1945年同様、2021年も惨禍を止められなかった ── 心底悔しく、怒りをもって迎える8月6日 田所敏夫

◆2021年の日本はあの時の狂気と同次元の無知性に陥っている

広島原爆の直撃によって亡くなったみなさん、その後被爆の後遺症でなくなったみなさん。命は落とさなかったものの長年放射性由来の後遺症に苦しむみなさん。そして世代をこえて被曝による健康被害が疑われるみなさん。

わたしは、2021年8月6日を心底悔しく、怒りをもって迎えます。原爆とはまったく形状も広がり、症状は違うけれども「防ぐことのできる」疫病を、無策な政府によって爆発的な感染を広げてしまいました。

原爆が落とされる前に、広島市民にはなんの防御策も、情報もなかったでしょうが、大日本帝国(とりわけその最高権力者である昭和天皇ヒロヒト)には、敗戦を受け入れる選択肢があったはずです。しかし、そうはならなかった。ヒロヒトはのちに米国による原爆投下を「戦争中であったので仕方なかった」とぬけぬけと記者会見で発言しました。

日本人はみずからの手で最高の戦争責任者に責任を取らせることができなかった。この事実は絶対に忘れてはなりませんし、その反省を胸に刻みながらわたしは生きます。統帥権を持つヒロヒトのもと、市民は1945年に最後は「本土で竹槍決戦だ」と本気で叫んでいました(あるいは叫ばされていました)。あの狂気と同次元の無知性に残念ながら2021年の、日本は陥っています。

◆76年を経てもなお、人間はなにも進歩していない

76年を経て人間は、なにも進歩していません。核兵器廃絶に日本政府は消極的です。驚くほど愚鈍です。そして、たった10年前に福島第一原発で原発4機爆発という人類史上初の大事故を経験しても、あろうことか原発の運転期間を40年から60年へ延ばし、それでも満足せずに60年超の運転を政府は検討しはじめました。冷静な科学者は誰もが「危険極まりない」、「無謀だ」、「事故発生確率は最大化するだろう」と懸念を示しています。その通りだと思います。

8月6日、本当はあの日に思いを巡らせ、犠牲になったみなさんに追悼の気持ちを、新たにするのが穏当な姿だと思います。でも待ってほしい。きょう行われる(おこなわれた)追悼記念式典は、形骸化していませんか。首相菅が発するコメントの中に注目すべき新たな具体的取り組みへの決意がありましたか。あるはずはない。

菅に限ったことでなく、この式典に出席する首相のコメントは、年中行事をこなすように、毎年大した変化はなく、内容も抽象的で凡庸なものばかりです。式次第も毎年変わらぬ進行で、原爆や核兵器への怒りや、どこにも向けようのない思いを発する場所になっていると、わたしには到底思えません。

他方、広島市内では各種団体がこの日に合わせて、各種のアクションを起こします。そちらの方が、生の声を聴くには適した場所かもしれません。

◆1945年と同様、2021年も惨禍を止められなかった

そして、「広島詣」の欺瞞にも一言触れておきます。他国の元首や国際機関の著名人がときに広島・長崎を訪れますが、数少ない例を除き、あのほとんどは演技であると断じます。

もっとも悪辣だったのは、米国大統領だったバラク・オバマが、わざわざ核兵器のスイッチを見せびらかし持参しながら広島を訪れた姿でしょう。平和記念資料館をわずか数分で駆け抜けて、謝罪を一切含まない無内容なスピーチをおこなった後、なぜか被爆者を抱きしめた。背筋が凍るほどの背理でした。最近も現在日本に惨禍を強いて、喜んでいる国際組織の最高責任者が広島を訪れたそうですが、これも広島や被爆者への唾棄すべき侮辱行為と評価するべきだと思います。

残念ながら1945年同様、2021年も惨禍を止められなかった。今年は悔しさと半ば落胆の中でこの日を迎えます。進歩しない人間の姿を原爆犠牲者に見せつけることほど、酷で無様な醜態はないはずです。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

*田所敏夫さんは広島被爆2世で、昨年原爆投下75年にしてカミングアウトされました。心からリスペクトします。田所さんとは、ここ数年、カウンター大学院生リンチ事件の被害者救済・支援と真相究明活動を共にしてきましたが、なぜ彼がこれほどまでに似非反差別主義者に対して厳しく対処するのかと思っていた所、じつは広島被爆2世という存在にあることが判りました。被爆の影響は、昨年春頃から表われ、ずっと体調(精神的にも)不良状態にあります。今後とも支え合って頑張っていきたいと思います。揮毫は龍一郎。(松岡)

