪評でしたが、映画が、カラーテレビの登場等で斜陽を迎えます。

これを東映、日活はポルノ路線で乗り切りました。これには驚きましたが、経営陣の、この判断は、多くの批判が浴びせられながらも、生き延びるために賢明だったと思います。一方、ポルノ路線に乗らなかった大映は倒産してしまいました。

この問題を板坂剛さんと高部務さんが採り上げました。

板坂さんは日大全共闘(芸闘委)、高部さんも一時赤軍派で活動されていて、けっして軟派な方ではなく、むしろ硬派な方です。

詰まるところ、エロも革命も〈等価〉で、同じ位相で見ないといけないということでしょう。

◎「鹿砦社カレンダー2022」が完成いたしました! 12月7日発売の『紙の爆弾』1月号、同11日発売の『NO NUKES voice』30号の定期購読の方々に雑誌と一緒に発送いたします。好評で毎年不足しますので、今年は1700部(昨年は1500部、10年前に開始した時は1000部)と少し増やしました。それでもギリギリかと思います。これを機会に両誌の定期購読をお願いいたします!(松岡利康)

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈4〉7.6事件の謎(ミステリー)──求められる全容の解明 横山茂彦

◆7.6事件 ブントの分裂

7.6事件といっても、一般の方には何のことなのか、ほとんどわからないであろう。新左翼の一派(第二次共産主義者同盟)の分裂騒動にすぎないのだが、のちの赤軍派および連合赤軍事件、日本赤軍の原点がここにあるといえば、その影響力の大きさが計り知れるかもしれない。

ブント(共産主義者同盟)の分裂という意味では、日本の学生運動のみならず、社会運動全体の混乱がここに発生し、集約されているのだともいえる。

なぜならば、死者100人以上を殺した内ゲバの中核派や革マル派も、その指導部の多くがブント(第一次共産主義者同盟)の出身であり、その他の新左翼党派も安保ブント、二次ブントに大きな影響を受けているからだ。

尊大な言いかただが、日本階級闘争の混乱は、ブントの混乱なのである。などと、70年代のブント系の活動家たちは云いなしたものだ。逆にいえば、その責任は大きいものがある。

そのブントの末裔の一員であり、7.6事件の舞台となった明大の出身者であるわたしに、7.6事件の謎解きの入り口までご案内させていただきたい。社会運動史研究である以上に、それがミステリーの世界であるからだ。

望月さんの死を伝える当時の新聞記事

◆記憶の迷宮

7.6事件は、今日もその全容が不明瞭な「謎の事件」である。

昨年の『一九七〇 端境期の時代』に掲載された「7.6事件に思うこと」(中島慎介)について、重信房子さんが書評をリベラシオン社のサイトに寄稿し、中島さんの「記憶違い」を指摘した。今回はそれへの反論となっている。※重信さんの当該の書評も収録されている。

その要点は、重信さんが7.6まで中島氏と面識がなかったこと。したがって、現場で言葉を交わすはずがない。この事件後に望月上史さんが中大に拉致された時間帯の違い、あるいは事件後に重信さんが京都に行ったとき、遠山美枝子さんを同道していたかどうか。重信さんと中島氏の主張(記憶)は大きく食い違っている。

重信さんも中島さんも、意図的に嘘をつくような人物ではない。どこかで記憶違いが生じたのであろう。

 
掲載されなかった『追想にあらず』

そればかりでない。中島慎介さんは、旧赤軍派の人たちが一昨年に発行した本に寄稿しようとしたところ、編集サイドが彼の原稿を「ズタズタにしたり、削除した」というのである。これも事件の事実関係をめぐってであろう。

謎はまず、事件が起きた時間帯である。

当時の新聞によると、赤軍派フラクがブントの会議が行なわれる明大和泉校舎に殴り込みをかけた(衝突)のは、9時25分頃で、その後二度目の衝突が1時間後に起きた、とされている。

対する中島氏の主張は、深夜に偵察行動をおこない、6時頃に侵入したというものだ。この時間差が「誰の創作か分かりませんが、警察か『7.2ブント通達』を発行したグループではないか」と、中島氏は指摘するのだ。

※9時半ごろといえば、明大和泉校舎を撤収した赤軍派フラクが、御茶ノ水の東京医科歯科大で中大ブントの逆襲をうけ、主要部隊が拉致されている時間帯である。この衝突を、記者が誤認して書いた可能性があるかもしれない。

そしてここが重要なのだが、そもそも赤軍派フラクの明大侵入は、自分たちを除名するかもしれない会議を開かせないように、明大学館を内側からバリケード封鎖するというものだったのだ(中島氏)。それが仏議長をはじめとする中間左派へのリンチ事件になってしまった。これは果たして偶発的なものか、何者かが意図したものか。

いっぽう、赤軍派の公式記録ともいえる2冊の本『赤軍派始末記』(塩見孝也)『世界革命戦争への飛翔』(共産主義者同盟赤軍派編)は、2時頃の明大和泉校舎侵入である。

中島氏は「この『四時間の空白』が、その後、赤軍派を含めたブント内各派の“秘め事”を生み出している」「研究中でもあります」と云う。なぜ事実関係がいい加減なのか、隠されていることがあるとすれば何なのか? 事件はミステリー、それも陰謀的な謎に覆われているかのようだ。

『毎日新聞』1969年7月7日朝刊

◆指は潰されていたのか?

