前立腺がんになった ── 患者たちが語る滋賀医大附属病院「小線源治療の名医」岡本圭生医師との出会いの物語[後編]

――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆岡本医師の診察を受けに滋賀医大附属病院へ向かう

2週間後にわたしは滋賀医大附属病院へ向かった。東京から京都までは新幹線、京都から東海道線に乗り換えて最寄りの瀬田駅で下車。瀬田駅からは帝産バスに乗った。京都には何度も足を運んだことがあったが、滋賀県に目的地を定めるのは初めてで、滋賀医大附属病院は自然豊かな環境に恵まれていた。都心の喧噪との対比が印象深い。

岡本医師の受診待ち患者さんの数は壮絶だった。こればかりは都心の病院と変わりがない。ようやく名前が呼ばれ診察室に入った。挨拶をしようとすると、岡本医師はすでに送ってあったわたしの検査データを注視していた。体調や既往症などの質問に答えた後、少し息をついた岡本医師は、

「あなたのがんは中間リスクです。小線源単独で対応可能でしょう。手術の詳細な予定を立てるためにもう一度、そのあと『プレプラン』とが必要です。遠いですが手術前に受診していただく必要があります。よろしいでしょうか?」

と次のステップを明確に提示してくださった。わたしに異議のあろうはずはない。2月後再診を受け、翌月に「プレプラン」のため再度滋賀医大附属病院への来訪が決まり、予約票を手に帰路に就いた。まだ日没までかなり時間があったから京都で観光をしようかとも思ったが、気持ちの高揚感があり、それを早く家族に伝えたかったので、寄り道することなく新幹線に乗った。車内販売で「ビール」の声をきくと思わず販売員を止めてしまい、缶ビールを1本だけ飲んだ。そのあとは気が抜けたためか、寝込んでしまい、気が付いたのは品川駅到着のアナウンスだった。

◆2泊3日で「死の恐怖」から解放される?

岡本医師の診察を受けただけで、まだ治療を受けていないのに、滋賀に出かけた日以来、わたしの体調は見違えるほどに好転した。初診の翌朝には久々に6キロの早朝ジョギングを再開した。食欲も戻った。体重が10キロ近くも落ちていたので、昼食時など「もう治療は終わったのですか」といわれるほどに、体がカロリーを欲していた。

いよいよ入院の日を迎えた。月曜日に入院して火曜日には手術を受けた。麻酔は部分麻酔で、手術中も岡本医師と放射線科の医師との声を聴きながら手術室に流れる音楽を聴いているうちに「はい、終わりました」。予想よりも早く岡本医師から声をかけられた。

水曜日は放射線の関係で一日外部と最低限の接触に限られる部屋で過ごし、木曜日には早くも退院できた。2泊3日で「死の恐怖」から解放される?信じがたいとは感じなかった。「もう大丈夫」岡本医師の言葉ではないが、自分の内部深いところがそう確信していた。

◆「迷っている場合じゃないでしょ! 誰のおかげでお父さん回復できたの?」と娘の声

初診以降滋賀医大附属病院では、岡本医師に対する嫌がらせの類が発生していることは、おなじ時期に入院していた患者さんから聞いていた。医学の世界ではひいでた医師の足を引っ張ることは、ありうることだろう、程度にしかわたしは考えていなかった。わたしにもビジネスの世界でも同様の経験があったから。

半年に一度の検診だけで、前立腺の状態は落ち着きが確実になったころ「患者会」を結成すると、知り合いの患者さんから連絡を受けた。岡本医師が滋賀医大附属病院から「追放」される危機にあるといわれた。いくら医学界が旧態依然としていたとしても、世界屈指の治療成績を残し続けている医師を、病院から放逐することなど、企業経営者の端くれにあるわたしには信じられなかった。メーカーにあっては商品開発とR&D(研究開発)の重要性は、基本中の基本。病院にあっては治療成績と評判こそが資産と、わたしのような人間は感じるからだ。

しかし、滋賀医大附属病院は予想外に、着実に岡本医師追放に向けて手を打ってくる。寒い時期に患者会から「JR草津駅でデモ行進をする」との連絡が入った。連絡をしてきたのはわたしと同じ日に手術を受けた、九州の患者さんだった。なにかしたい。なんでもしたい。と思いながらも、市民運動に縁のなかったわたしは、正直とまどい、夕食時「こういうことがある」と家族の前で話題にした。

「お父さん迷っている場合じゃないでしょ!誰のおかげでお父さん回復できたの?行くべきよ。ねえお母さん、私たちも行こうよ!」

わたしの優柔不断は、娘と女房の即決の前で完全に無力だった。

◆わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともにスタンディングに参加した

寒い季節にしては暖かい日だった。JR草津駅前には目算で200名近くのひとびとが集まっていた。デモなどに参加したことのないわたしには、この光景もまた驚きだった。こんなにたくさんの人が自分になんの「利益」もないのに集まっている。でも幹部の方々の運営には無駄がなく、家族で参加したわたしたちを皆さん暖かく迎えてくださった。

集会で待機患者の方が切実な訴えをはじめると、数年前の記憶がよみがえった。

「死」。もう、わたしには「死」しかないのか、と不眠に陥り、食欲を失い、自暴自棄になりかけたあの日々。わたしは岡本医師の治療により回復するチャンスを得たことに、謙虚さを失いかけている自分を恥じた。いま話している患者さんはあのときの、わたしとまったく同じことを訴えている!

滋賀医大小線源治療患者会による草津駅前集会(2019年1月12日)
病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)
病院前で展開された抗議活動(2019年3月27日)

2019年11月26日。わたしは滋賀医大附属病院前に数人の仲間とともに、スタンディングに参加していた。この日は岡本医師が滋賀医大附属病院で手術を行うことができる最終日にあたった。最初にデモに参加して以来、滋賀には10回以上足を運んだ。「なにか社会に貢献したい」とわたしは思うようになっていた。前立腺がんが治癒しただけでなく、なにかが私の中であきらかに変わった。この日わたしは病院内には入らなかったが、岡本医師は淡々と、いつもどおり滋賀医大附属病院における、一応の区切りとなる患者さんの手術を終えたことだろう。

死の恐怖におびえる経験をしたかたであれば、理解できるだろう。あの恐怖から解放された瞬間を。そして事実「死」の恐怖を迫った前立腺がんが岡本医師により治癒したことにより取り戻せた、日常のありがたさを。岡本医師はこの先どうなる?いや、岡本医師の治療を待っている患者さんは?

患者会と岡本医師の闘いは、「仮処分」での勝利をえて、本来であれば治療ができなかった50名近い患者さんの治療を可能にした。努力と行動が「不可能」を「可能」にした。滋賀医大附属病院なのか、ほかの場所なのか、患者会の末席を濁しているだけのわたしに、岡本医師の将来はわからない。でも滋賀医大附属病院正門で夕刻、「岡本医師の治療継続を! 岡本医師、待機患者が待っています!」 なかまの誰かが低い小声ではっきりと病院に向かって宣言した。わたしも小声で彼に続いた。(了)

◎前立腺がんになった──患者たちが語る滋賀医大附属病院「小線源治療の名医」岡本圭生医師との出会いの物語
[前編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33021
[後編] http://www.rokusaisha.com/wp/?p=33027

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滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

前立腺がんになった ── 患者たちが語る滋賀医大附属病院「小線源治療の名医」岡本圭生医師との出会いの物語[前編]

――以下はフィクションであるが、事実の各部分は昨年の8月以来、わたしが数十名の患者さんに取材した実話をもとに構成してある。よって主人公はひとりではないものの、実話が織りなす物語とお考えいただいて差し支えないだろう。

◆前立腺がんになった。治療が必要な状態だといわれた……

前立腺がんになった。治療が必要な状態だといわれた。どうしよう、もう余命は短いのか? 「日本人の二人に一人はがんになる」と聞いてからタバコはすぐやめた。食事もなるべく化学調味料や保存料のはいっていないものを選ぶよう女房に意見した。内臓を冷やすとよくないといわれたので、爾来暖かい飲み物を採るように心がけ、下着も厚めにしてきた。胃カメラ、大腸内視鏡検査も1年ごとに受けている。どの値も正常値から飛び越えることはなかった。血圧や脈拍も。

ことしの健康診断の血液検査で「PSAが高い」といわれた。PSA? なにを示す値であるのかすら知らなかった。産業医からPSAは前立腺肥大や前立腺がんが起きると値が高まる指標だと教わった。いまから振り返れば、当時のわたしは、「お気楽」だった。前立腺がんの理解不足はもちろんのこと、前立腺の機能自体に対して、まったく知識がなかった。産業医はロボット手術を勧めた。

「前立腺の全摘出は難しい手術ではありません。取ってすっきりしましょう」

肌の上にできた「デキモノ」を取るような簡単な手術のような説明だった。入院と手術の日をそこで決めようとされたので「家族に相談させてください」と断って帰ってきた。インターネットで本気で調べだしたのは、あの産業医が気楽に説明してくれたから、逆に怖さを感じたのだ。

