デジタル鹿砦社通信をご覧の皆様、こんにちは。愛煙家の原田卓馬です。

百害あって一利なしと声高に喧伝されるタバコ。2005年にWHO(世界保健機関)によって発効された国際条約の、通称『たばこ規制枠組条約』。それ以降の愛煙家に対する逆風は猛烈に吹き荒れている。

たばこ税の値上げをきっかけに、『わかば』や『エコー』など200円台の旧三級品タバコに切替えた人もいれば、やむを得ず禁煙という選択肢を選んだ人もいる。喫煙が習慣化しただけで、旨くもないのに吸ってしまっていたという人にとっては好機だっただろう。コストアップを理由に嗜好品の質を下げるというのは人間としての品性を欠いた低俗なことのように想えて不愉快なことが多い。タバコがニコチン摂取のためのツールに成り下がってしまっては文化が廃れる。

そこで、たばこの健康被害説の裏に隠れている真相を暴きだし、安心して美味しく楽しくエレガントにタバコを嗜むのが本連載の目的の一つである。

前回に引き続き、タバコの巻紙と巻紙のりのお話であります。JT(日本たばこ産業)のホームページにある材料品添加物リストは何回も紹介しているが、化学的な成分表示ばかりで何がなんだかさっぱりわからない。

「こいつは参った!」

お手上げして、JTに電話して直接聞いてみた。ちなみに原田は某カード会社でコールセンター勤務歴5年であります。

「はい、JTお客様センターのYが承ります。」

── もしもし、原田です。タバコの巻紙の添加物のことを詳しく聞きたいです。
「はい、マキシのことですね。」

JTではホームページでも、電話対応でも一貫してタバコの巻紙をマキシと呼称しているらしい。社内用語としてマニュアルがしっかり整備されているのだろう。Yさんは発音が綺麗で落ち着いた声のお姉さん。

── はい、巻紙の添加物リストの内容について解説をお願いしたいです。

「少々お待ちくださいませ」

突っ込んだ質問には咄嗟の返答ができない様子だ。こういった案件はコールセンターでの通常業務には盛り込まれていない特殊対応のようだ。

── 今、ホームページにある材料品添加物リストを閲覧しながら電話してるんですが、どれがどんな目的で添加されているのか知りたいです。

「全部ですか?」

── とりあえず巻紙の添加物について全部。

「全部、、、ですか。」

・セルロース 16.3
・炭酸カルシウム 7.2
・水酸化マグネシウム 0.4
・クエン酸カリウム 0.4
・クエン酸ナトリウム 0.4
・塩化カリウム 0.3
・リンゴ酸 0.08
・水酸化カリウム 0.08
・グァーガム 0.07
・カルボキシメチルセルロースナトリウム 0.07
・酢酸カルシウム 0.06
・酢酸カリウム 0.02
・酢酸マグネシウム 0.005

これが巻紙の添加物一覧であります。右横の数字は紙巻たばこ1本に対する最大使用割合(%)です。シガレット100gあたり、最大で16.3gのセルロースが巻紙に使用されているということですね。

13種類もあるのでコールセンターのYさんもびっくり。心の中では、「うわ~、こいつ、めんどくせ~」とつぶやいたことだろうが、そこはプロのJT企業戦士のYさんだ。

「どの添加物についてお知りになりたいですか?」

── じゃあ、上から順にいくとしてまずはセルロースってなんですか?

「はい、セルロースはマキシとフィルターに使用されており、フィルターのアセテートは植物由来のため生分解が可能で、うんぬんかんぬん」

なんかフィルターの話とごちゃまぜになってしまった。

── すいません、フィルターのことは別の機会にということで、巻紙のセルロースことを詳しくお願いします。セルロースって何でできているんですか?

「木材パルプや麻、穀物の繊維で紙の主成分です。」

── 具体的に原料とか産地とかはわかりますか?

「申し訳ありませんが、こちらの部署ですとすぐにはお答えできません。よろしければ折り返しご連絡いたします。」

── はい、お願いします。

折り返し対応になってしまった。電話の向こうでYさんは上司に助けを求めていることだろう。過去の対応経験から、マニュアルには載っていないイレギュラー情報にも詳しい上司よ。

10分程経って、折り返し連絡を受けた。

「先ほどのYの上席のNと申します。マキシの添加物についてご質問ということですが、どういったことでしょうか?」

── 添加物のことがよくわからないので、もっと詳しく知りたいんです。たとえばタバコには燃焼促進剤として火薬が入っているという都市伝説みたいな噂がありますけど、実際それって本当はよくわからないなーと思ったので、お電話しています。

「燃焼促進剤ですか?それはクエン酸塩でございます。」

── クエン酸ですか?

たばこの燃焼促進剤はクエン酸だったのか。とりあえず手元にあったシガレットを舐めてみたが別に酸っぱくはなかった。レモンやミカンのような柑橘類の酸味の成分はクエン酸だが、ここで出てくるのはクエン酸ナトリウム、クエン酸カリウムのクエン酸塩である。

「クエン酸カリウム 燃焼促進剤」でググってみたらJTの出願中特許のページを発見!

『シガレット巻紙の製造方法、その製造機及びシガレット巻紙(WO 2012131902 A1)』によれば

「近年、シガレットに使用される低延焼性巻紙が知られており、巻紙の所定領域に燃焼抑制剤が塗布されている。一般に、たばこの紙(巻紙)には抄紙工程で助燃剤が加えられている。助燃剤としては、クエン酸ナトリウムやクエン酸カリウム等の有機酸塩が付与され、これら助燃剤は燃焼を促進するため、燃焼速度の調節剤として用いられている。」

となっている。長くなったので次回に続く。

(原田卓馬)

 

《まあーわかりやすく今のワシの心境を一言で片岡さんに伝えるとすれば、刺激のない決まりきった日常生活を送っている為、何だかなーーーーー!!って感じであります。刑務所にキッチリ管理されている決まりきった日常生活が、これから先、10年、20年、30年と延々続くのかと思うと、ホンマ、マジで、何だかなあ~~~~~!!と思ってしまうのが、ワシの正直な気持ちであります。》

この文章は今年5月、岡山刑務所で服役中の男から筆者に届いた手紙の一節だ。男の名は引寺利明(47)。4年余り前、広島市南区にあるマツダの本社工場に自動車で突入して暴走し、社員12人をはね、うち1人を死亡させた男である。

[写真]服役中の引寺利明から筆者に届いた手紙

引寺は犯行後、すぐに自首して逮捕されたが、犯行動機については、「現場の工場で期間工として働いていた時、他の社員たちにロッカーを荒らされ、自宅アパートに侵入される集スト(集団ストーカー行為)に遭った」「そのため、マツダに恨みがあった」などと特異なことを主張した。精神鑑定を経て起訴されたが、裁判中も法廷で不規則発言を連発。結果的に昨年9月、最高裁に上告を棄却されて無期懲役の判決が確定したが、責任能力を認められる一方で妄想性障害と認定されるという非常に微妙な裁判だった。

筆者は裁判が控訴審段階にあった昨年春頃からこの引寺と面会、手紙のやりとりを重ねてきた。この特異なキャラクターの持ち主を継続的に取材し、人物像やその時々の様子を世に伝えていくことに意義があるように思えたからである。

では、判決確定から一年経過した今、引寺は一体どんな様子なのか。それを伝えるには、冒頭に引用した手紙の続きを見てもらうのが手っ取り早い。

◆「ポリ24時」にケラケラ笑う

《ここでは雑居房でテレビが見れますが、決められた時間帯にしかテレビが見れない為、本当に見たい番組やドラマ(消灯時間中となる午後9時以降の番組やドラマの事です)を見る事が出来ず、ヒジョ~~~に残念であります。