論点となった「謎」はもうひとつある。

『遥かなる一九七〇年代──京都』において、松岡利康編集長が7.6事件(新左翼最初の内ゲバによる死者)に触れたところ、中大ブントを「代表する」神津陽さんらによって「リンチはなかった」「指は潰していない」という批判が起きた。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に掲載された「死者を出した『7.6事件』は内ゲバではないのか?『7.6事件』考」をもって、鹿砦社編集部のこの謎にたいする検証が始まったのである。

監禁された中大本館(法学部)4階からの転落事故が原因で、亡くなった望月上史さんをはじめ、赤軍派の4人は本当に「指を潰されていた」のか。

この「指を潰された」は通説となっていたが、中島氏によれば塩見さんが「生爪を剥がされていた」ということになる。上記のごとく、中大派(叛旗派)は、「リンチはなかった」という立場である。

塩見さんの『赤軍派始末記』によれば、中大の地下室で素っ裸にされて殴られた。とあるので、リンチ(暴行)はあったのだろう。そもそも、暴行抜きで拉致・監禁できるはずがない。

指を痛めつけられていた、というのは殴り合いではよく起きるものだ。相手を殴るだけで拳を痛めるので、単3電池を握れとか、50円玉(エッヂが丸っこい)を握って、しっかりした拳で殴れ、などとゲバルトの時にはよく「指導」されたものだ。

『聞書き〈ブント〉一代 』(石井英禧・市田良彦)には、赤軍派フラクを拉致したのは、情況派系の医学連指導部だったとある。ここでも「指を潰す」ようなリンチはなかった、という証言である。

※中島氏は『情況』2008年6月号(130~131頁)に「指を潰した」とある、としているが、神津陽さんの当該の文章は、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』に描かれた指を潰すエピソードが「嘘である」との批判なのである。ここは明らかに中島氏の誤読である。しかし、塩見さんの生爪が「回復は順調のようで、薄いけど新しいツメが生えて来ていました」(中島氏『端境期』)と現認しているので、こちらも説得力がある。真実はどっちなのだろう。

 
1969年9・5全国全共闘結成集会にてブント連合派とゲバルト

◆事件をめぐる暗い影

さて、今回『世界革命戦争への飛翔』が部分的に再録されたので、気づいたことがある。4.28(沖縄デー)から6.9のアスパック闘争の過程で、赤軍派フラクが形成されたわけだが、とくに右派からの「リンチ事件」があったという記述に注目しておきたい。

二次ブントは統一ブントとも呼ばれ、統一した集会の後のデモ出発では、党内各派が竹竿でゲバルトをするという、連合党だったのである。7個師団とも呼ばれたものだ。それぞれが地区委員会ごとに機関紙を出し、フラクションとして活動していた。党内派閥や党内党が、公然と存在していたのである。まるでかつての自民党みたいだ(笑)。

●最左派  赤軍派フラク(京大・同志社)
●左派   関西地方委員会(烽火編集委員会)
●中間左派 神奈川・東京南部・専修大(鉄の戦線編集委員会)
●中間右派 戦旗編集部・主流派(早大・明大・北海道・九州)
●右派   叛旗派(中大・三多摩地区)・情況派(明大)

したがって赤軍派フラクからの7.6事件までの経緯は、いわば反右派闘争(ブントの党内闘争)なのである。分派闘争になったのは、その後のブント中央委員会での赤軍フラク除名決議によるものだ。8回大会(68年12月)で主導権を握れなかった関西派が、69年4月以降党内闘争に打って出たのが、7.6事件の全体的な位置づけといえよう。

だが、その前後には、じつに奇怪な事件が起きている。

 
赤軍派結成後の政治集会

6月末に赤軍フラクの藤本敏夫(加藤登紀子と獄中結婚)が何者かに拉致され、数日間行方不明だったのだ。この事件は藤本さんが何も語らなかったことから、いまも「謎の失踪」とされている。おなじく赤軍派フラクの森恒夫(のちに連合赤軍の委員長)が、6月末にテロられているという(大阪市大の西浦隆雄氏の証言)。

定説では森恒夫(故人)が7.6前に赤軍派フラクから脱落し、負い目を感じていた事件であるとされている。花園紀男(早稲田の赤軍派)の証言では、森が「黒ヘルに追いかけられたので」ブントの集会に参加できなかった、と言い訳をしたが、ありえないとしている(『連合赤軍とオウム』)。だが、この「ありえない」は推論にすぎないであろう。藤本と森を襲ったのは何者なのか?

「当日の技術的・軍事的作業を遂行した人物が、一度も表面に出ることなく、消えてしまった」(中島氏)のは、なぜか?

神田氏が中島氏に語った「同日・同時刻・同じ場所で」「もうひとつの7.6事件」があったこと。そして「聞かなかったことにしてください」という言葉が気になる。何としても当事者たちによる、全容の解明が必要である。(おわり)

赤軍派結成直後の大弾圧、1969年11・5大菩薩峠事件

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

最高裁長官を退任後に宮内庁参与へ、竹崎博允・元長官ら、「勤務実態」は闇の中、最高裁に関する2つの情報公開調査のレポート 黒薮哲哉

石棺のような窓のない建築物。出入口に配備された警備員。

 
最高裁判所(出典:ウィキペディア)

外界とは厚い壁で隔てられ、通信手段は郵便だけに限定され、メールもファックスも通じない。

最高裁判所には不可解なグレーゾーンがある。その中で何が進行しているのか──。

今年に入って、わたしは最高裁の実態を調べるための一歩を踏み出した。情報公開制度を利用して、複数の「役所」から最高裁に関連する情報を入手した。

◆元最高裁長官らが退官後に宮内庁参与に

最高裁長官を退任した寺田逸郎氏と竹崎博允氏が、宮内庁参与に就任したことは、人事に関する新聞記事などから判明している。両氏とも安倍晋三内閣の時代に宮内庁参与の「職」を得ている。今後も「最高裁長官から宮内庁参与」へのコースが準備されていく可能性がある。

筆者は、情報公開請求により、元最高裁長官の寺田・竹崎の両氏と宮内庁の関係を調査した。

ちなみに宮内庁参与とは、天皇家の相談役である。宮内庁の説明によると、内庁参与は国家公務員ではないが、賜与(日本国語大辞典:〈しよ〉、 身分の高い人が下の者に、金品を与えること)というかたちで内廷費の中から相談料を受け取っている。

