山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈後編〉

《わたしは対決の反天皇制運動から、皇室の民主化による天皇制の崩壊に賭けてみたい。そのためには積極的な議論が必要なのである》

いきなりの引用で恐縮であるが、横山茂彦さんのわたしに対する天皇制観のご意見である。横山さんは「賭けてみたい」と表現されている。わたしの根本的な疑問は、これまで達成された試しもないことに、どう考えても窮屈さを増す言論状況の中で、「なにをどう賭ける」と横山さんが主張なさっているのか。まったく訳が分からない。「賭ける」ときには持ち札なり、持ち手が必要だ。文脈からすると「皇室の民主化」が横山さんによる「賭け」の持ち札と想像されるが、わたしには見当違いとしか思えない。

それから1月27日の横山さん稿は、随分広範囲に議論が展開されている。そのなかではわたしがまったく主張していないことが、あたかも私の主張のように展開されている(一度に多くの論点を詰め込むと議論がわかりにくくなるのではないだろうか)。まず《田所さんは「左翼」をこう定義するという》と横山さんは勘違いしておられるが、わたしは自分の定義ではなく、一般的な理解に近いものとして「Wikipedia」からその定義を引用していると明示している。左翼の定義はわたしの定義ではない点はまずご確認いただきたい。

そのうえで、横山さんの元号への親和感と天皇制についての諸議論に移るのであるが、どうしてわざわざこのような問題で、わたしが取り上げてもいない、議論にまったく関係のないネット上の、どうしようもない書き込みなどを引用なさるのであろうか。

《「1名無しのエリー2018/03/30(金) 23:52:04.27ID:3Hw36Myx0明仁は最悪な朝鮮人天皇です 泥棒 朝鮮人ばかり活躍させているゴキブリ天皇 日本の敵 天皇死ね!」(5ちゃんねる)「天皇陛下が、GHQ押し付けのいわゆる平和憲法護持派でいらっしゃり、また必然的にアンチ安倍政権でいらっしゃる。」(ネトウヨ系のブログ)便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが》「便所の落書き(匿名ネット)を重視するつもりはないが」ではなく、本通信での議論とまったく無関係な「便所の落書き」(横山さんの表現)を持ち出す必要がどこにあるのだろうか。かとおもえば、急に、《天皇条項そのものに矛盾があり、国民統合としての位階制および叙勲、あるいは神社の氏子制・崇敬会などのシステムに根拠あることを、もっと暴露するべきであろう》

と、至極真っ当な指摘が出てくるので、わたしは混乱する(読者も混乱するのではないだろうか)。わたしは天皇制専門の研究者でもないし、限られた命の時間をこれ以上無駄に使おうとは思わない。わたしなりに天皇制や元号については一定の結論が出せている。

《昭和天皇の時代にもっぱら「戦争責任」で天皇制が批判されることはあっても、平成になってからは右派からの天皇(皇室)批判のほうが多いのではないだろうか。ために上皇后はメディアによるバッシングに体調を崩し、雅子妃も本来の外交を禁じられて「産まない皇太子妃」として長らく適応障害に追い込まれた》

総論違います。昭和天皇の戦争責任議論については、このような曖昧な濁しかたでは到底浅すぎる。横山さんは昭和天皇の戦争責任についてはどのようにお考えなのかをまず明確にして頂きたい。わたしは「生きて虜囚の辱めを受けず」と大元帥の立場から下級兵士に強制し、侵略戦争敗戦の挙句、天皇制とみずからの命乞いのために、マッカーサーに泣きついた、極限的に無責任で許されざる人物としか理解できない。横山さんは皇室に親和感を持っていらっしゃるので、それに続く人物の評価が上記のようになるのかもしれないが、極めて重大な事実誤認(あるいは横山さんが事実を御存知ないのかもしれない)がある。

それをここで書きたい。が、書けない。なぜか。いくら「タブーなき」鹿砦社のメディアであっても、「そのこと」を書けば、「そのこと」が事実であっても、鹿砦社業務に支障が出たり、わたし自身の身に危険が及ぶ可能性があるからだ(横山さんのメールアドレスは存じていますので、「そのこと」が「なに」を指すかを私信でお伝えするのはやぶさかではありません)。

そして「左翼は軍備を否定しない」との主張でずいぶんいろいろなことを論じていらっしゃる。違う。左翼であろうが右翼であろうが、日本国憲法を小学生程度の日本語力で読めば日本国は軍備を持てないのだ(一般に左翼が軍備や軍隊を否定しないどころか、革命にはほぼ「実力部隊」が必要であることを知ったうえで申し上げる)。だから財政問題を論じるのであればどうして軍事費(防衛費)削減に言及しないのか、との疑問がわくだけのことだ。蛇足ながら憲法9条をもう一度確認しよう。

《第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。》

天皇制が1条から8条までで規定されている次の9条が、いわずもがな上記の文言だ。横山さんの、
《わたしも陸上自衛隊は「災害警備隊」に再編成し、海上自衛隊は最低限の戦力として沿岸警備隊に再編成するべきだと思う。航空自衛隊は早期哨戒と地対空ミサイル部隊限定がいいだろう》

には賛成できない。なぜならば、現状はもっとひどい「違憲状態」であるけれども、横山さん案だって「早期哨戒と地対空ミサイル部隊」を認めている点で「違憲」であるからだ。簡単なことだ。けれども日本人(日本人だけではないかもしれない)は、成文の最高法規があって(小学生程度の読解力があれば理解できる簡易なことばであらわされて)も、平気でそれを無視し、正当化する不思議な思考の持ち主だということである。この点わたしは深く「絶望」し続けているし、横山さんの主張にまたがっかりさせられた。

横山さん。わたしは、なまじ根拠のない「希望」を語るより、事実を見据えてしっかり絶望しているほうが、小なりといえども意見を発する者の態度として真摯であると考える。しかし「絶望」は横山さんが意味するような「あきらめ」ではない。「絶望」が深ければ深いほど、光明への渇望もまた強くなるのであり、わたしは「なにもかもあきらめよう」などと主張しているのではまったくない。逆だ。

だから「左翼は軍備を否定しない」の論旨はわたしにたいするものであるとしたら、ひどく筋違いである。わたしはいま、この国の法的規定を前提に議論しているが、わたしの考えと法体系はかすりもしないほど相いれない。いずれにしても論点を絞りましょう。

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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山本太郎と天皇制をめぐる1月27日付横山さん論考に反論する〈前編〉

きょうは『建国記念日』だ。どうしてこの日が『建国』の記念日なのだろうか。本原稿がこの日に(予定したわけではないが)掲載されることを契機に、その理由をお調べいただくと(御存知の読者が多数であろうと拝察するが)、以下の文章をおわかりいただく一助になるかもしれない。

本通信で横山茂彦さんから数度にわたりご教示を頂いている。勉強すべき点と、なかなか理解ができない点、あるいは明らかにわたしと意見が違うであろうと思われる点などが混在しているので、いま一度わたしの考えを整理して生産的(?)な議論となるように、方向が誤っているのであれば修正を試みたい。

まず横山さんは、わたしが「議論を逸らしている」と指摘されている(1月27日付け横山茂彦-「左翼」であるか否かは、政治家・山本太郎への評価の基準にならない ── 田所さんの反論に応える)。議論を逸らすつもりは毛頭ないので、わたしの思考が浅いか文章表現力が不充分である可能性もあるが、再度この箇所を確認する。横山さんは、

《わたしの論旨について、田所さんは「異議がない」とされている。読んだところ本来の論点ではない「政治家の演説力」および「左翼の基準(元号批判・防衛費削減)」に論軸がある。その意味では、議論はまったく噛み合っていない。というよりも、論軸を逸らしておられる》

と指摘されている。そうだろうか。わたしは自分の見解を明らかにする前段の説明として、横山さんが安倍晋三の演説力を例示なさったので、それには同意できなかったから、小泉純一郎と橋下徹を挙げたまでで、これが主張の中心部分ではない。横山さんは、

《なかでも挙げられている橋下徹が、政権を獲得できる政治家だとは到底思えない》

と評されている。わたしが指摘したのは「演説力」の持ち主として橋下を挙げたまでで、政権を取る人物かどうか(そうでないことを願うが)はまったく念頭になかった(横山さんも「政権を取る人物か否か」ではなく「政治」を論じておられたと思うので、わたしに対する「的外れ」の指摘が、しっくり理解できない)。余計なことかもしれないが、橋下は「政治家引退」を表明しながらいまだに明らかな影響力を持ち、とくに大阪(大阪だけではなく関西といってもいいかもしれない)においては、いったん否決された「都構想」の住民投票が再び行われること、そして前回は反対に回った公明党も実質大阪維新に乗り換えたことは、横山さんも御存知だろう(ちなみに大阪市議会・府議会の「維新」、「自民」、「公明」三党の議席占有率が9割を超える事態である)。