シャバの人々からすれば、塀の中でテレビが見せてもらえるだけでも感謝しろ!!と思われるかもしれませんが、テレビを見るのが当たり前になっている懲役連中の立場からすれば、テレビの視聴時間が少ない事に関して、不満だらけという事です。

ごくたまーに、テレビでポリ24時を見る事がありますが、ちかんや盗撮犯や窃盗犯が警察官に現行犯逮捕されるシーンがあると、同席のみんなと一緒に「ドジじゃのーー」「何をやっとるんやあーー」「ホンマ、アホじゃのー」などと言い合って、みんなでケラケラと笑いながら見ております。

片岡さん、ぶっちゃけた事を言いますと、ワシを含むここの懲役連中の方が、ポリ24時で逮捕されている奴らより、罪状的には、はるかに凶悪犯な訳です。(笑)。塀の中の住人達が、ポリ24時を見ながらケラケラと笑っている姿というのは、我ながらシュールな光景だと思いますよ。(笑)》

一読しただけで、おわかり頂けたことだろう。引寺が自分の犯した罪について、今も何ら反省せず、そもそも罪悪感すら抱くことなく、刑務所で案外楽しそうな日々を過ごしていることを。引き続き、8月に届いた手紙も紹介しよう。

◆獄中運動会で安全運転リレーに出場

《こちらでの生活は、以前の手紙に書いた通り、変わりばえのない単調な日常生活ではありますが、9月の中旬頃に運動会があります(……中略……)競技の種類としましては、通常のリレーの他にスウェーデンリレーや綱引きや玉入れ、ラムネ早飲み競争などがありまして、なぜかワシは安全運転リレーなるものに出る事になりました。

この競技は、戦時中から昭和時代にかけての子供達が遊びでやっていたであろう、木の棒でチャリンコの車輪を回しながら走って行くやつであります。周りの人達からは「マツダに突っ込んで暴走した引寺さんが安全運転リレーに出ちゃーいけんよーー」とか「引寺さんは前を走っとるランナーをはねとばしてでも自分が勝つつもりなんじゃろー」などと言われてひやかされております。(笑)

ワシ的には、運動会は参加する事に意義があるんじゃけえー楽しくやりゃーえーわ。ぐらいに考えて、かるーい気持ちで安全運転リレーに出る事にしたのですが、そのリレーに出場するメンバーの方々は「勝つ事に意義がある!!」といった感じで、目がマジです。(笑)その為、運動会の一ヶ月も前から、競技に使用する車輪と棒を使って、運動時間に練習しております。

(……中略……)話はかわりますが、シャバでは一万円の臨時福祉給付金(※1)なるものが国から出るという事らしいのですが、塀の中のこちらでは、このネタで盛り上がっております。どうやら塀の中にいる我々凶悪犯にもこの金が支給されるらしく、周りのみんなは、自分の住民票がある区役所宛に「手続きするけえーーその金よこせえーーーー!!」といった手紙をガンガン送っております。(笑)ワシも安佐南区役所(※2)に手紙を送りました。

(……中略……)シャバでの一万円は大した事はありませんが、ここでの一万円は大金であります。なんせ給料5ヶ月分ですから。ハハハハハハハハハーーーーーーーーーーーー!! そういった訳で、みんなこの一万円をゲットするべくガチでマジになっております。(笑)》

もしかすると、この引寺の手紙を読んで、はらわたが煮えくり返った人もいるかもしれない。だが、引寺のような重大事件の犯人が実際はどういう人物で、現在どういう様子なのかを世に伝えることには意義があると筆者は確信している。この手紙も引寺の人物像や現状を伝えるうえで一級の資料価値があると思うからこそ、こうして紹介しているのである。

◆知られざる暴走犯の新主張

この手紙をここで紹介するに際しては、当然、引寺本人の承諾も得ている。引寺から交換条件として示されたのは、「ワシが主張しているマツダ事件の真相」についても書いてくれ、ということだった。筆者は現時点で、その引寺の主張に信ぴょう性を感じていないが、この場で紹介する価値がある主張だとは思っている。引寺本人が「マツダ事件の真相」として現在どういう主張をしているかは、いまだマスコミで一切報じられていないからである。

実を言うと、引寺は今、自分のアパートに侵入する集団ストーカー行為を行っていたのはマツダの関係者ではなく、「おやじ(父親)とアパートを取り扱っていた不動産屋の社長」だったと主張しているのである――。

引寺によると、それは20年来の付き合いである知人男性からの情報により、判決確定直前に判明したことなのだという。筆者は一応、引寺の父親に直接、事実確認をしたが、「(引寺のアパートの部屋に)入っていません。入る用事なんて無いんですから」とのことであった。この時、携帯電話の向こう側の父親が嘘をついているような気配は感じられなかった。しかし、引寺は今も自分の父親と不動産屋の社長こそが集団ストーカーだったと確信しているのである。

それにしても、仮にそれが事実だとすれば、引寺は自分を悩ませた「集団ストーカー」と何の関係もないマツダの工場で暴走し、人の命を奪ったことになるわけだ。にもかかわらず、今も何ら反省していない引寺とは、どういう人物なのか――。筆者は今年9月、岡山刑務所を訪ね、およそ1年ぶりに引寺と面会してきたのだが、そのことはまた次回以降お伝えしたい。

※1、今年4月からの消費税率の引上げに伴い、所得の低い人たちに臨時で支給される給付金。支給額は1人につき1万円。申請先は今年1月1日の時点で住民登録がされている市町村。

※2、引寺が事件前に住んでいたアパートは、土砂災害に見舞われた広島市安佐南区にある。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

 

西郷輝彦「星のフラメンコ」(1966年7月クラウン)

西郷は独立で干されることはなかったが、プレッシャーが重くのしかかった。
独立後間もなくして、西郷の背後を黒い背広を着た傷だらけの集団がつけ狙うようになった。西郷が車に乗ると、その後ろを男たちの車が追い、さらにその後ろを警察官と相澤が乗った車が追い、3台並んでテレビ局に向かった。私服警官が見守る中、西郷はスタジオで歌ったという。また、西郷をめぐる駆け引きの中で出てきたのか、スキャンダルもたびたび流された。

独立後の西郷の仕事は、太平洋テレビとクラウンが分担し、さらに独立から1年は独立の代償として東京第一プロも興行権を握るという約束になった。だが、ブッキングを担う三者は西郷の利権をめぐって激しく対立した。三者が強調せず、それぞれ勝手に仕事を入れたため、異常なまでの過密スケジュールとなってしまった。

たとえば、1965年4月の西郷のスケジュールは、以下のようなものだったという。

・午前9時から午後5時までは、松竹映画『我が青春』収録(第一プロの仕事)。
・午後7時から翌日午前4時までは、日活映画『涙をありがとう』収録(クラウンレコードの仕事)。
・午前6時から午前9時までは、大映映画『狸穴町0番地』収録(太平洋テレビの仕事)。

当時、18歳だった西郷が寝られるのは、2時間の移動時間だけだった。スケジュール調整の話し合いがつかないと、各社の社員たちが西郷を監視するため、マネージャーを名乗ってゾロゾロと現場にやってきた。その数は多いときで20人にもなったという。そんな中で、太平洋がクラウンに3000万円で西郷を返還するという人身売買のような話まで進められたが、独立後1年間は、連日、文字通りの殺人スケジュールだったという。誰しもが「西郷は潰れるだろう」と思った。

だが、西郷は潰れなかった。
疲労のためレコーディングでも声が出ず、スタジオ内に机を並べてその上で10分だけ眠ると、少しだけ声が出た。それで一節歌い、また10分寝て一節歌う。そうして出来上がった『涙をありがとう』という曲がが大ヒット。そればかりか、デビューから2年間に出した20枚以上のレコードのすべてがヒットした。西郷はタフだった。