龍一郎・揮毫
タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号
『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉
私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

《8月のことば》行け! 風のように 自由に 鹿砦社代表 松岡利康

《8月のことば》行け! 風のように 自由に(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

とめどないコロナ禍と猛暑の中、8月がやって来ました。なかなか自由に身動きできません。

あまり危機感を煽るつもりはありませんが、この国は確実に地獄への道に突き進んでいるかのように感じます。

私たちは、こうした危機に対して、その都度抵抗し闘ってきました。負け続けてきたにしても、私たちは抵抗と闘いで逆流に抗してきました。そのことによって、反動化への歯止めになってきたことは確かです。抵抗や闘いをしなかったら反動の嵐はますます激しくなっていたでしょう。

今は、いろいろな意味で身動きできず風のように自由に行けませんが、一日一刻も早く風のように自由に行けるようになりたいものです。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号

《7月のことば》Never Give Up! あきらめないこと つづけること ときどき やすむこと 鹿砦社代表 松岡利康

《7月のことば》Never Give Up! あきらめないこと つづけること ときどき やすむこと(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

龍一郎にしては珍しく英字ですが、意味は言わずもがなです。

今、コロナ禍で多くの方々が呻吟しておられます。

これまでの人生を振り返る歳になりましたが、私(たち)も決して平坦な道を歩んできたのではありません。むしろ苦しかったことのほうが多かったのではないでしょうか。

しかし、生来鈍感な性格もあってか、諦めることを知らないこともよかったのかもしれません。たしかに長い人生、一時的に「もうアカン!」と思ったことは何度もありましたが、「明日は明日の風が吹く」ってなもので、シンドさを翌日に引きずらないように努めました。

コロナ禍、まだまだ油断がなりません。なんとしても生き延びましょう! 人生、諦めたら終わりだ! と、自分に言い聞かせながら──。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

《6月のことば》一日一生 鹿砦社代表 松岡利康

《6月のことば》一日一生(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

1995年、阪神・淡路大震災が起き、オウム事件で震撼させられた年──鹿砦社は「日々決戦 一日一生」の社是を掲げました。

あれから四半世紀、私たちはまさにこの言葉どおり過ごしてまいりました。

いや、そう強いられたと言えるかもしれません。

いろいろなことが過(よぎ)ります。

私個人に立ち返っても、もうすぐ70歳、いよいよ後先も長くはなくなりました。

まさに「一日一生」、日々を悔いなく過ごしていきたいものです。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』7月号

《5月のことば》まっすぐ生きていれば 怖いものなどない 鹿砦社代表 松岡利康

《5月のことば》まっすぐ生きていれば 怖いものなどない(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

風薫る季節となりました。本来なら一年で一番過ごしやすい季節ですが、今年も昨年同様新型コロナが終息せず、先が見えない鬱々とした状態です。

5月の言葉は、龍一郎が師事し私も尊敬する中村哲医師の言葉です。

「まっすぐ生きていれば怖いものなどない」――果たして私たちはまっすぐ生きてきただろうか? これまではどうあれ、今関わっている問題、これからぶつかる問題に対してはまっすぐに対応していきたい。

少なくとも「見ざる、言わざる、聞かざる」といったずるい生き方はやめたいと、あらためて思う昨今です。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号

《4月のことば》花 自由に生きる 自分らしく咲く  鹿砦社代表 松岡利康

《4月のことば》花 自由に生きる 自分らしく咲く(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

 
花咲き乱れる季節となりました。
しかし、世相は暗い。
悠長に咲き乱れる花を眺めている余裕はないかもしれません。

鹿砦社のホームグラウンド・甲子園、一昨年までなら、今の季節は高校野球、これが済んだらプロ野球開幕──全国から多くの人々が駆けつける季節で、咲き乱れる花のように人の洪水で賑やかでした。なにしろ野球だけで年間400万人以上(阪神甲子園球場発表)の人々が押し寄せるのですから。

まだまだ厳しい世情が続きますが、「自由に生き」「自分らしく咲」いていきましょう!
 