さて、議論の中心となっている山本太郎評についての部分である。横山さんは、

《「山本太郎氏の『独裁体質』は既に表出し始めている。質問者が言うことを聞かないと『それなら俺に権力をくれよ!』と叫ぶ姿を最近何度かネットで目にした」という。言葉遣いはともかく、わたしは普通の政治家の発言だと思う。ここで「俺に権力をくれよ」というのは「政権をまかせて欲しい」と同義だからだ》

と解釈なさる。意味は理解できる。しかし表現のありようは文字で現わされるものばかりではない。山本太郎はもう「普通の政治家」ではないとわたしは感じる。「それなら俺に権力をくれよ!」と怒鳴っている姿は、「意味」としては「政権を任せてほしい」と解釈可能でもあるが、映像を見る限り、その怒気と発語するタイミングなどは、かつての彼を知る身からすると、随分と違和感を感じざるを得ない。これはわたしの率直な「感想」だ。あの変容ぶりに「政治の本質はゲバルト」であるにせよ、薄気味悪い危険性を感じる。

それから横山さんが主張された「政治は独裁である」とのテーゼに反論しない、というわたしの意見は、「プロレタリア独裁や現実の政治で『独裁』が歴史的にも行われた」ことを了解するが、それをもって「民主主義」を掲げる今日の日本で堂々たる「独裁」は具合が悪くはないか、という疑問である。実態は既に「独裁」だ。自公政権などといっても、野党に明確な反対勢力もなく、小選挙区制度を続けている以上、この国の政治風土上「独裁」は既成化しているし、この先も続くだろう。選考制度の変更なしに「独裁」から抜け出す道はないだろうし、わたしは「独裁」をまったく好感しない。

そして、わたしが山本太郎は「左翼ではない」と主張したことに、横山さんは違和感をお感じのようである。わたしは、中核派まで選挙運動に参加させ「脱被ばく」を掲げて当選した山本太郎氏の当初の主張を「左翼」(日共に象徴的な「旧」左翼か新左翼かは別にして)あるいは「左派」であろうと考えていた。その後彼の主張は徐々に変化するのである。変化するのは仕方ない。

しかし変化したのであれば、過去の主張のどこがどう間違っていたのかくらいは、平易な言葉で話す山本太郎氏であれば、わかりやすく解説してくれよ(「総括」という言葉はあえてつかわない)と思う。なぜならば、わたしは、山本太郎氏が公約に掲げた「脱被ばく」はいまでも喫緊の課題であると考えるし、それを後退させる理由がまったく見当たらないからだ。

少しわき道にそれる。自覚してわき道にそれる。山本太郎氏に限らず、わたしたちにとって、議論や討論するうえで(つまり「政治」の場において)、もっとも優先順位を高くおかれるべきテーマは、どのような課題であろうか。わたしは「命にかかわる問題」だと認識する。原発4機爆発という人類史上初の事故(事件)は、政府ですらが「首都圏から3000万人の避難を迫られる可能性」を試算していた。その危険性は横山さんも、かねてより御存知の通りである。地震の活動期に入ったこの島国において、原発停止(廃止)は、理性的に考えれば、あらゆる政治課題に優先するとわたしは感じる。もちろん、消費税廃止にも、奨学金支払い免除も悪い政策ではないが、それらはすべて「この国が存続する」ことを前提にした議論ではないのか。

繰り返すが、考えが変わったのならばそれでよい。山本太郎氏は「わたしは昔のわたしではありません」とひとこと宣言すべきではないか。彼は当選直後の記者会見で述べている。

「裏切るなんてあり得ないですよ。この人たち(選挙事務所に詰めかけたボランティア)に殺されますよ」

少なくとも人柄ではなく「政策」に賛同したひとびとに「変わったのであれば、変わった」と説明する必要があることを彼は知っていたのだ。その程度の要求でも不当だろうか。

さて、元号や天皇制についてである。横山さんとわたしは「感覚」がまったく違うようだ。横山さんは、
《元号そのものが「反動的」という評価は、少なくとも復古的であり進歩的ではないという意味で当たっているのだろう。だが、共産主義政党ではなく国民政党をめざすのなら、それほど目くじらを立てるようなことではないのではないか。たとえば、わたしは「昭和」という元号に懐かしさとアイデンティティを持っている。そこに自分の歴史(青春)が刻まれているからだ。激動の昭和を生きたことに誇りを持ってもいる。それに比して「平成」に郷愁を感じないのは、まだ記憶が生々しいからだろう。やがて「令和」も歴史を刻み、好き嫌いを超えて個人史の中に残るものと思われる》そうだ。

わたしは感覚的には一部理解できなくもないが、元号と天皇制の近代史で果たした意味を知れば知るほどに、嫌悪の念が増すばかりだ。幼少の頃、あるいは、ろくに世の中の成り立ちを知らない頃には、わたしも平気で元号を使っていた。それは「無知」であったからだ。わたしは元号に対して、少なくとも横山さんのように寛容にはなれない。次の横山さんの問いかけに、正直言えば「大丈夫ですか」と言いたいぐらいにびっくりもしている。

《個人の思いをこえて、元号に反動性があるというのならば、ぜひともそれを詳述して欲しい》

いちいち学者や研究者著作からの引用を持ち出さなくとも、元号が天皇制と直結していることに争いはないだろう。わたし個人の思いではなく、客観的事実として「元号は天皇制と結びついている」。これは間違いなのだろうか? 天皇制について横山さんは、

《むしろ天皇制が持つ融和性(汎アジア主義・国民的親和性)》

と仰天するような評価を披歴なさっている。仰天するといのは、横山さんが『情況』という雑誌の編集長だからだ。個人の意見としてそのように考える人がいるであろうことは知っているが、『情況』という雑誌の性質を、わたしは完全に誤解していたのかもしれない。天皇制のどこに「国民的親和性」があると横山さんは主張なさるのであろうか。「汎アジア主義」とはアジアへの侵略以外にどう理解すればよいのでしょうか?「ゲルニカ事件」や「日の丸君が代処分」事件などを引き合いに出すまでもなく!…いや、もうやめたほうがいいのかもしれない。

わたしは頭が悪いので、迂遠な表現が使えない。横山さんの主張を全力で理解しようと努力したが、やはり完全に無理だ。出来うることであれば安易な言葉でわかりやすく、ご教示いただければ幸甚である。今回の問いは1つにする。

「元号と天皇制は結び付いていませんか?」

(後編へつづく)

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「西成あいりん総合センターをつぶすな」の闘いに新たな動き ── なぜ、センター仮庁舎付近だけ耐震補強工事をしないのか?

◆「仮処分決定」で、再び強制排除されるのか!

大阪市西成区、JR新今宮駅前の「あいりん総合センター」(以下、センター)で続く「センターつぶすな」の闘いに新たな動きがあった。センターは、昨年3月31日閉鎖予定だったが、当日抗議する仲間が多数集まり、閉鎖できなかった。4月1日以降、センターでは労働者、支援者らの自主管理を続けてきたが、4月24日、国と大阪府は機動隊を使い、暴力的に排除した。しかしその後も、シャッター外に作られた団結小屋を中心に「センターつぶすな」の闘いが続いている。

そんな中、2月5日の午後、大阪府の職員と大阪地方裁判所の執行官らが警官を多数引き連れセンターにやってきて、周辺に野宿する人たち一人一人に、「仮処分決定」の書類を渡し、テント前の敷地に「公示書」を釘で留めていった。

以下の写真はその1つだが、稲垣浩氏(釜ヶ崎地域合同労組委員長)以下15名の名前が掲載されている。大阪府と裁判所は、すべてを稲垣氏のせいにする気なのか?