そうした独立の苦労をともに分かち合ったマネージャーの相澤と別れる日がやってきた。直接のきっかけは、西郷の人気に陰りが見えてきたことに不安を覚えた相澤が「新人を育成したい」と西郷の父親に相談したところ、断られたことだった。相澤は西郷と袂を分かち、1971年、サンミュージックを設立。西郷の方はそれから日誠プロを解散し、舟木一夫の育ての親である阿部裕章の第一共永に移籍。1973年、三度独立して、西郷エンタープライズを設立した。

(星野陽平)

《脱法芸能01》私が『芸能人はなぜ干されるのか?』を書いた理由
《脱法芸能02》安室奈美恵「独立騒動」──なぜ、メディアは安室を叩くのか?
《脱法芸能03》安室奈美恵の「奴隷契約」発言は音事協「統一契約書」批判である
《脱法芸能04》安室「奴隷契約」問題が突きつける日米アーティストの印税格差
《脱法芸能05》江角マキコ騒動──独立直後の芸能人を襲う「暴露報道」の法則
《脱法芸能06》安室奈美恵は干されるのか?──「骨肉の独立戦争」の勝機
《脱法芸能07》小栗旬は「タレント労働組合の結成」を実現できるか?
《脱法芸能08》小栗旬は権力者と闘う「助六」になれるか?
《脱法芸能09》1963年の「音事協」設立と仲宗根美樹独立の末路
《脱法芸能10》1965年、西郷輝彦はなぜ独立しても干されなかったのか?

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』堂々6刷発売中!

 

 

被害者遺族Yさんの上申書を読み上げる支援者の女性

2010年3月に宮崎市で同居していた妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、養母(同50)を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受け、現在は最高裁に上告中の奥本章寛被告(26)。減刑を求める支援活動が盛り上がる中、被害者遺族までもが最高裁に対し、死刑判決を破棄し、裁判を第一審からやり直して欲しいと訴える内容の上申書を提出する異例の事態となっている。その遺族は、奥本被告が殺害した妻の弟であるYさん。Yさんの視点から見ると、この事件は義兄によって母、姉、甥が殺害された事件ということになる。

「奥本章寛君を支える会」が制作した小冊子『青空―奥本章寛君と「支える会の記録」―』によると、このような事態になるターニングポイントは、原田正治さんとの出会いにあったという。原田さんとは、実弟を保険金目的で殺害された犯罪被害者遺族でありながら死刑制度廃止を訴える活動をしていることで有名な人だ。

原田さんの視点に出会い、奥本被告の支援をしていくことは「償う」ということを共に考えていくこと、行動していくことだと考えるに至った「支える会」の主要メンバーが宮崎を訪ね、奥本被告が殺害した妻の父であるKさん、弟であるYさんとの会談を相次いで実現。Yさんについては、本人の希望もあって奥本被告との面会、奥本被告の実家の訪問などまで実現したという。こうして加害者側と被害者側の交流が進む中、今回の上申書提出に至ったという経緯のようである。

◆死刑と無期は五分五分という気持ちだった

その上申書は、8月に大分県中津市であった「支える会」主催の集会で読み上げられたが、被害者遺族が死刑判決の破棄を求めるという異例の内容だ。筆者が抜粋や要約をするより、Yさんの言葉をそのまま伝えたい。そこで以下、当日読み上げられた全文の書き起こしを紹介する。

* * * * * * * *

上申書

最高裁判所御中

【上申の内容】

上申の内容は一言で述べると、事件を第一審に差し戻して、もう一度深く審理して欲しいということです。今から自分の考えを述べます。

【第一審の時の自分の考え】

私はこの事件の第一審、宮崎地方裁判所での裁判に遺族として参加して意見を述べました。第一審裁判の通り、3人の家族を一瞬にして失うという事件のあまりもの重大さから強い怒りを感じていました。また、奥本が法廷で、「わからない」と繰り返す様子を見て、反省していないと感じました。そのため、気持ちとしては死刑と無期懲役とが五分五分でしたが、「極刑を望む」と言ってしまいました。

なぜ気持ちが五分五分だったかというと、殺害された母貴子の日頃の言動から、奥本を追い込んでいったのは、そして、最後にあの事件を起こさせてしまったのは、むしろ母貴子のほうではなかったかという思いがあって、被告奥本だけが悪いわけではないということを家族である自分は感じていたからです。母貴子のほうが悪かった部分については、自分のほうから被告奥本に謝りたいという思いもあったくらいです。

つまり、第一審の時も被告奥本は死刑以外にありえないというふうに意見が決まっていたわけではなかったのです。自分は母貴子の暴言が事件の原因になったのではないのか、奥本だけが悪いわけではないのでは、ということがとても気になっていたからです。結局、第一審では奥本の本当の動機はわからずじまいでした。第一審に参加した自分にも、どうして奥本がこのような事件を起こしたのか、その考えははっきりしませんでした。

【今の自分の考え】

その後4年も経ち、自分の境遇も大きく変わりました。この事件で母、姉、甥を亡くし、その後、祖母も亡くし、心のよりどころを失い、孤立感にとらわれてきました。
最近になって、被告人との面会も果たしました。面会の時には、奥本も自分もお互いに素直に話すことはできず、奥本が反省しているのか、謝罪の気持ちがどこまで深まっているのか、今ひとつはっきりとはわかりませんでした。

その後、奥本を支える会の人たちとの出会いもありました。交流を重ね、支える会のみなさんとの会話の内容から奥本の家族の思いも知りました。今回奥本が描いた絵をポストカードにして販売したお金を奥本からの謝罪金の一部として受け取りました。前に述べたように自分の考えとしては、奥本は死刑以外考えられないと確信していたわけではなかったのです。

命は大切で、とても重要なものです。それは奥本の命にしてもそうです。この奥本の命の重要性を考えると、奥本が死刑になるべきとか無期懲役になるべきとか、すぐには判断できないと感じています。

【終わりに】

自分としては、第一審の裁判員裁判をやり直して欲しいと感じています。その中で慎重に、十分な審理、判断をしてもらうことを望んでいます。今、自分は死刑と確信しているわけではありません。死刑か無期懲役かを判断するために、さらに慎重に十分な判断をしてもらいたいと思います。自分自身もその裁判への参加を通じて、気持ちをはっきりとさせたいと思います。

* * * * * * *

以上がYさんの上申書の内容だが、当欄でこれまでに弁護人の話をもとに伝えた事件の概要――奥本被告が日々、養母から理不尽な叱責を受けるなどし、心理的に追い込まれていき、犯行に及んだという経緯――が遺族の立場から見ても決して被告人側の一方的な主張でないことがよくわかる内容だろう。

奥本被告が描いた絵で製作されたポストカード

◆ポストカードの製作に夢中の被告

ちなみに、Yさんの上申書の文中に出てくる奥本被告の絵で製作されたポストカードだが、それは中津市であった集会の会場でも販売されていた。暖かみのあるタッチが特徴だが(写真参照)、奥本被告は現在も収容先の宮崎刑務所で被害者への弁済に充てるため、このようなポストカード向けの絵を描くことに夢中になっているという。

そんな奥本被告とはどんな人物なのか。筆者はすでに一度面会に訪ね、その人となりに触れているが、それはまた別の機会に報告したい。

(片岡健)

 

 

 

『紙の爆弾』は毎月7日発売です!
http://www.kaminobakudan.com/index.html

 

朝日新聞が従軍慰安婦問題に関する「吉田発言」の掲載について謝罪を行ったのは読者にも周知の事実だろう。これに関しては「朝日新聞叩きの本質」で既に私見を述べた。批判は全く不当であり、些細な問題に過ぎないというのが私の意見だ。

ところが悪質なテロリストどもの矛先は朝日新聞だけでなく、朝日新聞を退職して教員として大学に籍を移した人たちにまで攻撃が及んでいることが明らかになった。当該大学のHPによれば「なぜ嘘を書いた記者を雇うのか」といった多数の苦情に止まらず、「学生が痛い目にあうぞ」果ては「爆破してやる」という「脅迫罪」に明確に該当する脅しまで受けていたという。

