ムエタイの基本技、首相撲の極意 堀田春樹

◆観る側の退屈さ

過去に取り上げたムエタイ技がテーマのヒジ打ちに続く首相撲版となります。

この首相撲はキックボクシングやムエタイでの接近戦で、相手の首を掴み、ヒザ蹴り等に繋げる流れの中で、掴み技としての呼称となっています。

ムエタイ用語で首相撲をムエプラム(MuayPram)と言います。発音は“モエパン”に近く、「組み付く」という意味で、ムエプラムは一般的にレスリングの意味に取られてしまうこともあり、会話の趣旨で判断することになります。

そのムエタイの首相撲をテレビで観たことある人はなかなか退屈な攻防に映ったでしょう。クリンチに見える状態では多少のヒザ蹴り攻防があってもノックアウトには繋がり難く、これが5ラウンド終了まで続けば、観る側にとって早送りしたくなる状態です。

そんな視聴者を飽きさせない展開を造ったのが1990年代前半から始まった3回戦制と首相撲回避のK-1でしょう。

福田海斗がトゥカターペットに首相撲からのヒザ蹴りを浴びせる(2016年7月29日)

◆首相撲の極意

キックボクシング本来は、至近距離からのパンチと蹴りに加え、密着戦ではヒザ蹴りやヒジ打ちが加わる展開で、採点基準を除けば見た目には分かり易い競技です。

しかし、ムエタイでの首相撲は重要なテクニックであることは、この競技に関わる者は周知の事実でしょう。

一般人から退屈と見えるこのクリンチ状態の首相撲の攻防は、ただ抱き合っている訳でも休んでいる訳でもなく、首を掴んで下へ捻じ伏せ、ボディーや顔面にヒザ蹴りを入れる。またはそうさせない為の首の取り合いの地味な攻防が続き、首の取れないガップリ四つ相撲状態でも自分は楽に、相手には苦しい体勢へ体重を掛け合い、ヒザ蹴りの攻防や、隙あらばヒジ打ちを叩き込み、相手を転ばせば優位に立つ。または転ばされないように気を抜かない。簡単に言えばこんな展開が繰り広げられています。

パンチの打ち合いや蹴り合いは実力拮抗した同士では簡単には差が付かないもので、首相撲は立ち技競技の寝技的攻防からヒザ蹴り、ヒジ打ち、体勢を崩させ転ばし等の練習をしっかりやっている選手とやっていない選手とでは、劣勢な側は疲労しスタミナを失い、為す術が無くなってしまうような差が出ます。

また相手の首を掴みに行くより組み合って来る相手の腕を払い、相手に組ませない体勢、距離感を保つテクニックもあります。

[左]90年代の名選手、ナンポン・ノーンキーパフユットの首相撲の練習風景(1990年)/[右]グルーグチャイはヒザ蹴り得意で首相撲練習もみっちり長かった(1992年)
鈴木翔也vs健太の組み合った攻防(2021年9月19日)

◆対応策

ある国内チャンピオン経験者は「タイ選手との首相撲は敵わないので、組み合っても動きが止まればブレイクが掛かるので、レフェリーをチラッと見てブレイクを待ったりしましたね。組まれて対抗するとスタミナ消耗するので、何とか離れてパンチで勝負するしかなくなります」という首相撲逃れの手の内でしょう。

またあるムエタイ修行経験者はトレーナーから「首を掴まれたら頭突きを入れろ!」とか「頭突きを入れてから、相手の身体を押してヒジ打ち!」といった戦略を指導されたりもしたようです。

頭突きそのものは反則ながら、相手に引き込まれることの偶然を装って頭突きを入れる。そこは見極めが難しかったり、攻防の流れの中としてレフェリーが黙認する場合もあるという。グローブの内側にワセリン縫っておいて首相撲に来たら相手の目にグローブ内側押し付けてゴシゴシ嫌がらせする話も聞いたことありますが、あくまでもセコいテクニックの例です。

タイでは「首相撲練習は最低30分はやる」というジムは多いでしょう。実際、試合が近い選手には練習相手数人が入れ代わり立ち代わり組み付いて休ませない展開が見られます。現在、ラジャダムナン系バンタム級ランカーのヨーティン・F・Aグループは首相撲が強いと評判で、ガッチリ掴まえられたら外しようが無く、そのまま終了までキツイ状態が続くと言われます。

ムエタイをよく衛星中継観戦する関係者の意見では、「日本人同士では組み方にあまりレパートリーがなく同じ形一辺倒になりがちです。タイでは首相撲の組み方はとても多彩で、接近戦においても距離が変わり、そこにヒザ蹴りも多様な角度で入ってくるので、日本が追いつけないほど高度ではあることは確かです」と言い、その肥えた目線では、日本人選手の中で首相撲が上手いのは、タイでの活躍多い福田海斗で、首相撲を含めた接近戦からのヒジ打ちヒザ蹴りは見応えがあり、タイのギャンブラーからも評価が高いと言われます。

目をグローブで押さえヒジ打ちといった、えげつない展開もあり(2021年9月19日)

◆理解されない壁

日本では新世代のジュニアキック世代が急成長し、福田海斗をはじめ、吉成名高、奥脇竜哉がムエタイ殿堂王座を制覇するほど強く上手くなった時代ですが、結局は「こんな地味で退屈な首相撲」という観方が払拭されない限り、首相撲の攻防だけで盛り上がることなく、今後も日本での爆発的にムエタイ人気が上がることは考え難いところ、「パンチを打たず蹴らず、くっ付き合っている首相撲とは何が繰り広げられているのか」が少しでも理解されれば幸いなところです。

現在、タイでもイベント系ムエタイが流行りだし、3回戦制で首相撲になってもブレイクも早いようで、首相撲テクニックが重要視されるのは、やはり通常のスタジアムでの5回戦ムエタイで、いずれは原点回帰していくことでしょう。

経験豊富な選手から見れば突っ込みどころ満載の記事ではありますが、首相撲の展開について解説させて頂きました。

一航の首相撲を振り解こうとする馬渡亮太(2021年8月22日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

広島土砂災害2014から8年を経て ── 「教訓が十分活かされていない」という教訓 さとうしゅういち

2022年は、広島県内に大きな被害を与えた西日本大水害2018(県内の死者・不明者114人)から4年、そして、広島土砂災害2014(県内の死者77人)から8年となります。

追悼演説

二つの災害で、広島と言えば土砂災害、というイメージを持たれている方も多くなりました。実際、遠方から来られた観光客の方が、電車の窓から、山間部に広がる住宅地をご覧になり、不安そうに会話されているのをよく拝見しています。

筆者は、両方の災害で、復旧のためのボランティアとして現地に入っています。そして、2014年の広島土砂災害のときの教訓が十分生きていれば、2018年の西日本大水害での被害も抑えられたのではないか?という無念さを感じています。

また、両方の災害において、国葬を地元の岸田総理が強行決定した故・安倍晋三さんの危機管理のお粗末さが表れたことも特筆されます。安倍晋三さんに関しても、4年前の災害の教訓をまったくいかしていないと言わざるを得ません。

県政・市政でも、国政でも「教訓が活かされなかった」ことが教訓である。そのように考えます。そして今後、そのようなことが絶対に繰り返されないようにしたいと誓うものです。

筆者は広島土砂災害2014から8年を前にした8月19日、同災害の大きな被災地である広島市安佐南区山本や緑井で街頭演説。「災害に強い社会とはひとりひとりに優しい社会だ」などと訴えました。

また、緑井では続けて同じ場所で行われた広島3区市民連合の街宣にも参加。「二つの広島を襲った災害での危機管理がまずかった安倍晋三さんの国葬は、故人の神格化を通じて危機管理の検証を妨げることになる」などと力を込めました。そして、最大の被災地のど真ん中の梅林小学校の慰霊碑に参拝し、献花しました。

◆広島土砂災害2014契機に東京帰還を中止した筆者

慰霊碑献花

広島土砂災害2014は2014年8月19日深夜から翌20日の未明にかけて広島市北部の安佐南区・安佐北区のそれも狭い範囲で発生した線状降水帯による集中豪雨が引き起こしました。

筆者は、2014年の発災当時は、14年余り活動してきた広島を後にし、事実上の故郷である東京へ事実上、活動拠点を移していました。東京での就職も決まり、あとは、家の契約も決まっていました。これは、一つは、筆者の政治活動が頭打ち状態で、自身の仕事もなおかつ支持基盤となるような方が東京の方が多い、という判断もありました。筆者は、参院選広島再選挙の政見放送でも述べたように将来的には広島県選出の参院議員か広島県知事か広島市長かになり、「エコでフェアでピースな世界をこの広島からつくっていく」ということをずっと公言していますが、当時は、結婚を機にまず東京で再起を図るということを考えていました。

ところが、この災害がひとつの転機となります。おそらくこの災害がなければ筆者は、東京で国政選挙を目指したかもしれません。実際に、東京都内で街宣活動も始めていました。それがこの災害を契機に一変したのです。