野宿者の寝床の前に釘で打たれた公示書
同上写真にある公示書(拡大)

◆「センターつぶすな」住民訴訟で明らかになった「南海電鉄」の杜撰な安全管理

「センターつぶすな」の住民訴訟(公金違法支出損害賠償等請求事件)の第6回期日が、2月3日大阪地裁で開かれた。この裁判は、センターの建て替えに伴い、南海電鉄高架下に作られたあいりん職安と西成労働福祉センターの仮庁舎の建設費用が、適正か否かを争うものだ。原告はこれまで、仮庁舎が、安全性が保証されない南海電鉄高架下に建設されたこと、しかも工事が「入札」でなく、合理的な理由がないまま、南海辰村建設と随意契約したことの違法性などを主張してきた。

前回原告が、大地震が起きた際、南海電鉄が倒壊する危険性について主張したところ、何も答えられない被告・大阪府に対して、裁判長が「上に電車が走っているので大丈夫でしょう」などと助け船を出す場面があった。裁判長は、25年前の阪神淡路大震災で起きたことを知らないのだろうか? そのため、今回弁護団は、25年前の阪神淡路大震災で、高速道路が倒壊するなどの甚大な被害が発生したこと、その後運輸省(当時)がまとめた「緊急耐震補強計画」の提言と通達、そうした耐震工事が南海電高架下の仮庁舎でも実施されなければならなかったと主張する「第4準備書面」を裁判所に提出した。

阪神淡路大震災で倒壊した高速道路
阪神淡路大震災で倒壊した鉄道高架橋

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災は、震度7、マグニチュード7・3、死者は6,434人にのぼった。書面には、この地震により、多くの建物が倒壊した。更に阪神高速3号神戸線の鉄筋コンクリート橋脚が倒壊したり、山陽新幹の高架橋が8ケ所、在来鉄道では24ケ所が落橋したこと、東海道本線でも甚大な被害が出たことを当時の写真とともに記されている。

運輸省(当時)は、震災の翌日、鉄道施設耐震構造検討委員会を設置し、7月26日「既存の鉄道構造物に係る耐震補強の緊急措置について」をとりまとめた。またこの方針に基づき、既存の鉄道構造物の緊急耐震補強計画の策定などを、全国の鉄道事業者へ通達し、その運用について指導した「解説」を出された。その「解説」によれば、阪神淡路大震災の被害の特徴は、高架橋の柱などが「せん断破壊」をおこし、高架橋が落橋したことにあるとして、緊急措置として、構造物の崩壊を避けるための耐震補強を行うこととした。被害の多かった京阪神地域を優先的に対処したうえで、新幹線、輸送量の多い線区(ピーク時、1時間の列車本数が10本以上の線区)などを対象にするとされ、実施期間はおおむね5年とされた。

ただし、高架下については「間仕切り壁」などの設置により耐震効果のある構造になっているものなどについては、対象外とするとされた。補強方法としては、鋼板巻き立て工法などがあげられていた。

◆なぜ、センター仮庁舎付近だけ耐震補強工事をしないのか?

では仮庁舎が入る南海電鉄高架下はどうか? 税金7億5千万円を投入した仮庁舎で、開業から2ケ月後雨漏りが始まったことは、これまでここで紹介してきた。構造物にどのような欠陥があるのだろうか?

南海電鉄は、25年前、運輸省から受けた「通達」に基づき、耐震補強工事を実施しなくてはならない線区に該当していたが、おおむね5年とされた期間を2十年近く過ぎて、最近ようやく難波駅と今宮戎駅の間や、萩之茶屋駅の南側で「鋼板巻き立て工法」による耐震補強工事を実施した。しかしその工事が、仮庁舎付近では行われていないのだ。

被告・大阪府は、その理由を「その場所は耐震補強の対象外である」と反論してきた。「まちづくり会議」で、南海電鉄の耐震性に疑問の声があがった際も、識者は「南海に確認したところ、今回仮移転の検討を進めている場所は、耐震化の対象外」と返答していた。データなどの提示を求めた委員に対して、府の職員は「南海電鉄を信用できないのか?」と言い返す場面もあった。

◆二重に危険な仮庁舎に労働者を閉じ込めるな!

何故センター仮庁舎付は対象外なのか? 25年前の通達では、間仕切り壁などが設置され、耐震効果がある場合は対象外とある。しかし、仮庁舎が建設される際、間仕切り壁は撤去されている。センター建て替えに反対し、連日工事現場を監視していた稲垣氏も、それを確認している。高架下で間仕切り壁を撤去して商店などにしていた個所は、この間順次「鋼板巻き立て工法」で耐震補強工事を行っている。

現在、仮庁舎がある高架下は、二重の意味で危険だということ。つまり、仮庁舎建設のために、間仕切り壁などを取り払ったことで耐震補強の対象外でなくなったうえに、耐震効果のない仮庁舎を建設したことで、鋼板巻き立て工法による耐震補強工事ができなくなってしまったからだ。

こうした理由からも、あいりん職安と西成労働福祉センターの仮移転先を、南海電鉄高架下に選んだことは、不適切だったことは明らかである。

2月3日の裁判では、この点について、南海電鉄に対して、調査を求めるための「調査嘱託申立書」を提出、裁判官はこの申し立てを認め、大阪府に回答を提出するよう求めた。

◆さらに秘密会議化する「まちづくり会議」

1月27日、西成区役所で再開された「まちづくり会議」(労働施設検討会議)でこんなことがあったと、委員の稲垣氏が組合ビラで報告している。「ところでこの日、全委員が受け取った資料の中に、センターつぶしに加担する学者を含め約20人のまちづくり会議のメンバー他が、今年1月8日に、沖縄県那覇市にあるグッジョブセンター沖縄(就労支援の窓口)に見学に行ったときの報告書(A4の紙の裏表に書かれたもの)がありました。見学には朝日新聞の記者まで同行していました。釜合労はそんな見学があったことを知りませんでした。

会議の終わりころになって、見学に参加した白波瀬桃山学院大学社会学部准教授がこの報告書について説明をおこないました。説明を終えた後、白波瀬氏がこれは公表しないでほしいという意味のことを言い、その理由として『相手方に了解を得ていないから』というので、釜合労稲垣は『公表できないものは受け取れない』と言って持ち帰ることを拒否しました。すると白波瀬氏が稲垣の座る席まできて、返すように言って手を差し伸べてきたので、その報告書を返し、『この会議は秘密会議ではない。公表できないなんておかしい』と強く抗議し退席しました。過去47回会議がありましたが、公表してはならない資料が配られたことは、釜合労が知る限り一度もありません」(2月3日付け釜合労チラシより抜粋)

どういう目的のツアーだったか、お金はどこから出たか、あるいは自費なのかなどは不明だが、表に出してはならないような資料が出るなど、まちづくり会議がますます「秘密会議化」していることだけは明らかだ。「誰も排除しない」ではなかったのか?

全国の皆さんには、改めて釜ケ崎がどうなっているかにご注目いただきたい!

センター北側に作られた毛布箱には、全国から毛布が送られている

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。月刊『紙の爆弾』2020年1月号には「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」を、『NO NUKES voice』22号には高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
『NO NUKES voice』22号 尾崎美代子の高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」他

新型コロナウイルス肺炎に閉じ込められた、クルーズ船乗客たちの不自由さ ── 今後危惧される拘禁性ノイローゼ(拘禁病)と基礎疾患での重篤化

2週間の拘束となっている豪華クルーズ船ダイヤモンドプリンセスの乗客、3,771人(乗員1,000人余をふくむ)から、新たに3人の感染(累計64人)が判明した。濃厚接触者273人のほかに、70歳以上の乗客(1,000人)には、再検査が行なわれているという。

バカンスのためにクルーズしていたのに、まるで罪人のように船室に拘禁されるとは、乗船している方々に同情するしかない。報道によれば、船内感染を予防するために、船室から出ることも禁止されているという(窓なし船室の客だけデッキに出られる措置となった)。また、香港でも別のクルーズ船(3,000人乗船)に乗客の下船が禁止されている。日本政府は新たなクルーズ船の入港を拒否する方針だという。

2週間の経過観察の場合に心配されるのは、拘禁性ノイローゼ(拘禁反応)である。拘禁病と総称され、症状は多岐におよぶ。女性の場合はほぼ例外なく無月経となる。

わたしの経験(三里塚闘争で1年間の拘置)では、同じ被告(公判グループ約50人)のうち、2人にこの症状が出た。ひとりは吃音(持病)が恒常化し、公判廷で陳述書を読むのに苦労していた。獄外では人に対する指示も明快で、よく喋るほうだった人が、保釈後もまるで別人のように寡黙になったのを記憶している。

もうひとりは、ちょっとマズい感じというか、拘禁障害がヘンなかたちで現出した。おそらく無意識だろうと思われるが、近くにいる女性に抱きついてしまうのだ。弁護士をまじえた被告団会議で、相被告の女性に抱きついてしまった。襲いかかるという表現があてはまる感じで、その人の仲間(同志)から「女性差別行為」だと断定されたから困ったことになった。左翼運動の場合、たんなる痴漢行為が「差別」とされる。女性の政治的な決起を抑圧する行為、というのがその内容である。