◆卑怯な攻撃者を喜ばせる手塚山学院大学の対応

現在、そのような被害にあったと大学名を公表しているのは手塚山学院大学と北星学園大学だ。この両大学には共通項がある。いずれも元は女子短期大学からスタートし男女共学の大学に発展しているという点だ。だが悪質な脅迫に対して、両大学の対応ははっきり分かれた。手塚山学院大学に勤務していた元朝日新聞の教員は騒ぎの渦中退職をしている。手塚山学院大学のHP「教員の退職について」(9月13日付)によると、

「教員の退職について

○○○○氏について多数のご意見、お問い合わせを頂戴しておりますが、同氏は9月13日を以て、本人の申し出により退職しましたことをお知らせいたします。」

とのみ掲載されている(本文中の○○○○は実名)。通常この手の文章には作成者名(学長であったり理事長)と日付が書かれているのだが、それらの記載は一切ないことから、教員退職同日に大急ぎで作成されたものだろうと推測される。

手塚山学院大学に在任した元朝日新聞記者は社内でも要職を歴任した人物だが、勿論彼一人が「吉田証言」をスクープしたわけではない。「朝日新聞憎し現象」はこのような形で権力側からだけではなく、それを下支えする「草の根ファシズム」によっても補完されていることを解り易く示す事件となった。

現在の社会状況、言論状況を見るにつけ、手塚山学院大学の稚拙な対応とそこを去った教員を軽々しく批判することは出来ない。「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ!」というプラカードが何の咎めもなく街中を闊歩出来る時代なのだ。暴力は言論の域を超えてすぐにでも現実のものになるという恐れを脅迫された大学や教員が持っても不思議ではない。

それでも、と思うのだ。

最高学府として大学であれば、暴力をちらつかされても、大量の脅し電話がかかろうが「体を張って」大学の自由、学生の安全を守る気になってはくれなかったのかと・・・。教員の退職ではあたかも非が大学にあったような印象を与えるし、卑怯な攻撃者を喜ばせるだけではないのか。HPの文章にしてもあれより他に表現方法は無かったものかと・・・。

◆「大学人」のあるべき姿を示してくれた北星学園大学長の声明

そのような暗澹たる気分を全て払拭してくれる括目すべき判断を、行動で示してくれたのが北星学園大学だ。北星学園大学はHPで10月1日付「本学学生及び保護者の皆様へ」と題した学長田村信一氏の文章を発表している。

このコラムではこれまで大学の「不甲斐なさ」ばかりを叩いてきた。まだ叩きたい大悪、いや大学は数知れない。が、この北星学園大学学長の声明は近年稀にみる格調の高さと、暴力で脅迫されても動じない腰の据わった本物の「大学人」のあるべき姿を示してくれている。そう長い文章ではないので是非読者にはご覧頂きたい。

http://www.hokusei.ac.jp/images/pdf/20140930.pdf

北星学園大学には5月以来様々な脅迫や政治団体(たぶん右翼であろう)の街宣車が抗議に押し掛けたりしていたそうだ。それでも報道機関に発表をすることなく、警察への連絡と大学自身の判断で元朝日新聞記者で非常勤講師を勤める教員の講義を続けてきた。それはごく当たり前のことなのだが、前述の手塚山学院大学の例が示す通り、今日大学ではその根幹にかかわる問題を「当たり前」に実行することにすら「勇気」が要るのだ。

そして多くの場合「当たり前」を妨害する匿名の電話、ファックスや抗議者への対応に大学は敗北し、どんどん思索領域を後退させている。

北星学園大学の田村学長は明言する。

「本学は建学の精神に基づき、『抑圧や偏見から解放された広い学問的視野のもとに、異質なものを重んじ内外のあらゆる人を隣人と見る開かれた人間』を要請することがわれわれの教育目標であることをふまえ以下の立場を堅持します。

①学問の自由・思想信条の自由は教育機関において最も守られるべきものであり、侵害されることがあってはならない。したがって、本学がとるべき対応については、本学が主体的に判断する。

②従軍慰安婦問題並びに植村氏(著者注:元朝日新聞記者)の記事については、本学は判断する立場にない。また、本件に関する批判の矛先が本学に向かうことは著しく不合理である。

③本学に対するあらゆる攻撃は大学の自治を侵害する卑怯な行為であり、毅然として対処する。一方、大学としては学生はもちろんのこと大学に関わる方々の安全に配慮する義務を負っており、内外の平穏・安全等が脅かされる事態に対しては速やかに適切な態度をとる。」

至極真っ当な姿勢表明である。しかし実質的に言論暴力と実際暴力の境界が極めてあいまいな現在、「大学の自治」、「学問の自由」といった基礎概念が希薄化する中で、北星学園大学田村学長の気概と勇気に満ちた意見表明は想像を超える困難覚悟の上である。極めて深い感慨と称賛そして連帯のエールを送る。

北星学園には系列校に北星余市高校がある。北星余市高校は不登校や一度高校を退学した生徒を積極的に受け入れる特色のある教育を行う高校として有名だったので、私は学生募集のために何度か同校へ赴いたことがある。札幌でレンタカーを借りて小樽を超え人里離れた海岸線をかなり走ってようやく到達できるのが北星余市高校だ。先生も生徒も熱心だった。

北星学園には「人間」としての精神がいまだ健在のようだ。

全国の大学人!北星学園大学田村学長のマニフェストを括目せよ!

とりわけ、田村学長の出身大学である法政の総長に就任した田中優子!週刊金曜日編集委員としてリベラルの仮面を被りながら「監獄大学」維持強化を推し進める自身の姿を深く恥じ入れ!

注:かつて学生運動が盛んであった法政大学は2000年以降120名を超える逮捕者を出し、退学、除籍無期停学処分を連発している。今では学内を公安警察が堂々と闊歩し、大学当局は学生自治を蹂躙し尽している。本年4月総長に田中優子氏が就任し対学生の大学としての変化が期待されたが、田中氏は堂々と弾圧を継続している。法政大学の無茶苦茶ぶりはいずれ本コラムで詳報したい。

(田所敏夫)

『紙の爆弾』は毎月7日発売です!
http://www.kaminobakudan.com/index.html

中津市であった支援者開催の集会で事件の概要を説明する黒原弁護士(左から2人目)。会では、映画監督・作家の森達也氏(同4人目)も講演した。

2010年3月に宮崎市で同居していた妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、養母(同50)を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受けた奥本章寛被告(26)。すでに上告審も結審し、最高裁の判決を待つばかりだが、その減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族までもが「裁判のやり直し」を求めて最高裁に上申書を提出する事態になっている。

一体どんな事件で、奥本被告はどんな人物なのか。前回に引き続き、弁護人の黒原智宏弁護士が大分県中津市であった支援者主催の集会で説明した事件の概要を紹介する。同居していた養母から自衛隊を辞めたことなどで日々厳しい叱責を受け、実家の両親のことまで非難され、我慢に我慢を重ねる生活だったという奥本被告。自衛隊に再入隊することを決め、厳しい家計を助けるために夜のバイトもして問題を解決しようとしていた中、妻と実家の間で、ある「トラブル」が起きたという――。

* * * * * * * *

トラブルとは、(長男の)5月の初節句を(奥本被告の実家がある)福岡でするのか、(妻や養母と暮らす)宮崎でするのかということでした。今考えると、大きなトラブルになることではないと思われるかもしれませんが、ここまで述べた背景を踏まえると、トラブルの深刻さがおわかり頂けると思います。福岡の実家を遠ざけようとしていた義理のお母さん側と、なんとか(孫に)会いたいという思いの奥本君の実家側との溝は奥本君が認識している以上に大きくなっていたのです。