「お世話になった広島、それも自分がお世話になっている安佐南区が大変なことになっている。」

状況の中で、筆者の選択は、広島へ戻る一択でした。

筆者は、就職が内定していた先の企業や入居が内定していた不動産屋さんに頭を下げ、キャンセル。

23日夜には広島市安芸区の妻の実家にいったん入りました。そして以下のメッセージをネットで発信しました。

【緊急に被災地入りへ】
被災された皆様には心からお見舞い申し上げます。
わたくし、さとうしゅういちは、本日夜、広島市入りします。
今回、お世話になった地域が甚大な被害を受けました。そうした中で、天候や自分自身の日程も見ながら、最善のことをさせていただきたいと存じます。
東京移転後も、安佐南区内のさとうしゅういち事務所はまだ引きはらってはいません。明日以降は被災地に近接する安佐南区祇園のさとうしゅういち事務所を拠点に行動します。
また、今回の甚大な災害を受け、「東京に移転」としていた、わたくし・さとうしゅういちの今後の活動についても再度修正の可能性がございます。当面、被災地の広島県民の皆様の暮らしの復旧に力を尽くします。よろしくお願い申し上げます。2014年8月23日

◆一見平静な被災地の隣接地区 被災地から通う人も多く

24日には、広島市安佐南区古市橋駅近くの事務所兼自宅に入りました。ここは、被害が最もひどかった地域の南端にあたる緑井地区からも直線距離で2kmしかありません。この日は、雨が降り、ボランティア活動は中止でした。

事務所がある祇園・古市地区は、大雨の際、最大の商業施設のイオンモール祇園が浸水しましたが、大きな被害もなく、土曜日とあって、カープ観戦にユニフォームを着ていかれる親子連れも見られました。

しかし、行き付けの美容室の女性美容師さんは、可部地区在住です。床上浸水で、片付けに4日もかかったそうでした。この日、ようやく、母親の自宅と併設の美容室に出勤され、筆者が最初の客だったようです。ましてや、土石流に直撃された場所においておや。被害規模は想像以上です。そういう人でも生活のために仕事はしないといけない。そうした人がされている店を利用するなどもボランティアができない日の支援の方法だと思いました。

そして、翌日には以下のメッセージを筆者は発信しました。

【災害対応につき8月末までの関東での予定はすべてキャンセルです】

わたくし、さとうしゅういちが関東エリアで8月末までに入れていたスケジュールは、安佐南区の災害によりすべてキャンセルとさせていただきます。大変ご迷惑をおかけしますが、何卒ご理解・ご協力、よろしくお願いいたします。

この日もボランティアどころではなく、まず、広島で再スタートするための環境整備に時間を費やしました。

また、奮闘されている他党派の方にも激励のメッセージをさせていただくなどしました。

8月31日には、温かいみそ汁を被災者の方に提供するボランティアに参加

26日には、緑の党・ひろしま代表として、現地調査を行いました。 

そして、それを広島市議会各会派やマスコミ関係者などにもお送りしました。

28日には広島市議会の全員協議会があり、傍聴をさせていただきました。

また、当時は広島で唯一の野党所属の衆院議員だった中丸啓さんには、広島市の災害対策本部に我々の提言を提出していただきました。現在は自民党議員の秘書をされているそうですが、災害時は与野党ありません。とにかく市民のためにできることを精一杯させていただきました。

8月31日には、温かいみそ汁を被災者の方に提供するボランティアに参加しました。

翌9月1日から可部線がようやく、可部までの全区間、仮復旧しました。筆者は、9月4日には二回目の被災地の現地調査を行いました。

八木地区

さらに、5日に八木地区(写真)、7日に緑井地区で復旧作業に従事しました。大きな被害があったのは、本当にいま思えば、狭い範囲でした。

だが、4年後、まさか、同じ場所ではありませんが、県内の広い範囲で、これよりもすさまじい土砂災害が起きるとは、この当時は筆者も夢にも思っていませんでした。

同程度の被害範囲の災害を頭の中では想定はしていましたが、2018年のような広い範囲の災害は想定していませんでした。

残念ながら、被災地である安佐南区・安佐北区選出以外の市議や県議の中には支持者からの「先生、お忙しいのでは?」との見舞いの挨拶に対して「そんなことないよ。うちの区は被害がなかったし」という緊張感のない返答をされていた、と当該議員の支持者からうかがっています。

広島市民・県民の多くも被災者に対して同情し、支援しなければ、という気持ちにはなっても、「まさか、自分の地域にふりかかることはあるまい」という気持ちが潜在意識の中のどこかにあったのではないでしょうか?

◆もし、2014年の教訓を生かしていれば、避けられた2018での被害拡大

2014年の広島土砂災害の教訓はもちろん一定程度は生きました。具体的には被災地での砂防ダムの整備です。

写真のように、最大の被災地の梅林地区(住居表示では安佐南区緑井と八木にまたがる)では砂防ダムが多く建設されました。

 

広島の場合、平地が狭く、1970年代前後に山間部に危険性を顧みずどんどん開発を許可した経緯があります。いますぐ危険地帯からの撤収が難しい以上は、砂防ダムをつくって安全を守るしかありません。しかし、その砂防ダムも土砂がたまっていけば機能しなくなります。それどころか、むしろ、西日本大水害2018の時は危険要因にすらなってしまいました。

具体的な例を挙げれば、安芸区矢野では、枕崎台風の教訓から、砂防ダムを県が整備しました。しかし、浚渫が全く行われず、土砂がたまっていました。これは危ない、ということで地域の住民が県に陳情をしていました。広島土砂災害2014以降ももちろんです。ところが、県の対応は「けんもほろろ」だったのです。その矢先に、西日本大水害2018が発生しました。砂防ダムはぶっ壊れ、大量の土砂が矢野地区を直撃。20棟の住宅が全壊して犠牲者が出ました。ボランティアに伺った家の住民のうちの一人は、「開発を許可したのも県。砂防ダムを放置し、住民が陳情してもけんもほろろだったのも県。行政が抜けていた部分があった。」と悔しがっておられました。

現在、県内各地で砂防ダムの整備は一定程度進んでいます。2021年の大雨では、西区で土石流が発生しましたが、2014年や2018年の災害を教訓に砂防ダムを整備していたおかげで犠牲者を出さずに済んでいます。

ただ、今後、砂防ダムをつくるだけでなく、きちんと定期的に浚渫するなど手入れをする。そのための予算を増やす。こうした措置をとらなければ、西日本大水害2018において矢野地区で起きたようなことになりかねません。広島県や市政の首長、職員、そして議員全員は特に肝に銘じておかなければのではないでしょうか?

◆減らしすぎた地方の予算・人を拡充せよ

また、災害対策のためにも、ガツンと国に対して予算と人の確保を要求していくべきではないでしょうか?

この20~30年、あまりにも県も市町村も人を減らしすぎました。県は県で、当時の総務省いいなりで県の仕事を市町村に丸投げし、そのために市町村を全国でも二番目のペースの86→23に減少させました。その結果、すでに、広島土砂災害2014の時点では、担当の県庁職員は限界でした。あるとき、筆者がある会合で得意満面で政策を語っていたら突然、筆者の後輩の女性県庁職員が立ち上がり、「そんなことより足元の広島県内の災害でわたしたち県庁職員は大変なのです。」と筆者はお叱りをいただきました。そうした状態のまま西日本大水害2018,コロナ災害を迎え、県庁職員は「てんやわんや」の状態になっています。

◆災害に強い社会はひとりひとりに優しい社会だが

筆者は、広島土砂災害2014の時点で、災害に強い社会はひとりひとりに優しい社会だ、言い換えれば『平時から、一人一人に病気や怪我や加齢や育児や失業などで困ったことがおきても、安心して生きていける福祉社会こそ、災害にも強い社会』と痛感しました。

例えば、そもそも、普段から安全な場所に安くて追い出されない住宅を公共で整備していれば、危険な場所にマイホームを建てる、などということも起きなかった。
また、そもそも、社会全体として、怪我や病気、あるいは育児や介護で仕事を休みやすい仕組みになっていれば、災害時も、だいぶ楽ではありませんか?

この災害を教訓として社会が変わっていれば、西日本大水害2018のときはもちろん、コロナ災害のときだってだいぶ違ったでしょう。残念ながらその意味でも、広島土砂災害2014の教訓は活きませんでした。それどころか、ひどい方へひどい方へと向かっているように思えます。

◆安倍晋三さんの杜撰な危機管理は2014年から

最大の痛恨事は、その土砂災害の教訓を生かすどころか、ともすれば反対方向へ向かった時代のこの国の為政者が2014年、2018年、そしてコロナ災害発生時まで同一人物であったということです。

故・安倍晋三さんの西日本大水害2018における危機管理はお粗末極まりました。具体的には、「赤坂自民亭」に象徴されるように、災害時も宴会三昧だったこと。その後もカジノ法案に夢中だったこと。そして通常国会閉会後は夏中、ずっと国会も開かず、補正予算の審議もしなかったこと、などです。

安倍晋三さんは、2014年の広島土砂災害ですでに失態をしています。すなわち、8月20日朝、山梨県東部富士五湖地方の別荘におられた安倍晋三さんは、当時の茂木経済産業大臣らとゴルフに出てしまわれた。2時間弱で切り上げ、11時には官邸に入ったというが、その日のうちにまた、別荘になぜか戻ってしまった。そして、翌日夕方、また東京に向かうというちぐはぐな行動をされています。官邸に出勤した後、公邸で待機していればここまでバタバタすることはなかったはずです。一説では、旧友と別荘で会うのを優先したという。このような方が、しかし、その後も2014衆院選、2016参院選、2017衆院選と圧勝した結果、慢心し、西日本大水害でのお粗末な危機管理や一連のお友達優遇政治となったのではないでしょうか?