【内廷費】皇室経済法に基づき天皇及び内廷にある皇族[1]の日常の費用その他内廷諸費[2]に充当されるため支出される費用。より具体的には、第4条第1項の条文を根拠とする。(ウィキペディア)

 情報公開請求の内容は、次の3項目である。

1、寺田逸郎宮内庁参与の就任から、2021年8月までの勤務実態を示す資料

2、竹崎博允(元宮内庁参与)の在任期間中の出勤実態を示す資料

3、宮内庁参与に対して内廷費から支給された経費が分かる文書。期間は、2011年度から2020年度の10年間

 宮内庁によると、「1」と「2」に関連した資料(勤務実態に関するもの)は、存在しないとのことだった。宮内庁参与と宮内庁との間には雇用関係がないからというのがその理由だ。あくまでも、「陛下」から宮内庁参与にプライベートに相談をお願いする形式を取っているという。従って宮内庁が、宮内庁参与の勤務実態を把握することはできないという論理である。

 
書面の例(令和2年6月の書面)

が、勤務実態がないにもかかわらず宮内庁は、次に示すように宮内庁参与に対して報酬を支給してきた。「3」については公開したのである。

◆支給日が不明なケースが多数

宮内庁が公開した資料は、稟議書の類である。各書面に次のような記述がある。

「天皇皇后両陛下から、下記のとおり賜ってよろしいか、お伺い申し上げます」

しかし、「決裁日」と「施行日」の欄の大半は空白にしている。他の箇所については、その大半を黒塗りにしている。これでは開示資料とはいえない。参考までに「令和2年」6月のものを紹介しよう。

●書面の例(令和2年6月の書面)
http://www.kokusyo.jp/wp-content/uploads/2021/11/R211127p.pdf

日本国憲法8条は、皇室関連の賜与に先立って、「国会の議決に基かなければならない」と述べている。従って国会議事録の中に金銭に関する記録が残っている可能性もある。

参考までに賜与の「提案日」「決裁日」「施行日」を一覧で示そう。ただし、日付けの混乱を避けるために、ここでは開示された資料で使用されている元号を例外的に使用する。

皇室の相談料の「起案日」「決裁日」「施行日」

なぜか年に2回、ほぼ定期的に相談会を開催している。支給された金額は、黒塗りで処理しているが、通常の日当(3万円程度)であれば公開できるのではないか。金額が尋常ではないから、宮内庁は、この部分を黒塗りにしたと考えるのが自然だ。

上記の資料に加えて、宮内庁参与のだれかが内廷会計主管に対して金銭請求をしたことを示す資料の存在も判明した。ただし、宮内庁は、請求者も請求額も黒塗りにしている。請求日は、「令和2年6月16日」である。

今後、筆者は宮内庁に対して、宮内庁参与に金銭を支払ったことを証明する書面の情報公開を求める方針だ。たとえば領収書である。領収書の有無を確認するのも金銭の流れを確認する上で不可欠だ。

◆「報告事件」の存在が判明

最高裁判所の実態調査の中で、筆者は最高裁事務総局に対して「報告事件」の存在を示す文書の情報開示を請求した。以下は、筆者のブログに掲載した内容だが、再度、その中身を紹介しておこう。

「報告事件」というのは、最高裁が下級裁判所(高裁、地裁、家裁など)に対して、審理の情況を報告させる事件のことである。それにより、下級裁判所で国策の方向性と異なる判決が下される可能性が浮上すると、最高裁事務総局は人事権を発動して、裁判官を交代させるなどして、国策と整合した判決を導き出すことができる。

原発訴訟などがその対象となると言われているが、本当に「報告事件」が存在するのか否かは現時点では不明だ。そこで「報告事件」の有無を確認するために、筆者は情報公開請求に踏み切ったのである。

請求内容は次の通りである。

「最高裁が下級裁判所に対して、審理の報告を求めた裁判の番号、原告、被告を示す文書。期間は、2018年4月から2021年2月。」

11月8日、わたしは最高裁判所の閲覧室で、A4判用紙で15センチほどに積み上げられた開示文書を閲覧した。次に示すのが、最高裁事務総局が開示した書面の一部である。結論から言うと、筆者は「報告事件」の存在を大量に確認することができた。しかし、最高裁事務総局は、それらの事件の事件番号については黒塗りにしていた。
 

読者に特に注目していただきたいのは、「3、勝訴可能性等について」の箇所である。最高裁が下級裁判所に対して、勝訴の可能性について報告させていることを示している。この部分についても、最高裁事務総局は黒塗りにして開示した。

従って報告内容を受けて、実際に下級裁判所の裁判官が交代させられたかどうかは判断できない。

今回の調査で、最高裁事務総局が報告事件に指定しているのは、国が被告、あるいは原告になっている裁判であることが分かった。それ以外の事件は、開示された資料には含まれていなかった。しかし、最高事務総局が全部の関連文書を開示したか否かは分からない。

半年ほどの調査で、最高裁のグレーゾーンから不可解なものが輪郭を現わし始めた。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
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《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈3〉連合赤軍と内ゲバを生んだ「党派至上主義」 横山茂彦

◆重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」

『抵抗と絶望の狭間』には、重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」が収録されている。書下ろしの力作である。

手紙のあてさきの遠山美枝子さんは、連合赤軍事件で亡くなられた女性活動家で、重信さんの明治大学での親友でもあった。いい文章だと思う。わたしは明るく華やかな、そして内省のある重信さんの文体が好きだ。今回の文章にもその一端はあるものの、やはり哀しみをもって読むしかない。

 
日活花の十代3人娘(別冊『近代映画』1964年6月上旬号)

あまり知られていないことだが、当時の明大の二部文学部には女優の松原智恵子さんが在籍していて、やはり学生運動に参加していた。

その松原智恵子は、吉永小百合、和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、中でもブロマイドの売り上げは1位だったという。明治大学では重信房子、遠山美枝子とあわせて「明大ブント三人娘」ということになるが、ビラの受け取りも断トツだったという(重信さんの友人談)。学生運動に参加していたのは、おそらく西郷輝彦と交際していた時期とかさなる。