メールのやりとりでそのような諍いが起きていたまさにその時、何も知らない奥本君が自宅に帰ってきます。奥本君は「何か起こっているぞ」と思いますが、トラブルの意味がわかりません。節句の意味もわからないし、節句というのが福岡でしなければならないのか、宮崎でしなければならないのかということもわからない。「どちらでやってもいいじゃない」という気持ちでした。しかし、対立は深刻になっていて、義理のお母さんから「あんたはそっちへ行かせないよ。なんで、こっちがそっちへ行かんといけんのじゃ。おかしいじゃろうが」と怒鳴られました。これは平成22(2010)年2月23日の出来事です。

◆養母の侮辱

深夜ということもあり、義理のお母さんも興奮が増し、「(夫である奥本君の)親がお米、お金を送るのは当然じゃろう」と怒鳴りつけ、「あんたのところはうちを舐めとる」「やることはちゃんとやれよ。結婚したら、こんなもんじゃないだろう」「部落に帰れ。これだから部落の人間は」「離婚したければ離婚しなさい。慰謝料ガッツリ取ってやる」という言葉を述べながら、奥本君のコメカミあたりを両手で力の加減をすることなく10数回殴打しました。

ここまでずっと我慢を重ねてきた奥本君もこの時、大きな心の糸が切れてしまいました。自分のことは我慢できる。自分の両親も我慢している。しかし、彼にとって古里の集落は誇りでした。それを悪く言われるのは、耐えられなかったのです。彼は1人、その思いを抱えます。この時、両親や兄弟に相談した形跡は残っていません。

◆「意識狭窄」に追い込まれ……

彼はその後5日間、ずっと孤独に悩みますが、最初に考えたのは自殺でした。自殺すれば、このようなことから逃れられると考えたのですが、「それは解決じゃない」と考え直します。それから、離婚や失踪も考えますが、そのような彼のアイディアを打ち消したのが義理のお母さんの最後の言葉でした。「慰謝料ガッツリ取ってやる」。その言葉が彼には引っかかります。自分がいなくなったら、義理のお母さんは自分の実家に行くに違いない。そうなると、自分の替わりに今度は両親が責められるに違いない……と思い悩みました

今、我々がこんな話を聞いたら、「いやいや、他にも解決方法はあるんじゃないの?」と色々な解決方法が思い浮かぶと思います。しかし、ここに至るまで奥本君はほぼ8カ月に渡って、睡眠時間は1日4時間を超えることなく、土曜日曜も休むことは許されず、そして食事も先ほど述べたような状況でした。選択肢、思考は狭められていました。心理学で意識狭窄というのですが、そういう状況で彼自身が最悪の選択に至ってしまったのです。

* * * * * * * *

最悪の選択――つまり、妻と生後5カ月の息子、養母を殺害するという選択をし、2010年3月1日未明に実行してしまった奥本被告。黒原弁護士によると、事件が起きるまでのこのような事実経過は第一審の頃から明らかになっているという。しかし、宮崎地裁であった第一審の裁判員裁判では、奥本被告は同年12月7日、「自由で一人になりたいなどと考えて家族3人全員の殺害を決意するに至ったものと認められる」「自己中心的で人命を軽視する態度が著しい」などという内容の死刑判決を宣告された。

そして控訴審段階になり、弁護側は2人の臨床心理士に依頼し、犯罪心理鑑定を実施。それによると、奥本被告は事件当時、精神的に疲弊し、視野狭窄、意識狭窄の状態で、自己の実在を脅かす養母から解放されたいという欲求から3名の殺害を決意したのだと判断された。しかし、福岡高裁宮崎支部の控訴審ではこの鑑定が証拠採用されながら、奥本被告の控訴は棄却され、死刑判決が維持された。この後、上告審段階になり、黒原弁護士に話を聞くなどして事件の詳細を知った人たちが「奥本章寛君を支える会」を立ち上げ、減刑嘆願書を求める支援の輪が広がっていったのだが、そのような事態になったのも事件の経緯を聞けば、多くの人が得心できるのではないだろうか。

では、被害者遺族が最高裁に提出した「裁判のやり直し」を求める上申書とは、どんな内容なのか。それは次回、詳しくお伝えしたい。

(片岡 健)

<参考文献>
奥本章寛君を支える会編『青空―奥本章寛君と「支える会」の記録―』

 

告発の行方2

 

デジタル鹿砦社通信をご覧の皆様ごきげんよう。政府によって推進されたタバコ・ネガティヴ・キャンペーンに対抗して、勝手に『吸って応援、タバコ・ポジティヴ・キャンペーン』を実施中の原田卓馬です。パープルヘイズレヴォリューションであります!今回はタバコの巻紙のお話です。

◆情報とは五感で感じるもの

と、本題に入る前に、情報のお話をします。21世紀に突入してからコンピュータ・ネットワークの技術革新は凄まじく、人類史に未だかつてない超高度情報化時代の到来といったような現在であります。ネットインフラの普及により、文字や音声や映像など情報と呼ばれるものなら、パソコンが一台あればなんでもすぐ手に入る時代のような感もあります。現代人が一日に得る情報量は、江戸時代の人の一生分とも云われているようですね。

ここでいう情報というのは人間の五感を通じて得られる様々な刺激のことだと思いますが、インターネットを通じて得られる情報というのは圧倒的に視覚・聴覚に特化しており、触覚・嗅覚・味覚を刺激することは難しいようです。

秋も深まりつつあり、ちょうど金木犀の花の香りがどこからともなく漂ってきて、集団感染みたいに一億総センチメンタルな時季がやって来ましたが、嗅覚を通じて引き出される記憶というのはやっぱり凄いですね。酒の席で金木犀の話題になり、「便所の芳香剤みたいな臭い木のこと?」と発言した友人が満場一致でヒンシュクを買って、非難轟々、大ブーイングの嵐が巻き起こりましたが、江戸時代から便所の近くに金木犀を植えるという文化があるので、便所と金木犀の関連付けることは鋭い嗅覚の証拠かもしれません。

さあ、強引な文脈で情報→嗅覚→タバコ、と本題に入る準備がそろそろ整いました。(とっくにバレてる)

◆匂いは情報の宝庫

好きな匂いってありますか? 天日干しした布団とか、夕立ちの前の土の匂いとか、キュウリを折った時の青臭さとか、腐りかけた牛肉とか、納豆とか、ナンプラーとか、ワキガとか、脱ぎ捨てた靴下とか、おじさんの加齢臭とか、人の好みは千差万別ですね。好き嫌いは大きく分かれるところだと思いますが、嗅覚情報に良し悪しはありません。

情報の取捨選択・価値判断というのはまさしく情報化社会で問われる情報リテラシーそのものであります。朝日新聞のでっちあげ記事謝罪騒動でマスコミはお祭り騒ぎをしていますが、情報というのは送る方も受け取る方も勝手に解釈するべき(せざるを得ない)ものだと思います。

感じたことは自分だけのものですから。

◆ある瞬間を境に、悪臭に変わる

さて、当連載の最初の記事にも書きましたが、原田は思いつきでシガーバーとういうのに行き、2時間かけてゆっくりと葉巻の香りを楽しんだ後に市販の紙巻タバコを吸ってみたらボンドのような酸っぱい匂いと紙の焦げ臭さしか感じなかったわけです。タバコの香りを邪魔するけったいな悪臭にそれまで無頓着だった原田でありますが、この時ばかりは流石に「こんなに臭いならタバコやめようかしら?」と少し悩んだであります。葉巻タバコの甘い香りとは程遠いあの悪臭はなんだったのだろうかと調べてみると、これはどうやらタバコの巻紙と、紙を接着するための糊が原因のようでした。

JTのホームページで開示されている、『たばこ材料品添加物リスト』によれば、

巻紙の原料

セルロース
炭酸カルシウム
水酸化マグネシウム
クエン酸カリウム
クエン酸ナトリウム
塩化カリウム
リンゴ酸
水酸化カリウム
グァーガム
カルボキシメチルセルロースナトリウム
酢酸カルシウム
酢酸カリウム
酢酸マグネシウム
(最大使用重量順)

こ、これは、ちっとも紙じゃないじゃないか!