◆「月におむつ代にかかる4万円の負担が大きく、年金生活の身では苦渋しております」

調べだすとますます怖くなった。前立腺を全摘出しても再発率がかなり高いことを知った。再発しなくとも、排尿障害に苦しむ人の声をきいた。たしかに前立腺がんの治療はうまくいっているようだ。だけれども排尿障害があり、常時おむつを着用していないと普通に生活できない。その人は「手術も大切だけど、そのあとの生活も考えて治療法を選ぶべきでした」とメールでアドバイスしてくれた。

「恥ずかしながら小生、月におむつ代にかかる4万円の負担が大きく、年金生活の身では苦渋しております」厳しいことばでメールは結ばれていた。

小線源治療は前立腺全摘出よりも、術後の負荷が少ないとは聞いていた。だが、前立腺に小さいとはいえ放射能を埋め込む治療法に、なんとなく不安を覚え選択肢の中から早期に排除してしまっていた。さいわいわたしのがんは、一刻をあらそう進行の早い病気ではないらしい。だからといって悠長に構えてはいられない。ほおっておけば、いずれ骨やリンパなどに転移することは確実と忠告されていた。

◆このままでは、わたしが考えていたよりも、かなり早く「死」はやってくる

この頃から、おぼろげだった「死」を現実に考えるようになった。このままでは、わたしが考えていたよりも、かなり早く「死」はやってくる。まだ定年まで何年もある家族を養う身で、早々に人生から「退場」しなければいけないのか。怖い。怖い以上にわたしはまだ「死ねない」。まだわたしの収入に依存している家族はわたしがいなくなったらどうする? 生命保険の死亡給付金は、保険金が高いから一昨年4分の1以下に契約をみなおしたばかりだ。目先の支出にとらわれたのが間違いだったのか……? いや、お金の問題ではないだろう。わたしは平均寿命まで、干支一回り以上の年月が残っている。

家族の面倒はもちろんだが、わたしだって定年退職後にやりたいことがある。退職金が出たら女房と世界一周旅行をしてみたい。女房には話したことはないけれども、きっとこの申し出は歓迎されるだろう。転勤と残業ばかりで、迷惑をかけてきた女房へのねぎらいに、贅沢ではなくとも「世界一周旅行」に出かけるのは、わたしのようなものにとって「身の程知らず」ということなのであろうか。

そんなことはないだろう。けっしてエリートではなかったが、入社以来わたしは、精一杯に会社に尽くしてきたし、そのことはいまの職位が証明してくれるだろう。同期入社で取締役の席に座っているのはわたしひとりである(けっしてそのことを披歴したいわけではない)のだから。バブルのあとの不況時にも、今世紀に入ってからの市場の変化にも、わたしはわたしなりに全力で取り組み、会社にはいくばくかの貢献をできたのではないか、と手ごたえは感じている。

いまは、そういったわたし社会的な経歴ではなく、「存在」としてのわたしがどうなるか、を決めなければならないのだ。いずれやってくる「死」に無謀な抵抗をしようとは思わない。だれにでも訪れるその瞬間は蕭々と受け入れよう、と昔から考えてきた。しかし、事故でもない限り、子供が一人前になってからだろうとしかその時のことは描けなかった。肺がんで40代の若さで亡くなった後輩の葬儀に立ちあったときも、わたし自身の「死」についての現実感はなかった。

焦りと恐怖が日ごとにました。食欲も失い半年で10キロ近く体重が落ちた。調べれば、調べるほど「悪い想像」しかできなくなっていた。日課のジョギングを欠かすようになって何か月が過ぎただろうか。晩酌などする気にもならない。

◆ベテランの看護師さんが岡本医師を教えてくれた

岡本圭生医師

滋賀医大附属病院の岡本医師の情報を知らせてくれたのは、わたしの会社の健康診断を請け負っている会社の看護師さんだった。産業医とわたしの会話に同席していたベテランの看護師さんが「一度コンタクトしてみてください」と連絡をくれた(わたしの会社の健康診断には、産業医だけでなく看護師さんからのアドバイスも受けられるサービスがついていた)。

岡本医師の情報を調べて驚いた。わたしのような中間リスクだけではなくハイリスクの患者さんまで受け入れている。それだけではなく超ハイリスクの治療でも95%以上再発させていない。本当か? 滋賀医大附属病院のサイトにアクセスすると、岡本医師のメールアドレスが掲載されている。「大学病院で自分のメールアドレスを公開するお医者さんがいるのか」このことはわたしの焦りを増すことになった。「ほかの患者に先を越されてわたしの手術が遅れたら困る!」利己的であるけれども、わたしは他者に対する配慮ができる状態ではなかった。早速岡本医師にメールを送った。

返信があったのは次の日の夕刻だった。会社のメールアドレス宛に「詳しい情報を送ってください」と。びっくりした。忙しいであろう大学病院のドクターが見知らぬものからのメールに1日もたたず返信をくれたことに。わたしは検査結果の詳細を再度岡本医師にメールで送信した「一度私の診察を受けてください」と短いが診察を受けてくださるメッセージが返ってきた!

その晩久しぶりに日本酒が飲みたくなった。美味かった。まだ診察も受けていないのに半年以上ぶりに気持ちが楽になった。(つづく)

2019年1月12日草津駅前集会

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▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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私の内なるタイとムエタイ〈67〉タイで三日坊主!Part59 藤川さんの次なる挑戦

まだ陽が昇らぬ朝、寺を出る藤川さん

◆市場の中を列車が通るメークロンでの托鉢

ワット・ポムケーウを訪れた翌朝、藤川さんを待っていると、6時過ぎにその姿が現れた。

托鉢に付いて行く先はメークロン市場。ここは世界中から注目されている市場だと聞かされていたが、そこはテントが張られた中の、野菜や果物や魚が並べられたごく普通の市場だった。

足下を見れば線路が敷かれており、野菜などの食材は線路まではみ出て並べられ、すぐ先には国鉄メークロン駅が見え、やがて列車が通るとはとても思えないほどの市場の中で人が行き交っていた。

市場の中を歩く足下は線路
線路上でサイバーツを受ける藤川さん
市場の中の線路を歩く
他の寺の比丘も後ろに付く街中の托鉢

藤川さんは市場内を托鉢し、朝の静寂な道を歩いた過去と違いやや賑やかな、また信者さんが藤川さんに笑顔で話しかける光景もある市場らしい雰囲気も重なっていた。

市場の外まで廻りきると「もうすぐ列車が発車して、この辺ガラッと変わるから見ときぃ!」と言って私を残して先に寺に帰られた。

やがて駅の方からアナウンスが聴こえてくると、線路まで置かれていた野菜などの売り物は瞬く間に線路脇まで下げられ、突き出していたテント屋根は折り畳まれて引っ込められた。

列車は汽笛を上げながら迫って来る。

当然ながらスピードを上げられる区域では無く、人が速歩きする程度のスピードで、幅の狭い位置で通過を待つ人は身を屈めるように体勢を作るが、手を伸ばせば列車に触れるほどの距離。

出発間際の列車

この列車が倒れ掛かって来たら身体はペシャンコだなと分かる重量感。日本では許されない至近距離である。

2両編成の列車は汽笛を上げながら市場をギリギリ擦り抜けるように通過して行った。

通り過ぎた途端、テント屋根は引っ張り出され、せり出した屋根がまた重なり合うゴチャゴチャした市場に30秒足らずで何事も無かったかのように元に戻ってしまった。

舞台劇の場面入れ替えのような素早い光景だった。

このメークロン市場は見学ツアーも組まれている観光地でもあるようだ。

汽笛を上げながらゆっくり進んで来る列車
通過を待つ人はギリギリの位置

我に返ったように藤川さんを追って寺に戻ると、他の比丘達も帰って来る様子が伺え、托鉢でサイバーツ(お鉢に入れる寄進)された品々はサーラー(葬儀場・講堂)に運ばれ、白飯は一旦タライに集められ、頭陀袋に入れられた惣菜も一箇所に集められるのはどの寺も同じ。

日本で普通にビジネスに追われた生活を送って再びタイで托鉢に遭遇すると、「懐かしいなあ、俺もこんな風に托鉢に行って、寺でバーツを空けていたんだなあ!」と眠っていた脳が蘇えるように鮮明に思い出した。

この寺も4~5名のグループに分かれて短い読経の後、朝食となった。皆、無口に静まり返って食事が進む。時折、“カチン、コン、ススーッ”とあちこちで皿とスプーンが当たる音、惣菜が入れられたタライや容器が床に触れたり擦ったりする音が広いサーラーに響く。こんな些細な現象が妙に懐かしい。意識していなかったことも覚えているもんだなと思う。

食事が終わると短めの読経があり比丘達はその場を去る。そこでデックワット(寺小僧)に呼ばれて私も一緒に食事させて頂いた。

市場の外を歩く
読経して食事に入る比丘たち

◆イタズラの効果

朝食後、しばらくして本堂に移って30分ほどの読経があり、今日も覗かせて貰った。朝は葬式やニーモンなど無い限りは読経の時間となるようだ。後は自由な時間に入り、泊めて貰った倉庫の縁側で藤川さんとまたのんびり雑談に入ったり、昼寝をさせて貰った。