年長の相被告(他党派)から「病気なのだから、治療の方向で考えるべき」という意見も出たが、とりあえず女性から離れた場所に座らせるなどの処置がとられたのだった。確信的な政治犯においてすら、自由を拘束された人間がいかに苛酷な精神状態に置かれるか、それは死刑囚における心神耗弱などにも類例は多い。重篤なウイルス感染かもしれないという不安、部屋から外出できない乗客たちが心配である。

ところで現在、乗客たちがクルーズ船に留め置かれているのは「船長命令」だという。感染者と診断された人は指定感染病罹患者として強制入院させることができるが、感染が特定されない乗客は「身分」が不確定なまま、14日間の経過措置ということになるのだ。しかも客船であることから、公海上・接続海域・領海という法的な区分で主権のおよぶ範囲が決まってくる(公海上ならイギリス)。現状では日本国の要請で、イギリス人(船籍はイギリス・船主はアメリカ)船長が命令を発しているという法的な状態なのだ。

しかし船長の命令権が船舶の安全な航行に関するものである以上、行動の自由(基本的人権=不当な拘束を受けない)と対立するのは明白で、乗客が船を降りようとすれば、これを阻止する法的な根拠はない。にもかかわらず、乗客を船内に停留する政府の方針に、病人は隔離するという発想があるのではないか。乗客は大半が高齢者であるという。持病をかかえ、常用薬が足りなくなっている人もいるという(優先的に搬入方針だと報じられている)。持病を持っている感染者が死亡に至るケースが増えているという。

感染とは別個に拘禁性の病状が出る前に、感染がない人たちは自宅に帰すべきではないだろうか。船内に留めて感染者が増えることをやむを得ない前提として、船外(一般社会)に出さないというのなら、それは棄民の思想である。ハンセン氏病の例にあるとおり、日本社会には病人を隔離する精神的な風土がある。

現段階では、インフルエンザに比べるとはるかに感染力は低く、症状の重篤性(死亡率)も低いとされている。症状が出ない症例があることから、危険なのだというのはウイルスが新型だからであって、ぎゃくにいえば基礎疾患がなければ無病状で終わるということでもあるのだ。ホテルでの隔離もふくめて、もはや拷問のような「船内拘置」はやめるべきではないか。


◎[参考動画]米国人乗船客の対応は日本政府に一任…米政府、判断(ANNnewsCH 2020/02/08)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

マイ・センチメンタル・ジャーニー〈6〉 2月1日が来たら思い出す(後編)── 私の闘いの〈原点〉 鹿砦社代表 松岡利康

前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。

72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。  

71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)

三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。  

『われわれの革命』表紙

そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。

以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。

前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。

9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。

6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。

71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)

「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。 

沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。

さて、学費闘争に話を戻しましょう。──

11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)
「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。

一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。

当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。

そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。

正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。

まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。

「賽は投げられた!」── もう後には引けません。

毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。

入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。

2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)
2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕

さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘
2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。

120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。

連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。 

「被告団通信(準)」

裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。

起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。

明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。

ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文

M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。

有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。

実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。

被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。

ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
 

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)
2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。

(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』
板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

《鹿砦社特別取材班座談会》「カウンター大学院生リンチ事件」の「終結」について

 
リンチ直後の被害者大学院生M君

松岡 ご苦労様です。われわれが「カウンター大学院生リンチ事件」と呼び、巷間では「しばき隊リンチ事件」と呼ばれる、大学院生M君に対するリンチ事件で、ようやく確定判決で認められた賠償金が、金良平氏の代理人に就任した神原元弁護士からM君の代理人大川弁護士に振り込まれました。当初の代理人は別の弁護士でしたが、今年になり、なぜか代理人が交替しましたけど、まずはこの事件の一つの区切りといえるでしょうから、きょうは皆さんの意見や感想も聞かせてください。

A  ともかく、お疲れさまでした、が正直なところですわ。判決内容はともかく賠償金が支払われへんのちゃうか、って本気で心配しよりましたよってに。

B  難しいですよね。これで法的には一応終わったわけですよね? 私は本質的なところでは何も終わってはいないと思っていますが……。

C  M君の事件はね。でも鹿砦社は対李信恵第2訴訟(李信恵氏が原告となった進行中の裁判、第1訴訟は鹿砦社が原告、李信恵氏が被告で既に鹿砦社の勝訴が確定。第2訴訟は第1訴訟の反訴として提起されたが、取り下げ、あらためて別訴として提訴された)と、対藤井正美訴訟を抱えているから、終わりとはいえないよ。

D  長かったですよね。誰が管理してるのか知らないけど「支援会」の活動には頭が下がりました。

松岡 支援会は私が責任を持つ形で、少人数で運営しています。口座は既に閉鎖しましたので、遠からず会計報告ができるでしょう。

B  結局「支援会」のメンバーは最後まで僕らにも秘密でしたね。

松岡 秘密主義じゃないですよ。最低限の人数で動かしただけです。お金が絡む問題でもあり、口座は大川弁護士に管理していただいていたことをTwitterでも公表していました。いまだに会計報告をしないで少なからずの方々から首を傾げられている、どこぞの支援会と違い、私たちは1円のお金も飲食には使っていませんし、厳密に管理してきました。また、鹿砦社はM君裁判とは別に、李信恵氏や藤井正美らと訴訟を行っていますが、こちらにはもちろんですが、1円も使っていません。鹿砦社関係は鹿砦社の資金から裁判費用を出しています。

リンチ直後に出された金良平(エル金)[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

C  これまで5冊だったっけ? この事件に関して出した本。最後にまとめみたいなことは必要だと思うな。

松岡 そうですね。今は緊急出版をいくつか抱えてきましたので後手になりましたが、早い時期に取り掛かりたいところです。

A  何年になるんやろ? まだ最初の頃、僕30歳やったもん。

B  もうすぐ4年やね。Aは突撃で下手ばかり打ってた(笑)。

A  そんなん、いきなり「国会議員Aのコメントとって来い!」言われても、東京の地理も知らん大阪人にできるもんちゃいますよ。

C  30歳超えてなにを甘っちょろいこと言ってるんだ!って怒ったよな、俺。

B  新聞や出版の経験があるのにね。たしかにAの詰めはいまだに甘いわ。

A  ……。

D  結局、僕らが問いたかったことが世の中に訴求したかどうか、その点は気になりますね。

C  最後はいつもそこで頭悩ますよね。でも、事実関係は確実でどこのマスコミも切り込まないアングルを維持したから、それは重要なことだったと思うね。おそらく、われわれがやらなかったら闇に葬られていたんじゃないかな。だってそうだろう、われわれが知ったのは事件から1年余り経っていたからね。

大学院生リンチ加害者と隠蔽に加担する懲りない面々(『カウンターと暴力の病理』グラビアより)

B  そうですよね。不思議なのは後追いがまったくなかったことですね。世間で「リベラル」と言われている人で応援してくれた人といえば……?

A  元読売新聞記者の山口正紀さんくらい違います? あとは黒藪哲哉さんくらいやろか? 先頃亡くなった、『週刊金曜日』発行人だった北村肇さんら、ほんの一握りの方々ですよね。山口さんにしろ黒藪さんにしろ、当初はご存知なく、関心持たれたのは、われわれが資料を添えて説明してからですよね。『週刊金曜日』内部ではささやかれていて、北村さんは少しご存知のようでしたが、事件が起きた大阪と、遠く離れている東京では、事件に対するスタンスも温度差があって、われわれが事件を知って深刻になったのとはまた違う感じだったようです。

D  逆に想定外の「義絶」が相次ぎました。

C  そうそう。田所さんの「辛淑玉への決別」(田所敏夫「辛淑玉さんへの決別状」)にはじまり、社長の鈴木邦男への義絶(松岡利康「【公開書簡】鈴木邦男さんへの手紙」)へと。

A  社長の鈴木さんとの仲違いは、業界では話題になりました。

C  ちゃんと言葉をつかえ!「仲違い」じゃない!「義絶」だ、A!

A  あっ、すいません。

B  相変わらず詰め甘いな。

D  「踏み絵を踏ますな」という人もいたけど、そうじゃなかったですよね。「これ見てどうも思いませんか?」が僕らの原点。

松岡 最初に事件直後のM君の写真を見た時、単純に「これは酷い」と思いました。これが私の出発点でした。すぐに田所さんに連絡し、「これは黙っていたらアカン」と一致しました。まさか、こんなにたくさんのライターさんにお世話になって、5冊も出版することになろうとは思いませんでした。

B  社長を動かしてる動機ってなんなんでしょうか?