原田は化学の知識が中学生レベルなので、さっぱりわからないながら調べてみた。セルロースというのは木材パルプから作られる植物性繊維のことで、一般的な紙の主原料になるようだ。ふむふむ、これは紙だ。

次いで量の多い、炭酸カルシウム。これは貝殻、卵の殻、チョークのような石灰のようだ。薬の錠剤のベースや、歯磨き粉、他には食品添加物としても使用されているらしい。

巻紙のりの原料

エチレン-酢酸ビニル樹脂
ポリ酢酸ビニル
カルボキシメチルセルロースナトリウム
酢酸ビニル-ビニルアルコール樹脂

酢酸ビニル?図画工作や日曜大工でお馴染みの木工用ボンドの原料ではないか。こんなもん吸っていいのか?

JT に電話問い合わせしてみようと思ったら平日しか対応してくれない!締切が間に合わない!これは参った!次回、JTさんに電話取材の巻、乞うご期待!

(原田卓馬)

 

8月30日に「奥本章寛君を支える会」が中津市で開催し、200人以上が参加した集会の様子

2010年3月に宮崎市で家族3人を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受けた男性が現在は最高裁に上告している事件で、その男性の減刑を求める支援活動が盛り上がっている。8月に大分県中津市で男性の支援者らが開催した集会には200人以上が参加。会では、被害者遺族の1人が最高裁に対し、死刑判決を破棄し、裁判を第一審からやり直して欲しいと訴える内容の上申書を提出していることも明らかにされた。

その死刑判決を受けている男性は奥本章寛被告(26)という。すでに上告審も9月8日の公判で弁護側が第一審への差し戻しか、死刑回避を求めて結審し、10月16日の判決公判を待つばかりだが、そもそもどんな事件で、奥本被告はどんな人物なのか――それを何回かに分けてレポートしたい。まずは8月の集会で、弁護人の黒原智宏弁護士が事件の概要について語った要旨を2回に分け、紹介する。

* * * * * * * *

この事件は平成22(2010)年3月1日未明、母子を含めて一家の3名が殺害された事件です。被害者は被告人・奥本章寛君の妻・くみ子さん(当時24)、長男・雄登くん(同生後5カ月)、義理の母・貴子さん(同50)の3名です。被告人にとって、この3名は同居していた家族でした。

なぜ家族の間で、こんな惨劇が起きたのか。被告人に関わっているすべての人々にとって大変不可思議に思える事件でした。それはとりもなおさず、誰もが奥本君はこういった事件と最も遠いところにある(人物)だろうという思いで、しっくりこなかったからだろうと思います。

◆「29名の社員の中でもピカイチ」

皆さんの周りに、こういう青年がいるだろうかとイメージして頂きたいと思います。いつも明るく、声をかけると、大きい声で挨拶を返してくれる青年。小中高と剣道部のキャプテンをしている人間。会社に入ってからは、社長が「うちには29名の社員がいるが、その中でもピカイチである。どこの現場にも自信を持って送り出せる」と評する青年。これらの人物のすべてを重ね合わせると、奥本章寛君その人になります。仕事も一生懸命でした。最後の仕事は土木作業員でしたが、宮崎とこの地(中津)を結ぶ高速道路、東九州自動車道の一部は奥本君の手によって舗装されています。

そのように仕事にも一生懸命でしたが、家族との間で難しい歪みが生じてしまいました。その背景には、奥本君が元々自衛官で、自衛官だったことが結婚の大きな理由だったという奥さん方の事情があります。(結婚する前に)奥本君は家族で協議の末、自衛官を退官し、宮崎で仕事に就き、妻のくみ子さん、その母である義理のお母さんの貴子さんと同居生活を始めることになりました。しかし、義理のお母さんは娘の幸せを祈る気持ちから、奥本君に自衛官を続けて欲しいという思いがありました。そして、奥本君はことあるごとに「なぜ自衛隊を辞めたんか」「自衛隊を辞めたお前は好かん」と厳しく叱責されます。

そのような同居生活に大きな変化が生じるのは、子供が生まれ、家族が1人増えてからです。アパートでは手狭だということで、家族は一戸建ての借家に引っ越し、4人での同居生活が始まります。4人の中で働き手は当時21歳の奥本君1人でしたので、奥本君は1人で家族4人の生活を支えようと一生懸命働きました。しかし、21歳の青年では大きな収入が得られるわけではありません。生活面、経済面で厳しい中、支えてくれたのは奥本君の古里である福岡県豊前の方々でした。両親が届けてくれるお米や野菜。「使いなさい」と渡してくれるお金。それらを奥本君はすべて、妻のくみ子さんに渡しており、そういう実家の支えがあって、なんとか家族4人の同居生活が始まったのです。

◆厳しい性格だった養母

ところが、義理のお母さんは性格的に厳しいところがあり、ことあるごとに先ほどのように奥本君を叱責します。奥本君は「自衛官を辞めたことがどうして、そんなに悪いことなんだろう」と考えますが、思い当たりませんでした。また、義理のお母さんは「(奥本君の)実家はなかなか援助をしてくれない。手伝ってくれない」ということも述べるようになりました。奥本君は「いや、野菜をもらったりしているじゃないですか」などと内心思いますが、性格上、そのことを口に出せませんでした。彼は「優しさ」「気配り」「気遣い」と共に「忍耐強さ」を備えていて、我慢に我慢を重ねる性格だったのです。

日々、奥本君が仕事を終え、夜自宅に帰ると、すでに家族の食事は終わり、ご飯はジャーからどんぶりに移してあり、それが流しに置いてありました。奥本君にとって、それは両親が届けてくれたお米だから、捨てるわけにはいかない。また、彼は小さい時、お婆ちゃんから言われていた「お米を粗末にしてはいけない。残してはいけない」という言葉を心に秘めていました。ですので、その流しに置いてあるご飯を食べます。そしてご飯の半分はその場でお弁当箱に詰め、翌日、お弁当として仕事に持っていっていました。

奥本君の帰宅時間は段々遅くなり、深夜10時、遅い時は11時を回るようになりました。そして土木作業員ですから、朝は4時に起きて、5時には現場に着いている。彼なりにお母さんとの衝突を避けようとして、そういう生活になったのです。

◆両親のことまで悪し様に言われ……

また、奥本君のご両親が雄登君のために、お古のベビー用品を持って来てくれたことがありましたが、義理のお母さんはこの時、目を合わせようとせず、当初は家にも上げようとしませんでした。子供のお下がりを渡すというのは愛情、親しさの表現であり、喜ばしいと感じるのが一般的だと思いますが、義理のお母さんはそうではなかったのです。そして奥本君のご両親が帰った後、奥本君に対し、「お前の両親は何しに来たんだ」「こんな物はいらん。お下がりはいらん」「バイ菌がついとる。汚い」「雄登がかわいくないんか」「普通は新しい物を買うじゃろうが。常識がないんじゃ」「(お前の実家は)雄登に何もしてくれん。くみ子にも結婚以来、何もしてくれん」と厳しく叱責を重ねました。

そんな中、奥本君はすくすく成長を続ける雄登君をなんとか実家に連れて帰り、両親のみならず、お爺ちゃん、お婆ちゃんに一度見せたいという夢を持っていました。そのチャンスは何回かありました。まず、平成21(2009)年の暮れ頃、家族で築城の航空自衛隊に航空ショーを見に行った時です。そこから豊前の実家までは目と鼻の先だったのですが、義理のお母さんは実家に行くのを許しませんでした。それから平成22(2010)年の1月には、家族で九州をほぼ一周する旅行をしています。その時も国道10号線を車で北上し、豊前の実家のすぐ近くを通るのですが、やはり義理のお母さんは実家に寄るのを許しませんでした。もっとも、この時は奥本君も「(自分の実家に)寄りましょう」という提案すらできませんでした。それは、(養母と自分の実家が)衝突することで家族の空気が悪くなるのを避けよう、みんながイヤな思いになるのを避けようという気持ちだったからです。