私が出家した年以降、毎年ねだられる古風ある日本の風景カレンダーは、主に春原さんが送ってくれていたが、今回はタイに来る前、1本だけ私がイタズラで7枚綴り(表紙と2ヶ月単位)のあるカレンダーを送っていた。それがある日の夕方、藤川さんが夕涼みをする境内のベンチで若い比丘らと雑談していたら、デックワットが筒状の郵便物を持って来たという。

静かな食事、食器などのわずかな音が響く

「カレンダーやとすぐ分かったから、“日本の風景でも見せたろ”と思うて皆の前で開けて見たら“ヘアヌード”やないか。慌てて『これはヤバイ、見たらアカン!』言うて丸めて部屋に持って帰ったけど、若い比丘らは一斉に静まり返って目がテンになっとったわ。そしたら夜遅くになって若い奴の一人がワシの部屋ノックしよった。

『何や?』言うたら、『すんません、あのカレンダー、貰えませんか?』と。

『ワシが持っておっても仕方無いからやってもええが、こんなモン見てどうするんや?』って言うても“ニヤッ・・・!”と笑うだけやった。あれ貰いに来るの勇気要ったやろうな!」

私の藤川さんへの恥かかせ狙いはあまり効果は無かったが、トンだ波紋が広がったようだ。奴らも修行の足りない未熟な連中だこと。

寺に帰れば犬が出迎えるのは日常のこと
和尚さん(手前)を先頭に読経が始まる
定位置は無く、徐々に集まる比丘たち

◆シルクロードへ向けて

ただ藤川さんの様子を伺いに来ただけの訪問だったのに、またこの雑談で興味深い話を持ち出された。

「来年4月頃に、四国御遍路八十八箇所の旅に出ようかと思うとるんや、旅に出るのにいろいろ準備せないかんモンがあるんやけど、お前、携帯電話準備してくれへんか?」

なんやかんやと言い包められて「OK~!」と言ってしまって後悔したのは帰りのバスの中だった。

“俺って悪徳商法に丸め込まれるタイプだなあ。人の優しさに付け込んで来るからタチが悪い。まあ、藤川クソジジィの為に、今回限りで言うこと聴いてやろう!”ってもう何回目だろう。

その寺から帰る際は、門まで見送ってくれて、「じゃあまた4月にな、頼むで!」と言うこと言えば“気が変わらん内に!”と言わんばかりに、早々に引き上げて行かれた。あのジジィめ。

この藤川さんの野望は、
「いずれは御釈迦様が歩いたシルクロードの道をワシも歩いてみたいんや。その予行演習として足腰を鍛える為に、四国八十八箇所の霊場を歩くことにしたんや。道中は乗り物を一切使わず、宿泊は寺か巡礼宿、民家、野宿で通して、食事も托鉢か仏心ある人から供養で賄おうと思って居る。一日でも二日でも一緒に歩いてくれる人があればと思うて、何時でも連絡取れるように携帯電話を持って歩きたいんや!」と言う。

雑談に入る藤川さんの野望ある眼力

そして私にも「一日でも付き合って写真撮ってくれたら有難いし、道中、テーラワーダ仏教の仏教の布教を兼ねて仏陀の教え、真の仏教を伝えながら歩こうと思う!」と計画しているという。

とにかく一箇所に留まるのが嫌いで新しいことにチャレンジしたがる藤川さん。歳を重ねてその勢いがより一層増してきた感じがする。私が四国まで付いて歩くのは難しいが。

◆伊達秀騎の次なる挑戦!

残りのバンコク滞在で幾つか用事を済ませ、最終日に泊めて貰ったのは伊達秀騎が住む高層マンション。3年前にタイに移り住み就職し、この頃は個人で事業を立ち上げていた。一階にガラス張りの伊達くんの事務所があり、4~5年前のキックボクサーとしての姿はすでに無く、ビジネスマンの風格抜群の姿があった。これからムエタイジムを始める計画があると言う。日本人がムエタイの本場で始めるムエタイジムは果たして上手くいくだろうか。チャンピオンには届かなかった伊達秀騎のタイでの難しい挑戦である。

私の周りには野望持った奴多いなあ。藤川さんと伊達くん。二人の挑戦は私にも刺激を与えてくれる存在である。

今回の旅は慌しく終わってみれば楽しい旅だった。また来たい。御世話になった寺やジムなど、まだ行かねばならないところもある。次はいつ来られるだろうか。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

11月7日発売 月刊『紙の爆弾』2019年12月号!
一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』
上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

《傍聴速報》11・21滋賀医大病院「損害賠償請求訴訟」 有印公文書偽造にまで手を染めていた滋賀医大病院! 大津警察が告発受理で捜査中であることが判明!

11月21日大津地裁で滋賀医大病院の患者であった4名が、同病院泌尿器科の河内明宏、成田充弘両医師を相手取った「説明義務による損害賠償請求訴訟」の証人調べが行われ、この日は岡本圭生医師が証人として証言台に立った。

2週間ほど前に、大津地裁はこの日の法廷の傍聴を抽選とすることを、HPで発表していた。抽選で傍聴席に入ることのできる数は38名だ。患者会を中心の38を大きく上回る人数の方々が抽選を受けた。

岡本圭生医師

◆証言台に立った岡本圭生医師

10時30分、開廷の法廷では、この裁判で初めて記者席が設けられ、開廷前にはMBSによる法廷撮影も行われた。原告側は原告のお二人を含め弁護団など総数9名が着席、岡本圭生医師も着席し2分間の法廷撮影が行われた。法廷撮影の際、被告側代理人はなぜか入廷せず、不思議な印象を受けたが、その原因は閉廷後明らかになる。

ほぼ定刻通りに開廷が宣言され、原告、被告、補佐人(岡本医師)3者から書証の提出があり、弁論及び確認されたのち、岡本医師が宣誓を行い。証言に入った。原告側から岡本医師の質問を担当したのは、古山力弁護士だ。質問は岡本メソッドの特徴や、放射線医との連携の方法などを確認することからはじまり、標準的小線源治療と岡本メソッド違いを具体的な例を挙げながら明らかにしていった。

そして古山弁護士が「シード挿入のための穿刺(せんし)の技術について、被告らは『前立腺の“生検”(前立腺にがんがあるかないかを細胞を取り出し調べる検査)ができれば可能であると主張していますが、そうなんでしょうか」との質問を発すると、岡本医師は「私のやっている施術は、被膜ギリギリに穿刺をする、理想的な針の配置をするものです。ポジショニングからシードを置いていくのは、ミリ単位の精度を要する技術です。単純に前立腺の組織を針を刺して取ってくるのとはまったく異なる、まったく違うものです」と「生検ができれば小線源治療ができる」との被告側の認識の誤りを、明確に否定した。

質問はさらに滋賀医大内の「医療安全委員会」で岡本医師に対する合併症の指摘がなされたことに移ったが、この件については、偶然にも期日の4日前に「朝日新聞デジタル」が「患者の同意なくカルテを外部に示す 滋賀医大、外部の医師に」との記事で問題が取り上げられており、滋賀医大ぐるみで岡本医師を陥れるための工作が展開されたとして、滋賀医大の行為は個人情報保護法違反の疑いがあると指摘されていた。「説明義務による損害賠償請求訴訟」と直接の関係はないものの、滋賀医大に巣くう「法律軽視・無視」体質が露呈した事件であり、ここでも岡本医師への誹謗中傷を狙った攻撃であることから、「医療安全委員会」についての質問がなされたのであろう。

続いて、被告成田医師と岡本医師がどのような関係にあったのか、成田医師がひとりで小線源治療施術可能だったのか、被告が主張する「チーム医療」体制があったのかどうかを明らかにする質問が発せられた。

◆岡本医師の印鑑が勝手に使われ、偽造文書が被告側から裁判所に「証拠」提出されていた!

そしてこの日、最大の驚愕の事実が明らかになる。古山弁護士が「乙C10の3枚目を示します。これは泌尿器科講座の教授である河内教授と小線源講座特任教授である岡本先生の連名で作成され、成田准教授を小線源講座の兼務を学長に求めるものです。これは被告らから裁判所に証拠提出されています。証拠提出される前にこの書面の存在を知っていましたか」の問いに対し岡本医師は「知りません」と回答、古山弁護士が「見たこともありませんか」と確認すると「岡本医師は見たこともありません」と明確に答えた。さらに古山弁護士が「右上に岡本先生の名前がありますね。そのに「岡本」の印が押されたものですが。印を押しましたか」と聞くと岡本医師は「押したことはありません」と回答。

大変な事態が明らかになった。岡本医師の印鑑が勝手に利用され、文書が偽造され、こともあろうにその偽造文書が裁判所に被告側から「証拠」として裁判所に提出されていたのだ。つづく質疑で岡本医師は「この件については大津警察に刑事告発をして、現在捜査中だと伺っています」と事件は民事から刑事へと広がりを見せていることを明らかにした。

ついで、被告側代理人からの反対尋問に移ったが、取り立てて報告すべき内容はないのですべて割愛する。

偽造された有印公文書
岡本圭生医師(中央)

◆「被告側の反対尋問は枝葉末節…主尋問の根幹は全く崩せないで終わった」(井戸謙一弁護団長)