安倍晋三さんが暗殺されたことはお悔やみ申し上げます。しかし、国葬という天皇と同格で故人を持ち上げることは、故人が為政者だった時代における危機管理のまずさや人々の暮らしに対する冷たさをきちんと分析し、教訓を将来にいかすことを妨げるのではないでしょうか?

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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ピョンヤンから感じる時代の風〈06〉 新「サハリン2」が問いかけるもの  魚本公博

今、世界的な物価高騰が起きている。とりわけ、「ウクライナ事態」発生以降、ロシアに対して経済制裁する国々では、ロシアからの石油、ガスの供給が滞り、それによってガソリン価格や電気料金が高騰を続けており、まさに「返り血を浴びる」状況になっている。

こうした状況の中で、日本では、「サハリン2」の問題が起きている。

6月30日、プーチンは「サハリン2」の経営会社である「サハリン・エナジー社」の資産を新設するロシア企業に無償で引き渡すよう命令する大統領令に署名した。「サハリン2」は英石油メジャーのシェルが27%を出資して経営を握っており、日本も三井物産が12.5%、三菱商事が10%の出資をしていた。日本は、これを通じて全LNGガス輸入量の約10%、年間600万トンを得ていた。ロシアの措置は、それが得られなくなる可能性があるというので緊張が走った。

その後、ロシアは8月2日に新会社(会社名は「サハリンスカヤ・エネルギヤ」、本社所在地はサハリン州のユジノサハリンスク)を設立した。8月18日には、供給を受けている九州電力、東京ガス、西部ガスなどに以前と同じ価格や調達量で再契約を結ぶという通達を行った。これによって、日本の2商社も同様の条件になることが予想され、西村経産相は、「日本の権益を守りLNGの安定供給が図られるよう官民一体で対応したい」と述べ、9月4日の期限までに、2商社に株式保有をロシア側に通知するよう要請した。これを受けて、8月25日、三井物産、三菱商事は出資継続をロシア側に通知することを表明した。今後、数ヶ月間に渡って再契約の中身をつめる交渉が行われる見通しだ。

問題は米国である。米国はロシア制裁のために、シェルの撤退を歓迎し、日本にも同様の措置を採るように要請していた。そうした米国にとって、今回の日本の措置は不愉快なものであり、再契約の交渉過程でも「サハリン2」から撤退するように様々な圧力を掛けてくることが予想される。

今後、日本政府は、国益を守るのか、それとも米国の圧力に屈するのかの選択を迫られることになる。すでにマスコミは、「権益を守れるかどうかは不透明」などと米国を利するかのような論調を張るが、「サハリン2」からの撤退こそ国益放棄なのであり、日本は「撤退せず国益を守る」という立場で、ロシアとの交渉に臨めばよい話しである。

ロシアは、そうしたことを見越して、今回、穏やかに「以前通りの契約で」という措置をしたのであり、それは、日本に「あくまでも米国について行きますか、どうしますか」を問うものになっていると言える。その問いかけは、本質的に「日本はあくまでも米国に従い、米国覇権の下で生きていくのですか」という問いかけである。

そのことを知るためには、「サハリン2」とはどのようなものであったかを分かる必要がある。

「サハリン2」は、1994年に作られた。当時は、ソ連崩壊という大混乱の中で、市民生活が極度の貧困にさらされたロシアの試練の時代であった。そうした混乱の中で、作られたものが「サハリン2」である。こうして英国の石油メジャーであるシェルが27%を出資して、サハリンのガスを掌握した。シェルはロシアのガスを安く買い叩いたばかりでなく、100万BTU(英国熱量単位)当たり2ドルに満たない額で買うというポート・フォリオ枠の特典を得て、これを40ドル前後のスポット価格で売るなどして暴利を貪ってきた。本社は、タックス・ヘイブン(税の優遇措置)で有名な英領バミューダ諸島に置かれており、ロシアは、これに課税することもできなかった。

まさに、「サハリン2」は、米国覇権秩序の下で欧米の大企業が他国の資源を収奪するという典型例であり、ロシアにとっては屈辱的なものであった。それを「ウクライナ事態」が発生し、ロシアへの制裁が発動される中、2月にシェルが自ら撤退を表明したのを機にロシアが取り戻したのであり、それは、誰もが文句を付けることのできないロシアの主権行為であり、屈辱の遺物を清算し、自国の資源をロシアに取り戻すための極めて正当な措置である。

そればかりではない。ロシアは、米覇権秩序に反対し、「平等で民主的な新しい世界秩序」の形成を主張しており、新会社設立の措置は、その象徴であり、そのための武器としてあるということである。

すなわち、こうして作られた新「サハリン2」は、日本に「米覇権の下で生きる」という生き方に対して、それをいつまでも続けるのか、それでいいのか、を問いかけるものになっているということなのだ。

日本は、ロシアの穏やかな問いかけに、冷静に、その答えを模索して行かなければならないだろう。

その基準は、国益であり、国民益でなければならない。どうすれば、国益、国民益を守り、国民の命と暮らしを守っていくのか、国家の使命とは、それに尽きるからである。

米国覇権の下で生きて行く、そのためにロシア制裁の先頭に立つということは、逆に「返り血」を浴び、それを国民に転化するだけではないのか。まさに、それが故に、多くの国が国益、国民益を第一にして、ロシア制裁に反対し、それを無視している。バイデンが多くの国際会合や会議で、ロシア制裁を呼びかけても、それに応じるのはG7の欧米日だけである。G20でも、ロシア制裁を行っているのは10カ国に過ぎない。

こうした動きについてエジプトの元外務次官のフセイン・ハリディ氏が「どちらにも、つかない」と題する朝日新聞への寄稿で要旨次のように言っている。「我々は欧米の言うようにウクライナの独立と民主主義を守る戦いだとは見ていない。そういう中でエジプトなど『第三世界』の国々は自らの立ち位置を決めなければならない。それは『非同盟』だ。非同盟はバンドン会議で始まり、インドのネール、中国の周恩来、エジプトのナセルなどが主導した。非同盟は自国の独立を守るための盾である」と。

バンドン会議は、1955年、東西冷戦が激化する中で、アジア、アフリカ諸国が、インドネシアのバンドンに会して、東西どちらにも付かず、各国の主権尊重を最高原則として互いに協力して平和と繁栄を追求していくことを合意した会議である。

その「主権尊重」の原則は、今日の自国第一主義にも通じる。それが、米国主導の「ロシア制裁」による「返り血」として国民生活を直撃する中で、制裁は正しいのか、そもそも「ウクライナ事態」を招いたのは米国によるウクライナへのNATO拡大、ウクライナのネオナチ化にあったのではないかという声の高まりとなり、米国ノー、米国覇権ノーとして、「主権尊重」「国民益第一」としての自国第一主義が支持を伸ばしている。

フランスでは4月に行われた大統領選で自国第一主義のマリーヌ・ルペンが前回の18%を42%に伸ばし、6月の総選挙では、マクロン与党が100議席を失う大敗北を喫する反面、ルペンの国民連合は8議席から89議席に躍進した。市民生活第一の左派連合「人民環境社会市民連合」も73から131に議席を伸ばした。ドイツでもシュルツ政権への不満が高まっており、他の諸国でも現政権への不満の声が高まっている。

戦争が終わったとしても、「ウクライナ事態」の基本構造、米国覇権とそれを打破しようとするロシアなどの諸国という基本構造は変わらないのであり、今後、数年間で欧米世界にも国益第一、自国第一の新しい政権が生まれ、世界は大きく変わるのではないか。

日本も変わらなければならない。これまでのように米国覇権の下で生きていけば良い、ではなくなっている。事実、米国覇権維持・強化のために、日本は対中国の最前線に立たされ、敵基地攻撃能力の保有や軍事費倍増や果ては、核の共同保有までが言われるようになっている。そればかりではない。エマニュエル駐日大使が就任承認を得るために開かれた米上院外交委員会で「日米の経済統合を目指す」と言ったように、日米経済の統合一体化も進んでおり、日本は、「国」としての体裁を失い、「米国51番目の州」にされようとしている。

反面、世界に目を転じれば、米国中心の覇権秩序に反対し脱覇権で主権尊重の「平等で民主的な新しい世界秩序」を作ろうとする動きは強まっている。日本は、あくまでも米国覇権の下で生きて行くことを続けるのか。それとも、こうした新しい動き、時代の流れに合流していくのか。新「サハリン2」は、それを問いかけている。