亡くなった人はどこか美化されるもので、遠山美枝子も美人活動家だったと言われている。一般に流布しているのは、バセドー氏病が持病の永田洋子に責め殺されたというイメージがつよい。それも山に指輪(夫のT氏からではなく、母親から渡されたもので、困ったときはそれをおカネに替えて帰宅できるように着けていた)をしてきたことを批判されたことで、美人だから殺されたという印象になっているのではないか。

じっさいには「素敵な女性だったけど、重信房子の引き立て役みたいなものだった」というのが、加藤登紀子事務所の女性秘書の個人的な感想だ。今回、彼女の学生時代の写真(一般にネットで拾えるものは、警察の逮捕写真)を見て、素敵な女性という印象がえられた。

◆共産同赤軍派と日本共産党革命左派

さて、その連合赤軍である。今年で結成から50年となる。結論的な部分から、簡単に解説しておこう。まずは赤軍派である。本書の副読本として予習的に読んでいただければ幸いである。

69年7月6日の明大和泉校舎で起きたブント(共産主義者同盟)の党内クーデターによって、赤軍フラクは中央委員会で除名処分を受けた。※この7.6事件については、書評(その4)で詳しく触れることにしたい。

除名されて共産同の分派となった赤軍派は、秋の大阪戦争・東京戦争の不発後、公安当局の猛烈な弾圧をうける。そこで、国際根拠地論(政治亡命)が検討されるいっぽう、本格的な武装闘争(爆弾闘争)に着手する。幹部の一部が70年3月に日航機(よど号)をハイジャックして北朝鮮に、その他の幹部もあいついで逮捕される。そして71年2月に、重信房子がアラブへ飛ぶ。

じつはこれも、あまり知られていないことだが、赤軍派の国際根拠地はキューバへの渡航、およびアメリカでブラックパンサーなどの左翼と合流して、世界革命戦争を「攻撃的につくり出す」ことだった。じっさいキューバには、ボランティアをふくむ多くの学生が渡っている(のちに強制送還)。元赤軍フラクの藤本敏夫が関与していたキューバ協会がその窓口だった。

主要な活動家が海外に出て、獄中に捕らわれるか指名手配となった赤軍派は、日共革命左派(京浜安保共闘)と接触するようになる。そのとき、赤軍派の指導者は森恒夫、革命左派の指導者は永田洋子となっていた。二人とも、組織の指導経験はきわめて浅い。

革命左派は、ブントML派とマル戦派の元幹部がつくった「警鐘」グループが、日本共産党左派神奈川県委員会(毛沢東派)と合同し、その後分裂した組織である。革命左派は70年12月に交番を襲撃し、一名が射殺されている。その後、銃砲店に押し入って猟銃を強奪する(71年2月)。

いっぽう、赤軍派は複数の銀行強盗によって、多額の資金を獲得していた。銃を手に入れた革命左派、資金を手にした赤軍派は、相互の利害から武装闘争という一点で、結びつきを強めることになるのだ。

そして革命左派が、山岳ベースからの脱落者2名を処刑する。これもあまり知られていないことだが、それ以前に革命左派は内部の論争からスパイではないかとされる女性労働者(実際にはスパイではなかった)の処刑を検討していた。脱落者2名の処刑は、ある意味で必然的な成りゆきだったのだ。

いっぽう、赤軍派はM作戦の部隊に帯同していた女性シンパの処刑を決定したものの、成し遂げないまま組織から追放するにとどまっていた。この時点では指導者の森恒夫は、女性シンパを殺さなかったことにホッとし、革命左派の処刑に憤っていた。だが、それが彼の負い目となるのだ。

◆山岳ベース事件

ほぼ全員が指名手配され、山岳を拠点にするしかなくなった赤軍派と革命左派は、獄中指導部の反対を押し切って組織合同をはかる。ここに赤軍派の爆弾と資金、革命左派の銃が結びついた。連合赤軍の結成である。

山を拠点に武装訓練をかさね、爆弾闘争では果たせない「敵を銃でせん滅する」戦いをめざす。

だが、その訓練の過程で「兵士と銃の高次な結合」すなわち「共産主義化」が課題とされた。その方法は、自分の活動を総括(反省)し、共産主義の兵士へと高めるというものだった。しかし総括は告白(告解)であり、総括が成しとげられる規準は、指導者の森恒夫と永田洋子による恣意的なものにすぎないのだ。

ある者は総括の態度を批判され、ささいな過去の瑕疵を「総括できていない」と批判された。そして「総括を支援」する暴力が行使される。

もちろん疑問を抱く者もいた。
「こんなことをやってもいいのか?」(植垣康博)
「党建設のためだ。しかたがないだろう」(坂東国男)
この党建設、軍建設という呪縛が、連合赤軍を奈落へと導くのだ。

リンチのすえに、酷寒のなかで食事を与えられず、餓死もしくは凍死した者は「敗北死」とされた。殺人ではなく「総括できずに敗北した」と、政治的に評価された。かくして、12名の同志が山中で殺されたのである。その後の銃撃戦(あさま山荘事件)は国民の注目を集め、平均視聴率50%(最大90%)を記録した。銃撃戦によって、警官に2名の殉職者、民間人1名が犠牲となった。

毎日新聞(1972年2月28日夕刊)

 

毎日新聞(1972年3月10日夕刊)

◆長崎浩さんの視点──左翼反対派からの脱却

この連合赤軍問題を、ふたつの論攷から読み解いていこう。

「『何が何だかわからないうちに(小熊英二)』彼ら全員を追い立てていたものがあった。私はここであえて連合赤軍と事件の政治的な過去物語を提示しておきたい。彼らの上に跳梁していたのは党という観念であった」