裁判終了後、弁護士会館で記者会見が行われた。

井戸謙一弁護団長が冒頭「今日は傍聴席を埋め尽くしていただきエールを送って頂きあがとうございました。皆さんもお分かりになったと思いますが、岡本先生は40分でぴったりと素晴らしい証言をして下しました。被告側の反対尋問は枝葉末節なところをちくちくと突くというもので主尋問の根幹はまったく崩せないで終わったと思います。争いの中心に至るものではありませんでした。次回以降は病院側の関係者の証人尋問になります。こちらが反対尋問をする立場になりますので、充分準備して臨みたいと思いますので引き続き支援をお願いいたします」と総括した。井戸弁護士は次の予定があるためにここで退出した。

◆「標準的小線源治療もやったことのない成田医師が岡本メソッドをできるのか…」(古山力弁護士)

引き続き尋問を担当した古山弁護士が期日の概略を報告した。

「本訴訟の中心はあくまでも原告の方々ですが、岡本先生がどのように関わっておられたか、そして岡本メッソドとはどのようなものであるか、特殊なものであるので陳述書には書かれていますが、口頭で説明頂くのが良いと判断しました。時系列ではなくピンポイントで質問をしました。重要なことを申し上げますと、被告らは岡本医師が指導医での成田医師の治療を計画していました。『本当にそんなことができるのですか』、ということをまず岡本先生から説明してもらいました。成田医師をやったことはない。これは争いのないことです。では標準的小線源治療もやったことのない成田医師が、本当に岡本メソッドをできるのかと。そもそも小線源治療とはどういうものなのか岡本メッソドとはどういうものなのかを説明していただき、未経験のものがやるとどれくらい危険なことかを主に話していただきました。その絡みで今回の原告の皆さんにはどんな不適切なことがあったのかを説明していただきました。後半は成田准教授について偽造文書が出ていたこと、成田准教授をどのように止めたかなどを聞きました」との報告があった。

◆「権力に任せて不正を横行させる連鎖は断ち切らないといけません」(岡本圭生医師)

次いで岡本医師の話があった。

「まず弁護団の先生にお礼を申し上げます。ようやくこの日を迎えられ私の仕事ができました。また今日もたくさんの患者さんたちが来ていただき、これが私にとっての心の支えです。わたしの願望は今も待っている前立腺がんの患者さんを一刻も早く今まで通りに助けられるようになりたい。どうしたらいいか皆さんの力やお知恵をお願いしたいと思います。今回の問題は故意の『説明義務違反』です。成田医師に経験があろうがなかろうが、最初から最後まで患者さんを騙さないといけないことをやろうとする。それがばれそうになったら隠蔽して逃げ切ろうと考えている。こんな国立大学病院を許してはならないということです。私と大学の闘いではもちろんないわけです。ここにおられる待機患者さんを含めてこれは一つの革命だと思います。医療を医学村=一部の権力者の私有物に留めるのか、患者・市民が取り戻すのかその闘いだと思います。人は死んでいませんが極めて事件性の高い問題なのでジャーナリストの方もしっかりと記事を書いていただいて、大いに『医療は誰のためにあるか』を真剣に議論していただきたいと思います。
 相手側の弁護士の質問には特にいうことはありません。最初の質問で『相手にならないな』と思いました。滋賀医大は一度リセットしなければ仕方ないでしょう。声を挙げようにも上げられない病院、学生。こんなファシズムのような大学は一度リセットしないとだめです。来週以降管理者たち、自分達のメンツを守るために、皆さんの命を犠牲にしようとした連中が出てきます。陳述書は配布した通りですが、今回分かったことは滋賀医科大学は司法の場にも常に、捏造したものを出してくることです。19日に朝日新聞が私のインシデントについて勝手に外部に出している。あるいは「事例報告委員会」なるものが、開かれてもいないのに議事録をでっちあげてインシデントをでっちあげている。あるいは、病院のホームページで私の小線源治療が、大したことはないと貶めるような捏造を掲載し、大阪高裁における仮処分の抗告にまで出している。
 極めつけがこれです。きょうも争点になりましたが『成田准教授を併任准教授にする』という文書。私が成田准教授は併任準教授にふさわしいとしている。これは裁判に初めて出てきて、こんなものがあったと知ったわけです。明かな有印文書偽造・行使です。この件は大津警察で告発が受理されています(告発人は岡本圭生医師、被告発人は河内明宏医師、告発日は2019年7月2日)。受理されているということは捜査中ということです。この点どうなっているのかをジャーナリストの方々は大津警察に是非追及していただきたいと思います。こういうものを司法の場に次々に出してくる。どうしようもないと思いますよ。これでは滋賀医科大学は公益法人として成り立たない。来週以降も管理者や脅されて寝返ってしまった放射線科の河野医師も出てきます。こんな風潮が漂っている限り、患者さんは安心して受診できないし、学生さんは安心して勉強できません。
 私に突きつけられた状況はヤクザの舎弟になるのか、正義を果たしたらお前は打ち首だということです。もし河内医師の要求通りに騙して、ここにおられる原告の方に対処していたら、私はとうに自死していますよ。そういうことを要求されたのが若手であれば逃れられません。権力に任せて不正を横行させる連鎖は断ち切らないといけません。市民と医学村の闘いとしてとらえる必要がある。ここで変わらなかったら変わらないと思いますのでよろしくお願いいたします」
と思いを一気に吐き出すように語った。

有印公文書を示す岡本圭生医師

有印公文書偽造。ここまでの暴走が過去例にあるのだろうか。記者からの質疑で「弁護団の皆さんには、過去公的機関が裁判に偽造有印文書出してきた経験があるか」の質問に対して、いずれの弁護士も「経験がない」と回答していた。

来週末の11月29日(金)には河野医師、塩田学長、松末院長の証人尋問が行われる。闇はどこまで暴かれるのだろうか。

さて冒頭法廷撮影の際に、被告側代理人の姿がなかったことを紹介した。これまでの期日では代理人は2人だったがこの日はこれまで見たことのない、人物が新たに加わり3名となっていた。わたしはてっきり新たな弁護士が追加で選任されたのであろうと考えていたが、裁判後「あれが成田医師ですよ」とある患者さんから伝えられた。被告成田医師はテレビに映るのを避けた。そうも想像できる。引き続きこの事件の展開は注目してゆく。

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《関連過去記事カテゴリー》
滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

《書評》『一九六九年 混沌と狂騒の時代』──「7・6事件」の解説として

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

自分が寄稿させていただいた本を解説するのも、最近では「自著を語る」というスタイルで雑誌や研究会に定着している。今回、デジ鹿編集部の要請もあって、いわば「共著」本を書かせていただくことになった。この本の肝心な部分は、それなりに学生運動や党派の歴史を知っている者にしか書けないということで、お鉢が回ってきたものとみえる。

もっとも「自著を語る」というスタイルは、人文系の専門書に特有のものであって、大著を読みこなす評者が限られているために、ふつうに書評を頼めば数ヶ月を要し、肝心の著書が本屋さんから返本されたころに書評が出るという、困った事態を回避するのが目的でもある。この書評がデジ鹿に記載されるころに、本書はまだ本屋の店頭を飾っているだろうか。

◆「7・6事件」とは何か

何を置いても、本書の最大の読みどころは「7・6事件考」(松岡利康)である。1967年10・8羽田闘争を反戦運動の導火線とするなら、68年は全共闘運動の大高揚の年、パリの五月革命をはじめとするスチューデントパワーの爆発。いわゆる68年革命の翌年、69年は挫折の年である。1月に東大安田講堂が陥落し、古田会頭以下の辞任と自己批判を勝ち取った日大闘争も、佐藤栄作総理の「政治介入」によって解決の出口が閉ざされていた。

全共闘運動が崩壊するなかで、70年安保決戦を日本革命の序曲とするために、ブント(共産主義者同盟)は党内闘争に入っていた。国際反戦デーの「闘争目標を新宿で大衆的に叛乱をめざすべきか、それとも日本帝国主義の軍事的中枢である防衛庁攻撃にすべきか」をめぐって、政治局会議で幹部たちが殴り合うという事態(68年秋)もあった。

そして「党の革命」「党の軍隊建設」を掲げ、首相官邸をはじめ首都中枢を3000人の抜刀隊で占拠し、前段階蜂起をもって日本革命の導火線にする。という主張をもった、のちの赤軍派フラクがブントの全都合同会議を襲ったのが、7・6明大和泉校舎事件である。重信房子さん(医療刑務所で服役中)の「私の『一九六九年』」と合わせ読めば、事件の概略はつかめると思う。

 
松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代─京都』

問題なのは、このブント分裂の引きがねとなった事件が尾ひれをつけて語り継がれてきたことだ。その結果、中大1号館4階から脱出するさいに、転落死した望月上史さん(同志社大生)が、中大ブントのリンチで手の指を潰されていた」という伝説になっていたのだ。その件を、ある作家の著書からの引用として『遥かなる一九七〇年代』(垣沼真一/松岡利康)に書いたところ、中大ブントを代表するという神津陽さん(叛旗派互助会)から、事実ではないとの批判が寄せられていたものだ。