 

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号
『NO NUKES voice』Vol.27《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

『NO NUKES voice』Vol.27発行にあたって

2011年3・11東日本大震災‐福島第1原発事故から10年が経ちました。長いようで速かった10年でした。

3・11後、私たちは本誌の前に書籍を数点出しましたが、福島の復旧・復興と共に、福島の想いをわがものとして福島現地からの生きた報告を中心に定期的に発行していこうという決意で後先顧みず本誌を創刊しました。3・11から3年半が経った2014年8月のことでした。

これ以前に、震災後の2011年暮れから福島を忘れないという決意で、魂の書家・龍一郎の力を借りて「鹿砦社カレンダー」を制作し、(当社、たんぽぽ舎への)本誌や『紙の爆弾』の定期購読者、ライターや書店の方々らに無料頒布してまいりました。好評で、当初1,000部から始め現在は1,500部、来年版は1,700部の予定です(内容は毎月1日の「デジタル鹿砦社通信」をご覧ください)。

本誌は、まだまだ採算には乗りませんが、何度も繰り返し申し述べているように、たとえ「便所紙」を使ってでも継続する決意です。

この10年にはいろいろなことがありました。私たちにとって最もショックだったのは、本誌の精神的支柱だった納谷正基さんが急逝されたことです。納谷さんは、お連れ合いが広島被爆二世で若くして亡くなり、その遺志を全うするために、生業の高校生進路指導と、この宣伝媒体のFM放送(仙台)を行っておられ、なんとこの場を使い原発問題を語っておられました。少なからずのバッシングがあったということですが、我関せずで持続しておられました。“志の頑固者”です。本誌の趣旨をも理解され2号目から連載を続けてくださり、毎号100冊を買い取り、学校やFM視聴者らに配布しておられました。

その納谷氏も3年近く前に亡くなられ、娘さんが遺志を引き継ぎ、放送枠を半減させたりして頑張ってこられましたが、矢も底を尽き、この2月、3・11から10年を前にして終了となりました。このかん、どんどんスポンサーは離れ、最後まで支えてくれたのは関東学院大学だけだったということです(あえて名を出させていただきました)。本誌は、そうした納谷さんの遺志を継続することを、あらためて誓います。納谷さんの言葉(警鐘)を1つだけ挙げておきます。──

「あなたにはこの国に浮かび上がる地獄絵が、見えますか?」

この10年の活動で、原発なしでも日本の社会や私たちの生活はやっていけることがわかりました。もうひと踏ん張り、ふた踏ん張りし続け、この国から原発がなくなるまで私たちは次の10年に向けて歩み続けなければなりません。本誌は小さな存在ですが、志を持って反(脱)原発運動や地域闘争に頑張っておられる皆様方の、ささやかな精神的拠点となっていければ、と願っています。

2021年3月
NO NUKES voice 編集委員会

『NO NUKES voice』Vol.27
3月11日発売開始 『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

《3月のことば》あの事故から十年だ 鹿砦社代表 松岡利康

《3月のことば》あの事故から十年だ 故郷 帰りたいけど帰れない 今年も桜は咲くだろか(鹿砦社カレンダー2021より/揮毫・龍一郎)

齢を重ねると望郷意識が高まってきます。

私の故郷・熊本は、5年近く前(もう5年かあ)に大地震に襲われ、小さな頃より日々眺めたり散策して過ごした熊本城も大きな損壊を受けました。以降再建工事が進行しています。どんな様子か直に一目見たいと思いますが、コロナ禍で帰りたくても帰れません。

一時は、65歳を過ぎたら、月の半分は熊本で過ごしたいと願っていましたが、現実には叶えられていません。

さて、もうすぐ〈3.11〉東日本大震災から10年を迎えます。──

特に福島第一原発爆発事故で、みずからの意志に反し故郷を離れておられる方々がおられます。私の場合と違い、帰りたくても帰れない厳しい現実があります。

今月の揮毫について、書家・龍一郎は、次のように言っています。──

「原発事故で故郷を追われた人の思いに寄り添いたいと思う。
桜の花は何も語らないが 魂が震えるのです。
静かに拳を握りしめるのです。

たくさんの人に思いがとどきますように祈ります。

                          龍一郎」

*今月の言葉は3月11日付けの『東京新聞』誌上で、同日発売の『NO NUKES voice』27号の広告にも使わせていただきました。

3月5日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

《2月のことば》俺を倒してから世界を動かせ 鹿砦社代表 松岡利康

《2月のことば》俺を倒してから世界を動かせ(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

鹿砦社が、私の大学の後輩で書家の龍一郎に揮毫・製作を依頼しているカレンダーですが、今月は「俺を倒してから世界を動かせ」の文字が踊ります。通常、月ごとの言葉はすべて龍一郎に任せてあるのですが、今月だけは私のわがままでこの言葉としてもらいました。