松岡 今も言ったように「これは酷いな」という単純なことですよ。もう少し込み入った事情もないわけではありませんが、そのあたりに興味のある人は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』を読んでください。

A  読みました。ベトナム戦争で死んだアメリカ兵の死体洗いの話、びっくりでしたわ。

松岡 Aさんは私の原稿も読んでくれましたか?

A  はぁ。読んだんですけど、ちょっと難しくて……。

C  しっかりしろよ!

松岡 私は学生運動や社会運動内部で繰り返されてきた暴力の問題、いわゆる内ゲバやね。それを長年考えてきていて、かつて作家の高橋和巳先生らが警鐘を鳴らしたのに軽視され、多くの犠牲者を出しました。「まだこんなことやってるんだ!」という義憤もあったね。いわゆる内ゲバでは、私の行った大学では2人亡くなっていますし、亡くなりはしませんでしたが、あるノーベル賞作家の甥っ子の先輩が、一時意識不明になったり。なによりも私も「ゲバ民」と言われた共産党の集団に襲撃され病院送りになったことなどが悪夢のように甦ってきたりしてね。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の後のほうに掲載している長文の拙稿(草稿)は、そうしたことについて、私なりに考え、書き連ねたわけです。

B  ともかく最後にまとめの、もう一本出すということですね。

D  新たな取材予定があるんだったら、社長早めにお願いします。

松岡 それは秘密です。

一同  えっ! まだあるんですか!

松岡 当たり前じゃないか。冒頭に述べたように、賠償金が払われ訴訟実務としては終結しただけで、本質的な問題は、まだ何も終わっていないんでね。特に、普段は元気がいいのに、この事件について質問したり取材すると、沈黙したり逃げたり開き直ったり隠蔽に加担したり豹変したり……「人間としてどうなの?」と言わざるをえない、いわゆる「知識人」の狡さに対しては徹底的に追及、弾劾しなくてはなりません。私のことを「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」と侮辱した徒輩がいましたが、「棺桶に片足突っ込んだ爺さん」にも意地がありまっせ!

D  社長、若手使ってくださいね。俺もうフットワーク効かないし。

松岡 心配しないでください。無理は言いますから(笑)。この件だけでなく数々の直撃取材を成功させたHT君のような根性が欲しいよね。

B  これだから鹿砦社は……。

C  そうそう、忘れないように。M君から取材班にも「くれぐれもよろしく」ってメッセージありましたよね。

C  M君もこれを区切りに新しい未来を切り開いてほしいね。

B  きっといいことありますよ。

松岡 そう思います。自分で言うのも僭越ですが、何度も地獄に落とされたながらも浮上した私のように、人生、悪いことばかりではなく、きっと良いことがあるよ。M君も、国立大学の博士課程まで進んだ秀才だし、研究課題も、日本では珍しい分野なので、彼が必要とされることがきっと来ると私は信じています。アントニオ猪木じゃないけど、「苦しみの中から立ち上がれ!」と言いたいね。皆さん、あと少しよろしくお願いします。

A  社長、次あるんだったら、ちょっと前借りできまへんやろか?

松岡 それではAさんにはもうお願いしません。

A  キツー。

B  Aよ、HT君のように前借りできるくらいに仕事しろよ。

A  あっ忘れとった。こんなんあるんですけど。

C  お前なんで今まで出さなかったんだ! これ超ド級の資料じゃないか!

B  おいおい! また大騒ぎだぞ!

松岡 これはびっくりしました。使えますね。

(鹿砦社特別取材班)

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

《死刑破棄殺人犯の実像1》真顔で「政府の陰謀」を訴えた淡路島5人殺害犯

2015年の淡路島5人殺害事件で殺人罪などに問われた被告人・平野達彦(45)の控訴審で、大阪高裁は1月27日、「被告人は犯行時、妄想性障害により心神耗弱状態だった」と認定して刑法39条を適用し、一審・裁判員裁判の死刑判決を破棄、無期懲役を宣告した。裁判員裁判の死刑判決が控訴審で破棄され、無期懲役に減刑されたのはこれで7例目となった。

この現象に関しては、「裁判員裁判が形骸化する」などの批判的な意見が多いが、死刑を破棄された殺人犯たちは一体どんな人物なのか。筆者が実際に会った3人の素顔を3回に分けて紹介する。第1回目は、死刑判決が破棄されたばかりの平野達彦。

◆裁判員裁判では、「責任能力はある」と判断されたが・・・

事件を起こす前、SNSで「政府の陰謀」を告発していた平野

平野が事件を起こしたのは今から5年前、2015年3月16日のことだった。兵庫県・淡路島の小さな集落で生まれ育った平野は当時40歳。精神障害による入通院歴があり、事件を起こすまで長く実家で引きこもり生活を送っていた。

そんな平野がこの日早朝、近所の2家族の寝込みを襲い、計5人をサバイバルナイフでメッタ刺しにして殺害した事件は社会に大きな衝撃を与えた。そしてほどなく注目されたのが、平野がインターネット上に残していた「活動の形跡」だった。

「日本政府は何十年も前から各地で電磁波犯罪とギャングストーキングを行っています」

平野は事件前からSNSでそんな「陰謀論」を書き綴っていた。それと共に被害者たちの写真をネット上で公開し、「工作員」呼ばわりしたりもしていた。平野は精神刺激薬の大量服用を長期間続けたのが原因で、犯行時は薬剤性精神病に陥っていたのだ。

平野は2017年2~3月に神戸地裁で行われた裁判員裁判でも、「事件はブレインジャックされて起こした」「本当の被害者は私であり、私の家族。祖父も自殺に見せかけて殺された」などという特異な冤罪主張を繰り広げた。さらに事件前からネット上で訴えていた日本政府の「電磁波犯罪」を改めて法廷で告発したりした。

このように法廷で荒唐無稽なことばかりを言っていた平野だが、見た目はグレーのスーツと銀ブチめがねが似合う普通のサラリーマン風で、話しぶりも真面目だった。それだけに余計に異様さが際立っていた。神戸地裁の裁判員裁判では同3月22日、責任能力を認められたうえで死刑を宣告されたが、筆者は傍聴席から平野の様子を見ていて、正直、「壊れている」としか思えなかった。

◆死刑を恐れる雰囲気が全く感じられない理由は・・・

筆者が神戸拘置所で平野と面会したのは、平野が神戸地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けた翌日の朝だった。透明なアクリル板越しに向かい合った平野に対し、筆者は何より気になっていたことを単刀直入に質問した。

「平野さんは死刑が怖くないのでしょうか?」

筆者がこんな質問をしたのは、公判中に平野から死刑を恐れる雰囲気がまったく感じられなかったためだが、平野はサラリとこう答えた。

「私は電磁波攻撃という死刑以上のことを何年もされていますから」

電磁波犯罪とは一体何なのかと質すと、平野は「脳内に音やかゆみ、刺痛を送ってくるのです」と真顔で説明してくれた。では一体、誰が何の目的で平野にそんなことをしているというのか。

「“五感情報通信”というのをご存知ですか。日本政府はそのための人体実験として私に電磁波攻撃を行っているのです」

“五感情報通信”とは、電話やネットでは伝達できない触覚や嗅覚、味覚なども含めた五感すべての情報を伝える通信技術のことで、現在は国が中心になって研究を進めているものだという。「日本政府がその人体実験のため、自分に電磁波攻撃をしかけている」と、平野は本気で思っているようだった。

このように平野の話の内容は荒唐無稽だが、話の中には実在する人や企業、組織、団体もチラホラ出てきた。たとえば、上記の“五感情報通信”も国がそういう通信技術の開発を進めているのは事実だ。検察官は裁判で「被告人は自宅で引きこもる中、インターネットで情報を収集し、独自の世界観を築いた」と説明していたが、平野は実際、ヘヴィーなネットユーザーだったのだろう。

◆裁判で「精神障害」を主張した弁護士を批判

平野の死刑判決を破棄、無期懲役に減刑した大阪高裁

平野によると、事件を起こした動機は「刑事裁判をうけ、日本政府の電磁波犯罪を国内外に知らしめること」だったという。そんなことを大真面目に言う平野に対し、私は「弁護人は平野さんのことを精神障害だと言っていましたが、不満ではなかったですか」とも尋ねてみた。すると平野は「もちろん、不満です。私は精神障害ではないですから」と言った。そしてこう付け加えたのだった。