検証の結果、中大で赤軍派4名を監禁したのは情況派系の医学連の活動家で、当初は暴力があったもののきわめて穏和的な「軟禁」であったという。証言したのは、わたしも編集・営業にかかわった『聞き書きブント一代記』(世界書院)の石井暎禧さん(現在は幸病院グループの総帥)である。軟禁中の塩見孝也さん(のちに赤軍派議長)らが、ブント幹部の差し向けたタクシーで銀座にハンガーグを食べに行っていた、などという雑誌記事を学生時代に読んだ記憶があるが、医学連OBの配慮だったかと得心がいく。中大ブントとひと言で言っても、数が多いのである。荒岱介さんの系列だったという九州の某ヤクザ系弁護士の中大OBを知っているし、情況派の活動家も少なくはなかった。その意味では「中大ブントがリンチ・監禁をした」というのは、あながち間違いではない。何しろ中大全中闘は5000人の動員を誇り、有名人では北方謙三が「赤ヘルをかぶっていた」とか、田崎史郎が三里塚闘争で逮捕されたとか、じつに裾野が広い。また目撃談として「塩見さんが生爪を剥がされていた」という証言もあるという。元赤軍派の出版物も出るので、今回の松岡さんの「草稿」がさらなる事実の解明で豊富化されることに期待したい。

それにしても、ブントは分裂して赤軍派を生み出し、最後は連合赤軍という同志殺し事件を生起させた。マルクス主義戦線派との分裂過程でも、暴力をともなう党内闘争はあった。その後、四分五裂する過程でも少なからず暴力はあった。けれども、寝込みを襲撃するとか出勤途中の労働者をテロるといった、中核VS革マル、革労協のような内ゲバには手を染めていない。だからこそ7・6事件という、いわば牧歌的な党内闘争の時代の内ゲバ死を問題にできるのであろう。死者が100人をこえる「党派戦争」の反省や総括の試みが、上記の党派からなされることは、おそらく絶対にないだろう。なぜならば「同志」は「死者」となったまま、いまも「闘っている」のだから、生きている人間が「誤りだった」などと言えるはずがないのだ。

 
板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

◆板坂剛の独断場

もう一本、本書の記事を推薦するとしたら、板坂剛さんの「激突対談」であろう。小中学校が同期だった中原清さん(仮名)とのドタバタ対談、激論である。前著『思い出そう!一九六八年を!!』の座談会では、真面目にやろうとしたことが仇となってしまったが、今回は相手にもめぐまれて、もう読む端から爆笑を誘うものになった。やり取りを引用しておこう。

板坂 だからおまえなんかにゃ判らねえって言ったんだよ。
中原 だったらこんな対談、無意味じゃねえか?
板坂 無意味じゃねえよ。
中原 俺には無意味としか思えんな。
板坂 それはおまえが無意味な存在だからだよ。
中原 やっぱりちょっと外に出ようじゃないか?
板坂 まだ終わってねえっつうんだよ。

もちろん内容もちゃんとある。ストーンズに三島由紀夫、中村克巳さん虐殺事件、日大芸術学部襲撃事件などなど。けっきょくこの対談を三回読み返したわたしは、いままた読み始めてしまっている。

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』関連記事
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業、雑誌編集者。近著に『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)『男組の時代――番長たちが元気だった季節』(明月堂書店)など。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』では「『季節』を愛読したころ」を寄稿。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

《殺人現場探訪25》100年前に新潟であった「死刑冤罪」、その子孫との邂逅

ここで紹介する新潟の冤罪事件が起きたのは1914年だから、あの第一次世界大戦が勃発した年だ。「大昔の事件」と言っても過言ではないが、筆者は今から数年前、その現地を訪ねて取材したところ、無実の罪で処刑された青年の「子孫」に会うことができた。事件取材をしていると、奇跡のような出会いに恵まれることはままあるが、これはとくに忘れがたい経験の1つだ。

◆家族を救うために死刑になった模範青年

その事件が起きた場所は、新潟県中蒲原郡の横越村大字横越という所で、今の地名で言えば、新潟市江南区横越東町にあたる。被害者は、この村で農業を営んでいた細山幸次郎(当時50)という男性だ。2014年12月30日の早朝、この幸次郎が自宅の納屋で頭部を鈍器でめった打ちにされ、死んでいるのが見つかったという事件だった。

その容疑者とされたのは、幸次郎の義母ミタ(同68)、妻のマサ(同45)、長男の要太郎(同23)、次男の幸太(同19)の4人である。つまり、警察はこの事件を家族間の殺人事件だとみたのだが、実はその根拠は脆弱だった。幸次郎の遺体が見つかった時間は雪が降り積もっており、外部の者が細山家に出入りした足跡がなかった。それだけのことで、内部犯と決めつけたのだ。

横越東町の細山家があったあたり

実際には、事件当日はひどい雪で、雪の上に足跡がついても、すぐに消える状態だったから、外部犯も十分に考えられた。今の警察の捜査が何も問題ないとは言えないが、当時の警察の捜査は驚くほど杜撰なものだった。

もっとも、長男の要太郎と次男の幸太は、容疑者として新潟監獄に収監されたのち、父の殺害を自白するに至っている。それは、「予審」で予審判事から厳しく追及されたためだった。

予審とは、旧刑訴法時代、公判をすべきか否かを決めるためなどに裁判官が行っていた手続きだ。しかし実際には、非公開の法廷で裁判官が捜査の延長をしていたようなものだった。その予審の法廷で、まず幸太が「家族4人で父を殺害した」と自白した。すると、今度は長男の要太郎が「他の3人は関係ない。父は自分が1人で殺した」と自白したのだ。

その後、新潟地裁の第一審では、4人全員が無実を訴えたが、幸太の自白が真実と認められ、全員が死刑に。続く東京控訴院(現在の東京高裁に相当)の控訴審では、要太郎の自白が真実と認められ、要太郎のみが死刑維持、他の3人は逆転無罪となった。この判決が大審院(現在の最高裁に相当)で確定し、要太郎は1917年12月8日、東京監獄で処刑されたのだ。

しかし、その捜査は上記したように杜撰なもので、要太郎、幸太共に自白内容は客観的事実との矛盾点が多かった。そもそも、幸次郎は温厚な性格で、子供たちをかわいがっており、要太郎らが父を殺害する動機も見当たらなかった。地域で評判の模範青年だった要太郎は、接見に来た弁護士に、「他の3人を出獄させるため、自分1人で罪を引き受けた。公判へ回れば、事実の真相はわかるものと思っていたのです」と訴えていたという。

◆子孫が語る「事件のその後」

筆者がこの事件の地元・横越東町を訪ねたのは2015年の8月だった。この時点で、事件発生から101年の月日が流れていた。現場は田んぼが広がり、のどかな雰囲気だったが、当然というべきか、現場となった細山家のあった場所はすでに別の家族の家が建っていた。

その家の人に話を聞いてみたが、100年前、自分の家があった場所で、そのような事件が起きたことは全く知らなかった。それも当然だろう。筆者自身、自分の家がある場所やその近所で100年前に起きた出来事など何も知らない。大した収穫もなく、取材を終えることになりそうだと思いきや・・・現地で1人、処刑された要太郎の子孫が今も暮らしていたのだ。

「私が生まれる前のことなんで、詳しいことはわかりませんけど、そういうことがあったとは聞いていますよ。その死刑になった人は、いい子だったんで、なんとかしたいと裁判所に手紙やら何やらを出したけど、ダメだったってね」

そう聞かせてくれた女性Mさんは、要太郎の叔父の娘さんである。この時点で95歳。腰は少し曲がっていたが、話し方はしっかりした人だった。民謡をやっているという。100年前に起きた事件について、このように当事者の血縁者から話を聞けるとは、夢にも思っていなかった。

Mさんによると、要太郎の家族は群馬に移り住んだそうだが、その際、「一番下の弟」がこの地の寺にあった要太郎の墓を掘り起こし、「先祖の墓は自分が守る」と言って群馬に持って行ったという。その「一番下の弟」とは、幸太のことだと思われる。自分の生命を犠牲にして家族を守った兄・要太郎を強く尊敬していたことが窺えた。

「もうそろそろいいですか? 私も忙しいんですよ」

Mさんは迷惑そうにそう言うと、最後はそそくさと家の中に入っていた。自分が100年前の大事件の生き証人だという意識など微塵もなく、淡々と生きている感じの人だった。それがまた良かった。

細山家の近くにある寺の墓地。細山家の墓はここから群馬に移された

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。同書のコミカライズ版『マンガ「獄中面会物語」』(笠倉出版社)も発売中。

11月7日発売 月刊『紙の爆弾』2019年12月号!
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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

明日21日(木)大津地裁で滋賀医大病院問題裁判! 岡本圭生医師が証人尋問! 国立大学及びその附属病院がなぜ、院内の医師による治療を妨害するのか?