といっても、いったい何を意味する言葉かと不思議に思われる方も少なくないことでしょう。今を遡ること約半世紀(正確には49年)前、1972年2月1日を頂点に同志社大学で闘われた「学費値上げ阻止闘争」に私は主体的に参加し最後まで闘いました。同大今出川キャンパスの中央に在り、この前で幾多の集会が行われた、われわれの世代にとって象徴的建物「明徳館」(Mとも揶揄される)の屋上に仲間と共に籠城し、掲げたメッセージの一つがこれです。私が発案し書いたものですが、その様子は新聞報道にも写真で掲載されました。機動隊が導入され、あっけなく落城となりましたが、20歳そこそこの学生たちは真剣に闘い、籠城組のわたしたち以外に、約300名の支援部隊が結集し、120数名検挙、43名逮捕、10名起訴となりました(なんと支援に来てくれた京大生M君は無罪を勝ち取りました)。

同志社大学はその後に、大規模な「田辺移転構想」に着手し一説には500億円以上の資金を投入したそうですが、「田辺移転」が失敗に終わったことは明らかでしょう。一度は田辺に移された(それも2回生までだけ)同志社大学の文系学部が、すべて今出川校地(もともと大学のあった場所です)に戻されたのですから。いっとき東京・大阪・京都など都市部の大学の郊外移転が流行りましたが、その多くが再び都心地への回帰を強めている様子を見ると、やはりあの「学費値上げ」は不要なものではなかったのか……との想いが拭えません。

あるライターが「俺を倒してから世界を動かせ」を評してくれました。

《ふつう、運動のスローガンは複数なんですよね、「われわれ」とか「俺たち」あるいは「仲間」などです。なのに全学の学費値上げを問うた行動の主語が「俺」になっている。一応申し訳程度に「同大全学闘」とありますが。組織的な運動ではなかなか目にしないスローガンですよ。主語が単数なのですから。松岡さんに聞いたら籠城組は4人いたそうですし、支援の部隊も300名あまりいたそうです。そこに「俺」はないでしょう(笑)。
 ところが、書いた本人もそうでしょうが、これを見た仲間は、一瞬きょとんとするかもしれませんが、「そうか、俺が動かないと状況は動かない」と感じたはずです。数多くのスローガン、特に学生運動におけるそれを見てきましたが、いい意味でこんなに「わがまま」で「独立した意思」を表明した言葉は目にした記憶がありません(東大安田講堂攻防戦のあと安田講堂に書き残された、「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」にも共通のエッセンスがあります)。党派指導の組織だったら絶対に考えられません。同志社の学生運動が懐の深いものであったことを示す、一つの例でしょう。
 そして松岡さんは当時からこういった「とんでもない」発想をする素養があったことを示す好例だとも分析できます。警察権力に対して「俺を倒せ」とは! このアナーキーさと闘争精神が、のちに出版に関わってからの彼の仕事を象徴しているともいえます。時に人々から首を傾げられても、また騙されたりすることがあっても、最後は「主語一人称」で闘いきる。性根の強さというか太さは熊本人気質なのでしょうか。往々にして「個」が確立されていない、日本社会にあって、示唆に富むスローガンだといえるでしょう。そしてその精神は今日ますます重要性を増しているように感じます》

このライターさんが評してくださったように、大仰なものではありませんが、たしかに指摘される通り、当時も今も〈革命的敗北主義〉が私の中には染み付いているのかもしれません。「最後の一人になっても闘う」決意があったからこそ「無茶」もできたし、逆に言えば支援してくださる方々に恵まれたとも思います(もっとも近年は〈革命的敗北主義〉だけではなく「論争における止揚から真実の探求」路線の重要性も認識しています)。

大衆運動も政治闘争も反差別運動も、結局のところ「個人」の集合体であるわけですから、個人が資質や能力、人間的な成熟を高めてゆくことが、結果としては社会の好ましい変化に繋がるのではないでしょうか。菅首相をはじめとする閣僚や役人、「個」を持ちえない人々による社会の劣化に直面するにつけ、昔の気持ちが蘇ります。

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他