「弁護士は精神障害のでっち上げに協力したのです」

間違いなく平野は相当重篤な精神障害者だった。ご遺族は無念だろうが、事実関係を冷徹に見極めれば、「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」という刑法第39条第2項の規定を平野に適用した司法判断を否定するのは難しい。この件では、裁判官を批判している人が多いが、「平野のような殺人犯も死刑にすべきだ」と考える人が批判の対象とすべきなのは、刑法39条だ。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

7日発売!月刊『紙の爆弾』2020年3月号 不祥事連発の安倍政権を倒す野党再建への道筋
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

東京五輪で福島は復興するのか? 2月9日(日)、大阪浪速区「ピースクラブ」で福島三春町在住カメラマン飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態

3月26日、福島県楢葉町のJヴィレッジからスタートする東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレールートに、福島県浜通りで唯一決まっていなかった双葉町が、追加される見通しとなった。これにより3月26日から始まる東京オリンピック・パラリンピックの聖火リレーが、甚大な被害をうけた福島県浜通りのすべての町村を通過することになる。

一方、政府は、1月21日、3月11日に政府が主催する東日本大震災の追悼式を、発生から10年となる来年の式典を最後に終了することを発表した。聖火リレーで、福島をくまなく回り、福島は震災と原発事故から不死鳥のように蘇ったとアピールし、原発事故の被害をなかったこと、あるいは終わったことにするためだ。それは同時に、「原発は事故を起こしても、10年経てば『復興』できる」という、新たな「安全神話」を完成させることだ。嘘とまやかしの「復興五輪」の実態を暴いていこう。
 

◆徹底除染したのは「聖火リレー」のルートだけ?

3月21日、福島県は、福島県内の聖火リレールートの空間放射線量の測定結果を発表した。それによれば、空間放射線量の最高値は、沿道が飯舘村の毎時0.77マイクロシーベルト、車道が郡山市の毎時0.46マイクロシーベルトであり、国の被ばく許容限度の毎時0.23マイクロシーベルトを超える地点が、13ルートもあることがわかった。しかし県は、走者や応援者の滞在する時間を約4時間と考え、「開催に問題ない」としている。果してそうだろうか?

昨年12月、スタート地点の楢葉町のJヴィレッジ付近の駐車場で、地表で毎時70.2マイクロシーベルト、地上1メートルで毎時1.79マイクロシーベルトの場所が見つかり、環境省が東電に再除染を要請し、実施されたことが明らかになった。高い放射線量が残る地域、あるいは除染後に再び上がった地域は、ここだけではないはずだ。福島県三春町在住のカメラマン飛田晋秀さんは「除染はリレーが通過する道だけを対象にしているんです。その周辺には、まだまだ高線量の場所が存在すると思いますよ」と説明する。

広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」

実際、飛田さんが、昨年暮れにアメリカのマスコミを大熊町に案内した際、ゴーストタウンとなった大野病院近くの商店街周辺で、毎時44.5マイクロシーベルトを計測したという。周辺もだいたい毎時30マイクロシーベルト。

聖火リレーは、当然ここは通らない。大熊町のルートは、常磐道の高架下付近からスタートし、東電の社員寮、社員食堂などが立ち並ぶ大川原地区を走りぬけ、昨年新社屋に変わった大熊町役場をゴール地点とする約1.0キロのコースである。

昨年3月、私もここを訪れたが、瀟洒な東電の社宅が立ち並ぶその一帯は、「ビバリーヒルズ」をもじって「東電ヒルズ」と呼ばれている。広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」は、昼食時、一般客にも開放されているが、利用するのは、作業服姿の工事関係者や作業員、制服姿の役場職員がほとんどで、家の片づけ作業などで町に戻ってきたであろう人は、ごくわずかだった。

役場の近くに復興住宅が出来たが、「帰還しろ!帰還しろ!」という役場職員自身が、じつは福島市や郡山市、さらに遠い会津若松市から通っているという。戻る人は、どこの町村も同じで、65歳以上の高齢者であるという。

広くて豪華な東電の社員食堂「大熊食堂」

◆ハコモノからハコモノへ走る飯舘村の聖火リレールート

飯舘村の伊藤延由さんが飯舘村村内の聖火リレーコースのほぼ中間点で採取したデータ。道路脇から約2mの農地。ここに立って聖火リレーを応援?

私たち「西成青い空カンパ」が支援する飯舘村の聖火リレーのルートには、さらに驚かされる。飯舘村は、大阪市とほぼ同面積をもち、そこに20の行政区がある。原発事故後の復興計画では、当初、帰還困難区域の長泥地区を除く19の行政区で復興を進めると計画されていたが、その後、まずは「復興拠点」をきめて、そこを先行的.集中的に復興させように変わっていった。

安倍首相が、2013年9月、IOC総会で「汚染水はアンダーコントロール(制御)されている」とプレゼンテーションを行い、五輪招致を勝ち取って以降である。福島第1原発の汚染水がアンダーコントルール(制御)されていないことは、この間汚染水の処理問題を巡り、混乱を極めていることからも明らかだ。いわば安倍首相の嘘のプレゼンで、だまし取った東京五輪のために、飯舘村の復興計画が当初案から大幅に変えられてしまったのだ。

復興拠点に決まった深谷地区の幹線道路沿いには、飯舘村の道の駅「までい館」、「花き栽培施設」(ガラスハウス)、大規模太陽光発電所、村民交流センター「ふれ愛館」などが次々と建設されてきた。昨年3月、訪れた際には、までい館の裏手に村営住宅が建設され、までい館北側の敷地1万2,790平方メートルには、多目的ひろばの建設.整備が進められていた。聖火リレーは、まさにこの「ハコモノ」(ふれ愛館)から「ハコモノ」(までい館)の約1.2キロを走る。大阪市内ならば、心斎橋駅から難波駅ほどの距離だ。この短い区間を走って、飯舘村の良さが伝わるのだろうか?

◆東京五輪で福島は本当に「復興」するのか?

2月9日(日)14時より、私たちは、大阪市大国町にある社会福祉法人「ピースクラブ」にて、福島県三春町から飛田晋秀さんをお招きして講演会を行う。

もともと全国を回って職人さんを撮っていた飛田さんだが、2011年の大震災と原発事故後、事故の被害、被災者の苦しみを風化させてはならないと、被災地の惨状を撮り続けている。そうした貴重な写真の紹介しながら、福島の現状を語る講演会の回数は、国内外で300回にも及ぶという。

福島県内の聖火リレーのコースが決まった際、福島県の内堀知事は、原発事故から復興した「光と影」の両方を伝えていきたいと話した。しかし、決まったルートはすべて「光」の部分だ。そこだけ切り取ったようなルートもある。たとえば浪江町のルートは、国主導の「福島イノベーション・コースト」構想が進められている「福島ロボットテストフィールド」をスタートし、「福島水素エネルギー研究フィールド」をゴールとする、わずか0.6キロの距離だ。東京五輪開催にむけて、無理矢理「光」の部分をつくってみた、と穿った見方をするのは、私だけだろうか?

例えば、帰還困難区域の屋根が抜け落ちた建物、イノシシなど動物に荒らされてしまった室内、中身の味噌まで食べられてしまった味噌樽、ゴーストタウンになってしまった商店街、飛田さんの知り合いが、富岡駅から大熊町役場に歩いた際、誰とも会わなかったという、人の戻らない町なみ。マスクもしないパトロール中の若い警察官、ガードマン……。

2月9日、飛田さんには、こうした、大きなメディアが語らない、語れない、福島の復興の「影」の部分を大いに語っていただく予定です。

なお、当日は、飛田さんの写真集『福島の記憶 3・11で止まった町』の販売と、福島出身のあかりさんと戸張岳陽さんで結成する「アカリトバリ」の演奏もあります。多くの皆様のご参集を願っております。

2月9日(日)14時、大阪「ピースクラブ」で福島県三春町在住カメラマンの飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態
2月9日(日)14時、大阪「ピースクラブ」で福島県三春町在住カメラマンの飛田晋秀さんが語る嘘とまやかしの「復興五輪」の実態

◎[関連情報]飯舘村で聖火リレーコース(1.2km)の道路脇農地等の土壌測定を行っている伊藤延由さんのツイッター https://twitter.com/nobuitou8869

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。月刊『紙の爆弾』2020年1月号には「日本の冤罪 和歌山カレー事件 林眞須美を死刑囚に仕立てたのは誰か?」を、『NO NUKES voice』22号には高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」を寄稿
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58
◎[参考動画]飯舘村深谷地区の道の駅裏に建設・整備された村営住宅(著者ツイッター)