いよいよ明日11月21日(木)、大津地裁で滋賀医大病院の患者さん4名が、滋賀医大病院泌尿器科の河内明宏、成田充弘両医師を相手取った「説明義務による損害賠償請求訴訟」の証人調べがはじまる。明日21日は証人として岡本圭生医師の尋問が10:30から12:00までの予定で行われ、次いで29日には13:10から河野直明医師(放射線科)、塩田浩平学長、松末吉隆病院長の尋問が順次行われる。

この裁判とは別であるが、岡本医師の治療を希望していた、患者さんと岡本医師が滋賀医大を相手取り、大津地裁に「病院による治療妨害禁止」を申し立てた「仮処分」では、岡本医師の主張を裁判所が全面的に認め、病院側の主張を退け「岡本医師の治療妨害をしないように」との内容の命令が下った。

 
黒藪哲哉氏の新刊『名医の追放─滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)

国立大学及びその病院が、院内の医師による「治療を妨害」することは、普通の感覚では理解しがたい。病院は患者の病や怪我を治してくれる場所だ、と一般人は感じているからだ。ところが、滋賀医大では仮処分申し立てを行わなければ、岡本医師の手術を続行することが、不可能(つまり患者は岡本医師の手術が受けられない)状態にあったのだ。病院側の主張は、荒唐無稽すぎるので、ここでは取り上げない(裁判所も病院側の主張を「却下」していることで、その主張の不合理性は証明された)。

ごく当たり前に、「病気を治してください」と病院を訪れる患者に、どうして滋賀医大病院は、ここまで意固地になって嫌がらせをつづけるのだろうか。詳細についてはこれまで、本通信でも紹介したきたし、昨日ご案内した黒藪哲哉氏著『名医の追放』(緑風出版)に詳しいので、是非お読みいただきたい。

いま、滋賀医大を舞台に、発生していることは、いずれも異例ずくめの事態ばかりだ。裁判所から「治療妨害禁止」を言い渡された、滋賀医大病院の塩田学長、松末病院長が揃って、「説明義務違反」裁判の証人として裁判所の証言台に立つ。これとて尋常な事態ではない。そして、滋賀医大の倫理欠如に憤りを感じ、岡本医師の治療継続を願う患者会のかたがたは下記のビラを、自主的に配布している。

「滋賀医科大学 10の大罪」ビラ(ガン宣告編)滋賀医科大学前立腺癌小線源治療患者会作成
「滋賀医科大学 10の大罪」ビラ(ジュネーブ宣言編)滋賀医科大学前立腺癌小線源治療患者会作成

◆「滋賀医大病院のように1年以上も患者の方々が病院の前で抗議と訴えを続ける様子に出くわしたのは、初めてです」

医療問題に詳しい、ベテランの法律関係者は下記の通り、滋賀医大に対して厳しい見方を示している。

「これまで、多くの医療事件や、係争を見てきましたが、病院と多数の患者さんがこのような形で、向き合う構図は公害訴訟を除いて、見たことがありません。医療事故などで、被害患者や遺族が数回病院の前で抗議を行ったり、厚労省で抗議を行ったことは、過去にもありましたが、滋賀医大病院のように1年以上も患者の方々が病院の前で抗議と訴えを続ける様子に出くわしたのは、初めてです。

法律的には仮処分で滋賀医大が負けている。これは非常に珍しいことです。正確に調べねばなりませんが、おそらく日本の司法史上、病院が治療内容について仮処分で負けたのは例がないのではないかと思います。滋賀医大で起こっていることは、それほどに例外的な事態と言えます。

仮に見解に違いがあったとしても、病院の主人公は医師や、病院関係者ではなく、あくまで患者なわけですから、滋賀医大の姿勢には疑問を感じますね。病院の考えもあるのでしょうが、患者さんに真摯に向き合っていないことだけで、倫理的に滋賀医大は大きな過ちを続けているといえます」

引き続きこの問題は取材を継続し、順次ご報告を続けてゆく。

期日の説明を行う井戸弁護団長。左が岡本医師(2019年8月22日撮影)

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

《関連過去記事カテゴリー》
滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

「名医の追放」に異議あり! 11月21日(木)大津地裁で岡本医師が法廷で証言! 滋賀医大の暴走と闘う岡本圭生医師と患者会、いよいよ裁判はヤマ場へ!

◆熱を帯びる「無私」の患者会活動

滋賀医大病院における岡本圭生医師の治療継続をもとめる、患者会の活動が熱を帯びてきている。滋賀医大病院正面では、毎週水曜日に患者会のメンバーがスタンディンで抗議の意思を示すだけではなく、最寄りのJR瀬田駅でも早朝のスタンディングが展開される。滋賀医大に近い住宅地やJR各駅の駅頭では、個人でチラシ配りを行うメンバーの姿があとを絶たない。

 
黒藪哲哉氏の新刊『名医の追放─滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)

緑風出版からは黒藪哲哉氏著『名医の追放』も出版された。鹿砦社の出版物ではないが、滋賀医大問題を理解していただくのに絶好の書籍であるので、ご一読を強くお勧めする。

滋賀医大に山積する問題は、大学の「治療妨害禁止」を求める、岡本医師と患者さんによる仮処分申し立てにおける「完全勝利」、草津駅前での2度にわたる大規模なデモなど、国立大学病院への問題指摘としては、異例の内容と規模、そして司法判断やマスコミ報道などが展開されてきた。

その総体は「異例」ではなく「異常事態」とも呼ぶべき様相を呈している。仮処分に完敗後も反省の態度をまったく示すことなく、引き続き仮処分決定内容を不服として、無意味な高等裁判所への抗告を行う滋賀医大の「暴走」と、「無私」であるにもかかわらず粘り強い活動を継続する患者会の対比が際立つ。

患者会への「無視」と岡本医師への誹謗中傷に余念がない滋賀医大。塩田浩平学長、松末吉隆病院長は、組織ぐるみで証拠捏造、印象操作、事実隠蔽そして岡本医師と「岡本メソッド」の誹謗中傷に血道をあげる。「税金から多額の補助金が支給されている、公的機関である国立大学、病院でこのような行為が継続的に行われることは許されるのか?」純粋な疑問が患者さんや地域、全国に広がるのも無理はなかろう。

◆名医を追い出す病院に憤っています──患者会の一人、神野さんの経験を聞く

 
京都新聞(11月15日付け)に掲載された『名医の追放』の広告

患者のひとり、神野幸洋さん(73)に電話でお話を伺った。

「こんなバカな話はないですね。名医を追い出す病院に憤っています。私は手術が終わりましたが、まだ先生の治療を待っている患者さんがいるわけでしょ。これだけ『宝物』のお医者さんを追放して大学が対面を保つ?考えられません。私は転移を心配し、なかば諦めていました。それを救って下さったのが岡本医師です。このことは強く言っておきたいです」

それまで穏やかだった語調が、にわかに怒気を含む語り口に変化した。お話を聞かせていただいた神野さんは、2016年5月までにPSA(Prostate Specific Antigen:前立腺特異抗原)の値が高く、地元の病院で2度にわたり、前立腺の細胞検査(生検)を受けた。1回目の検査ではがんは発見されなかったが、2度目の検査でがんが見つかり、PSAの値も90を超えていた。

治療方法を模索していた神野さんは、インターネットで「腺友クラブ」という前立腺癌患者の団体を見つけ、滋賀医大病院岡本圭生医師の講演が2017年10月9日、大阪で開かれることを知った。神野さんは長野県から大阪まで岡本医師の講演を聞きに出かけ「この人に治療してもらい」と感じた。しかし、はたして自分が手術を受けることができるかどうか。神野さんはたまたま講演会場で隣の席に座ったひとに疑問を持ちかけると「岡本先生はメールで問い合わせるとすぐに返事をくださるお医者さんです」と聞いた。その日のうちに帰宅した神野さんは、同日の夜、岡本医師にメールを送った。

早くも翌朝には岡本医師からメールの返信があった。「詳細がわからないと治療ができるかどうかわからないので、細かい情報を送ってください」岡本医師の素早い反応に神野さんはまず感激した。神野さんは同年10月26日には、滋賀医大に赴き岡本医師の診察を受けることになる。

「神野さん、あなたの癌は『高リスク』ではなく『超高リスク』です。でも治療の効果は期待できます。やってみましょう」

初診時に岡本医師は神野さんにそう告げた。次回診察日は12月20日に決まった。神野さんが長野県のご自宅から滋賀医大まで通う際には、名古屋まで長距離バスを利用し名古屋からは新幹線と東海道線を乗り継ぐ。片道5時間以上を要する道程だ。

ところが2017年12月20日に岡本医師のもとを訪れた神野さんは、思いもよらぬ事態に直面する。滋賀医大は岡本医師の追放を画策し、「診察予約停止」という患者を全く無視した暴挙に出ていた時期であったのだ。神野さんは診察室で岡本医師から一応事情の説明を受けることができたが、次回診察日の予約が取れない。病院の事務職員の説明も要領を得ない。後日滋賀医大病院から迷惑を詫びる手紙と2018年2月1日に診察予約が取れた旨の書面で連絡があった。2月1日の診察は病院側の「予約停止」がなければ不要な診察日となり、神野さんは片道5時間以上の通院を1度無駄にこなさなければならなかった。

神野さんのように、滋賀県や近隣府県だけではなく、岡本医師のもとには全国から患者さんが押し寄せている。その患者さんに筋の通った説明もできぬままに、滋賀医大当局は「予約停止」で大混乱を引き起こしたのだ。患者さんが被った交通費、宿泊費などの損害に対して、滋賀医大病院はなんら関心すら寄せていない。

