信者さんとともに本堂を三周歩く

本堂の前に立ち、経文を唱え儀式の始まり

最後の朝

12月24日、クリスマスイブとは全く関係ないお寺の鐘の音で起き、ノンカイ滞在最後の朝を迎えた。日々馴染んだ読経の後、部屋へ戻り、ネイトさんがコーヒーを淹れてくれてホッと息つく。ここでの列になっての托鉢もこの旅最後となるのだと、地面を踏みしめて歩いた。

◆得度式を迎える!

朝食後は慌しくネイトさんの得度式の準備に掛かる周囲。ネイトさんは白い衣に着替えられ、私服を纏めていた。暫くはプラマート和尚さんに預けるのだろう。

ノンカイの高僧、緊張の儀式が続く

先輩比丘に僧衣を纏い付けて頂く

やがてどこから来るのか、近所のオバサン達が集まりだして賑やかになってきた境内。得度式は功徳の場。現世・来世に幸福をもたらす基になる善行。プラマート和尚さんの呼び掛けもあっただろうが、誰の出家であろうと喜んで寄り集まって来るものなのだろう。

そんな準備の中、スアさんが私に苦言を呈する。
「撮影もいいが、ちゃんと座って読経しないとダメだ」と言う。「キツいところ突いて来たなあ」と思い、正直困った。自分の信念とネイトさんへの感謝、それがあるから撮影に専念しようと考えていたのだが、比丘として私のやろうとしていることは間違っている。でもそれを承知で撮影に踏み切るのだ。

プラマート和尚さんには改めて、「撮影に回るので座りませんが御免なさい」と謝りつつお願いすると難なく了承して頂き、何とか立場を守る。でももうひとつ問題があった。ここの本堂は結構狭い。そんな中で偉いお坊さんが来るようだ。

「高僧の前を出入りするのは失礼やぞ」と言う藤川さんに従い、奥側に入ったら出られなくなるので窓から撮ろう。そんな足場をいちいち考えながら計画を練る間に、やがて得度式が始まる。午前9時を回った頃、ネイトさんと先導する引率者のオジサンを中心に信者さんが後に続き、三帰依に倣い本堂を3周歩いている。こんなに信者さんが集まると、やっぱり賑やかでいいものだな。

比丘の姿になっていく瞬間のネイトさん

本堂に入るところで、ネイトさんが信者さんから黄衣を受取り、中へ進む。プラマート和尚さんは控えに回って、得度式を仕切るのは他所から来た高僧だった。

ネイトさんの覚えたパーリー語のお経は充分活かされていた。口移しは少々で、途中トチるところがあっても自分の意思でしっかり応え、赤面しても幼さが現れるように可愛い、私より上手いもんだ。白衣から黄衣に換わり、式もクライマックスを迎える。だんだん場慣れし、笑顔もこぼれる得度式。周囲の賛同を得て無事、比丘となった。

得度式が終わって皆がのんびり退散する頃、高僧が私を呼ぶ。結構パシャパシャ、フラッシュ焚いてシャッター押したから、ここは厳重注意かと思ったら、「ワシも一緒に撮ってくれ」とまた拍子抜けするような御要望。どこも寛大な和尚さんが揃う、街中の一般社会に馴染んだお寺なのかもしれない。勿論、山奥の格式高い修行寺では許されないだろう。

タイミングを見計らったプラマート和尚さんにも「私ひとりで撮ってくれ」と頼まれ、本堂の仏像をバックに撮ってあげた。いずれこの写真をお渡ししなければならないな。

◆同じ立場となったネイトさん!