『NO NUKES voice』22号 尾崎美代子の高浜原発現地レポート「関西電力高浜原発マネー還流事件の本質」他
私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

マイ・センチメンタル・ジャーニー〈5〉 2月1日が来たら思い出す(前編)── 私の闘いの〈原点〉 鹿砦社代表 松岡利康

2月1日の本通信で述べたように、私には3つの記念日があります。まずは誕生日の1951年9月25日、2つ目は、若かりし学生時代、学費値上げに抗議し最後まで闘い逮捕されたこと(1972年2月1日)、そして時は流れ再度の逮捕(2005年7月12日)です。

ここでは、2つ目の学費値上げ阻止闘争での逮捕について述べてみましょう。

 
板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

先に出版した『思い出そう! 一九六八年を!!』 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に記述されているように、日本のみならず世界的に、1960年代後半から70年にかけての時代は、叛乱と変革を求めた時代であったことは、今更言うまでもありません。

70年代は、そうした闘いが一段落し、60年代に比して、さほど評価されません。しかし、はたしてそうでしょうか? 「日本階級闘争の一大転換点」といわれた沖縄「返還」をめぐる闘い、新空港建設をめぐる三里塚闘争を中心として、60年代後半に劣らず盛り上がりました。72年に沖縄が「返還」(併合!)され75年にベトナム戦争が終結するまで闘いは続きました(いや、それ以降も闘いは続きましたが)。

ただ、69年に2人が亡くなった、新左翼内部での内ゲバが、70年代に入り激化し、さらには連合赤軍問題など、暗黒の時代になっていったこともまた事実です。私たちは、この問題も、いわゆる「7・6事件」(ここでは詳しくは述べません。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』収録の拙稿参照)の再検証、さらに、私たちが真相究明と被害者支援に関わった「カウンター大学院生リンチ事件」の解明によって、今後の社会運動内部における負の遺産として止揚していかなければなりません。それが、長い間、末席から学生運動、社会運動を見てきた私に課せられた課題として取り組んできました。

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

1970年に私は同志社大学に入学しました。同志社大学は、60年安保闘争以来、旧左翼(日本共産党)と袂を分かち、ブント(共産主義者同盟〔略称=共産同。下部の学生組織が社会主義学生同盟〔社学同〕)といわれる新左翼党派の一大拠点として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引していました。それが前年の赤軍派の分派で死者をも出し、ブントは解体、関西ブント系ノンセクトの「全学闘争委員会」(全学闘)が残り、いわば「独立社学同」化していました。60年安保闘争後、第一次ブントが解体した中で、大学によっては独立社学同として残ったと聞きますが、10年後の同志社もそうだったといえるでしょう。

当時、日本共産党は京都府知事を擁立し、京都は日本共産党の強固な地盤として在り、御所を挟んでその強力な拠点=立命館大学があり、そこから武装して出撃した日本共産党(あかつき行動隊ともゲバ民とも言われました)からの激しい攻撃に耐えて、学友会/各学部自治会を再建し運動を持続していました。そんな中、今では想像できないほどの多数の学生が頑張っていました。場所的拠点としての学生会館(今はありません!)があり、受け皿としての全学闘/学友会があったからこそですし、一部の先輩方がまとめていました。私見ながら、先輩の一人、KHさんがいなかったら、とっくに日本共産党に取られ、ほとんどの他大学がそうだったように、運動は混乱していたでしょう(運動の混乱は私たちが同大を去ってから訪れたそうですが)。

1970年ということで安保改訂の年でしたが、実質的には前年の大弾圧―大量逮捕で雌雄は決していて、70年はカンパニア闘争に終始しました。この年に、各運動体は、組織の建て直しを図った年だったと思います。

それでも、今では想像できないほどの人たちが学園や街頭で闘いました。12月には沖縄で「コザ暴動」が起き多数の逮捕者や負傷者を出し、沖縄「返還」を前にし翌年の闘いの爆発を予感させました。

そうして1971年、この年は年初から三里塚第一次強制収容阻止闘争で闘いの火蓋が切られ、4~6月沖縄返還協定調印阻止闘争(京都では初めて市内中心部での市街戦となった5・19祇園石段下武装制圧闘争がありました)、7月三里塚1、2番地点攻防戦、9月三里塚第二次強制収容阻止闘争(機動隊3名死亡)、11月沖縄返還協定批准阻止闘争(反戦派女性教師、機動隊それぞれ1名死亡。機動隊員の死亡ばかりが強調されますが、実は反戦派女性教師も死亡しています)と盛り上がっていき、11・19日比谷暴動闘争では中核派全学連委員長に破防法も適用されました(破防法適用は、69年4・28沖縄闘争でブントと中核派に計5名、70年のハイジャックで赤軍派の塩見孝也議長に続くもので、それ以降は発令されていません)。

さらに秋からは全国の私立大学で学費値上げ阻止闘争が盛り上がっていきました。東京の早稲田、関西では(手前味噌ながら)同志社、関西大学などが拠点となりました。関西大学では、革マル派が深夜バリケードに侵入、中核派を襲撃し、同志社の先輩の正田三郎さんら2名が殺されています。正田さんは、真面目な活動家で、同志社キャンパスでたびたび見かけ、この年の4月の入学式での情宣中、日本共産党に共に襲撃されましたので、これにはショックでした。

今から思い返しても闘いの日々でした。60年代後半の先輩らの闘いに負けるな、越えるぞという想いで闘いました。──

三里塚闘争では、現闘団を置き、大木(小泉)よねさん宅裏に現闘小屋を作るところから始めました。現闘小屋の設計を東大の建築科の方が行ってくれたそうで、京都から、同志社だけでなく京大や他大学の学生も含め多くの活動家が参加しました。7月に全学闘(の中の文学部共闘会議〔略称・L共闘)の直接の“上司”だった芝田勝茂(現在児童文学作家。すでにカミングアウトされていますので実名表記します)さんが逮捕され長年の裁判闘争を余儀なくされました。これが、私が9月の第二次強制収容阻止闘争に赴く契機になりました。「先輩が逮捕されたのにオレはなぜ一緒に闘いに行かなかったのか」との強迫観念にさいなまれたからです。

芝田さんは、長年の裁判闘争のために住居も東京に移し働きながら頑張られましたが、以後作家修行に携わると共に、本業の子供とのキャンプ活動に精を出し、定年退職後の今も個人事業として毎年行っておられます。作家業と共にライフワークになったようです。

さて、芝田さんが獄にある中、9月の第二次強制収容阻止闘争に一緒に行ったのは、後に草創期にあったセブン・イレブン・ジャパンに入り、日本のコンビニの礎を築き常務取締役で退社したUMさんでした(現在コンビニは、急発展したことで歪が出ていますが、これはこれとしてUMさんが頑張ったことは事実で評価されてもいいと思います)。UMさんは私同様逮捕を免れ、その後共に学費闘争を闘うことになります。UMさんがどういうふうに逃げたか分かりませんが、私は沼に腰までつかり必死で逃げました。この時、「これに比べれば、どんな闘いもできる!」と思いました。

セブン・イレブンを創った鈴木敏文氏は、かつて日本共産党の活動家だったといわれ、大学卒業後、出版取次大手の東京出版販売(東販。現在のトーハン)に入り組合の委員長として名を馳せました。そんなことで、かつて洋菓子のタカラブネがそうだったように、声を掛けられたのでしょうか。いつか会って聞きたいと思います。

ちなみに、政治評論家の田崎史郎氏(元時事通信社)も三里塚闘争で逮捕されたことがあるといいますが、彼のその後の人生で、このことが活きているのでしょうか。しかし、逮捕されても優秀であれば大手通信社に入れるような時代でもありました(マスコミにはリベラル・左派の人たちが多くいました)。

三里塚から京都に戻ると、キャンパスでは学費値上げ問題が語られていました。休むまもなく闘いの準備です。

当時の同志社は、ある意味で変な大学で、職員に、学生運動経験者や学生運動に理解がある方々が多くいて、情報はどんどん入ってきていたようです。「ようです」と言うのは、私たち下級生には直接情報が入るルートは知らされず、先のUMさんら上級生の幹部のみが知るところでした。なので、情報源は秘匿されました。また、情報が、かなり信憑性のあるものだったというのは、のちの封鎖解除の日程が当たったことからも判ります。

心ある教職員の中にも、詩人でもある学生課長だった河野仁昭(故人)さんは、部下と共に学費値上げに反対する意志表示を行い、社史編纂資料室に左遷されます。しかし、河野さんは、のちに『同志社百年史』を編纂し、ここで「紛争下の大学」について一章設けたり、大学の正式な発行物としては異色の書籍としてまとめ、ある意味で意趣返しを行います。