連合赤軍を呪縛したものが「党」であると、「連合赤軍事件──何が何だか分からないうちに」で長崎浩さんは云う。

まずは、長崎さんの妖艶なともいうべき文体を愉しみながら、政治的論理の山脈に分け入るのがよい。

上記の「過去物語」とは、共産主義者同盟(再建準備委員会=情況派)の自己批判にまつわることである。その自己批判とは「連合赤軍派事件に対する共産主義者同盟の自己批判──暴力・党・粛清について」(ローテ第14号)なのだ。当時、ブント右派とされた情況派が、その機関紙上で連合赤軍事件を「自己批判」したのだ。これが「党の態度」なのであろうか。

その要旨は、大衆の暴力に依拠する事業である革命を、連合赤軍は武器と兵士の問題に矮小化した。党と革命を二重写し(混同)する組織論・革命論の伝統が、リンチ(共産党・革マル派・連合赤軍)をもたらした。というものだ。

唯銃主義・党共同体主義と批判された論調の、きわめてラディカルなものであろう。そして新左翼運動の終焉を告げるものでもあったとする。ほどなく、長崎浩とその同志たちは、ブントを解消して地方党へと越境する(「遠方から」)。

私党論をベースにした長崎さんの党概念は、初めて読む人には難解かもしれないので、簡単に解説しておこう。

新左翼(ブント)は、共産党と社民にたいする左翼反対派であるとともに、大衆運動の担い手であった。この左翼反対派とは、社共に代わる革命党建設である。いっぽう、大衆運動の担い手としてのブントは、組織建設に拘泥しない。いわば大衆運動がすべて、ということになる。このブントの伝統が掘り崩された(大衆を裏切った)以上、新左翼は終焉しなければならないというのである。

いっぽう、社共に対する左翼反対派だった新左翼が、唯一の党として立ち現れてくるのが70・71年だった。内ゲバの時代の始まりである。長崎さん流にいえば、多重の左翼反対派の「革命の独占と孤独」である。いまなお革命(批評)家である長崎さんは、その出口をもしめしている。

「左翼反対派の革命の独占と孤独とを、叛乱の大衆政治同盟の同志たちを媒介にして、叛乱へと解放しなければならない」この「大衆政治同盟」とは、任意の固有の党であり、「同志たち」とは大衆のことである。フロイトの『文化への不満』からの引用(連赤事件への適用)がじつに秀逸なのだが、本書を買ってからのお楽しみにしてください。

◆党至上主義と批判の自由

「破防法から五十年、いま、思うこと」の松尾眞さんは、わたしが大学に入った当時の中核派の全学連委員長である。

すでに全共闘世代としてベテランの活動家で、71年の沖縄決戦で「機動隊の命はあと三日!」と劇画的なアジテーションをして、破防法で逮捕されたのは有名な話だ。当時の風貌は黒縁メガネに端正な顔で、いまの白井聡さんによく似ていた。白井さんと初めて会ったとき、おっ、松尾眞さん。と思ったものだ。

とにかくアジテーションがうまくて、全学連委員長の座を堀内日出光さんに譲ったあとは、北小路敏さんに代わって、革共同代表として演説をすることが多かった。破防法で下獄の後、学究活動に入られ、大学教員をへて現在は地方議員である。

ちなみに、当時の革マル派全学連委員長は長谷さんという東大の方で、こちらも指導者としては迫力があった。京大同学会の委員長が市田良彦(神戸大教授)、浅田彰(ニューアカの先駆者)と、優秀な人たちが学生運動の指導部にいた時代である。

さてその松尾さんが、自分の経歴と共に「党組織至上性」を、内ゲバが発生する問題点として抽出されている。もともと無党派の活動家で、京大全共闘の指導部になっていたことは、森毅さんの『ボクの京大物語』で知っていたが、中核派にオルグされる経緯は意外だった。一本釣りなのである。

その松尾さんが、獄中で何を考え、どういう契機から学究活動に入られたのかは知らない。京都精華大学の人文修士課程の論文は「非権力志向連帯社会」だったという。

山村暮らしから得られたエコロジーと地域復興へのこころみ。そして議員活動をつうじて痛感した、批判の自由・言論の自由。じつに面白く読んだ。

関西の革共同の分派のひとたちが、レーニン主義(本多延嘉さん=中核派書記長)の路線から決別したという。ブント系では荒岱介さんの系譜の組織が、ネットワークとして存続しつつも、事実上の党派解散をしている。党に代わる何ものかの組織形態を、発見する世紀に入っているのだといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

いよいよ29日(月曜日)発売!

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

コロナ禍からの脱却へ、11年目のKICK Insist! 堀田春樹

観衆はまだ50パーセントの入場制限中ながら、観衆の声援に活気が増した会場。

瀧澤博人は見せ場を作ったヒジ打ちと左フックでノックダウンを奪うインパクトを残した判定勝利。

永澤サムエル聖光は自信を持ったパンチで出て、一発で仕留めるインパクトを残して本日のMVP賞。

今野顕彰はベテランムエタイ戦士を攻略出来ず。

前座で若い選手を起用したマッチメイクは、他団体選手に勝利を持って行かれる結果も好ファイトが展開されました。

◎KICK Insist.11 / 11月21日(日)後楽園ホール17:30~20:46
主催:ビクトリージム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第10試合 メインイベント 56.5kg契約3回戦

接近戦で右ヒジ打ちをヒット、ウィサンレックの唇下をカットさせた

瀧澤博人(ビクトリー/1991年2月20日埼玉県越谷市出身/30歳/56.5kg)
     vs
ウィサンレック・MEIBUKAI(1982.2.24タイ出身/56.2kg)
勝者:瀧澤博人 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:桜井30-27. 仲30-28. 松田30-28

瀧澤博人はWMOインターナショナル・フェザー級チャンピオン。ウィサンレックは元・タイ国ルンピニー系フライ級、バンタム級チャンピオン。ウィサンレックはトレーナーとして来日後、日本人戦を8戦ほど経験。国内トップクラスには負け越しているが、日本人の壁となる存在。