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魚本公博さん

ちなみに、日本はバンドン会議の正式参加国であり締結国である。当時の日本は、戦犯国として国連加盟もできず国際孤児の境遇に置かれており、悲願の国連加盟のために、アジア・アフリカの票を得ようとしての参加であったとされる。しかし、一方で、敗戦後の日本は、これから、どう生きて行くのかということが問われており、米国一辺倒ではなく、アジア・アフリカなどとも協力して生きて行こうという道も模索していたということである。この日本の隠された「レガシー」、それを今、受け継ぐこと、それが、新「サハリン2」が問いかけることへの答えにもなるということを付け加えたいと思う。

▼魚本公博(うおもと・きみひろ)さん
1948年、大分県別府市生まれ。1966年、関西大学入学。1968年にブントに属し学生運動に参加。ブント分裂後、赤軍派に属し、1970年よど号ハイジャック闘争で朝鮮に渡る。現在「アジアの内の日本の会」会員。

『一九七〇年 端境期の時代』
『抵抗と絶望の狭間~一九七一年から連合赤軍へ』

《9月のことば》秋桜がきげんよく咲いている 鹿砦社代表 松岡利康

《9月のことば》秋桜がきげんよく咲いている 幸せそうにゆれている(鹿砦社カレンダー2022より。龍一郎揮毫)

9月になりました。

ここ甲子園では高校野球が終わると、暑さの中にも涼風が吹き、一気に秋に向かいます。時の経つのは速いもので、今年も3分の2が過ぎたことになります。

一昨年からずっと新型コロナと、これによって惹き起こされた経営上の打撃に苦しみながら過ごしてきました。私たちだけではありません。皆様方のうち多くの方々もそうでしょう。知人の中には店を閉じた人もいます。

もう秋桜(コスモス)が咲く季節かあ、今年も残り3分の1、木枯しの吹く季節が来るまでに、しっかり身支度したい。──

(松岡利康)

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重なる選挙汚職、懲りない地方議会の面々、町議が選挙人名簿を盗撮しSNSで共有、選挙運動に悪用 黒薮哲哉

神奈川県湯河原町の土屋由希子町議が、隣接する真鶴町の選挙人名簿をタブレット端末で盗撮し、SNSを介して2人の政治仲間と共有していた事件を神奈川新聞(8月24日)が報じた。昨年秋から批判の対象になっている選挙人名簿をめぐる汚職が新局面をむかえた。

◎神奈川新聞の記事 https://news.yahoo.co.jp/articles/8d8f0119ed6f42aca7fc1f2ad426b8ddade17c79

選挙人名簿とは、投票権を有する住民を登録したリストのことである。選挙権は成人になれば自動的に得ることができるが、投票権を得るためには、居住期間などの必要要件を満たして、選挙人名簿に氏名が登録されなければならない。この登録作業は、選挙管理委員会が選挙の直前に住民基本台帳などを基に実施する。

選挙人名簿はだれでも閲覧権があるが、複写や持ち出しは公職選挙法で禁止されている。選挙管理委員会は、選挙人名簿の悪用を避けるために厳重に管理している。

しかし、土屋議員は、監視の眼をかいくぐって真鶴町の投票権者に関する情報を持ち出したのである。

SNSで共有された選挙人名簿のスクリーンショット。当事者の中に会社員が含まれており、業務時間中に選挙運動を行っていたことになる
 
(左)土屋由希子氏、(中)木村勇氏。木村氏が出馬した2021年9月の町議会選。出典:yamashita_sumioのblog

◆有権者に大量の選挙ハガキを送付

事件の舞台となった神奈川県真鶴町は、人口7000人。太平洋に突き出した岬の自治体である。土屋氏が町議を務める湯河原町と隣接している。2つの町は交流が深く兄弟のような関係にある。

2021年9月、真鶴町は町議選を予定していた。この選挙に真鶴町民で土屋 と懇意な木村勇氏が立候補した。木村氏の選挙運動を支えるために、土屋議員は真鶴町の選挙管理委員会に足を運び、タブレット端末で完成したばかりの選挙人名簿を盗撮した。そしてSNSでそれを木村氏ら政治仲間と共有した。木村氏は選挙人名簿のデータを基に、有権者に大量の選挙ハガキを送付したのである。

木村氏はこの選挙で当選し、現在は真鶴町議を務めている。

土屋氏は神奈川新聞の報道内容を認めて、ユーチューブで謝罪した。

◆過去にも選挙人名簿持ち出し事件

真鶴町では、2020年9月に行われた町長選の直前にも、選挙人名簿が流出する事件が起きた。当時、立候補を予定していた真鶴町の職員・松本一彦氏がみずから選挙人名簿を複写して持ち出し、選挙運動に使ったことが発覚したのだ。さらに2021年の町議会選挙でも、当時の選挙管理委員会の幹部が松本町長から指示されて選挙人名簿の複写を3人の立候補者に渡していた。これは、木村氏が立候補したのと同じ選挙であるが、名簿の入手ルートは別である。木村氏の場合は、土屋氏のルートだった。

松本町長が主導した汚職事件を受けて真鶴町が設置した第三者委員会は、松本町長の行状について、報告者の中で次のように結論づけている。

松本氏については、窃盗罪、建造物侵入罪、守秘義務違反の罪、公職法上の職権濫用による選挙の自由妨害罪及び買収(供与)罪が各成立し、尾森氏(注:選管職員)については、地公法上の守秘義務違反の罪、公選法上の職権濫用による選挙の自由妨害罪が各成立すると解されるものである。また、青木氏(注:町議)、岩本氏(町議)については公職選挙法上の被買収罪、刑法上の証拠隠滅罪が成立する可能性がある。

 
(左)土屋由希子氏、(右)松本一彦町長候補。出典:土屋由希子氏のTwitter

この事件は、現在、捜査関係機関が捜査している。松本町長の起訴は免れないとの見方が有力だ。しかし、松本町長の支持層も多く、事件の発覚を受けて行われた再選挙で、松本町長は再選を果たしている。

土屋氏が起こした今回の事件は、松本町長が関与した事件とは別のルートであるが、不正選挙の手口は酷似している。選挙人名簿を不正に入手して、ダイレクトメールなどの選挙運動に利用する手口である。

土屋氏は、松本町長の熱心な支援者でもある。松本氏がはじめて真鶴町の町長選に出馬した際には、隣町へ応援に駆けつけている。その日のTwitterに、次の一文を投稿している。

「本日は真鶴町長選に立候補されている、松本一彦さんの応援に来ています!子ども達を中心にした政治のあり方に共感しています。真鶴町長選は松本一彦さんに清き一票を??」

真鶴町の選挙管理委員会は、湯河原町議の土屋氏と真鶴町議の木村氏が神奈川新聞の報道内容を認めたとしたうえで、「選挙管理委員会としては、2人から事情を聴取したうえで、今後、どう対処するかを決める」と、話している。

劣化が進んでいるのは、中央政界だけではない。地方議会も没落への道を転げ落ちている。議員の席を得ることで、定期収入を得られることから、議員を目指す者が少なからずいる。監視の役割を放棄してきたジャーナリズムの責任は重い。

◎[参考記事]町長が自らを刑事告発、第三者委員会が報告書を公表、神奈川県真鶴町の選挙人名簿流出事件 

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会〈3〉1980年代 ポストモダンと新自由主義 横山茂彦

◆戦前77年、戦後77年という視点

本稿の執筆中に、編集部から田中良紹(元TBS記者)の「明治維新から77年目の敗戦と敗戦から77年目の惨状」(フーテン老人世直し録662)を紹介いただいた。戦前の77年と戦後の77年を欧米追随の結果として振り返るものだ。田中自身が1945年生まれの77歳である。

敗戦の77年前は日本が封建体制を脱して近代化を始めた明治維新の1868年だ。近代日本は富国強兵策によって西欧に近づき、世界の五大国の一角に食い込んだが、77年後にそのすべてを失った。

戦後の日本は東西冷戦構造を巧みに利用し、焦土から米国に次ぐ経済大国に上り詰めた。しかし1989年の冷戦の崩壊と共に「失われた時代」を迎え、坂道を転がるように転落の一途をたどって77年後の現在に至っている。(田中良紹「フーテン老人世直し録662」)

なるほど、素描は悪くない。帝国主義(独占と金融寡頭制)が日本の後発性ゆえに、世界大戦(市場再分割・領土分割)に乗り出さざるをえなかったこと。そして真珠湾を先制的に叩くことで、アメリカ世論の参戦をうながしてしまったこと。これはアメリカにとって、じつは織り込み済みだった(10年前に真珠湾攻撃を想定した本が出版されていた)。したがって、真珠湾を攻撃した時点で敗戦は決まっていた、というものだ。

だがこの敗戦が、日本にとっても織り込み済み(想定済み)だったことを田中は見ていない(『昭和16年の敗戦』猪瀬直樹)。

負けるとわかっていながら、東条英機以下の政権幹部、山本五十六ら海軍をふくむ戦争指導部・現場指揮官は、みずから戦争に反対しながら開戦に踏み切ったのだ。このことを本来はテーマにしなければならないであろう。アメリカに引きずられた戦後の繁栄と衰退(惨状)もしかり。なぜアメリカに引きずられてきたのか。