そうして、連日の情宣や集会などで、キャンパスでの雰囲気も徐々に盛り上がっていき、私たちの気持ちも固まっていきました。

学費値上げ阻止を求める私たちの運動も日に日に盛り上がり、学友会の団交要求に大学側も応じました。いや、大学側は学費値上げの「説明会」にすり替えたかったという意図があったようです。

団交の日は11月11日に決まりました。ところがこの前日、あろうことか大学側は値上げを発表します。この日は、沖縄返還協定批准阻止闘争で大阪の集会では実力闘争が闘われましたが、私たちは急遽京都に戻り、この日発表された学費値上げに怒り抗議すべく、翌日の団交に備えました。

そして団交当日、正午から狭い今出川キャンパスを多くの学友が埋め尽くしました。これには感激しました。私たちは決して孤立してはない、応援団はいっぱいいる──。当時、同大の学生数は2万人に満たなかったと記憶しますが、公式にも6000人(判決文)余りの学生が結集しました。実に3分の1ほどです。工学部自治会委員長UMさんは、舌鋒激しく中心になって追及していました。弁が立ち理論家でもありました。この時の写真が残っていました。立って当局を追及している学生が2人いますが、右がUMさんです。ちなみに左が水淵平(ひとし。故人)さんで、水淵さんも芝田さん同様L共闘の“上司”で影響を受けた方々の一人です。

正午に始まり、夕方6時頃まで長時間の団交で、学生と当局との激しい応酬が続きました。大学側も必死でした。

さて、長時間の団交は決裂し大学側の出席者の健康上の問題もあり11月17日に再度行うことになりました。しかし、それはありませんでした。狡猾な大学側が反故にしたからです。以来逃亡を続けます。(つづく)

1971年11月11日団交、学費値上げ問題について山本浩三学長(当時。故人)ら大学当局を追及する。立っている右側がUMさん(朝日新聞社提供)

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

京都市長選で野党共闘は終わったか? 「野党の塊」に不可欠な山本太郎の可能性

注目を浴びていた京都市長選挙は、共産党とれいわ新撰組が推薦する福山和人氏(58歳)が惜しくも4万1000票あまりの差で敗れた。前回選挙(2016年)にくらべると、地方政党京都党の善戦もあってか、次点の福山氏は得票率で前回の本田氏の30%の差から10%の差に縮める結果になった。※NHK選挙WEB=京都市長選

▼2016年(前回)
門川大作  254,545票 63.8%
本田久美子 129,119票 32.4%
三上隆    15,334票  3.8%

▼2020年(今回) ※2月2日23時現在
門川大作  194,821票 44.3%
福山和人  153,545票 34.9%
村山祥栄  91,632票 20.8%

注目を浴びた選挙の、政治的な背景を説明しておこう。国政レベルでは、自公安倍政権にたいして「大きな野党の塊」をつくって対抗し、政権交代への足掛かりをさぐるという統一戦線戦術が模索されてひさしい。事実、昨年の参院選挙においては自民党に2桁の議席減を強いる結果をもたらした。今回の選挙が接戦になったことで、大胆な野党共闘の道をさぐるべきであろう。

2020年1月26日付京都新聞

ところが、与野党相乗りが定着している地方首長選挙においては、その事情も違ってくる。野党が独自の統一候補を立てられない、というのが実相であろう。京都市長選挙はまさにその典型で、現職の門川大作(自民党・公明党)推薦候補に、立憲民主・国民民主・社民党までもが相乗りする選挙となったのだ。これは過去も同じだ。そして共産党との対決も、共産党系候補へのれいわ新撰組の推薦をのぞいては、これまで同様の構造である。

現職の「政策実績の評価」というところに選挙支援の論点を置くいっぽう、立憲民主の福島哲郎幹事長は「徹底的に共産党と戦う」(門川候補の出馬式)とぶち上げてもいる。

そして1月26日には「大切な京都に共産党の市長は『NO』」なる意見広告が、「京都新聞」「読売新聞」「朝日新聞」に掲載されたのだ。赤狩りを思わせる共産党へのネガティブキャンペーン、あるいは内容抜きの「NO」はヘイトであるとも評されている。

しかも、その広告に名をつらねた文化人たち(映画監督の中島貞夫・日本画家の千住博・俳優の榎本孝明・堀場製作所の堀場明会長)が「内容を知らされていなかった」というのだ。

「特定の政党のネガティブキャンペーンには賛同しない」「共産党だからNGという立場にはない」と、門川陣営の支援団体「未来の京都をつくる会(当該の広告主体)」に抗議をしている。確認をとらないまま、勝手に名前を政治利用したことで、大きな反発をまねいていた。

これは門川陣営に自失、反共キャンペーンの時代遅れを笑うべきであろう。


◎[参考動画]【2020京都市長選挙】門川大作候補100秒の主張(Mielkaチャンネル)

◆そもそも京都は赤い都市である

京都市長選で共産党をふくむ「革新系」候補が勝利したのは、この意見広告がエキセントリックに言うほど珍しいことではない。かつて蜷川虎三京都府知事は、7期28年にわたって革新府政を築き上げてきた。

蜷川虎三知事との提携で市長になった高山義三(のちに保守に転向)、京都民主統一戦線に擁立された井上清一市長、富井清市長ら、共産党をふくむ革新系統一戦線は、78年に蜷川の後継者が保守系に敗れるまで、ながらく赤い京都を体現してきたのである。

歴史的にも、鎌倉時代(承久の変)から京都はもともと、反体制運動のメッカである。いや、鎌倉以前にも、たとえば叡山は京都を守護する山門でありながら、ことあるごとに強訴をもって朝廷と藤原政権を悩ませてきた。鎌倉幕府の六波羅探題(平清盛の時代からの武家の拠点)に対して、京童は祇園御霊会にかこつけて山鉾を武器に叛乱してきた(建武政権の導火線となる)。江戸末期には討幕の拠点となり、朝廷が東京に居を移してからは、本来の日本政府(少なくとも天皇御所)は京都にあるべきとの気風を崩していない(退位後の上皇京都隠棲法案)。

あるいは戦後において、京都府学連の伝統をつぐ京大・同志社・立命館の学生運動は、全共闘運動後もしばらく80年代まで「ガラパゴス状態」を体現し、「左京区の学生は困ったもの」と呆れられながらも、学生好きな京都人から暖かいまなざしを受けてきた。それは2020年代のいまも、京大熊野寮・吉田寮に引き継がれている。
その学生運動以上に、強力なのが共産党京都府(市)委員会と立命館大学支部(福山和人氏の出身母体)であろう。京都の学生運動の歴史は、まさに共産党(民青)と赤ヘルの闘いの歴史でもあった。「未来の京都をつくる会」が必死になって反共キャンペーンを行なうのも、そのような事情にほかならない。


◎[参考動画]壁を越える/京都市長候補・福山和人(FukuTube・福山和人)

◆山本太郎は東京都知事選候補となるのか?

「共産党と戦う」という反面、立憲民主党は1月23日に、長妻昭・選対委員長が7月5日投票の都知事選挙に「野党統一候補として山本太郎れいわ代表を擁立する可能性がある」と発言している。その一貫性のなさを批判するつもりはない。

山本太郎の京都市長選における共産党推薦候補支援も、多数派形成のための戦術であり、ぎゃくにいえば立憲民主ほか、野党の選挙戦術もシングルイッシュー(個別課題=この場合は京都市政)にほかならないからだ。政治力学とは「敵の敵は味方」であり「昨日の敵は今日の友」が議会政治なのである。

たとえば死刑廃止運動では、議会での「廃止決議」がないかぎり制度は変えられないという現実から出発し、かつて死刑廃止議連(亀井静香・浜四津敏子ら)を市民がサポートしてきた。自民党の議員を何人組織できるかが運動の成否、とも言われてきたものだ。※社民系・民主系の議員の落選で議連が停止状態。あらたに自民党議員を座長とする「死刑を考える議連」が組織されている。大胆に言えば、選挙や議会政治は思想信条ではない。目的を実行できるかどうかなのである。

今回の選挙結果をうけて、発信力や予算の額それ自体としては国会議員よりもはるかに大きなものがある都知事選への、山本太郎の出馬もおおいにあり得ると予言しておこう。


◎[参考動画]私が福山和人京都市長候補を応援する理由!山本太郎 京都で激白!!(れいわ新選組)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

『NO NUKES voice』22号 2020年〈原発なき社会〉を求めて
2020年もタブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』2020年2月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』