そしてこの頃、奥本君は1つの決断をします。「すべての原因は自分が自衛隊を辞めたことにある。ならば、自分が自衛隊に再入隊しよう。そうすれば、家族みんなが仲良くやっていけるんじゃないか」。奥本君はそう考えるようになり、実際に自衛隊のパンフレットを手に入れ、「一緒に自衛隊に入ろう」と友だちを誘い、自衛隊の試験の問題集も手に入れていたのです。また、厳しい家計を助けるため、夜のバイトを始めようと面接を受けに行ったりもしていました。彼はなんとか、問題の改善をしようとしていたのです。

* * * * * * * *

ここまでの話だけ見ても、奥本被告の減刑を求める支援活動が盛り上がっている事情はなんとなく察せられるのではないだろうか。そして黒原弁護士の話はいよいよ佳境に入る。このように奥本被告が問題の改善のために動き出していた中、今度は妻と実家の間で、あるトラブルが起きたというのだが――ここから先の話はまた次回お伝えする。

中津市の集会で事件の概要を説明する黒原弁護士

(片岡  健)

 

3.11直後から毎日休みなく福島第一原発動向をブログで発信し続けてきた「onodekita」さんこと小野俊一医師。東電、福島、被曝をめぐる諸相からメディア・識者批判にいたるまで、縦横無尽に語ってもらった200分インタビューを8回に分けて随時掲載する。今回がその最終回。

onodekitaさんこと小野俊一医師

◆東京五輪は「福島隠し」

── 福島原発の現場でいえば、まともな働き手が減っていますよね?

将来どうするのかが問題です。最近は東京オリンピックに現場作業員を奪われ始めている。以前は発電所内部の作業員が除染に人を奪われるといわれていましたが、いまは作業員が東京・首都圏の五輪関連事業に吸い取られている。良い話はなにもないのが現状です。そんな状況で2020年に東京オリンピックができるのか? チェルノブイリの事故で被曝被害が増加してきたのは5年後ぐらいからです。

これは半分、陰謀論になってしまいますが、日本はこれまで五輪誘致に何度も手を挙げてきたけれど、なかなか実現しなかった。それが福島の原発事故があったことで、今回五輪誘致が実現できたと考えています。そうでなければ、2020年の五輪はイスタンブールだったでしょう。

では、なぜ福島があったから東京が選ばれたのか? 「福島を隠すため」だと思います。五輪が東京に決まったことで日本人の多くは舞い上がった。でも、福島の今後の現状を考えると日本は五輪開催を途中でギブアップするような気がしています。

日本の経済は土地本位制が基本です。なのに、使えない土地が3.11で増えた。戦争で負けたときだって、日本に土地はそのまま残った。だからそこから復興してきたわけです。しかし、原発事故での放射能拡散で、日本の土地は縮小した。肝心の土地がやられて、しかも、その汚染地を政府が率先して広げようとしている。これでは人間までおかしくなります。

── 戦争には敵がいますが、原発事故で敵はいますか?

放射能という敵がいます。ただ、放射能は無主物で戦いに終わりがない。プルトニウムの半減期は24000年。対して人間の寿命は70~80年。相手になりません。

私は最近、太平洋戦争関連の本を好んで読んでいます。例えば、インパール作戦はほとんどの人が無理だと言っていた作戦を一部の指導者が戦略もなしに実行して、甚大な犠牲者を生んだ。その時の指導者の論理は、「それでもいまこれをしないと負けてしまう」という言い方でした。しかも負けた後も当時の指揮官は、戦後、あのときはあれが正しかったと反省の色さえ見せず、戦後死ぬまでそのままだった。

いまの福島に対する日本政府の姿勢もこれと一緒だと思います。事故直後、放射能被爆はたいしたことがないといっていた学者や役人は、おそらく自分が死ぬ間際でも「あの時はああするしかなかった」としか言わないでしょう。「日本のためだった」とか平気でいうと思います。

── この間、政治での脱原発の転機でいえば、東京都知事選がありました。小野さんは細川・小泉陣営をどう評価されますか?

私は彼らを支持しています。宇都宮さんについてはその前の都知事選では支持していましたが、今回の都知事選で、彼は脱原発中心の候補者ではなかったと思いました。選挙演説の動画を見ましたが、脱原発は申しわけ程度に言うだけで、実際はほとんど訴えなかった。宇都宮さんにとって原発は添え物のひとつで中心ではなかったという印象を持ちました。

私はそれではだめだと思う。原発問題を正面からとらえることが肝心だと思う。その他の政策は誰がやっても一緒です。さほど変わらない。でも、原発問題を第一にした候補じゃないとなにも変わらない。それなのになぜか脱原発派の都民の中でも宇都宮さん支持の方が多かった。少なくとも選挙活動の演説では細川・小泉陣営の方が迫力があったし、脱原発に本気だったと思います。

細川さんが演説ベタなのはみな承知していますが、小泉さんはとにかく演説が上手い。メモもフリップもなしにきちんとあれだけ喋れるのは凄いです。橋下大阪市長も演説が上手いと言われますが、彼はフリップを多用します。フリップやパワーポイントなしで喋るのは二流。それらなしにきちんと話せる人の演説が一流ですね。

◆どこに希望があるか?

── この三年間はどうしようもない三年だったようにしか思えません。どこに希望があるのでしょう?

日本人は徐々に変えていくのが得意なのでしょう。ドラスティックに変えることは難しい。だから、変わってないと嘆くよりも少しでも変わったところを見つけていくと、3.11後の日本は良い意味でかなり変わった部分もあると思います。

どこに希望があるか?については「いまだに日本で原発が動いていない」。この事実だと思います。脱原発派は選挙でも勝てないし、ばらばらになっていると言われるけれど、それでも原発はいま日本で動いていない。しかも政府も財界もお金と人を大量に投じてあの手この手で再稼動を進めようとしてきたにもかかわらず、まともに原発を再稼動できていないのです。無理やり動かした大飯原発はその後尻すぼみでいまは動いていない。

当初の計画では2011年の6月頃には玄海原発を再稼動する計画でした。それを菅直人がちゃぶ台返しをして、その後2年近く日本の全ての原発が止まった。その後、大飯原発が再稼動したけれど、この5月にはそれも再び止まった。民主党政権時代にも野田や前原とかは再稼動しようとしていたわけです。

安倍政権にいたっては就任早々から再稼動実現に意欲的だった。それがいまだに動いていない。しかも、もし何基かが動いたとしても、それで今後日本の原発がばりばり動き出すかというとそういう雰囲気はさっぱりありません。この状況はたいしたものだと思います。

ただ、脱原発をもっとしっかりしたものにするために何より必要なものは、福島あるいは近隣に住む人たちが声をあげることです。先ほどお話した野村大成先生も言っていますが、「外からどうこう言ってもだめ。渦中にいる人が声をあげないとだめ」なのです。

広島原爆の際、「被爆で白血病が増えた」と最初に言ったのは地元の開業医の先生でした。この先生の発表はその直後、米国に抑えられた。しかし、抑えきれずにその後、広まった。

これと同じで福島も現場の人が声を出さないと変わらない。外からなにを言っても迫力がない。でも、福島の人が被曝についてなにか発信すれば、ものすごいインパクトです。

繰り返しになりますが、この3年間の状況をすべて悲観的に見ていても始まらない。その中から確実に良い面を見つけて、それを維持していくことが大切です。そして、大きな変化を期待するのであれば、やはり事故の現場にいる福島の人から明確な告発が出てくることが大きな突破口になると思います。福島の事故でそうした広がりを生まれるのが怖いから政府は先回りをして火消しをしている。でも、それでも火は消えていないのです。

◆科学的データで証明されない内部被曝

── 内部被曝に関しての相談はよく受けられるのですか?