病院の身勝手極まりない、姿勢が270名もの患者さんに迷惑(混乱だけではなく、多大な出費)をかけたのであるが、患者さんに対する非礼に対して、なんの補償も考えないのが、滋賀医大病院幹部の姿勢だった。

神野さんは紆余曲折を経て、2018年3月30日に「プレプラン」を受けた。小線源治療と外照射治療、ホルモン投与を併用した治療方法が決定した。翌4月17日に小線源手術を受けることができた。入院時には「自分で選んだ医師と治療法だから」と術前から満足感に満ちていた。入院翌日に手術が行われ、神野さんには順調に52個のシードが埋め込まれた。部分麻酔が施された手術中も安心して施術を受けることができ、手術終了時には岡本医師から「順調に行きました」と声をかけられた。

月曜日に入院、火曜日に手術、木曜日に退院を迎えた神野さんは、帰路ご伴侶とともに、彦根城にも立ち寄り天守閣にまで登った。手術後に血尿などの症状もまったくなく、むしろ術前よりも明らかに好転した体調に神野さんは驚きを覚えたという。

5月29日中頃、予定されていた通り外照射治療を受けるために再度入院する。入院中は病棟の親切なスタッフの対応が印象的であった(神野さんだけではなく、多くの患者さんは滋賀医大、とりわけ小線源手術で入院した際の、病棟看護師、看護師長などスタッフの親切な対応に、感謝と尊敬の念を語る)。術後の経過は理想的な数値を示している。最高時90を超えていたPSAが最新値では1.029まで下がっている。岡本医師からは「このような経過の場合、まず完治します」と告げられている。

神野さんは定年を待たずに職場を退職し、農業に従事しておられる。高校までを東京過ごした神野さんはかねてより生物学に興味があり、農業関係の大学に進学。卒業後長野県の役所に就職し農水畑でお仕事をされていた。役所に勤務時代より、品種改良の指導など現場に出向くことが多く農業への興味は、さらに増していた。不幸にも娘さんを早くに亡くされた神野さんは人生観が変わり、55歳で「これからは好きなことをしよう」と長年の希望であった農業へ踏み出す。最初は自宅からやや距離のある広大な農地を借り、ビニールハウスでのイチゴ栽培をはじめた。良いイチゴを作るためにビニールハウス内の設備は工夫を凝らし、自分で造った。神野さんの設備は土を使うのが特徴で、多くの農家が水などを利用する中で珍しいものだ。この設備と10年にわたる経験を経て、神野さんは1粒700円もする高級イチゴの栽培に成功する。全国でも有数の高級イチゴ栽培農家として有名になった。現在も毎日午前中はイチゴの世話に従事しておられる。

◆滋賀医大病院の暴走に「ストップ」をかけようとする裁判

 
厳しい表情で滋賀医大の不正を弾劾する岡本医師

岡本医師の治療を受けた1200名以上の前立腺癌患者さんには、それぞれの人生があり、生活も様々だろう。「前立腺癌で岡本圭生医師の治療を受けた」以外には共通項のない人たちばかりだ。その岡本医師による滋賀医大病院での手術は、いったん26日で打ち切られることになる。そして契約上岡本医師は12月31日をもって滋賀医大での身分を失う。

その時期と相まって、患者さん4名が滋賀医大病院泌尿器科の河内明宏、成田 充弘両医師を相手取った「説明義務による損害賠償請求訴訟」の証人調べがはじまる。11月21日(木)には先頭を切って、岡本医師が証人として大津地裁で証言する。裁判への注目は高く傍聴には抽選を経ねばならない。

いよいよ、「暴走を続ける滋賀医大」にストップをかけようとする、患者の皆さんが提起した裁判はヤマ場を迎える。

大津地裁へ向かう患者会の皆さん(2019年8月22日撮影)

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

《関連過去記事カテゴリー》
滋賀医科大学附属病院問題 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=68

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

安倍政権が憲政史上最長の政権になるというこの国の惨状の源流

明後日の11月20日には安倍晋三が総理大臣としての座に留まった期間が2887日(安倍第一次政権と合わせた通算)となり、桂太郎元総理大臣を抜いて、憲政史上最長を塗り替える。本人にとっては慶事かもしれないが、客観的には惨事以外のなにものでもない。本音では「焼け野原」とでも言ってしまいたい。現状の分析をすることにも気が滅入る(こういった冷徹な「絶望」こそが、未来を展望するにあたっては、覚悟を決めて抱き込まなければ仕方ない時代ではないか)。

ああだのこうだの、もっともらしい分析が展開されていても、その大半は、自分を「安全地帯」におき、野球にたとえるとすれば「決して盗塁する意思のないリードを取っている走者」のように感じられる。そのことへの指摘も必要なのではないだろうか。安倍でなくとも条件が整えば、このような独裁的長期政権の召致が必然的であった、この島国における「小選挙区制」の導入に熱心だったのはだれだ? 「政党交付金」なる納税者の意思を蹂躙する、公的賄賂の仕組みを作り上げたのは、支持したのはだれだ?

◆惨状へと続く水源──どの政権の時代に「小選挙区制」が法案化されたのか

これらの原則的発問に蓋をしたままで、現状を分析することは、あらゆる意味において無効である。直視するがよい。「小選挙区制」導入のお先棒を担いだ人物と、現状を嘆いているような「ポーズ」を装う人物に、どれほど重複が多いことか。こういった現象を日本語では「欺瞞」という。「政治家は厚顔無恥でなければつとまらない職業だから免罪される」ということにはなりはしない。その主張は道理から外れている。

どの政権の時代に「小選挙区制」が法案化されたのか。あるいはそこへ導く水路を熱心に掘り返していたのは、どういった勢力や人物で、連中は70年代後半から80年代にどのように動いていたのか。そこを少しばかり掘り起こせば、惨状へと続く水源には、簡単に至ることができる。

そのことを明らかにするほうが、安部の在任期間を嘆くよりも、よほど実のある分析にあろう。もっとも世襲議員である安倍晋三は、総理大臣として以前に、基本的な思考能力や知性において、一般的な企業管理職と比して、けっして優れているとは思われない。むしろ一人きりになれば、自身が発案したり、決定を下し責任を取る覚悟などにおいて著しく劣っているだろうと、わたしは感じている。

同じ組織社会でも企業、なかんずく過剰に株主への利益還元が優先されるようになった、今日の大企業において、管理職は(それが好ましい事態であると、わたしはまったく思わないが)あのように、違法行為ばかりを連続する従業員(大臣)や自身(安倍)を放置していては、「コンプライアンス」の名のもとに、株主総会で早晩首が飛ぶだろう。

◆新自由主義と社会党の解体

新自由主義(この場合の「自由」はもっぱら「独占資本の好き放題」を意味する)の今日にあって、最大化されるべきは国民、市民が享受する利益ではない。企業≠従業員であり、企業≒株主≒内部留保が基礎的な構造である。起業経営者は毎年の株主総会で、みずからの地位を奪われないように、従業員よりも株主への目配りを行き渡らせることが、あすの地位を担保するための最低条件となる。

他方、小選挙区制で「AかBか」の選択肢しかなくなった政界においては、戦前から引き続けれた霞が関と企業連合体への利益供与を保ち続ける「永久与党」以外に競争相手は生まれはしない。いっとき「民主党」が政権を担ったが、当時の民主党実力者を分析してみれば、「永久与党」の血脈にある人物の名前をいくらでも挙げることができる。鳩山由紀夫(父:鳩山一郎の孫、本人:元自民党)、小沢一郎(本人:元自民党幹事長)、羽田孜(本人:元自民党)、岡田克也(本人:元自民党)、渡部恒三(本人:元自民党で大臣経験)…。

政治学を学んだ人のなかには「民主主義の基本は小選挙区制」と、欧州の政治学を、風土も地盤も違うアジアの果ての国にも適用しようとする向きが多かった。ジャーナリストでは田原総一朗、学者では山口二郎などが筆頭にあげられよう。そしてマスコミも当初は静々と、そして80年代中盤から後半に入ると、わがもの顔で「政権交代可能な2大政党制」を支持するようになった。

だが、当時の順番では自民党の次には、社会党が位置していた。社会党の内では自民党と変わらない主張の連中が、年々繁茂してきたが、それでも左派は明確に「反自民」であり、この主張では米国における「民主党、共和党」、英国における「保守党、労働党」の範疇を超えてしまう。

「社会党を解体しないことには、2大政党の実現は不可能だ」

実際になされたこの作業こそが、今日の惨状の原点にあるといっても過言ではないかもしれない。もちろんそれは表層的な政治現象に過ぎないが、少なくとも体面上は「決して単独で政権を取れないが、自民党にはくみしない」勢力が野党最大であった時代には、国会運営でも今日ほどの強行採決は横行しなかったし、テーブルの下での国会対策委員長同士での、醜いやり取りもあったろうが、それでも暴走モードにはいれば、支持基盤の労組が黙っていないとの重層的な利益共同内における緊張関係も一定程度は作用していた。