ほとんど誰もが対米戦争に反対しながら、展望のない戦争に踏み切った日本人の心性が問題なのである。いったん開戦するや、一億火の玉となって熱狂した戦争……。この思想的分析を抜きに、外的条件を挙げたり陰謀史観を持ち込んでもまともな議論にはならない。

◆ポストモダンとは何だったのか

批評家やジャーナリストは、戦後世界をアメリカ的な合理主義・民主主義(自由主義思想)と、ヨーロッパ的な社会主義思想(ソ連や中国をふくむ)との相克として描きがちである。

冷戦下の思想が資本主義と社会主義として措定され、核熱戦争の危機を背景にイデオロギー闘争が論壇のテーマにすらなってきた。これ自体が誤っているわけではない。

現実に今日も中国の台頭、ロシアの帝国主義的復活と(ウクライナ)侵略戦争への突入として再現されつつある。世界は20世紀へ、いや18・19世紀に回帰してしまったかのようだ。

そのいっぽうで、戦後革命期・60年代~70年代の価値観の転換を通して、左右のイデオロギー対立をこえる思想革命があったのを知っておくべきであろう。そのあまりの難解さゆえに、ほとんど一般には定着しなかったポストモダンという批判思想である。直訳すれば「近代合理主義批判」ということになる。

もとは建築評論家のチャールズ・ジェンクスが、70年代後半に建築用語として発したのがポストモダンである。リオタールの『ポスト・モダンの条件』(1979年)によって、フランスの思想界を席巻する。フランスで流行しそうになるということは、世界の思想論調となるのを意味している。

底辺にあったのは、近代的主体概念(デカルト)である。認識主体が「わたし」であり、わたしは「客体を認識する」主体として存在する。しかるに、わたしはどのような主体なのか、主観的にしか論証できない。むしろマルクスの「社会的諸関係の総体」「相対的にしか諸関係は措定できない」という関係論にいたり、主体の存在が疑われるようになる(構造主義)。日本においては廣松渉の共同主観性やフッサールの間主観性として紹介されていたものだ。ようするに、人間という「主体」は「関係性」をはなれては成立しないのである。

ポストモダンはポスト構造主義でもあり、浅田彰の『構造と力』(1983年)によってニューアカデミズムという批評領域が登場するが、すぐにブームは拡散する。拡散した理由は、ニューアカ自体がカント・ヘーゲルからマルクス、フーコーらの構造主義を対象とし、あまりにも膨大なテキストを前提にしているからだった。マルクスを読んでもいない若者が読むには、ポストモダンの論攷はあまりにも難しすぎたのだ。

とはいえ、ポストモダンがマルクスいらいの生産力主義、近代合理主義を批判していることから、思想をこえる批評として人気を博したのは事実である。マルクス主義が説く共産主義は壊滅的な批判をうけた。マルクス葬送である。


◎[参考動画]浅田彰(1986年放送)


◎[参考動画]フーコー、レヴィ=ストロース、サイード、鈴木大拙、今西錦司


◎[参考動画]フーコーとチョムスキー ~人間本性について~(日本語字幕)1/2

◆歴史は本当に終わったのか?

ここではわかりやすく、大きな歴史の終焉という政治学にそくして解説しておこう。ポストモダンを政治学・歴史学に移し替えたのがフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(1989年)である。

「歴史の終わり」とは、国際社会において 民主主義 と 自由経済 が最終的に勝利し、社会制度の発展が終結することで、社会の平和と安定を無限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。この状態を「歴史の終わり」と呼ぶ。

すべての民族や文化圏、宗教圏に妥当するグランド・セオリー(大理論)である普遍的な歴史。すなわちリオタールの用語で言えば「大きな物語」としての「歴史の終わり」であり、その他の歴史、文化史、技術史、芸術史、スポーツ史、個人史などの個別的な歴史(リオタールの用語で言えば「小さな物語」)は、もちろん不断に変革を繰り返して、継続されていくというものだ。

フクヤマの仮説に対して、サミュエル・ハンティントンは著書『文明の衝突』の中で「支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしない」として「歴史は終わらない」と主張した。

フクシマの仮説はソ連と社会主義圏の崩壊を前提にしたものにすぎず、資本主義から社会主義・共産主義というマルクス主義理論(史的唯物論)の否定にすぎない。したがって、その後の中東戦争におけるアメリカ失敗(イラク・アフガン戦争)に逢着する。


◎[参考動画]Full Interview: Stanford Professor Francis Fukuyama Provides Analysis On Ukraine-Russia War

ロシアによるウクライナ侵略戦争について、フクヤマは攻撃が始まった直後の2月26日に台湾の大学が開催したオンライン講演でこう述べている。

「ウクライナへの侵略はリベラルな国際秩序に対する脅威であり、民主政治体制は一致団結して対抗しないとならない。なぜならこれは(民主体制)全体に対する攻撃だからだ」と。

フクヤマは2015年ごろから中国に対して「科学技術を駆使した高いレベルの権威主義体制には成功のチャンスがあり、自由主義世界にとって真の脅威になる」とも述べている。

講演のなかで、台湾に対しての中国の武力行使は、近年の国際環境の変化とウクライナ情勢によって「想像しえる事態になった」とも述べた。別のインタビューでは「究極の悪夢」は中国がロシアのウクライナ侵攻を支持し、ロシアが中国の台湾侵攻を支持する世界であると述べている。もしそれが起これば「非民主的な力によって支配された世界に存在することになる。米国とその他の西側諸国がそれを阻止できなければ、それは本当の歴史の終わりです」つまり、フクヤマが言う「歴史の終焉」とは、世界の終焉でもあるというのだ。

もちろんわれわれは、ロシアの18世紀的な皇帝の帝国戦争・19世紀的な帝国主義戦争を批判するが、アメリカの民主主義がシオニズムのパレスチナ侵略を前提としていること。完成された民主主義などとはほど遠いこと。したがって、民主主義はいまだその途上にあって、必要なのは非民主主義世界が膨大に生み出される帝国主義と専制独裁の世界に生きていることの自覚であろう。

国家の数で言えば、民主主義よりも民主的な選挙に拠らない専制国家のほうが増えているという。開発独裁において、民主主義的な政争が負担になるのは明白で、独裁政権のほうが経済はうまくいく。これもひとつの真理であろう。ポストモダンは生産力を批判し、近代的合理主義を批判したが、世界はあいかわらず戦争と革命、社会的致富をめざしているのだ。人は食うために生きる、けだし当然であろう。80年代は日本人にとってバブル経済の年代だったが、世界史の曲がり角でもあった。その歴史的な曲がり角を、新自由主義というグローバリズムが支配する。そこで日本の衰退がはじまった。(つづく)


◎[参考動画]サミュエル・ハンティントンの文明の衝突またはフランシス・フクヤマの歴史の終わり?(1992年)

◎《戦後77年》日本が歩んだ政治経済と社会【目次】
〈1〉1945~50年代 戦後革命の時代 
〈2〉1960~70年代 価値観の転換 
〈3〉1980年代 ポストモダンと新自由主義
〈4〉1990年代 失われた世代

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

旧統一教会問題と安倍晋三暗殺 タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年9月号
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《1人イノセンスプロジェクト05》被害者の女性を敵視していた人物の情報を求めています ── 米原汚水タンク女性殺害事件 片岡 健

今回取り上げる米原汚水タンク女性殺害事件は、10年余り前の事件発生時、センセーショナルに報道され、社会の耳目を集めた。だが、この事件について、冤罪の疑いを指摘する報道はこれまでにほとんどなかった。それゆえ、この事件をここで取り上げることに違和感を覚える人もいるかもしれない。

だが、この事件の犯人とされている森田繁成氏という男性は、まぎれもなく冤罪だ。今回もまず、事件のあらましを説明したうえ、この事件を解決するための情報を募りたい。

◆センセーショナルに報道された事件

事件は2009年6月12日の朝、滋賀県米原市の農道脇に設置された汚水タンクから女性の遺体が見つかり、発覚した。女性は小川典子さん、当時28歳。小川さんは長浜市で両親と暮らし、大手ガラスメーカーの工場で派遣社員として働いていたが、2日前から行方不明になっていた。

遺体の発見者は汚水の運搬業者である。汚水を回収しようとタンクのフタをあけた際、中から作業服姿の小川さんの遺体が出てきたという。解剖の結果、小川さんは鈍器で頭部や顔面を乱打されて瀕死の状態に陥り、最後はタンクに落とされ、汚水を吸い込んで窒息死したと判定された。被害者がこのような悲惨な最期を遂げたことは、この事件が当時センセーショナルに報道された理由の1つだ。

そして事件発覚から1週間が過ぎた6月19日、滋賀県警の捜査本部は1人の男性を殺人の容疑で逮捕した。この男性が森田氏だ。当時40歳だった森田氏は、小川さんが働いていた大手ガラスメーカーの工場に正社員として勤務していた。妻子ある身でありながら、職場の部下にあたる小川さんと交際しており、このことが何より事件に関するセンセーショナルな報道を巻き起こしたのだった。