基本的にはブログやメールのネット経由で、できるだけ答えるようにしています。ただ、あまりそれをやりだすと、個人の領域を超えてしまう。組織にするのは嫌ですから。それと相談をしてくる方には正直、変わった人もいます。きちんとわかったうえで判断している人ももちろんいますが、身体の不調すべてを放射能のせいと考える人と話すのは大変で、そうした方とケンカしてしまったこともありますよ。何をいっても「それだけでは納得しません、できません」と言われてしまう(笑)

── 最後に、医師として小野さんは今後、どんなかたちで福島原発事故に関わっていきたいのでしょうか?

内部被曝の分野というのは科学的なデータ・資料がありません。これは米国が莫大な資金を投じて行なった検証結果で「ない」とされた。おそらく今後もこうした資料は作られないと思います。そうすると、私に何ができるのか? 内部被曝に不安を持たれている人たちのお話を聞いてあげるぐらいの対処療法しかないです。だから肥田先生のように来た患者の話を聞いて、時には投薬をするような、その程度のことしかできないのが実情です。被曝の検診・治療というのは様々な面で極めて難しい。それがわかっているからほとんどの医師は放射能被曝には関心がなかったりするのかもしれません。そういうこともあって、福島原発事故について本を書いたからといって、私の病院に患者さんが押し寄せるというわけでもないのです(笑)。[終わり]

[2014年6月26日熊本市 小野・出来田内科医院にて]
(構成=デジタル鹿砦社通信編集部)

 

「院長の独り言」

▼小野俊一(おの しゅんいち)(小野・出来田内科医院院長)
1964年広島生まれ宮崎育ち。東京大学工学部(精密機械工学科)を卒業後、1988年に東電に入社。福島第二原発(5年間)と本店原子力技術課安全グループ(2年間)で7年間勤務。1995年に退社後、熊本大学医学部に入学し、2002年卒業。NTT病院等の勤務を経て、熊本市の小野・出来田内科医院院長。『フクシマの真実と内部被曝』(2012年11月七桃舎)
ブログ「院長の独り言」 http://onodekita.sblo.jp/

 

◎onodekitaさん200分インタビュー[全8回]

《原発放談01》福島の放射能被害はチェルノブイリより酷くなる (2014年9月15日)
《原発放談02》東電の「できる人」は役人に決してNOと言わない (2014年9月17日)
《原発放談03》自分で真実を想定していくしかない (2014年9月19日)
《原発放談04》そもそも早野龍五さんは原発を知らないです (2014年9月21日)
《原発放談05》被曝由来の病気は「個発」でなく「群発」 (2014年9月24日)
《原発放談06》分断される「原爆」と「原発」 (2014年9月26日)
《原発放談07》連関する「福島」と「水俣」 (2014年9月30日)
《原発放談08》脱原発の突破口は福島の人たちが声を上げること (2014年10月2日)

最前線の声を集めた日本初の脱原発情報雑誌 『NO NUKES voice』創刊号絶賛発売中!

 

1963年4月、日本音楽事業者協会(音事協)が設立された。音事協では、加盟社同士でタレントの引き抜きを禁止する協定を結び、独立阻止で結束を固めた。だが、結成されたばかりの音事協は加盟社も少なく、引き抜きトラブルは収まらなかった。

1965年に起きたのが、歌手として、橋幸夫、舟木一夫とともに「御三家」と呼ばれた西郷輝彦の独立事件だった。

◆10ヶ月で2億円を稼いだ「御三家」西郷の月給は2万8000円

鹿児島県生まれの西郷輝彦は、高校を中退後、歌手を目指して、大阪に行き、ロカビリーバンドを主催していたゲイリー石黒に拾われてバンドの雑用をしていたところ、1963年、当時、龍美プロダクションという芸能事務所を経営していた相澤秀禎(後のサンミュージック創業者)に見出され、上京。

だが、龍美プロは稼ぎ頭だった歌手の松島アキラなどが去ったことで経営が左前となり、当時、勢いのあった東京第一プロダクションに吸収されることとなり、西郷も移籍することになった。

西郷は東京第一プロに在籍してから売れ始め、1964年2月発売のデビュー曲『君だけを』がヒットし、130万枚も売れ、その年のレコード大賞新人賞を受賞することとなった。ところが、東京第一プロでは在籍していた10ヶ月ほどの間に2億円を稼ぎながら、西郷の月給は2万8000円と薄給だったという。東京第一プロと対立した西郷と相澤は1965年1月、独立した。

独立といっても、西郷と相澤には資金も力もなかった。そこで、頼ったのが、太平洋テレビジョン社長の清水昭だった。太平洋テレビは、もともとテレビ映画を海外から買い付け、日本語版を制作し、日本のテレビ局に配給する会社だったが、当時は芸能プロダクション事業にも進出し、大勢のタレントをかき集めていた。西郷と相澤は、太平洋テレビ、所属レコード会社のクラウンレコードなどとの共同出資という形で日誠プロダクションという事務所を立ち上げた。

◆西郷輝彦の幸運──「音事協」独占途上期だった1960年代の芸能界

当時はすでにタレントの引き抜き禁止じる音事協は設立されていたが、太平洋テレビによる西郷の引き抜きは阻止されず、干されることもなかった。

『週刊現代』(1965年4月15日号)によれば、「西郷をとりまく大人たちも悪いが、もとをたどれば彼のまいたタネさ。育ての親であるプロダクションを一年たらずで裏切った西郷だが、本来なら事業者協会に提訴されて、芸能界をほされたかもしれない(中略)西郷はオトナの欲につられて、芸能界から抹殺されることは助かった」というプロダクション関係者のコメントを紹介している。

では、なぜ西郷は干されなかったのか。

音事協発行の『エンテーテイメントを創る人たち 社長出番です。』所収の第一プロダクション社長、岸部清のインタビューによれば、音事協の創立メンバーは、次の8人だった。

渡辺 晋(渡辺プロダクション社長)
木倉博恭(木倉音楽事務所社長)
西川幸男(新栄プロダクション社長)
堀 威夫(堀プロダクション社長)
岸部 清(東京第一プロダクション社長)
永野恒男(ビクター芸能社長)
新鞍武千代(日本コロムビア文芸部長)
宇佐美進(キングレコード)

東京第一プロの岸部清は音事協に加盟していたものの、太平洋テレビは加盟していなかった。太平洋テレビはテレビ映画の輸入会社ということもあって、音事協加盟の芸能プロダクションとは流派が異なるのである。できたばかりの音事協は、カルテル組織としては未熟で芸能界全体ににらみを利かすだけの力がなかったのだろう。

(星野陽平)

《脱法芸能01》私が『芸能人はなぜ干されるのか?』を書いた理由

《脱法芸能02》安室奈美恵「独立騒動」──なぜ、メディアは安室を叩くのか?

《脱法芸能03》安室奈美恵の「奴隷契約」発言は音事協「統一契約書」批判である

《脱法芸能04》安室「奴隷契約」問題が突きつける日米アーティストの印税格差

《脱法芸能05》江角マキコ騒動──独立直後の芸能人を襲う「暴露報道」の法則

《脱法芸能06》安室奈美恵は干されるのか?──「骨肉の独立戦争」の勝機

《脱法芸能07》小栗旬は「タレント労働組合の結成」を実現できるか?

《脱法芸能08》小栗旬は権力者と闘う「助六」になれるか?

《脱法芸能09》1963年の「音事協」設立と仲宗根美樹独立の末路

 

 

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』

 

« 次の記事を読む前の記事を読む »