しかし、社会党では具合が悪かったのであり、その最大支持基盤である総評ですらが、「小選挙区制」には邪魔だったのだ。だから国鉄民営化は、サービス向上や赤字問題にすり替えられがちであるが、国労の解体=総評の解体を狙って、小選挙区制の実現から逆算して、採用された政策変更であったのであり、今日にいたり、振り返ればその計算と目論見が、「永久与党」の青写真通りに進行してきたと解析することが可能だ。

その延長線上には、どんなに凡庸であったとしても、くたびれた権力者は居座れるのが、この島国の心象であり、政治土壌であることを、あの饒舌な政治学者やジャーナリスト、政治家たちは本当にわからなかったのだろうか。浅学のわたしでも容易に予想された惨状が実現し継続している。これだけで総括は充分だろう。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

月刊『紙の爆弾』2019年12月号
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

私の内なるタイとムエタイ〈66〉タイで三日坊主! Part58 5年ぶりのムエタイとお寺

◆高津くんの出家

高津くんはチャイヤプーム県にあるワット・コークコーンで9日間の出家だった。彼はタイで初めてのムエタイ修行したフェアテックスジムに居る師匠で、パイブーンというかつての名選手(元・ルンピニースタジアムランカー)の出身地にあるお寺に導かれての出家だった。因みにパイブーン氏をフェアテックスジムに紹介したのが私の黄衣を預かってくれたチャンリットさん。古く遡れば遠い親戚のような縁が繋がっていく因果があるものだ。

後々の写真を見せて貰うと、高津くんは元々髪が短く、剃髪してもさほど変わらぬ顔つきのようだ。体調を壊し若干の入院生活があったようだが、日々唱えるお経もしっかり覚え、毎晩の懺悔の儀式もこなしたという。黄衣の纏いもしっかりしていて、パイブーンさんも在家信者としてしっかり付き添ってくれたようだ。

高津くんは「僕はたった9日間だから!」と謙遜するが、チャランポランで写真撮っていた私とは真剣さが違った。長い戦歴とムエタイ修行の厳しさが物言う習得力と思う。

チャイヤプーム県で出家した高津広行、10年パンサー級の風格
出家前のネイトさん。その後、どんな人生を送っただろうか 1994.12

◆ネイトさんの悟り

それからネイトさんは、藤川さんとカンボジアへ巡礼の旅から帰ってから、また更に当初から藤川さんが計画していた軍事政権下のミャンマーへの困難な旅をこなし、その後も彼は一人でもタイ国内の寺を巡る旅をして、托鉢中に犬に噛まれたり、デング熱病に罹りながらもノンカイに戻り、還俗する前に藤川さんにもう一度会いに来て言っていたらしい。

「これで普通の生活に戻っても、仏陀の弟子として、生涯仏教の教えを道標として、理想の人間に近づくよう生きていく自信が付きました」と。

そしてほぼ半年の出家生活を終え、一旦はアメリカに帰ったらしく、その後の様子は分からないが、出家した経験は収穫大きい人生の分岐点となったことだろう。またどこかで会うことが出来るだろうか。藤川さんと出会った人物には、この他にもいろいろな影響受けた人が居たのだった。

◆タイ再訪への導き

諸々の出来事を絡みながらも、徐々に変化する藤川さんの比丘生活を聴きながら、私も藤川さんが移籍したお寺を訪問するチャンスが訪れたのは2000年12月。格闘技の取材中心だったこの頃、12月3日に新日本キックボクシング協会が企画するタイ国ラジャダムナンスタジアム興行が予定されていたところ、組まれたツアーの取材陣枠に、いつもコンビを組んでいた記者と参加することになった。旅費は記事掲載する出版社持ち。ならばこのチャンスを逃がすまい。5年ぶりのムエタイとお寺であった。

小笠原仁を祝福するアンモープロモーター、伊原信一代表、ラジャダムナンコミッション役員 2000.12.3
ウィラポンのV5を祝福する役員たち 2000.12.5
侍姿の楠本勝也を祝福するNJKF藤田真理事長 2000.12.5

このムエタイに絡むツアーの様子に触れると、日程は12月2日から6日の5日間。3日のラジャダムナンスタジアムには日本チャンピオン6人が出場した日本vsタイ対抗戦は2勝4敗(深津飛成がKO勝利)。

小笠原仁(伊原)は王座決定戦で1ラウンドKO勝利し、同スタジアム・ジュニアミドル級王座獲得。藤原敏男以来、22年ぶり日本人二人目の快挙だった。

12月5日には王宮前広場で国王生誕記念日興行が開催され、ここまでの取材態勢を組んで臨んだ日程となった。ここでは過去、辰吉丈一郎からWBC世界バンタム級王座奪取したウィラポン・ナコンルアンプロモーションの5度目の防衛戦があり、同じ王宮前広場の隣のリングではタイvs外国勢の豪華なムエタイ興行で、ニュージャパンキックボクシング連盟が協賛し、NJKFバンタム級チャンピオン(第2代)楠本勝也(東京北星)が1ラウンドKO勝利で最終試合を飾った。

このイベントは深夜に及び、疲れた身体で翌朝の早い便で帰国の途に付いた取材陣一行たち。一人残った私はそこから自由の身。ムエタイから仏教へ思考を変え、藤川さんのお寺を目指した。

◆タイのお寺で藤川さんと再会!

ワット・ポムケーウの内側から見た門

改めてゆっくりバンコクの街を歩くと、5年前には無かった高架鉄道が走るまでになっていた。もう市内バスの路線番号も忘れてしまい、車掌に行き先が上手く言えないとエアコンバスに乗るのも難しくなった(エアコン無いボロバスは4バーツほどの一律料金)。

でも何とか乗り継ぎ、サイタイマイバスターミナルに再び立った。私が黄衣纏って歩いた想い出の地でもある。青いリムジンバスに乗り、サムットソンクラーム県のメークローンへ向かった。

バンコクから70キロメートルあまり。ペッブリーより近く1時間で到着。メークローンはそれなりに栄えている地方都市で交通量が多かった。

藤川さんが在籍するワット・ポムケーウはバスターミナルから「すぐ目の前!」と言われていたが、歩いて50メートルぐらい。そこに“ワット・ポムケーウ”の門があった。

境内で犬に餌をやっていた中年の比丘に「プラ・キヨヒロ・ユーマイカップ(キヨヒロさん居ますか)?」と尋ねると「ローサックルーナ!(ちょっと待ってて)」と言ってクティらしき方向へ入って行った。

ワット・ポムケーウで藤川さんと再会

2分ほどして出てきた藤川さん。いつもの姿だが顔艶の良く元気そうな第一印象だった。

「“日本人が来た”って言うから誰かと思うたら、何やお前か!」とガッカリしたような素振り。せっかく日本からわざわざ会いに来たのに“何やお前か”は無いだろう(ムエタイ取材のついでだけど)。

来るに至った経緯は手紙で知らせてあったので驚くこともアテが外れるということもないだろうが、タイのお寺で会うのは5年ぶりである。荷物が嵩張る旅だったから御土産は薬類だけだが、それでも喜んで貰えた。

そして、「試合は日本人が勝ったんか?」と言うから「日本人2人目のムエタイチャンピオンが誕生しました!」と言うと、「その話はここの連中の前ではするなよ!」と言う藤川さん。移籍前の寺の時からその事情は聞いていた。

懺悔の儀式も日課、先輩僧に向かう

日本vsタイの試合がある時はなるべく寺に居たくないのだという。辰吉丈一郎がタイ人(シリモンコン戦=1997年)とやった世界戦の時はバンコクへ逃げたと言う(大袈裟な言い方)。

日本人が勝てば、「八百長だろう。幾らか払ったんだろう?」と言い出すタイ人。タイ選手が勝てば「どうだ、タイ人は強いだろう!幼い頃からムエタイやっているからな、日本人なんかに負けないんだよ!」。どこかの国みたいな洗脳教育がされているのかと思うほどだという。

日本の水着タレントのグラビア見て「幾らだ?」と言い出すムエタイ選手だったり、一概には言えないが、彼らは決して威圧的に主張してくるのではなく、学歴低い田舎者の自慢話程度のこと。藤川さんの長話しよりマシだろうし、彼らはテレビで観れる範疇のボクシングがストレス発散の“娯楽”だから聞いてあげていいだろうと思う。

◆泊まりは野宿!?

クティは和尚さんが「部外者をあまり中に入れるなよ!」と言われているらしく、誘ってはくれなかった。

私を泊めてくれたのは外にある物置小屋の縁側。そこもクティの一部で、30歳ぐらいの比丘(仮称=ソムサック)が使っている部屋があり、その扉の前にある縁側に蚊帳と毛布を持って来てくれた藤川さん。

するとソムサックさんが廊下を掃除してくれて蚊帳を吊るのを手伝ってくれた親切な比丘だった(このソムサックさん、後々また会うことになる)。それでも金鳥の蚊取り線香は焚く私の念の入れよう。蚊帳吊るのはラオス以来だな。

翌朝は巣鴨以来の、藤川さんの托鉢に着いて行くことになっていた。

クティの廊下を掃除してくれた若いお坊さん

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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