当時の報道では、森田氏は近所で「子煩悩な父親」という評判がある一方、普段から交際相手の小川さんに暴力をふるっていたように伝えられた。さらに森田氏の車のフロントガラスにひびが入っていた事実が判明すると、森田氏が犯行時に小川さんと争った痕跡であるかのように報道されたりもした。こうした犯人視報道が大々的に繰り広げられる中、森田氏はおのずとクロのイメージになっていた。

一方、森田氏本人は捜査段階から一貫して無実を訴えていたが、裁判では2013年2月、最高裁で懲役17年の判決が確定。この間、森田氏の犯人性に疑問を投げかけるような報道はほとんど見当たらなかった。そのため、裁判の結果に疑問を抱く人が世間にほとんどいないのも当然といえば当然だ。

被害者の小川さんは、手前のマンホールの下にある汚水タンクに落とされ、亡くなった

◆報道のイメージと異なる事件の実相

しかし、この事件の実相は報道のイメージと随分異なっている。

たとえば、森田氏が逮捕された当初、小川さんが事件前に「森田氏から暴力を振るわれている」と同僚に相談していたという話がよく報じられていた。森田氏が普段から小川さんに暴力をふるっていたかのように伝えられた根拠がそれだった。

しかし裁判では、森田氏と小川さんのメールの履歴から、むしろ小川さんのほうが森田氏に対して積極的に不満を伝えていることが判明し、一方で森田氏が小川さんに暴力を振るっていたことを窺わせる文面は見当たらなかった。確定判決はこうした事実関係に基づき、小川さんが「森田氏から暴力を振るわれている」と同僚に相談していたのは「誇張」した話であった可能性があると判断していた。

また、森田氏の逮捕当初、犯行の痕跡であるように報じられていた森田氏の車のフロントガラスのひびについては、「事件以前」に生じたものだったことが裁判で明らかになっていた。要するにこれが犯行の痕跡だと示唆した報道は「誤報」だったわけである。

さらに裁判では、小川さんの遺体の状況から犯人が返り血を浴びていることが濃厚であるにもかかわらず、森田氏が犯行時に乗っていたとされる車の運転席周辺から血液が一切検出されていないことも判明していた。このようにむしろ、森田氏の犯人性を否定する事情も存在したわけだ。

一方、確定判決では、有罪の根拠として、森田氏の事件後の行動が色々挙げられている。

たとえば、(1)小川さんの失踪を知っても安否を気づかうような行動をとっていなかった、(2)自動車修理工場の代表者に電話をかけ、小川さんとの交際を口外しないように依頼していた、(3)小川さんとの間で交わされたメールを含む携帯電話のデータを削除していた──などだ。要するにこのような「被害者とのつながりを隠す行動」が不自然であり、犯人であることを示す事実だと判断されたわけである。

しかし、そもそも森田氏が小川さんと不倫関係にあったことを思えば、小川さんが失踪したことや殺害されたことを知った後、小川さんとのつながりを隠す行動をとっても決して不自然とは言えない。このような森田氏の行動について、犯人であることを示す事実だと判断するというのは、むしろ裁判官や裁判員が森田氏に対して予断や偏見を抱き、審理に臨んでいたことを窺わせる事情である。

事件発生当時、滋賀県警の捜査本部が置かれた米原署

◆インターネットの掲示板に多数あった「被害者を誹謗中傷する書き込み」

実を言うと森田氏の裁判の控訴審では、弁護側が「森田氏とは別の犯人」が存在する可能性を示す事実があるとして、次のようなことも主張している。

「事件以前からインターネットの掲示板には、被害者を誹謗中傷する書き込みが多数あった。犯人はその中に存在する可能性も考えられる」

この弁護側の主張は裁判官に退けられたが、事件発生当時、インターネット上の掲示板にそのような書き込みが散見されたことについては事実関係に争いはない。ただ、残念なのは現在、この掲示板が見当たらなくなっており、追跡調査ができないことだ。

そこで今回は、この掲示板への書き込みをはじめとして被害者の小川さんのことを敵視していた人物に関する情報を募りたい。情報をお持ちの方は、私のメールアドレス(katakenアットマークable.ocn.ne.jp)までご一報ください。

※メールで連絡をくださる人は、アットマークを@に変えてください。
※この事件については、私が取材班の一員を務めた記事が2011年発行の『冤罪File』No.12(希の樹出版)に掲載されている。バックナンバーは現在も購入可能のようなので、関心のある方はご参照頂きたい。詳細はhttp://enzaifile.com/publist/shosai/12.html

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ─冤罪死刑囚八人の書画集─』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]─冤罪死刑囚八人の書画集─」(片岡健編/鹿砦社)
『紙の爆弾』と『季節』──今こそ鹿砦社の雑誌を定期購読で!

いざ出陣、背中を押す入場曲の力! 堀田春樹

◆スターの証明

元ドラマー・北沢勝の現役時代はラテン系「エルマタドール」(2002年1月27日)

先日、井上尚弥のノニト・ドネア戦で、布袋寅泰氏が生演奏した「バトル・ウィズアウト・オナー・オア・ヒューマニティー」の曲に乗ってリングに入場していました。

リングアナウンサーは知名度抜群のジミー・レノン・ジュニア氏でしたが、さすがにビッグイベントに相応しい面子と楽曲。これだけで痺れたファンも多いでしょう。

通常のプロボクシングやキックボクシングにおいて、メインイベンタークラスでは、

「両選手、リングに入場です。初めに青コーナー側より……○○選手の入場です!」

入場曲が流れ、「これからあの選手が入場するんだ!」とファンをワクワクさせるのはプロとして大切なパフォーマンス。

「3回戦(新人戦)の頃、5回戦(ランカークラス)に上がったらカッコいいガウン着て、カッコいい入場曲にしようと思っていました!」という目標を持った選手も多いもので、スター選手が入場だけで鳥肌が立つような楽曲は、ファンが一生忘れないインパクトを持つものです。

◆昔の楽曲

終戦後、テレビ局が開局してプロレスやプロボクシングが放映開始された時代まで遡れば、各々の入場曲など無い時代で、多くの選手は観衆の拍手や声援に応えながら、または無表情で静かにリングに入場していました。

タイの英雄、カオサイ・ギャラクシーは世界チャンピオン時代にオリジナル曲を与えられた(1993年頃)

まだ演出まで派手さは追求されなかった時代は各テレビ局のスポーツテーマ曲で入場していたシーンが思い出されます。テレビ局初期の主要三大スポーツテーマ曲は、日本テレビスポーツ行進曲とTBSスポーツテーマ「コバルトの空」とフジテレビスポーツテーマ「ライツアウトマーチ」。

ジャイアント馬場さんの場合は「日本テレビスポーツ行進曲」が誰もの脳裏に焼き付くほど定着しているでしょう。

輪島功一さんはフジテレビのスポーツテーマ曲が似合っていました。力強いイメージの曲ながら、輪島さんが世界戦で負けた後の番組エンディングで流れた曲後半の部分は物悲しい響きに感じたものです。

TBSキックボクシングではオープニングで「コバルトの空」を毎週聴いて脳裏に焼き付き、この曲が流れると未だ昭和のキックボクシングを思い出す古いファンも多いでしょう。

◆各々の選択肢

オリジナルテーマ曲の始まりはミル・マスカラスの「スカイハイ」と思いますが、そこからアントニオ猪木がモハメッド・アリから贈られた曲と言われる「アリ・ボンバイエ」を「イノキ・ボンバイエ」に編曲して使用。

そして多くのプロレスラーにオリジナルテーマ曲が浸透していきました(1974年8月、国際プロレスでビリー・グラハムに入場曲を使ったのが日本で最初のテーマ曲というネット情報有り)。

アブドーラ・ザ・ブッチャーはファンも忘れない「吹けよ風、呼べよ嵐」(1988年4月2日)

プロボクシングでは正確な記録は分かりませんが、オリジナルテーマ曲が始まったのは、おそらく具志堅用高さんからでしょう。「征服者」がしっかりファンの脳裏に焼き付く存在感となりました。

同時期、キックボクシングでは富山勝治さんが最初かもしれない存在で、好んで「アラスカ魂」で毎度入場していました。

1976年11月に映画「ロッキー」が公開され、後に多くの選手用に「ロッキーのテーマ」を使われるようになり、1982年(昭和57年)10月には向山鉄也さんが日本プロキック連盟ウェルター級王座獲得した試合での入場は「ロッキー3」でした。

1985年7月に日本ライト級チャンピオン長浜勇(市原)さんが初防衛戦を迎えた試合では「入場の時、ロッキーのテーマが流れて凄く嬉しくて気合いが入った」と語り、入場時までロッキーのテーマが流れるとは知らなかった様子で、この頃はまだ各々が選曲する時代ではありませんでした。

平成期に入った全日本キックボクシング連盟では団体のオリジナル曲が誕生、この頃から団体によってはチャンピオンクラスにはそれぞれ好みで選曲した入場テーマ曲が定着。

代表的テーマ曲は、
立嶋篤史は「ヒーロー」
小野寺力は「カルミナ・ブラーナ」。
石井宏樹は「スペンテ・レ・ステッレ」。
藤原国崇は一世風靡セピアの「前略、道の上より」
伊達秀騎は尾崎豊の「LOVE WAY」
ガルーダ・テツは「軍歌・出征兵士を送る歌」他軍歌諸々。