長身の瀧澤博人が自分の距離を保った蹴りとパンチ、前進するウィサンレックに離れた距離からの左ジャブが伸びる。組み合えばウィサンレックの技量発揮だが、その展開は短く、終盤にウィサンレックが接近するタイミング合わせて瀧澤の右ヒジ打ちで唇下辺りをカットする。傷幅は小さいが深さはありそうな鮮血が流れた。

残り時間少ない中、出て来るウィラサクレックと相打ち気味の左フックでノックダウンを奪うが、再開の時間は無く試合終了。「出て来るのが分かっていた」というチャンスを逃さなかった瀧澤博人の存在感アピールとなった試合。

瀧澤博人は33戦21勝(12KO)8敗4分。

瀧澤博人の左ジャブが主導権を奪う
相打ち気味の左フックでウィサンレックを倒した瀧澤博人

◆第9試合 62.0kg契約3回戦

永澤サムエル聖光(ビクトリー/1989年11月10日埼玉県吉見町出身/61.8kg)
     vs
トーンミーチャイ・FELLOW GYM(タイ/26歳/61.85kg)
勝者:永澤サムエル聖光 / KO 2R 1:50 / 主審:少白竜 

永澤サムエル聖光はWBCムエタイ日本ライト級チャンピオン。トーンミーチャイは元・タイ国東北部バンタム級チャンピオンで、FELLOWジムでトレーナーを務める在日タイ選手。

永澤サムエル聖光は蹴りからパンチへ相手との距離を計って打ち込むチャンスを狙う。第2ラウンド、永澤はトーンミーチャイの圧力に下がらず、左フック一発でノックダウンを奪うと、辛うじて立ち上がるトーンミーチャイは足元がフラついたところでレフェリーがテンカウントを数え終えた。

MVP賞を獲得した永澤サムエル聖光は33戦21勝(9KO)9敗3分。

永澤サムエル聖光が優るパンチでトーンミーチャイを追い詰めていく
左フックでボディーブローをヒットさせる永澤

◆第8試合 73.0kg契約3回戦

今野顕彰(市原/千葉県出身/38歳/72.8kg)vs ボーイOZ GYM(タイ/29歳/72.8kg)
勝者:ボーイOZ GYM / 判定0-3
主審:桜井一秀
副審:椎名29-30. 少白竜28-30. 松田28-30

今野顕彰はジャパンキックボクシング協会ミドル級チャンピオン。ベテランのオーラが漂うボーイだが、ふっくらした体格は第一線級から退いて年月が経った印象を受けるが技量は侮れない。そのボーイの蹴りで今野の脇腹を赤く染める。

組み合えばムエタイ技発揮で上手さが光るボーイだが、今野を圧倒するには至らない。今野のパンチも急所を外すディフェンスが上手いボーイは蹴り返し、ポイントを失わない巧みさには今野も攻め倦み、判定に縺れ込んだ。

今野顕彰は42戦22勝(14KKO)16敗4分。

ボーイの巧みな駆け引きに掴まえきれなかった今野顕彰

◆第7試合 51.0kg契約3回戦

細田昇吾(ビクトリー/1997年 6月 4日埼玉県出身/51.0kg)
     vs
阿部晴翔(チーム・タイガーホーク/宮城県仙台市出身/22歳/50.9kg)
勝者:阿部晴翔 / TKO 2R 0:53 / 主審:仲俊光

蹴りとパンチの攻防は、阿部がペースを掴んだ打ち合いの中、右ヒジ打ちで細田をグラつかせ、赤コーナー近くで右ストレートでノックダウンを奪う阿部。第2ラウンドに入ってもダメージ残る細田に右ストレートで倒すとカウント中にレフェリーが試合を止めると同時にタオルが投入。

細田昇吾は15戦9勝(2KO)5敗1分。阿部晴翔は18戦6勝(5KO)12敗。

阿部晴翔の右ストレートで仰け反る細田昇吾

◆第6試合 62.0kg契約3回戦

興之介(治政館/東京都出身/32歳/62.0kg)
     vs
吉田凛汰朗(VERTEX/栃木県出身/21歳/61.8kg)
勝者:吉田凛汰朗 / TKO 3R 1:13 / 主審:松田利彦

興之介はこの団体、ジャパンキックボクシング協会ライト級4位。吉田凛太朗はニュージャパンキックボクシング連盟から出場したNJKFライト級1位。

序盤の様子見から徐々に積極的に打って出た吉田凛太朗が第2ラウンド、右ストレートでノックダウンを奪うと、飛びヒザ蹴りからパンチ連打し、ニュートラルコーナーに下がった興之介に右ストレートで2度目のノックダウンを奪う。第3ラウンドには蹴りで出て来る興之介に右ストレートでノックダウンを奪うとレフェリーがほぼノーカウントで試合を止めた。

興之介は20戦11勝(3KO)8敗1分。吉田凛太朗は17戦8勝(2KO)7敗2分。

吉田凛太朗の右ストレートで劣勢に陥る興之介

◆第5試合 スーパーバンタム級3回戦

西原茉生(治政館/埼玉県出身/18歳/55.34kg)vs 拳大(OGUNI/東京都出身/20歳/53.25kg)
勝者:拳大 / 判定0-3 (28-29. 27-30. 27-29)

序盤、拳大がパンチラッシュで西原を追い詰めると鼻血流す西原。拳大が更に左フックで西原はノックダウン。西原は鼻血が止まらない様子も蹴りで出て態勢を整える。蹴り中心になりがちな流れもパンチの交錯でノックアウト狙うアグレッシブさが伺えるが、ヒットは無く判定まで縺れ込んだ。