やがてお昼御飯となる時間になっていた。信者さんに呼ばれてサーラー(葬儀・講堂)へ向かう。

バーツ(お鉢)、僧衣三衣の意味を教わる

ネイトさんに「もう我々と同じ立場だ、こっちへ入れ!」と私がかつて、やられたように迎え入れ、同じテーブルを囲んでの食事は楽しいものだった。

午後はネイトさんの部屋移動が始まり、倉庫部屋は掃除してバーレーくんに御礼を言ってお返しする。彼にも名前や生年月日、この寺の住所などメモ書きして貰った。私はまた来るかもしれない、14歳だったバーレーくんの存在は覚えておこう。

藤川さんと私は帰り荷物を纏め、ネイトさんが移動したプラマート和尚さんの部屋へ移動。2階から見たこの寺の風景はまた鮮やかな木々や広い境内とメコン河が見えてすばらしく、帰るのが惜しくなった。

一旦外に出て、先輩比丘との問答

この寺でネイトさんと修行したい、彼の方が優秀だから年功序列も抜かれてもいいとさえ思う。

早速、藤川さんはネイトさんに黄衣の纏い方一式を教えている。明日の朝から一人で纏って托鉢に向かわねばならないのだ。私の時のような、イライラしながら黄衣で頭が引っ張られることも無く、受け答えしながら飲み込みが早いネイトさんだった。

夕方の我々が帰る列車まで時間があるので、またメコン河を眺めに、ネイトさんと最後の会話をする為、河沿いへ向かうと、プラマート和尚さんもやって来た。こんなノンビリした会話も楽しく、ちょっとプラマートさんの経歴を聞いてみた。この1994年で39歳。「13歳でネーンになり、16年前にこの寺に来た」と言う若い和尚さんであった。

ひとつやり残したことで、私はこのノンカイで、もうひとつ行きたいところがあった。横浜に住む不法就労しているタイ人の実家がこのノンカイにあるのだ。だが、この寺から更に遠い、ブンカーンという街で、実際どれぐらい遠いのか分からない。プラマート和尚さんに聞くと、ここからバスで2時間ぐらい掛かり、とてもトゥクトゥクで行ける距離では無かった。還俗してからもう一度来るチャンスがあったら尋ねることにしよう。
(後の2011年3月23日に、ノンカイ県が分割されブンカーン県が誕生)

再び高僧の前に座り三拝

◆別れの時!

夕方6時になって、いよいよ我々は駅に向かう時間となる。プラマート和尚さんにお世話になった御礼を言い、スアさんにも御挨拶。撮影に集中してしまったことも詫びたが、「えっ、ああそうだっけ!」とそんなこと気にもしていないスアさん。怖い顔しているが、真面目で穏やかで優しい比丘だった。

ネイトさんには「慣れた頃、私が還俗する前に、ペッブリー県の我々の寺へ遊びに来てください」と誘うと、「ぜひお伺いします、また近い内お会い出来たら嬉しいです、ここまで導いて頂き有難うございました」と丁寧に我々に応えるネイトさん。比丘が“遊びに”なんて言うものではないが、「パイ・ティアオ(遊びに行く)」の言葉の語源には、“修行”という意味があると言い、私の僧名の“チャナラトー”を調べたり、何かと言葉の語源を調べるのが得意だったネイトさんだった。

仏陀に向かい全員で、新たに比丘と認め、仏門に迎え入れる誓いの読経

その他諸々にお世話になった皆に御挨拶すると、比丘は余計なことは言わなくても、笑顔だけは比丘も俗人も関係なく心が現れる。その笑顔に送られ、我々はノンカイ駅に向かった。

18時40分頃、列車が発車すると、早くもベッド作りに回ってくる乗務員のおじさん。藤川さんとは席はやや離れていたが、ベッドが作られる間、私の前の席に座った。

「あのネイトは将来立派な坊さんになるぞ、死んだら国王が葬儀に参列されるぐらいになあ」とかなり過大評価でネイトさんを褒める。

「ネイトはお前の5倍は勉強しとるなあ」と腹立つぐらいネイトさんを褒める。
順々にベッドが作られていき、その周辺の人々はベッドに入る準備が始まる。我々もかなり早いが夜7時30分にはベッドに入った。藤川さんの長話から逃れられて、そこは助かった。

2週間の滞在だったノンカイ・ビエンチャンの旅。苦難もあったが、終わってみればやっぱり楽しかったと想う。何か寂しく虚しく感じる線路の響き。寝ながら、「ペッブリーの、品の無い奴らが居る我が寺より、こちらの品ある寺に移籍したい」と、また我侭なことを考えながら眠りについてしまう夜行列車の帰り旅だった。我が寺まではもう少々旅話は続くのであった。

最後に全員で記念撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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