プロボクシングでは竹原慎二がジョー山中の「熱いバイブレーション」
辰吉丈一郎の「死亡遊戯」
坂本博之の「新世界」
内藤大助はC-C-Bの「ロマンティックが止まらない」

変わりどころ、キューピー金沢は「キューピー3分クッキング」など、より意外性でインパクトを与える演出が増えていきました。私(堀田)の今思い付く選手を連ねましたが、他にも多くの選手の選曲があります。

[左]元・ムエタイ殿堂チャンピオン、石井宏樹は編曲を加えた「スペンテ・レ・ステッレ」(2014年2月11日)/[右]100戦超え、現役の藤原国崇は一世風靡セピアの「前略、道の上より」(2021年9月19日)
日本王座挑戦経験もある今も現役・阿部泰彦は明るいリズムの「ドラゴンクエスト」(2019年8月4日)

◆好みの入場曲と著作権

多くの楽曲を使うことに関わる厄介な問題は著作権でしょう。テレビ局が放送する場合は著作権関係者・団体等と契約されており、私的なYouTube等、SNS動画配信の場合は無音にしたり、他のフリー音源に差し替えて対応しているようです。

ファンは入場シーンからテーマ曲も含めて楽しみたい部分であり、「動画配信であっても楽曲使用料を払って映しましょう!」という意見も、使用料が高額となる場合があると断念せざるを得ない様子です。一般の人が映像制作する場合は気を付けなければならない課題でしょう。

元々日本人は音楽が好きな民族。音楽は「音が楽しい」と書き、楽しくなければ音楽ではない(とは言い切れないが)。

選手のリングに向かう戦いのボルテージを上げ、観衆の緊張感を高めるのが入場テーマ曲。そこから名リングアナウンサーによるコールへ、一つ一つの役割を経て最高潮に達します。

時代の流れで今後、入場テーマ曲はどう変化していくでしょうか。

普段、試合を観ている貴方がメインイベンターだったらどんな楽曲を選んで入場しますか。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

大学院生M君リンチ事件に、人間として真摯な反省のない李信恵を弾劾する!──李信恵のツイートに思う 鹿砦社代表 松岡利康

8月26日、「反差別」の旗手と持て囃される李信恵が久しぶりに鹿砦社や関係者らについてツイートしています。本欄でもお馴染みの「はなママ」こと尾崎美代子さんも批判の俎上に上げられています。自分らに批判的な意見は全て「デマ」という語彙しか言えず、なにを今更……という感がしないでもありませんので、黙って見過ごすのも大人の対応でしょうが、齢70を過ぎても瞬間湯沸かし器は相変わらずで、かのリンチ事件に対して真摯な反省もなく自分への批判者への非難に終始する李信恵に怒りを覚えました。被害者の大学院生(当時)M君は、今に至るまでリンチの恐怖、PTSDに苦しんでいることを、李信恵よ、判っているのか!? あなたに「反差別」や「人権」という崇高な言葉を語ってほしくはない!! それと真逆の人間性を持った人種だから。

李信恵は突如鹿砦社らに非難ツイートを始めた
李信恵ら5人によってリンチされた直後のM君

私(たち)が大学院生M君リンチ事件(いわゆる「しばき隊リンチ事件」)の支援に関わったのは、マスメディアから「反差別」の旗手と持て囃される李信恵が、2014年師走、大阪最大の歓楽街・北新地で、彼女の取り巻き4名と共に「日本酒に換算して一升近く飲んだ」とみずから言うほど泥酔し、酒の勢いで、大学院生M君に対し激しいリンチを加え、この被害の酷さ、そして、これが1年以上も隠蔽されてきたことに驚き、この青年を何とか支援すべきだと素朴に感じたことから始まりました。

事実関係を知るにつれ、激しいリンチを加えられながら、1年以上も放置され、挙句李信恵ら加害者らが開き直ったという怒りも、私(たち)が動き出す動因の一つとなりました。この判断は、人間として絶対間違っていなかったと今でも思います。

この事件に対しては、多くの人たちが、何を怖れたのか、沈黙したり言葉を濁したり隠蔽したりしました。あなた方は、それでも人間か!? と言いたいと思います。血の通った人間なら、リンチ直後の写真を見たり、リンチの最中の音声データを聴いたりするだけで、怒りを覚えないのでしょうか!? 

このリンチ事件にどう対応するかで、いくら著名な学者やジャーナリストでも、その真価が問われると思っています。ふだん「暴力反対」とか口にしても、その暴力が集団リンチという形で現実に起き、これを知ったら、どう対応するのか? 口で「暴力反対」と言うのなら、それ相応に対応しろ! 

「日本酒に換算して1升近く飲んだ」ことをみずから認めた李信恵。「1升飲んだ」ことは、普通の感覚では泥酔の類に入る

私たちは、地を這うような調査・取材を行い継続し、これまで6冊の出版物にまとめ世に問いました。これらの本に記述したことが「デマ」だとは言わせません。マスメディアは全く無視したことで、残念ながら広く波及したとはいえませんが、少なからずの方々に事件を知り理解していただくことができました。李信恵の人間性の鍍金(メッキ)は少しは剥げたかなと思っています。

いちおう私のコメントは簡単にして、李信恵が鹿砦社を訴えた訴訟の控訴審で、李信恵が大学院生M君リンチ事件に連座していることを断じた大阪高裁の確定判決文(2021年7月27日判決言渡 大阪高裁第2民事部 令和3年(ネ)第380号)を挙げておきましょう。賠償金110万円の支払いは課されましたが、一審判決一部変更(減額)され以下の判決を得たことは収穫で、いわば<敗北における勝利>と私なりに総括しています。──

前田朗東京造形大教授によるリンチ事件に対するコメント。3回続いた。回を重ねるうちに私たちとは意見の違いも出てきたが、前田教授の指摘は「デマ」ではなく耳を傾けるべきだ。前田教授は、李信恵の反ヘイト裁判に意見書を書き、その弁護団や支持者とも親交があったが、リンチ事件については聞いていなかったようで、その怒りがこの論文を書かせたと思われる。ここでは(一)(二)のみを掲載した
同上

◇    ◇     ◇     ◇     ◇

リンチについて尋ねた人には激しく恫喝

「被控訴人(注:李信恵)は、M(注:リンチ被害者。判決文では本名)が本件店舗に到着した際、最初にその胸倉を掴み、金とMが本件店舗の外に出た後、聞こえてきた物音から喧嘩になっている可能性を認識しながら、飲酒を続け、本件店舗に戻ってきたMが金からの暴行を受けて相当程度負傷していることを認識した後も、『殺されるなら入ったらいいんちゃう。』と述べただけで、警察への通報や医者への連絡等をしないまま、最後は負傷しているMを放置して立ち去ったことが認められる。この間、(李)普鉉(注:直接の加害者の一人)や伊藤(注:大介。リンチの現場に居合わせた者。のちに暴力事件を2度起こし逮捕、一審で有罪判決を受けている)は金(注:良平。最も暴行を働いた者)に対し暴力を振るわないよう求める発言をしているが、被控訴人が暴力を否定するような発言をしたことは一度もなく、被控訴人は、遅くともMが一度本件店舗内に戻った時点では、Mが金から暴行を受けた事実を認識していながら、殺されなければよいという態度を示しただけで、本件店舗外に出て金の暴行を制止し、又は他人に依頼して制止させようとすることもなく、本件店舗内で飲酒を続けていた。このような被控訴人の言動は、当時、被控訴人が金による暴行を容認していたことを推認させるものであるということができる(被控訴人の司法警察員に対する平成27年9月18日付け供述調書中には、男同士の喧嘩であり女の自分は止めに入ることができず、ただ店内にいることしかできなかった旨の供述部分があるが、被控訴人は、本件店舗内に戻ったMの様子から、Mが一方的に殴られていたことが明らかになった後も、伊藤など本件店舗内の他の男性に対し本件店舗外の様子をみたり、暴力を制止させたりするよう依頼することはしていない。)。」(同判決文7ページ~8ページ)

傍聴人が描いてくれたイラストにもイチャモン。特徴を掴んでよく描かれていると思うけど

「被控訴人の本件傷害事件当日における言動は、暴行を受けているMをまのあたりにしながら、これを容認していたと評価されてもやむを得ないものであったから、法的な責任の有無にかかわらず、道義的見地から謝罪や補償を申し出ることがあっても不自然ではない。」(同11ページ~12ページ)

「被控訴人は、本件傷害事件と全く関係がなかったのに控訴人(注:鹿砦社)により一方的に虚偽の事実をねつ造されたわけではなく、むしろ、前記認定した事実からは、被控訴人は、本件傷害事件の当日、本件店舗において、最初にMに対して胸倉を掴む暴行を加えた上、その後、仲間である金がMに暴行を加えている事実を認識していながら、これを制止することもなく飲酒を続け、最後は、負傷したMの側を通り過ぎながら、その状態を気遣うこともなく放置して立ち去ったことが認められる。本件において控訴人の被控訴人に対する名誉毀損の不法行為が成立するのは、被控訴人による暴行が胸倉を掴んだだけでMの顔面を殴打する態様のものではなかったこと、また法的には暴行を共謀した事実までは認められないということによるものにすぎず、本件傷害事件当日における被控訴人の言動自体は、社会通念上、被控訴人が日頃から人権尊重を標榜していながら、金によるMに対する暴行については、これを容認していたという道義的批判を免れない性質のものである。」(同11ページ~12ページ)【注】被害者名は判決では本名ですが、ここでは「M」と表記。