西原茉生は5戦2勝(1KO)3敗。拳大は3戦2勝1分。

◆第4試合 ウェルター級3回戦

正哉(誠真/18歳/65.9kg)vs 鈴木凱斗(KICK BOX/24歳/66.5kg)
勝者:鈴木凱斗 / 判定0-3 (29-30. 28-29. 28-29)

蹴り中心の様子見から鈴木凱斗が右ストレートで青コーナーに詰めて連打。凌いだ正哉は蹴りからパンチで巻き返した第1ラウンド。第2ラウンドも互いに倒しに行く姿勢も見られたが、ノックダウンには繋がらず鈴木が僅差判定勝利。

正哉は3戦2勝1敗。鈴木凱斗2戦1勝1敗。

◆第3試合 女子(ミネルヴァ)アトム級3回戦(2分制)

ピン級6位.藤原乃愛(ROCK ON/17歳/46.0kg)
     vs
アトム級5位.ほのか(KANALOA/22歳/46.26kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-28)

藤原乃愛はスピーディーで的確に蹴るテクニックを持ち、左ハイキックで何度か軽々ほのかの頭部をヒットする巧みさが目立った大差判定勝利。

藤原乃愛は今年5月29日にデビューし3戦3勝。ほのか12戦4勝7敗1分。

高校2年生の藤原乃愛の鋭いハイキックが、ほのかを追い詰める

◆第2試合 53.0kg契約3回戦

花澤一成(市原/17歳/52.0kg)vs 笠原秋澄(ワンサイド/29歳/53.0kg)
勝者:笠原秋澄 / TD (テクニカルデジション) 2R 0:49
負傷判定0-3 (19-20. 19-20. 19-20)

股間ローブローによる試合続行不可能となった花澤一成。そのラウンドも含めた負傷判定となった。

花澤一成は2戦1勝1敗。笠原秋澄は1戦1勝

◆第1試合 58.0kg契約3回戦(デビュー戦同士)

大武ジュン(治政館/29歳/57.6kg)vs 布施有弥(KIX/25歳/58.0kg)
引分け 1-0 (29-29. 29-29. 29-28)

《取材戦記》

コロナ禍で、現役バリバリのタイ選手は呼べない中、在日タイ選手が頑張ってくれました。

第7試合、阿部晴翔が勝利した途端、「やっと勝った!」と声を漏らした船木鷹虎会長。詳しくは聞けませんでしたが、仙台から出陣しての阿部の勝利は苦労があったかもしれません。チーム・タイガーホークは鷹虎ジムが母体で、船木氏が会長。古くはヤンガー舟木として名を馳せたチャンピオンです。

第2試合は偶然のアクシデント、故意ではない股間への蹴りで、花澤一成が立ち上がれないほどのダメージとは珍しい負傷判定でした。プロボクシングでは最大5分間のインターバルを与えられ、続行不能であればTKO負けとなります。

またよく「ノーファールカップの装着が下手なのではないか。しっかり縛ってないからズレるんだ」という意見も聞かれます。

ムエタイのノーファールカップは一人で装着できるものではなく、熟練したタイのトレーナーなどからしっかり縛り方を学ばないと、たかがノーファールカップでも大怪我に繋がる大事な部分でしょう。これはまたしっかり学んで記事で公開したい事案でもあります。
ジャパンキックボクシング協会2022年新春興行は1月9日(日)、後楽園ホールに於いて治政館ジム主催「Challenger.4」が開催されます。

JKAバンタム級1位.麗也JSK(治政館)vs NJKFスーパーバンタム級チャンピオン日下滉大(OGUNI)戦の他、馬渡亮太(治政館)、モトヤスック(治政館)、渡辺航己(JMN)の出場が予定されています。

MVP賞を獲得した永澤サムエル聖光。左は授与したアジアグループ会長の新沼光氏

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』12月号!

《書評》『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』〈2〉SM小説とポルノ映画の淵源 横山茂彦

『抵抗と絶望の狭間』(鹿砦社)の書評の第二弾である。

71年は学園闘争の残り火、爆弾闘争の季節であると同時に、東映と日活がポルノ路線へと舵を切った年でもあった。

高部務さんの「一九七一年 新宿」(作家・ノンフィクションライター。著書に『馬鹿な奴ら──ベトナム戦争と新宿』)によれば、東映が7月に『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)でピンク映画へ路線転換した。主演女優は、のちに東映スケバン映画で一世を風靡する池玲子である。

それから四カ月遅れて、日活がロマンポルノ路線をスタートさせる。第一弾は『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)と『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)である。

左から『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、主演女優池玲子)、『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)、『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)

高部さんの記事には、70年代のピンク映画、ポルノ映画の裏舞台があますところなく紹介されている。

爾来、ポルノ映画はレンタルのアダルトビデオが普及する80年代初期まで、エロス文化の王道として君臨したものだ。やはり71年は戦後文化の転換点だったといえるのだろう。

わたしの記憶では、『イージー・ライダー』の日本公開が70年で、その洋画ブームの時期にスクリーンでバストの露出がOKになったと思う。ついでフランス製の性風俗ドキュメント映画『パリエロチカNo.1』の公開があって、思春期のわれわれはフランスのエロスに驚いたものだ。そして海外ポルノの浸食。

その意味では海外作品によって、71年のポルノ路線は道がひらけていたというべきであろう。68年公開の『卒業』(ダスティン・ホフマン主演)では、アン・バンクロフト(恋人の母親)の色っぽいシーンがコラージュのようになっていたものだ。

引用したのはDVDのパッケージだが、映画館のポスターや看板(手描き)はバスト露出がなく、公序良俗が守られていたようだ。

◆SM小説の黎明

板坂剛さんの「一九七一年の転換」によれば、三島由紀夫が団鬼六の『花と蛇』を絶賛したという。覆面作家沼昭三の『家畜人ヤプー』を激賞した三島なら、当然の評価であろう。羞恥と悦楽に苦悶する美女、緊縛という肉刑は三島にとってど真ん中の素材であっただろう。

 
団鬼六『花と蛇』(主演女優谷ナオミ)

その団鬼六は教員時代に、63年ごろからSM小説を書きはじめ、70年には芳賀書店から『天保女草紙耽美館』を、71年には同じく芳賀書店から『団鬼六SM映画作品集 1-2 耽美館』を出版している。ちなみに芳賀書店は、小山弘健やいいだもも、滝田修ら新左翼系の書籍を出版していた版元で、新左翼とエロスの親和性の高さを、何となく反映しているような気がする。

したがって団鬼六は、もう71年には谷ナオミ主演映画の原作者として、確固たる地位を占めていたことになる。じつは谷ナオミのデビュー前から、彼女を買っていたという。

その谷ナオミと吉永小百合を、板坂さんは「この時代の二大女優」だと評している。わたしもそれには賛成だ。ちなみに、谷ナオミの芸名は、谷崎潤一郎の「谷」と彼の作品『痴人の愛』のヒロイン「ナオミ」との組み合わせとされる。いかにも60・70年代らしい、文芸エロスである。

板坂さんによれば、全共闘世代の大半がサユリスト(吉永小百合ファン)だったという。三島は『潮騒』に出演した吉永小百合を「清純なピチピチした生活美の発見」と評し、戦前の薄幸な肺病型の美人との対比を強調している(本文での引用)。ここに板坂さんは「一九七一年の転換」をみるのだが、非常に興味深いのは、吉永小百合と谷ナオミの類似点である。それは女優としては陽と陰でありながら、純真無垢な目つき顔つきだという。

 
吉永小百合

なるほど、吉永小百合の清廉な健康美にたいして、谷ナオミは大きな乳房に象徴される肉体美であろう。そして純真無垢というのはおそらく「穢される美」なのではないだろうか。

吉永小百合を穢すものは、スクリーンに描かれる社会的かつ日常生活の困難であり、谷ナオミを穢すのはサディズムとマゾヒズムの凌辱である。

とくに谷ナオミの場合、高貴な財閥夫人が凌辱される被虐の美は、いかにも戦後的なロマンだが、そこに若々しい戦後日本の欲望と活力を見ることができる。ハードなSM小説が読まれなくなり、男たちがむき出しの欲望をなくした今は、日本の衰退期なのかもしれない。むしろコロナ禍の不況は吉永小百合的な、日常生活の困難があたらしい女優をもとめるのかもしれない。

ところで、吉永小百合と谷ナオミの両者を分けるのは、バストの大きさだと板坂さんは指摘する(笑)。女優でありながら早稲田の文学部を卒業した知性派の吉永小百合と、肉体派という表現が最もふさわしい谷ナオミのどちらが、みなさんは記憶に残っているでありましょうか。また、若い人たちはどう感じますか?

◆炸裂する板坂節

前回の書評が長くなりすぎた関係で、扱えなかった板坂剛さんの対談シリーズは今回も健在だ。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の日大闘争左右対決は、両者が高校時代の同窓生だったこともあって「話はもういいから、外に出て決着をつけようか」など、とくに秀逸だったが、今回は相手が民青だった人である。面白さ爆裂にならないはずがない。

この元民青氏は6.11(最初の右翼との激突)の現場にいて、全共闘のバリケードづくりをともに担いながら、なぜか闘争の渦中に民青に転じるという異例の経歴をもっている。しかも父親の会社を継いで、社長として人生を乗りきってきたという。

マジメな話もしている。ちょっと引用しよう。

S 「僕の価値観からすれば、日大全共闘は正しいと評価するけど、東大全共闘は間違っていたと評価する。従って日大が東大に行ったことは間違っていたという方程式が、僕の頭の中では成立しているんだ」
板坂「一応筋は通っているね。もう今後は日大も東大もひっくるめて『全共闘運動はああだったこうだった』っていう論じ方はやめて欲しい」

視点はともかく、これはわたしも正しいと思う。雑誌で日大闘争の特集をやったさいに、元日大生から言われたものだ。「三派系の学生は六大学が主流だから、地方出身者が多いでしょう。日大全共闘は、そうじゃないんです。日大は東京の学生が多いですからね、慶応や一橋、東京四大学の入試で落ちた人たちが、日大全共闘には多いんですよ」

おそらく地方出身者(六大学+中大)には、この「東京四大学」が何のことなのか、わからないであろう。旧制7年制高校、もしくは財閥系の大学。ということになる。具体的には、武蔵大学(東武財閥)、成蹊大学(三菱財閥)、成城大学(地元財閥)、そして学習院大学(旧華族系)の四大学である。この四大学は野球にかぎらず、年に一度の体育会の対抗戦をやっている。※関西では甲南大学が旧制7年制で、東京四大学と提携した学生募集活動を行なっている。

この四大学には入れなかったが、すこし裕福な家庭の子弟が入学したのが日本大学なのである。そして、そのあまりにもマスプロで劣悪な教育施設(教室に募集人員が入りきれない)に愕き、憤懣をかかえていたところに、不正問題(使途不明金)が発覚したのだ。

最初はひとにぎりの活動家たちの蹶起に、ふつうの学生が賛同してこれに参加した。どちらかというと、秩序派のむしろ右翼的な発想を持っていた学生たちが参加したからこそ、地をゆるがす巨万のデモが実現されたのである。

いっぽう、東大闘争の発端は医学部の処分問題であり、医学部の主流派はブント(社学同)。駒場はフロント(社会主義学生戦線)が教養部自治会の執行部、そして文学部自治会が革マル派。駒場反帝学評(社青同解放派)も勢力を持っていた。ようするに、最初から党派活動家による闘いだったのだ。

全共闘運動は全国に波及したが、バリケード闘争は日大闘争と東大闘争の真似事にすぎない。したがって、雑誌のキャッチを「全共闘運動とは日大闘争のことである」に決めたのだった。その位相は、板坂さんとSさんの論調にも顕われているといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
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