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李信恵ら加害者らは、師走の寒空の下に激しいリンチで半殺しの状態のM君を一人放置し立ち去り(李信恵に人権の一欠片もない証拠だ!)、M君は必死でタクシーを拾い幸い自宅まで帰り着くことができました。異変に気づいたタクシーの運転手は料金を受け取らなかったそうです。(文中敬称略)

6冊のリンチ事件関連本。リンチ事件真相究明と共に現代の「反差別」運動の虚妄と問題点を解明
同上

西日本大水害2018から4年 改めて振り返る〈3〉 総裁選対策「だけは」万全だった故・安倍晋三さんの夏 さとうしゅういち

西日本大水害2018からこの夏で4年が経過しました。(前回記事)

くどいようですが、7月8日に安倍晋三さんが凶弾に斃れられたことはお悔やみ申し上げます。

しかし、今年も各地でこれまでにないような記録的な大雨が降っています。また、コロナと記録的な暑さのダブルパンチで医療の逼迫もつたえられています。4年前の夏の安倍晋三内閣による危機管理を検証していくことは、人々の命を守っていく上でますます重要ではないでしょうか?

国葬はいわば天皇と同格の扱いをすることになります。そのことで冷静な検証ができなくなることを恐れます。

◆近所に建設会社があると復旧スムーズ、しかし安倍さんの政治は?

時は、2018年7月19日に戻ります。筆者は安佐北区口田の被災現場に4たび入りました。この時はマンション一階の駐車場の泥の搬出に従事しました。

ここでは近所の建設会社の重機が活躍しました。建設会社というのは、1990年代のいわゆるゼネコン疑獄以降、すっかり悪者にされてしまいました。

そして、小泉政権では大幅に公共事業費がカットされてしまったのです。さらに、残念ですが、民主党も新自由主義的な側面もあり、公共事業費を当初予算ベースでは減らし続けたのです。「コンクリートから人へ」というスローガンは今にして思えばまずかった。あそこは財政出動で防災、インフラの更新などもきちんとやり、経済を底上げしていれば、民主党はもうちょっと政権を防衛できたかもしれません。https://www.mlit.go.jp/page/content/001383015.pdf

やはり、一定程度、建設関連の人材がいるということは、大事なことです。

なお、安倍晋三さんは財政出動をしたといわれていますが、当初予算ベースでいえば、2013年度から2018年度までずっと横ばいです。2013年度に民主党政権からちょっと増やした後は、ほぼ横ばいなのです。

国土強靭化計画とはいったい、何だったのでしょうか?

せめて公約を守っていれば、助かった命もあったかもしれません。一方で、民主党の後身たる立憲民主党の皆様にも反省していただきたい。公共事業を減らしすぎた問題ではまず反省していただかないと、自民党を批判しても、説得力がありません。とはいえ、総理大臣はずっと安倍晋三さんだったわけで、やはり安倍さんの責任は重いと言わざるを得ません。このことをとっても、とてもではないが、安倍さんが国葬に値するとは思えないのです。筆者は、「財政出動で人もコンクリートも」をガツンと訴え続けます。

◆筆者、再び熱中症でぶっ倒れる 7/20

筆者は7月20日、再びぶっ倒れました。ここ3日が被災地ボランティア活動→出勤で入浴介助→ボランティア活動で、頭が重いなと思って、この日出勤したが、昼休みに気分が悪くなり、病院で点滴を受けました。土砂が残っていると焦って無理をしがちです。

一方、このころ、安倍総理は、国会やマスコミに対して「災害対応は万全だ」という答弁を繰り返しておられました。大量の土砂を見ていると、総理の発言があまりにも無神経に聞こえました。それがさらに神経を逆なでし、イライラさせられたのです。

◆7/21 仁比聡平、山本太郎らの活躍で民有地の土砂を公費で撤去へ

これまで、民有地の土砂は地主が自己責任で撤去するようになっていました。しかし、あまりにも土砂が多いために、撤去を公費で行うことになりました。これは、仁比聡平や山本太郎が参議院において声を上げたことが大きく作用しました。

それにしても、憲法に緊急事態条項がなくて本当に良かったです。緊急事態条項があれば、国会も閉じられ、下手をすれば仁比や山本のような議員は弾圧されていたかもしれない。緊急事態条項がむしろ、危機管理を後退させたかもしれなかったからです。

◆7/28 前代未聞の閣議を取りやめのニュース

筆者がぶっ倒れて一週間以上。台風が関東沖・東海地方経由で瀬戸内地方に近づいていました。

そんなとき、安倍内閣は総理の休息のためと称して閣議を取りやめたのです。なんということでしょうか?

この危機のときに閣議を取りやめるとは?やはり、緊急事態条項なんて導入しても、危機管理のアップには使われない。そのことの確信を強めた事件でした。

◆8/1 似島で災害ボランティアに

筆者は8月1日、猛暑の中、南区の沖合の似島に入りました。この似島は第二次世界大戦前、大日本帝国陸軍の検疫所がありました。第一次世界大戦ではドイツ軍の捕虜も収容されました。

被爆直後は多くの被爆者を収容。戦後は原爆孤児のための学園も置かれました。また、観光の島としても栄えました。この小さな島の上にも7月6日、強烈な雨雲が居座り、島内各所で土砂崩れを起こしたのです。

すでに、筆者が訪れた段階でも、港のわきには、写真のようにうずたかく土砂がおかれていました。島内の道路は非常に狭く、重機や自動車も入れない道が多いのです。従って、文字通り、人海戦術でやるしかないのです。遠くは神奈川県からボランティアに駆け付けられた女性がおられました。テレビで似島の惨状をご覧になり、車を飛ばして駆け付けてこられたそうです。

◆なかなか補正予算を組まぬ安倍晋三さん

さて、弱者に厳しい新自由主義の代名詞といえば小泉純一郎さんです。しかし、その小泉さんも、2005年1月、記録的な大雪で各地に被害が出ると、迅速に1.3兆円の補正予算案を提出しています。いっぽうで、安倍総理は通常国会が終わると、臨時国会も開きさえもしませんでした。一方で、安倍晋三さんは、自民党内の要人との会合は欠かさず、総裁選挙だけは万全の態勢をかためつつありました。

◆いらだち高まる被災地「総理を暗殺するやつがいたら面白いな」

こうした中、西日本大水害2018の被災地各地ではいらだちは高まるばかりでした。

筆者がボランティアにかけつけたある復旧作業の現場では、「(もうすぐやってくる8月6日に広島に必ず来る)総理を暗殺するやつがいたら面白いな」という声が上がり、一同、大爆笑になりました。なお、別に発言の主が左翼というわけではありません。むしろ「総理が来ても邪魔だけど、天皇陛下は別だ。ありがたい。」とおっしゃる方でした。この発言自体は、山上徹也被疑者による安倍晋三さん暗殺事件があった今となってはシャレにもなっていません。しかし、少なくとも、こういう発言がボランティアから出る状況を作ってしまった方を国葬というのは納得できません。

◆「ボランティアが足りない」という無責任報道のマスコミ 足りないのは公務員、復旧のプロ

マスコミもマスコミです。このころから、「ボランティアが不足している」、という報道が繰り返されました。日本人の多くがボランティア=ただ働きと誤解しておられるようですが、本来、英語のボランティアとは志願兵とかそういう意味です。自発的という意味です。従って、そもそも、「ボランティアが不足」というのは意味をなさない文章です。ボランティアをあてにしないといけないようなこの国の在り方が問題なのです。

そもそも、ボランティアに行く市民にも生活があります。ボランティアは「無尽蔵」ではないのです。1995年の阪神淡路大震災を契機に災害ボランティアはもてはやされた。それは確かに尊いことです。ただし、それに頼りすぎてはいけない。ところが、1990年代以降、日本はボランティアに頼りすぎる一方で、プロを弱くしすぎた。具体的には、公務員を減らしすぎたのではないでしょうか?

広島県内でいえば、86あった市町村を23に減らした。吸収合併された地域では、市役所・町村役場が出張所に格下げされて手薄になった。政治でも地域出身の議員がいなくなって、地域の声が届きにくくなったのは、筆者自身が参院選広島再選挙で県内全域を回らせていただき、実感しました。

これらについては安倍さんだけの問題ではありません。長年の自民党政治、あるいは自民党を右からあおった維新政治の問題です。しかし、結果としてマスコミの報道が、当時の権力者である安倍さんに対して、地方自治体の執行体制を改善させるように促さなかったのも事実ではないでしょうか?マスコミの皆様にも反省を促します。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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旧統一教会問題と安倍晋三暗殺 タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年9月号